I
1902年5月、私は社会民主主義の事業の役に立ちたいという強い願いを抱いて、パリからペテルブルクへ戻った。
(市立学校でも実科学校でも一緒だった)学校時代の友人ミハイル・シュテインマン(現在のD. I. エフレーモフ)と私は、檄文と非合法文献を印刷することに決めた。ミハイル・シュテインマンは当時、鉱山大学の1年生で、ギムナジウムに通う妹のエレーナ・シュテインマンとともに、ニコラエフスキー駅に近いグセフ横町の一室に住んでいた。
偶然が私たちに味方した。1902年秋、私はペテルブルク大学への入学のために奔走していたが、うまくいかなかった。ユダヤ人の入学定員制限が邪魔をしたのである。大学の事務局へ何度目かに出向いたとき、私は、一般の来訪者と事務の役人とを隔てる柵にぴったり接した小さな机の上に、ミメオグラフがあるのに気づき、これを盗み出そうと決めた。私は手に新聞を一部持っていた。私は新聞でミメオグラフを覆い、頃合いを見計らって、そっと事務局を出た。
私は両親のもとで暮らしていたので、自分の住まいにミメオグラフを置くことはできなかった。それに、その少し前に父が私のところで檄文を見つけ、肝をつぶしてそれを燃やしてしまったこともあった。私はミメオグラフをシュテインマンたちのところへ運んだ。まもなく彼らは、第9ロジェストヴェンスカヤ通りの、独立した小さな住まいに移った。私たちは紙とインクとローラーを買い、仕事にとりかかれるようになった。
だが何を刷ればよいのか。私にもシュテインマンにも、党とのまともなつながりはなく、檄文の原稿を手に入れることはできなかった。そこで、ミメオグラフはそれにはあまり向いていないのだが、パンフレット類を複製することにした。K. マルクスのパンフレット『ドイツにおける革命と反革命』を刷り(詳しくはエレーナ・シュテインマンの回想を参照)、次いでフランスのアナルコ・サンディカリスト、ユベール・ラガルデルのパンフレット『常備軍は必要か』の翻訳(パリのロシア語誌『ジーズニ』1900年版)を刷った。私たちの作品は、知り合いの学生、鉱山大学生や工科大学生のあいだに配った。
パリへ発つ前に、私は大学生のニキータ・エラズモヴィチ・コンツェヴィチと偶然知り合っていた。彼は学生の「急進派基金」に関わり、のちにペテルブルクの社会民主主義グループ「闘争」に加わり、さらにのちにはエスエルとなって、タシケントで何かエスエルの大きな裁判にかけられた。
コンツェヴィチを通じて、私は1902年秋に、かなり大きな石油業者の息子である大学生ヴィクトル・イヴァノヴィチ・ラゴージンと知り合った。V. ラゴージンはザゴロドヌイ大通り26番地のV. セメフスキー教授の住まいに下宿していたので、秘密の呼び名は「ザゴロドヌイ」であった。ラゴージンは、ロシア社会民主労働党ペテルブルク委員会のために檄文を印刷しないかと私たちにもちかけた。私たちは喜んで引き受けた。
だがミメオグラフでは檄文の刷り上がりがひどく悪かった。私たちはロタトール(輪転謄写機)を買うことにした。金はV. ラゴージンが出してくれた。私が手に入れた保険会社「ナジェージダ」の用箋に、タイプライターで偽の注文書を打ち、それを使って私はジョルジュ・ブロックの店でロタトールを買った(個人にロタトールが売られるのは、市長官の特別の許可がある場合だけだった)。蝋原紙の原版をつくるために、タイプライターも手に入れた。
こうして私たち三人(私とシュテインマン兄妹)はロタトールで働く。仕事はどんどん進んだ。刷り上がりは見事だった。とりわけ腕を上げたのはミハイル・シュテインマンだった。彼は35分で1000枚という記録さえ打ち立てた。ロタトール用インク特有の鼻をつく匂いのする、紫色の、あるいは黒色の檄文の刷り物が、彼の手もとでみるみる積み上がっていった。
刷り上がった檄文は、私とエレーナ・シュテインマンが、V. ラゴージンの指示する宛先へ(たいていは服の下に身につけて)運んだ。
あるとき私とエレーナ・シュテインマンが、荷を抱えて印刷所を出た。向こうから籠を持った店の小僧がやって来た。彼は私たちをじっと見て言った。「うわあ、太ってるなあ」。
