第8章 D. ゲルシャノヴィチ「あるテフニカの歴史」

(ある労働者革命家の回想)

私が「コーシャ」に呼ばれてキエフに着いたのは1900年1月の初めで、ボリシャヤ・ヴァシリコフスカヤ通りの女子高等課程生リポヴァの住まいにあるヤフカへ行った。「コーシャ」とはその1か月前、ヴィリノで、皮なめし工だったか刷毛職人だったか、ある労働者の仲立ちで知り合っていた。ひどく背が高く体格がよく、柔らかく感じのよい声をしていて、秘密の話を小声で、はっきりと、筋道立てて進めることができた。総じて彼は、私にはきわめて重要で値打ちのあるインテリだという印象を与えた。それに当時の私は、インテリというものにいくらか弱かったのである。

ヴィリノでの会合で、私たちは印刷所を組織して新聞『労働者の旗』第3号を出すことを決めた。

私たちは二人とも「労働者の旗」派で、二人とも、自分の新聞の名で呼ばれ、ペテルブルクとキエフの憲兵に根こそぎ叩きつぶされた、かなり有力な革命組織の破片であり残党であった。二人とも同じ目的、すなわち組織の再建をめざしていた。私たちの見込みでは、新聞がこの先も印刷されて世に出れば、この目的を果たすうえで事が大きく前進するはずだった。

「コーシャ」の秘密の手紙には印刷所のことは何も書かれていなかったが、キエフに呼ばれたこと自体がこの旅の目的を物語っていた。

女子学生の住まいでの最初の会合で、「コーシャ」は私にあっさりと、活字も印刷機も金も(文書の)材料も手に入れた、印刷所の設備にかかってよいし、それから『労働者の旗』次号の植字にかかってよい、と言った。

住まい探しに、それから何も知らない人間の目には住まいがまったく怪しくなく、誰の疑いも招かないように見えるよう、必要な家具やその他の細かな所帯道具を買いそろえるのに、少なからぬ日数がかかった。ついに私は住まいを借りた。ボリシャヤ・ヴァシリコフスカヤ通りの外れ、広くてろくに建て込んでいない中庭にある、小さな荒れた離れである。家具もいくらか買った。残るは最後の準備だけだった。まず用心のため、私の本物の旅券は「コーシャ」の手元に残し、代わりに私はボリス・モイセエンコ名義の旅券を彼から受け取った(注)。私はこの住まいに移ることになった。買った家具と自分の荷物を運び込み、まず書類を住民登録に出し、登録が無事にすんでから、何日かたって活字と印刷機を運び込むことに決めた。そのとおりに事は運んだ。モイセエンコ名義の私の貴族の旅券は警察に何の疑いも起こさせず、そのまま登録された。登録するのは私ひとりで、「コーシャ」はもちろん最も厳格な秘密を守りつつ、通ってくるだけにすることに決めた。

(注)のちに、かの名高いボリス・サヴィンコフの、エスエル戦闘団でも白衛派亡命でも、名の知れた同志となった人物。

屋敷番や家主の差配人や隣近所には、この住まいは姉のために借りたもので、姉は1か月後に地方から出てくる、姉には小さな家族がいる、と言うことになっていた。そして総じて、あらゆる世間話は避けるよう努めねばならなかった。架空の姉の家族というこの作り話は「万一のため」、言いかえれば起こりうる詮索に答え、ありきたりの小市民的な好奇心を満たすために採用したものだった。

何日かして、私は活字と印刷機の運び込みにかかった。あとは紙とインクを手に入れねばならなかった。紙はいくつかの店で普通に買ったが、どの店でも1連以上は買わなかった。店は町のあちこち、住まいから遠く離れたところを探し出した。インクのほうは事情が悪かった。キエフの革命組織とは私たちは何のつながりもなく、そうしたつながりをひどく恐れてもいたし、私にはどこの印刷所ともつながりがなかった。だが私たちを救ってくれたのは、キエフの労働者で古くからの革命家であるS.で、彼とは印刷機の据えつけと機械部品の入手のために連絡をとらねばならなかったのである。のちに労働者S.は、印刷所がキエフにあったあいだに2、3度私たちのところへ訪ねてきた。

