第4章 V. ソコロフ「カフカースの店」

1905年9月、私は党中央委員会の印刷所を組織するため、オリョールからモスクワへ呼ばれた。その設備はもうほとんど整っていて、あとは人を見つけるだけだった。あらかじめの様子はマラート(シャンツェル)が教えてくれ、彼はまた、印刷所を設けた店でそのまま店員の役を務めるよう、本職の店員であるワシーリー・エゴロヴィチという男を推薦した。その印刷所では、中央委員会(ボリシェヴィキ)とモスクワ地方地域ビューローの機関紙『ラボーチー(労働者)』を刷ることになっていた。

印刷所の設備はまだ完全にはできあがっておらず、人はオリョール経由でほかの土地から送り込めたので、現地で印刷所を見ておく必要はさしあたりないと私は考えた。その構築の指揮は、ニキーチチ(L. B. クラーシン)という経験豊かな秘密保持の達人で実務家、当時の私たちの直属のテフニカの上司の手にあった。だが彼自身はそのころペテルブルクにいたので、私はもっと詳しく話すために彼のもとへ出かけた。

印刷所は「カフカース物産」の店に付属し、特別に掘られた地下にあることになっていて、そこに「アメリカンカ」型の印刷機と活字ケースが置かれていた。そこへは、店の地下室に「排水」のために――そんな水がそこに出るとすればだが――掘られた井戸から降りるのだった。この井戸の壁の、上の縁から2アルシンほど下で、特別な仕掛けが印刷所そのものへの通路、より正確には「ぬけ穴」を開いた。ぬけ穴は、誰かがすぐに閉めてしまい、腹這いで2〜3アルシン進むと、体を伸ばして、ろうそくかランプの明かりで作業できた。電気を引くのは恐れられていた。電線があだになりかねない。どんな物音も地上にも、すぐ近くの住人にも届かなかった。たとえ店と井戸が調べられても、ぬけ穴はまったく気づかれなかった。井戸の壁のなかでその場所を見つけ、それを開けられるのは、事情に通じた人間だけだった。

こうした細部を確かめ、ニキーチチと取り決めをして、帰り道にもう一度ワシーリー・エゴロヴィチに会うと、私はオリョールへ戻った。そのころ一緒に中央委員会中央技術ビューローを動かしていたゴルプコフとともに、ここへ人を配置するためである。

印刷所とその対外関係の責任者として、オリョールから「チョールト」(V. I. ボゴモーロフ)が送られた。彼と同時に、サマーラの印刷所から送られてきたばかりのグルジア人植字工サンドロ(A. I. ヤシヴィリ、現グルジア労働人民委員)が行った。

11月の初め、中央委員会中央技術ビューローはオリョールからモスクワへ移され、印刷所はその直接の管轄下に入った。「チョールト」は、その少し前に黒百人組に殺されたグロジャンの後任として、戦闘組織へ配置換えになった。印刷所の管理で「チョールト」の後を引き継いだのは、E. D. ソコロワである。

非合法印刷所にとっては、あまり「都合のよくない」時期が来ていた。どうやらやることがないようになったという意味である。党の新聞も雑誌も合法に出ていた。定期刊行物でない文献は、ミャグコフスキーの「コロコール」のような出版社から膨大な量で放出されていた。檄の印刷は意味を失いつつあった……。印刷所で働く者たちは反乱を起こした。「外に出しろ!」と。そして集会から集会へと駆け回った。オデッサの印刷所は、「世間並みに」自前の看板を掲げた。バクーの大きな印刷所は、ペテルブルクへの旅支度に梱包されつつあった。

モスクワの井戸のなかの印刷工たちもしょげ返り、やはり「解散」を要求した。この問題がニキーチチのもとへ持ち込まれ、答えが返ってきた。「どんなことがあってもだめだ。それがイリイチの意見だ」。若者たちは観念した。ただ、もっと自由に外出し、集会や広い集まりに出入りする許可を求めただけである。

そしてまた「カフカースの店」での暮らしが流れはじめた。今度は彼らにとって退屈な暮らしである。商品はないに等しい。臭いカフカースのチーズが二つ三つ、イナゴマメが1プード半、それに干しぶどうが1プード。壁も棚もがらんとしている。客のいぶかしげな問いにはこう答えた。

