第10章 E. シュテインマン「1903年 ペテルブルク委員会の印刷所」

(ロシア社会民主労働党ペテルブルク委員会の印刷所)

1903年4月10日、ペテルブルクのアプラクシン横町7番地の家で、『イスクラ』派のペテルブルク委員会に属する非合法印刷所が摘発された。

警察部の資料によれば、この印刷所は1903年3月から活動を始めたことになっている。だがこれは正しくない。その歴史はもう少し長いのである。

1902年8月、私の兄で鉱山大学の学生だったミハイル・シュテインマンが、ミメオグラフを持って家へ帰ってきた(注1)。兄はグセフ横町8番地の家に私と二人で住んでおり、1901年の春から、鉱山大学、大学、軍医学アカデミーの非合法学生サークルと固く結びついていた。それは何かと私が尋ねると、ミハイルは短く「今にわかるよ」と答えた。持ってきたパラフィン紙に、彼は何か特別なペンで文章を書き、それをミメオグラフの枠に貼りつけ、インクを厚く塗って、原版の上に白い紙を重ね、ローラーをせっせと転がして印刷しはじめた。

(注1)Ya. ロゼノエルは回想のなかで、ミメオグラフを私たちのところへ持ってきたのは自分だと言っている。だがこれは明らかに思い違いである。おそらく彼はどこかでミメオグラフを兄に渡し、兄がそれを家へ持ち帰ったのであろう。

(写真説明)19歳の青年だったころのミハイル・シュテインマン(D. I. エフレーモフ)

ミメオグラフでの仕事は2週間ほどしか続かなかった。そこで刷った原稿のうち、覚えているのはパンフレット『ドイツにおける革命と反革命』だけで、これはおよそ50部刷られて学生のあいだに配られた。ミメオグラフでのパンフレットの印刷にかかわったのは三人、兄のミハイルと、ヤコフ・ロゼノエル(兄の学校友だちで、その少し前に外国から戻ったばかりだった)と、私である。手工業的で、かなり汚れ、時間ばかり食って成果の乏しいミメオグラフの仕事は、ミハイルもヤコフも満足させることができなかった。考えに考えたすえ、もっと文化的な印刷方法に移ることにし、同時に、第9ロジェストヴェンスカヤ通り23番地の独立した住まいへ移ることにした。ここへ、住まいに家族らしい、したがってより秘密の守れる外見を与えるために、兄がわざわざ呼び寄せた母と私たちの末の妹が、ドヴィンスクから出てきた。そのあいだにヤコフ・ロゼノエルは、保険会社「ナジェージダ」とのつてを利用して、そこから判の押された用箋を盗み出し、その一枚にジョルジュ・ブロックの店あてのロタトールの注文書を書いた。このいたずらはうまくいき、ロタトールはおごそかに新しい住まいに据えられた。ジョルジュ・ブロックにこのロタトールの代金を誰が払ったのかはわからない。ロタトールの原版はタイプライターで打たなければならなかったので、新しい心配ごとが生じた。第一に、タイプライターを手に入れること、第二に、誰かがそれで打てるようになることである。後者は、当時ギムナジウムの5年生で、読み書きの十分できた私に任された。私は父の古い知り合いの弁護士ストルコフのところへ行き、稼ぎが必要なのでタイプライターの打ち方を習わせてほしいと頼んだ。ストルコフは許してくれたばかりか、自分で機械の仕組みを見せて説明してくれ、2日後にはもう手紙の清書という有給の仕事までくれた。2週間練習して、私はロタトールのための仕事を始められるようになった。タイプライターを「テフニカ」へ届けたのは、私たちの「テフニカ」とペテルブルク委員会との仲介役をしていたラゴージンなる人物だった(注2)。仕事は活気づいた。ラゴージンが原稿を持ってきて、私がそれをタイプライターで打ち直し、それから皆が順番にロタトールで檄文を刷った。

(注2)彼についての詳細はYa. ロゼノエルの回想を参照。

ミハイルも、ヤコフ(ロゼノエル)も、私も、小さなリヤまでも、皆が仕事に加わった。日を追って生産性も質も上がったが、1時間に700〜800枚より多く刷ることはできなかった(注3)。「テフニカ」の仕事は参加者全員をすっかり呑みこんでしまい、私はギムナジウムにほとんど通わなくなり、ミハイルは大学をすっかりやめてしまうことに決めた。

(注3)Ya. ロゼノエルが35分で1000部と言っているのは、私の考えでは少々誇張である。

ペテルブルク委員会は、どうやら「テフニカ」の仕事に満足し、またラゴージンを通じてミハイルとヤコフにせっつかれて、テフニカを改良することに決め、そのために「アメリカンカ」購入用として600ルーブリを支出した。この信頼にテフニカの二人の頭目は勇み立ち、「テフニカ」を本物の「印刷所」に変えるという計画の実現に本腰を入れてとりかかった。「アメリカンカ」は市長官か県知事の許可がなければ買えなかったので、まず用紙と印章をこしらえた。秘密保持のため、「アメリカンカ」購入の許可書は、架空のノヴゴロドの印刷業者の名義で書かれた。購入はうまくいった。次は印刷機を倉庫から「テフニカ」へ運ぶことである。当時の慣習にしたがって、商会は印刷機を梱包し、ノヴゴロドへ積み出して発送するために、自分のところの運搬人に持たせて駅へ送った。ペテルブルクの駅で「アメリカンカ」を取り戻すために差し向けられたプロスクリャコフなる人物はそれをしくじり、「アメリカンカ」はノヴゴロドへ行ってしまった。そのあとを追ってミハイルが出かけた。彼はあと少しでこの貴重な宝物を取り戻すところだったが、荷物の引き渡し係が、突然ミハイルの振る舞いを怪しく思い、電話のほうへ向かった。ミハイルには一目散に逃げ出すほかなく、彼はそれを首尾よくやってのけた。がっかりしながらもくじけずにペテルブルクへ戻ったミハイルは、同じラゴージンを通じてペテルブルク委員会からさらに150ルーブリを受け取り、ヤコフがその金で「ボストンカ」を買った。ボストンカがアメリカンカと違うのは、前者が手で動かし、後者が足で動かすことで、アメリカンカは一度に一人しか要らないが、ボストンカは二人がかりで動かさなければならない。「ボストンカ」を手に入れると、ミハイルは住まいを変えることに決めた。前の住まいは壁が薄すぎて、印刷機を動かす音が家じゅうに聞こえてしまうからである(注4)。住まい探しが始まった。モホヴァヤ通り30番地の家に手ごろな部屋が見つかった。二部屋と台所で、一部屋は半地下で通りに面した出口があり、文房具店にすることができた。これは私たちには大いに好都合で、大きな包みを運び込んだり運び出したりできるからである。もう一つの窓のない小部屋と大きな台所は中庭に面していた。新しい住まいを借りて、引っ越しが始まった。まず活字と活字ケース(二つあった)を運び、それを暗い小部屋に据えて、すぐに活字をケースに分ける作業にとりかかった。同じ日のうちに「ボストンカ」と残りの所帯道具も運んでくる予定だった。兄と私が活字を分けていると、台所にいたプロスクリャコフとリヤが、屋敷番頭がこちらの住まいへやって来るのを見つけた。暗い小部屋のランプは消され、ミハイルと私は台所へ出た。「どんな具合に落ち着いたか見に来たよ」と言いながら、屋敷番は台所に入り、それから暗い小部屋へ踏み込んだ。ミハイルは住まいの主人として彼のあとについていった。女の子二人(私とリヤ)は膝ががくがく震えたが、陽気におしゃべりを続けた(目をそらすためである)。プロスクリャコフは真っ青になって頭を抱えた。幸い屋敷番はそれを見ていなかった。暗い小部屋に入ると、彼はすぐに活字の入ったケースにぶつかり、手が文字を探り当てた。「これは何だね?」と、部屋から出ずに彼は尋ねる。一瞬、皆の心臓が止まる。だが突然ミハイルの落ち着いた声が響く。「ペン先を仕分けているんですよ、屋敷番さん」。屋敷番は出ていき、皆ほっと胸をなでおろした。皆またやりかけの仕事に戻った。晩に、「ボストンカ」を含む荷物を積んだ荷車がやって来ると、屋敷番はミハイルを呼んで言った。「あんたのペン先といっしょに、穏便に出ていってもらおうか」。そして結局荷を降ろさせなかった。荷物を持って元の住まいへ戻るほかなく、翌日アプラクシン横町に住まいを借りて、そこへテフニカごとすっかり無事に引っ越した。モホヴァヤ通りの屋敷番は何か怪しいとにらんだのだろうが、警察には届けなかった。どうやら警察と関わり合いになりたくなかったらしい。新しい住まいに移り、その奥の部屋に、「ボストンカ」、四つの活字ケース、8プードにのぼる活字の蓄え、大量の紙の蓄えをそなえた、設備の整った本物の印刷所を据えると、1か月半にわたって昼夜ぶっとおしの集中的な仕事が始まった。ヤコフはすっかり移り住み、ミハイルと二人ほとんど眠らずに働いた。私と妹は昼間は、一部は印刷所で働き(リヤは紙差し、私は紙差しをしたり植字をしたり)、一部は刷り上がった文書を倉庫へ運んだ。夜は交代で働いた。一人が夜9時から夜中の3時まで、もう一人が夜中の3時から朝9時までである。そのうえ私は、退学にならないよう、少なくとも週3回はギムナジウムに通わなければならなかった。

