ロシアの中央、つまりモスクワに中央非合法印刷所を組織するという考えがどのように生まれたかをはっきりつかむには、1901〜1904年のロシアの労働運動の歴史に目を向けなければなりません。この時期の特徴は、ストライキ運動の力強い高揚で、それは1905年にまでじかにつながっていきました。中央委員会の中央印刷所は当時バクーにあり、そこではあらゆる種類の檄、ビラ、宣言が刷られ、もっぱら党的な性格の大判の小冊子や書物も出されていました。このころ中央では、モスクワからあまりに遠いバクーの印刷所では、中央の文献の需要を適時に、十分に満たすことはできない、という考えが熟していました。モスクワには中央工業地帯全体の労働運動を指導する党の指導部が集まっていたのです。当時バクーにいた中央委員のクラーシン同志が、状況の要請に応えられる中央非合法印刷所を中央部に組織するという問題を、中央委員会で提起する役を引き受けました。
モスクワで印刷所を組織する許可を中央委員会から得ると、クラーシン同志はセミョーン・エヌキッゼに、モスクワへ行って現地の状況を知り、それから印刷所の組織に取りかかるよう提案しました。
モスクワに着くと、セミョーン・エヌキッゼはまず町の配置を知り、印刷所を組織するいくつかの案を立てました。セミョーン・エヌキッゼにもっともふさわしく思えたのは、大きなワインの地下倉を開くことでした。そこならワイン樽と一緒に、印刷所もまったく人目につかずに転がし入れられたからです。このような印刷所の組織にはかなり大きな資金が必要で、中央委員会にはそれがなかったので、別の計画を考えなければなりませんでした。その計画とは次のようなものでした。印刷所に使える部屋のある「商事事務所」を開くのです。目星をつけた建物には地下室があり、そこに私たちの印刷所を設けるつもりでした。表向きは「東洋の乾物を商う」が、実際には印刷所で働く人たちを選び、私たちはその構築と設備に取りかかりました(私はこの仕事のために特別にバクーから呼ばれました)。
建物はレスナヤ通り55番地(当時は62番地)にありました。エヌキッゼの計画では、地下室に井戸を掘り、その井戸から横へトンネルを通し、それから土のなかに、印刷所を置けるようなしかるべき部屋を掘ることになっていました。人目をそらすために、私たちは家主自身に、地下室に井戸を掘ってはどうか、地下室の湿気取りに必要なのだ、と提案しました。家主は私たちの言い分に同意して深い井戸を掘らせ、井戸から出た土はすべて私たちが地下室に踏み固めました。これが済むと、私たちはトンネルを通すというたいへん根気のいる作業に取りかかりました。私たちの建物には、店、住まいの部屋、台所の3つの部分があり、地下室は店の下にありました。井戸の口から1アルシンの深さのところに四角い戸口を切り開き、私たちはトンネルを掘りはじめました。
初めのうち、建物の土台に突き当たるまでは、作業はまずまず順調に進みました。言っておかなければなりませんが、地下室には土があまりにたくさんたまって、そこに置いておくことはできず、通りや中庭に捨てることもできませんでした。そんなことをすれば当然周囲の疑いを招いたでしょう。そこで私たちは、この土をすべて箱や樽に詰め、ロシアのあちこちの町へ「局留め」で送ることにしました。これが私たちの商事事務所に、商売をしているような外見を与えたのです。
私たちの店は「東洋乾物商」という名前でしたが、店には見本のほかには何もありませんでした。しかもその見本は、まったく東洋産ではなく、スハレフカ市場で仕入れたものでした。誰かがやってきたときには(幸い、それはごくまれでした)、こう言いました。「ここにあるのは見本で、商品そのものは専用の倉庫にあります。この見本でご注文ください。どれだけ、どこへ届ければよいかおっしゃってくだされば、すべてお届けします」。あれこれの商品の値段すらよく知らないこともありました。注文主が値切り、私たちは納品先を取り決め、それからその商品をスハレフカで買って、きちんと注文主に発送しました。約束を果たすまっとうな商人だという印象を与えるためです。私たちの商品のあれこれがいくらするのか知らないこともよくありましたが、たとえ損をしても安く売っていることを誇りにしていました。