1月半ばまでにはすべての準備がすみ、私たちは仕事にとりかかった。

私には、ばらばらの状態にある5プードもの活字を選り分けて整理するという、膨大で根気のいる仕事が待っていた。朝早くから翌日の夜明けまで、私は背をかがめて仕事に立ちつづけ、ほんのわずかな物音にも耳をそばだてながら、一字また一字と活字を選り分けて、私の手元にあった二つの活字ケースに分けて入れていった。ついにこの仕事も無事に片づいた。つまり活字をすべてケースに分け、その他のものは、必要なものがみな手近にあって、要るときにはすぐ使えるように並べた。

この骨の折れる仕事を終えると、私は本題、つまり新聞の号の植字にとりかかった。原稿は「コーシャ」がとうに私に渡してあった。私は原稿全体の字数を数えなければならなかった。ページ数だけでなく、各ページの始まりと終わりを決めるためである。というのは、いちばん簡単なように、新聞は冊子に綴じることにしていたし、印刷機には普通の筆記用紙の半裁しか入らなかったので、印刷にかけるにも刷るにも、初めと終わりから二ページずつ、つまり第1ページと最終ページ、第2ページと最後から2ページ目、という具合に用意しなければならなかったからだ。そうしなければならないもう一つの理由は、活字が4ページ分しかなかったことである。号は16ページの予定で、各ページを私が割りつけておき、万一の誤りや数え違いで、どこかのページで1、2行増やしたり減らしたりする必要が出たときのために、いつでも編集者の「コーシャ」が手近にいた。

最初の何日かは仕事がわき立つように進んだ。私は印刷機にかける最初の組版を用意し、木の枠に締めつけて、紙とインクの調整にとりかかった。

最初の刷りはまるでひどい出来だった。真ん中はどうにか読めたが、端のほうはまったく何も見えなかった。この欠陥は、活字の下に滑らかなガラスを敷いて取り除いた。ところが今度は新しい障害が現れた。インクが紙一面ににじんで、読むのもかなり難しく、刷り上がった部数が汚れてしまうのだ。私たちはインクを加減しなければならないと悟り、より頻繁に塗ってよく練り延ばすことでそれをやりとげたので、インクは亜鉛板の上に一様にのるようになった。それからもう一つの方法を思いついた。紙を湿らせることである。紙は1連ごとまとめて湿らせ、手製の圧搾機にかけた。こうしたさんざんな試行錯誤のあげく、私たちはついに、本物の印刷所の校正機でよく刷った校正刷りにほぼ匹敵する、すばらしい刷りを出すことに成功した。紙をまっすぐきちんと置くこと、ローラーの押しで濡れた紙がずれないよう手を器用に慣らすことにも、少なからぬ苦労と手間をかけた。ひとことで言えば、私たちは昼も夜も、食わず眠らずで働いた。だが私たちは自分たちの任務にすっかり夢中で、疲れを感じなかった。

もちろん、私ひとりではとても手が回らなかった。「コーシャ」は私と一緒に残らねばならなくなり、まる一日じゅう、まったく外へ出ずに働いた。私たちは至急1000部の新聞を刷り上げねばならなかったのに、1月15日になってようやく仕事が軌道に乗ったばかりだった。急がなければならなかった。そこで私たちは分業を組織した。「コーシャ」は植字の技術をまるで知らなかったので、私は彼に印刷のやり方を教えはじめた。彼にはなかなか容易でなかったが、それでも結局はこの仕事をこなせるようになり、おかげで私は植字を休みなく続けられるようになった。私が次の2ページを組み終えるのが、彼が刷り終えるより早ければ、私は彼の手伝いに回った。紙を湿らせるのは二人一緒にやった。

