第7章 P. レペシンスキー「安くて手堅く」

(1895年にペテルブルクの革命家に仕えたミメオグラフ)

1894〜1895年のペテルブルク労働者階級解放闘争同盟についての一連の回想の著者の誰か(たしか Z. P. ネヴゾロワ)がこう嘆いている。革命闘争のこの繁忙期、ペテルブルクの労働者のあいだにストライキのスローガンを広めるための檄の必要がとりわけ痛切に感じられ、社会民主主義の地下活動では印刷技術の問題の一刻も早い解決が求められていたのに、この点ではなんの明るい見通しもなかった、と。たとえば、工場でストライキを呼びかける、ひどく急を要する重要な檄でさえ、手書きの4〜5部を配るだけで満足しなければならなかった。

実際、1895年に V. I. ウリヤーノフのまわりに結集した、ペテルブルクで最初に形を整えた社会民主主義組織の事件に目を通すと、まず驚かされるのは、印刷技術の点での並外れた貧しさである。それは、知的な力に富んだこのサークルの、集中的な煽動活動の規模を、たえず宿命的に限っていた。檄や煽動用の小冊子の文章を見事に書ける人はいる(ウラジーミル・イリイチ自身が喜んでそれを引き受けたときには、これ以上のことはない!)。だがその文章を複製するための印刷所も、まともな設備のヘクトグラフさえも手元にないのだ。たしかに、A. A. エルギン同志やほかの何人かの人民の意志派を通じて、ラフタにある人民の意志派の印刷所を利用することはできただろう。だがその印刷所は自分たちのものではなく、社会民主主義者の利益にはついでに仕えることができるだけだった。その印刷所の仕事は遅く、主として「重厚な」革命文献(たとえばハウプトマンの『織工』や『飢饉王』のような小冊子)の出版に向けられていて、社会民主主義組織の要請にすばやく応えること、つまりビラや檄、その他この種のその場かぎりの季節的な非合法物を出すことにはまったく向いていなかった。だからこそ、手書きの数部で満足しなければならないことが、ひどく多かったのだ。

ところが一方で、ペテルブルクの社会民主主義組織の「一掃」の時機を劇的に準備し、1895年12月8日から9日にかけての夜にペテルブルクの地下活動全体を揺さぶった憲兵たちは(逮捕され取り調べにかけられた88人に関する大事件がつくられた)、この組織にも印刷の拠点があることをうまく見つけ出した。こうして彼らの描いた絵には穴がなかった。組織の大物の首領たちも、労働者を革命の道に引き入れたサークルも、宣伝員や煽動員の大軍も、そして仕上げに自前の地下印刷工房まである。ひとことで言えば、完全に自己形成を遂げた「犯罪結社」の伝統的な徴候がすべてそろっていたのだ。

社会民主主義文献の印刷という機能を担う責任者として、憲兵の取り調べが認定したのは私だった。

その12月8日から9日にかけての夜、私は私で、自分の部屋に思いがけない招かれざる客を迎える光栄に浴した。警官、密偵、屋敷番、立会人……。私はちょうど、赤十字の報告書を自分のミメオグラフで刷り終え、試しに、ユダヤ人労働者のヴィルナでのストライキ(たしかエーデルシュテイン工場での)についての小冊子の文章を何枚か刷ったところだった。この仕事を終えて、床に入って労苦を癒そうとしたそのとき、突然鈴が鋭く鳴った。あの「夕べの鐘」、「あまたの思いをそそる」あの「夕べの鐘」が、私の考えをまったく別の方向へ向け、そもそも私の人生の新しい一章の出発点となったのだ。

すばしこい密偵たちの、どこでも探り回る目と手は、まもなく私に不利な「物証」をすべて探り当てた。非合法文献のしまい場所、半連のミメオグラフ用紙、ミメオグラフで刷るための道具一式、以前私の印刷用ローラーから生まれた檄の何枚か、刷りたての赤十字の報告書の束などである。

これこそ、地下から引きずり出された「犯罪結社」の、探し求められていた出版拠点であることは明らかだった。

私のところで見つかった「物証」はすべて、ほかならぬ私自身のトランクに入念に詰められ、私自身と、私と一緒に逮捕された同居人(公式には「家主」)S. S. グリャニツキーは、別々の辻馬車で保安部へ、それから未決拘置所へ連れていかれた。

