1905〜1907年のチュメニ市における労働者革命運動の回想

A. M. バトルギン


1905年と1906年のチュメニにおける労働運動の概観を印刷するにあたり、この運動が展開した、さまざまな生産部門・事業所の労働者の人数を示しておく必要がある。

1905年当時、チュメニには次のような工業事業所があった。マシャロフの鋳鉄工場は、常用労働者およそ400人で、鋳造、釘、機械の3職場に分かれていた。ムィソフの造船工場(ヤテス社)は、労働者1000人以上を抱え、機械、旋盤、鋳造、ボイラー、木工・塗装の各職場に分かれていた。ヴォトキンスク工場の造船所は、労働者300人ほど。チュメニ入江のプロトニコフ、コルニロフ、西シベリア汽船会社、およびイルトゥイシ水路局の船舶修理工場は、あわせて労働者1000人ほど。クルティシェフとコテリニコフの機械工場は、労働者100人ほど。ロギノフのマッチ工場は、400人ほど。コルモゴロフ、プリシキン、レシェトニコフらの、それに数か所の小規模な製革工場は、あわせて300人ほど。オギベニンのトランク製造は、300人ほど。コヴァレンコフ、ロマシェフ、セリャンキン、プロルヴィン、アガフォンツェフの製材工場、および市参事会の製材工場は、150人ほど。テクチエフの製粉所は、70人ほど。そのほか小規模な事業所がある。これに加えて、鉄道労働者が500人ほどいた。

これら労働者全体のうち、純粋なプロレタリアートは25パーセントほどで、75パーセントは、手工業や農業経営と結びついた半プロレタリアートだった。

こうして、チュメニに定住して雇われ働いていた労働者は、全部で4500人以上にのぼった。これは家事使用人や商業関係の従業員を含まない数字である。

目次

チュメニの水運労働者の同志たちに捧ぐ

1905年

労働者にとって忘れがたい1905年がやってきた。私はこのころ、トムスク管区路水路局イルトゥイシ水路局の越冬船修理工場で、浚渫船「シビルスカヤ・セジマヤ(シベリア第七号)」の修理にあたっていた。

1月9日のあと、新聞から私たちは、ロシアの工業地帯における労働者への銃撃と、彼らのあいだの動揺を知り、むさぼるように新聞に飛びつき、あらゆる機会をとらえてそれを読み、仕事中にも、中央での出来事を語り合った。

このころ、旋盤工の労働者アレクサンドル(姓は忘れた)という男が、私たちの修理工場によく顔を出していた。彼は警察の監視下にあり、あとで聞いたところでは、のちにシベリアで殺されたという。彼は、私たちに、いくらかのビラやパンフレットを渡してくれた。内容の詳細は今は覚えていないが、当時の私たちにとっては啓示にも等しく、私たちは夢中になってそれを読み、ほかの労働者にも回した。修理工場を訪ねてくるあいだ、アレクサンドル同志は、労働者を団結させ、自覚のある労働者のグループを組織する必要性を語っていた。だが、その訪問は、あるとき突然途絶えてしまった。あとになって、彼はチュメニを去らざるをえなくなったのだと知った。

このころ、私は、同じイルトゥイシ水路局の修理工場で一緒に働いていたモデスト・スーヒフ(のちにロシア共産党員となり、1921年、ヤルトロフスク郡で富農反乱の匪賊によって殺された)と親しくなった。私たちは、彼とともに、なんとか労働者を団結させようと努めた。これはなかなかうまくいかなかったが、労働者のあいだでは、じわじわと結束と連帯が強まり、仲間意識も育っていった。

荷役人夫のストライキ

春、航行が始まって、越冬していた汽船がすでに出発するか、その準備をしているころ、桟橋では大わらわの荷積み作業が進んでいたが、そこへ突然、荷役人夫たちのストライキが勃発した。汽船所有者による、あまりに露骨で図々しい搾取が引き金だった。ストライキに入った荷役人夫たちは、群れをなして集まり、途中で、当惑した警察の妨害を押しのけながら、事業所や工場の労働者たちを引き連れて、賃上げと、嫌われている代理人たちの解雇を要求して、事務所を回り歩いた。

ストライキそのものの成果は、はかばかしくなかったが、これがチュメニの労働者にとって最初のストライキであり、労働者たちがはじめて団結し、チュメニの通りで一致団結した行動をとってみせたという点で、重要だった。

まもなく、私は、浚渫船での仕事でチュメニから丸ひと夏引き離されることになり、9月の終わりになって、ようやく越冬のため市に戻された。

最初の革命サークル

中央ロシアから広がった革命運動の波は、チュメニにも押し寄せてきた。チュメニの中等教育機関の生徒たちのあいだで、自主学習のサークルが生まれた。この運動の指導者だったのは、私の覚えている限りでは、中学最上級生のS. I. シーリンやV. E. チェスノコフたちだった。サークルの拠点は、「学業援助会」の図書室主任、パヴラ・ヤコヴレヴナ・チェスノコワの住まい——イシム通り、エルシュイコフの家——だった。この接触場所から、あらゆる文献がサークルに運ばれていた。

サークルは、個々の労働者や兵士とも連絡を持っていたが、はっきりとした党組織は、まだできていなかった。それは、もう少しあとになってから形をなしてくる。

私も、こうしたサークルの一つに加わっており、手に入るところではどこからでも文献を集めていた。私たちは、はじめのうちは、たいてい、トゥラ川の向こう、どこかの越冬地区の外れにある、モデスト・スーヒフの住まいで集まっていた。そこで私は、1907年にイルクーツク県への定住流刑になったトロフィム・ウラジーミロヴィチ・ジダーノフ、金属労働者のヤーコフ・シーリン(1908年死去)、水運労働者のミハイル・セミョーノヴィチ・シロチン(おそらく1918〜19年にセミパラチンスクで白軍に銃殺された)に出会った。エカテリーナ・ドミトリエヴナ・チェルヴャコワ(カーチャ)、ヴェーラ・ザベリンスカヤ、そしてモデスト・スーヒフの弟、ステパンにも会った。サークルの集会では、A. バフの『経済概論』と『巧妙なからくり』ほかを、熱心に学んでいた。もっとも、文献はあまり多くなかった。

10月16日のデモ

10月16日の朝、私たちイルトゥイシ水路局越冬修理工場の労働者は、夕方、政治デモが行われるとの知らせを受けた。ほかの民間汽船の労働者たちにもこれを伝え、仕事のあと、まずモデスト・スーヒフの住まいに集まり、あらかじめ用意しておいた赤旗を携えて、私たちはすでに三々五々労働者たちが集まっている桟橋へと向かった。

パロホードスカヤ通りからトボリスカヤ通り、サドヴァヤ通りを経て、やがて共和国通り(旧ツァールスカヤ通り)に出た。道中、私たちの隊列には、続々と学生や労働者が加わり、しだいにふくれあがっていった。