事件もなかったわけではない。ローラーで絶えず押していたために、「コーシャ」のところの版盤(ガラスと組版をのせた木製のもの)が片側に傾いてしまった。私たちのある静かな仕事の晩、私は隣の部屋からの轟音に耳をつんざかれ、震え上がった。組版をのせた版盤が丸ごと床に落ち、激しく落ちたはずみで活字が枠から飛び出したのである。私たちはこの物音にひどく驚いた。夜更けのことではあったが、それが誰かの注意を引きはしないかと恐れたのだ。だが万事無事にすみ、私はただ、残りの夜を床に寝そべるという不自然な姿勢で過ごし、無事だった組版の残りを拾い集め、しかるべく据え直し、散らばった分を組み直さねばならなかっただけだった。

ほどなく、私たちのところに新しい顔が現れた。ある夕暮れ、私がひとりで仕事をしていて、「コーシャ」は用事で町に出ていたとき、合図のノックで扉が叩かれた。もちろんノックの音で彼が帰ってきたのはわかったが、彼がひとりではなかったと知ったときの私の驚きといったらなかった。一緒にいたのは若い娘で、彼はジェーニャと呼んでいた。小柄で金髪、ほっそりとして華奢だが、驚くほど聡明でまじめな顔立ちの娘で、私にはとてもよい印象を与えた。私はそもそも新しい人間が現れたことを喜んだ。小さな2部屋に塗りこめられたも同然の身の上で、屋敷番と食料品屋のほかには生きた世界とほとんど行き来がなかったからだ。この食料品屋では、茶や砂糖やパンやソーセージを買う金もないどうしようもない文なしのときに、ちょっとしたツケさえきいた。だが食料品屋の話はあとにして、さしあたりジェーニャの話をしよう。私は若かった。まだ26歳にすぎず、若くてかわいらしい娘、それも同志で「コーシャ」と親しい人間が現れたことに、ひどく心がざわつかないはずはなかった。ただ、その喜びと心地よい胸の高鳴りは、「コーシャ」の、まったく同志らしからぬ迎え方に曇らされた。彼は私たちを引き合わせる必要さえ認めなかったのである。

それはともかく、第三者、それも女性が現れたことは、私の心持ちを引き立て、その後の粘り強くいっそう励んだ仕事のための体力を与えてくれた。のちにジェーニャは、私たちの守護天使となり、やさしく気づかいの細やかな姉となった。

私たちはしばしば一文なしで過ごし、腹をすかせて一日と夜の大半を仕事について過ごし、ひどい空腹を感じながら横になって眠りにつく日もあった。

食料品屋との私の関係、いや、より正確に言えば彼の私に対する関係はこうだった。彼は私を中流の旦那だと思っていた。姉とその家族の話もここに顔を出し、小さからぬ役割を果たした。毎日彼の店で買っていたので、やがて私はツケがきくようになったが、度を越してはいけなかった。だから、このツケが、食料品屋の信用の限度だと私に思われる額に達すると、私はその限度を越えるよりは、腹をすかせても自分の権威を揺るがせないほうを選んだ。そして私たちはしばしば一文なしだったから、当然ながら食いつめることになった。

ジェーニャが現れてから、私たちの暮らし向きはずいぶんよくなった。彼女が来るたびに、ピロシキや冷えたカツレツやチョコレート、あるいは単に、銀の1ルーブリ硬貨や緑色の3ルーブリ札といった小さな額の金の差し入れがあった。食料品屋のツケをほとんど使わずにすむようになり、おかげで彼の目に映る私の権威はいっそう高まった。年配で肩幅が広く、ずんぐりした彼は、深々とお辞儀をして私を迎え、私の買い物をきわめて恭しく、かつ遠慮がちな問いで締めくくるのだった。「おつけいたしましょうか?」。ところが彼が大いに驚いたことに、私は財布から金を取り出してきれいに払ってしまう。すると別の問いが続いた。「お姉さまはもうじきお見えで?」「ええ」と私は答えた。「それまでのあいだと、金を送ってくれましてね」。すると彼は、迎えたときと同じように気をきかせた深いお辞儀で私を送り出すのだった。

