(レオニード・ペトロヴィチ・ラージンの思い出に)
この回想は私がすでに1914年に書いたもので、新聞『プーチ・プラーヴディ(真理の道)』1914年5月1日付第75号に「古参の同志」という筆名で掲載された。われわれの新聞のこのメーデー号は、ペテルブルク検閲委員会の命令によって警察にただちに押収されたが、それにもかかわらず、号の一部を救い出してペテルブルクと地方の労働者のあいだに配布することができた。現在、以前は秘密保持と検閲上の理由から発表できなかったいくつかの細部をこの文章に補うことができるので、まさにその補った形でこれを公刊する。――ボンチ=ブルエーヴィチ
1
ロシアの社会民主主義者の事業と暮らしに古くから加わってきた者として、同志諸君、私はここで、自分なりに、諸君に話しておきたい。わずか25年前に、諸君の先達は、プロレタリア印刷物の自由な声を勝ち取るために、当時まだほとんど団結も自覚もなかった労働者の隊列に、どうにかして自由な言葉の火をともそうと、どれほど信じがたい努力と工夫を重ねなければならなかったかを。
1時間に2万5000部を吐き出す輪転機で今われわれの新聞を刷っている諸君には、おそらく想像もつかないだろう。25年前、組織されはじめたばかりのプロレタリアートにとってどうしても必要だったものを、われわれがどんな条件のもとで刷っていたかを。
私と一緒にモスクワへ行こう。エジソンのミメオグラフがいわば発明しなおされた、あの場所へ。この持ち運びでき、使い勝手がよく、プロレタリアの事業に巨大な奉仕をした印刷機は、最後の非合法印刷所が叩きつぶされ、それを新たに設ける希望も当時はほとんどなかった、まさにそのときに現れたのだ。
2
ずいぶん昔のことだ……。前世紀の90年代、飢饉の年々のあと、ロシアじゅういたるところで、目に見える騒然とした気運が現れはじめた……。そこらじゅうで、雨後の竹の子のように、サークルや同郷会、小さな組織が生まれはじめた。当時まだ世の中に出たばかりだったわれわれは皆、西欧マルクス主義の思想にいよいよ深く染まりながら、全力をあげて探し求め、このうえない苦労の末に手に入れていた。「労働解放団」の在外版の本、マルクスの『資本論』第1巻、N. G. チェルヌイシェフスキーやラサールの著作など、当時厳しく禁じられていた書物である。そしてそれを回し読みし、研究し、読みふけって、その上に自分たちのマルクス主義的な確信を築いていった。それは、敵対的なブルジョワ的・専制的な生活のやがて来る波に対して、堅固な砦のように対置しなければならないものだった。理論的な勉強だけでは満足できなかった。実生活、実践、人々との交わりが欲しかった。そしてあらゆる手を尽くして労働者との接近を求め、彼らのあいだに自己教育のサークルやグループなどをつくっていった。まもなく、檄や宣言、小さな小冊子などをたえず刷る必要がどうしてもあることがはっきりした。
どうやって刷るか?どこで、何で刷るか?これが、いつもわれわれ皆を悩ませ、苦しめた問題だった……。国外からの運搬は当時ほとんどなかった。そこでわれわれはヘクトグラフ用のゼラチンを大量に煮、それで必要なものを50部か75部、ひそかに刷って、この大切な紙切れの紫色の刷りを配った。そういうビラは一枚一枚がこのうえない宝物とされ、手垢で油染み、穴があくまで読まれ、読み返された……。
ところが突然、天才的なアメリカ人エジソンがミメオグラフを発明したという記事が新聞に載った。つまり、これといった特別な装置もなしに、ごくわずかな場所しかとらず、便箋大までの大きさの刷りを何千枚もすばやく手軽に複製できるような装置である。
「こりゃまるでわれわれのためにつくられたようなものだ」と、われわれは話し合った。「手に入れなきゃ……。必ず手に入れるんだ。だがどうやって?あの妨害と障害の省は、きっともうこいつを死の鎖で縛りつけているだろう」