私たちは檄文を2000〜4000部刷った。ズバトフ主義を暴いた「狼の牙と狐の尻尾」という題の檄文を覚えている。檄文の原稿はヴィクトル・ラゴージンから受け取った。のちに彼は私を党の活動家たち、どうやら当時のペテルブルク委員会のメンバーらしい人々に引き合わせてくれた。A. Ya. グレーヴィチ(有名な教育学者の妹)、技師シーシキン(変名)、イリーナ(のちにモスクワ委員会にいた)である。彼らと私は仕事の打ち合わせをした。
ブルジョア家庭の出であるラゴージンは、社会民主主義者のあいだでは同伴者にすぎなかった。のちに私たちの事件に連座させられたが、有力な親族の口ききで、公判まで保釈された。裁判所は彼を無罪とした。裁判のあとまもなく、彼は有名な歴史家V. I. セメフスキーの養女と結婚し、運動からすっかり離れた。
私たちはロタトールで1か月半ほど働いた。ラゴージンは、私たちの檄文がすべての工場に配られたと知らせてくれた。私たちは大いに満足だった。仕事は軌道に乗った。
ところが、シュテインマン兄妹が住み、私たちが檄文を刷っていた家の屋敷番が、家のまわりを密偵がうろつきはじめたと知らせてきた。住まいを引き払わねばならなかった。私たちはロタトールを分解し、指示された宛先、チェスマ救貧院の准医師マネファのところへ運んだ。
II
私たちは生産手段を失った。そこで新しい住まいへ移り、そこに本格的な印刷所を据えることにした。V. I. ラゴージンを通じてこの意向をペテルブルク委員会に伝えると、委員会はこの計画を承認し、ずっと前に摘発された非合法印刷所の生き残りを私たちに渡してくれた。それはばらばらの活字10〜15フントだった。多くの文字が足りなかった。活字ケースはなかった。活字は小さな麻布の袋に入っていた。
印刷の仕事を知るために、私たちはP. コロムニンの本『植字術』を買い、熱心に読んだ。
ここでコルピノでの一件に触れておかねばならない。
ミハイル・シュテインマンの学生旅券は、秘密活動の目的には向かないと私たちには思われた。ミハイル・シュテインマンは鉱山大学を退学し、もとの身分に戻って、コルピノの町人となった。町人旅券を受け取るために、彼はコルピノへ出かけた。戻ってくると彼は、コルピノ町人役場では旅券用紙がかなりぞんざいに保管されていて、たやすく盗み出せる、と私に知らせた。
旅券用紙を盗み出すことの重要性は私たちには明らかだった。ペテルブルク委員会の許可を得て、私たちはいくらかの押し込み道具を携えてコルピノへ出かけた。役場に入り、そこでうろうろして旅券用紙の保管場所を見定め、立ち去った。午後2時に昼休みになり、職員たちは出ていき、部屋は内鍵で閉められた。私たちは仕事にとりかかったが、押し込みとしては未熟で、扉はびくともしなかった。10〜15分ほど扉をこじ開けようとしたが、うまくいかなかった。誰かの足音が聞こえたので、急いでその場を離れ、ペトログラードへ引き返した。
私は、実地で植字を覚えるために、印刷所に見習いとして入ることにした。両親の住まいの近くに、(コロコリナヤ通りの)ソローミンの印刷所があった。私は彼のところへ見習いにしてくれと頼みに行った。彼は驚いた。見習いに入るのは12〜13歳なのに、こちらは20歳の若者である。私はソローミンに頼みこみ、私の両親は以前はたいへん裕福だったが今は落ちぶれてしまい、私は飢え死にしないために手に職をつけたいのだ、という話をこしらえた。ソローミンは承知した。
ソローミンのところで私は3週間ほど見習いをした。そのあいだに植字の初歩は覚えたが、印刷のほうは知ることができなかった。「アメリカンカ」印刷機は私から遠いところにあって、作業の過程をよく見ることができなかったのである。
3週間後、私はソローミンのところをやめた。自分たちの印刷所を据えなければならなかった。
当時、店から活字や印刷機械を買えるのは、県知事の発行する特別の証明書を持った印刷所の所有者だけだった。渡された印刷所の残りの活字から、私はどうにか小さな版を組んだ。「内務省 ノヴゴロド県知事 官房 第……号」。私たちは印章を偽造し、架空の名義で、ノヴゴロドで印刷所を営む権利の証明書をタイプライターで打った。