(注4)Ya. ロゼノエルは第9ロジェストヴェンスカヤ通りから移った理由を別様に説明している。おそらく彼が正しいのだろう。だが私には、兄は明らかに、私が挙げた理由を説明したのである。ロゼノエルが話しているマネファについて言えば、私は小さいが重い包みに入った活字を受け取りに何度か彼女のところへ通い、一度は、どの銀行のものだったか覚えていないが、25ルーブリの小切手を彼女から受け取った。2回目の取り調べのとき、この小切手を突きつけられた。憲兵たちには、それに私が署名したように思えたらしい。

委員会は文字どおり仕事を山のように押しつけてきたので、もう一人手伝いを探すことを考えなければならなかった。ミハイルとヤコフはこの問題を長いこと二人で話し合ったが、見知らぬ人間を印刷所に入れる決心がなかなかつかなかった。仕事はあれほどしっかり軌道に乗り、秘密もあれほど厳格に守られているのに、そこへいきなり他人を入れるとは! 結局、知り合いの娘で仕立屋のシューラ・ミハイロワに決まった。ミハイルとヤコフは彼女を本物の革命家に育てたいと思っていた。3月末に彼女は印刷所に移り住み、仕事のたいへん熱心な助手となった。

すでに述べたように、印刷所での仕事のほかに、リヤと私とシューラ・ミハイロワは、できあがった檄文をあちこちの宛先へ運ばなければならなかった。倉庫になっている住まいは三つか四つあって、女子学生や学生が管理していた。たとえばヴァシリエフスキー島の、たしか8条通りの写真館の部屋ではポティリツィンと鉱山大学の学生ニコラエフとニキーチンが、ペテルブルク区とサドーヴァヤ通りの外れのポクロフ教会のそばでは女子学生リュドミラ・グロモゾワ、ミシャリナらが文書を受け取っていた。私たちの印刷所から出た檄文のうち、覚えているのはいくつかだけである。最初のころのものの一つが「トランプ工場から」(見事なできばえで、私たち自身も感嘆した)、次いで「ロストフ・ナ・ドヌー」(ロストフでの3月のデモについてのビラ)、そして私たちの最後の仕事が「街頭へ」で、1903年5月1日に向けて出されたビラである。1か月半のあいだに、私たちは20以上の檄文を、それぞれ数千部ずつ刷って配り、メーデーのものは、私の記憶違いでなければ4万部刷った(注5)。だが倉庫へ運べたのはその半分だけで、残りは4月10日の逮捕の際に印刷所で押収された。仕事の手が空くと、たいていは食事のときに、ミハイルとヤコフが何かのパンフレットや『イスクラ』や『ラボーチャヤ・ムイスリ』の号を声に出して読み、記事をやはり声に出して論じ合い、私たちほかの者は注意深く耳を傾けて学んだ。逮捕の少し前、食事のときにパンフレット『取り調べのときどう振る舞うべきか』が読まれた。ミハイルとヤコフのあいだで論争が始まった。ヤコフは、憲兵の質問にはいっさい答えないのがいちばんだと主張し、逮捕されたとき実際そのとおりにした。ミハイルのほうは、自分を例にとって、供述の拒否はいつも受け入れられるわけでも合目的的でもないと考えた。現行犯で捕まった印刷所の主が供述を拒んで何の意味がある、というのである。そして実際、逮捕されたとき彼は供述を拒まず、ただすべてを自分の身に引き受け、ほかの皆をかばおうとした。このパンフレットを読んで論じ合ったことは、私たち年少の者にとって大いに役に立ち、逮捕後の取り調べで方向を見定める助けになった。ちなみに、「取り調べでどう振る舞うか」という問題を論じたとき、ヤコフは、私たちの秘密保持をもってすれば近いうちに逮捕される心配はないと言い、「何年も」もちこたえられると自信をのぞかせた。彼はひどい思い違いをしていた。私たちはごく早く摘発されてしまったのである。私たちの思うところでは、実際きわめて秘密を守っていたにもかかわらず、である。摘発は、のちに明らかになったところでは、一人の臆病な学生の、偶然の、まったく思いがけないおしゃべりのせいで起こった。

(注5)Ya. ロゼノエルは私が誇張していると考えている。そうかもしれない。だが運び出せたのは2500部よりずっと多かった。ちなみに、ラゴージンは決して文書を身につけて運ぶことはなかった。彼はとても用心深かった。

1903年3月、工科大学の学生のところで捜索が頻繁に行われるようになった。偶然から警察は、学生組織にも、まして労働者組織にもまったく関わっていなかった工科大学生ベルンシテインのところへたどり着いた。ベルンシテインの机の引き出しから、ミメオグラフで刷ったパンフレット『ドイツにおける革命と反革命』が何部か見つかった。この非合法文書はどこから手に入れたのかと問われて、ベルンシテインは、ミハイル・シュテインマンの妹のエレーナが、大学で配るようにと兄に頼まれて持ってきたのだが、配るのは怖く、返すのも恥ずかしかったので、包みを机にしまったまま忘れてしまった、と正直に白状した。ミハイル・シュテインマンの住所を知っているかと問われると、彼は第9ロジェストヴェンスカヤ通りのミハイルの住まいを教えた(注6)。警察はすぐにそこへ飛んでいったが、屋敷番からは何も聞き出せず、この件を保安部に回した。仕事にとりかかったのは、秘密印刷所を見つけ出す腕前で名高いスタトコフスキーだった。これほど経験を積んだ密偵にとって、すでにある手がかりをたどって私たちの居場所を突きとめ、さらに文書を運んでいた倉庫まで探し出すのは、もちろん造作もないことだった。

(注6)Ya. ロゼノエルは私たちの摘発の経緯をいくらか違ったふうに伝えている。実は、彼の挙げる事実も私の挙げる事実も同じように起こったのだが、私が書いていることはヤコフには知られないままだったのである。

そして4月10日の午後2時、私たちの住まいの戸口でただならぬノックの音がした(呼び鈴はなかった)。というのも、ラゴージンのほかには誰ひとり私たちを訪ねてこなかったし、ラゴージンはこの日は夜8時にしか来ないはずだったからである。私たちはあわてた。ちょうどそのとき、ミハイルは私の体にメーデーのビラの包みをくくりつけていて、妹はもう支度を終えて待っていた。ヤコフと妹と私は印刷所のある奥の部屋へ飛びこみ、ミハイルは客を迎えるために残り、母が戸を開けに行った。ミハイルはポケットにあった原稿をヤコフに渡すことができ、落ち着いて待っていた。妹と私は手早く包みをはずして身なりを整えた。ヤコフは、掛け金があるのを忘れて片手で扉を押さえ、もう一方の手でありとあらゆるポケットから原稿やほかの紙切れを取り出して部屋の真ん中へ投げた。私はその場で火刑の儀を執り行い、1分後には床に灰しか残らなかった。それから私はヤコフが扉を押さえるのを手伝いはじめた。隣の部屋で何が起きているのか耳を澄ましたが無駄だった(床にはフェルトが張られ、壁はとても厚くて音を通さなかった)。ついにかすかな拍車の音が聞こえ、もはや疑いの余地はなかった。突然私たちは二人とも、晩にラゴージンが来ることを思い出した。どうしよう? 私はまだ若かったが、ラゴージンを捕まらせてはならないことを本能的に感じとった。考えが熱に浮かされたような速さで回りはじめた。そのとき、隣の部屋の物音が静まっていくのが感じられ、廊下側の扉のところに立っていた妹が、反対側から声が近づいてくるのを聞きつけた。どういうわけか警察が廊下側から私たちのところへ入ろうとしているのだとわかった。あとでわかったことだが、ミハイルは警察に、この部屋の間借り人は休暇で田舎へ行って鍵をかけていったと言い張っていたのである。私たちも結局は掛け金をかけることに思い至っていたので、軽く押したくらいでは扉は開かなかった。どうやら扉を壊すのは避けたかったらしく、警察は回り道をした。足音が遠ざかりはじめると、ヤコフは私を見て「8時にザゴロドヌイが来ることになっている」(ラゴージンの呼び名)と言い、私は、逃げ出してラゴージンに知らせるよう試みなければならないのだと悟った。ヤコフが扉をさっと開け、私はあっという間に、呆然とした巡査の脇をすり抜けて台所に出た。肩に外套をひっかけて階段へ飛び出すのは一瞬のことだったが、そのとき、すでに台所から廊下へ曲がろうとしていたスタトコフスキーが、まるで鼻で獲物をかぎつけたかのように振り向き、笑いながら私の手をつかんだ。「これがあなたの妹さんですか?」と彼はミハイルに向かって言った。ミハイルはうなずき、優しく、わかっているよという微笑みを浮かべて私を見た。そして私は……悔しさのあまり泣き出しそうだった。スタトコフスキーとトルセーヴィチを先頭とする密偵、警官、憲兵の一団は大きな部屋に戻り、兄に付き添われて印刷所に入った。「おや、ここはまるごと作業場じゃないか!」とスタトコフスキーは叫んだ。私たちは皆、部屋の隅々に座らされ、一人ひとりに密偵がつけられた。兄は「愛想のよい主人」として、スタトコフスキーと部屋を歩き回りながら説明をした。スタトコフスキーの顔には満足げな笑みが輝いていた。無理もない。設備の整った印刷所を見つけようとは、彼はまったく思っていなかったのである。その場で短い調書の作成が始まった。ヤコフ・ロゼノエルは向けられた質問のすべてに否認と知らぬ存ぜぬで答え、自分を「ネポムニャーシチー(覚えていない者)」と名乗った。これで私は、彼の姓を言ってはいけないのだと悟り、折を見て妹にそっと耳打ちした。ヤコフが連れて行かれるまでは万事うまくいっていた。それは晩の8時ごろのことだった。そのとき私は、兄とも別れなければならないのだと思い当たった。もちろん私たちの誰ひとりとして、妹と私が、そして母までが逮捕されようとは思いもしなかった。夜12時ごろ、私は妹と一緒に連れて行かれた。母と兄はまだ残っていた。別れのとき、私たちの誰ひとり一滴の涙もこぼさなかった。だが顔に透けて見える苦しみは、きっとスタトコフスキーの心さえ動かしたのだろう、彼は私と妹に兄と口づけを交わすことを許した。私には、もう二度と兄に会えないような気がした。妹と私が二人の密偵にはさまれて階段を降り、中庭を通って箱馬車へ向かうとき、私は思わず、中庭いっぱいにあふれ、箱馬車をぴったりと取り囲んでいる人だかりに目を留めた。遅い時刻にもかかわらず、まだ薄明るく、近くに立っている人々の顔には、二人の大柄な密偵にはさまれて歩いていく私たち小さな女の子への同情が浮かんでいるように思えた。私たちはまっすぐ憲兵局へ連れて行かれて取り調べを受け、2時間ほどそこに留め置かれた。妹と私は別々の部屋で取り調べられた。妹はロシア語ができないのをいいことに、すべての質問に「知りません」「わかりません」と答え、憲兵たちは彼女には匙を投げた。私のほうはそうはいかなかった。何といってもギムナジウムの最上級の一つ手前の生徒が、何も知らない、何もわからないひよっこであるはずがない。そこで憲兵たちは本腰を入れて私にかかった。