もう一度トンネルの構築に話を戻しましょう。建物の土台に突き当たると、その厚さは1アルシン以上あり、しかも強固にセメントで固められていて、2週間ものあいだどうすることもできませんでした。そこでクラーシン同志に、作業を楽にする何かの手立てを頼みました。彼は何かの化学薬品の液体(今となっては何というものだったか知りません)を送ってきて、私たちはそれを基礎にかけ、それから3、4時間ほどで基礎をぶち抜きました。台所の下まで来ると、印刷所を置くつもりの部屋をつくるために土を掘り出しはじめました。トンネルの長さはおよそ2サージェンでした。印刷所を置く部屋は、幅およそ1サージェン半、高さは1サージェンあまりでした。そこに「アメリカンカ」型の印刷機を据え、それから場所を節約するために、土の壁に植字台用の特別な穴を掘って、そこへ活字ケースを差し込んでおきました。ある活字ケースが必要になると、そこから引き出して、斜めに持ったまま組みました。作業できたのは3人だけで、2人が植字、1人が印刷をしました。
印刷機をどう手に入れたかも興味深いところです。帝政のもとでは、印刷機や印刷の部品全般は、印刷所を所有し、そのための特別な権利を持つ者しか購入できませんでした。そのため私たちは、バクーのある民間印刷所の持ち主と取引し、彼を通じてペテルブルクから印刷機を取り寄せ、それはバクーへ届けられました。印刷機がバクーに届くと、私たちはすぐにそれを分解して小さな箱に詰め、手荷物としてモスクワへ送りました。この作業は、建物探し、井戸やトンネルの構築などと並行して進められました。
この手続き全体に、私たちはおよそ3か月を費やしました。これほど長くかかったのは、私たちが初めから一定の規律を定め、それを厳格に守ったからです。内部から誰も裏切らなければ、とても長く持ちこたえられるような条件をつくることに決めていたのです。内部の裏切りについて言えば、私たちは十分に経験を積んでいたので、恐れる必要はありませんでした。この仕事には、たいへん厳しい党の鍛錬を経た人たちを選んだので、もちろんこの危険は私たちには存在しなかったのです。
印刷所で働いていた同志たちの生活条件について、一言二言。その条件は、そこで働く者がだれも、文字どおり個人生活を放棄せざるを得なかったという点で、きわめて特徴的でした。はじめてこの仕事を勧められたとき、私はどんな条件で働くことになるのかと尋ねました。セミョーン・エヌキッゼ同志はこう答えました。「建物から出られるのは月に1回半だ。あとはずっと地下室にいる。それだけだ」。私はいささかとまどって尋ねました。「1回半出るって、どういうことだい?1回と2回ならわかるけど」。すると彼はこう答えました。「2か月で3回、風呂へ行くために出られる。3回の外出を2か月で割れば、1回半になるだろう」。印刷所で働く同志全員に、同じ規律が適用されていました。
働く同志たちの構成は次のように分かれていました。第一に、「商」事業を担う人たち、つまり妻子と子守りの女中を抱えた主人がいました。女中は「まっとうな」家庭の飾りとして必要だったのです。しかし私たちにどんな女中がいられたでしょうか。行きずりの人間を雇うわけにはいきません。カフカースから女中を呼ぶのはやめにしました。こちらにも女中はいくらでもいるので、不自然だったからです。私たちは中央委員会に、女中として女性の同志をよこしてほしい、ただしモスクワからではなく、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスクか、どこかほかの町から、と頼みました。