この証明書を持って、私たちは活字と印刷機を買いに出かけた。だが失敗した。アメリカンカ印刷機はストリャルヌイ横町のフランツ・マルクの倉庫で買ったが、F. マルクはそれをノヴゴロドへ送ってしまった。ミハイル・シュテインマンが、それをペテルブルクへ送り返すために受け取りにノヴゴロドへ出向くと、彼は怪しまれた。彼はアメリカンカを駅に置き去りにし、隣の駅まで歩いて、汽車に乗ってペテルブルクへ帰った。アメリカンカは憲兵の手に落ちた。
ミハイル・シュテインマンは、ユダヤ語新聞『フライント』(私は一時期その発送部で働いていた)の編集部名義の偽の注文書を持って、(ズヴェニゴロツカヤ通りの)レーマンの活字鋳造所へ活字を買いに行った。だが、注文を確かめようと誰かが電話に向かったのを見て、急いで姿を消した。
同じ偽の注文書を持って、M. シュテインマンは(ザゴロドヌイ大通りとモジャイスカヤ通りの角の)小さなシチェルバコフの活字鋳造所へ活字を手に入れに行った。シチェルバコフは活字を出してくれたが、いくつかの文字が足りず、「追い鋳込み」、つまり足りない文字を鋳造しなければならなかった。シュテインマンはあるだけを受け取ったが、シチェルバコフは追加分をどうしても自分で『フライント』へ届けたがり、そこで注文書が偽物だとわかってしまった。
ここで、私たちのモホヴァヤ通りへの引っ越しの失敗が起こった(詳しくはエレーナ・シュテインマンの回想を参照)。シュテインマンがシチェルバコフから受け取った活字はいずれにせよ使い物にならなかった(文字が足りなかった)。そこで私は、またもや例のノヴゴロドの偽証明書を使ってベルトゴリドの活字鋳造所で活字を買い、ある倉庫で重さ10プードの小さな印刷機を買って、それらをすべて自分で、ノヴゴロドへの発送には回させず、駅へ送るふりをして、実際には私たちの新しい秘密の住まい、アプラクシン横町7番地49号室へ送った。印刷所の準備はできた。
III
1903年2月半ば、印刷所はすっかり整った。私は両親の住まいからアプラクシン横町のシュテインマン兄妹のところへ移り、そこに住んだ。住民登録はしなかったけれども。仕事はたくさんあった。私たちは夢中になって、精力的に働いた。植字し、校正し、印刷した。エレーナ・シュテインマンはギムナジウムから帰ると手伝ってくれた。「ボストンカ」印刷機は二人で動かすほうがずっと楽なのである。彼女の下の妹リヤも手伝った。
ペテルブルク委員会との関係はすべてV. I. ラゴージンを通じて行われた。彼が檄文の原稿と、紙やインクなどを買う金を持ってきた。彼はまた新しい非合法文献を届け、刷り上がった檄文を運び出した。
私たちが住みついた家には、隣のアプラクシン市場向けに働く出来高払いの職人、靴屋や帽子屋その他の手工業者が住んでいた。住人がしじゅう出入りしていたので、屋敷番に気づかれずに紙を運び込み、できあがった檄文を運び出すことができた。
アプラクシンの印刷所で私たちは全部で20〜25種の檄文を、合わせて6万〜7万部刷った。
1903年のメーデーのビラ(その印刷中に私たちは摘発された)には、あらゆる自由(出版、結社、集会、会合、組織の自由)と8時間労働日の要求が掲げられていた。憲法制定議会の召集の要求がすでにあったかどうかは覚えていない。
こうして私たちは何の妨げもなく6〜7週間、1903年4月10日に摘発されるまで働いた。
『フライント』編集部の用箋に書いた偽の注文書で、シチェルバコフの活字鋳造所から活字を手に入れようとして失敗したことは、すでに述べた。肝をつぶしたシチェルバコフと、編集・発行人A. I. ラッポポルトは、印刷所・石版所監督官(そういう役職もあったのだ)のもとへ駆けつけた。監督官は保安部に通報し、保安部はシチェルバコフとラッポポルトを尋問に呼びつけた。
保安部は、『フライント』の用箋を盗み出せたのは新聞社の事務所に勤めていた誰かにちがいないと考えた。ラッポポルトに名簿の提出が求められ、それにもとづいて家宅捜索が始まった(約50件)。
父と兄弟たちは、保安部が『フライント』に勤めたことのある者すべてのところを捜索していることを知っていた。兄弟たちは捜索に備えた。
弟のエヴェリは当時、実科学校の最終学年で、ペテルブルクの中等学校の非合法生徒組織の活発なメンバーであり、手書き雑誌『光へ』の編集者だった。
