1904年の晩秋、最後の汽船の一つで、私はアストラハンからサマーラに着いた。
アストラハンからは、警察との激しい衝突のあとで逃げ出さなければならなかった。その衝突では私が負けたのである。私を送り出してくれたのは「バーチャ(親父さん)」とその妹で、私の合法の書類をすべて火に投じる厳かな火刑式のあとのことだった。ヤフカは、覚えているかぎり、サマーラ=ズラトウスト鉄道管理局の、そこに勤めていたアルツィブシェフのところで、合言葉は18号タンク車についての問いだった。覚えているが、同志アルツィブシェフのみごとな獅子のような白髪頭と、彼の話しぶりに私は打たれた。彼は私を自分の肘掛け椅子に座らせ(会ったのは彼の職場の部屋だった)、自分は片ひざをついて私を半ば抱くようにし、ささやき声でアストラハンの事情をたずね、私が泊まるはずのトゥイシェツカヤの住まい(原注)の住所をくれた。
(原注)東部ビューローが維持していた、短期の滞在のための特別の住まい。
住まいで、私はウラルの同志の一人と出くわし、部屋も寝床も彼と分けあった。翌日、「ツァラトゥストラ」か、それとも誰かほかのサマーラ組織の若者が、カルーガの町人グリゴーリー・イワーノヴィチ・グリゴーリエフ名義の偽造書類を持ってきてくれ、その後の仕事について話しあうために出頭すべき「ミロン」(V. N. ソコロフ)の住所をくれた。
翌日、私は「ミロン」のところへ出かけた。彼とはもうアストラハンで、彼がそこへ来たときにO. A. ヴァレンツォワのところで会っていて、彼が運んできた文献の荷を仕分けるのを手伝っていた。
ミロンのところには「アンドレイ」(A. A. クヴャトコフスキー)がいて、二人は、私のこれまでの仕事や、私の極東とアメリカの旅について話したあとで(どうやら私のいくらか冒険めいた経歴のこの部分が気に入ったらしい)、中央委員会東部ビューローで運搬係として働くよう提案した。これからの仕事の中身を知ると、私は大喜びで引き受けた。悲しいことに白状しなければならないが、私はまったく話が下手で、まだアストラハンにいたころの扇動家・宣伝家の役どころでの試みは、ことごとく派手に失敗していたからである。この仕事は、私の放浪好きと狩猟好きの性向にすっかりかなっていた。
外の世界に対してどうふるまうべきかについて詳しく説教され、私のひどくすり切れた服と、まったく許しがたい外套が点検され、いくらか違う様式の身なりをするよう勧められ、その後はそれを守らなければならなかった。そして手始めに、「アンドレイ」が自分の英国製の外套をくれたが、それはこのうえなくぴったりだった。ミロンは身支度と最初の暮らしの準備のための金をくれ、独立した、十分に隔離された部屋を借り、純粋に秘密保持上の理由から、サマーラの党の人々とはあまりかかわらないよう勧めた。
私はパンスカヤ通りの裕福な町人の家に、まともな部屋を借りた。しかも、中庭から入る専用の入口を使えた。これはわれわれの目的にとってかなり便利だった。
ふつう私のところへ来る人々は、通りから私の窓をたたき、私が自分で戸を開けた。
私の最初の試しは、駅から国外文献の入った大きなかごを受け取ることだった。これは厳かとさえ言えるような段取りで行われた。つまり、駅から運ぶあいだ、通りの反対側を「ミロン」が歩いて、それとなく見守り、私が初めてのときにどうふるまうかを確かめ、もししくじったら助け出すことになっていた。試験はうまく合格し、かごを無事に自分のところへ届けた。それをほどいて目録をつくり、目録にしたがって分け、地区の地元組織へ送るために荷造りしなおさなければならなかった。発送は、中央委員会ビューローのまわりをうろうろしていた地元組織の同志を通じてか、秘密の郵便の住所で行われた。だがふつうは、われわれは(言い忘れたが、私のほかに、中央委員会東部ビューローにはもう一人運搬係の「ワーニャ」がいた)文献を地区の個々の組織ごとに束に分け、自分のトランクに詰め、地元組織あてのありとあらゆる口頭の指示を受け取り、町から町へと地区をまわって、文献と地区の中心の口頭の指令を届けていた。
言っておかなければならないが、中央委員会東部ビューローの影響範囲には、シベリア全体、ウラル、サマーラからアストラハンまでのヴォルガ流域、そして西ではタンボフ、ペンザ、コズロフ、ボリソグレブスクの組織が入っていた。