1月の終わりだった。新聞の仕事は終わりに近づいていた。私は疲れきっていた。しばしば目がくっつき、眠気に襲われて、この世に眠りほど愛しいものはないように思われた。

そんなある晩、ひとりになったとき、私はこらえきれずに手近な片隅に倒れこんで寝てしまった。どれだけ眠ったのかわからないが、ぐっすりと眠った。若い健康な体が有無を言わせず体の休息を求めたのである。

扉を激しく叩く音で私は目を覚ました。私は床から起き上がり、自分が何をしているのかまったく意識しないまま、機械的に玄関の間へ行って扉を開けた。何か本能的なものが、意識下の奥底のどこかから、どうすべきかという問いとなって頭を打った。だがもう遅かった。扉が開き、私は恐怖のあまり我を失った。目の前に見知らぬ男の姿が見えたのだ。だがそれは一瞬のことだった。次の瞬間、私は暗がりのなかに、アライグマの毛皮外套にくるまった「コーシャ」の高い姿を見分けた。見知らぬ男は地元の革命組織の労働者S.で、私たちが刷っていた、具合のよくない印刷機を直しに来てくれたのだった。

私はまだすっかり我に返っておらず、ただひどく眠いと感じるばかりだった。だがもう眠ることはできなかった。私はなすべきことをすべてやり、私たちは号の仕上げを急ぎはじめた。

この晩から、私の「コーシャ」との関係はすっかり変わった。彼は、事全体を台なしにしかねなかった私の不始末を許すことができなかった。私のほうも、彼が私と話すときの見下した、無作法で、とげとげしい口調に耐えられず、とうとう彼を憎むようになった。ジェーニャがいるときだけ彼は自分を抑えたので、私はジェーニャがいる時間がいっそううれしくなった。それがこの男の無作法から私を救ってくれたからである。だが自分の仕事への責任感はこうしたつまらぬいさかいより大きく、私は耐えることに決め、「コーシャ」があまりにも度を越したときだけ、言い返すことに決めた。

1月31日に号は組版も印刷も仕上がり、あとは紙を折って綴じるだけになった。これは私とジェーニャで2日でやりとげた。小さな字でびっしり組んだ16ページの、きちんと刷られた地下出版らしい新聞ができあがった。そのあいだに「コーシャ」は、刷り上がったばかりの新聞を携えてペテルブルクへ行く支度をし、最後の準備を整えていた。

彼の出発の日が来た。彼はすっかり髭を剃り、自慢の豊かでしゃれた口髭までなくして、トランクを手にやってきた。しばらくしてジェーニャも包みを持って現れた。汽車は夕方に出る。ジェーニャが見送ることになっていた。私たちに残された時間は1時間もなく、最後の事務的な打ち合わせにとりかかった。モイセエンコの旅券は、必要だと言って彼が私から取り上げた。私自身の旅券も返してくれなかった。それから私たちは、彼が遅くとも2月10日には、金と次号のための文書の材料を持って戻ってくると取り決めた。ジェーニャは私との連絡役としてキエフに残る。まして彼女は両親と暮らしていたのである。私は、よく休み、用心深くし、通りをむやみにうろつかず、決まった日の決まった時刻にジェーニャを待つよう申し渡された。

その晩「コーシャ」は発ち、私はひとり残された。私にとって、待つこと、じっと機をうかがうことの時が始まった。

だが国のなかでは事件が高まっていた。

例年の2月19日は、この年、学生のいるすべての都市で、大衆的なデモ、学生ストライキ、そして平和な群衆へのカザークの鞭による残虐な殴打をともなった。とりわけ激しかったのはペテルブルクとハリコフのデモで、モスクワも負けてはいなかった。キエフもまったく平穏というわけではなかった。私は毎日新聞を読み、何が起きているかをすべて知っていた。新聞はできごとをある程度ゆがめて伝えていたが、当時の私たちは誰もが行間を読むすべを心得ていて、かなり正しい結論を引き出していた。私は、鎖につながれたまま、得体の知れぬ力にどこかへ引っぱられ、自分を縛るいまいましい鎖を断ち切ることのできない人間のような気がしていた。

