1906〜1907年のチェリャビンスク組織

V. ゴロホフ


十月の「自由」は終わった。警察は、詔書の一言一句を、点を追うようにして実行に移していった。

最も苛烈な冬と、最も苛烈な反動が、地元の労働者グループの革命的な政治活動を、しばらくのあいだ縛りつけた。チェリャビンスクでも、どこでも同じように、警備が強化され、コサック百人隊が駐屯し、総督にはステリニツキーが任命された。活動的な働き手のほとんどすべてが、監獄に移り、以後、監獄が労働者の関心の中心になった。そこには、地元の社会民主党組織の指導者たちが入っていた。オソキン、シビリン、スルチャニノフ、ルカヴィシニコフ、メルジェエフスキー、ドゥボヴィツキーなどである。

この時期、悪名を欲しいままにしていたのが、メラー=ザコメリスキーだった。彼の「武勲」については、大シベリア幹線のどの労働者、どの機関士見習いも知っている。ザコメリスキーの道筋はクラスノヤルスクまで続いていて、そこでは、革命家である一兵卒クズミンの指揮下、労働者と兵士たちが英雄的な抵抗を続け、共和国を宣言していた。そこへ向かう道すがら、小さな駅々では、「恐怖のために」、ザコメリスキーは労働者や電信技師を、街灯柱や電信柱に吊るしていった。

この警察の攻勢の暗い日々、おおよそ1906年2月ごろ、労働者およそ400人を抱えていた、グプキン=クズネツォフ・イ・ヴィソツキーの茶分包工場で、労働者自身のイニシアチブによって、経済的な要求を掲げたストライキが起こり、これはまもなく収束した。労働者の主な要求が満たされたからである。

このストライキを指導したのは、労働者のネクラーソフ N. I.(社会民主党組織に属し、あだ名は「トルマース(ブレーキ)」)、ブドリン、コロタエフ・セルゲイ、そして事務員のミハレフだった。ちなみに、労働者たちがとりわけ関心を寄せていたのは、モスクワで開かれた分包業者の全国大会だった。ブドリンが代議員として出席し、そこから、大会の決議を持ち帰って、職能組合の組織化への足がかりを作った。当時、このストライキは、包囲された要塞からの一つの出撃、というべき性格を帯びていた。労働運動は、自らの生命力を証明してみせたのであり、党の活動は死に絶えてはいなかった。春には、シベリアから来た「セルゲイ」同志(グラディシェフ)、ウラジーミル・ツヴィリング(チェリャビンスクの人々によく知られたサムイル・ツヴィリング——ドゥトフ戦線で戦死した——の兄)、ボリス・ペンテゴフ、ミハイル・シュモーチンの直接の指導のもとで、連絡が復活し、宣伝員のサークルが組織され、はじめは12人ほどが加わった。大衆集会(マサーフカ)が始まった。組織の総人数は、100人から200人ほどにのぼった。

鉄道地区のほかの活動家からも、組織に非常に積極的に加わった者たちがいた。労働者のロマン・ピヴキン、ニコライとヴァレンチン・アルタモノフ、電信技師のアル・カルーギン、それに事務員のモチャルキンである。

はじめのうちの大衆集会は少人数で、たいていは100人から200人を超えなかった。集会の場所は、慎重に用心して定められ、集まりの場所にたどりつくには、見張りの列を通り抜け、決められた合言葉を知っていなければならなかった。それでも、警察は、森の中にいる自分たちの存在意図をなかなかうまく隠しきれない、この見張りをたどって、たやすく集会にたどり着き、これを追い散らした。とはいえ、経験は、集会の場所をどう擬装し、隠すかを教えてくれ、その後は、これといった事件もなく集会が開かれるようになり、夏の終わりごろには400人から500人を集めるまでになった。

組織に大きな弾みをつけたのは、1906年の半ばに、中央ロシアから非合法で乗り込んできた「スターロスタ(長老)」同志だった。彼は、みごとな組織者としての才覚を発揮し、それに加えて、演説の巧みさと、尽きることのない精力にも恵まれていた。彼の指導のもとで、組織は急速に広がり、力を蓄えていった。組織の主な構成員は、機関区、シュトリ工場、茶の分包工場、グプキン=クズネツォフの蒸気製粉所、それに製革工場の労働者たちだった。秋までに、組織はすでに500人の党員を数え、印刷所を持ち、ビラを発行していた。活動の重心は、いつのまにか自然と、労働者の居住地区——「ポルト・アルトゥール(旅順口)」、シュトリ工場周辺、そしてレンガ工場の並ぶ町外れ——へと移っていった。