モスクワの女性を採れば、その人の交友関係から私たちが摘発されかねないと恐れたのです。私たちはイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクからひとりの女性、マリア・イクリャニストワ同志を呼び寄せました(彼女は工場から連れてこられました)。今彼女はモスクワにいて、モスクワ委員会で働いています。党名は「トルーバ」です。マリアの女中ぶりはあまり上手ではありませんでした。「旦那さま」「奥様」「何なりと」「かしこまりました」といった言葉は彼女にはあまりになじみがなく、あまりに耐えがたかったので、何度も口を滑らせ、人前で私たちを「同志」と呼んだり、女中にまったくふさわしくないことを口にしたりしたものです。私たちはできるかぎり彼女を仕込もうとしましたが、うまくいきませんでした。彼女は気質からして、北国の人間の気質にも似ず、たいへんな熱血漢で、今もそうです。4、5か月経つと、彼女は抗議しはじめました。「こんな条件ではもういられない」と彼女は言いました。彼女が本当につらくて、文字どおり息が詰まりそうになっているのがわかったので、私たちは彼女を解放することにしました。イヴァノヴォ=ヴォズネセンスクから別の女性を呼び寄せました。やはりマリアという名前でしたが、姓は覚えていません。彼女はしっかりした、落ち着いた人で、自分の役をとてもきちんと果たしました。女中のほかに、店員もいました。党の同志です。これが、外向きに私たちの事業を支えた顔ぶれでした。
印刷所の技術要員は次のとおりでした。印刷工2人と植字工4人で、交代で働いていました。私たちの仕事は昼夜ぶっ通しで続いていました。この6人のうち3人は印刷所に住み込み、3人は通いでした。通いの同志たちは町で何のつながりもつくってはならず、実際つくりませんでした。もっぱら私たちの住まいへ通い、自分の仕事をしたのです。土のなかでの仕事はあまりにつらく耐えがたかったので、長く持ちこたえられる者はいませんでした。5、6か月働くと、同志はだれもが去っていきました。私はどういうわけかこの仕事にすっかり慣れてしまい、まったく平気で耐え、印刷所がたたまれるまでそこにとどまりました。しかしその代償はあまりに高くつき、私は喉頭軟骨と周囲のリンパ節の結核にかかって、7、8年のあいだ治療を受けました。そして奇妙なことに、1914年に流刑されたシベリアの流刑地で、治療もせずに治ったのです。
トンネルと、私たちが働いていた部屋への入口は、たとえ家宅捜索に来られても印刷所は決して見つからないだろうというほど、秘密裏につくられていました。私たちは中央委員会の代表をひとり招いて言いました。「この地下室に印刷所があります。どこにつくられているか、探してみてください」。彼はもちろん地下室そのものを見回し、箱や樽や袋が転がっているだけで、印刷所がある形跡はどこにもないのを確かめました。それから壁を叩き、奥をのぞき、井戸をのぞき、そして井戸へ降りて壁を叩きましたが、何も探り当てられず、印刷所のありかの形跡をまったく見つけられません。ついに彼は、降参だ、見つけられない、と言わざるを得ませんでした。それから私たちは彼と一緒に井戸へ行き、片側から小さな鉄の棒を取って井戸へ降り、トンネルへ通じる扉を開けて、そこから印刷所のある部屋へ案内しました。彼は私たちの発明の見事さに驚嘆しました。
印刷所そのものは、明かりの点でひどく不十分でした。ろうそくを二本絶えずともしていました。石油ランプを置くことはできず、電気を引くのは危険でした。家宅捜索のときに電線をたどられるおそれがあったからです。それでろうそくで済ませたのです。部屋そのものの湿気はたいへんなもので、数時間働くと、顔がなにかじっとりと脂っぽいもので覆われました。それにもかかわらず、私たちは印刷所での仕事を自分たちにとって神聖な仕事だと考え、そこで働き続けました。