私たちは、手をつなぎ、隊列を整え、「マルセイエーズ」「ワルシャワ労働歌」「勇ましく、同志よ」を歌いながら、市議会へと向かった。警察の姿は見当たらなかった。

議会から引き返し、同じ道をたどって市場広場へ向かおうとしたところ、イルクーツク通りと共和国通りの角で、突然、別のデモ隊——30人ほど——が私たちの道をふさいだ。ニコライ2世の肖像画と国旗を掲げていた。この一団は、地区警視官と理髪師チェスノコフスキーを先頭に、「神よツァーリを護りたまえ」を歌いながら、明らかに私たちの赤旗を奪い取り、私たちを追い散らすつもりで、私たちに襲いかかってきた。だが、旗はしっかりとした手に握られていて、それを奪うことはできず、私たちのデモを追い散らすこともできなかった。もっとも、棒が振るわれる場面もあった。私たちはそのまま自分たちの道を進み、広場のほうへと進んでいった。共和国通りと1マヤ通りの角、旧コルマコフ邸のそばで、ガスの灯りのもと、集会が開かれた。何人かの同志が演説をしたが、まもなく、また黒百人組のデモの一団が近づいているとの知らせが入り、私たちは衝突を避けるために、急いで解散した。

10月17日、ツァーリの、自由についての詔書が公布された。詔書のことを知るとすぐ、私たちは仕事をやめ、越冬地区の労働者全員の集会を開いた。集会では、技師ベドラルスキーが詔書の意義について説明した。翌日、イルトゥイシ水路局の局長ストゥパロフによって、詔書についての新たな「説明」が私たちに与えられたが、それは「あらゆる社会主義者・扇動者」の言うことを聞かず、いかなる組合や団体にも加わらないように、という警告つきのものだった。だが、私たちはすでに、ストゥパロフ氏のような連中の言葉の値打ちを知っていたので、彼には一致団結して反発した。

労働者クラブ

ちょうどこのころ、私はゲルマン・ヤコヴレヴィチ・ナザーロフとワレンチナ・エヴゲーニエヴナ・ナザーロワと知り合った。10月22日、マロラズエズドナヤ通り、マクーヒンの家にあるナザーロフ夫妻の住まいで、労働者の集会が催されることになった。集まったのは、大部分が水運労働者、およそ50人だった。集会には、ウラル委員会から派遣されてきた、ロシア社会民主労働党の「レフ・アレクサンドロヴィチ」[原注1]——これは党名で、本名は知らない——と、ゲルマン・ヤコヴレヴィチ・ナザーロフが演説した。私にとって、そしておそらく多くの労働者仲間にとっても、この集会は忘れられないものになった。私たちは、そこで初めて、ロシアと外国における労働者階級の状況、ロシア社会民主労働党について、そして私たちが組織され、労働組合として団結する必要性について、話を聞いたのである。その場で、ナザーロフ同志から、さしあたり、チュメニに労働者組合のクラブを組織してはどうか、という提案がなされた。この提案は、集会からたいへんな熱意で受け入れられ、しばらく意見が交わされたあと、クラブの規約を練り上げるために、労働者から17人の委任代表が選ばれた。

2日後、G. Ya. ナザーロフの住まいで、労働者の委任代表による会合が開かれ、クラブの規約が定められた。20年経った今、この規約を完全に思い出すのは難しいが、次のことは指摘できる——クラブの目的は、チュメニの労働者の団結、そして彼らのあいだの政治的教育と文化・啓蒙活動だった、ということだ。この同じ集会で、クラブの労働者組合員による戦闘団を組織する、その第一歩が定められた。クラブの資金は、会員からの会費と、演奏会・演劇会からの収益によってまかなわれた。

集会では、幹部に、G. Ya. ナザーロフ、V. スーヒフ(労働者・金属工・水運関係)、私(労働者・金属工・水運関係)、ミハイル・セミョーノヴィチ・シロチン(労働者・金属工・水運関係)、エカテリーナ・ドミトリエヴナ・チェルヴャコワ、ピョートル・アレクセーエヴィチ・ザリヴィン(労働者・金属工・水運関係)、ニコライ・セミョーノヴィチ・マカロフ(労働者・金属工・水運関係)、ヤーコフ・V. シーリン(労働者・金属工・水運関係)、そしてF. I. セヴァスチヤノフ(見習い技師)が選ばれた。幹部会には、議長M. スーヒフ、副議長G. Ya. ナザーロフ、書記E. D. チェルヴャコワ、会計P. A. ザリヴィンが就任した。新規会員の受け付けも始まった。

私たちは、資金の調達、クラブの部屋、家具の手当てに、精力的に取り組んだ。会費だけでは不十分だったので、資金を増やすために、市の劇場で演奏会を催した。これは一度で300ルーブルをもたらしてくれ、会計にはおよそ600ルーブルが入った。クラブの部屋は、サドヴァヤ通りとウスペンスカヤ通りの角にある、ブルコフの持ち家を提供してもらった。

チュメニ・ロシア社会民主労働党グループの結成

このころ、「レフ・アレクサンドロヴィチ」を通じて、エカテリンブルク委員会との連絡が確立され、チュメニのロシア社会民主労働党グループが形をなしていった。私の覚えている限りでは、ナザーロフ同志、獣医のL. S. スームツェフ、それにマル・パヴ・ザハルチェンコが加わっていた。エカテリンブルクからは、非合法文献や出版物——『モロート(槌)』『ドンスカヤ・レチ(ドン語)』ほか——が、私たちのもとへ届き始めた。

クラブでの活動

クラブの開所式が行われたのは、たしか10月29日ごろだったと思う。そのころにはすでに、ちゃんとした図書室と読書室が設けられていた。演劇サークルが開かれ、ハウプトマンの『織工たち』やO.ミルボーの『ジャンとマドレーヌ』などの上演の準備が進められた。合唱サークルでは歌の稽古が行われ、社会経済問題、数学、力学、製図などの講義への申し込み受け付けも始まった。

11月のデモ

11月半ば、士官エゲリが、ニコラエフスコエ士官学校で一人の兵士を殺害した事件をめぐって、チュメニの労働者による、もう一度の行動があった。この殺害は、帝政軍隊ではありふれたことではあったが、労働者たちを深く憤慨させた。休暇中の兵士たちと群衆の憤りには際限がなく、群衆がエゲリを八つ裂きにしかねない一瞬もあったが、G. Ya. ナザーロフの機転と、群衆への働きかけの巧みさのおかげで、リンチは起こらずに済んだ。エゲリは、群衆から逃れて隠れていたゼムストヴォ事務所の中から、「士官の名誉にかけて」労働者たちの前に出て説明をすると約束したが、そのまま恥ずべきかたちで逃げてしまった。翌日、殺された兵士の市民葬を行う予定が組まれ、すべての準備が整っていたが、朝早く、彼の遺体はこっそりと警察の手で墓地に運ばれ、そこに埋葬された。

チュメニにおける反動とクラブの壊滅

ロシア全土で、一連のポグロムと懲罰遠征が続いていた。約束された自由は、シャボン玉のようにはかなく消えた。モスクワ蜂起のあと、あれほど愛らしい目つきで労働者を見つめていたリベラル・ブルジョアジーとインテリゲンツィアは、彼らに背を向けた。チュメニ市議会は、クラブ幹部からの、職業紹介所、労働者向けの安食堂と喫茶室の設置を求める申請を、拒否で返した。あれほど喜んで、クラブの講師として登録していたインテリゲンツィア——技師たちなど——は、二度とクラブに姿を見せなかった。労働者たちはこれを理解し、いっそう堅くクラブの壁の内側で結束した。クラブの権威は、労働者のあいだでますます高まっていった。彼らは、自分たちの組織のうちに、自分たちの利益を守る唯一の砦を見出していた。たとえば、鉄道ストライキのとき、マシャロフ工場の労働者たちがやってきて、鋳鉄とコークスの不足を理由に、工場主マシャロフが工場を閉鎖しようとしている、と訴えた。私とモデスト・スーヒフは、すぐさま鉄道ストライキ委員会に赴き、この問題について協議した。委員会は、電報で、途上で足止めされているマシャロフ工場向けの貨物車を通過させるよう提案した。