ツァーリ政府の手先であり、その子飼いの一人であるボゴレーポフに向けて、カルポーヴィチの銃声がとどろいた。

事態はいっそう耐えがたいものになった。まして「コーシャ」の帰還の期限は過ぎ、ジェーニャは私との会合にひどく沈んだ、心配そうな顔でやって来るのだった。

こうした待ちの日々のある日、私は郵便局へ手紙が来ていないか問い合わせに行き、事情を明らかにする手紙を受け取った。実家で、きわめて厳重で念入りな家宅捜索があったというのである。私のことを尋ね、はっきりした手がかりが得られないと、父を逮捕しようとしたという。私にはにわかにすべてがはっきりした。「コーシャ」が、おそらくペテルブルクで、捕まったのだ。彼は私の本物の旅券を持っていたのだから、つまり私も道連れにされ、憲兵は私の両親の住まいに飛んで行ったのだ。だがそうだとすれば、彼は印刷所も売り渡したことになる。いったいどんな奇跡で、彼らは印刷所ごと私を捕まえに来ないのか。私はもうそこには泊まらず、早朝に、大いに用心しながら様子を見に行くことにした。

ジェーニャの住所を知らないのがなんと残念だったことか。彼女は翌日私のところへ来ることになっていた……。もし私が捕まれば、彼女も捕まる。もし私が無事なら、彼女を待ち伏せて知らせてやれる。

一文もなかったので、私はその夜をキエフの通りで過ごした。早朝、私は十分に距離をとって印刷所の住まいの周りをぐるりと回ってみたが、怪しいものは何も見あたらなかった。そこで近くまで行ってみると、錠前はちゃんと元の場所にかかっていた。そこで私は中に入ってジェーニャを待った。彼女は3時にやって来た。事情を説明すると、私たちはこれからどうするかを相談し、満場一致で、様子見の構えをとり、会合は引き続き印刷所でするが、いっそう用心を重ね、私の泊まり場所には女子学生や大学生の周辺を利用する、と決めた。そのほか私は、ハリコフとペテルブルクに手紙を出して、モイセイの居所を探ろうとした。モイセイは私の個人的な友人であり、組織以来の古い同志で、国外にいたが、ロシアに戻ってくるはずだったのである。

私のやり方はかなり正しかったことがわかった。1週間後、モイセイが私のところへ来るという知らせの手紙を受け取った。手紙には彼の到着の日が記されていて、出迎えるようにとのことだった。私はモイセイを限りなく信頼しており、大喜びで彼を迎える支度をした。私たちは翌日、共鳴者の女子学生の住まいで会った。会合はかなり短かった。彼はその晩のうちに発たねばならず、すでに一度投獄されて密偵たちに顔を知られているキエフにとどまるのは、彼にとって危険だったからである。

組織全体のうちで、自由の身で残っている活動的なメンバーは私と彼だけだった。こうした状況では何かを考え出して決めるのは難しく、そこで私たちはかなり危険な決定を下した。私が印刷所を荷造りし、大急ぎで南部地方のどこか適当な地点へ発送する。選ばれたのはキエフ県の郡都の小さな町ベルディチェフだった。モイセイはペテルブルクへ行って新しいつながりをつけ、金を工面する。しばらくして彼はキエフに戻ってくるか、あるいはもっと積極的な行動の手を打つために私を呼び寄せる。印刷所の発送とその後の暮らしのために、彼は私に100ルーブリを置いていった。翌日、私は大きな行李を買い、活字と印刷機とその他の道具を念入りに荷造りした。私は屋敷番を呼んで、電報が来て、姉の夫が重い病気になったので姉の上京はずっと先に延びた、私はすぐに姉のところへ行かねばならない、と告げた。行李やその他の家財道具はかなり裕福そうに見え、屋敷番は何の疑いも抱かず、私からたっぷり酒手をもらって、辻馬車の御者が行李を運ぶのを手伝い、総じて温かく愛想よく私を見送ってくれた。

駅では、荷物の発送は二人の赤帽にまかせ、ベルディチェフまでの切符も彼らに買ってもらい、私自身は摘発を恐れて離れたところにいた。だがすべて無事にすみ、足跡を消すために、私は列車が出るまぎわに後ろのデッキから車両に乗りこみ、まったく人目につかずに席に着いた。