この組織について一言しておこう。それは半ば自由主義的、半ば社会主義的な性格のものだった。50〜60人ほどの生徒が加わっており、そのなかには、のちに航空機工場「ガマユーン」の所有者となるG. A. シチェチーニン、ボリス・スヴォーリン(のちの『ヴェチェールネエ・ヴレーミャ』と『ノーヴォエ・ヴレーミャ』の編集者)、B. G. ウスペンスキー(有名な作家グレープ・イヴァノヴィチ・ウスペンスキーの息子で、のちにエスエルとなりB. V. サヴィンコフのテロ組織で活動した)、絵画アカデミー会員の息子ボブロフ、Ya. Ya. プロスクリャコフ、B. P. カドムツェフ、ファニー・シヴォシンスカヤ、カリメンソンらがいた。
捜索を予期したエヴェリは、『光へ』を私たちの学校友だちのゼリマン(アレクサンドル)・ベルンシテインに預けた。彼は当時、工科大学の1年生だった。彼が関心をもっていたのは舞踏会と娘たちの尻を追うことだけで、政治とは縁遠かった。
保安部は父のところを捜索したが、何も見つけなかった。ベルンシテインのところも捜索され、雑誌『光へ』が押収された。ベルンシテインは逮捕された。
彼を取り調べたのは当時の保安部長スタトコフスキーで、彼はこのめかし屋の学生をたちまち「誠心誠意の自白」に追いこんだ。ベルンシテインは、『光へ』はエヴェリから受け取ったと述べた。そこで保安部はエヴェリを逮捕したが、彼からは何も聞き出せなかった。
スタトコフスキーにせっつかれて、ベルンシテインは、革命運動に関わっているのではないかと彼が疑っていた学生たちの名を挙げた。彼が密告した学生のなかに、ミハイル・シュテインマンがいた。
これが印刷所摘発の原因となった。1903年4月10日の午後2時、呼び鈴が鳴った。ミハイル・シュテインマンが開けに行った。私とエレーナ・シュテインマンは、そのとき印刷所のあった奥の部屋にいた。
ミハイル・シュテインマンは捜索に来た者たちを、食堂として使っていた最初の大きな部屋へ通した。
私はそのあいだに、食堂から印刷所への扉に掛け金をかけ、檄文の原稿をかき集めて、その場の床の上で燃やした。ミハイル・シュテインマンは捜索者たちの注意を奥の部屋からそらそうと手を尽くしたが、うまくいかなかった。彼らは丁重に、だが執拗に、シュテインマンにこの部屋を開けるよう求めた。どうしようもなかった。私は閂をはずした。
「なんだ、ここはまるごと作業場じゃないか!」と密偵は印刷所の敷居をまたぐやいなや叫び、それから屋敷番頭のほうを向いた。「さあイワン、お前もこれでおしまいだ!」
密偵の機械が回りはじめた。印刷所には、ペテルブルク憲兵局長イワノフ大佐、憲兵騎兵大尉セミガノフスキー、控訴院検事補M. I. トルセーヴィチ(のちの警察部長)、それに山高帽やシルクハットの密偵頭が大勢やって来た。
密偵たちの手に豊かな獲物が落ちた。
押収した印刷所の資材の詳細な目録づくり、マグネシウムを焚いての写真撮影が始まった。捜索は長引いた。ところが夜8時には、刷り上がった檄文を引き取りにV. I. ラゴージン(「ザゴロドヌイ」)が来ることになっていた。
ラゴージンは実際に家の近くまで来たが、門のところに張りこんでいる密偵と、中庭の大勢の人だかりに気づいて、事情を悟り、引き返して逮捕を免れた。彼が逮捕されたのは4か月後だった。
真夜中近くになって、私たちは監獄へ送られはじめた。二人の密偵に護送されて、私は出口へ降りていった。階段沿いにも中庭にも、家の住人たちが立っていた。貧困に疲れ果てたこれらの徒弟や出来高払いの労働者たちはみな、ここで起きているのは何か自分たちに身近なことだと感じていた。だが一言も発しない! 注意深い、張りつめたまなざし。そうしたまなざしの二列のあいだを通って、私は密偵たちの用意した箱馬車へ歩いていった。
住人たちのこの気分は、私に付き添った密偵にも伝わっていた。馬車のなかで彼は、私たちが中庭で抵抗する用意をしていなかったか、労働者たちが私たちを奪い返すつもりではなかったか、と私に尋ねた。
馬車は走り出した。ペテルブルクの早春の、すばらしい4月の夕べだった。道すがら、密偵はいささか誇らしげに言った。「わしらはイワン雷帝の時代からあるんだ」。14年後に密偵の王国が終わりを迎えようとは、彼は思いもしなかったろう。