ムィソフのヤテス機械工場の労働者たちは、工場の管理部に資金がないという理由で賃金が支払われない、と訴えてきた。管理部との交渉から判明したのは、シベリア銀行が資金を出し渋っている、ということだった。G. Ya. ナザーロフ同志は、シベリア銀行から、工場向けにおよそ2万5000ルーブルの融資を取り付けることに成功し、労働者たちの要求は満たされた。

薬剤師たちは、雇い主——薬局主——との関係を調整してほしいと頼んできた。市の屠場の労働者たちは、家畜処理の新しい賃率を決める交渉の仲介を求めてきた。トランク職人、婦人帽子職人、仕立て屋たちは、雇い主に対する不満を訴えてきた。家事使用人までもがやってきた。あらゆる人々がクラブに立ち寄り、みなが、保護と、仲間裁判所(同志裁判)による裁定を求めていた。

これと並行して、クラブの幹部は、労働者と経営者、従業員、管理部とのあいだの、多くの小さな紛争を解決し、調整しなければならなかった。この時期、クラブは、労働者代表ソヴェトのような役割を果たしていた。すでに述べたとおり、はじめのうち労働者との協力に前向きだったブルジョア・インテリゲンツィアは、はっきりと私たちから距離を置くようになり、私たちがクラブで予定していた多くの講義——力学、製図、数学——は、立ち消えになってしまった。だが、それでも、ナザーロフ同志の指導のもとで、自主学習と政治教育のサークルは、精力的に活動を続けた。このサークルから、未来の頑健な闘士たちが育っていった。とりわけ活動的だったのは、ザハ・ヴィチュロフ(1907年にエカテリンブルクで絞首刑)、トロフィム・ジダーノフ、アレクサンドル・ヴァセーニン、スーヒフ兄弟、シーリン兄弟だった。

だが、私たちのクラブの上空には、すでに暗雲が垂れ込めていた。警察は、私たちの一挙手一投足を、注意深く見張るようになった。彼らの関心は、私たちのクラブの資金にも及んでいた。これを受けて、クラブの幹部は、活動の秘密保持をいっそう強めることになったが、やがて、警察の巡査監督官たちが公然とクラブに出入りし、その活動や幹部会に関心を寄せるようになると、クラブの命運が尽きたことは、はっきりしてきた。私たちは、警察の手に渡ってはならないものを、すべてクラブから運び出し始めた。

私たちの予想は的中した。祝日の一日、1月5日か6日、いつものように朝クラブに向かうと、クラブの扉は、警察の封印で封じられていた。その後、クラブの閉鎖が正式に告げられた。クラブの備品と図書室は、商店街(ゴスチンヌィ・ドヴォル)の空いた商店の一つに運び込まれ、そこで警察によって封印された。

地下へ

だが、クラブの閉鎖によっても、労働者とのつながりが断たれたわけではなかった。この瞬間から、チュメニ組織の地下活動が、本格的に始まったのである。

1月9日の労働者銃撃の記念日には、最初のビラ——ヘクトグラフで刷ったもの——が発行された。

1905年末にはすでに確立されていたエカテリンブルク委員会との連絡は、そこで摘発が起きたためか、あるいはほかの何らかの理由で、途絶えてしまい、私たちは、連絡を回復するために誰かをエカテリンブルクへ送るべきかどうか、という問題に直面した。ちょうどこのころ、ナザーロフ同志によって、クラスノヤルスク委員会との連絡が確立され、まもなく、クラスノヤルスク委員会が発行した非合法文献の入った包み一つが、ベロノーゴフ同志によって私たちのもとに届けられた。届いた文献はすべて、ナザーロフ同志の住まいにあり、これを至急、工場や事業所に配布しなければならなかった。私たちの小さな会合の場所として使われていたのは、ナザーロフ、Tr. ジダーノフ、M. スーヒフの各同志の住まいだった。

1月14日の夕方、私とM. スーヒフ同志は、ナザーロフ同志のもとを訪ねた。彼は私たちに、文献をすべて引き取り、組織の活動的な会員を通じて、市内の工場や事業所に配って回ってほしいと頼んだ。また、カーチャ・チェルヴャコワ同志のところにも寄って、組織の用件でエカテリンブルクに出張してもらう予定があることを伝えてくれ、とも言われた。

万全の用心を払って、コートの裾の下に文献の包みを隠し持ちながら、私たちは市の川向こうの地区へ向かった。そこには、私たちの組織の水運労働者の大部分が住んでいた。文献の一部は、彼らのあいだで配った。残るは、チェルヴャコワ(カーチャ)同志のところに寄り、そのほかの文献をチュメンカ川の向こうにいるTr. ジダーノフ同志のもとへ届けることだった(ジダーノフ同志は当時、ビラの配布と貼り出しを担当する「飛行部隊」を指揮していた)。「カーチャ」と話をつけ、彼女に何冊かの小冊子を渡した(カーチャは川向こうの、プレーリン家の村に住んでいた。この家の露骨なならず者にして黒百人組の一員であった兄は、有名な憲兵だった。二人とも、のちに私たちの裁判の証人となった)。私たちは、馬車を雇い、チュメンカ川を越えて向かった。私たちもカーチャも、自分たちの一挙手一投足がすでに見張られているとは思ってもみなかった。ジダーノフ同志の住まいの2区画ほど手前で、私たちは御者に払いを済ませた(この御者、ベロパソフも、私たちの裁判の証人となったが、彼はきちんとふるまい、記憶にないとして証言を拒んだ)。そして、徒歩でジダーノフの住まいまで行き、持っていたものをすべて渡すと、それぞれの家へと散っていった。

摘発と一斉逮捕

翌日の昼12時、M. スーヒフ同志の住まいで、集会が予定されていた。組織の活動的な会員、そしてクラブや幹部会の関係者、あわせて12人ほどが集まった。集まった人々を前にして、その場に居合わせたナザーロフ同志が、今後の地下活動の展開と、クラブに残っていた資金の使い道について、問題を提起した。

まさにこの問題が議論の真っ最中に、住まいに、憲兵と巡査監督官の大群が乱入した。先頭には、憲兵騎兵大尉、バロン・コルフと、警察署長補佐がいた。家は、徒歩と騎馬の警官によって、ぐるりと包囲された。青い制服を輝かせ、細身の乗馬ズボンにねじ込まれた曲がった脚をして、部屋に入ってきたバロン・コルフの姿は、今でも目に浮かぶ。私たちの立場は、あまり機敏に動ける状況ではなかった。コルフが私たちの前で腰を低くし、拍車をカチャカチャ鳴らして手をこすり合わせながら、憲兵流の「ご機嫌伺い」に精を出しているあいだ、憲兵たちは私たちのポケットの捜索に取りかかった。ところが、M. スーヒフ同志の住まいにあった、私たちのやましいものすべてと、私たちのポケットの中にあったもの——暗い玄関の掛け金にかかっていた上着にも——は、スーヒフ一家の並外れた機転と機敏さのおかげで、憲兵たちの目の前で、すべて取り除かれ、処分されてしまっていた。憲兵にとって好ましい結果は、家宅捜索からは得られなかったが、それでも調書を作成したのち、コルフは、カーチャ・チェルヴャコワに逮捕を告げ、監獄に連行すると告げた。抗議し、家に寄らせてほしいという願いに対し、コルフは答えた。「その必要はない——私が君の家に行って、必要なものはすべて届けさせよう」。この憲兵は嘘をついていなかった——実際に、カーチャの不在中に、彼女の住まいで家宅捜索が行われ、非合法文献が押収されていたことがわかった。カーチャは、私たちに別れを告げ、憲兵と巡査監督官の護送のもと、監獄へと向かった。コルフの提案で、ナザーロフ同志も彼らと一緒に出向くことになり、残った私たちには、2時間後には自由になれると告げられた。実際、ちょうど2時間後、私たちを見張っていた巡査監督官によって、私たちは解放された。この不運な結果と、憲兵に対する吐き気を覚えるような感情にもかかわらず、私たちの気分は、むしろ高揚していた。