「ここは小売りじゃなくて卸売りで。品物は倉庫にあって、ここにあるのは見本だけです」

それでもこの「見本」が客に、なぜか「注文」をしたいという気を起こさせると、しぶしぶそれを受けて果たさなければならなかった。そういうときは、ここに住む「商人」の誰かがスハレフカへ出かけていき、たいていは注文を受けた値段に自腹を切って上乗せした。

いずれにしても商売はぱっとしなかった。そして店には「主人」の家族と三人の「店員」が住む住まいがついていた。カフカースの人間でなくとも、誰だって気が滅入る。

そのころそこには、生粋のロシア人ワシーリー・エゴロヴィチのほかに、主人とサンドロを含めて四人がいた。主人は地下室へは降りず、事業全体を「最高」監督するだけだった。商売は1日に数枚の硬貨で数えられるほどで、客はたまたま迷い込んだ者だけだったので、主人は一日じゅう長持の上に寝そべっていた。そして客が来てもたいてい起き上がりもしなかった。品ぞろえは、求められるものの何十分の一だったのである。

「ここ、カフカースの店ね。どこからあんたに石鹸出すか?」

「マッチ、ないね、旦那」

そして、アストラハンのペルシア商人のように、まったく平然と寝そべったままでいる。

だがその平然たる安らぎを、しばしば立番の巡査が破った。立番所はすぐ近くにあり、巡査は退屈になるとここへしゃべりに来た。主人は長持から降りて愛想笑いを浮かべ、客にクルミを振る舞い、二人のあいだで身内のような話が始まるのだった。

「商売はちょぼちょぼかい?……」

「商売なんか!……物乞いに出るしかないね」

巡査を相手にするとき、彼はわざと訛りを大げさにした。

「それだよ、俺もまずいと思うんだ。品物をもっと増やさなきゃ」

「品物増やす、金もっと要るね。道、通らない、荷、来ない、カフカース帰るね」

「それに、なんだってそんなに大勢、店員を食わせてるんだ?、ほら、チェッカーなんかしてるぜ」

「ぶったたくぞ!……」と主人は「店員たち」に飛びかかる。店員たちはチェッカーを放り出して脇へ退くか、主人の部屋へ引っ込む。

「身内だよ、どこへ追い出せるね?」

実際、店員たちには今やすることがないようなものだった。そして彼らは一日じゅうチェッカーをして、自分の店の商品である三等品のクルミを平らげていた。そして夜になると、あちこちの集会へ散っていった。

12月が来た。モスクワはバリケードで飾られた。「カフカースの店」は中心部から完全に孤立した。そこの住人たちはチェスのかわりにバリケードへ出かけていった。それでもうまく切り抜け、ただひとりがコサックの巡回隊にばったり出くわして少々もみくちゃにされ、モーゼルを取り上げられただけだった。そして蜂起のあと、彼らはまた店に身を寄せ、だらけるなという命令に従った。

だが1月にはもう、機械を磨いて仕事に備えなければならなかった。事業の撤去を禁じたイリイチは正しかったのだ。新聞はどれも息の根を止められた。せめて中央委員会の決議や指令を刷る場所だけでも確保することを考えねばならなかった。「統一のためのストックホルム大会」の準備が始まっていた。中央委員のルイコフがそのころモスクワに住んでいて、印刷所に「準備せよ」という指令を出した。ある程度の自由はまだ残っていた。少なくとも、サードヴァヤ通りでたまたま目についた彫刻工房に、まったくおおっぴらに「党報」という題字の凸版を注文できたほどだ。だが紙は、ほとんど以前と同じ用心をして、商品の箱という触れ込みで印刷所へ運び込んだ。

仕事の材料が届いた。すると働き手たちは活気づいた。彼らはふたたび10月以前の皮をかぶった。以前と同じ用心をして、夜には店を閉め、サンドロと仲間たちを一晩じゅう井戸のなかに残した。そして以前と同じように、彼らは朝になるとそこから出てきて眠りについた。すっかり青ざめ、頭が鳴ったように重くなっていた。地下が広いはずはなかった。それは言うまでもない。部屋と呼ぶことさえできなかった。ただ天井を削り取っただけの洞窟で、湿っぽく冷たく、穴蔵のようで、小さく、狭く、息苦しいことは墓穴のようだった。その真ん中を印刷機が占めていた。そのそばの壁際に活字ケースが2台。その前には、立ったままでもせいぜい2人がやっと収まるだけだった。だが2人同時に作業することはもうできなかった。狭すぎたのだ。そのうえ、息をするものがなかった。新鮮な空気はどこからも入ってこられなかった。おそらく、人が最初にここを訪れただけで、印刷所にはもう酸素が一原子も残っていなかっただろう。みな、しだいに濃くなっていく炭酸ガスを吸っていたのだ。