憲兵局から、私と妹は二人の密偵の監視のもと箱馬車で、モイカ12番地の保安部へ連れて行かれた。私たちが入れられたのは、モイカ川の河岸通りに面した窓とバルコニー(バルコニーへの出口は閉じられていた)のある、大きな明るい部屋だった。部屋には大きな油布張りのソファと大きなテーブルと椅子2、3脚があり、誰かが枕と毛布を持ってきてくれて、疲れた妹と私はソファに倒れこみ、まもなく眠りこんだ。寝る前に何度か明かりを消そうとしたが、そのたびにまたつけられた(私はまだ監獄の規則を知らなかった)。扉にはのぞき穴がなかったので、夜のあいだに何度か扉が開けられ、いろいろな人がのぞきこんだ。保安部での私たちの扱いはすばらしかった。皆とても優しかった。おそらくスタトコフスキーがこの点について特別の指示を出していたのだろう。彼自身も毎日やって来て、かなり長いこと話しこんだ。拘禁の4日目、私は正午に憲兵局へ取り調べに連れて行かれ、夜8時まで留め置かれた。この日の憲兵たちの私への責め方は、その後の生涯で一度もないほどだった。肉体的な拷問はなかった。誰も私を殴らず、筋を引きずり出しもせず、踵を焼きもせず、私が痛みに悲鳴を上げることもなかった。だがその日私に対してなされたことは、拷問と変わらなかった。まず、私は大勢の人間に引き合わされた。しかもそのたびに不意をついて驚かせ、怖がらせるようにしてである。引き合わされる相手を私はみな知っているはずだ、ある者には文書を運んだだろう、ほかの者とはどこそこで会っただろう、と言い張られた。だが私は誰も見知らなかった。シューラ・ミハイロワさえわからなかった。それも憲兵に嘘をついたというのではなく、この万華鏡のなかでは、本当に知り合いの顔さえほとんど見分けられなかったのである。それから私は取り調べを受けた。取り調べたのは主に検事補トルセーヴィチで、それを助けたのがのちに名を馳せるイワノフ大佐とセミガノフスキー大尉だった。

私の筆跡で書き写された原稿(注7)を見せられたが、私はそれを認めなかった。続いて、私がギムナジウムで書いたロシア語の作文を突きつけられた。これは認めないわけにはいかなかった。筆跡はまったく同じで、私にもそれはわかっていたが、どうあっても認めなかった。怒りと意地が私を満たし、トルセーヴィチの激昂ぶりを見て、私はますます快哉を叫んだ。だが晩に保安部へ戻り、妹が泣いているのを見ると、力が抜けて、私の生涯で初めての神経の発作が起こった。この日の体験が、のちに重い神経疾患に発展するものの始まりだったのかもしれない。翌朝、憲兵にモスクワから呼び出された父の保証で妹が釈放され、私はひとりになった。スタトコフスキーの訪問は頻繁になった。彼は日に2度やって来て、そのたびに少なくとも1時間は座りこんだ。自分のこと、ドネツ地方での自分の革命活動のこと、「ごろつき」で「下賎な連中」だとわかって彼を政府の側へ移らせた労働者たちのことを語り、私の関心を引いておいてから、私たちの事件の話に移った。兄ミハイルをほめそやし、二人とも自分が身元を引き受けてやると言い、ほかの者を売らない私をほめたが、「自分のこと」をすべて話すようにしつこく勧めた。優しい話しぶりに私はまどろみ、作り話を信じはじめている自分に気づくこともあった。だが、自分の話が与えた印象に気づいたスタトコフスキーが、ラゴージン(注8)やプロスクリャコフ(注9)のことをあれこれ尋ねはじめると、私ははっと目を覚まし、また警戒を固めた。ペテルブルク保安部で最も才能ある密偵とのこの2か月にわたる闘いに、それでも勝ったのは14歳の少女である私のほうだった。そして兄ミハイルはそれを誇ってよい。私は彼の弟子にすぎなかったのだから。

(注7)それは檄文「ロストフ・ナ・ドヌー」の写しだった。

(注8)ちなみに、最初のころの話し合いの一つで、スタトコフスキーは私に文字どおり次のように言った。「わかっていますよ、レーノチカ、捜索のときあなたがどこへ逃げようとしたか。『ザゴロドヌイ』(ラゴージン)に知らせに行こうとしたんでしょう。でも、彼が夜8時にあなた方のところへ来ることは私も知っていて、彼が危険に気づいて家に入らないように、わざと門のところに巡査を立たせておいたんです。もう10日ほど歩き回らせておいて、それから捕まえますよ」。スタトコフスキーが、兄とヤコフと私しか知らないことをどこから知りえたのか、私は長いこと頭を悩ませた。母がたまたまそれを耳にして、取り調べで口を滑らせたのかとも思ったが、今供述調書に目を通してみても、そうしたことは見当たらなかった。どうやらこれは保安部の秘密に属することらしい。

(注9)スタトコフスキーは私にプロスクリャコフの姓は口にしなかったが、彼の写真を見せた。それをどこで手に入れたのかは知らない。とにかくスタトコフスキーが、「身元不明の若い男」が私たちのテフニカに関わっていたと確信していたことは明らかで、まして印刷機販売店の主人マルクが、写真から彼を「アメリカンカ」を買った客の一人だと認めていた。だがプロスクリャコフはついに見つからなかった。あらゆる人と事を売ったシューラ・ミハイロワも、鉱山大学生のニコラエフとニキーチンも知らなかったのは、私たちのテフニカで彼だけで、そのため彼は無事に姿をくらますことができた。のちに彼は別の事件で連座させられたが、私たちのテフニカへの関与はついに明るみに出なかった。

5月末、私は父の保証で釈放されたが、それは私をいっそうひどい牢獄に追いやることだった。子どもたちが「囚人」になったこと、自分の誇りである息子が、将来は割のよい出世を約束していた鉱山大学を放り出して革命家になったことへの父の怒り、その憤懣のすべてが私に向けられたのである。罵り、殴打、刺し殺すという脅しによって私は追いつめられ、服毒しようとさえしたが、幸いにも未遂に終わった。回復すると、私は知り合いの弁護士たちを頼り、自由の身になることができた。

そのあいだも予審は続いていた。ミハイルとヤコフはペトロパヴロフスク要塞に、ほかの被告たちは未決監にいた。ペトロパヴロフスクでの面会はかなわず、知り合いの世間の人たちのあいだでは、兄が自分を刃物で傷つけようとした(注10)とか、もう生きていないとかいった噂が流れていた。私は恐怖で全身が震え、幻覚を見るようになった。リテイヌイ大通りやネフスキー大通りを歩いていて、すれ違う人のなかに突然兄を見つけたことが何度かあった。駆け寄って、最後の瞬間に別人だとわかる。後ろから兄が追いついてくるような気がして、振り返ると誰もいない。ついにミハイルとヤコフは未決監に移され、私は、年齢が障害になって苦労したものの、面会を許された。兄は私を、外に残った者たちとの連絡に使うようになった。彼に頼まれて、私は脱獄を組織するための金や旅券ややすりを手に入れた。兄の弁護を引き受けた弁護士ヴィンベルクが、当時、手紙の受け渡しや金の工面で、私たちにたいへん力を貸してくれたことは特記しておかねばならない。金は、どうやら主に自分の懐から出してくれたようだ。

(注10)あとでわかったことだが、兄は実際にナイフを手に入れていた。だがまったく別の目的のためで、ナイフで格子を切って要塞から逃げようと考えていたのだ!!!