翌朝、私はナザーロフ同志が逮捕されたことを知り、続いてパヴ・ヤク・チェスノコワ[原注2]とSt.スーヒフが逮捕された。3日後、私とモデスト・スーヒフがコルフのもとに呼び出され、後者は夜のうちに逮捕された。しばらくして、ジダーノフもコルフのもとに呼び出された。

憲兵の取り調べのあと、事件は予審判事クルィセンコと検事補ポルボトコに引き継がれ、彼らが取り調べを続けた。ある取り調べで、私とジダーノフ同志は、既存の体制を転覆させることを目的とするロシア社会民主労働党への所属、およびビラそのほかの文献の頒布という容疑をつきつけられた。同じ容疑を突きつけられたが、私たちは、警察の内密の監視のもとで、自由の身のままにされた。

こうした取り調べの一つの帰りに、私は憲兵署内で、どこかで見かけたことがあるが姓を思い出せない労働者に出くわした。調べたところ、彼は大工のクラスネーエフで、1905年から1906年の冬、ムィソフ工場で働いていた男だとわかった。のちに判明したことだが、彼は最初の密告者(プロヴォカートル)だった(私たちの裁判では、彼は偽証人としても出廷していた)。のちにクラスネーエフは、労働者の手によって、相応の報いを受けた。

逮捕は続いた。ペテリン、M. P. ザハルチェンコ、そのほか何人かが逮捕された。ペテリンは、私たちの事件で裁判にかけられ、ザハルチェンコは行政処分によってトムスク県に追放された。

組織壊滅ののち

だが、憲兵隊が、逮捕によって私たちの組織を潰せたと勝ち誇ったのは、早計だった。活動は、むしろ急速に発展していった。労働者とのサークル学習が組織され、地元守備隊の兵士たち、地元の駐屯部隊、そして猟兵隊とも、猟兵隊付き曹長イワン・ペトロヴィチ——記憶違いでなければガレーエフという姓だった——を通じて、連絡がつけられた。私たちは、森での数々の集会や大衆集会(マサーフカ)を無事に成し遂げられたのは、彼のおかげである。

活動に積極的に参加したのは、ボリス・シチェチニン(モスクワ農業大学の学生、のちにチュメニを去った)、教師のピョートル・イワノヴィチ・シャバーリン、M.ミーシン、T.ジダーノフ、St.ノヴォセロフ、V.プロサンジェーエフ、M.グルズマン、教師のマルケル・アトマーキン、シーリン、アレヒナ、A.ブリノフ、そして私だった。

まもなく、エカテリンブルク委員会のロシア社会民主労働党とのつながりが復活し、そこから「ワシーリー」同志[原注3]が私たちのもとに派遣されてきた。

1906年

彼の到着とともに、私たちの組織の活動は、市内のあらゆる事業所を覆うようになった。ロギノフのマッチ工場、マシャロフ工場、クィルカロフの製材工場(チュメニ最大級の工場の一つで、1909年に焼失した)、ムィソフのヤテス工場(のちに閉鎖)、テクチエフの製粉所、ロマシェフの工場、蒸留酒の国営倉庫、西シベリア汽船会社、プロトニコフ汽船会社、トムスク管区路水路局イルトゥイシ水路局の越冬修理工場、商工業関係の従業員、トランク職人、そのほか多くの小規模事業所、そして当時チュメニに駐屯していたトボリスク連隊にも及んだ。

4月の終わり、行政処分による流刑者たちの大きな一団が、それぞれトボリスク県内の各郡へ送られる途中、チュメニの監獄を経由していった。ある一団の見送りに際して、西シベリア汽船会社の桟橋で、学生や労働者が、この行政処分の犠牲者たちを、公然と歓迎した。警察は、デモ隊を包囲して逮捕を行った。逮捕された中には、私、ミハイル・ミーシン、Tr.ジダーノフ、I.シーリンがいた。私たちはみな監獄に送られた。

監獄は、このころ、まだ政治的な「春」の余韻の中にあった。監房は一日中開放されていて、監房から監房へ、監獄の中庭から監獄病院——冗談で「貴族院」と呼ばれていた——へも、自由に行き来できた。監獄の中庭では、朝から晩まで、ボール遊びや集会が行われていた。ここ、監獄の中で、私は、1月に逮捕されたナザーロフ、チェルヴャコワ、チェスノコワ、そしてM.とS.のスーヒフ兄弟と、毎日顔を合わせて過ごすことができた。そして、まさにここで、スーヒフ兄弟が、最終的にエス・エル党へ移ったことを知った。これによって、私たち社会民主党員は、彼らとの関係を、はっきりと定めなければならなくなった。

ふたたび活動へ

5月末、監獄から出ると、私たちは中断していた活動に取りかかった。私たちの専業活動家「ワシーリー」同志は、文字どおり働きづめで消耗していた。彼の疲れきった様子は、夜、いくつものサークル学習や集会をこなしたあとには、今でも思い出せる。

ミハイル・ミーシン同志は、私たちの「技術(テフニカ)」の魂だった——その組織立てのすべては、彼の責務のもとにあった。彼は、私たちの中でも比較的、活動に時間を割ける身だったが、私たちは、それぞれ本業を持っていたため、党活動に全面的に身を捧げることはできず、自由な時間だけを組織のために割いていた。

チュメニでの非合法活動は、私たちが誰であるかがすっかり知れ渡っている町だっただけに、きわめて過酷だった。並外れた用心が必要だった。それゆえ、集会や大衆集会の一部は、森の中——ザレチノエ墓地の向こう、ムィソフ工場の手前あたり、あるいは灯油倉庫の先、コサック草原の方角——で開かれた。摘発を防ぐため、仲間の中から見張りが立てられた。

私たちの森での集会は、いつも滞りなく進んだわけではなかった。ときには、憲兵と警察が跡をつけ、手入れを行った。私たちの見張り役が逮捕されることさえあった。集会をつぶすような、誤った警報もあった——それでも、私たちは集まることをやめなかった。

私たちの資金は、非常に乏しかった。私たちには、「ワシーリー」同志に、もう少しまともな暮らしができるだけの金額を渡すことすら、できないほどだった。だが彼は、優れた革命家であり、与えられるものに満足し、当時の大部分の労働者と同じように暮らしていた。

資金を増やすため、私たちは党の文献、革命の指導者たちの肖像画、革命的な図案のハガキなどを売った。ミーシン同志は、ヘクトグラフで革命歌集を刷る仕事を引き受けてくれた。また、同志たちからの臨時のカンパも集められた。