それは高価で、しかもそういう機器にはいちいち厳重な監督官の見張りと監視がついているので、買うことはほとんどできないとわかった。
われわれはしょげ返った……。
そのとき、生まれたばかりの若い運動を助けに、われわれ自身のなかから現れたのが、われわれの親しい友であり、年長の同志であり、師であり同志である、今は亡き「ロシアのエジソン」、レオニード・ペトロヴィチ・ラージンである。
今でも彼のことをよく覚えている。人のよい、控えめな、いつも本を読み、いつも考えている同志で、中背でがっしりし、大きな黒いひげをたくわえ、垂れ下がった黒い眉の下の奥深くに、炭火のように燃える目があった。
L. P. ラージンはわれわれよりずっと年上だった。われわれは20〜22歳で、彼は当時もう四十近かった。彼はまだナロードニキの時代から来た人だった。大学を優秀な成績で卒業し、天才的なロシアの化学者メンデレーエフのお気に入りで才能ある弟子のひとりとして私講師に残るかわりに、理念によって民衆の教師になり、そこで民衆の奥深くに、自覚と現実への批判的な態度の種をまいていた。国外に「労働解放団」が現れると、彼はこの団体の熱烈な支持者となり、その見解を至るところで実践し、広め、ロシア・マルクス主義の才能ある先駆的イデオローグたちの筆から生まれるものをすべて読もうと努めた。
さまざまな冒険の末にモスクワへ移り住むと、レオニード・ペトロヴィチは、友や同志が向こう、国外で刷っているものをここ祖国で複製するためにも、地元の必要のためにも、社会民主主義者の秘密印刷所を組織しようと固く決心した。この夢を練り上げながら、彼はモスクワのデヴィチェ・ポーリェに近い人目につかない横丁のひとつに、ふさわしい住まいを入念に選んで住みついた。人通りの少ないひっそりした中庭の、離れの建物の、アーチ天井の上の2階に、台所と玄関つきの二間の小さな住まいを借りたのだ。住まいには、入口で下から鍵をかける小さな回廊があり、その窓は中庭に面していた。のちに、彼の住まいを訪れる者は誰も、その窓を見ずに入ることはできなかった。そこにはいつもはっきりと、住まいに入ってよいかどうかを示す取り決めの合図が見えた。窓辺には花の鉢が置かれ、夜には灯がともっていた。
呼び鈴が鳴ると、いつも彼自身が、彼だけが、かたく鍵をかけた扉を開けに行った。落ち着いて、あわてず、まず花を部屋に入れて遠い窓のひとつに置き、それから自分で扉を開けに行く。夜は鈴が鳴るたびに常夜灯を消し、それを特別に用意した場所へ隠して、すぐにマッチを擦った。その自制心は驚くべきものだった。客を送り出して住まいの玄関の扉を開けねばならないときも――誰にわかろう、もう中庭に警察が潜んでいて、彼のところへ踏み込む好機をうかがっているかもしれない――、彼は客を送りながら、やはり落ち着いて堂々と、かならず合図を消し、それからはじめて扉を開け、いつも通りでは用心と細心の注意を払うようにと念を押した。彼は、ごく近しい何人かを介して彼とつながっている若いモスクワの労働者の組織が、何かの不注意のために摘発されることのないよう、それほど気を配っていたのだ。そして次に彼らに会うと、いつも入念に問いただしたものだ。
「航海はどうだった?」つまり、彼のところからどう帰ったか?通りに誰がいたか?出ていくとき屋敷番を見たかどうか?道中、後ろを誰かが歩いていなかったか?車寄せに誰か立っていなかったか?何時に家へ戻ったか?などなど。
そしてわれわれは彼の教えを神聖なものとして守り、入念な秘密保持の技をしっかりと身につけた。この学校を経た者はきっと、秘密保持のたいへん複雑な活動と仕事のなかで、その賢明で、このうえなく理にかなった用心深い助言を一度ならず思い出したことだろうと、私は確信している。われわれは幸いにもその活動に携わることができ、この日々のあとの二十年間、それを続けてこなければならなかったのだ。誰にわかろう、この仕込みは、この先もまだ役に立つかもしれない……。