夏の半ば、「スターロスタ」の直接の指揮のもとで、市から5ヴェルスタほど離れた、グプキン=クズネツォフの製粉所の、最も組織化されておらず、遅れていた労働者たちのストライキが、成功裡に進められた。ストライキはおよそ2週間続き、経済的な要求が満たされて終わった。これは労働者の士気を大いに高め、党への関心を強めることになった。

まもなく、茶の分包工場で二度目のストライキが起こり、これは30日以上続いた。労働者からなるストライキ委員会が指導し、ほとんど毎日、集会が開かれて、そこには「スターロスタ」が登壇していた。ストライキは、要求の一部が満たされたことで終わったが、弾圧なしには済まなかった。最も積極的だった労働者30人ほどが、解雇されたのである。

こうして、秋までには、チェリャビンスクの社会民主党組織は、人数の面で力をつけたばかりでなく、組織上の活動力の高さも見せるようになっていた。

思い出すのだが、このころ、組織には、40年ほど生きて、20年ほどの労働者としての経験を積んだ、一家の主でもあるような、本物の年輩の労働者たちが加わり始めた。

忘れられない鮮やかな光景がある。機関区の労働者の一人、コリュシチェンコという姓の人が、2度ほど大衆集会に顔を出したのち、3度目の集会には、成人した二人の息子を連れてきて、彼らを党に引き入れようとし、そのうえ、成人した娘がもう一人いて、その娘も入党させてほしいと申し出ていた。同じころ、組織には、ペトゥーホフ、コシヤノフ、ズロブノフ、ダヴィドフ、オレシキン、植字工のグリゴーリー・オシポフ、N.オブロソフ(またの名を「シュリャピン」)ほか、大勢の労働者が加わった。彼らはみな、オブロソフを除いて大家族をもつ人々だったが、それにもかかわらず、冬が来ると、市内の会議やサークルはすべて、この人たちの家に集まって開かれるようになり、彼らのうちの誰かがこれを断った例は、私の記憶にはない。

彼らはみな、市の郊外の、ぎゅうぎゅう詰めの小さな家に住んでおり、20人から25人もの人間が予定外に押しかけて姿を見せることは、たとえ摘発に直結しないまでも、近所の疑いを呼ばずにはいなかった。もっとも、たいていは夜の帳に紛れ、厳重な秘密保持と静けさを守って集まっていた。壁がおよそ堅牢とは言いがたいものだったから、しばしば小声で話さなければならず、うす暗がりで座っていたり、まったく灯りをつけていないことすらあった。

深い秋になって、大衆集会がすでに開かれなくなったころ、市内のあちこちの地区で、サークルの活動が組織された。15人から20人ほどの二つのサークルは、「ポルト・アルトゥール」に集まり、大部分は機関区の労働者カシヤノフとコリュシチェンコの家で開かれた。もう一つはニコリスカヤ地区の、シュトリ工場の労働者、コチェトコフ兄弟の家で開かれ、そのサークルには、現在ではエカテリンブルク郡統制委員会の委員である、ラトネフ同志も入っていた。三つのサークルは、駅前地区「ナハーロフカ」に、市内では一つ、茶の分包工場の労働者向けに、もう一つは製革・レンガ工場の労働者向けに、シュマコフの作業場のある川向こうの地区に集まり、最後に一つは、市内の雑階級の人々と、女子ギムナジウムおよび実業学校の生徒向けのものがあった。

すべてのサークルは、「スターロスタ」と、V. ツヴィリング、そして私の三人で、均等に受け持っていた。

サークルの授業は、冬のあいだじゅう、レベジェフの教程[原注1]に沿って行われた。

サークルとは別に、地区のオルガナイザーたちの集会や、市全体の協議会も、定期的に開かれていた。

これらの集会は、駅前地区や市内の、いくつかの住まいで開かれたが、大部分は機関区の労働者ペトゥーホフ(今日まで私たちの党にとどまっている)と、労働者のズドブノフの家で、そしてまれに、ほかの何人かの家でも開かれた。この最後に挙げた人々の姓は、残念ながら、記憶に残っていない。

イスラム教徒のサークルも組織されており、そこには、カザンから来た「シャー」というあだ名の若いイスラム教徒が直接参加していたが、この人物は、挑発の疑いをかける根拠があったところ、突然姿を消した。