こうして集められた資金は、それぞれの目的に応じて支出された。一部は、専業活動家の生活費に、一部は、逮捕者・流刑者とその家族を援助する政治的な「赤十字」に充てられた。同じ資金から、雑誌や新聞の購読費も出ていた。

毎月、ヘクトグラフで会計報告が印刷され、組織の会員に配布された。

地下印刷所

私たちの「技術」は貧弱で、これが私たちの活動における大きな弱点となっていた。印刷所を作るという考えは、すでに1905年末に生まれていて、ジダーノフ、シーリン、ヴァセーニンの各同志が、当時から活字を手に入れるための手立てを講じていた。あちこちの印刷所から、ひとつかみずつ活字をかき集めることができたが、かなりの部分は、アレクサンドル・クルィロフの『シビルスカヤ・トルゴヴァヤ・ガゼータ(シベリア商業新聞)』の印刷所と、ブルコフの印刷所(当時、たしか『ザウラーリエ』紙を発行していたと思う)から、この目的のために特別に採用された植字工、シーリン同志を通じて手に入れたものだった。断っておくと、活字はかなり摩耗しており、量も足りなかったが、私たちはそれを気にしなかった。印刷所の設備一式は、私たちの技術担当、ミハイル・ミーシン同志が取り仕切った。

課題は、ごく原始的なものであれ、印刷機を組み立てることだった。

1906年

地下の印刷機の組み立てには、労働者、組織の積極的な会員も、熱心に参加した。たとえば、印刷機のうちの重要な部品の一つ——鉄製の胴(ローラー)——は、マシャロフ工場の労働者たちの手で、旋盤で削り出された。

そのあと、厚手の鏡ガラスが手に入り、特別に作った木製の箱枠にはめ込まれ、活字ケースと、活字にインクを塗るためのローラーが作られ、何台かの組版台と印刷用インクが調達され、活字も足され、そしてついに、私たちの印刷所は完成した。

はじめは、あらゆる用心を払って市内に設置され、最初の印刷ビラや、チュメニの労働者への呼びかけ文を刷り始めた。

面食らい、当惑した憲兵隊は、印刷所の所在をつかもうと、しきりに嗅ぎまわり始めた。市内に、信頼できる住まいがないまま印刷所を置いておくことは、危険になってきた。その活動は、いったん中断せざるをえず、印刷所はヘクトグラフに置き換えられた。最初の好機をとらえて、印刷所はチェルヴィシェヴォ村へ、組織の会員である、チェルヴィシェヴォ校の教師マルケル・アトマーキン同志のもとへ移され、学校の敷地に立っていた養蜂小屋に据えられた。

まもなく、私は、自分の仕事先である浚渫船「シビルスカヤ・セジマヤ」のもとへ、チュメニを離れなければならなくなり、8月になってようやく戻ることができた。私の不在中、組織には変化があった。残念なことに、「ワシーリー」同志は、もういなかった——エカテリンブルク委員会によって呼び戻されていたのである。彼に代わって、私は組織の中に、新しい同志たちを見出した——アレクセーエフ(「セミョーン」)、ヴレウン P.、カツ、ゲオル・ソロモン(全員、行政処分による流刑者)である。

分裂

はっきりとは覚えていないが、たしか2月ごろ、ウファーで、ロシア社会民主労働党のウラル州協議会が招集された[原注4]。チュメニ組織からは、協議会に、何人かの同志が送られた。その中には、アレクセーエフ(「セミョーン」)同志も含まれていた。

協議会についての報告のため、近いうちの休日の一つが選ばれた。集会は、旧クィルカロフスク製材工場の跡地、丘の上の小さな林の中で開かれた。ほぼすべての、多かれ少なかれ活動的な組織のメンバー——労働者、市内の工場や事業所の代表——が集まった。報告の中で、アレクセーエフ(「セミョーン」)は、社会民主党メンシェヴィキの妥協的な戦術を鋭く批判し、活動の上で彼らと完全に一線を画すことを主張した。

チュメニ組織は、地下活動を始めた当初から、ボリシェヴィキであり、州協議会のあらゆる決定を、自分たちにとって拘束力のあるものと見なしていた。

この集会に出席していたV.カツは、協議会と、ボリシェヴィキの戦術に対する批判を展開し、組織のごくわずかな会員——はっきりとメンシェヴィキ的な傾向をもつ者たち、たしかパホーモフ同志(西シベリア汽船会社の修理工場の旋盤工)と、M.グルズマン同志——のあいだで支持を得た。

この瞬間から、私たちの組織の中で、分裂が始まったことに注意しなければならない。特別な集会を通じて、V.カツと彼を支持する同志たちに、組織に分裂を持ち込むことは、これまで苦労して築き上げてきた活動を破壊するものだと納得させようと、私たちは何度も試みた。だが、V.カツは、驚くほど頑固に、あらゆる扇動的な手段を用いて、労働者の隊列に無秩序と混乱を持ち込み続け、やがて、エカテリンブルクの社会民主党メンシェヴィキ組織と連絡をつけ、そこから権限を得たうえで、私たちとは別の、独自の印刷機を持つチュメニのメンシェヴィキ・グループを組織してしまった。こうして、チュメニでは、二つの社会民主党組織——ボリシェヴィキとメンシェヴィキ——が並行して活動するようになった。

分派の対立は、私たちの活動全体に影響を及ぼさずにはおかなかった。この事態を利用したのが、これまでほとんど存在感のなかったチュメニのエス・エル組織である(そのリーダーは、行政処分による流刑学生、スタッキンだった)。彼らはあらゆるところに入り込み、自分たちの小市民的なイデオロギーを、とりわけ教員や学生青年たちのあいだで広めていった。

私たちの組織の立場は、いよいよ苦しくなっていった。「専業活動家」の不足は、常に、組織の最も弱い部分の一つだった。ウラルから活動家を送ってもらうことはできず、私たちのもとに現れる行政処分による流刑党員たちも、少し働くと、たいてい、すぐに町を去っていった。

チュメニ・グループの裁判

9月初め、レーニン通り(旧スパスカヤ通り)の旧プーシキン図書館の建物で、オムスク裁判院の陪席法廷が出張してきて、身分代表の立ち会いのもとに、チュメニで最初の「チュメニ・グループ」裁判が開かれた。ロシア社会民主労働党チュメニ組織への所属、扇動、非合法文献の頒布の容疑で、裁判にかけられたのは、G. Ya.ナザーロフ、E. D.チェルヴャコワ、P. Ya.チェスノコワ、私、T. V.ジダーノフ、M. V.スーヒフ、S. V.スーヒフ、ペテリンの各同志だった。

裁判の数日前、私は、(釈放後、ヤルトロフスクに住んでいた)G. Ya.ナザーロフとチュメニで会った。私たちはこのとき、弁護人、宣誓弁護士アニシモフ(行政処分による流刑エス・エル)とA. K.ズハルチェンコと打ち合わせ、事件について確認し合った。

裁判は公開で行われ、傍聴人の入場は自由だった。

証人プレーリン、クラスネーエフほかの尋問——その証言は、裁判官さえも呆れるほど、あまりに厚かましく、支離滅裂なものだった——、および裁判院検事の論告、これも事件全体と同様に憲兵の証言に基づいて組み立てられたもの、そして弁護側の弁論を経て、裁判所は、E. D.チェルヴャコワには、未決勾留期間の算入つきで禁固4か月を言い渡し、残りの私たちは全員、証拠不十分として無罪となった。