非合法印刷所の構築をあれこれ考えている真っ最中に、エジソンのミメオグラフの知らせが届いたのだった。
L. P. ラージンは考え込んだ。
「アメリカ人がこんなに軽くて便利なものを考え出したというのに、大がかりな印刷所などで苦労する値打ちがあるだろうか?」と、彼は自分の事業に通じたわれわれに言った。
ミメオグラフをつくり、それを手工業で簡単につくれるようにしなければならない……。
言うのはやすいが、どうやって?……
ちょうどそのころ、クズネツキー・モストのブロック商会に最初のミメオグラフが現れた。この商会はロシア全土でただひとつのエジソンの代理店で、自転車やタイプライターなどの販売も代理していた。
レオニード・ペトロヴィチはクズネツキー・モストに姿を見せるようになった。ほかの散歩客の人波にまじってゆっくりと歩き、店の前で立ち止まり、ほかの店と並んでというふうに、だがどの店よりも長く、ブロック商会のショーウィンドーの前にたたずんだ。そこには美しく仕上げられた、おもちゃのように形のよいエジソンのミメオグラフが飾られていた。その外観を十分に観察し、店でミメオグラフの印刷された広告をもらうと、そこには使い方が詳しく書いてあったので、L. P. はすっかり製図に没頭し、その絵をもとに、自分の手でその外観の模型をこしらえはじめた。
だが、この一見簡単な装置の秘密はどこにあるのか?いや、そこには秘密がたくさんあった!まず何か特別な成分のインク。次に、刷りたいものを書きつけるパラフィン紙。それがいわば版となって、そこを通して文字が刷られるのだ。そして最後に、機構の内部のつくりすべて。ヤスリのように細かく目を切った、長さ1アルシン、幅その4分の3の平面、何かの網、ローラーなどなど。
あるとき L. P. はわれわれを自分の新しい計画に引き入れ、われわれはできるかぎりのことで彼に尽くすことになった。まず彼の住まいがそれに合うように整えられた。彼は化学実験をたくさん行わなければならなかった。それを大っぴらにやることはできない。変わったものはいつも入念に隠さなければならない。というのも、生じかねない疑いを散らすために、ほとんど毎日、屋敷番をレオニード・ペトロヴィチのところへ呼んでいたからだ。屋敷番は水や薪を運び、汚水やあらゆるごみを運び出した。わざと何かの用事であちらの部屋、こちらの部屋へと彼を通し、住まいの様子を見せて知らせておいたのだ。われわれの何人かに屋敷番が気づかないはずはなかったので、あるとき「たまたま」彼に、L. P. はわれわれに授業をしていて、われわれはある者は志願兵、ある者は教師の試験の準備をしているのだ、と知らせておいた。
L. P. の住まいの台所には、隣の部屋へタイル張りの面を見せている巨大なロシア暖炉があった。そこでわれわれは、暖炉の裏側全体を実験室の保管場所にすることにした。そのためにタイルを二枚、入念に取り外した。それは元の場所にぴったりはめ戻せた。タイルの奥の、暖炉の本体そのものにかなり大きな空間をうがち、レンガやがらくたはわれわれがポケットに入れて運び出した。こうして、この秘密の保管場所に、のちに研究に必要なもの、器具などをすべてしまったのだ。
3
保管場所ができあがると、モスクワ川がその向こうに見える空き地に面した窓には、まったく光を通さない黒いカーテンがしつらえられ、夜に作業をするとき、部屋に灯がともるやいなや、たくみに下ろされた。