だが憲兵たちは、社会民主主義組織が自由に使える、秘密の社会民主主義文献印刷のきわめて重要な場所をつきとめたと考えたのは、大きな思い違いだった。たしかに、私の仕事の秘密を知る何人かの友人を通じて、私はときどき、知らないところから「外部の」注文を受け、それを自発的にこなしていた。だが私の「工房」のこうした利用はまったくの偶然によるもので、自分の責任と危険で動く、まったく独自の地下事業というその性格を損なうものでは決してなかった。

ここで述べている時期、私はまだ人民の意志派の周辺に関わっていた。逮捕されるわずか1年前にペテルブルクの労働者のあいだでの実践活動に加わったばかりで、何かの組織の名においてではなく、一匠人として、いやむしろ、独立した小さなグループの小さな中心として活動していたのだ。

私のところで見つかった、私のミメオグラフで刷られ、私自身の文章上の発意によって生まれた檄の何部かは、純粋に人民の意志派的な反乱主義の痕跡をあまりにあらわにとどめていたので、憲兵たちさえ当惑させたほどだった。そのため彼らは、こんな仮説を立てなければならなかった。いわく、「社会民主主義者自身が、その綱領の煽動活動を貫きとおせず、もっぱら経済的な地盤の上で雇い主との闘争へと労働者を煽動することによって労働者を政治運動へと準備するかわりに、最高権力に対して労働者を煽り立てることから始めていた」と。

「1894〜1895年における、自ら社会民主主義者と称する者の犯罪的サークルの発生について」の事件に関する憲兵の報告から引用。

この考えの証拠として、憲兵の取り調べは、私の檄「われらが帝室の繁栄」をことのほか熱心に持ち出している。

この檄の由来はこうだ。大公女のひとり(たしかオリガ)が生まれたあと、新生児の幸せな父親は、忠実な臣民にこの喜ばしい出来事を厳かな詔書で知らせようと急いだのだ。

この文書に対する私の反乱的な抗議の感情は、何かのはけ口を求めた。「なんという厚かましさだ、こんちくしょう。どこかの知的にも道徳的にも肉体的にも取るに足らない者が、こともなく自分と同類をこしらえることができたというので、ロシアの民衆じゅうが有頂天の忘我状態になっていると想像するとは……」と私は思った。

そこで私は、国家の歳入歳出の詳細な見積もりを載せた大蔵省のできたての報告書を手に入れ(いわゆる「国債償還委員会」の役人だった私には、それは難しいことではなかった)、そこから帝室費の項目についてのデータをすべて拾い出した。色鮮やかな実例がそろった。ツァーリの基本の歳費は1200万ルーブリという数字で表されている。そのほかにも、あらゆる出来事、たとえば広大な皇族の娘たちの嫁入りなどについて、ロシアの国庫はその「喜ばしい」出来事に、ときには100万ルーブリ、ときにはそれ以上という相応の額を支払っている。そこにはまた、ニコライ二世自身の裁量による(何やら謎めいた必要、「皇帝陛下個人には既知の」必要のための)同じ国庫からの支出の指示がいくつもある。等々、等々。そしてこれはすべて、ツァーリがアルタイその他あらゆる領地から得ている巨額の収入や、イギリスの銀行の当座預金にある十億にもなろうという預金とは別なのだ。

言うまでもなく、私の目は輝き、腕がうずうずした。「われらが帝室の繁栄」というほやほやの事実を、民衆の血と汗で評価するには、材料はすっかりそろっていたからだ。私はすばやく檄を書き上げ、ついでにそれに、詩としての価値よりもむしろ調子の勇ましさが特徴の、自作の詩を添えた。それはこう結ばれていた。

ああ、もうすぐか、その堅い手で おまえ(つまり民衆)がこの悪を根こそぎ抜き取り    (つまり専制を) ただ誇らしげな苦笑いを浮かべてこう言うのは―― 過ぎたことは、もう草に埋もれたのだ!……

この檄には、社会民主主義的なまじめさと表現の抑制がほとんどなく、品の悪い反乱的な言い回しばかりが多かったことは、まったくもってもっともだ。だがこのことは、もっぱら檄の作者の個人的な個性に帰すべきものだったのだ。作者は、どんな組織の枠にもとらわれず、まったく独立して「自由な芸術家」として行動していたのである。それは、検察当局が考えたような、あるいは考えたかったのかもしれないような、煽動活動の基本的な調子を貫きとおせないという社会民主主義者の立場のぐらつきに帰すべきものでは決してなかった。検察当局は、自らの創造的な努力でつくり上げた大きな絵に、巨大な革命組織の独立した印刷拠点というこれほど重要な小道具が欠けているなどとは、考えもしなかったのだ。