夜1時ごろ、馬車はシュパレルナヤ通りの未決監に着いた。事務所での受け入れ、身体検査、私は鉄の回廊を通って、このコンクリートとアスファルトの監獄の5階へ連れていかれる。独房。私は監獄の寝台に横になり、ぐっすり眠った(逮捕前の数日は、急ぎの仕事が多くて、ほとんど眠れなかったのである)。
4月11日の朝、私は二人の憲兵に付き添われ、カーテンを下ろした箱馬車でトヴェルスカヤ通りの憲兵局(2月革命でこの建物は焼かれた)へ連れていかれた。取り調べが始まった。私は何も知らないと答えた。
取り調べのあと、私は夜遅くまで憲兵局に留め置かれた。夜中の2時ごろ(またしても二人の憲兵の護送のもと)、私は連れ出され、箱馬車に乗せられた。「どうぞ!」
ネヴァ川の河岸通りを通り、トロイツキー橋を渡り、左へ折れて要塞へ。旧イオアン門(その上には今「赤軍万歳!」という文字が掲げられている)をくぐり、聖堂の脇を過ぎて造幣局へ、右へ曲がり、御者の叫び声「門を開けろ!」、そして私はトルベツコイ稜堡にいた。私を受け取りに出てきたのは監獄長ヴェレフキン大佐だった。衛兵所を通って2階の57号房へ連れていかれた。
念入りな身体検査が始まった。裸にされ、足を開いてかがむよう命じられた。口を開けさせて、そこに何かを探した。それから官給の下着とスリッパと青いガウンを着せられた。普段着は取り上げられた。憲兵と守備兵は、火のついた蝋燭を残して立ち去った。
アーチ型の天井のかなり大きな独房。高いところに格子のはまった窓。鉄の机は壁にねじで取りつけられ、同じく鉄の寝台は床にびくともしないよう固定されている。隅には蛇口と陶器の洗面台、それに水洗便所。暖房は廊下から。この上なく厚い要塞の壁、鉄で補強されペンキを塗られた樫の扉、それにいかつい閂とのぞき穴。これが、私が1年以上を過ごすことになった環境である。
その同じ夜、ペトロパヴロフスク要塞の64号房にミハイル・シュテインマンが連行されてきた。エレーナ・シュテインマン、その妹と母も逮捕されたが、まもなく釈放された(リヤは4日目に、エレーナと母は2か月後に)。
要塞の監獄規則は過酷だった。ツァーリ体制は、何らかの理由でより危険だと思われた政治的な敵を稜堡に入れた。私たちは拷問されも殴られもせず、食事も悪くはなかったが、きわめて厳しい隔離の規則のために、ほとんどすべての囚人にとって、まもなく臭素剤がお定まりの献立となった。
独房の外では、囚人にはどこへ行くにも二つの影がつきまとった。憲兵下士官と守備隊の兵士である。彼らは囚人を、一人きりの散歩へ、監獄の風呂へ、面会へ、取り調べへと護送した。一方だけで独房に入る権利はなかった。二人とも、囚人と口をきくことを厳しく禁じられていた。まる1年のあいだに私が彼らから聞いたのはただ一語だけだった。
「どうぞ!」
沈黙の実物教育を、囚人はさっそく到着のその夜に受ける。要塞の規則では蝋燭は一晩じゅう独房で燃やしておかねばならないのだが、囚人はそのことを知らない。火のついた蝋燭を残して看守は立ち去る。囚人は火を消す。閂ががちゃりと鳴り、憲兵と守備兵が入ってきて、黙ったまま、一言も発せずに、また火をつける。囚人はまた消す。また同じことが、3度、4度と、囚人がようやく自分に何が求められているのかを悟るまで繰り返される。
要塞当局の強迫観念は、囚人を自殺から守ることだった。当局は、要塞の環境が自殺へとひどく誘うものであること、そして囚人の一人ひとりが重要な国事犯であって、警察部、内務省、そして君主その人に対して責任を負わねばならないことをよく知っていた。すでに1900年に、女子学生ヴェトロワが要塞に繋がれていたとき、灯油をかぶって焼死していた。
そこで――
切るもの、刺すものは、道具であれ器具であれ(針や鵝の羽のつまようじにいたるまで)、いっさい持つことを許されなかった。タオルは夜には取り上げられた(首でも吊られてはかなわない)。風呂では熱い湯に近づかせなかった(「やつ」がわざと火傷でもしたら、こっちが責任を取らされる)。ガラスの食器は許されず、フォークもナイフも同様で、スプーンは木製か角製のものだけだった。
身内との文通は週1回。監獄の図書室の本は週3回。外からの本は、辞書と便覧のほかはいっさい不可。