【写真】地下の中央委員会印刷所。地下室への入口。
私たちは、ストライキに関連した労働者へのあらゆる種類の檄、宣言、戦闘的なビラを出しました。しかし私たちの主な仕事は、ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ中央委員会の機関誌『労働者雑誌』の発行でした。この間に私たちはこの雑誌をおよそ17号出し、それと並んで大量のビラを出しました。
私たちの仕事は1904年末から「自由」が始まるまで続きました。そのあと、私たちの新聞が合法に出されるようになって非合法印刷所の必要がなくなる時が来て、印刷所には多額の費用がかかるので、たたむことになりました。
印刷所があったあいだ、中央委員会との連絡は次のように保たれていました。中央委員会が私たちを摘発に巻き込んだり、私たちが中央委員会を巻き込んだりしないよう、私たちは中央委員会に、連絡のための代表をひとりつけてほしいと頼みました。その役をはじめはセミョーン・エヌキッゼ自身が果たし、彼はゴーリキーの住まいで中央委員会の個々のメンバーと会っていました。そしてゴーリキー自身も、出版の面で中央委員会からある程度の権限を与えられていました。ゴーリキーを通じて、私たちは中央委員会が出版について何を考え、何を企てているかをいつも把握していました。エヌキッゼ同志が去ったあと、中央委員会は私たちにひとりの女性をつけてくれました。名前はたしかエレーナ(ソコロフ同志の妻で、ソコロフの当時の党名は「ミロン」、現在は農業人民委員部の参事会員)です。このエレーナ同志を通じて、私たちは中央委員会との連絡を保ったのです。
「自由」の日々が訪れて印刷所をたたまなければならなくなると、私たちは印刷所を解体して片づけ、井戸は誰にも何も知られないようにふさぎ、印刷所は鉄道の倉庫のひとつへ移して、1907年までそこに置かれていました。撤去は1905年末のことで、正確な日付は覚えていません。印刷所はほぼ1年まるまる、その倉庫に置かれていました。建物を最終的に引き払うと、そこで働いていた同志たちはあちこちへ散っていきました。私はペテルブルクへ行き、新聞『ヴォルナ』で働きました。そして反動の暗黒の日々が訪れると、中央委員会は私たちの印刷所をモスクワ管区委員会に引き渡し、同委員会はその活動を再開することに決めました。そのために、私と、以前この印刷所で働いていた同志もうひとりがペテルブルクから呼ばれ、印刷所をふたたび立ち上げるよう求められました。
この印刷所をふたたび立ち上げたいきさつに移る前に、中央委員会の印刷所で私と一緒に働いた何人かの同志を思い出しておきたいと思います。事業の「主人」だったシロワン・カビッゼ。店員の姓は残念ながら覚えていませんが、エゴールと呼ばれていました。女中は3度替わりました。最初はマリア・イクリャニストワ同志、「トルーバ」。二人目もマリアという名前でしたが、姓は覚えていません。この二人目の女中が私たちの規律に耐えられずに去ると、私たちは口入れ屋からそのまま女中を雇うことにしましたが、雇ったのはこのうえなく無学で遅れた女性、どうしようもないお馬鹿さんで、私たちが何をしようと、彼女には何もわかりませんでした。私たちの仕事全体に、彼女はまったく無関心でした。
【写真】地下の中央委員会印刷所。地下室の内部。印刷所への入口(井戸を通る)。
印刷所の初期、その組織のときに働いていたのは、セミョーン・エヌキッゼ、私、カラマン・ジャシ(今は残念ながらメンシェヴィキ)、サンドロ・ヤシヴィリ、シリーア・トドリア、それにもうひとりユダヤ人の同志で、残念ながら姓は覚えていませんが、ただミシュカと呼ばれていた人です。彼が働いたのはわずかで、南部から呼ばれ、私たちのところに2、3か月いましたが、どうもそりが合わず、去っていきました。
