1902〜1907年のチェリャビンスク社会民主党組織

S. オソキン


プリウラリエ(ウラル山脈以西の一帯)の取るに足らない町、幹線鉄道が敷かれる前は荷馬車道が唯一の交通路だった、無名に近いチェリャビンスクは、この鉄道の開通によって、商業的にも戦略的にも重要な、価値ある鉄道結節点に変わっていった。この地方の食料品の膨大な余剰は、中央ロシアの市場でも、ヨーロッパの市場でも、それに劣らぬ規模の販路を見出していく。近隣に広がるキルギス草原の際限のない広がりと、西シベリア地方の穀倉地帯は、ありとあらゆる習俗、方言、民族色をもつ入植者の流れを引き寄せる。

地元のコサック・農民の住民は、小ロシア(ウクライナ)や中央ロシアの諸県からの入植によってこの地に持ち込まれる、より進んだ耕作の方法に出会う。商業は広がり、成長していき、それとともに、地元の穀物生産農民の購買力も高まっていく。この結果として、チェリャビンスクには、ありとあらゆる農業機械・農具の事務所や倉庫が次々に開業する。

株式会社「V. G. シュトリと商会」は、この商業上の好条件を十分に見込んで、農業用機械・器具の製造のために、小さな機械工場(現在のコリュシチェンコ工場)を設立した。

1900年、労働者120人ほどで、この小さな工場は操業を始めた。手近にウラルという、鋳鉄と鉄の膨大な蓄えのある地があり、生産物の販路としては、ちょうど入植の進みつつあるシベリアという、途方もなく広大な市場があって、工場は順調に発展し、労働者の数を増やしていった。

1902年の夏、ロシアの大工業都市では、部分的とはいえかなり大規模な労働者・学生のストライキが起きており、政治流刑囚を乗せた護送囚人車が、チェリャビンスクを経由して、次々にシベリアへ向かっていた。

シュトリ工場のボール盤工、ズラトウストから労働運動への参加を理由にチェリャビンスクへ追放されてきたミハイル・アンドレーエヴィチ・ロシコフ[原注1]は、職場の若い友人たちの小さなサークルに、熱をこめて、説得力のある調子で語っていた。今日、駅に政治犯の一団が着くこと、そして、私たちが彼らの流刑の地に近いということは、どこに連れていかれようと、どれほど隔離されようと、彼らが遠くシベリアまで身を運んで向かう先には、いつでもそのために闘う人々がいる、ということを示しているのだ、と。

この日、シュトリ工場の労働者20人ほどが、駅に姿を現した。ちょうどこのとき、駅の一番先の線路に、逮捕者を乗せた車両が何両か停まっていた。すぐに、格子のはまった窓越しに会話が始まったが、そこへ鉄道憲兵たちが、憲兵曹長ペトロフ[原注2]を先頭に現れ、労働者たちに襲いかかった。ペトロフは激しい勢いで、車両の外に立哨していた護送の兵士たちにも食ってかかった。兵士たちは、起きていることにほとんど注意を払っていなかったのだ。囚人の一人が叫んだ。「この卑劣漢どもめ、労働者に手を出すな」。車両の中では、大きな声で歌が始まった。「敵意ある嵐は我らの上を吹きすさぶ」。1等待合室から現れた憲兵騎兵大尉が、車両を遠く離れた線路に移すよう命じた。これが、チェリャビンスクの労働者が耳にした、最初の、労働と資本の闘いをおおっぴらに訴える歌だった。

ロシコフは、老いて病がちな人だった。決まった政治活動をしていたわけではないが、それでも、彼が工場に現れたことは、若い者たちの心に、深い革命的・啓蒙的な足跡を残した。彼は、向こう見ずで無謀な放埒や、頭を鈍らせる、はびこりきった宗教的偏見に対して闘いを挑んでいた。同時に、労働者には明晰な頭脳と広い視野が必要であること、そしてこの二つがあれば、本当の意味で自由な人間として——搾取者のために生涯を引きずり回される哀れな労働家畜としてではなく——生きていくための道が見つかるはずだ、ということを、かなり巧みに説き続けていた。

1903年、鉄道の機関区は業務を拡大し、労働者の数を著しく増やしていった。チェリャビンスクには大きな蒸気製粉所が建てられ、数百人の労働者を抱える大規模な茶の分包所も開業する。


1904年末、チェリャビンスクの機関区とシベリア鉄道の客車工場をあわせて、労働者はおよそ1000人を数え、そのうち革命的な気風をもつ者たちから、小さなグループが形づくられた。このサークルの成員たちは、一つの強固な思想、前へ進みたいという抑えがたい願いによって、固く結ばれていた。すなわち、ズラトウストの労働者の血を流したあの敵——ブルジョアジーの侵略的な計画のために、極東で若い労農の力を容赦なく破壊し、傷つけている(日露戦争)あの敵——と戦おうという願いである。このサークルの成員は、たがいをよく知り、たがいに深く信頼しあっていた。集まっては、読んだものについて語り合い、そして誰の頭にもはっきりしてくるのは、ただ一つのことだった——勤労者の権利を勝ち取り、搾取を根絶するには、専制を打倒し、ブルジョアジーと貴族の階級支配に終止符を打たなければならない、ということだ。