面会のとき、兄はとりわけこんな話をした。シューラ・ミハイロワが率直な供述をして私たち全員を、そしてラゴージンをも名指ししたが、ラゴージンに不利な物的証拠はこの供述のほかにはない。私たちの母も彼についてまずい供述をした。だが公判では彼を無罪にしなければならない。だから、公判で私が証人として立つときには、ラゴージンが無罪になるか有罪になるかは大部分私の証言にかかっていることを心に留めておかなければならない、というのである。私は兄の言葉をよく胸に刻み、自分に託された責任を誇らしく思った。公判で私がラゴージンをじっくり見たうえで、こんな人は一度も見たことがないときっぱり断固として述べると、同じラゴージンについて尋ねられた母とシューラもやはり否定し、予審でラゴージンの名を挙げたのは憲兵にせっつかれたからだと述べた。公判は当初1904年6月1日と定められていたが、なぜか9月20日に延期された。公判のずっと前から、主要被告の四人、M. シュテインマン、Ya. ロゼノエル、L. グロモゾワ、N. ポティリツィンは、リュドミラが提起した問題、つまり公判でどう振る舞うかを議論していた。リュドミラは、自分は公判でロシア社会民主労働党の党員だと名乗るときっぱり言った。ほかの三人はそれを得策でないと考えた。陪審員もなく非公開の法廷では、そんな強がりは煽動の点で党に何ももたらさず、それでいて自分たちを活動家の隊列から長いあいだ引き離しかねないからである。だが結局はリュドミラが勝ち、四人とも公判で党員だと名乗ることに決めた(注11)。その場で皆の役割も割り振られた。ヤコフ・ロゼノエルは大きな煽動演説を用意する。リュドミラは「いかにして、なぜ自分が社会民主主義者になったか」を詳しく語る。ミハイルは短い実務的な演説を用意する。ポティリツィンは――覚えていない。ほかの被告について言えば、その一部は無罪になるはずだったので、党員だと名乗るのは無意味だった。また他の者、たとえば鉱山大学生のニコラエフとニキーチンは、保身のために労働者の一団を名指しし、皆の軽蔑を買った。

(注11)これらはすべて兄が獄中から(もちろん密かに)手紙で知らせてきた。

シューラ・ミハイロワと私の母サーラ・シュテインマンに対しては、同志たちは寛大だった。二人ともまったく無自覚に供述したのであり、その予審での供述、とりわけサーラ・シュテインマンの供述は、実際上の結果をもたらさなかったからである。

公判で弁護に立ったのは、N. D. ソコロフ、ミロノフ(故人)、ヴィンベルク、ロジチェフである。初めの三人は、弁護する被告の運命を軽くしつつ、同時に彼らの革命家としての尊厳を損なわないように弁護を進めた。ロジチェフはといえば、弁論で被告たちを、寛大な処置を要する青二才などと描いて憚らなかったが、そのかわりヤコフ・ロゼノエルから最終陳述で手痛い反撃を受け、自分でもこの不出来な弁論を後悔するはめになった。被告たちの演説はここには掲げない。その精髄は下に掲げる「判決」にあるからである。居住流刑を言い渡された主要被告の四人は、1905年3月に押送でトボリスク県へ送られ、トゥリンスク市に居住させられたが、そこからほどなく全員が順に逃亡した。

アプラクシンの印刷所に加わった者たちのその後の運命についても、もう少し述べておかねばならない。ミハイル・シュテインマンは流刑地に着いて2週間後にそこから南のキエフへ逃亡し、組織と連絡をとり、その依頼でオデッサにテフニカを据えた。1905年夏のことである。1906年にはペテルブルクに出てきて、たしかマーラヤ・ボロトナヤ通りにテフニカを据えた。ずっと非合法の身で暮らしていた。1907年12月に彼は(もうテフニカでは働いていなかったが)逮捕され、1908年にアルハンゲリスク県へ流されたが、同じ年にそこから逃亡してペテルブルクに非合法に住みついた。反動期の彼の活動については何も知らない。受け身でいたのか、あるいは逆にきわめて秘密裏に活動していたのかは言えない。いずれにせよ、党とのつながりは断たなかった。2月革命のときはザモスクワレーチエで活動し、その後今日に至るまで、責任ある党およびソヴィエトの仕事を担ってきたし、今も担っている。現在はエフレーモフの姓で知られ、国家保険庁で働いている。

ヤコフ(セルゲイ)・ロゼノエルもまた、ほどなく流刑地から逃亡し、スモレンスクで活動し、12月蜂起のときにはモスクワにいて積極的に加わり、逮捕され、逃亡し、「ボロディン」という変名でまたスモレンスクで活動し、1906年に逮捕され、獄中でメンシェヴィキとなり、行政処分でヤクーツク州への5年の流刑に処され、刑期を勤め上げて、すっかり平凡な市民となってペテルブルクに戻った。2月革命にも十月革命にも参加しなかったが、ソヴィエト政権にはどうやら忠実だったようだ。現在は国家保険庁で働いている――共産党員ではない。

リュドミラ・グロモゾワとニコライ・ポティリツィンは、同じ1905年に流刑地から国外へ逃れた(注12)。1905年の10月の大赦のあと、二人ともロシアに戻ったが、党からも革命からも離れた。ほかの者については何も知らない。自分については、この最初の戦いの洗礼が私の生涯のすべてに影響を与え、私を屈しないボリシェヴィキにした、とだけ言っておこう。

E. シュテインマン

(注12)Ya. ロゼノエルの話では、L. グロモゾワが国外にいたころ、彼女を通じて私たちの印刷所は党中央委員会から叱られたという。その理由はこうだ。私たちの印刷所では、『イスクラ』派の檄文のほかに、ときにはペテルブルク闘争同盟のアピールも刷られていた。このことで中央委員会はひどく腹を立て、私たちのテフニカを自分たちのものと認めないとまで言いかけたのだという。テフニカに籠りきりで、もちろん当時熟しつつあった意見の対立をまだ十分に見分けることのできなかった私たち若者に対して、それはあまりにも厳しすぎたと私は思う。E. Sh.

付録1 判決

写し

判決

1904年9月20〜22日。皇帝陛下の勅令により、サンクト・ペテルブルク控訴院は、身分代表の参加する特別部において、拡大構成で、サンクト・ペテルブルク市において、非公開の法廷を開いた。出席者は次のとおりである。上級裁判長・元老院議員I. K. マクシモヴィチ、控訴院判事I. G. アルヒーポフ、N. F. セリワノフ、D. R. ヴィリケン、I. V. デラロフ、サンクト・ペテルブルク県貴族団長・V. V. グードヴィチ伯爵、サンクト・ペテルブルク郡貴族団長N. D. シュービン=ポズデーエフ、サンクト・ペテルブルク市長P. I. レリャーノフ、サンクト・ペテルブルク郡スタロデレーヴェンスカヤ郷の郷長アブラモフスキー、検事補P. K. カミシャンスキー、書記補V. V. ガルキン。

審理した事件。国事犯罪で起訴された、町人ミハイル・シュテインマン、同セルゲイ・ロゼノエル、貴族ヴィクトル・ラゴージン、八等文官の子レオニード・ポティリツィン、町人女リュドミラ・グロモゾワ、九等文官の子ミトロファン・ニコラエフ、農民女アレクサンドラ・ミハイロワ、町人女サーラ・シュテインマンの事件。