夜の作業のあと、朝になると三人の働き手はみなまったく使い物にならず、ぶっ倒れて、死人のような印象を与えた。それでも彼らは毎晩、一夜ごとに寿命が削られていくのを確かに知りながら、またそこへ入っていった。

この『党報』が何号出たかは、もう覚えていない。

だが最初の号が出て、それをペテルブルクへ送るために運送会社「ナデージダ」に預けたとき、ちょっとしたつまずきが起きた。荷の受付係が開封を求めたのだ。そうしなければ「会社」は配達と保管に責任を持てないというのである。

「ご存じのとおり、物騒なご時世ですからね」

荷を預けていたエレーナは拒んだ。

「荷は私のものではありません。持ち主の許しなしに、そんなことはできません」

「明日まで」荷は事務所付属の物置に置いておき、エレーナが持ち主と話し合う、ということで話がついた。

開封など、もちろん論外だった。だが何か逃げ道を考えねばならない。

荷を引き取ることにした。だがそうすれば疑いを招きかねず、あっさり警察を呼ばれて事件を引き渡されるかもしれない。そんな結末を避けるには、この引き取りをすばやくやってのけねばならない。

そして翌日、「戦力を動員した」。エレーナは自分の辻馬車屋を連れて事務所へ出かけた。倉庫の門のところでは V. D. ゴルプコフが彼女を待ち、倉庫での「動き」を見張って、必要とあらば、倉庫からほど近いところで持ち場についている私たちに合図を送ることになっていた。その持ち場には、私のほかに A. P. ゴルプコフ、A. I. ルイコフ、A. I. ヤシヴィリ(サンドロ)が、リボルバーを持って待機していた。警報があれば、荷を運び出すまで倉庫の建物を封鎖するつもりだった。

だが事は予想よりずっとあっけなく終わった。開封の話はもう出なかった。そしてエレーナは、「持ち主」が荷を引き取りたいと言い出す必要さえなかった。

荷はあっさり秤にかけられ、送り状が渡され、ペテルブルクで無事に受け取られた。檄も刷られた。だが印刷所の仕事は夏の初めまで続いた。そのころまでに、合法的に印刷する可能性がいくらかふたたび現れはじめた。そのうえ、あれこれのビラを刷るために民間の印刷所を利用する方法、いわゆる「占拠」、つまりたいていは、割高な料金を払って持ち主とあらかじめ取り決めをしておくやり方が見つかった。サンドロはこの仕事のやり方がすっかり気に入り、暇なときには誰にも言わずに、どこかの「占拠隊」に加わっていた。

だが「カフカースの店」でのこの本当に退屈なだらだらした状態(「仕事でもなければ、無端でもない」)をいつまでも続けるわけにはいかなかった。店には商品が、働き手には生活費が要った。その資金の供給が滞った。この先も非生産的な支出を続けることの妥当性が問われた。人々は無為と、たえず互いに縛られていることで神経をとがらせ、自分たちの「共同体」を重荷に感じはじめた。そしてあるときは、チェスの最中に平手打ちとリボルバーでの脅しにまでなった。働き手同士がたえず互いの不平を言い合った。「主人」はしょっちゅうヤフカへ通っては泣きついた。彼のところには「女中」としてイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクの女工がいた。仲間内の人間で、事情もすべて知っていた。だが彼女にはひとつ欠点があった。人前でさえ女中らしく振る舞おうとせず、「主人」を「同志」と呼ぶことも少なくなかった。印刷所の住人に定められた、まわりの世界からの隔離も守ろうとしなかった。彼女自身も世間へ出ていき、世間もまた彼女のもとへ入り込んでいたようだ。

これ自体はまだ何の脅威もはらんでいなかったのかもしれない。彼女はまったく自覚ある人間だった。だがもちろん、それを許すわけにはいかなかった。どれほど自覚が高くとも、脅威はいつまでも頭上にぶら下がり続けただろう。