私たちのサークルに入っていたのは、次の面々だった。ワシーリー・ガヴリロフ、ワシーリー・ロモフスキー、セリシェフ・パーヴェル、ミジン、V. メルジェエフスキー、クジマー・タラソフ、イワン・バタロフ、セルゲイ・イヴォイン、カトコフ、ニコライ・シモノフ、イワン・ポポフ、V. メルズリャコフ、クーチン、チューリン、ソクラコフ、ガヴリリュク、ロプーヒン、M. ルサコフ、G. トゥパーエフ、ソコロフ、そしてプシカレフ(この最後の一人は「シュトリ」工場に勤めていた)。

私たちのグループは、いくつかの小さな革命的な小冊子と、革命歌集、それに経済学に関するいくつかのポピュラーな冊子を持っていた。このこぢんまりとした小さな蔵書は、機関区の、工具箱の中に保管されていた。

1905年1月、私たちは新聞で、ツァーリとその手先たちが仕組んだ、ペテルブルクの労働者に対する情け容赦ない虐殺を知った。憤激はあまりに激しく、秘密活動に必要な用心はすっかり忘れ去られ、周りの労働者を相手に、私たちも専制と戦う準備をしなければならない、と公然と語り合うようになった。

数日後、プチーロフ工場からチェリャビンスクに機関車が到着し、その運転士が、私たちのグループの一人に、ロシア社会民主労働党の発行した、1月9日の事件についてのビラを手渡した。ビラは力強く、人の心をつかむ書きぶりだった。血の日曜日の恐怖のすべてが、悪夢のような幻影として読み手の目の前に立ち上がり、そこには、死にゆく者、傷ついた者たちのうめきと涙、そして勝者たる処刑執行人たちの忌まわしい歓喜が、生々しく感じられた。ただの扇動だけでは応えきれない気がした。もっと強い、示威的な、心を揺さぶるような何かをしなければならなかった。私たちのグループは、このビラをヘクトグラフで複製して配布することに決めた。ヘクトグラフはうまくいかなかった。そこで、ある同志の家に集まり、数人が手書きで、印刷体の文字を使って、40〜45部を書き上げ、夜5時から朝の汽笛が鳴るまで、二晩かけて仕上げた。昼休みの時間に、ビラのばらまきが行われた。鉄道当局と憲兵隊——すぐさま工場に駆けつけてきた——の狼狽ぶりは、見ものだった。混乱はさらに高まった。当時、修理中で蒸気が使え、あたりが暗かったのをいいことに、憲兵たちは口笛で野次られ、機関車の小さな部品を投げつけられさえしたのだ。

この小さな事件のすぐあと、メルジェエフスキーが、私と、セリシェフと、ほかの何人かの同志を、指物師見習いのロマン・ピヴキンに引き合わせてくれた。彼は、市内の地元組織、すなわちロシア社会民主労働党の組織とつながりをもっていた。今や私たちの一人一人には、自分の若い力を、孤立してばらばらに散っている小さな集団としてではなく、共通の革命の計画、共通の地下の秘密のつながりの糸によって一つにまとまり、決まった合図一つで、一致団結した共同の行動に立ち上がることのできる、組織された全体として、思う存分に注ぎ込む可能性が開かれた。私たちはこのことを大切に思った。というのも、私たちの多くはすでに、いくらかの革命的な訓練を受けていたからだ。ある者は「シュトリ」工場で、ある者はオムスクやクラスノヤルスクの鉄道中央工場で。

すっかり組織され、信頼のおける鉄道労働者のグループを手にした市内の同志たちは、市内地区と鉄道地区の合同集会をただちに開くことに決めた。集会は、3月半ばごろ、実業学校(レアリノエ・ウチリシェ)の、建設中の建物の裏手にある松林で開かれることになった。合言葉が決められ、集会が知られて手入れをされる場合に備えて、市の方角に見張りが立てられた。集まったのは40人ほど。演説する予定だったのはアブラム・エリキンと、姓を覚えていないもう一人の同志だった。だが、私たちの最初の集会は、実現する運命になかった。市内から、状況が思わしくない、との連絡が入り、集まった人々は解散させられた。

それから1か月半ほどして、ペルミ鉄道沿いの泥炭湿地の向こう側で、合同集会が実現し、そのすぐあとに、大規模なビラの貼り出しとばらまきが行われ、この配布には、鉄道関係の同志20人ほどが加わった。やがて1905年の5月1日がやってきて、これも同じ、ペルミ鉄道の向こう側、ただしもっと森の奥のほうで、組織立って祝われた。演説したのはアブラム・エリキンと、よその町から来たもう一人の同志——党名「ニコライ・イワノヴィチ」——だった。話は、5月1日の意義、ロシアや西ヨーロッパの工業地帯の労働者の暮らし、革命運動におけるプロレタリアートの役割と意義に及び、革命歌が歌われ、焚き火が燃え、その火で大きなヤカンの湯を沸かし、パンとソーセージ、そしてビール一杯が用意されていた(これらはすべて、秘密活動上の理由から、外から持ち込まなければならなかった)。ここで私は初めて、レーニン同志の名前を耳にした。参加したのは全部で60人ほど、女性も何人か混じっていた。