刑事訴訟法第1032条第2項にもとづき、身分代表の参加する拡大構成のサンクト・ペテルブルク控訴院の裁判に付されたのは、次の者である。

I. サンクト・ペテルブルク県ツァールスコエ・セロー郡コルピノ町の町人ミハイル・エフレーモヴィチ・シュテインマン(21歳)、モギリョフ県シクロフ市の町人セルゲイ・ミハイロヴィチ・ロゼノエル(21歳)、七等文官の子で貴族のヴィクトル・エヴゲーニエヴィチ・ラゴージン(21歳)、八等文官の子レオニード・ミハイロヴィチ・ポティリツィン(20歳)、およびヴャトカ県の町人女で家庭教師のリュドミラ・コンスタンチノヴナ・グロモゾワ(22歳)。容疑は次のとおり。上記の者らは、1903年、サンクト・ペテルブルク市において、「ロシア社会民主労働党」を称し、上記の者らもそれと知りながら、多かれ少なかれ遠い将来におけるロシアの現政府の打倒と法に定められた統治形態の変更を目的とする秘密結社に加わった。さらにシュテインマン、ロゼノエル、ラゴージンは、結社のこれらの目的を達成するため、相互の共謀により、その第一の者の住居に秘密印刷所を設け、他の者の助力を得て、そこで「五月のビラ」「労働者のビラ」「ロストフ・ナ・ドヌー」その他の表題の印刷されたアピール数千部を複製した。これらの著作においては、最高権力に対する反乱への直接かつ明白な煽動はないものの、その権利の不可侵性が争われ、国法に定められた統治形態が不遜にも非難されている。そして上記の者らは、他の者を介してこれらの檄文を首都の住民のあいだに配布した。ポティリツィンとグロモゾワは、上記のアピールを配布したという容疑である。

II. ノヴゴロド県ヴァルダイ郡ホチロフスカヤ郷ボリソワ村の農民女アレクサンドラ・イワノヴナ・ミハイロワ(17歳)。容疑は、同じころ、上記の結社には加わらず、またシュテインマン、ロゼノエル、ラゴージンがそれに属していることも知らずに、彼らの設けた秘密印刷所で、本人の知る上記の犯罪的傾向のアピールの印刷に彼らとともに加わり、そのうえそこに述べられた犯罪的見解を広めるために、これらの出版物を他の者のもとへ運んだというものである。

III. 九等文官の子ミトロファン・アレクサンドロヴィチ・ニコラエフ(19歳)。容疑は、同じころ同じ場所で、上記の印刷所で印刷された上述の反政府的傾向の著作を所持し、結社の犯罪的目的を実現するために、それを工場住民のあいだに配布したというものである。

そしてIV. ヴィテブスク県ドヴィンスク郡ヴィシキ町の町人女サーラ・モルドゥホーヴナ・シュテインマン(41歳)。容疑は、同じころ同じ場所で、同じ秘密印刷所で印刷された上記のアピールの製作に直接加わらず、また被告ロゼノエルとラゴージンが秘密結社に属していることも知らなかったが、彼らおよび被告ミハイロワが秘密印刷所で上記の反政府的内容の著作を製作していることを知りながら、そのことを政府に届け出ることができたにもかかわらず、届け出なかったというものである。

本件の公判審理において、被告シュテインマンは、上記結社への所属および犯罪的出版物の配布については有罪を認めなかったが、その印刷のための秘密印刷所の設置については有罪を認め、また他の者が彼の承知のうえで印刷済みの出版物を配布のために印刷所から運び出したことも否定しなかった。そして最終陳述においてシュテインマンは、自分は信念による社会民主主義者であり、個別にはいかなる秘密結社にも属していないが、自分を世界社会民主労働党の一員と考えており、その党の思想を広め、第四身分の利益を守るために、同党のさまざまな組織のアピールや著作の印刷を引き受けたのだと説明した。

被告ロゼノエルは、当初は自らに帰せられた犯罪について有罪を全面的に否認したが、最終陳述において、自分は現体制との闘争、とりわけこの体制を支えるロシアの専制との闘争を課題とするロシア社会民主労働党の党員であり、その闘争の主たる武器は、プロレタリアートにその被抑圧の境遇と、政治的影響力と自由を得るために組織する必要とを明らかにする印刷された言葉であるから、自分ロゼノエルは、これらの目的を達成するために、シュテインマンの住居での秘密印刷所の設置にも、自分に帰せられたとおり加わったのだと認めた。

被告ラゴージンは、社会民主主義結社への所属についても、秘密印刷所の設置へのいかなる関与についても、また革命的出版物の印刷と配布についても、有罪を認めなかった。

被告ポティリツィンは、当初は秘密反政府結社への所属について有罪を認めず、自分は社会主義の教えが人民大衆のあいだに広まることに共感していたにすぎないと主張したが、最終陳述において、「自分はロシア社会民主労働党の党員であり、社会的抑圧の影響のもとで革命家になった」と述べ、ロシアの現在の統治形態は人民の切実な要求に合致しないという確信に達した、専制的統治形態のもとではプロレタリアートは社会体制の変更を勝ち取ることができないので、その当面の目的は政治的自由の獲得でなければならず、現状においては秘密印刷所の設置、「ビラ」「檄文」の印刷と人民への配布が党の主たる武器である、と述べた。

被告グロモゾワは、自分が「ロシア社会民主労働党の党員」であることを認め、完全に自覚的に同党に加わり、その志向を共有して、同党の出版物を配布することで宣伝に加わったと説明した。政治的抑圧によって支えられたロシアの現在の社会体制がまったく用をなさないという確信に達して、被告はただ一つの明るい点、すなわち自らの権利のために闘う労働者階級を見たのであり、それゆえロシアの労働運動の指導者としての上記の党に加わったのだという。

被告ニコラエフは、犯罪的出版物を所持していたことは認めたが、配布を目的としていたのではないとした。社会民主主義の教えへの関心から、届けられたそのような著作をたいていは一部ずつ手元に残しておき、またポティリツィンに頼まれて、印刷所から届けられた大量の革命的アピールの包みを預かり、これらの出版物を労働者のあいだに配るとポティリツィンに約束さえしたが、それはポティリツィンの頼みを断る勇気がなかったからにすぎず、実際には反政府文献に述べられていることの正しさを確信していなかったので、これらの著作を配布するかわりに、ペチカで燃やして処分していた、という。

被告ミハイロワは、当初は秘密印刷所での作業への関与を否認したが、のちに、シュテインマンが印刷機で作業するのを手伝い、彼の指示で、彼の妹たちとともに印刷された著作の包みをさまざまな人のもとへ運んだことを認めたが、これらの出版物の内容は知らなかったとした。ボロゴエで拘束された際に彼女のもとで発見された、上記秘密印刷所で印刷されたビラ11枚は、ボロゴエの親族のもとへ行くときに好奇心から持ってきたもので、まだ読む暇がなかったし、読み書きがあまりできないので、その内容を理解できたかどうか疑わしい、という。

被告サーラ・シュテインマンは、本件については何も知らないと述べた。

被告らの説明、公判審理および当事者の弁論を聴取し、本件のあらゆる事情を検討して審議した結果、特別部は、各被告を個別に有罪とするに足る資料について、以下の結論に達する。

I. ミハイル・シュテインマンについて

1903年4月10日にアプラクシン横町7番地のシュテインマンの住居で行われた捜索の結果によっても、本人の説明によっても、元鉱山大学生シュテインマンが、1903年に上記の住居に、「ロシア社会民主労働党」名義の地下出版物を印刷するための秘密印刷所を設けたことは十分に立証される。この捜索において、シュテインマンの住居からは、手動印刷機(いわゆる「ボストンカ」)、大量の活字、印刷に必要なあらゆる道具のほかに、上記の印刷機ですでに印刷された革命的アピールが合計19,000部以上発見された。そのなかには、労働者に専制の廃止と、国の統治のための全人民からの代表の召集とを要求するよう呼びかける「五月のビラ」13,739部と、「ツァーリの専制打倒!」という叫びで結ばれるアピール「街頭へ」4,717部が含まれていた。印刷された出版物の量そのものが、それらが配布用であったことを示しており、そしてそのような配布が実際に行われたことは、印刷されたアピールが印刷所から運び出されたことを認めたシュテインマン自身の説明、シュテインマンの指示でこの印刷所で印刷された出版物の包みをさまざまな人のもとへ運んだというミハイロワおよびエレーナ・シュテインマンの供述(シュテインマン自身もこれを否定していない)、そして最後に、本件でポティリツィン、グロモゾワ、ニコラエフその他の者のもとで行われた捜索においてこれらの出版物が発見された事実によって証明される。

シュテインマンの住居に設けられた地下印刷所は「ロシア社会民主労働党サンクト・ペテルブルク委員会」に属するものであった。というのは、1)この印刷所で印刷されたアピールの大部分が同委員会名義で出されたものとされており、2)1903年4月29日に出されたヘクトグラフ刷りの告示において「ロシア社会民主党サンクト・ペテルブルク委員会」自身が、同年4月10日に警察によって同委員会の印刷所が押収され、そのため「広範な労働者大衆に働きかける可能性が狭められた」と認めているからである。

シュテインマンが、自宅に地下印刷所を設けて「ロシア社会民主労働党」の出版物を印刷するというきわめて重要な任務を引き受けたこと、同党の傑出した活動家――シュテインマン自身の説明から明らかなように、彼が「カール・セミョーノヴィチ」と呼ぶ人物が疑いなくそれであり、彼から印刷所の設置に必要なかなり多額の資金を受け取っていた――と直接の関係を持っていたこと、そして最後に、世界社会民主労働党への所属をシュテインマン自身が認めたことは、彼自身も事実上、「ロシア社会民主労働党」を称し、自らを「プロレタリアートの世界的軍勢の一部隊」(ロシア社会民主労働党綱領草案)とみなす、より緊密な犯罪結社の一員となっていたことに疑いを残さない。