ところが、今振り返ってみると、残念ながら次の事実を認めるほかない。地下活動の条件のために、社会民主主義者たち、そして V. I. ウリヤーノフのサークルも、私のつつましい印刷の企てを知ることができなかったのだ。まったくためらうことなく断言させてもらうが、私の「工房」は印刷技術の分野で巨大な前進を成し遂げていたのであり、それは当時、社会民主主義者の活動全体にきわめて良い影響を与えたかもしれないのだ。

この前進は、私の発意と私の勧めによって、そして、言ってよければ、一種独特なロシアのエジソン(ボンチ=ブルエーヴィチ同志が、その興味深い小文「ロシア最初のミメオグラフについて」で故ラージンをそう呼んだように)である、工科大学生ステパン・ステパノヴィチ・グリャニツキーによって、成し遂げられた。彼の発明の才は、世界でいちばん安上がりで、家庭の手段でつくれる(これは秘密保持のためにきわめて重要だった)ミメオグラフをつくるために、見事に働いた。残念ながら、われわれはこの発明を、そのころほかの革命世代に譲り渡すことができなかった。私もグリャニツキーも、そしてわれわれの印刷実験室に近かったロマネンコとアントゥシェフスキーも、同時に逮捕され、長いあいだ世間から引き離されたからである。

だが、われわれの印刷装置の発明に関する S. S. グリャニツキーの一連のうまい工夫についてここで語る前に、発明者本人についてよい言葉を述べさせてもらいたい。

ステパーシカ・グリャニツキーは、水晶のように正直で子どものように清らかな魂を持ち、控えめで落ち着きがあり、ユーモアも解する、気のいいウクライナ人で、若い世代の一種の代表者たちのひとりだった。周囲の社会生活のいたるところに見られる警察の野蛮な専横と暴力に対して革命的な抗議の感情がたぎっているが、最終的な政治的自己規定には傾かず、革命の隊列で第一ヴァイオリンを弾く責任ある役割からは身を避ける、そういう人たちである。ひとことで言えば、もっとも典型的な「同伴者」だった。彼はまさにそういう人として私に推薦され、私はすぐに、彼のうちに、生活のための苦しい闘い(彼は妻と子どもの食い扶持を稼がなければならなかった)にもかかわらず、私の見通しに喜んで応じ、当時の私の革命的・冒険的な企てを実行するうえで補助的な役割を果たすことに全面的に同意してくれる人物を見いだした。彼にとっては、私が何者か、社会民主主義者か人民の意志派かを知ることは重要ではなかった。私が、警察の悪徳と人間の人格への暴力に満ちたこの残酷な世界に抗議し、それを受け入れず、何千万という勤労民衆を搾取する一握りの寄生虫どもに反抗する者たちのひとりであるということだけで、彼はすっかり満足していたのだ。私はオブヴォドヌイ運河の近くの労働者街のどこかで彼の住まいに身を寄せたが、その住まいのせいで、数えきれないほどの嫌な虫のおかげで、何夜も眠れない夜を過ごした。その後、彼と一緒にトルゴヴァヤ通りにこぎれいな住まいを見つけてそこへ移り、彼と妻が私の「家主」、私が彼らの「下宿人」ということになった。

彼は、私が与えた課題に誠実に取り組んだ。その結果は、世の常で、家宅捜索、逮捕、監獄、そして公然たる監視つきの追放だった。その後の彼の履歴として、約20年前に彼を見失って以来はじめて届いた、1914年4月24日付の私宛ての彼自身の手紙から抜粋を引いておこう。

「トルゴヴァヤ通りからシュパレルナヤ通り(つまり未決拘置所。P. L.)へ曲がって、私は『農業研究のため』ポドリヤ県へ『派遣』され(グリャニツキーは、農業を営む父親の保証のもとに引き渡された。P. L.)、そこで Z. V.(グリャニツキーの妻ジナイダ・ワシーリエヴナ。P. L.)と一緒に、およそ3年ほどそれに取り組みました。それからハリコフに移り、そこで大学を卒業して、ブリャンスクで数年勤めました。それからアメリカへ飛び出し、そこでおよそ2年、ぶらぶらしたり工場で働いたりしました。もしここから(つまりロシアから)妻を連れ出せていたら、たぶんあと数年はそこにいたでしょう。いくつかの点ではよい国ですからね!でも、ああ、それはかないませんでした。いとしい故郷へ戻ってからは、ペテルブルクの工場で勤め、一時は発明に打ち込んでいました。そして今は、ソルモヴォ工場で暮らして3年目になり、そこであらゆる組織上の問題に携わっています(皆の耳にたこができているあの悪名高い『テイラー主義』を私が植えつけているなどとは思わないでください)」