週2回、各囚人の名義で事務所に預けられている個人の金から、食べ物を取り寄せることができた。ガレーリナヤ通りの社会民主主義革命グループ「闘争」の印刷所で逮捕された、ブラゴヴェシチェンスク出身の学生アレクサンドル・ムンガロフは、あるとき注文書に「囚人への配慮を10コペイカ分」と書いた。すると囚人収容所長ヴェレフキン大佐は、「冗談の罰で一昼夜!」と決裁を書きこんだ。
そしてそのとおりに執行された。
3か月後、私は両親との面会を許されたが、二重の格子越しで、そのあいだにヴェレフキン大佐が立っていた。
私たちの事件の予審はゆっくりと進んだ。私は2、3度取り調べに呼ばれたが、すべてを否認し、その後は放っておかれた。
隣人たちが私に壁を叩いて合図してきたが、私は監獄の打音信号を知らず、応えられなかった。ミハイル・シュテインマンのほうが気がきいていて、まもなく壁越しのやりとりができるようになった。もっとも、そのために彼は懲罰房に入れられた。
外の世界の知らせは何ひとつ私たちのところへ届かなかった。もっとも、日露戦争が始まったときは、そのことを私たちに知らせることが許された。
のちに知ったことだが、当時要塞には、有名なエスエルのゲルシュニ、セラフィマ・クリチョグル(エスエル)、ザスラフスカヤ(社会民主党)、カルペンコ(社会民主党)らが繋がれていた。
「私たちの印刷所の事件」はすでに分厚い記録で2巻になっていた。私とミハイル・シュテインマンが印刷所の仕事に引き入れた仕立屋のシューラ・ミハイロワが、「率直な」供述をしていたのである。彼女の裏切りのために、ヴィクトル・ラゴージン、医学生リュドミラ・グロモゾワ、レオニード・ポティリツィンが逮捕された。事件に連座する者の数は増えていった(付録参照)。
当初、当時の司法大臣ムラヴィヨフは、私たちを行政処分で片づけ、めいめいを5年間シベリアへ流刑にするよう提案していた。だが事件は皇帝への上奏に回され、皇帝は私たちを控訴院の裁判にかけるよう裁可を下した。
予審はどれほど引き延ばされても、1年後には終わった。そこで私とミハイル・シュテインマンは、要塞から未決監へ移された(1904年4月)。
ここの監獄規則はずっとゆるかった。壁越しに合図を交わすことも、窓越しに話し合うことさえできた。監獄にはすばらしい図書室があり、社会科学の部門はとてもよくそろっていた。外の世界からの知らせも、この監獄には比較的たやすく届いた。
1904年7月15日。すばらしい夏の朝。正午ごろ、窓越しに大きな叫び声が聞こえる。
「同志諸君、プレーヴェが殺された!」
プレーヴェはその日の午前10時に殺されたのだが、正午にはもうその知らせが未決監に届いていた。
日露戦争が始まったことは知っていたが、それがどう展開しているかについては、まったく断片的な知識しかなかった。
公判が近づいていた。起訴状の写しが配られた。弁護人を選ぶことができた。私たちのグループ(私、シュテインマン、ポティリツィン、グロモゾワ)の弁護は、N. D. ソコロフが引き受けた。私たち一人ひとりと別々に面会したので、彼は自然と、公判での戦術を決めるための私たちの仲立ちになった。また彼から私たちは、1903年に党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂したことを知った。
9月22〜24日、私たちは身分代表が加わるペテルブルク控訴院で裁かれた(秘密裁判でもあった)。判決はあらかじめ予想できたにもかかわらず、審理は3日続いた。
法廷は非公開だった。傍聴できたのは被告の親族だけだった。論告したのは検事補P. K. カミシャンスキーで、のちのヴャトカの悪名高い黒百人組系の県知事である。弁護したのはN. D. ソコロフ、故L. A. バズノフ、A. A. ヴィンベルクらである。ラゴージンを弁護したのは、のちのカデットの指導者F. I. ロジチェフだった。
最終陳述でミハイル・シュテインマンは、身分代表の法廷は私たちのなかに自分たちの階級敵を裁いているのであり、ゆえに私たちはその公平さに期待しない、と述べた。リュドミラ・グロモゾワは、自分がどのようにして、教養ある孤立した一個人である民衆学校の教師から革命家になったかを語った(この演説は1905年にジュネーヴで「ヴペリョード」社から小冊子『法廷における演説』として別に刊行された)。私は自分の陳述で、ロシア社会民主労働党の当面の課題を描こうとした。私はこう結んだ。