印刷所の規律はあまりに厳しく、それに耐え、日の光を見ずに何か月もそうして暮らすには、本当に自分の事業に熱狂的に献身する人間でなければなりませんでした。そこに1年以上いた同志もいました。今では信じがたいようなことですが、それでも事実なのです。まさにこのような規律のおかげで、私たちは印刷所を、それを組織したときと同じように、自分たちの意志でたたむことができたのです。同じような例がバクーにもありました。バクーでは印刷所がほぼ5年、摘発されることなく存続しましたが、それもまさに、そこにも一定の規律があり、印刷所で働く者全員がそれに無条件に従わなければならなかったからです。
さて、モスクワ管区委員会のために印刷所を立ち上げなければならなかったときのことに移ります。私とトドリアが呼ばれ、この印刷所を中央委員会のときと同じように秘密裏に立ち上げるよう求められました。私たちは、そのための資金はあるのか、いつまでに立ち上げればよいのか、と尋ねました。答えはごく短いものでした。「金はほとんどない。期限は1週間」。これはまったく受け入れられないものでした。そんな期限で大きな印刷所を立ち上げることはできないと私たちは指摘しました。それでもモスクワ管区委員会の強い圧力のもと、――委員会を代表してずっと話していたのはヴィクトル同志で、このヴィクトルがタラトゥータ同志だと知ったのはつい最近のことです――、彼は戦闘的なやり方で1週間で立ち上げよ、つべこべ言うな、と迫りました。「印刷所が動いているあいだは働く。摘発されたら、そのときはそのときだ」と。実際、檄の発行をぐずぐず延ばしてはいられないような時代でした。上からの反動と、大衆自身の疲れは、大衆の気分に反映しただけでなく、組織の一部にも影響を及ぼしていて、何もかも失われたわけではない、持ちこたえ、以前続けていた組織的・思想的な活動を続けなければならない、と組織に思い出させる必要があったのです。
そこで私たちは、いわゆる「一気呵成」に印刷所を立ち上げることにしました。ロジーストヴェンスキー並木道に建物を借りました。そこにもよい地下室があったのです。昔のよしみで、東洋乾物商を開きました。店と印刷所を同時につくり、店はまだできあがっていなかったものの、8〜10日のうちにもう植字と印刷に取りかかりました。そこで私たちはおよそ8か月働きました。私たち働き手にとって規律はもっとゆるやかでしたが、私たちは、ここでは規律だけでは……
……どうにもならない、と考えていました。家宅捜索に来られたら、どのみち印刷所は見つかってしまうのです。印刷所は地下室にまったくむき出しのまま置かれていたからです。だから私たちは「一気呵成」に働いたのです。その建物では、もっとも集中的に働くことができました。夜は印刷しませんでした。通りに音が聞こえるかもしれないからです。昼間、まわりが騒々しいときに全力で印刷し、夜は植字しました。こうして私たちは、非常にたくさんの檄やあらゆる種類のビラを出しました。8か月働いたところで、私たちは見張られていることに気づきました。いずれにしても、あからさまな疑いではないにせよ、周囲がこちらをいぶかしがっているのは明らかでした。商売がまったくなく、同じ人たちが規則正しく出入りしているということが、どうにもこうにも疑わしくなってきたのです。それに加えて、私たちのところで店員として、イワノフ(本名はノヴィコフ)というロシア人の同志が働いていました。今はオールド・ボリシェヴィキ協会の会員です。彼はあるところで、口を滑らせたと言ってもよいでしょう。そして彼のところへ、私たちの党とは何の関係もない連中が来るようになりました。あとでわかったところでは、ただの「接収屋」でした。このことを知ると、私は個人的に、印刷所をたたんで別の場所へ移すよう強く主張しました。管区委員会は断固として反対しました。ヴィクトル同志もそれを望まず、こう言いました。「摘発されないうちは働いてくれ。ただし、摘発されないよう手を打て」。私には、どんな手を打っても助からないとわかっていました。