裁判のすぐあと、G. Ya.ナザーロフ同志は、チュメニを完全に去った。ジダーノフ同志を除き、事件のほかの参加者たちを、私はすっかり見失ってしまった。

メンシェヴィキとの闘い

私たちの組織の日々の革命活動の中で、メンシェヴィキ・グループとの闘いには、多くの時間を割かなければならなかった。私たちは活動を広げ、深めていく必要があったが、力が足りなかった。アレクセーエフ(「セミョーン」)同志はまもなく去ってしまい、G.ソロモンは——はじめのうちこそ、活動に熱心に参加していたようだったが——さまざまな口実をつけて次第に距離を置くようになり、これが組織全体の不満を招き、ついには完全に離れていった(その後、当時チュメニで発行されていたブルジョア進歩派の新聞で働いた)。それでも、あちらこちらの仕事を渡り歩きながら、私たちは、少ない人数ながら活動を続けていた。1月9日の記念日を控えた10月17日の準備の際、私たちは、エス・エルの組織と合意に達し、この日に合同でビラを発行し、共同のデモを行うことになった。

「1906年」(続き)

M.ミーシン、私、M.アトマーキンは、紙と、ビラの原本を携えて、徒歩でチェルヴィシェヴォ村へ向かった。夕方、印刷機を養蜂小屋から取り出し、風呂小屋に運び込み、朝早くから作業に取りかかった。これが、地下印刷所での私の最初の仕事だった。作業を終え、印刷機をふたたび養蜂小屋に隠すと、私たちはチュメニに戻り、刷り上がったビラをすべて、市内の工場や事業所にまきちらした。

10月17日、共和国通りで催されたデモは、きわめて不首尾だった。ただちに警察に追い散らされ、M.ミーシンとM.アトマーキンの逮捕、そして県からの行政処分による追放を招いた。彼らは、私たちにとって大きな損失だった。だが、まもなく、私たちのもとに新しい活動家がやってきた。ボリス・フェジューシンと、続いてカチャーロフ(「ペトローヴィチ」)——たしかウラルから来た——、そして行政処分による流刑者、モスクワ大学の学生ピョートル・カルーギンである。

しばらく停滞していた組織の活動は、活気を取り戻し始め、汽船が越冬のために戻ってくると、古いつながりのおかげで、いっそう精力的な性格を帯びるようになった。私はこのころ、西シベリア汽船会社に転職し、汽船「ウラジーミル」の助手機関士として働いていた。組織の集会は、私と、ミハイル・セミョーノヴィチ・シロチンほかの住まいで開かれていた。定期的な集会とあわせて、水運労働者を対象としたサークル学習も進められていた。

メンシェヴィキ・グループの解体

水運労働者たちの精力的な支援を得て、私たちは、社会民主党メンシェヴィキ・グループの解体に向けて、断固たる手段をとった[原注5]。

まもなく、エカテリンブルク委員会から、たしか「セルゲイ」という同志が、グループの解体のために派遣されてきた。数回の合同集会のあと、グループは解体された。グループの資料と印刷物一式は、エカテリンブルク委員会の文書庫に送られ、V. P.カツは、完全に活動から外され、まもなくチュメニを去った。

1907年——反動下の活動

メンシェヴィキ・グループの解体と、新しい党活動家の到着によって、組織は立て直され、その活動を大きく広げることができるようになった。水運労働者や市内の工場労働者のあいだでの活動が強まり、急速なテンポでサークル学習や集会が進められ、トボリスク連隊と地元の駐屯部隊の兵士たちとの、生きたつながりが回復された。市内に、印刷所を設置する必要があった。

私たちの印刷所は、まだチェルヴィシェヴォ村にあった。M.アトマーキン同志の逮捕・追放後、チェルヴィシェヴォ校には、私たちにまったく面識のない、新しい教師が着任していた。養蜂小屋に隠されていた印刷機は、見つかってしまう可能性があった。学校には、まだアトマーキン同志の母親が住んでいたので、彼女がそこにいるうちに、印刷機を取り出すことにした。

12月の終わり、私とヴャチェスラフ・シチェチニン同志は、御者を雇い、夕方、チェルヴィシェヴォへ向かった。学校のアトマーキンの母のもとに着き、御者にお茶をふるまってもらっているあいだ、私たちは、雪に埋もれた養蜂小屋に向かい、大変な苦労のすえ、印刷の道具一式をそこから取り出した。こうして事を成し遂げ、体を温めてから、印刷所を市内へと運んだ。だが、事情はあまり芳しくなかった。印刷所は、サドヴァヤ通りのシチェチニンの住まいに設置されたが、1週間後には、そこから至急移さなければならなくなり、当時、ヴォトキンスク工場の造船所だった場所——岸辺に建っていた兵舎——にある、物資担当の労働者「ゲンナジー」同志(姓は忘れた)の住まいに移された。この場所は安全とは言いがたく、いつでも押さえられかねなかった。印刷はしばしば大量にこなさなければならなかったので、私たちは夜間に作業し、昼間は印刷機を隠しておいた。印刷所での作業に携わったのは、私、ジダーノフ、シーリン、「ゲンナジー」、そしてコンスタンチン・ガレツキー(キエフ大学の学生、のちにイルクーツク県への定住流刑先で死去)だった。ところが印刷所は、造船所の夜警に発見されてしまい、当局に密告されかねない状態になった。急いでこれを片付け、ほかに住まいがなかったので、旧グレトフ工場の裏手の野原の、雪の中に埋めなければならなくなった。その後、さんざん苦労したすえに、ヴォイノフスカヤ通り8番地の家(ちょうど警察署長補佐ヴィシネフスキーの住まいの真下だった)に置かれたが、これもまたうまくいかなかった。7月の初め、印刷所は、密告者アルハンゲリスキーによって、当局に引き渡されてしまい、そのとき印刷所にいたジダーノフとガレツキーの両同志も、一緒に逮捕されてしまった。

私たちが活動を広げるたびに、それに応じて、私たちに対する監視が強まった。こんな出来事を覚えている。あるとき夕方、ボリス・フェジューシン同志が、パロホードスカヤ通りの私の住まいから、労働者相手のいつものサークル学習に向かったところ、あとをつけられ、越冬中の隊列の中にいたところで逮捕された。

2月の初め、ウラル州のロシア社会民主労働党協議会が開かれ、チュメニからは、カチャーロフ(「ペトローヴィチ」)同志が出席した。ここで、迫りくる反動との闘いの一般方針が定められ、それまでは、いわばエカテリンブルク委員会の管理下にあった私たちの組織は、独立したものへと組み替えられ、この路線は、チュメニ委員会によっても正しいものと認められた。反動はすでに全面的な攻勢に出ており、資本家たちは、労働者が1905年にあれほどの苦労で勝ち取った、ささやかな自由さえも奪い取ろうとしていた。チュメニの労働者たちは、はっきりとした要求を明記した請願書を、第2国会の社会民主党会派の議員たちに提出した。

水運労働者の第二次ストライキ

チュメニ入江に越冬していた汽船の乗組員たちの大部分は、組織の会員であり、閉鎖された労働組合クラブの会員でもあった。彼らの中には、1905年から06年の冬にはっきりと現れた、あの革命性と強い仲間意識が、まだ生きていた。航行が終わって冬が来ると、汽船所有者たちは、容赦なく賃金を切り詰め、労働時間を延ばし始めた。闘いは避けられなくなり、春の最初の日々を迎えると、水運労働者たちは、党の委員会の指導のもとで、試練を経た闘いの手段——ストライキ——への準備を始めた。