そして主人のカフカース人らしい気性が耐えきれなくなった。

「あいつを切ってやる!……」

事態はあまり飲み下しがたい方向へ転がりはじめた。

そこで、冗談ではなく、ある晴れた朝、私は「アレクセイ」(ルイコフ)のもとへ向かった。彼はそのころ、医助スハルチェンコの旅券で、ピメノフスキー横丁の向こうのどこかの路地に住んでいた。私は事業の撤去と働き手の解散の問題を持ち出した。話し合っている最中に、生き生きとした決然たる様子で、あごを剃り、見事な赤い口ひげをたくわえた、ある同志が部屋に入ってきた。その眼差しは鋭く、聡明だが、同時に「腹に一物ありそう」でもあった。

そして頭にかぶった顔つきの帽子とあいまって、私にはヴォルガ沿岸の家畜商のような印象を与えた。アレクセイは私たちの話を打ち切ろうとしたが、入ってきた男は「続けて」と彼を制した。そしてすぐに、黙ったまま話に加わった。まるでもう十分に知っている話でもあるかのように、楽しげに目をきらきらさせながら。私が事情の説明を結んだ結論にも、すっかり賛成しているようにさえ思われた。だが彼は黙ったまま、ただ共感をこめてかすかに微笑みながら、ちらちらとこちらを見ていた。そして帽子を脱いだ。それで私は言葉の途中で詰まってしまった。その精力的で若々しく陽気な顔から思い描いていたものとはまるで違う、つるつるに禿げた頭だったのだ。それはもちろんウラジーミル・イリイチだった。だが私がそれを知ったのは、あとでアレクセイからだった。つい先日『プラウダ』の記念号の付録に載った彼の肖像は、どうやらあの遠い時代に近いころの彼を描いたものらしく、今私が語っているこの話をすべて記憶に呼び覚ました。この鮮やかな契機がなければ、この話は、ほかの同じような話の山の下で、そのまま風化していったかもしれない。

それでも結局、印刷所は「たたむ」ことにし、住まいだけを一時的に持ちこたえることにした。

それより前、1905年10月以前に、ココレフスキー宿場に専用の物置が借りられていた。そこには印刷所のために買った紙が積まれていた。購入先から直接印刷所へ運ぶことは許されなかったからだ。印刷所で刷ったものもここへ運ばれ、それからここで振り分けられて発送された。「ピクリンカ」も、実験室に回されるまでは一時的にここに保管されていた。

今度は印刷所もこの物置へ運ばれた。印刷所は、倉庫で保管するためにきちんと手入れして梱包された。機械の部品には入念に油が差され、活字は拾い集めて仕分けられた。そしていつでもすぐに作業を始められるよう、活字ケースに並べたまま梱包された。だがさしあたり、それを使う具体的な見通しは何もなかった。はっきりしていたのは、「万一に備えて」保管しておく必要がやはりある、ということだけだった。だが古い住まいに置いておくのはもう無理だと思われた。サンドロは民間の印刷所に勤めはじめ、必要になりしだい事業を立て直すと、心から熱っぽく約束した。そして店の主人は、「商品」の残りを売り払って、家族とともにカフカースへ去っていった……。

撤去が終わったのは1906年7月である。アレクセイはもうブトゥイルカ監獄にいて、追放を待っていた。8月の初め、私は彼の隣の房に入れられた。そしてアレクセイが去ったあと、彼の執務室はゴルプコフに与えられた。サンドロは私が逮捕されたあと、私の住まいを片づけた。妻が私と一緒に逮捕され、住まいには書類がたくさん残っていたからだ。そして数か月後、サンドロも中庭を通って押送廊下へと過ぎていった。印刷所はまだ倉庫に置かれたまま、「よりよい」時代を待っていた。

ブトゥイルカ監獄は、私と妻を3年間留め置いた。1907年の夏の終わり、印刷所と一緒に捕まった三人の同志が独房に連れてこられた。どこで、何が、どうだったのかと探ってみる。すると、まさにあの私たちの印刷所だという。それはふたたび物陰から引っ張り出され、数か月稼働したのだ。やはり「カフカース物産」の店で、やはりあの哀れな品ぞろえで。ただし以前のようなモスクワのはずれではなく、スレチェンカで。そしてもちろん、しくじった。笑い事ではなく、悲しくなった。その年の冬には、枕と毛布を持った「チョールト」が、私の房の前の廊下を通り過ぎていった。あの「チョールト」、これほど見事に秘密を守った印刷所の最初の責任者だった彼が、今度はばらばらの活字1プード半と手刷り用の印刷ローラーを所持していたという罪で暴かれたのだ。