この部分がすっかり整うと、ただちにクズネツキー・モストのブロック商会へ「遠征隊」が派遣された。自転車乗りの服装をした四人が、身なりを整えたレオニード・ペトロヴィチと一緒に店に現れた。彼はこの若者たちの叔父の役だった。そしていろいろな自転車の値切りと小調べが始まった。若い主人、たしかブロックの息子だったと思うが、彼が、一度に自転車を五台も値切っている陽気で人なつこい客たちにすっかり夢中になり、買い手と売り手のあいだにこのうえなく親しい関係ができあがり、ついに値段で最終的に話がついて――自転車は明日取りに来ることに決めた――、その場で店の珍しい品々に興味を示しはじめた。タイプライターをじっくり見て、きっと買おうと約束し合い、ついにミメオグラフにたどり着いた。
「こりゃあ何です?」
「いやあ、たいしたお店だなあ!何でもある」
「ほんとだ、たぶんロシア中探しても、こんな店はほかにないよ……」
おだてられた若い主人は、うちの商会はこれこれの発明家や会社の唯一の代理店です、とばかり繰り返した。
「ミメオグラフは、ロシア中でうちだけしか売れないんですよ。完全な独占です……」
「そんなもの、誰が要るんだい?誰が買うんだい?なんだ、子どものおもちゃじゃないか」と、その場にいた誰かが言い放った。
「子どものおもちゃですって?何をおっしゃいます。ご存じですか、これなら1万部まで刷れるんですよ。事務所も官庁もみんな飛びつきますよ……。回覚状だって、それも印刷所には出したくないような内密のものだって、たくさん書かなきゃならないでしょう。株主へのいろんな報告なんかも……?」
「まさか、そんなことできっこない!とても信じられない。いったいどうやるんです?どうか見せてください。だってそりゃ奇跡だ……。ほんとに、何だか奇跡だ……」と、感激した若者たちは口々に叫んで彼を責め立てた。
「ご覧なさい、ご覧なさい!……」
そして若い主人は客たちに、見事にくっきりと刷られた英語の文書を押しつけた。
「これなんか2000枚目の刷りですよ、こっちは3000枚目か4000枚目……」
勝ち誇った気分になった若いブロックは、印刷の実演をして見せるように命じた。ミメオグラフがテーブルの上に置かれ、部品ごとに広げられた。インク、パラフィン紙、そのほかすべてが運ばれてきた。
経験ある技師の助けを借りて、若いブロックはミメオグラフについての講義を始めた。L. P. は全身を耳にし、目にした。すべてを入念に観察し、覚え込んだ。連れの者たちは、あちらへこちらへと押し合いながら、めいめいに割り当てられた役目を果たした。
ひとりは、うまく仕立てた試験管に、気づかれないようにミメオグラフのインクをすくい取った。もうひとりは未使用のパラフィン紙の切れ端を手に入れようとし、幸運にも、使い終えた同じ紙の切れ端まで拾うことができた。若いブロックは各自に、刷りたての回覚状を一枚ずつくれた。レオニード・ペトロヴィチ自身は、機構の隠れた内部の必要な寸法をひそかに測った。ついにすべてが終わった。若いブロックに礼を述べ、どこでもミメオグラフを推薦すると約束して、ゆっくり店を出ると、すぐに人波にまぎれ、散りじりになった。そして――それぞれまったく別の道を通って――クズネツキー・モストから姿を消した。各自が手に入れたものをすべて、目の玉のように大事にし、切れ端ひとつもなくさないようにして。二日後には、すべてが L. P. の実験室に届けられた。
入念な実験と、このうえなく根気のいる作業が始まった。比較と実験のために、ありとあらゆる活版インクや石版インク、ローラーを鋳造するための印刷用のローラー材(のちにゴムに取り替えられた)を手に入れなければならなかった。パラフィン紙に少しでも使えそうな紙は、あらゆる種類を買い集めた。じつはそこにこそ、事の秘密のほとんどすべてがあったのだ。各部分の模型を入念に製図し、組み立て、ついに、人目につかず、それでいて設備の整った便利な金工場を見つけ、そこでミメオグラフのさまざまな部品を別々に注文した。
だが、いちばん細かいヤスリのような細かい目を切った、ほぼ1アルシンの鋼の板はどうしよう、どこで手に入れよう?