ストライキ事務局が選出され、バルナウル、オムスク、パヴロダル、セミパラチンスク、トムスクの各入江の水運労働者に、同時ストライキを呼びかけるビラが印刷され、配られた。ストライキ基金のための資金集めも行われた。

3月には、汽船所有者の代理人によってヴャトカ県で契約された、水兵、機関助手、操舵手の大きな一団が入江に到着し、彼らのあいだで、大急ぎの扇動活動が始まった。

越冬用の宿舎では、大規模な集会が開かれ、水運労働者たちは闘いへの準備を進めていった。

同じ仲間としての連帯感から、市内のほかの事業所の労働者たちも、ストライキへの準備を進めた。

市内での集会の一つで、委員会とストライキ事務局が練り上げた、汽船所有者への要求が承認された。要求の主な内容は、8時間労働制、船上での3交替制、賃金の増額(とりわけ水兵と機関助手に)、そして乗組員に、衛生上より快適な宿舎を用意すること、だった。

ストライキの日は迫っていた。私たちは、意図的に機械の最終組み立てを遅らせていた。ストライキ当日にはすでに、たとえば私自身も、旋盤の万力に、まだ仕上がっていない摺動弁の部品を挟んだままにしていた。ほとんどの汽船で同じような状態だった。

4月5日か6日、流氷が来る前、特別に選ばれた代表団によって、私たちの要求が汽船所有者たちに手渡された。彼らはすでに、ストライキの準備が進んでいることを知っており、明らかにあらかじめ示し合わせていたようで、要求を満たすことを断固として拒否した。だが、賽は投げられていた。同じ日の夕方、パロホードスカヤ通りのアクセンデルの酒場で、私たちの最後の集会が開かれ、そこで代表団が、汽船所有者との交渉の結果を報告し、一致してストライキを翌日の午前10時に開始することが決められた。

翌朝、全員がいつも通り仕事に出て、それぞれの持ち場についた。上役たち——船長、機関士たち——は、離れたところで固まり、私たちに近づいてはこず、様子をうかがうようにこちらを見ていた。10時、1号船で最初の合図の汽笛が鳴り、それに続いて、市内のすべての工場でも汽笛が鳴った。あたりは一気に騒然となり、人々は職場から出てきて、隊列を組み始め、入江全体の仲間たちを待った。

私たちは門から出て、ザレチナヤ通りを、橋の方向へと隊列を組んで進んだ。

途中で、国営越冬倉庫とマッチ工場の労働者たちが合流してきた。

私たちが川向こうの地区を歩いているあいだ、警察の姿はなかったが、橋を渡り、市参事会のほうへと上っていくと、増強された巡査の一団が私たちの行く手を阻んできた。しかし、私たちはそれを押しのけ、旧市議会の建物の脇を通り抜けて、スパスカヤ通りの方角へと進んでいった。

連隊の兵舎の前を通りかかると、トボリスク連隊の兵士たちが、塀や屋根によじ登り、私たちを熱狂的な歓声で迎えてくれた。だが、兵舎を通り過ぎる間もなく、銃を構えた教練部隊が私たちに突撃してきて、銃床で私たちを一箇所に押し込め、きつく取り囲んで、警察本部の中庭へと追い立てた。中庭では、憲兵の助けを借りた警察が、あらかじめ用意していたらしいリストに基づいて、追い込まれた労働者の群れから、名指しされた人物を次々に引き抜いていった。引き抜かれた者は、警察署内で簡単な尋問を受けたのち、巡査監督官に付き添われて、監獄へと護送されていった。逮捕されたのは30人以上にのぼった。逮捕された同志のすべてを覚えているわけではないが、記憶に残っている限りの人々を挙げておく。カチャーロフ(「ペトローヴィチ」)——専業活動家、党の活動家、A.ラヴィンスキー——同じく専業活動家、ミハイル・セミョーノヴィチ・シロチン——汽船「トヴァリシチェストヴォ」の機関士助手、ヴィターリイ・バウコフ——同汽船の給油係、私——汽船「ウラジーミル」の機関士助手、エヴル・イサコフ——同汽船の火夫、K. A.アリキン——汽船「カザネツ」の機関士助手、D. F.グレホフ——汽船「エドム・M」の機関士助手、ジラルデ・ヴィリヤル——汽船「ゾルヌィ」の機関士、A.バジェノフ——はしけの大工、スヴォロフ——マカロフ工場の労働者、P.トィシチェンコ——はしけの塗工、A. N.ネヴェロフ——西シベリア汽船会社の事務員、ジグリン——給油係だった。

監獄と流刑

このとき、チュメニの監獄は、政治犯として懲役に処せられた者、行政処分による流刑者で、すでにぎっしり詰まっていた。私たちが列をなして監獄の門に運び込まれると、彼らは上階の窓から、チュメニでは見たことのないこの光景に気づき、自分たちにできる手段でそれに応えた——私たちを歓迎して、たちまち窓ガラスを叩き割り、私たちを連れてきた警察の監督官や憲兵たちに、罵りの言葉を浴びせ始めたのである。

私たちは、厨房の向かい、左翼棟の監房の一つに入れられたが、看守が監房の扉を閉め終わらないうちに、銃声が聞こえてきた。窓に駆け寄ると、窓枠の隙間から、看守長S.レブリクの指揮のもと、警備隊の一個小隊が監獄本館の窓に向かって発砲しているのが見えた。おかげで、本館前の広場一帯は、崩れ落ちた漆喰で覆われていた。まもなく発砲はやんだ。幸いにも、負傷者は出なかったが、監獄全体の憤激には、際限がなかった。その日のうちに、検事ポルボトコと予審判事が到着すると、終身刑の懲役囚たちは、もしレブリクが監獄の中庭に姿を見せたら、その場で殺す、と宣言した。この日以降、私たちがレブリクの姿を見ることは二度となかった——のちにわかったところによれば、彼はトボリスク監獄に転任させられたのである。

続き

市内との連絡は、面会や、監獄を警備する自覚のある兵士たち——トボリスク連隊の——を通じて、生き生きと保たれていた。ストライキの経過を伝える知らせは、次から次へと、悲しい知らせばかりが私たちのもとに届いた。私たちの逮捕後、カルーギン、セヴァスチヤノフ(まもなく労働者から疑いをかけられて逃走した)、M.グルズマンの指導のもとに続けられていたストライキは、憲兵と警察の圧力、そして労働者自身のあいだのスト破りのために、急速に力を失っていき、10日ほど持ちこたえたのち、解体されてしまった。一方、私たちは、この長く、いらだたしい監獄の労苦を、ずるずると引きずり続けていた。

このころ、監獄はまだ「締め付け」がきつくなく、私たちは比較的自由な扱いを受けていた。散歩は全員一緒で、昼間、監房はめったに閉じられず、仲間との交流の機会があった。政治犯の懲役囚の中には、クロンシュタットの蜂起に関わった水兵が大勢いて、ポーランドのエス・エル系の人々、テロリストや、そのほかの党派の者たちもいた。彼らはみな、アレクサンドロフスク監獄とトボリスク中央監獄へ送られる予定だった。

