【訳者注】底本PDFでは61〜62頁が欠けており、自伝の冒頭(肖像と、おそらく生い立ちの部分)は訳せない。63頁の本文から訳す。
1894年の初めから、チフリスでは、当時革命的な若者たちの中心だった神学校の政治的同盟休校の影響を受けて、神学校やほかの学校で生徒の非合法サークルが組織されはじめました。私が1894年から加わっていたサークルは、はじめ半ば民族主義的で半ばマルクス主義的な綱領を持っていました。1896年の春からは、労働者と生徒からなる、もう混成のサークルのメンバーとなり、このときから私のマルクス主義的な教育が始まりました。当時の非合法文献すべてに、『同時代人』、新しい『神の世界』、『サマーラ通信』、それから『新しき言葉』の論文に、私たちはこのうえない貪欲さで飛びつきました。
1897年の夏、さらに教育を受け続ける資力がなかったので、私は鉄道に就職し、ザカフカース鉄道本工場の組立工場で働きました。そこではじめて、労働者サークルで宣伝員・組織者として働くようになったのです。そのころまでにチフリス組織は、チフリスのほかの工場でも活動を目に見えて広げていました。私たちの組織は当時すでにペテルブルクの「労働者階級解放闘争同盟」と、ロシア社会民主労働党第1回大会のあとはロシアのほかの組織ともつながりを持っていました。
1898年9月、私は機関助手としてバクーの機関区への転勤を受けました。バクーではまもなく、鉄道労働者のほかに、油田地区の工場や油田の労働者ともつながりをつくりました。
当時バクーには、あの有名なズバートフによってモスクワからそこへ追放された労働者の小さなグループのほかには、社会民主主義の組織はひとつもありませんでした。彼らと一緒に、私はバクーの3つの地区(市内、サブンチ、バラハニ)で労働者のサークルを組織することができました。ですから1899年の初めが、バクーの社会民主主義組織の創設の始まりだと言えるでしょう。
鉄道馬車ストライキの組織者としてチフリスから追放された故ウラジーミル・ケツホヴェリ同志がバクーへ来ると、バクー組織の本格的な活動と強化が始まります。1899年、1900年、1901年のあいだに、私たちはバクーにロシア社会民主労働党バクー委員会をつくり、各地区での活動を広げ、小さな非合法印刷所をつくる、等々のことをやり遂げました。私の党名は「クラースナヤ・ルイブカ(小さな赤い魚)」「アブドゥル」「アベリ」です。
1901年の春から、私は党の提案で革命活動に全面的に身を投じ、ケツホヴェリとともに地下で活動しました。1901年の秋からはバクーに『イスクラ』グループがつくられ、それ以来私たちは『イスクラ』と絶えず連絡をとっていました。このあいだに私たちはバクーに大きな非合法印刷所を組織し、そこではとりわけ『イスクラ』第7〜11号、『南部労働者』第5〜8号などが復刻されました。またバトゥーミ経由で国外文献の運搬を軌道に乗せました。
1902年4月、メーデーのデモのために逮捕されました。同年5月に釈放されたあとも組織での活動を続けましたが、同年9月2日、ケツホヴェリとともにふたたび逮捕され、チフリスのメテヒ城塞へ移され、1903年の夏までそこにいました。夏には、ロシア社会民主労働党第2回大会への代議員の派遣に加わりました。1903年秋、ふたたび逮捕されて東シベリアへの流刑に送られましたが、途中で逃亡し、ついに非合法の身となりました。
1903年11月からは、党中央委員会の決定により、ロシア社会民主労働党中央委員会の大きな地下印刷所で、その印刷所がたたまれ、1906年2月にペテルブルクへ移される(ボリシェヴィキの印刷所「デーロ」)まで働きました。
1906年にはペテルブルク組織で活動しました。国会解散のあと、カフカースでの活動のために派遣されました。
1906年秋の全カフカース大会のあとは、バクー委員会(ボリシェヴィキ)およびロシア社会民主労働党カフカース連合委員会のメンバーとしてバクー組織で活動し、1907年5月5日、ボリシェヴィキのバクー協議会で逮捕されました。
秋にはヴォロネジへ追放されましたが、そこから非合法にバクーへ戻り、タンメルフォルスでのボリシェヴィキ全党協議会まで働きました。その道中、1907年11月9日にペテルブルクでフィンランドへ向かう途中に逮捕され、「クレストィ」監獄に入れられました。
1908年5月、アルハンゲリスク県へ流刑となりましたが、9月にそこから逃亡してペテルブルクへ戻りました。国外へ亡命するよう勧められましたが断り、ペテルブルクとフィンランドで3か月潜伏したのち、オネガ郡の流刑地へ戻り、1910年7月に流刑を終えました。
1910年秋からはバクー委員会のメンバーとしてバクー組織で活動しました。ボリシェヴィキ全ロシア協議会の組織がたけなわのころ、シャウミャン、カスパロフ、チェルノマーゾフらの同志とともに、1911年9月に逮捕されました。
1912年7月まで獄中にいて、カフカースからの境外追放を言い渡されました。
1912年10月から12月まではロストフ・ナ・ドヌーで活動しました。12月にモスクワへ移りましたが、そこから「24時間以内に」退去を命じられ、ペテルブルクへ向かいました。
1913年の初めから1914年7月まではペテルブルクで活動しました。
1914年7月4日に逮捕され、同年10月にエニセイ県へ流刑となりました。
1916年末、流刑地から兵役に召集されました。クラスノヤルスクで兵卒として勤務し、1917年2月22日、そこからペトログラード経由で前線の野戦軍へ送られました。
ペトログラードには2月27日の朝、つまり革命の初日に到着しました。
2月28日から3月3日まで、ペトログラードでの軍隊の街頭行動に加わりました。
ソヴィエトの4月協議会までは、ペトログラード駐屯軍の各部隊で活動しました。4月には全ロシア中央執行委員会の委員に選ばれ、ついでペトログラード・ソヴィエトとその執行委員会の委員になりました。それ以来、切れ目なく全ロシア中央執行委員会の委員であり、そこでははじめ軍事部長として、1918年秋からは全ロシア中央執行委員会幹部会員兼書記として働いています。
A. エヌキッゼ
1922年11月13日
第2章 訳注
- 文体:第1章との統一のため「です・ます」体で訳した。原文は履歴書風の簡潔な文体。
- 雑誌名:『同時代人』(Современник)、『神の世界』(Мир Божий)、『サマーラ通信』(Самарский вестник)、『新しき言葉』(Новое слово)はいずれも合法マルクス主義系の雑誌・新聞。原文は「非合法文献すべてに、……の論文に」と並べている。
- チェルノマーゾフ:第1分冊の引き継ぎメモで挑発者として挙げられている「ミロン(チェルノマーゾフ)」と同一人物と考えられる。本文は一緒に逮捕された同志として挙げている。
- 日付:本文の日付は旧暦。「革命の初日」は二月革命。
- 「アベリ」:第1章でレーニンが「アベリ同志」と呼んだのはこの党名。本名のアヴェリ(Авель)と同じ綴りだが、本文どおり党名としては「アベリ」と表記した。