チェリャビンスク組織の活動は急速に広がり、サマラ=ズラトウスト鉄道の機関区、「シュトリ」および「シュトリ」工場、それに市内のいくつかの茶の分包所や製粉所、そのほかの小規模な事業所の労働者とのつながりが築かれた。

日本との戦争は、最も緊迫した局面を迎えていた。私たちの敗北は次々と続き、ロマノフ王朝の政府は、太平洋沿岸における自分たちの権威という虚飾を維持しようと、あらゆる手を尽くしていた。シベリア鉄道の幹線を、部隊や軍需物資を積んだ列車がひっきりなしに走り抜けていったが、そのすべては、日本帝国主義の口の中に、あとかたもなく吸い込まれていった。民衆と軍隊の憤りは、日を追って募っていった。鉄道は、酷使に耐えかねて疲弊し、労働者や職員は戦時体制下に置かれた。増員された作業に対しては、「動員手当」と呼ばれる特別な金銭手当が約束されていたが、この手当は鉄道当局によって支払いを引き延ばされ、支給される見込みはないと思われた。この事情は、最も穏健な勤労者の層でさえも憤慨させた。

こうした状況を踏まえ、自分たちの力をもっと積極的に示したいという思いに駆られて、私たちは、市内組織の同意を得て、ストライキを実行しようと決めた。ほかの鉄道の結節点についても、いくらか情報があったので、私たちの動きに合流してくれるだろうと考えることができた。ストライキという考えは、じわじわと労働者の心に植えつけられていき、私たちには成功を期待できる見通しが見えていた。

市内の秘密のアジトで、鉄道工場と市内の代表による打ち合わせが開かれ、そこで、行動の計画を詳細に検討し、指導者たちを決め、一連の要求をまとめた。

  1. 「動員手当」の即時支払い。
  2. 全員一律25パーセントの賃上げ。
  3. 衛生・保健条件の改善。
  4. 労働者とその家族に対する、医療の真摯かつ手厚い対応。
  5. 経営陣の労働者に対する、とりわけ女性労働者に対する丁寧な応対。この点では、さまざまな上司による女性労働者への卑劣な扱いが、とくに強調された。
  6. 各職場の選挙による代表者を承認・認定し、その代表者に、新規採用者の採用選考への立ち会いの権利を与えること。解雇や罰金といった処分は、代表者の了承と同意がなければ行わないこと。
  7. 労働者のあいだで許しがたい行為を働いた、工具係主任ルムポフの、工場からの排除。
  8. 工場付近への、浴場の即時建設。
  9. 残業の制限。
  10. 客車部門の職長ヤヴォルスキーの解雇。
  11. ストライキ期間中すべての賃金の支払い。

5月30日、昼食後まもなく、下部車両修理職場から、現在修理中の車両を扱う職場へと、労働者30〜40人ほどが押し寄せ、そこに、現在修理中の職場の労働者全員が合流し、かなりの規模のグループができあがって、大きな、大勢の労働者を抱える職場——中部車両修理、旋盤、客車、鍛冶——へと向かった。中部車両修理職場では、私たちの組織のメンバーと、私たちの現れに共感を示した者たちが仕事を放り出し、ストライキに加わることを恐れていた者や反対していた者からも、道具を取り上げ、仕事を放り出させて、群衆に巻き込んでいった。旋盤職場では、私たちの計画を台無しにしかねない足止めが起きたが、指導者たちの機敏さと大胆さが、その場をしのいだ。「ストライキだ」「仕事をやめろ」という叫び声とともに群衆が旋盤職場になだれ込むと、そこで機械を止めて加わったのはごく少数で、大部分はその場を動かなかった。機関士ボドロフは、機械を止めろという私たちの要求を、断固として拒んだ。機械は回り続け、まだ半数、あるいはそれ以上の労働者が、仕事を離れていなかった。事務室からは、憲兵隊の宿営地や憲兵支所に、電話がかけられていた。今か今かと、武装した実力行使の介入を待たなければならず、それは事態の完全な失敗を意味した。

ベルィシェフと私が、ボドロフの機械の蒸気弁を叩き落とした。あたりは静まりかえった。ミジンが手早く機械を止めた。客車部門は仕事をやめ、群衆は膨らんでいき、最も保守的で立ち遅れていた鍛冶場も、先頭に立つ同志たちの働きかけで、自分たちの炉から離れて旋盤職場のほうへ引き寄せられていった。タイヤの取り替えのために据えられていた機関車の車輪台のところで、集会が開かれた。

ロマン・ピヴキンと、市内から来た誰かが、ストライキの意義について、誰が富を生み出し、誰がそれを享受しているのかについて、私たちが掲げた要求について語った。熱気は高まった。説得にやってきた鉄道当局は、面目丸つぶれで追い払われた。経済的な問題は、(戦争との関係もあって)政治の問題へと移っていった。集会は1時間ほど続いた。私たちの見張りが、部隊が工場に近づいていると知らせてきた。そこで集会は、要求が完全に満たされるまで持ち場を明け渡さないと決議したうえで、解散し、翌31日朝、工場事務所の前に再び集まることになった。工場を出るとき、私たちはサマラ=ズラトウストとペルミの機関区の労働者を、それぞれ仕事から引き上げさせた。凱歌のような汽笛の音が、荘厳に空に響きわたり、鉄道労働者が政府との闘いの道に公然と立ち上がったことを、旧態依然たるチェリャビンスクに告げ知らせた。夕方、より積極的な労働者たちが森で集会を開き、チェリャビンスク組織の指導者、アポリナーリイ同志(またの名を「レーシー(森の精)」)が演説し、市内、茶の分包所、そのほかの事業所の労働者の代表も出席した。この場でまた、翌朝は工場への道を見張って、スト破りを職場に入れないようにしよう、ということも決められた。