またしても私にはやりきれない日々と夜々が続いた。大衆の革命的高揚は下火になったが、憲兵隊はいっそう猛威をふるいつづけた。学生青年のあいだには停滞、一種の恐慌がひろがった。泊まり場所を見つけるのが難しくなった。野宿をしなければならないことがますます増えた。金はなかったが、ジェーニャがときどき援助してくれた。

あるとき会合で、彼女は持ち前の無垢さと純真さのすべてをもって、何人もの革命家が売春宿にうまく身を隠している、と私に話した。私は彼女のほのめかしを理解した……。

だがそれでも、キエフにとどまるのは耐えがたくなった。モイセイからは何の音沙汰もない。私はペテルブルクへ行って彼を探し出すことに決めた。ジェーニャはこの旅に賛成し、旅費をくれ、着いたら頼ることのできるペテルブルクの弁護士の名前を三つ教えてくれた。

3月の初め、私はペテルブルクへ発った。

私はペテルブルクにいる。巨大なネフスキー大通りをあてもなくさまよう。石造りの建物の巨大さと、私には見慣れない人の群れの動きとに圧倒される。これほどの人混みのなかなら、おそらくこの人通りの多い通りにうじゃうじゃいるはずの密偵の注意を引くこともまずあるまい、と考えて自分を慰める。何か手を打たねばならない。私にはいくらか計画がある。頭のなかには弁護士の名前が四つある。ポケットには小銭で1ルーブリほど。私はサドーヴァヤ通りの住所案内所へ向かう。おそるおそる用紙に名前を書き、おずおずと窓口の娘に差し出し、呼ばれるのをじりじりと待つ。

ついに住所が手に入った。私は急いでボリシャヤ・モルスカヤ通りへ向かい、目当ての番地の家を見つけ、豪華に飾られた階段を上がって、おずおずと呼び鈴を鳴らす……。

1分後、私は弁護士デミドヴィチ=デミドフスキーの応接室に座っている。そこにはほかにも客がいて、私は自分の番を待つ。

この面会は不愉快で、つらいものだった。合言葉もなく、紹介状もなしに、見知らぬ人間に、自分が探偵でも密偵でもなく、ただ難破した革命の船の破片であって、保護と宿と援助を必要としているのだと信じさせなければならなかったのである。私は外見は落ち着きを保とうと努めたが、内心は動揺して、どうしても自分を抑えることができなかった。私の内心の状態は、どうやら私の意に反して外に現れていたらしく、相手は最初こそ少しおびえていたが、ほどなく、目の前に座っているのが誠実な人間だと納得した……。

私の旅の目的は果たされた。

翌日、私はもうオフタのG.医師の住まいでモイセイと座り、今後の行動計画を話し合っていた。決まったことはこうだ。印刷所を新たに組織する。その組織は私に任される。私はそのためにモイセイから300ルーブリを受け取り、さらに工面するという約束も得た。モイセイは文筆の力を組織し、総じて私たちのペテルブルク組織を立て直す。私はモイセイとは別に、オフタの医師の住所を通じて、ペテルブルクの同志たちとの恒常的な連絡を得る。

幸せな、晴れやかな気持ちで、3月の初めに私は南へ戻る。ただしキエフではなく、ハリコフへである。ハリコフには、古くからの労働者としてのならわしで、私には革命組織との恒常的なつながりがあった。ハリコフで私は、ウィーンから着いたばかりの同志ベルタにばったり出会った。彼女とは北西地方でもキエフでも知り合いだった。ハリコフの友人や知人についての最初の同志らしい話のあと、私はすぐ本題に入ることにした。手短に計画を伝え、少し考えたのち、私は助手を得た。彼女は女友だちを一人見つけてくれた。エカチェリノスラフ県アレクサンドロフスク郡の、ドイツ系メノナイトのある入植地に住む産婆のSh.である。そこに印刷所を組織することに決まった。