チェリャビンスクで組織を率いていたのは、「スターロスタ」で、彼は、短い休止をはさみながら、1907年の春まで、この組織で働き続けたが、その間、組織はメンシェヴィキ寄りの傾向を帯びていた。「スターロスタ」がメンシェヴィキであり、組織の中で大きな影響力を持っていたためだ。もっとも、組織そのものは違う気風のもので、心情としては第一国会(ドゥーマ)のボイコットに傾いていた。

たしかに、市内の協議会では、肝心の場面になると、積極的な同志たちのグループはボイコット派の見解を主張することがあったが、これらの同志たちは、「スターロスタ」のような権威と、論争の巧みさには、太刀打ちできなかった。

おおよそ1906年12月ごろから、組織は熱心に、第二国会への選挙運動の準備を進め、県大会に送る選挙人の選出に、積極的に関わっていった。

記憶違いでなければ、チェリャビンスクから県大会に選挙人として選ばれたのは、社会民主党側から、イスラム教徒のカサノフとオレシキン、それに民主派から、教師のバラーキン、弁護士のエヴレイノフ(合法マルクス主義者)だった。

もちろん彼らは全員、オレンブルクの県大会で、地主・ブルジョアジーのブロックによって落選させられた。

1907年1月、「スターロスタ」は、第二国会への選挙運動を進めるために、オレンブルクへ向かい、その後、チェリャビンスクへ戻ってくる予定だった。

同時に私も、彼と一緒にオレンブルクへ向かったが、帰りにサマラを経由したところで、ロシア社会民主労働党組織の総会に居合わせてしまい、120人の一人として逮捕された。

チェリャビンスクに戻ったのは、すでに1907年の秋になってからだった。

この間、チェリャビンスク組織では、指導層に変化が起きていた。

「スターロスタ」は、オレンブルクから戻ったあとは、あまり活動しなくなり、彼の後を継いだのは、ボリシェヴィキのミハイル・クラスノフ=イコニツキーだった。

このほかにも、組織には、ほかの活動的な同志たちが加わっていた。すなわち、マリヤ・ピニジャコワ(委員会の書記)とフォカ・クレトフである。クレパツキー同志の回想によれば、1907年の夏はまるまる、大衆集会が開かれ、サークル活動が続けられていた。

チェリャビンスク組織から、党のロンドン大会に出席したのは、「ミハイル」だった。

クレパツキー同志の回想によると、組織は、駅に非合法の印刷所を持っており、そこにはP.ヴァシーリエフとS.クレパツキーの二人が働いていた。1907年8月、シベリア線でクルガン機関区とオムスクの中央工場の労働者がストライキに入った。

この件で、チェリャビンスクの機関区でも気分が高揚し、動揺が広がり、日を追ってストライキが待たれるようになった。

このストライキをまとめる役割を引き受けたのが「ミハイル」で、彼は労働者が機関区から出てきたところで開かれた急ごしらえの集会で演説した。

この集会では、仕事をやめること、そして全員でもう一度集まって、要求をまとめ、ストライキ委員会を選出することが決まった。同じような予備集会が、茶分包工場の労働者のあいだでも、そこには「フォカ」が派遣されたが、開かれることになっており、シュトリ工場でも、私自身がなんとか、ストライキへの参加決議を通すことに成功した。

このストライキに関連して、当時どんな可能性や見通しが思い描かれていたか、今となっては記憶をはっきりとたどることができないが、私たちは、このストライキが、新たな全ロシア鉄道総ストライキの始まりになるのではないか、とほとんど期待していたと思う。

鉄道のストライキを市内の労働者へと広げるという実質的な成果を、非常に速やかに勝ち取ったところで、「ミハイル」は私をズラトウストへ派遣し、ズラトウスト組織と連絡をつけて、ズラトウストの機関区にも支援を呼びかけ、できれば、ズラトウスト工場の労働者にも呼びかけるよう命じた。ズラトウストの機関区でも、労働者の気分は同じように高揚しており、彼らはストライキに加わった。

だが、ストライキが広がったのは、一方の方角ではオムスクまで、もう一方ではズラトウストまでで、それ以上には広がらず、それどころか、私がズラトウストから戻る間もないうちに、すでにストライキが終わってしまった、しかもまったく組織立たないかたちで終わってしまった、という知らせが届いた。

鉄道当局と憲兵隊は、オムスク=チェリャビンスク=ズラトウストという、比較的大きな区間にわたる、この新しい脅威に気づき、ストライキの短縮のためにも、また将来のあらゆるストライキの可能性をつぶしてしまうためにも、断固たる措置に打って出た。