そんな板はどこにもなかった。長いあいだ探した末に、いちばん細かい篩に使われる、いちばん目の細かい銅の網で代用することにした。台の滑らかに磨かれた下面は、厚い鏡用ガラスで代用した。それは木の枠にはめられ、秘密保持のために夜は鏡のように壁に掛けられた。そして「篩」は、やはり秘密保持のために、台所の食器のなかへ片づけておけた。こうして少しずつ、エジソンのミメオグラフが復元され、ロシアで社会民主主義者によって新たに設計しなおされていった。だがいちばん難しいことがまだ先に残っていた。ついに L. P. は、インクの分析ができた、「篩」のざらざらした表面に置いたパラフィン紙の、ひっかいて書いた文字の筆跡によってわずかに穴のあいたところから、やはりやさしく染み出してくる、同じインクができた、とわれわれに告げた。
そしていよいよ、いちばん難しい仕事に取りかかった。それははじめ、われわれ皆をほとんど完全な絶望に陥れた。このごく薄いパラフィン紙はどこでも買うことができず、ブロックはミメオグラフを買った者にしかそれを売らなかった。そしてわれわれの目的にはそれが非常にたくさん必要だったので、家で安くつくる方法を考え出さなければならなかった。紙の地はふつうのものではなく、いわゆる和紙で、細い綿のような繊維のものだった。当時のロシアでは一枚も手に入らなかった。国外と長いあいだやりとりした末、われわれの代理人たちがパリでそういう紙を見つけ出した。だが、疑いを招かずにどうやってそれを大量に取り寄せるか?国外では医者がそれを包帯材料として使っているとわかった。そこで、知らない用途のために、さしあたり自分の名義で包帯材料としてこの紙を何千枚かずつ取り寄せることを承知してくれる外科医や外科医でない医者を探し出した。われわれのサークルとたえずつながりのあったボゴスロフスキー医師は、この件でとりわけ大いに力を貸してくれ、彼の名義でごく薄い和紙を何連も受け取った。この紙の最初の1000枚を郵便で受け取ったとき――今もよく覚えている――の喜びを諸君が知っていたら!それは勝利への巨大な一歩だった……。われわれは、まさにこの紙への大きな需要を見越して、ロシアのさまざまな町の知り合いの医者を通じて、大きな薬局で包帯材料としてそれを求めるようにした。いくつかの病院もそれを求めるようにし向け、四か月ほどでこの紙はもうロシアの薬品市場に現れた。わざとそれを買い占め、ときにはどう始末したものかわからないこともあったが、そうやって需要を支えることで、店での在庫を確かなものにしていった。
残る問題はひとつ、どうやって紙にパラフィンの薄い層をしみこませるかだった。たやすい課題ではなかった。はじめは、きわめて複雑で大がかりな、それゆえ使いにくい装置が考案された。だが作業を進めるうちに突然、笑ってしまうほど簡単で、軽く、便利な、わずか3ルーブリの装置をつくる方法が見つかった。それは、ブリキか亜鉛の板を正確な四分円筒形に曲げたもので、その表面は和紙の表面より少し大きかった。四分円筒の上部には、その全長にわたって、一端を板にしっかりと固定した――上部は脚で支えられていた――亜鉛の小箱が取りつけられていて、四分円筒の外面に接する側に、細かい穴がたくさんあけてあった。そこへ純粋なパラフィンを入れ、下からふつうのランプで温めた。パラフィンは溶けて、下からランプでわずかに温められて固まらない金属の四分円筒の表面を、まったく均一に、ごく薄い層になって流れ落ちた。外側から円筒に和紙をあてると、紙はすばやくパラフィンを吸い、和紙を円筒から離すやいなやパラフィンはたやすく固まった。吸わせた紙をすぐにきれいな書き物用の紙の上に置くと、2分ですべてが固まり、パラフィンを引いた和紙はもう使えるようになった。この円筒は付属品すべて込みで3ルーブリだった。そしてミメオグラフ全体は、インク(2フントずつ渡された)込みで30ルーブリだった。