「私たちが闘っているのは、被告席ではなく、労働者クラブ、労働組合、憲法制定議会の席に座るためである。専制打倒!」
だがここで裁判長がたまりかねた。「廷吏、被告を連れ出しなさい!」
騒然とした光景が繰り広げられた。廷吏と憲兵が私を被告席から引きずり出そうとした。私は踏ん張って「専制打倒!」と叫びつづけた。ほかの被告たちも叫んだ。
勝ち目のないもみ合いが1、2分、そして私は廊下へ連れ出された。
控訴院は、有力な親族のいるラゴージンを無罪とし、私、シュテインマン、グロモゾワ、ポティリツィンには、一切の身分上の権利を剥奪したうえでの「終身」居住流刑を言い渡した。
過酷な判決も私たちをうろたえさせはしなかった。監獄の壁の外では革命の事件が速いテンポで進んでおり、それは未決監にいてさえ感じられた。私たちが望んだのはただひとつ、一刻も早く流刑地へ行って、そこからただちに逃げ出すことだった。弁護士たちは上告を勧めたが、私たちは全員一致で断った。私たちの考えでは、上告は、私たちの行き先と定められたトボリスク県への送致を遅らせるだけだった。
だが上告しなくても、私たちがトボリスクの流刑地に着いたのは1905年5月になってからで、それまでは監獄と押送が待っていた。
1904年11月、私たちは押送監獄に移され、全員が雑居房に入れられた。
そのころ押送監獄には政治犯は少なく、「6号」という一部屋を占めているだけだった。ここにいたのは、ミハイル・シュテインマン、私、L. M. ポティリツィン、(すでに触れた)アレクサンドル・ムンガロフ、そして同志ブレスラフである。後の二人とはここで初めて知り合った。女子どもの側には、リュドミラ・グロモゾワと同志ザスラフスカヤがいた。
同志ブレスラフはヴィテブスクの靴職人の徒弟で、17歳から革命闘争を始めていた。ブントに加わり、ストライキを組織したかどで逮捕された。ロシア語の読み方は監獄で覚えた。イルクーツク県のレナ川沿いのカチュグ村へ警察監視付きで流されたが、そこから逃亡して非合法生活に入り、1903年にはペテルブルクで地区オルグとして活動し、街頭で逮捕された。そのころの同志ブレスラフはまだマルクス主義の素養を持っていなかったが、彼には革命的な気質、つまり条件さえ整えば革命の船長になりうる、革命の不屈の兵士の素質が見てとれた。私たちのなかで外にいるあいだに労働者大衆と接したことがあるのは彼だけで、ほかの者は非合法の印刷工、テフニカ係、二乗の地下活動家であって、ロシアの革命的労働者のことは本でしか知らなかった。
のちに私は、同志ブレスラフに1905年10〜11月にモスクワで、また1918年にもモスクワで会った。そのときブレスラフは県の社会保障人民委員だった。
要塞と未決監のあとでは、押送監獄の規則は軽いものに思えた。雑居房、個人面会、共同の散歩、差し入れ、とくに本の差し入れ。だが、この広々とした監獄の檻のなかでも、私たちはじっとしていられなかった。私たちの房(20〜23歳の若者たち)は全員が外へ出たがっていた。脱獄が監獄生活の日程にのぼった。
脱獄はずっと前から私たちの関心事だった。精力的なミハイル・シュテインマンは要塞からさえ脱獄計画を練り、未決監からは2度脱獄を試みて、いずれも失敗していた。
押送監獄では、長い議論の末に、散歩のときに、生身の人間ピラミッドで監獄の塀を乗り越えて逃げることに決めた。
私たちの房で体操の練習が始まり、十分な身のこなしを身につけようと努めた。刑事犯たちはこの曲芸じみた練習を見て笑うばかりで、密告はしなかった。彼らとの関係はすばらしかったのである。
散歩では、私たちは監獄の塀のそばを歩いた。特別の高台から、拳銃を携えた看守が私たちを監視していた。散歩中に用を足しに行くとき、私たちは塀と、そのすぐそばにある監獄の製粉小屋とのあいだの路地に入り、そのとき看守の視界から消えた。塀に沿って、内側を、小銃を持ったもう一人の看守が歩いていた。