5月31日の朝、機関区の事務所の周りに、大群衆の労働者が集まった。ここへ、私たちの見張りが、仕事に潜り込もうとしていた者たちを連れてきた[原注3]。

朝8時ごろ、群衆のところへ、憲兵の小さな一団が近づいてきた。先頭にいたのは、ペルミ鉄道、サマラ=ズラトウスト鉄道、シベリア鉄道担当の憲兵大尉、機関区長、そのほか鉄道当局の何人かだった。

要求書は、ヘクトグラフで印刷され、労働者のあいだに配られていた。そのうちの1部がすぐさま憲兵大尉に手渡され、続いて全労働者を代表して、私とクリヴォノシコが演説した。私たちの社会民主党組織の誰が、どこで演説すべきかは、事前に決めてあったのだが、それにもかかわらず、群衆の中に散らばっていた組織された同志たちの働きかけで、群衆は声をそろえて、交渉はすべて私が、ピヴキンとクリヴォノシコの支えを受けながら行うようにと要求した。憲兵たちは、群衆の中に愛国心をかき立てようと試みた。大尉は、私たちのストライキが軍隊と軍需輸送の運行を止めていることの意味を説き、私たちの敵である日本がこれを利用している、と言って、私たちのこの行いを「反逆」と呼び、責めを負うべき者は軍事法廷で裁かれかねない、と述べた。私たちの指導的な中核は憲兵たちを一喝し、私は、私たちがここに来たのは道徳の説教を聞くためではなく、実際の用件を話すためだ、と宣言した。当局はおとなしくなり、要求は提示され、集まった人々は解散した。翌日、鉄道局長と憲兵局長の連名で、告示が張り出された。そこには、私たちの要求は満たされる旨が書かれており、私たちは集会を招集して、仕事に戻ることを決議し、自分たちの勝ち取ったものが厳格に履行されているか、注意深く見守ることにした。

勝利は完全なものだった。この勝利が労働者大衆に及ぼした政治的・啓蒙的な意義は、計り知れないほど大きかった。私たちの組織は大きくなり、労働者の目に見て、相応の権威を獲得していった。活動は急速なテンポで進み、党員の数は大きく増え、頻繁な大衆集会、ビラのばらまきや貼り出しが行われるようになった。朝早く、巡査が、選りすぐりの罵り言葉を吐きながら、塀だけでなく自分たちの管理する建物のドアさえも、必死になってこすり落としている姿が見られた。そこには、地区警察署長の署名の入った通達の代わりに、下に太字で「専制打倒」と刷り込まれた、小さな印刷物が、堂々と貼りついていたのだ。

アポリナーリイ同志と学生のセレホフの指導のもとで、私たち機関区の労働者10人ほどが、森の中で、薄い屋根用の鉄板から小さな筒をつくり、その中に火薬を詰め、その上に塩素酸カリの混合物をかぶせ、そこに、綿を詰め込んだブリキの筒を通した。こうしてできあがった仕掛けを、ごく薄いフェルトで包み、厚紙の箱に入れた。箱と仕掛けの壁とのあいだの隙間には、ビラを固く丸めたものを60〜80枚ほど詰め込み、綿を入れた筒に硫酸を注ぎ入れ、この試作の仕掛けを木にぶら下げた。2、3分すると、硫酸が塩素酸カリの混合物に染み込み、それに着火して、火薬が爆発した。かなり大きな音の爆発が起き、ビラの雨が降った。ちょうど近くの祝日、どこかから来た著名人のおかげで、市の公園は、そぞろ歩きの人々でごった返していた。最初の成功に気をよくして、私たちは夕方、公園でこの仕掛けを二つ爆発させた。効果は劇的だった。まず、居合わせた町の権力者たちが死ぬほど怯え、それから、間の抜けたその姿——散歩をしていた人々、とりわけ学生たちが、彼らの目の前で我先にとビラをつかみ、読みふけっているのを見せられる羽目になった、という次第だ。ちょうど同じころ、万一のために、爆弾も用意されていた。その破壊力は、かなりのものだった。そのうちの一つ(特別に、ただ怖がらせるためだけに作られたもの)は、機関区の工具係、ルムポフの部屋の窓に投げ込まれ、彼に思い知らせようとしたのだった。(ルムポフは、ストライキの期間中、労働者たちの決議によってスパイ行為で追放されていたが、その後、彼の誠実な悔悟が受け入れられて、ふたたび労働者の輪に戻されていた。ストライキから数日後、憲兵大尉ダヴィドフスキーのもとに、先進的な労働者の正確なリストが現れ、この便宜を憲兵たちに提供したのはルムポフである、ということが判明したのだった。)家主は、ルムポフを下宿から追い出そうとし、ほかの誰も、自分自身と自分の家に累が及ぶのを恐れて、彼を泊めようとしなかった。労働者組織は、ルムポフにチェリャビンスクを去るよう要求し、彼は町を去った。だが、1年半か2年後、ルムポフはすっかり別人になり、自分の世界観を根本から変えたことが、正確に確認されている。