大仕事が待っていた。

文書の材料、何よりもまずメーデーのビラを取りにペテルブルクへ戻らねばならなかった。ベルディチェフで荷物を受け取り、アレクサンドロフスクへ送らねばならなかった。これらはすべて私が引き受け、ベルタは現地ですべての準備を整えるためにSh.のもとへ向かった。

ペテルブルクにはモイセイはおらず、私が着いたその夜にまた一斉摘発があった。残ったのは同志一人だけで、それも文筆家ではなかった。私たちは一緒にメーデーのビラの作成にとりかかった。私はそれまでにも檄文を書いたことはあったが、全ロシア規模のものではなく地方的な性格のものだった。だが同志(インテリの技師)にまるで書く腕がないのを見て、私が仕事を引き受け、ビラを書いた。それはごく短く、表現力があり、私たちの生きている革命の時代をよく表していて、同志が編集上の手を入れたうえで、印刷にまわすことが承認された。

ユダヤ教の過越祭の初日に、私はベルディチェフで荷物を受け取った。すべて無事にすんだ。受難週の終わりには、私は印刷所の荷物と、紙の蓄えと、メーデーのビラの原稿とともに、もう現地にいた。そこではベルタとSh.が、受け入れと仕事の準備をすっかり整えていた。状況はおそろしく危険だった。ドイツ人入植者たちはひどく疑い深く抜け目のない連中で、私はSh.の婚約者ということにしていたが、荷物の怪しさと、仕事にとりかからねばならないという必要とで、私も仲間の女性たちも気がめいり、最初の仕事を出すこともできずに捕まってしまうのではないかと恐れた。それでも私たちは仕事にとりかかった。手伝ってくれたのはベルタだけで、Sh.は見張りについた。

夜に働かねばならなかった。昼間に働くことはまったく不可能だった。いつなんどき、好奇心が強く抜け目のないドイツ女たちがのぞきに来て、私たちを売り渡すかわからなかったのである。ビラの印刷は長くはかからなかった。

キリスト教の復活祭の初日に、私とベルタは旅支度を整えた。私はビラをペテルブルクへ、彼女はハリコフ、キエフ、エカチェリノスラフへ運ぶことになっていた。メーデーまであと二日だった。急がなければならなかった。

ペテルブルクに間に合うには急行しかなかったが、私たちには金が足りなかった。危険な綱渡りに出るほかなかった。私たちはどうにかハリコフまでたどりついた。ハリコフで急行は45分停車する。機転のきくベルタは、手荷物を担保に婦人用化粧室の係員から25ルーブリを借り、ペテルブルクまでの私の切符を買ってくれた。こうして私は車両から出ず、まったく誰にも姿を見せずに、直通の切符と数ルーブリの金を受け取り、ベルタと温かく別れを告げて、目的地へと走り去った。

ビラはメーデー前夜に撒かれた。私が身を寄せたゴロホヴァヤ通りのヤフカで、ビラを受け取ったのは、どうやら女子学生らしい娘だった。彼女から私は、モイセイはいまだにペテルブルクに戻っておらず、どこにいるのかわからないと聞いた。彼はキエフとハリコフのあいだのヴォロジバ駅で逮捕されたという噂だった。ほかの同志たちは、私と一緒にビラを書いたあの技師まで、みな逮捕されていた。オフタへは行けない。

私は急いでペテルブルクを去らねばならなかった。

私はヴィリノへ行き、昔のつながりを使って、ヴィリノの刷毛職人たちのあいだにたやすく身を寄せる場所を見つけた。だが何かしなければならなかった。同志アルテルたちは私を助けることができず、ほかの者はみな逮捕されていた。逮捕者のなかには、私の知っている名前としてアロン・ソリツの名があった。彼の妹とはペテルブルクのオフタで会ったことがあった。しばらくして私はペテルブルクに戻り、ゴロホヴァヤ通りへ行った。何日かして、新しい服と金を持った者が私のところに来て、さしあたりハリコフへ行くよう勧めた。今後の指示のために、近日中に同志をそこへ差し向けるというのである。