チェリャビンスクでは、たとえば、労働者への処置はきわめて容赦のないものだった。およそ300人の労働者が解雇され、憲兵の手に引き渡され、それからチェリャビンスクから追放された。この300人のなかには、組織の活動家だけでなく、一般の党員や、党への共感者も含まれていた。

流刑に送られたのは、コリュシチェンコ、カシヤノフ、ダヴィドフ、ズドブノフ、オレシキン、ペトゥーホフ——要するに、機関区は「アカの巣」から一掃されたのである。

これが、チェリャビンスク組織への、最初の、きわめて痛烈な打撃であり、このあと組織は長いあいだ立ち直れず、機関区との連絡を回復することもできなかった。シュトリ工場でも、活動家の一部が同じようにふるいにかけられ、多くの者は自分から逃げ出さざるをえなかった。

組織そのものにも、変化が起きていた。「ミハイル」は町を去ったが、彼はいたく熱を入れていた戦闘団を、あとに残していった。組織の指導は、「フォカ」——クレトフ——に移った。

まもなく、すなわち1907年10月、ペレヴァーロフの住まいで、25人から成る市の協議会が摘発され、逮捕者の中に入っていたのは、フォカ・クレトフ、M.シャルィト、P.フトロフ——ジャーナリスト——S.リャホフスキー、ジュコフスキー、N.クルィロフ、N.セドフ、S.ペニコフ、ピョートル・ボンドィレフ、St.クレパツキー、ヴォロノフ、ピヴキン、ハルチストフ、イリヤ・イズモジェロフ、P.ミンギノヴィチ、実業学校生のソロモン=ノデリ、女学生のK.フィルソヴァだった。

全員が、のちに1909年、刑法第102条第1項によって裁かれた(ただし、ソロモン・ノデリとK.フィルソヴァは、思慮を欠いた行動だったと認定されて、無罪放免となった)。裁判所は、クレパツキーを除く全員に、流刑地への定住を言い渡した。クレパツキーは未成年であることが理由となり、禁固1年の刑を受けた。クレトフは、6年の懲役刑を受けた。

1905年末の一斉逮捕以来、これが最初の大規模な摘発であり、社会民主党組織の活動に大きく影響を及ぼすことになった。

もっとも、全体として見れば、チェリャビンスクにおける非合法活動の条件は、比較的恵まれていた。警察は、政治的な捜査には慣れておらず、チェリャビンスクのような郡都の憲兵隊は、わずか3、4人、それを騎兵大尉一人が率いているにすぎなかった。

そのうえ警察は、非常に堕落しており、3ルーブルも出せば、下は巡査から上は警察署長まで、誰でも買収できるほどだった。旅券を持たない者、流刑を終えた者、市に住む権利のないユダヤ人——彼らはみな、毎月3ルーブルから15ルーブルを支払って、「キリストの懐に抱かれる」ように、安穏と暮らしていたのである。

この点で、とりわけ恵まれていたのが第3分署で、ここを取り仕切っていたのは、ゴーゴリの時代さながらの賄賂取り、看守長モルドヴィンツェフだった。

協議会の摘発によって、最も活動的な担い手たちを失ったことから、ウラル州委員会は、組織の再建に頭を悩ませ、そのために、エヴゲーニイ・プレオブラジェンスキーが、何度もチェリャビンスクに派遣された。彼はここで生き残った人々を集め、組織をもう一度立て直そうと試みた。

だが、彼の試みは実を結ばなかった。1908年3月3日、バランディンの住まいで、11人からなる協議会が、またしても摘発されたのである。逮捕されたのは、バランディン、ブロシキス、ラピドフスキー、チェレパノフ、アンドレーエフ、クルィロフ、ゲルツマン、フロロフ、シーマ・カプルン、ヴィノクロフ、そして、アレクシンと自称していたプレオブラジェンスキーだった。裁判に至るまで拘束されていたのは、このうちブロシキス、ゲツマン、プレオブラジェンスキーの3人だけだった。

なお、公判で明らかになったところによると、ヴィノクロフは、警察署長の指示によって、看守コズロフの手で逮捕記録に記載されず、「理由不明」のまま、警察本部から釈放されていた。

プレオブラジェンスキーは警察本部から脱走し、はるかにのちになってから、ウファーで拘束された。

11人の裁判は、1909年3月、サラトフ裁判所で行われ、フロロフを除く全員に、流刑地への定住が言い渡された(フロロフは無罪だった)。シーマ・カプルンは、保証人つきで釈放されていたが、裁判前に姿を消した。