S. S. グリャニツキーは、発明の創造にかけては実際にとても才能のある人間だった。私は今もなお、彼の発見的な天才に敬意をこめた驚きの念を抱いている。

あるとき、当時新しかったミメオグラフの構想を利用する方法を見つけるという問題がわれわれの前に大きく立ちはだかると、ステパーシカ・グリャニツキーはこの問題に飛びついた。そして彼は、問題をいくつかの要素に分けて、次のようにこれを解決した。

  1. 型紙の上を転がすための印刷用ローラーをどう手に入れるか。 ふつうのゴムのローラーはとても高価で、何より印刷用品のひとつとして店で買わねばならず、疑いを招く危険がある。いくらか考えた末、グリャニツキーは、彼が経験的にたどり着いた一定の重量比で寒天(海藻のような植物)からつくるヘクトグラフ版の材料を使うという考えに落ち着いた。たしか、私の記憶違いでなければ、水1フントに対してグリセリン1/2フントと寒天1/10フントだったと思う。これをすべて温めると均一な液体になり、それを型に流し込んで固めた。その結果、密度も弾力も強度もまさにぴったりの材料ができ、われわれのローラーは非の打ちどころのないものになった。ローラーのほかの部分、つまり材料が軸のまわりで滑らないように縦の板をハンダ付けした金属の軸と、曲げた端を輪にしてローラーの軸の両端をつかむようにした太い針金の取っ手をつくるのは、比較的簡単なことだった。
  2. 型紙に使うミメオグラフ用紙の製作は、はるかに難しい問題だった。 ふつうこういう場合には、豪華な菓子の入れ物を包むのに使われる中国紙のような、軟らかい薄紙に蝋を引いた何かを使っていたが、われわれにはまったく手が届かなかった。なんとしても、この種のミメオグラフ用紙の代用品を考え出さなければならない。グリャニツキーは、蝋を引いた巻紙用の紙でも同じ役目をうまく果たせるのではないかと考えた。何で蝋を引くのか?パラフィンかステアリンのようなもので。そしてまたもやわれわれの「実験室」は、さまざまな種類の巻紙用の紙と、蝋引きのためのさまざまな材料を使った一連の実験でいっぱいになった。この実験はついに、小さな穴がないほどには密で、同時に書きの刃の力にたやすく応じるほどには薄い、ある種の紙に、私の記憶が正しければパラフィンと鯨蝋とステアリンを等しい割合で混ぜたものを片面に薄く塗れば、ミメオグラフに見事に使える、というところに落ち着いた。難しいのは、この混合物を均一な層に塗ることだけだった。余分に重なると、紙は使い物にならなかったのだ。そこで発明者は次の課題に取り組んだ。
  3. よい蝋引き紙を大量につくるにはどうすればよいか。 われわれの「エジソン」が、混合物の余分な重なりを削り取るためにナイフという原始的な道具で作業していたとき、彼の頭にうまい考えが浮かんだ。十分な長さの半円筒形のブリキの小さな桶をつくり、下から小さな石油ランプで温めて、パラフィンその他の混合物の材料をいくらでも長く液体のまま保つのである。蝋引きを施す巻紙用の紙は、桶の長い軸のまわりを回る針金の枠で紙を押さえて、液体の温かい混合物の表面に触れさせ、引き抜くときに桶の鋭くまっすぐな縁に押し当てられる。この縁が、紙についた液体の層を自動的に均し、十分に薄くしてくれた。こうして、品質のよいミメオグラフ用紙を、しかもあまりにすばやく得ることができたので、1時間足らずで、大判の巻紙用の紙を半連、蝋引きすることができた。その前に、刃で書くときの目安にするため、同じミメオグラフで罫線を刷っておいたのである。
  4. ミメオグラフ用の鉄筆の問題は、非常に重要な問題だった。 当時売られていた鉄筆は、先端に小さな歯車が回る金属の棒で、書くとミメオグラフ用紙に小さな穴の連続した列を残すものだった。そういう鉄筆をつくることは、必要な道具がなければグリャニツキー自身にも手に余り、店で買うことは秘密保持の規則に反しただろう。だがここでもまた、発明者の天才的な頭に生まれたうまい考えが登場する。実際、なぜ切る役を果たすのは、必ず手に持った書き道具でなければならないのか。その道具が押しつける台のほうでもよいではないか。作用は反作用に等しいのだから……。そこでステパーシカは金物屋からヤスリを何本か試しに買ってきた。書き道具は、細いが滑らかに磨いた先端を持つ、よく焼き入れしたふつうの鋼の棒である。実験はすばらしい結果を出した。求める目的には、1センチあたり60以上80以下の目を切ったヤスリが合うことがわかったのだ。
  5. 文字を切り抜いた型紙を張るための枠を考え出すのは、もう難しくなかった。 それはわれわれのところでは、内側を切り抜いたただの厚紙の切れ端だった。枠の上に型紙を重ね、その縁の下にステアリンを削ったくずを撒き、それからその縁をランプで温めたナイフで押し当てた。この簡単な操作で、型紙は十分な張りをもって枠に取りつけられた。
  6. 印刷の工程そのものは次のように行われた。 型紙を張った枠の一辺を、その二つの角で画鋲で机に留める。反対側の辺の真ん中から天井へひもを張り、それを滑車(たとえば糸巻き)にかけて床へ下ろし、端を靴のつま先に結びつけて、ピアノを弾くときにペダルを周期的に踏むようにつま先を動かせば、枠の自由な端を思いのままに持ち上げたり下ろしたりできるようにした。こうして、右手にローラーを持ち、左手で枠の下に白紙を差し入れては刷り上がった紙を押し出し、靴のつま先の上下の動きで型紙の枠を上げ下げするひとりの人間が、印刷のさいにまったく自由に他人の助けなしでやっていけた(このことはのちに取り調べで、私は印刷の仕事を秘密裏にひとりで行い、共犯者はいなかったと主張するうえで、確かな足場となった)。この印刷の工程は、ミメオグラフの輪転機で働くどんな技術者も羨むほどの速さで進んだ。印刷インクは、たとえば蝋引きの紙の切れ端の上にというように、印刷する者のすぐ手元に置いておかなければならない。作業する者が型紙の上にローラーを転がす前に、まずインクのついたその紙の切れ端の上でローラーを転がせるようにである。そのさいインクの状態に気を配る必要がある。インクが濃すぎて型紙の穴を通りにくい場合には、乾性油をいくらか加えなければならない。