哀れな「チョールト」……。これはもう、彼の輝かしい過去への愚弄だった。

この物語の始まりからちょうど4年後の1909年8月、私たちはシベリアへ送られるため、ブトゥイルカからレスナヤ通りを通ってブレスト駅へと引かれていった。そしてかつての「カフカースの店」の前を通り過ぎるとき、妻がそれを私に教えた。私はそれまでその店を見たこともなく、どこにあるのかさえ知らなかった。妻がこの仕事を引き継いだとき、二人でそう取り決めていたのだ。今や店の扉は固く閉ざされ、その上には看板ひとつ掛かっていなかった。

この別れの日から14年が過ぎた。そのうち11年を私たちはシベリアで暮らした。そして14年前、私たちは最後にレスナヤ通りを通ったのだ……。

今や党には、費やす労力の点でこれほど大がかりで、秘密保持の点でこれほど複雑な仕掛けは必要ない。労働者階級が、モスクワだけでなく、もっとも巨大で技術的に完成された印刷所を含め、あらゆる印刷所を独占的に、公然と、権力をもって支配している。今や、どこかのちっぽけな「アメリカンカ」と数プードの活字をそこに隠し、自分たちの最良の献身的な同志たちを空気のない暗い穴蔵で確実な死に追いやって、鮮やかで、誠実で、真実の思想を印刷の版に変えるために、何か月もかけて井戸や地下を掘る必要はない。

印刷の技術を我がものにするという点で労働者階級が今登りつめたその高みから見れば、レスナヤ通りの私たちの地下印刷所は、限りなく小さな、有史以前のもの、「印刷工イワン・フョードロフ」の時代の何かのように思える。

だがそれでも、この印刷所は大きな、輝かしい仕事を成し遂げたのだ。それは、労働者権力と、それとともに労働者の印刷物という、今日の巨大な建物がその上にそびえ立った土台の、石のひとつなのである。

そしてついこのあいだ、わずか20年前には、この印刷所は大きな重要な事業だと思われ、実際にそうだったのだ。

今、私たちの「カフカースの店」が「繁盛した」レスナヤ通りのあの家を、まだ無事なら調べてみるのも興味深いだろう。そしてそれが無事に残っていて、井戸と地下を復元できたら、もっと興味深いだろう。それは、大きく鮮やかな「労働者革命の歴史」の一片なのだから。

編集部より。現在この建物はモスクワ県イストパルトによって復元中である。

V. ソコロフ

第4章 訳注

  1. 文体:ソコロフの文章は第1分冊と同じく地の文なので「だ・である」体で訳した。
  2. 主人の訛り:原文では「магазын」「тэбе」「нэт」など、カフカース風の訛りを文字で表している。訳では片言風の話し言葉にした。本文にもあるとおり、巡査の前でわざと訛りを大げさにしている。
  3. 「チョールト」:V. I.(第1分冊では V. M.)ボゴモーロフ。第11章の著者。
  4. グロジャン:本文には姓だけ。戦闘組織の指導者で、黒百人組に殺されたとある。
  5. ミャグコフスキーの「コロコール」:1905〜1907年に革命文献を大量に出した出版社。
  6. 「統一のためのストックホルム大会」:1906年4〜5月のロシア社会民主労働党第4回(統一)大会。
  7. 「占拠」:民間印刷所を一時的に占拠して革命文書を刷るやり方。1905年秋に広く行われた。
  8. 「ピクリンカ」:ピクリン酸。本文は保管の事実を述べるだけで、訳でも補足はしない。
  9. レーニンの肖像:「つい先日『プラウダ』の記念号」は、執筆時期から、1923年の『プラウダ』創刊記念号を指すと考えられる。
  10. イワン・フョードロフ:16世紀のロシア最初の印刷業者。
  11. 強調:原文の隔字(字間をあけた強調)は太字で示した。
  12. 年代の食い違い:第3章ストゥルアは印刷所の撤去を1905年末としているが、ソコロフは1906年にも『党報』を刷り、撤去は1906年7月とする。なお、本文の「14年」「11年」は原文どおり(1909年から14年後は1923年)。
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