私はまたハリコフにいる。私が革命の洗礼を受けたゆりかごであり、あらゆるサークル、あらゆる革命の党派と傾向に私の顔が知られている町である。

私はSh.の住所、つまり印刷所あての手紙を待ち、ペテルブルクからの同志を待つ。そのあいだにヘクトグラフをこしらえ、さまざまな政治的テーマのビラを書く。弟と一緒に刷って、「労働者の旗」の名で出す。

何日かしてベルタがやって来て、ひどく悲しい知らせを伝える。私が強奪した金をSh.のところへ運びこんだという噂が、入植地じゅうにひろまったというのである。

印刷所と同志たちを救わなければならない。

私はただちに手を打つ。

友人たちが、スムスカヤ通りのはずれ、病院の裏で、「南部労働者」派のハルチェンコとの会合を手配してくれる。ハルチェンコは明日にも助けると約束する。

だが……ああ、帰り道、来るべき援助のことを知らせてベルタを喜ばせようと急いでいた鉄道馬車のなかで、私は逮捕される。そのまま鉄道馬車から引きずり降ろされたのである。

1年後、ペテルブルクの未決監で、「コーシャ」もいた全体散歩のときのことである。ある晴れた冬の日、逮捕された政治犯の一団がどっと出てきた。みな「労働者の旗」派で、そのなかには知り合いのペテルブルクの連中と、私の同郷のフルムキンとマギドがいた。フルムキンから私は、私が逮捕された翌日に彼がハリコフの私のもとへ来たことを知った。彼は印刷所を救ってタンボフへ移し、そこで数か月後に摘発された。彼は私に新聞『イスクラ』のことをいろいろと話してくれた。

『イスクラ』の創刊号を私は逮捕前に読んでいて、そのときすでに、もはや『労働者の旗』の地盤はないと見きわめていた。

『労働者の旗』はその時代にその役目を果たした。より強力で一貫したその後継者、革命的社会民主主義の全体を自らのまわりに結集する運命にあったのは『イスクラ』であり、それからまさしくプロレタリア革命の大いなる炎が燃え上がったのである。

D. ゲルシャノヴィチ

第8章 訳注

  1. 『労働者の旗』(Рабочее знамя)は、1897年ごろからペテルブルク、キエフ、ビャウィストクなどにまたがった小グループと、その非合法紙である。本文は冒頭で時期を「1900年1月の初め」としているが、本文中の2月19日(1861年の農奴解放記念日)の学生デモ、カルポーヴィチによる国民教育大臣ボゴレーポフ狙撃(1901年2月14日)、『イスクラ』創刊号(1900年12月)を逮捕前に読んだという記述は、いずれも1901年の出来事と合う。原文の「1900年」は1901年の誤りである可能性が高いが、原文どおりとした。
  2. ボリス・モイセエンコは原注のとおり、のちにエスエル戦闘団でサヴィンコフの同志となった人物。ここで筆者が使ったのは、その名義の旅券である。
  3. 「コーシャ」(Костя、コンスタンチンの愛称)は筆者がつけた呼び名で、本文からは本名を特定できない。ジェーニャ、ベルタ、モイセイ、S.、Sh.、オフタの医師G.も同様である。
  4. 本文末尾の署名はPDFのテキスト層では「Д. Германович」と読めるが、目次と章題の表記にあわせて「ゲルシャノヴィチ」とした。原本の版面で確認されたい。
  5. アロン・ソリツ(1872–1945)。ヴィリノ出身の社会民主主義者で、のちにボリシェヴィキ。ソヴィエト期には党統制委員会の要職にあった。
  6. 「南部労働者」(Южный рабочий)は、1900年から1903年にかけて南部で活動した社会民主主義グループとその機関紙。『イスクラ』とは組織方針をめぐって対立した。ハルチェンコは本文からは特定できない。
  7. 「同志アルテルたち」は原文の「Товарищ Алтер」をそのまま訳した。続く「助けることができず」が複数形なので、アルテルとその仲間を指すと読んだ。フルムキン、マギドも本文以上のことは特定できない。
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