このころ、市内地区と鉄道地区で、サークル活動が続けられており、より積極的で能力のある同志たちから、アポリナーリイが、将来の宣伝員を養成するための、特別なサークルをつくった。

物々しい十月の日々がやってきた。民衆の憤激の爆発は、不条理な絶対専制の土台を根底から揺るがし、1月9日の血は、ツァーリとその手先どもの血で贖われなければならない、と思われた。広大なロシア全土を、ゼネラル・ストライキの強力な波がうねりながら伝わっていった。10月11日、チェリャビンスク駅の電信技師の一団が機関区にやってきて、ロシアの多くの鉄道がすでに全ロシア政治ゼネラル・ストライキを宣言した、と告げた。私たちにとっては、これで十分だった。私たちの組織も、労働者大衆も、決起の準備は整っていたし、高々と鳴る労働者の汽笛は、労働者たちが蜂起する強大なプロレタリアートの隊列に加わりつつあることを、あまねく告げ知らせていた。

「マルセイエーズ」を歌いながら、労働者たちは工場から出てくると、党組織の呼びかけに従って、次々にほかの事業所へと向かった。こうして、サマラ鉄道とペルミ鉄道の作業、機関区、「シュトリ」と「シュトリ」工場での作業、国営のウォトカ倉庫、市内の茶の分包所、市の発電所、鉄道の給水塔、郵便電信局などなどが、次々に止められていった。至るところで、全ロシアの総ストライキと専制打倒を呼びかける演説がなされ、汽笛が鳴らされ、蒸気とボイラーの水が抜かれ、列車からは機関車が切り離されて、その場で冷やされた。私たちの労働の同胞たちは、こぞって心から加わってくれて、チェリャビンスクのプロレタリアートの力は、ふくれ上がっていった。労働者たちに抵抗したのは憲兵で、とりわけ憲兵のペトロフ、それに「シュトリ」工場の経営者、そしてウォトカ倉庫の構内に立てこもった大規模な警察隊だった。労働者たちが開けろと要求すると、警部レピツィンは、鍵を持っていないと答えた。そこで鉄道労働者たちは、革命歌「ドゥビヌシカ」を歌いながら、重厚な鉄の格子扉を両手で持ち上げ、蝶番から両開きの扉を外してしまい、ウォトカ倉庫の労働者たちは解放され、作業は止められた。

鉄道の給水塔では、警察と軍のパトロールが、作業を止めさせまいとしたが、労働者たちの大群がこれを押しのけ、アポリナーリイ同志とソロモン・エリキンが「警察を倒せ」と叫ぶと、群衆はこの叫びを引き継いで、「権力」は無様に逃げ去った。

言っておかなければならないが、私たちの指導者たちは、いつも、より頑強で武装した同志たちに囲まれていた。

翌日、アレクサンドロフスカヤ広場(現・レーニン広場)に、大群衆の労働者が集まった。市長ベイヴェリと、市当局のほかの何人かが、落ち着いて解散するよう説得にあたった。機関区の労働者ピヴキンは、集まった人々を代表して宣言した。「私たちはロシアの現在の情勢について議論し、はっきりとした決議を採択したのち、必ず解散します。今は、私たちの邪魔をしないよう要求します」。ベイヴェリはその場で、広場に居合わせたコサック百人隊の隊長と話をし、隊長は、集会そのものには異存はないと答えた。ところが、集会が始まると、コサックたちは民衆に襲いかかり、ナガイカ(革鞭)で打ちすえ始めた。

指導者たちを含む中核は、比較的落ち着いて隣の通りに退いた。そこにはすでに、多くの労働者が集まっており、赤旗を高く掲げ、革命歌を歌いながら、駅へと向かった。コサックたちは、デモ隊からいくらか距離を置いて、馬を進めていた。指導グループは、もし再び襲撃があれば、群衆を身をもって守り、反撃するために、隊列の後方を固めていた。駅に着くと、鉄道の線路の間で、大規模な集会が開かれた。アポリナーリイ、エリキン、ジョン、そのほかの者たちが演説した。コサック部隊は、馬を鉄道の側溝の向こうに残して、徒歩の隊形で集会のそばまで進められたが、そのまま何もせずにいた。そこへ、クルガン方面から、軍用列車が到着した(この方面の鉄道はチェリャビンスクより先とその先へは運休していたが、のちにわかったところによると、チェリャビンスクへ軍隊を送り込みたいという思惑から、夜のうちにクルガンの機関区で機関車に石炭・水が補給され、機関士ボルディレフの乗務が無理やり手配されたのだった)。列車は、大隊に劣らぬ数の兵士を、戦闘態勢を整えたまま降ろした。チェリャビンスク守備隊の司令官——政治的に信頼できないと見なされていた——ポルツキー将軍は、解散を要求したが、これにジョン同志は、燃えるような演説で応じた。すると、ラッパの合図と太鼓の連打とともに、灰色の兵士の群れが、銃を構えたまま、集まっていた人々に襲いかかった。群衆の中はパニックになり、高い盛り土から転がり落ちて、多くの者がひどい怪我をした。兵士たちは食い止められたが、民衆は再び、鉄道の集会所のそばに集まり始め、そこでコサックが、ナガイカと剣を振るって、多くの者を打ちすえた。数人が逮捕されたが、そのうちの一人、ピヴキンは、その場ですぐに奪還された。この際、コサック2人が重傷を負った(馬から石の上に投げ落とされたのである)。駆けつけたコサックによって、ピヴキンは再び捕らえられたが、彼を助けようとした者たちは、刃を振るわれながらも、逃げ延びることができた。