II. ロゼノエルについて

「ロシア社会民主労働党」を称する不法結社へのロゼノエルの所属と、シュテインマンの住居に設けられた印刷所の犯罪的活動への参加は、最終陳述でロゼノエルがきわめて激烈な形で行った自白によって十分に確認されており、この自白は、公判審理ですでに明らかになっていたロゼノエルに関する本件の他の資料を最終的に裏づけた。

証人シキレフスキーの供述から明らかなように、すでに1901年、ロゼノエルと同じ時期にパリにいた同証人は、講義に通っていたロゼノエルが革命家の集会に出入りし、革命運動に強い共感を示していることを確かめる機会があった。最近ペテルブルクにいたロゼノエルは、1902年9月にはラズエズジャヤ通り33番地に居住しており、そこから1903年3月3日にオデッサ市へ転出したことになっている。この時期は、シュテインマンが第9ロジェストヴェンスカヤ通りからアプラクシン横町7番地へ転居し、同時にそこへ印刷機が搬入された時期(1903年3月2日)と一致する。1903年4月10日にシュテインマンの住居で捜索が行われ、地下印刷所が発見された際、同じ住居でロゼノエルも拘束された。彼は当初、名乗ることを拒んだ。しかもそのとき、シュテインマン家の書類のなかから、ロゼノエルの写真とギムナジウム課程修了証明書が見つかったにもかかわらずである。その後彼は、そのときシュテインマンの住居を訪ねたのは初めてで、印刷所とは何の関係もない用件で彼と話すためであり、印刷所の存在さえ知らなかったと主張した。ところが、被告サーラ・シュテインマンおよびミハイロワが予備尋問で行い、起訴状に記載された説明によれば、ロゼノエルはシュテインマンの住居に住み、印刷機の置かれた部屋で寝泊まりし、その印刷機での印刷作業に加わっていた。証人ガーゼ、テル、モスコフスキーの証言によれば、被告ロゼノエルは、1903年2月にグレツの名で、のちに偽造と判明したノヴゴロド県知事のノヴゴロドにおける印刷所開設許可を提示し、倉庫で515ルーブリで印刷機、いわゆる「アメリカンカ」を購入した若い男に「似ている」(同じノヴゴロド県知事の偽の用紙が、とりわけシュテインマンの住居で発見されている)。この印刷機はノヴゴロドへ発送され、そこの鉄道駅で被告シュテインマンが受け取ろうとしたが、シュテインマンが当地当局のしかるべき証明書を提出しなかったために上記の印刷機の引き渡しを拒否されると、その直後にペテルブルクのマルクの倉庫で、マルクの証言によれば被告ロゼノエルの兄アイジク・ロゼノエルに似た身元不明の者が、前記のグレツ名義の同じ証明書を提示して、130ルーブリで「ボストンカ」を購入し、それは1903年3月2日にシュテインマンが新たに借りたアプラクシン横町の住居へ搬入された。1903年4月10日の捜索の際、この住居からは、とりわけ、被告ロゼノエルの手になる、印刷所開設に関する監督局の許可書の書式が発見された。シキレフスキーの供述によれば、この書式は、シキレフスキーが合法的に取得し、ロゼノエルの頼みで参考のために一時貸し与えた証明書から、ロゼノエルが書き写したものである。最後に、チドソンおよびソローミンの供述により、ロゼノエルが1903年1月末、ソローミンの印刷所からの使いと偽って、チドソンにある若い男の肖像の凸版を注文したことが立証された。この凸版は1903年4月10日の捜索でシュテインマンの住居から発見された。この凸版を用いて、シュテインマンの秘密印刷所で印刷されたビラにこの若い男の肖像が複製され、そこでは彼はウィリアムソンと呼ばれ、「挑発者」「裏切り者」と形容されている。シュテインマンの説明によれば、このビラは印刷所から約400部出された(そのうち一部が被告ミハイロワのもとで発見された)。

以上のすべての事情から、特別部は、ロゼノエルが上記の犯罪結社に所属し、シュテインマンの住居における秘密印刷所の設置に加わり、また犯罪的出版物の印刷と配布に加わったことについて、その有罪を完全に確信するに至る。

III. ラゴージンについて

被告ミハイロワは予備尋問においてラゴージンと対面させられた際、彼を、ヴォロノフあるいはザゴロドヌイの名で、彼女のいるところで2、3度、シュテインマンまたはロゼノエルを彼らの設けた印刷所に訪ねてきた人物だと認めたが、公判審理での尋問においてミハイロワは、現在ラゴージンをよく見たうえでは、最初の供述の正しさを主張することはできないと説明した。同様に公判審理において、サーラ・シュテインマンも最初のラゴージンの名指しを撤回した。彼女は予備尋問では、写真によって、アプラクシン横町7番地の新しい住居への転居の日に、辻馬車の御者たちやシュテインマン自身とともに印刷機を住居へ運び込んだ男がラゴージンであると認める、と述べていた。

同家の下級屋敷番ヴェネジクトフは公判審理において、被告ラゴージンはシュテインマンの住居を訪れていた「仲間に似ているような気がする」と供述したが、来訪者をよく見ていなかったので断言はできないと付け加えた。ヴェネジクトフによれば、その来訪者は私服の外套を着ていて、小さな顎ひげを生やしていた(ラゴージンは現在ひげがない)。

ただ同家の下級屋敷番クズネツォフだけが、公判審理においても、シュテインマンが同家へ越してきて2日ほどたったころ、ある若い男――予備尋問でも法廷でも現在彼は被告ラゴージンだと認めている――が彼に49号、すなわちシュテインマンの住む住居の番号はどこかと尋ね、しかるべく教えられてそちらへ向かったと主張した。その10日ほどのち、彼クズネツォフは中庭で再び同じ若い男を見た。2回とも男は「黄色い」ボタンの制服の外套を着ており、容貌は(現在)公判審理のときと同じ、すなわちひげがなかったという。シュテインマンをこのように「学生」が訪ねたことを、彼クズネツォフは屋敷番頭のエキーモフに報告したという。しかしこの点について尋ねられたエキーモフは、自分への言及をまったく裏づけなかった。同様に、シュテインマンの住居の捜索を行った警察署長クヴャトコフスキーの問いに対しても、クズネツォフは何者かの学生がシュテインマンを訪ねたことについて何も申し立てておらず、ラゴージンを初めて指し示したのは、1903年9月にこの被告と対面させられたときであった。

ラゴージンのもとでの捜索では、非合法文献の著作も、彼とシュテインマンの住居で発見された印刷所との何らかの関係を示す書簡も、何ひとつ発見されなかった。

セメフスキー教授は、元サンクト・ペテルブルク大学生で現在は教授の養女と結婚している被告ラゴージンを、学問に真剣に打ちこむ若者として、きわめてよく知っていたと証言した。彼セメフスキーの指導のもとで、ラゴージンは国立文書館で研究し、教授の歴史研究のための資料収集を手伝っていた。さらに、生活に困っていたラゴージンは「校正の」私的な稼ぎを探さねばならず、1903年の初めから春にかけては、一部は学問に、一部は日々の暮らしの心配に没頭していたようで、何らかの非合法活動に加わる時間がとてもあったとは思えない、という。1903年4月末、ラゴージンは健康を損ねたため、馬乳酒療法を受けるべく一時ペテルブルクを離れねばならなかった。

以上を検討して、特別部は、公判審理において、被告ラゴージンが1903年3月に2度シュテインマンの住居を訪ねたと断定的に主張しつづけたのは屋敷番クズネツォフだけであり、ラゴージンを有罪とするのに役立ちえたその他の資料はすべて、公判審理で十分に裏づけられなかったと認めた。クズネツォフの供述そのものも、特別部には十分に説得的とは思われない。1903年3月にラゴージンを2度ちらりと見ただけのクズネツォフが、同年9月に初めて対面させられたときに完全に確実に彼を識別できるほど、ラゴージンの容貌が強く記憶に刻まれていたとは考えにくいからである。

これとは別に、たとえラゴージンがシュテインマンの住居を2度訪ねた事実を確定したものと認めたとしても、他の資料が不十分ななかでは、その事情はそれ自体、ラゴージンとシュテインマンとの面識を示しうるにとどまり、ラゴージンの「ロシア社会民主労働党」への所属や、革命的出版物の印刷と配布への関与の証拠とはなりえない。

よって特別部は、ラゴージンに対する上記の起訴事実は証明されていないと認め、本件について証拠不十分により、刑事訴訟法第771条第1項にもとづき無罪とすべきものとした。

IV. ポティリツィンについて

被告ポティリツィン(クロンシタットの海軍工科学校の課程を修了していない)は、特別部に対して行った後述の自身の説明によって、「ロシア社会民主労働党」への所属と、政治的自由の獲得とロシアの現行の統治形態の変更とを目的とする闘争のために団結するよう労働者に呼びかける出版物の配布について、十分に有罪が立証される。