ヴィクトル同志との長い交渉の末に堪忍袋の緒が切れると、私とトドリア同志はこう宣言しました。自分たちは古参の地下のテフニカ屋で、いつ場所を変えるべきか、いつ仕事を続けるべきかをよく知っている。だからやみくもに働き続けることはできないし、事業のためにも摘発されたくはない、と。私たちは、あと2週間働いたら去ると予告しました。そして実際、2週間働いたあと、トドリア同志はペテルブルクへ発ち、私も彼のもとへ向かいました。私たちのあとに誰が招かれたのかは知りませんが、私がペテルブルクのトドリアのところへ着くと、その日のうちに彼のところで逮捕されました。もちろん彼も逮捕されました。ちなみに、これは偶然の逮捕でした。当時は、旅券の住民登録のさいに警察が住まいへ来て調べるのが通例でした。トドリア同志はペテルブルクに着くと、自分の旅券を登録に出しました。数日後、彼のところへ家宅捜索が来ましたが、警官たちが現れたのは私がトドリア同志のところへ着いて15〜20分後のことで、こうして登録されていない人間、つまり私を見つけたのです。私は警官たちに、ついさっきモスクワから着いたばかりだと証明しようとしましたが、もちろん彼らは信じず、私たちは警察署へ連行されました。そこで私は、職業は植字工だと申し立て、トドリア同志は、グルジア語新聞の通信員で、自分の新聞に通信を送るためにペテルブルクへ来たのだと申し立てました。あいにく私のところでリボルバーが見つかり、トドリア同志がその持ち主だと名乗り出ました。すると彼はこう言われました。「武器携帯の許可がないので、罰金を科されるか、3か月(だか何だか所定の期間)入ることになる。だから予審判事のところへ行け」。そして彼は、取り調べのために、護送もつけずに監獄から予審判事のところへ送り出されたのです。彼は予審判事のところへは行かず、フィンランドへ去ってしまいました。一方の私は、およそ3か月監獄に留め置かれました。私は当時非合法の身でした。予審判事は、私が名乗っているとおりの人間ではないと疑っていて、このことで私たちは引っ張り合いをしていました。獄中にいるあいだ、私はトドリアから非合法の手紙を受け取りました。そこには、すべて「もう内務大臣もご存じだ」と書いてありました。この一文を読んで、私は思い出しました。中央委員会の印刷所で働いていたころ、彼はいつも「私たちが逮捕されたら、私たちの同志である国会議員が内務大臣に質問するだろう」と言っていて、その質問を「内務大臣は、これこれの場所にこれこれの印刷所が存在することをご存じか」などと思い描いていたのです。それでも私には、この一文が何を意味するのかわかりませんでした。じつは、私たちが去ってしばらくして、印刷所は摘発されていたのです。ノヴィコフとヤクーボフが逮捕され、後者は印刷所の主人として逮捕されました。ヤクーボフとノヴィコフは10年のシベリア流刑となり、二人とも十月革命までそこに留め置かれました。
私たちの仕事は、こんなふうに思い出されます。もちろん今となっては、これをすべて実際にあったとおりいきいきと伝えるのは難しいことです。伝えようのない場面もありました。しかし、その仕組みそのもの、とりわけ中央非合法印刷所の仕組みは、きわめて複雑で繊細なものでした。そこには偶然の要素があまりに多く、今これを言い表すのは難しいのです。理解するには、すべてを実際に手と頭でやってみなければなりません。いずれにせよ、「テフニカ」はわが党の歴史のなかで大きな一頁を占めています。私は、共産党ほどの巨大な経験を持つ非合法政党はなく、私たちほど豊かな歴史を持つ政党もないと考えます。きわめて特徴的なのは、ほかの社会主義政党、たとえばドイツ社会民主党は、その歴史のなかで私たちが経たような厳しい地下の鍛錬を経ていないということです。そして、私たちの過去の活動の成果が現在に現れ、影響しているのも、一つにはそのためです。わが党は、地下活動の時期につねに守ってきた信じがたい規律のおかげで、間違いなく大きな鍛錬を得たのです。それは二月革命の時期から今日に至るまで、はっきりと現れています。