労働者と職員の要求により、逮捕された者たちは2日後には釈放された。数日後、より活動的な機関区の労働者たち、ロシア社会民主労働党の党員たちが、爆弾の製造と、戦闘団の組織のために、夜、市内へ呼び出された。市内に集まった人々は、ペテルブルクで憲法が発布されたこと、そして地元の自由主義的なブルジョアジーが、市議会の建物に集まろうとしていること、私たちのロシア社会民主労働党の委員会は、私たちにも同じ場所に来ることを呼びかけている、共同の力で、市の自由主義者たちの喜びをぶち壊し、この悪名高い「自由」というものが、労働者階級にとってどれほど取るに足らず、絶対に有害なものであるかを、あからさまに見せつけてやろう、ということを知らされた。集会が始まると、ブルジョアジー側の議長候補、医師リャプスチンは、私たちに断固として拒絶され、大きな騒ぎのうちに、私たちの党の活動家アポリナーリイが議長に選ばれた。ブルジョアたちは、私たちの大胆さにすっかり動揺し、麻痺してしまい、何人かは私たちの提案に賛成票を投じたほどだったが、より老獪な、根っからの吸血鬼たちの大多数は、ここでは自由な意思決定ではなく暴力が行われている、彼らはただ「専制打倒」「資本に死を」という叫びで議事を進めているに過ぎない、と言って、この場から立ち去らざるをえない、と表明した。

翌朝、鉄道の工場から、壮大なデモ行進が市内へと繰り出した。演説をしたのは、これまでの集会でも演説してきた、同じ顔ぶれの弁士たちだった。彼らは、こうした政治的自由がどのような意味をもつのか、勤労者たちが実際に何を勝ち取らなければならないのかを語った。監獄(現在の国民銀行)に近づくと、人々は、そこに政治犯がいるかどうかを確かめようとした。監獄長は、政治犯はいないと言い張ったが、誰も彼の言葉を信じなかった。そこで、デモ隊から代表団が選ばれた。ソロモン・エリキン(数年後に苦役刑を宣告される)、アポリナーリイ、ピヴキン、オソキン、メルジェエフスキー、そのほかの者たちで、彼らは監獄の中庭に入り、収容者に聞き取りをして、事の次第を伝えた(政治犯はいなかった)。中央警察本部(現在は労働者クラブ)の前では、群衆が、市の警察署長の肩章をむしり取り、労働者の旗の前で、帽子を脱がせた。

ラボーチェ=クレスチヤンスカヤ通りとツヴィリンガ通り(現在の名称)のあいだにある大聖堂の付近で、たいへん大規模な集会が開かれ、そのあと、デモ参加者たちは解散した。地元のブルジョアジー、警察、聖職者たちは、黒百人組的な扇動を進め、集会のとき、大聖堂に立ち入ったデモ参加者の一人が、偉大な聖像に対して煙草を突き立てるという聖なるものへの冒涜を働き、そのとき広場にいた聖職者たちも侮辱を受けた、といった話を、民衆に吹き込んで回った。

扇動の矛先は、ユダヤ人、鉄道労働者、学生に向けられた。富農・小市民的な要素、たやすい儲けを好む連中、闇に沈んだ無知な大衆が、橋の向こうのウフィムスカヤ通り(現在のラボーチェ=クレスチヤンスカヤ通り)へと押し寄せ、そこで、恐るべき暴力が始まった。

早朝、緊急の汽笛の合図で、工場では総会が召集され、8人の代表が選ばれた。彼らは、守備隊司令官のもとへ赴いて、彼の許可のもとに始まった暴虐を止めるよう要求し、さもなくば労働者は自分たちの力で暴徒どもを叩きのめすことになる、と告げなければならなかった。代表のうち二人、メルジェエフスキーとオソキンは、たまたま一行から離れて、ウフィムスカヤ通りに出てしまい、そこで、コサック部隊の庇護のもと、その醜悪な所業を続けている野蛮な群れに、行き当たった。暴徒の一群が、市内組織の一員である同志を一人、袋叩きにしているのを見て、代表の二人はその同志を助けるために割って入った。手にしていた武器で、暴徒の数人が負傷した。暴徒への攻撃はあまりに不意打ちだったので、群衆は、その二人に押されて一時後退したが、まもなく攻撃者の側が二人だけだと気づくと、黒百人組は四方から襲いかかり、二人を激しく打ちすえた。駆けつけたコサックたちがさらに追い打ちをかけ、彼らを逮捕して、中央警察本部に連行した。