くじを引いた。ムンガロフは第1番、ピラミッドの土台となり、私は第2番、ポティリツィンは第3番、ミハイル・シュテインマンは第4番となった。したがって、うまくいけば逃げるのはポティリツィンとシュテインマンのはずだった。
散歩のとき、ムンガロフが用を足すふりをして行き、監獄の壁際に立った。1分後、私がそのあとを追い、彼の肩に乗った。待つが、ポティリツィンが来ない。取り決めておいた危険の合図が鳴った。私はムンガロフの肩から飛び降り、二人で散歩に戻った。ポティリツィンが私たちの上によじ登ろうとしたその瞬間に、小銃を持った看守が現れたのだった。脱獄の試みは失敗に終わった。
さらに、ゲオルギー・ガポンとの監獄での出会いにも触れておこう。彼は押送監獄付きの司祭だった。彼は自分の「工場労働者の合法的集会」の組織で非常に忙しかったが、監獄でも刑事犯の囚人たちと「懇談」を催す暇があった。そうした懇談のひとつには政治犯も出席した。最前列には監獄の幹部と着飾ったその妻たち、次に足枷をはめられた徒刑囚、「ロートニク」(囚人中隊へ送られる者)、そして後ろの席には監獄の平民、「シパーナ」、すなわち首都居住禁止者、「出戻り組」、無旅券者。両脇には上級・下級の看守たちが並んでいた。
祈りが唱えられた。それからガポンは福音書からライ病患者のたとえを読み、ライ病患者と刑事犯とを対比して、「古代にライ病患者を追い払ったように、社会が犯罪者を自らのなかから放り出すのは正しいか?」という問いを議論にかけた。彼の話の趣旨はきわめて曖昧だった。それからガポンは囚人たちを議論に引き込もうとしたが、囚人たちはガポンよりずっと鮮明かつ素直に、環境と社会的条件を非難した。
何日かして、ガポンは「知り合いになりに」私たちの房に立ち寄った。同じような訪問を女子の側でも、グロモゾワとザスラフスカヤのところでしていた。私たちは彼を信用しなかった。私たちの誰も、坊主に好意など抱いていなかった。ガポンは私たちを話に引き込もうとしたが、うまくいかなかった。
ガポンは尋ねた。
「あなた方は社会民主主義者ですね?」
同志ブレスラフが答えた。
「わしは労働者だ!」
別れ際にガポンはまた寄ると約束したが、1905年1月9日が近づいていて、それどころではなかった。
この歴史的な日曜日、朝から刑事犯たちが散歩のときに、「ペテルじゅうででっかい騒ぎが起きている」と私たちに知らせた。午後2時ごろには、面会に来た人たちが、ニコライ二世が自分の忠実な臣民に加えた虐殺の様子を詳しく伝えはじめた。誰もがガポンの名を口にしていた。監獄じゅうがその出来事の話ばかりだった。看守たちでさえひとかたまりになって、熱心に議論していた。
こうして私たちは1905年を迎えた。この闘いの年に私が体験したことは、イストパルトが準備中の本『1905年』に収められる。
セルゲイ(ヤコフ)・ロゼノエル
第9章 訳注
- 著者名は「Розеноер」(ロゼノエル)。本文では「ヤコフ」、署名では「セルゲイ(ヤコフ)」、目次では「S.」とされている。第10章末尾によれば本名はヤコフで、セルゲイは後年用いた名と思われる。なお、この訳稿の目次は当初「ロズノエル」と誤記していたので、「ロゼノエル」に統一した。本文中の「1003年」「ペトログラード」(1903年当時の地名としてはペテルブルクが正しい)などの表記の揺れも、前者は1903年とし、後者は原文どおりとした。
- 「エレーナ・シュテインマンの回想」は本分冊第10章を指す。
- ズバトフ主義(ズバトフシチナ)は、モスクワ保安部長S. V. ズバトフが始めた、警察の管理下に合法的労働者団体をつくる政策。
- 「闘争」(Борьба)グループは1900〜1903年ごろのペテルブルクの社会民主主義グループ。
- プレーヴェ内相の暗殺は1904年7月15日(旧暦)、エスエル戦闘団のサゾーノフによる。本文の日付と一致する。
- 訳語「身分代表が加わる控訴院」は、貴族・都市・農民の身分代表が参加して政治犯を裁く形式の法廷。
- ガポンの「工場労働者の合法的集会」は、「ペテルブルク市ロシア人工場労働者集会」を指す。1905年1月9日の「血の日曜日」の請願行進を率いたのはこの団体である。
- 「付録参照」は、第10章に付された付録1「判決」を指すと思われる。