ポティリツィンの自白とは別に、上記の起訴事実は、第一に、1903年4月11日にニコラエフの住居で拘束された際、ポティリツィンの衣服のポケットから上記の内容の出版物が相当量発見された事実、すなわち、ズラトウストの騒擾に関するロシア社会民主労働党サンクト・ペテルブルク委員会のアピール130部、『プロレタリアの祝日』と題する印刷されたパンフレット2部、地下雑誌『イスクラ』2部が発見された事実によって、また第二に、被告ニコラエフの供述から明らかなように、ポティリツィンが彼を説き伏せて、ポティリツィン自身や他の者が届ける上記の傾向の犯罪的出版物を、さらに配布するために自宅に保管する置き場を設けさせたことによって、証明される。

秘密印刷所の設置という上記犯罪結社の活動にポティリツィンがより密接に関わっていたことを示すのは、運搬人ミロノフの証言である。ミロノフは、被告ポティリツィンは、ノヴゴロドへ発送されるはずだった印刷機「アメリカンカ」をペテルブルクで自分に引き渡すよう奔走していた若い男にきわめてよく似ているように思われる、と説明した。

V. グロモゾワについて

前の被告に対する起訴と同様に、被告グロモゾワ(元サンクト・ペテルブルク医科大学聴講生)に対する、上記の犯罪結社への所属と、ロシアの法に定められた統治への非難を含む出版物の配布についての起訴事実は、彼女の自白と、拘束時に彼女のもとで発見された現物によって証明されたものと認められる。1903年4月11日にニコラエフの住居で拘束された被告グロモゾワを捜索したところ、彼女の靴下のなか、上着と上のスカートの下に、パンフレット『蜘蛛と蠅』1,803部が隠されていた。アピールもパンフレットも、ロシア社会民主労働党サンクト・ペテルブルク委員会の印刷所で印刷されたものとされており、万国のプロレタリアに、現存の社会的・政治的体制に対する共同の闘争のために団結するよう呼びかけている。グロモゾワの住居からもいくつかの反政府出版物が発見され、そのなかには『イスクラ』第21号からの抜き刷りで、「サンクト・ペテルブルク委員会印刷所」で印刷された「ロシア社会民主労働党綱領草案」が含まれていた。それによれば、この党は「ツァーリ専制の打倒と、民主的憲法にもとづく共和制によるその置き換えを当面の政治的課題とし」、党の望む政治的・社会的改革の確実な実現は、専制の打倒と、全人民によって自由に選ばれる憲法制定議会の召集によってのみ達成しうるという確信が述べられている。

被告ミハイロワの供述によれば、彼女はシュテインマンの印刷所で印刷されたビラの包みを、とりわけ被告グロモゾワのもとへ、ついで彼女の指示で被告ニコラエフのもとへ運んだ。

VI. ニコラエフについて

鉱山大学生ミトロファン・ニコラエフの住む住居で行われた捜索では、彼のもとから、一部ないし少数部ずつの約50種のさまざまなアピールとビラが発見された。その一部はロシア社会民主労働党サンクト・ペテルブルク委員会印刷所で印刷されたものとされている。さらに、同じ印刷所で印刷された、1903年初めにバトゥーム市とズラトウストで起きた労働者騒擾に関する同委員会のアピール758部(これらの檄文は「専制打倒、ロシア社会民主労働党万歳!」という言葉で結ばれている)と、ズラトウスト官営兵器工場で起きた騒擾に関する同じ地下組織の檄文162部が発見された。

ニコラエフのもとで発見されたアピールとビラが大量であること――公判で確認されたところでは、それらはポティリツィン、グロモゾワ、ミハイロワ、およびシュテインマンの幼い妹たちによって彼のもとへ届けられた――は、これらの出版物がさらに配布する目的でニコラエフのもとへ届けられ、彼に保管のために受け取られたことを示しているが、同時に、ニコラエフが実際にこれらの出版物を配布したことを示す積極的な資料は得られていない。それどころか、ニコラエフの申し立て、すなわち、労働者のあいだでそのビラやアピールを配るという約束を果たすことができないとポティリツィンに打ち明けるのを、見せかけの恥ずかしさから気おくれして、実際にはそれらを燃やしていたという申し立ては、ニコラエフの部屋の暖炉に燃え残った非合法文献の切れ端を見たと証言した証人ニキーチンの供述によって裏づけられる。

よって特別部は、ニコラエフが上記の犯罪的出版物を配布の目的で所持していた事実のみを証明されたものと認める。ただしニコラエフによるこれらの著作の配布は、意図されたものの、実行されなかった。

VII. ミハイロワについて

ミハイロワ自身の説明が、公判審理で確定された事件の事情と一致しており、それによって、ミハイロワがシュテインマンのもとに2週間ほど住み、印刷機での作業に加わり、そのうえシュテインマンの依頼で、彼の妹たち(14歳と13歳)とともに印刷された著作をニコラエフ、グロモゾワその他の人々のもとへ運んだことは確定されたが、印刷所設置の時点でようやく17歳になったばかりで、仕立屋のもとで修業中であり、当時上記シュテインマンの姉妹の年上のほうから読み書きを習っていた農民の娘ミハイロワが、自らの行為の犯罪性を自覚し、自分が印刷し運んだ出版物の内容を理解しえたとは考えにくい。また、ボロゴエで彼女のもとから発見された、シュテインマンの印刷所で印刷されたビラ11枚は、何ら犯罪的目的なしに、ただ好奇心から、両親のもとで暮らしながら暇なときにその内容を知ろうとして持ってきたもので、まだそれもしていなかった、というミハイロワの説明も、特別部には信用に値するものと思われる。

よって、ミハイロワの行為には、彼女の関与のもとで印刷され彼女が運んだ非合法文献の作品の犯罪的性格を知っていたという要件が欠けているので、特別部は、ミハイロワのこれらの行為にはいかなる犯罪の要件もなく、したがって彼女は刑事訴訟法第771条第1項にもとづき無罪とすべきものと認める。

VIII. サーラ・シュテインマンについて

本件において不申告の罪で起訴された被告サーラ・シュテインマンは、公判審理で明らかになったところでは、教養に乏しく、ユダヤ語の読み書きしかできず、ロシア語をよく解さず、もっぱらユダヤの祈祷書を読むことと家事に没頭していた者であり、ミハイロワよりもいっそう、息子や他の者による秘密印刷所の設置の犯罪性と、その印刷所で印刷されていた著作の反政府的性格を自覚しえなかったことは明らかである。よってサーラ・シュテインマンは、その行為に認識の要件が欠けているゆえに無罪とされるべきである。

しかしそれとは別に、サーラ・シュテインマンが問われている不申告の罪において、第三者のほかに彼女の息子ミハイル・シュテインマンが関与しており、この犯罪を申告することは同時に自分の息子を告発することになったのであるから、被告のかかる行為は刑法典第170条第2項により処罰されないものであり、よって特別部は刑事訴訟法第771条第1項にもとづき、サーラ・シュテインマンを提起された起訴事実について無罪と認める。

以上の資料にもとづき、特別部は、被告ミハイル・シュテインマン、セルゲイ(またの名ヤコフ)・ロゼノエル、レオニード・ポティリツィン、リュドミラ・グロモゾワを、起訴状により提起されたすべての起訴事実について有罪と認め、被告ミトロファン・ニコラエフについては、配布の目的で犯罪的出版物を所持したことについてのみ有罪と認め、被告ヴィクトル・ラゴージン、アレクサンドラ・ミハイロワ、サーラ・シュテインマンを無罪と認める。

「ロシア社会民主労働党」を称し、ロシアにおいて基本法により定められた統治形態の変更を目的とする犯罪結社への所属について、シュテインマン、ロゼノエル、ポティリツィン、グロモゾワに対する刑を定めるにあたり、特別部は次のように判断する。この犯罪は1885年の刑罰法典第250条第2部に定められていたが、現在は、国事犯罪について新刑法典が施行されたことにより、同法典第14条にもとづき、この犯罪に対する刑を定めるにあたっては新たに公布された刑法が適用されなければならない。新刑法典によれば、上記の犯罪は第126条第1部に該当し、同条は「国家に現存する社会体制の転覆をその活動の目的とすることを知りつつ結社に参加すること」に対して、8年以下の懲役(カトルガ)または居住流刑を定めている。「ロシア社会民主労働党」のように、ロシアに現存する政治体制の変更を目的とする結社は、疑いなく刑法典第126条第1部に該当させられるべきである。政治体制の変更は社会体制の変更の概念に含まれ、それと最も密接に結びついているからである。この考察は新刑法典編纂委員会の説明書を検討することによっても裏づけられる。それによれば、新法のもとでは、何らかの特定の反乱的あるいは反逆的行為を行うために構成された政治的性格の犯罪結社は刑法典第102条および第118条に属するものとされ、第126条を含む「騒擾について」の章には、将来の国家転覆の準備を目的とする種類の政治結社が残されている。