自由を取り戻したいという思いから、あらゆる手段を使って脱走の方法が探られていた。私たちの監房の隣には、小さな通路を挟んで、行政処分による流刑者たちの部屋があり、そこで私は、アロン・ソリツ同志と出会った。まさにこの部屋から、これらの同志たちの尋常でない苦労によって、通りへの抜け穴が掘られていた。それはほとんど完成に近づいていたが、密告者、懲役囚のストルボフによって、密告されてしまった。抜け穴が発見されたあと、ストルボフは、その裏切りのゆえに、翌日、政治犯の懲役囚たちによって殺された。

あるとき夕方、私たちが隣の監房に座って、仲間たちと何かの話をしていると、監獄長と警察署長補佐が兵士たちを連れて突入してきて、私たちに、ただちに自分の監房に戻れ、と命じた。夜中には移動しない、と答えると、彼らは銃床を振るおうとしたが、ソリツ同志が、あまりに毅然とした反撃を見せたので、彼らは誰一人動かすことができず、監房を確認しただけで、そのまま出ていった。

監獄当局側からも、忌まわしい政治犯たちに、暴力沙汰を仕掛けようという試みがあった。私たちはメーデー(5月1日)を祝う準備を進め、赤旗まで作った。それを掲げて、私たちは中庭に出て、監獄本館の周りを一巡し、小さな集会を開こうとした。ちょうどこのとき、これまで閉じ込められていた刑事犯の懲役囚たちの監房が、わざと看守たちによって開けられ、何人かの酔った刑事犯の懲役囚たちが、手にナイフを持って飛び出してきた。

最初のうちはパニックが起きたが、何人かの同志、とりわけアロン・ソリツ同志の驚くべき冷静さのおかげで、私刑は未遂に終わった。

労働者からの援助と、獄中の政治的「赤十字」のための資金集めに奔走した、M. P.ザハルチェンコ同志の精力的な働きのおかげで、私たちは何一つ不自由することなく、それどころか政治犯の懲役囚たちを援助することさえできた。

しばらくして、私たちと一緒に逮捕された同志の多くが釈放されたが、事件の処理を待っていた者は、わずかしか残らなかった。7月、私、M. S.シロチン、A.ネヴェロフ、A.ラヴィンスキー、そのほか何人かに、県外への行政処分による追放が告げられた。私たちはまもなく監獄をあとにし、囚人護送車で、警察の監視のもとに、流刑の地へと運ばれていった。


原注

[原注1] チュメニで「レフ・アレクサンドロヴィチ」という名で活動していたのは、エカテリンブルク委員会から派遣された同志「シビリャーク」——もと学生技師で、1905年5月にウラルに来て、それ以前はエカテリンブルクとニジニ・タギルで働いていた人物である。チュメニへは、エカテリンブルク組織のヤ. M.スヴェルドロフに命じられて9月末に派遣されたが、その後、路線上の誤り、とりわけトルベツコイの死をめぐって行われたデモとそこで掲げられたスローガンにはっきりと現れた誤りのため、呼び戻された。「シビリャーク」同志(姓は覚えていない)は、当時のウラルではめずらしい、強いメンシェヴィキ的傾向を持つタイプの人物だった。ウラルには、シベリア社会民主労働党同盟から来た。(S.チュツカエフ)

[原注2] 図書室主任で、組織の接触場所を務めていた人物。

[原注3] 記憶違いでなければ、「ワシーリー」という党名で活動していたのは、エカテリンブルク委員会から派遣された専業活動家で、エカテリンブルクとウラルの工場で働いていたが、姓は知らない。私たちのあいだでは「ヤポネツ(日本人)」というあだ名で知られていた(モンゴル系の顔立ちをしていたことから)。この同志は、その後、1908年にエカテリンブルク監獄に収監され、何年もの懲役刑、あるいは死刑をも招きかねない事件に関与していた。名前はおそらく明かさなかったようで、非合法のまま拘束されていた。身分上は労働者だった。チュメニでの活動のあと、彼はエカテリンブルク郡組織で、中部ウラルの工場を担当して働いた。(S.チュツカエフ)

[原注4] ロシア社会民主労働党ウラル州協議会は、エカテリンブルク市で開かれた。チュメニ組織からは、思い出せる限りでは、代議員は一人、「ワシーリー」同志(「ヤポネツ」)だった。この協議会の発案者・組織者は、Ya. M.スヴェルドロフだった。協議会には、エカテリンブルク、ペルミ、ニジニ・タギル、ウファー、ヴャトカ、チュメニの各組織、およびロシア社会民主労働党中央委員会東部局(サマラ)ほかが参加した。この協議会で、ウラル州ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)組織が正式に結成され、ウラル州委員会が選出された。協議会では、党内関係についての問題が議論され、メンシェヴィキの路線に対する評価をめぐる決議も採択された。州組織の結成に加え、この協議会は、ウラル組織のボリシェヴィキ路線の、最初のはっきりとした定義づけをも与えたと見るべきである。バトルギン同志が、協議会についての報告文の中でこの点を指摘しているのは、正しい。(S.チュツカエフ)

[原注5] チュメニ組織で生じた対立と分解——それは、一部の同志たちのあいだに見られたメンシェヴィキ的な傾向によっていくらか規定されていたが、同時に、当時ウラルに典型的だった、インテリゲンツィア出身の党員への不信感という色合いも、かなり強く帯びていた——は、1906年10月にさかのぼる事柄である。このとき、(エカテリンブルク委員会ではなく)ウラル州委員会が、組織内に生じた対立の調停と解決のために、チュツカエフ同志をチュメニに派遣した。この働きかけの結果、実際に、組織内にできていた並行グループの解散が実現したが、このグループは、はっきりとメンシェヴィキ的なものではなく、その路線に沿って方向づけられていたわけでもなかった。それゆえ、このグループが、ボリシェヴィキの州委員会の決定に、なんら異論なく従ったこともうなずける。(S.チュツカエフ)


訳注

[訳注1] 著者名の表記は、目次では「バタルギン(Батаргин)」となっていたが、本文の署名は「バトルギン(Баторгин)」となっている。原文の表記のゆれとして、本文の表記(バトルギン)に統一して訳した。

[訳注2] この回想には、これまでの各篇と共通する人物が多数登場する。「レフ・アレクサンドロヴィチ」(原注1)は、原注によれば「シビリャーク」というあだ名の人物で、Ya. M.スヴェルドロフの指示でチュメニに派遣された。「ワシーリー」(原注3)は「ヤポネツ(日本人)」のあだ名で呼ばれ、1908年にエカテリンブルク監獄に収監されたとある。いずれも、カプースチンやカマガンツェフの回想に登場する人物との関連は、原文からは確定できない。

[訳注3] 原注はすべて、当時ウラル州委員会の主要人物であったS.チュツカエフ(セルゲイ・エゴールイチ・チュツカエフ)によって書かれている。彼自身も、カプースチンやカマガンツェフの回想に、指導的な活動家「セルゲイ・エゴールイチ」として繰り返し登場する人物である。

[訳注4] 「技術(техника)」は、他の回想と同じく、非合法の印刷・複写活動を指す当時の用語。

[訳注5] 「政治的『赤十字』(политический Красный Крест)」は、政治犯やその家族への支援を行った、当時の非合法・半合法の互助組織を指す。

[訳注6] 原文の「Крыркаловым лесопильным заводом」(クィルカロフの製材工場)は、本文冒頭の企業一覧に見える「コヴァレンコフの製材工場」等とは別の表記であり、綴りのゆれの可能性がある。原文の表記どおり訳出した。

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