機関区と工場の労働者たちは、守備隊司令官から満足のいく返事を得られず、また自分たちの仲間が暴行を受けたと知って、手当たり次第に武器を手にし、市内へと繰り出そうとしたが、国民の家(ナロードヌィ・ドム)の付近で、足止めされてしまった。大隊規模の兵力とコサック2個中隊が、行く手を塞いでいたのである。興奮した労働者たちは、黒百人組と決着をつけ、仲間を救出しようと、市内に押し入ろうとしていた。軍を指揮していた処刑執行人たちは、鎮圧の準備を整えており、もし軍医エロフェーエフの介入がなければ、労働者にとって結果はまさしく悲惨なものになっていただろう。

彼が管轄していた軍の消毒列車は、17人からなる、良心的な衛生隊を抱えていた。この隊は、エロフェーエフ自身と同じように武装しており、労働者とともに行動した。労働者の代表たち——その中には医師のD. エロフェーエフもいた——は、市の「サトラプ(暴君・総督)」どもに付き添われて市内へ通され、殴られて逮捕されていた鉄道労働者10人を、メルジェエフスキーとオソキンを含めて解放した。暴行の被害にあったユダヤ人たちは、エロフェーエフ医師の尽力のおかげで、赤十字(移住者用の施設)に、安全な避難所を得ることができた。黒百人組化した市と、革命的な労働者の住む集落は、互いに戦う両陣営のような状態になった。市内の暴漢たちによる、集落の市に近い側への夜間放火の試みもあった。新しい仲間を加えた労働者の戦闘団が、鉄道労働者の集落の平穏と秩序を守っていた。

暴虐からしばらくして、集落の近くで、鉄道労働者の戦闘団のパトロールが、市内の暴漢たちの一団と衝突した。暴漢たちを助けに、どこからともなくコサックの一隊が現れたが、たまたま移住者用の引き込み線に、D. エロフェーエフ医師の列車が停まっており、その衝突の現場に近かったおかげで、戦闘団の団員たちは無事に逃げ延びることができた。まもなくその夜、コサックの一隊が、D. エロフェーエフの列車を狙って発砲した。列車の乗員は、小銃を携えて車両から降り、引き込み線の盛り土の陰に陣を取って、1時間以上にわたって、コサックの一団の襲撃を撃退した。革命側の列車からは、兵士一人が負傷し、医師の馬が1頭殺された。コサック側の被害は2人だった。

12月の初め、革命の闘いはさらに激しさを増していった。チェリャビンスクの労働者たちは、8時間労働制を実現した。鉄道は労働者の手にあった。極東からの帰還兵を乗せた軍用列車の往来が、頻繁になっていた。兵士たちは、肉体的にも精神的にも疲弊しきって家路についているところで、将校団を心底から憎み、政府というものすべてを、あからさまに軽蔑していた。この兵士たちが、それぞれの故郷に帰り着けば、燃え上がりつつある革命に、さらに油を注ぐことになるだろうことは、明らかだった。そのほかにも、鉄道は、住民に必要な物資を運び続けていた。一方で、ブルジョアジー、官吏、そのほか資本と帝制の下僕たちは、身動きが取れなくなっていた。鉄道の集会所(現在は不滅のレーニンの名を冠している)は、革命勢力すべての本部となり、そこでは大勢が参加する集会が開かれ[原注4]、武器のための金銭のカンパが集められた[原注5]。

権力は途方に暮れ、なすすべもなかった。郡からやってきた新兵たちも、現地の守備隊の大部分も、革命側の労働者に同情的だった[原注6]。地元の当局を逮捕し、市を自分たちの手に収めよう、という提案もあったが、労働者の数の少なさと、チェリャビンスクが反動的なコサック層の巣窟であるという自覚が、この動きを押しとどめていた。

12月、モスクワのバリケードは陥落し、それとともに、そのバリケードを守った勇敢な者たちも斃れた。政府による反動の波が押し寄せてきた。チェリャビンスクには戒厳令が布告された。独裁官には、ステリニツキー将軍が任命された。

チェリャビンスク監獄の大きな監房の一つには、地元の革命運動の指導者たちが詰め込まれた。学生スリヤニノフ、学生シビリン、ルカヴィシニコフ、ロガリョフ、ラヴロフ、錠前工ロマン・ピヴキン、職人ヴィチキン、機関士ポプラフスキー、事務員モチャルキン、鉄道の計量係イリイヌィフ、鉄道の錠前工セミョーン・オソキン、鉄道の技師トゥリニコフ、鉄道の技師エゴロフ、仕立て屋オボリスキー、鉄道の事務員ロッソロフ、そして電信技師ドゥボヴィツキーである。血まみれのニコライの意志を体現して、メラー=ザコメリスキー将軍は、まるで毒を持つマムシのように、大シベリア幹線を這い進んで、復讐を重ね、労働者階級を容赦なく打ちのめしていった。