上記刑法典第126条第1部に定められた刑のうち、特別部は本件の事情により、上記の被告ミハイル・シュテインマン、セルゲイ・ロゼノエル、レオニード・ポティリツィン、リュドミラ・グロモゾワに対しては、刑法典第17条による居住流刑を、第25条による身分上の権利の剥奪とともに、同法典第29〜31条、第34条および第35条による効果を伴って選ぶのが正当であると考える。

ミハイル・シュテインマンとセルゲイ・ロゼノエルによってアプラクシン横町の秘密印刷所で印刷された犯罪的著作は、ロシアにおいて基本法により定められた統治形態への非難を含み、その大部分においてきわめて不遜な形(「専制打倒!」)で表現されているので、その内容を知りつつ、これらの著作を印刷によって複製し配布すること(この罪についてシュテインマンとロゼノエルは有罪を立証された)、およびたとえ配布のみであっても(この罪についてポティリツィンとグロモゾワは有罪を立証された)、それは刑法典第128条に定められている。特別部は、同条に定める刑、すなわち居住流刑を、上記の被告ミハイル・シュテインマン、セルゲイ(またの名ヤコフ)・ロゼノエル、レオニード・ポティリツィン、リュドミラ・グロモゾワに、身分上の権利の剥奪および同法典第29〜31条、第34条、第35条による上記の効果を伴って科すこととし、同法典第60条にもとづき、刑法典第126条第1部により科された刑との併合においても同じ刑を定め、1904年8月11日の至仁なる詔書第19条第17項および第29条に定める恩典を適用する。

被告ミトロファン・ニコラエフが立証された犯罪、すなわち、ロシアにおいて基本法により定められた統治形態を不遜に非難する著作を、その内容を知りつつ、配布する目的で所持したこと(ただしニコラエフによる配布は行われなかった)は、刑法典第132条第2項に定められており、それに対する最高刑は3年以下の要塞禁錮(権利剥奪なし)である。

事件の事情により、刑法典第53条に従い、特別部はニコラエフに対する通常の刑として1年半の要塞禁錮を選ぶのが正当と認め、ニコラエフが未成年であることにかんがみ、刑法典第57条にもとづきこの刑を3分の1減じ、すなわち1年と定める。しかし1904年8月11日の至仁なる詔書第9条第20項および第9条第10項第1号により、被告ミトロファン・ニコラエフは上記の刑を免除されなければならない。

以上のすべてにかんがみ、訴訟費用については刑事訴訟法第976〜999条および第1057条に、証拠物件については刑法典第36条および第38条に従い、身分代表の参加するサンクト・ペテルブルク控訴院特別部は次のとおり決定する。1)刑法典第126条第1部、第14条、第128条、第60条、第17条にもとづき、町人ミハイル・エフレーモヴィチ・シュテインマン(21歳)、セルゲイ(またの名ヤコフ)・ミハイロヴィチ・ロゼノエル(21歳)、八等文官の子レオニード・ミハイロヴィチ・ポティリツィン(20歳)、町人女リュドミラ・コンスタンチノヴナ・グロモゾワ(23歳)を、一切の身分上の権利を剥奪したうえで居住流刑に処し、刑法典第29〜31条、第34条、第35条による効果を伴い、1904年8月11日の至仁なる詔書第9条第20項および第9条第10項第17号を適用する。2)刑法典第132条第2項、第19条、第53条、第57条にもとづき、九等文官の子ミトロファン・アレクサンドロヴィチ・ニコラエフ(19歳)を1年の要塞禁錮に処するが、1904年8月11日の至仁なる詔書第9条第10項第1号および第9条第20項によりこの刑を免除する。3)刑事訴訟法第771条第1項にもとづき、貴族ヴィクトル・エヴゲーニエヴィチ・ラゴージン(21歳)、農民女アレクサンドラ・ミハイロワ(17歳)、町人女サーラ・モルドゥホーヴナ・シュテインマン(41歳)を無罪と認める。4)本件の訴訟費用は、刑事訴訟法第976〜999条および第1057条にもとづき、有罪とされた被告シュテインマン、ロゼノエル、ポティリツィン、グロモゾワに等分して負担させ、全員が支払不能の場合には国庫の負担とする。5)本件記録に付された特別目録に列挙された証拠物件は、刑法典第36条の規則に従って処理する。

付録2 トランプ工場の檄文

労働者階級解放闘争同盟

ロシア社会民主労働党サンクト・ペテルブルク委員会

トランプ工場から

うちのトランプ工場では労働者がひどくいじめられている。働くのがつらくなるような、とんでもない規則が布告される。うちの「お人よし」の工場長アヴァクーモフ将軍は、短いあいだにじつにたくさんの新しい規則を布告した。年に6回遅刻した者は解雇。番号札を家に忘れたら、1回目は許すが、2回目は罰金、3回目は解雇。袖の広いブラウスを着て仕事に来た者には罰金。無断で年に3回家にいた者も解雇、なのに休みを願い出に行っても許してくれない。グロス(束)のなかに抜けたカードが見つかれば、3ルーブリの罰金に解雇のおまけつきだ。病気で入院しなければならない者は、まず職長のところへ行って「病院券」をもらい、次に入場札をもらって、それからやっと病院へ行ける。医者が薬を処方したら、またその書きつけを監督のところへ持っていってスタンプを押してもらわなければならず、そうしてようやく夕方6時に薬がもらえる。監督がいなければ守衛のところへ行け、守衛がいなければ翌日の12時まで待て。夜中に病気になって朝ベッドから起き上がれない者は、四つん這いになってでも工場へ入場札を取りに這っていけ、さもないと病院は受けつけない。祝日に病気になっても入場札がなければ病院は受けつけず、こう言われる。「工場長がな、入場札なしで受けつけちゃならんと言ったんだ。いつ病気になるかは自分で心得て、祝日の前の日に入場札をもらっておかなきゃいかん」。祝日には薬ももらえない。もらえるのは月曜の12時だ。家族の誰か――兄弟、姉妹、妻、母――が病気になれば、薬は自腹で買え。以前は、1か月かそれ以上入院してから仕事に戻った者には手当が出たが、今は出ない。工場の守衛の境遇もうらやましいものではない。工場で6時まで働いたあと、同じ18ルーブリでさらに2時間当直に立たなければならない。うちの「お人よし」の、いや、むしろ「人でなし」の工場長は、それでも満足しない。そのうえ同じ守衛たちに自分の家の用事までさせるのだ。たとえば「苔を取ってこい」(5、6露里も先まで)とか、「祝日に溝を掘れ」とかいった具合だ。

そう、このお人よしの工場長のやり口はたくさんあって、胸を痛めずにすべてを数え上げることはできない。だが、わが工場当局のそのほかのやり方については、次の機会に話そう。今はこれで、友よ、この拙い一文を終える。胸は痛みにしめつけられ、頭は鉛でも詰まったようだ。トランプ工場の労働者がこうむっているあらゆる仕打ち、あらゆる恐ろしさは、胸を痛めずには伝えがたい。だが、その責任は私たち自身にある。こんなにもひどく自分たちをなぶりものにさせているのだから(注)。

労働者組織委員会印刷所

(注)アプラクシンの印刷所で印刷された最初の檄文の一つ。E. Sh.

第10章 訳注

  1. 本章の題は目次では「ロシア社会民主労働党ペテルブルク委員会の印刷所 1903年」だが、本文冒頭の題の下には「1905 г.」と読める。テキスト層の読み取り誤りか誤植と思われ、内容から1903年とした。
  2. 細部で第9章ロゼノエルの回想と食い違う点がある。摘発時に鳴ったのを、ロゼノエルは「呼び鈴」とし、シュテインマンは「呼び鈴はなかった」「ノック」としている。公判の日付も、ロゼノエルは9月22〜24日、シュテインマンは9月20日、判決文は9月20〜22日としている。弁護人の名も、ロゼノエルはL. A. バズノフを、シュテインマンはミロノフを挙げている。いずれも原文どおりとした。
  3. シュテインマンは自分を「14歳の少女」としながら、「ギムナジウムの最上級の一つ手前の生徒」とも書き、また別の箇所では「5年生」としている。判決文は姉妹の年齢を14歳と13歳とする。原文どおりとした。
  4. 『ラボーチャヤ・ムイスリ』(労働者思想)は「経済主義」派の新聞で、『イスクラ』と対立していた。両紙をともに読んでいたという記述は、当時の地下青年たちの状況を示している。
  5. 判決文の年齢表記には揺れがある(グロモゾワは冒頭で22歳、主文で23歳)。条文番号も、テキスト層では「第120条」と読める箇所があるが、文脈から第126条とした。詔書の条項番号(第9条第20項など)は、テキスト層の「XX, IX」「X, IX」の読みにもとづく推定である。
  6. 「カール・セミョーノヴィチ」は判決文に出てくる呼び名で、本文からは誰を指すのか特定できない。
  7. 付録2の檄文に見える「グロス」はトランプの数量単位(12ダース=144組)と思われる。「露里」(ヴェルスタ)は約1.07km。
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