こうして L. P. ラージンのひっそりした住まいで、1894年末、この勤勉な研究者によって、エジソンのミメオグラフのロシアでの発明がなし遂げられた。それはプロレタリアの印刷物に忠実に仕え、しばらくのあいだ、労働者の運動にとって印刷機の代わりを務めたのである。
この新しい印刷機の製作に直接加わったのは、L. P. ラージンのほかに、ニコライとエブゲーニーのフレロフ兄弟、シニツィン、姓を覚えていないある労働者、それに私、ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチである。
最初のミメオグラフは、1895年の夏、モスクワのオリホヴェツのヴェリチキン家の住まいに据えられ、それで小冊子『モスクワのストライキ』(K. ポポフと S. ポポフの工場、ブロムリー工場、スモレンスク鉄道工場などでの)や、ディクシュタインの小冊子、『エルフルト綱領』そのほかの本、宣言、檄などが刷られた……。
ミメオグラフの最初の印刷工は、ニコライ・ミハイロヴィチ・ヴェリチキン、ヴェーラ・ミハイロヴナ・ヴェリチキナ(ボンチ=ブルエーヴィチ)の兄だった。
ヴェーラ・ミハイロヴナは、この最初のミメオグラフが彼女の母の家に据えられたときには不在だった。彼女はカフカースにいたのだ。出獄後、医者たちが療養のためにそこへ送ったのである。モスクワへ戻ると、彼女はミメオグラフでの作業にこのうえなく積極的に加わり、できるかぎり兄を助けた。兄は主として、われわれのサークルでこの仕事のテフニカ全体を取り仕切っていた。この小冊子もビラも、未知の方法で刷られ、一時はモスクワの労働者地区にあふれかえって、大変な評判を呼んだ。二台目のミメオグラフはサラトフの社会民主主義グループに届けられた。それを旅客列車の手荷物として送ったのは、六十歳のヴェリチキン家の母ワルワラ・ミハイロヴナで、彼女は子どもたちの革命活動すべてにおいて、できるかぎり積極的に子どもたちを助けたのだ。この貴重な荷を、菰で入念に包んで縫いつけ、縄で縛った大きな箱に入れて運んだが、彼女は駅で誰の疑いも招かなかった。その年齢と、ありふれた市井の女性としての外見全体が、憲兵や密偵の注意を引かなかったからだ。三台目のミメオグラフは、ペテルブルクの工科大学の社会民主主義グループに送られた。ミメオグラフの製作には1か月かかった。
L. P. ラージンはミメオグラフの構造に必要な変更をすべて加え、新しい装置がその目的に完全にかなうほどに改良すると、自ら、ミメオグラフとその付属装置すべての構造を入念に記した説明書をつくり、すべての部品を見事に製図し、これをすべて自分の住まいで自分のミメオグラフで自ら刷り、ただちに当時知られていたあらゆる政治的秘密グループや政党のサークルや組織すべてに発送し、手渡した。
ミメオグラフはたちまちロシアじゅうに広まった。そして誰も、まったく誰も、その生みの親が誰なのかを知らず、疑いもしなかった。
L. P. ラージンはその後、さまざまな通俗的な自然科学の著作や、厳密にマルクス主義的な著作の執筆に取りかかった。彼はフィリッポフの雑誌『科学の言葉』に筆名で寄稿していた。たくさんの著作を入念に出版の準備をし、いつも原稿と格闘していたが、残念なことに、それはほとんどすべて家宅捜索のさいに保安部の手に渡ってしまった。
1895年に「ヤーコフ・パスインコフ」という筆名で書かれた化学の通俗的な論考『難しい科学についてのやさしい話』は、L. P. ラージンの筆によるものだった。この仕事や、彼が同じ精神で計画していた一連のほかの仕事の原稿料が、彼が愛する革命の仕事に身を捧げることを可能にした。『化学概論』は1万2000部出され、たちまち売り切れた。