チェリャビンスク監獄には、さらに人が増え続け、新たに逮捕された者の中には、シベリア鉄道機関輸送区の区長クルィシェフと、その助手のV. ポロホヴニコフもいた。

ステリニツキー将軍が監獄を視察に来ると、政治犯たちは立ち上がらないばかりか、彼の問いにも答えなかった。彼が監房から出ていくときには、「復讐と死を、あらゆるツァーリ、あらゆる金権家に。勝利の凱歌をあげる時は近い」という歌が響き渡った。当局は、いくらかの処分でこれに応じたが、それでも屈しないと見ると、忌まわしい手段、すなわち挑発に打って出た。無知の限りをつくした刑事犯の集団の中で、監獄当局は、政治犯のせいで監獄の規律が厳しくなり、共同の散歩やトランプ遊びなどが奪われているのだ、という扇動を行った。しかし、この挑発も望みどおりの結果は得られなかった。刑事犯の中にも、頭の回る者たちがいて、看守(メンティ)たちの狙いを見抜き、私たちに逆らおうとはしなかったからである。だが、移送囚として通過していく政治犯の同志たちに対しては、この挑発はいくらか功を奏し、刑事犯によって同志二人が殴られ、深刻な暴行事件になりかねない事態になったが、私たちは監房の扉を打ち破り、身をもって移送囚たちをかばい、刑事犯たちに向かって、私たちは一つの家族なのだ、通りがかりの政治犯を殴るということは、私たちを殴ることなのだ、と告げた。対立は収まり、その後、こうした出来事は繰り返されなかった。

私たちはコミューン(共同生活)を営んでいた。多くの者は、基礎的な学科を学んで知識を深め、文化史、政治経済学、そのほか本格的な本が読まれた。読んだものは口伝えで広められ、また文章にも書き起こされた。私たちの監房には、移送されてくる同志たちが集まり、社会民主党員と社会革命党員のあいだで論争が行われたが、勝利はいつも前者のものだった。私たちが感嘆したのは、南部から来た、ある労働者の同志——坑夫だった——のことだ。何の教育も受けていなかったが、大きな才能に恵まれた人で、独学によって深い知識に到達し、彼の弁舌は内容に富み、聞く者の理解にみごとに寄り添っていた。素朴な労働者の顔つきをして、ごつごつと胼胝の張った手をしていたこの独学のマルクス主義者は、わずかな言葉で、高等教育を受けたエス・エル系インテリの論敵たちの足元を掘り崩してしまうのだった。私たちは彼から、レーニン同志についても多くを聞いた。彼は、レーニンのことを、全世界の勤労者にとっての最良の、揺るぎない友だ、と呼んでいた。

1906年の春、チェリャビンスクの人々の大部分は、流刑地へと送られていったが、夏の終わりごろには、その多くがすでに脱走し、新たな力をもって、地下での活動に取り組み始めていた。


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原注(原著の脚注)

[原注1](ミハイル・アンドレーエヴィチ・ロシコフについて) ミハイル・アンドレーエヴィチ・ロシコフ――ズラトウスト工場の労働者。ズラトウストにおける労働運動の最初期の参加者の一人。「弾劾的な」宣伝と扇動のやり方、独立独歩の気質で際立っていた。一時期、グレープ・ウスペンスキーやシチェドリンの強い影響下にあり、ほんの少しでも人が集まる機会をとらえては、聖職者の権威に対する独特な説教を行っていた。工場からは追い出された。彼は職人として細々と暮らしを立てていた。それでもなお屈せず、あくまで自分の労働者としての真実に忠実であり続けた。1880〜90年代の彼はそうであったし、死ぬまでそうであり続けた。1925年10月25日(スィロモロトフ)

[原注2] 現在は銃殺されている。

[原注3] 鉄道の工場は、軍のパトロールによって取り囲まれていた。ストライキ参加者が機械や工作機械を壊すのを防ぐためだったが、この事情はかえってストライキ参加者に有利に働いた。軍の部隊が、工場の建物にスト破りたちを入らせなかったからである。翌日の早朝、機関区に通じる道はすべて、2人ないし3人一組の同志によって固められ、多くの者が武器を携行していた。

[原注4] この集会では、学生のスリヤニノフとシビリン、電信技師ドゥボヴィツキー、それに地元の鉄道社会民主党組織の党員たちが演説した。

[原注5] 鉄道地区の戦闘団は、100人を超える人数を擁し、スミス(拳銃)、爆弾、少数のブローニング拳銃で武装していた。戦闘団を率いていたのは機関士ドブノフで、鉄道労働者の戦闘団全体は、それぞれ果断で献身的な同志を隊長とする、戦闘十人組に分かれていた。

[原注6] 新兵たちとの連絡は、チェリャビンスクの労働者出身の新兵、クズネツォフ同志を通じて保たれていた。彼はのちに、1906年7月9日、ヴィリノで、第一国会の解散とヴィボルグ蜂起ののち、軍部隊の中での武装蜂起に参加し、この罪で死刑を宣告されたが、のちに終身徒刑に減刑された。


訳注

[訳注1] 原文には「シュトリ」工場が2度異なる綴り(”Столль”と”Штолль”)で登場する。同一の会社「V. G. シュトリと商会」を指すとみられるが、原文の表記のゆれとして、そのまま訳出した箇所がある。

[訳注2] 「ジョン」は党名(イニシャルまたはあだ名)とみられ、姓は原文に記載がない。

[訳注3] 「クリヴォノシコ」は、本文の表記のとおり音写した。姓の詳細は原文に記載がない。

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