目次

戦闘団について

チェリャビンスク組織の活動の全体像は、特殊な立場に置かれていた戦闘部隊の活動に触れなければ、完全なものにはならないだろう。

すでに触れたとおり、この部隊の発案者であり組織者であったのは、ミハイル・クラスノフだった。彼が町を去ったあと、戦闘団の面々は、いくつかの収用(エクスプロプリアツィヤ)作戦において、その力を発揮することになる。

はじめ、この部隊は、チェリャビンスクに一種の本部のようなものを持っていたが、その後、活動の中心はズラトウストとウファーへ移っていった。

この部隊に入っていたのは、ロマン・ピヴキン、イワンとセミョーンのオソキン兄弟、ヴァレンチンとニコライのアルタモノフ兄弟、アレクセイ・カルーギン、ニキータ・コチェトコフ、そのほかの者たちだった。

まさにこのグループの手によって、チュムリャクでの、市の公会堂での、そしてミアス駅での収用が実行されたが、これらは組織された、政治的な性格をもつものだった。

チェリャビンスク一帯で起きたそのほかの「エクス(収用)」に関しては、犯罪者的な分子や、本体から離反した一部の分派によって行われたものである。

これらの「エクス」があったのは、1906年から1908年にかけてのことである。

チュムリャクの収用は、はじめのうちはうまくいったが、1週間後には、ニキータ・コチェトコフ、ニコライとヴァレンチンのアルタモノフ兄弟の逮捕という結末を迎えた。逮捕を逃れて脱走できたのは、A.カルーギンただ一人だった。

その際、ニコライ・アルタモノフは、住まいで捕らえられたところを、チェリャビンスク駅の線路の上で、憲兵曹長チェモドゥロフによって射殺された。ヴァレンチン・アルタモノフは、軍法会議にかけられ、判決により絞首刑に処された。

二度目のミアス収用は、たいへん組織だった性格のものだった。

その2週間ほど前、21人の戦闘団は、ズラトウストから25ヴェルスタほどのウラルの山中で、通信の合図の方法や、軍事的な戦法を訓練していた。

部隊は、弾薬とリボルバーで、しっかり武装していた。

ミアス駅への襲撃は、早朝に実行され、犠牲者は一人も出なかった。ひどく被害を受けたのは、爆弾の爆発で崩壊した駅舎の建物だけだった。

収用の最中、貨物列車が到着した。部隊はこれを迎えて止めた。奪った品は、到着した列車の車両の一つに積み込まれ、それから、この車両は機関車を使ってフレベート(背骨)の分岐点まで運ばれていった。機関車は、部隊の隊員たち自身が運転した。フレベートでは、あらかじめ用意しておいた馬が待っており、すべての戦利品は、その馬に乗せて運び去られた。この作戦の全体は、最大でも1時間から1時間半のうちに、やり遂げられた。

最初の数日、部隊はいくつかの小さなグループに分かれて、追跡をうまくかわしていたが、やがて警察と保安部が手がかりをつかみ、ウファー川のほとりで、4人ほどのグループを捕らえた。

このグループから出た証拠品をたどって、残りの者たちにも捜査の手が及んだ。こうして、参加者のほぼ全員が、一人ずつ、あるいはグループで、逮捕されていった。

逮捕された者は、全部で15人ほどで、そのなかにはオソキン兄弟、エフレーモフ、カリーニン、テレンチエフ、コズロフ、ロパトキン・ラプチェフ、タラソワ姉妹、カルーギン、メリニコワ、そのほかの者たちがいた。

軍法会議により、そのうちの一部——カリーニンなど——は絞首刑を言い渡され、また一部は15年の懲役刑を言い渡された。


原注

[原注1] 「合法的に出版された、『自由』の日々のサークル授業用プログラム」


訳注

[訳注1] 冒頭の署名は「В. Гарохов」(ガロホフ)だが、標題の下の署名(および目次)では「В. Горохов」(ゴロホフ)となっている。目次の表記に統一して訳した。

[訳注2] 「スターロスタ(Староста)」は「長老」「(労働組合や集落の)代表・世話役」を意味するロシア語で、この人物の党名・あだ名として使われている。

[訳注3] 「ポルト・アルトゥール(Порт-Артур)」は、日露戦争の激戦地、旅順(旅順口)港のロシア語名。チェリャビンスクの労働者居住区の通称として使われている。

[訳注4] 原文の「Ф. Второв—журналист」は、前段の人名リストの並びから見て、姓「フトロフ」の可能性が高いが、原文は判読しづらく、正確な綴りは確認できない。

[訳注5] 刑法第102条第1項は、帝政ロシアの刑法典で、国家転覆を目的とする団体への参加を処罰する条項。

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