この本は教師と農民たちとの対話の形で書かれていて、レオニード・ペトロヴィチは、そこにできるかぎり社会的な話題についての議論を盛り込もうと努めた。これは検閲官ソコロフの気にひどく入らなかった。出版人たちは彼を「マリュータ・スクーラトフ」とあだ名していたが、彼はずっとぶつぶつ言って、私にこう言った。「変わった化学ですな。こんなのを読むのは初めてだ」。そして化学とは関係のないところをたくさん削ったが、多くを守り抜くことができた。ラージンのこの本を、われわれはいつも労働者のサークルに回した。
ときおり L. P. ラージンは宣伝サークルに姿を見せるようになり、皆に消えがたい印象を与えた……
……その見解の確かさによっても、その並外れて魅力的で、厳しく倫理的な人柄によっても。
1896年秋、10月3日、彼は自宅で、ある事件によって多くの同志とともに逮捕された。組織されたばかりのモスクワ労働者同盟のこの摘発は、今日に至るまできわめて謎めいている。
もっとも興味深いのは、密偵の親玉ズバートフ自身が行った家宅捜索がどれほど入念だったにもかかわらず、秘密の実験室の保管場所はついに見つからなかったことだ。L. P. ラージンは1年以上独房に入れられ、そこでたゆまずマルクス主義の理論に取り組んだ。警保局の決定によって、彼はヴャトカ県の郡都の小さな町ヤレンスクに5年の流刑となり、そこでまもなくもっとも重い型の結核にかかった。すっかり死にかけてから、長い奴走と苦難の末にようやくクリミアへの移住が許された。だが目的地に着かないうちに、彼は他人の手に抜かれながら、1900年3月16日、ヤルタで亡くなった。
こうして、この控えめで、ほとんど誰にも知られていないが才能ある、全ロシアの社会民主主義者の家族の一員は、年齢も力も盛りのうちに死んだ。その堅固さと労働者の事業への献身によって、彼を知るわれわれすべてに、ロシアのプロレタリアートの事業、国際プロレタリアートの事業への永遠の忠実と愛を遺して。
同志諸君、諸君もまた皆、われわれの忘れがたい友であり師であるレオニード・ペトロヴィチ・ラージンの思い出をよく知り、敬っていると、ここで言えるのを私は幸せに思う。喜びと団結の思いが諸君の心をとらえるとき、諸君はいつも、ロシアじゅういたるところで、われわれのプロレタリアの歌、真実と自由の勝利の歌を歌う。
諸君のうちで、われわれの愛するこの歌を知らない者、歌ったことのない者がいるだろうか。
勇ましく、同志よ、歩調をそろえよ。 闘いのなかで心を鍛え、 自由の国への道を この胸で切り開こう。 われらはみな民衆から出た、 労働する家族の子らだ。 「同胞の団結と自由」―― これがわれらの闘いの旗印。 長くわれらは鎖につながれ、 長く飢えに苦しめられた。 黒い日々は過ぎ去り、 贖いの時が鐘を打った。 事に取りかかるときだ、 戦いへ急ごう、もっと速く。 われらの軍勢が恐れようか、 ツァーリたちの幻の力を。 彼らの玉座を支えるものはすべて、 労働者の手の仕事だ……。 弾はわれら自身で詰め、 銃には銃剣を取りつけよう。 力強いこの手で倒そう、 宿命の圧制を永久に。 そして大地の上に掛げよう、 労働の赤旗を。
この歌は、L. P. ラージンがモスクワのタガンカ監獄の独房で書いたものだ。この歌の節も彼がつけた。歌はまず監獄のなかで、それから同志たちが流刑地へ押送されていく道すがらに広まり、そこからロシアじゅうに広まった。
すでに流刑地へ向かう道中、通らねばならない村のひとつでの宿泊のさいに、彼はもうひとつの歌「ルチーヌシュカ」も書いた。諸君はそれをご存じだろうか?