さらに述べておきたいのは、中央非合法印刷所がレスナヤ通りにあったころ、それを管轄していたのはソコロフ同志だったということです。彼は中央委員としてこの印刷所を管轄していましたが、私たちは中央委員にもその代表にも、誰ひとり印刷所を訪れることを許していなかったので、彼もそこへ行くことはありませんでした。彼が印刷所のありかを知ったのは、ブトゥイルカ監獄で2年間拘禁されたのち流刑地へ送られるとき、護送されながらたまたまこの建物の前を妻のエレーナと通りかかったときでした。エレーナは一度この印刷所に来たことがあり、住所を覚えていたのです。これはそれ自体としては何でもないような、ささいなことですが、当時私たちが実行していた規律をよく表しています。この規律と、私たちが仕事に取り入れた厳しい決まりのおかげで、この印刷所を組織し、大きな仕事を果たし、自分たちの意志でたたむことができたのです。そして、のちに二度目に印刷所を立ち上げたときに、急いだために同志たちが残念ながら状況を十分に検討せず、すぐに事業を摘発されてしまったのです。
以上が、この印刷所の歴史のあらましです。イストパルトが党史に関する資料をすべて集めることに決めたとき、この印刷所を復元して小さな博物館にすることが提案されました。
モスクワ委員会付属のイストパルト・モスクワ・ビューローは、中央イストパルトの委任を受けて技師と写真家を派遣し、彼らは印刷所の復元にいくらか取り組みましたが、まだごくわずかです。この仕事は最後までやり遂げるべきでしょう。私たちの地下活動のこの一角は、私たちの若者にとって大きな教育的意義を持つでしょうから。
ここで私の回想を終わります。あまり筋道立てて話せなかったかもしれませんが、出来事は1905年に起きたことで、今はもう1923年、18年のあいだに多くの細部が記憶から薄れてしまいました。
では、今は?
今やロシア共産党中央委員会は地下から出て、世界的な強力なてことなりました。いまのところ地球の6分の1で勝利を収め、コミンテルンの支部を通じて残りの6分の5へ勝利の進撃を続けるプロレタリア革命のてこ、世界プロレタリア革命のこの参謀本部となったのです。
G. ストゥルア
モスクワ。1923年7月15日
第3章 訳注
- 口絵写真(67頁):キャプションは「ロシア社会民主労働党(ボ)の地下印刷所の働き手たち。1904〜1906年、モスクワ、レスナヤ通り55番地。座っているのは V. N. ソコロフ、T. T. エヌキッゼ、G. ストゥルア、E. D. ソコロワ。立っているのは V. I. ボゴモーロフ、ストゥルアの息子」。ボゴモーロフの父称はここでは「I.」、第4章でも「V. I.」だが、第1分冊の引き継ぎメモでは「V. M.」。原文どおりにした。
- 年代:本文では印刷所の稼働を「1904年末から」とし、表題は「1905年」。第1章(エヌキッゼ)では1905年夏なかばに稼働したとある。第4章(ソコロフ)では1905年9月の時点で「設備はほぼ整っていた」。記憶に食い違いがある。
- 単位:アルシンは約71cm、サージェンは約2.13m。
- 「アメリカンカ」:小型の平圧式手動印刷機の通称。
- 化学薬品の液体(68頁):原文に名称の記載はない。補足はしていない。
- スハレフカ:モスクワのスハレフ塔周辺の大きな露天市場。
- エレーナ:E. D. ストルーニナ(のちソコロワ)。「ミロン」=V. N. ソコロフ。第1分冊の引き継ぎメモと一致。
- ヴィクトル=タラトゥータ:V. K. タラトゥータ。
- 「接収屋」:原文は экспроприаторы(革命資金のための強奪を行う者)。
- 「自由」:1905年10月17日詔書以後の一時的な政治的自由を指す。