インクそのものの入手について言えば、ステパーシカ・グリャニツキーの発明の才に富んだ頭なら、ここでも、この重要な品を家庭の手段で、簡単に、安く、十分に満足できるようにつくる方法を見つけたかもしれない。だが私は待ちきれず、どこかの地方のゼムストヴォの参事会の偽の書類(「照会状」)で、印刷インクを少し手に入れてしまった。こうして、この件では危険を冒さずに行動するというわれわれの共通の原則を破ったのだ。

われわれのミメオグラフでは、すり減った型紙を新しいものに取り替えることなく、何百枚ものよい刷りを得ることができた。

この企て全体は、「万人共通の等価物」で言えばいくらについたのか?インク、ヤスリ、ローラーの材料、巻紙用の紙、それに蝋引きのための材料をあわせて、ミメオグラフの製作にかかった費用の総額は、3ルーブリと何コペイカかという数字で表された……。これこそまさに、安くて手堅く、である。

25年以上も前にこしらえたわれわれの地下印刷装置の設備の仕方をここでこれほど詳しく述べたのは、ちなみに、印刷の愛好家の誰かが私のつつましい小文を読んで、たとえばわがソヴィエト共和国の事務上の必要のためだけでも、同じように原始的だが印刷の目的には十分使えるミメオグラフの代用品をつくる実験をふたたび始めてみようと思うかもしれないという、自らへの期待からである。

P. レペシンスキー

第7章 訳注

  1. 題:原題 «И дешево, и сердито» は「安くてしかもよい(実用的だ)」という意味の慣用句。
  2. レペシンスキー:P. N. レペシンスキー(1868〜1944)。第1分冊での党名「オリン」。
  3. 「夕べの鐘」:ロシアでよく知られた歌の題名をもじった表現。
  4. 自作の詩:著者が本文で引いた自作の四行を直訳した。括弧内の注記は原文のまま。
  5. 技術的記述:謄写版の自作に関する本文の記述は原文どおり訳し、補足はしていない。数値は著者自身が「記憶違いでなければ」と断っている。
  6. 単位:フントは約410g。
  7. P. L.:引用中の括弧内はレペシンスキー(P. L.)による注記。
  8. 「同伴者」:ポパーチク(попутчик)。革命に共感しながら党には入らない人。
目次