また耳にする、懐かしい「ルチーナ」……。 そこにはどれほどの悲しみ、苦しみ、涙があることか。 きっと自分の幾世紀もの憂いを 秘す農夫がそこへ注ぎ込んだのだ。 秋の吹雪のとき、糸車に向かって座り、 農婦がひっそりと歌ったのかもしれない。 そして友に打ち明けるように、その歌に打ち明けたのだ。 痛んだ魂の焼けるような悲しみを。 もうたくさんだ!悲しみのことばかり歌ってきた……。 去れ、この物悲しく、沈んだ調べよ。 歌は勇気をもって鳴り響かねばならない。 心のなかに救いの怒りを呼び覚まさねばならない。 民衆のなかで力強い力が熟しつつある。 わが国は広い道に立っている。 受難の母が耐えてきたものを、 勇士なる息子は耐えようとはしないだろう。 飢えも彼のなかの生きた思想を絞め殺しはしない。 闘いも若い力を折りはしない。 勇ましく彼は重い槌を取り、 それで奴隷の枷を打ち砕くだろう。
プロレタリアの家族の誰が、この歌を知らないだろうか?この歌に、闘いと自己犠牲の偉業へと奮い立たされなかった者がいるだろうか?では今こそ、全ロシアのプロレタリアートに知ってもらおう。この歌を書いたのはレオニード・ペトロヴィチ・ラージン、水晶のように清らかな魂を持ち、ロシアでミメオグラフをつくり、それをただちにロシアの社会民主主義的労働運動全体の使用に引き渡し、労働者のあいだでたゆまず働き、労働者階級の解放の事業、プロレタリアートの偉大な階級闘争の事業に自分の一生を捧げた人なのだと。
われわれの共通の同志であり、労働者のこのうえなく忠実な友であり、労働者の真実の自由な言葉にこれほど尽くしたレオニード・ペトロヴィチ・ラージンを、よい言葉で思い出そう。
彼の声を、何十万というわれわれの同志の歓喜の声のなかに響かせよう。彼の声はいつも元気で力強かった。死に臨んで、日数ばかりか時間さえもう数えられていることをよく知りながら、彼は、当時地下で働いていた友人たちに遺言を送ってきた。それは、彼が自分の精神の本質のすべてを溶け合わせた、ただひとつの不可分の事業への、胸を打つ献身に満ちたものだった。
勇ましく、友よ、前へ進もう、 心に生きた炎を呼び覚ましながら。 われらの事業は死なない、 嵐もわれらの旗を折りはしない。 勝利はもう長くは待たせない。 労働者のあいだに思想が目覚めた。 そして若い軍勢が熟しつつある、 不吉な夜の物言わぬ静けさのなかで。 それは熟する……。そのときこそ、 夢のようにその枷を振り払い、 労働の赤旗のもとで ルーシは新しい生へと目覚めるだろう。
そして、プロレタリア革命がまもなく訪れるというこの深い信念を抱いて、彼は永遠の眠りにつくために目を閉じた。彼の墓は今日に至るまでクリミアで見つかっていない――われわれがそれを見つけ出すだろう。彼の肖像はロシアのプロレタリアートに知られていない――われわれがそれを見つけ出し、公にするだろう。そして私は確かに知っている。ロシアの、とりわけモスクワのプロレタリアートが、全ロシアのプロレタリア革命の野におけるこの最初の師、友、忠実な同志、模範的な働き手の思い出を、厳かに讃える時が来るだろうと。
ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチ
第5章 訳注
- L. P. ラージン(1860〜1900):化学者、革命家。「勇ましく、同志よ、歩調をそろえよ」(Смело, товарищи, в ногу)の作者として知られる。日本では「同志よ、固く結べ」などの題で歌われてきた。本章の歌詞は、既存の日本語歌詞によらず、本文から直訳した。
- 歌詞の訳:3篇とも韻律は再現していない。各節の頭に全角空白を入れて原文の字下げを示した。
- ミメオグラフ:謄写版印刷機。本文は、エジソンの発明品の仕組みを店頭で観察して自作した経緯を語っている。「篩」は印刷台に使った細かい銅網。
- クズネツキー・モスト:モスクワ中心部の商店街。
- スカーラトフ:マリュータ・スクーラトフはイヴァン雷帝の寵臣で、残忍さの代名詞。
- 単位:フントは約410g。
- 『プーチ・プラーヴディ』:『プラウダ』が弾圧のたびに題を変えて出した名称のひとつ。
- ヴェーラ・ミハイロヴナ・ヴェリチキナ:著者の妻。