私はサラトフ、ペンザ、タンボフ、コズロフ、ボリソグレブスクをまわり、「ワーニャ」はアストラハンとウラルを、「ミロン」はシベリアを含む地区全体をまわった。
当時のサマーラ組織からは、アルツィブシェフ「マルクス」、彼の妻と息子、「ツァラトゥストラ」、「スヴェート」とその妻、ツィーリャ、セミョーン、ババーエフ(私の同郷人)を覚えている。サラトフではアバルドゥーエフ(市の獣医)、ペンザではスミルノフとロッセリ(ゼムストヴォの技師)、タンボフではマヌイロフ夫妻「ツィガン(ジプシー)」と「ヨーロチカ(もみの木ちゃん)」、そしてワーリャ・スペランスカヤ。コズロフとボリソグレブスクの人々はまったく覚えていない。
われわれはとても仲よく暮らし、食べるものはひどいものだったが、何より、限りなく陽気で元気だった。元気であることこそ、私の考えでは、当時のわれわれの生活と仕事の根本の特徴だった。
中央委員会ビューローの顔ぶれそのものは、当時、アンドレイとミロン、書記の「エレーナ」(E. D. ソコロワ)、そしてわれわれ二人の運搬係「チョールト」とワーニャだった。
「チョールト」というあだ名は、すぐについたのではなく、サラトフでのある出来事のあとについた。その話をしよう。それまで私は、まだアストラハンでのあだ名「マエストロ」を名のっていた。
サラトフに、国外文献の入った大きなかごが手荷物として送られた。だがどういうわけか長いあいだ手荷物から引き取られず、とうとう鉄道員がそれを開けて、なかに文献を見つけ、鉄道憲兵に引き渡した。この経過全体はかなり長くかかり、われわれはサマーラで、鉄道員のあいだにかごについての疑いが生じたときにもう、起きたことの知らせを受けていた。私はアンドレイとミロンに、かごを取り戻してみると申し出た。二人は、この件で私自身が摘発されないよう長々と注意したうえで同意した。文献の飢えが大きかったからである。
私はアバルドゥーエフへのヤフカを受け取って、すぐにサラトフへ発った。サラトフに着くとすぐ、駅の人ごみや赤帽や駅の憲兵のあいだをうろつきはじめ、用心深くたずねてまわって、文献の入ったかごがまだ駅にあり、ただし憲兵の当番室にあることを突きとめた。なぜ彼らが県憲兵局への引き渡しをそんなに長くぐずぐずしていたのかは彼らの秘密だが、どうやら鉄道憲兵と県の憲兵の張りあいのせいだったらしい。
私は書類かばんを盗まれたという届けを出しに、憲兵の当番室へ行った。そしてありもしない盗難の調書がつくられているあいだに、かごが当番室にあることを自分の目で確かめた。
そのあと、屠畜場のアバルドゥーエフのヤフカへ行った。彼には、サラトフの人々には何も言わず、ただ私に鉄道員の同志とのつながりをつけてくれること、夕方の決まった時刻に駅へ、自分たちの人間をつけたよい馬を回してくれることを頼んだ。馬は、たしかアバルドゥーエフの親類の誰かが、自分の馬に御者として乗っていることになった。つながりは、鉄道の車庫の労働者の同志へつけてもらった。
彼とはすぐに話がついた。夕方の決まった時刻に、彼が仲間と一緒に遠くの留置線で、手に入れば拳銃の撃ちあいを始めるか、線路の上で鉄道の信号雷管を破裂させる。貨車の下を走りまわりながら半時間ほど撃ち、それから落ち着いて家へ帰る、というのである。
そのほかに、私の手伝いとしてさらに4人、たしか地元の鉄道学校の生徒たちがつけられた。
約束の時刻が来たとき、私は皆が持ち場についていることを確かめた。駅の車寄せには速い辻馬車がそりで待っていて、私の生徒たちは憲兵の当番室のそばで乗客の人ごみにまぎれ、私には懸命に気づかないふりをしていた。私はじりじりと、震えながら銃声を待った。約束の時刻から5分ほどして、ホームから憲兵が気でも狂ったように駆けこんできて当番室へ飛びこみ、そのときになってようやく、私は一度に10発ほどの鋭い発射音を聞いた。信号雷管が破裂したのである……さらに一瞬後、憲兵の部屋から5人ほどの憲兵が飛び出し、それからもう一人が戸に鍵をかけて、やはりホームへ駆けていった。
そのとき(私の生徒たちはもうみな私のそばに集まっていた)、われわれは何人かで、駆けよって当番室の戸を押し破り、かごをつかみ、車寄せへ引きずり出して、われわれの速い辻馬車に載せた。それを載せ、そのあと手伝いたちが四方へ散っていくあいだ、私は駅の戸口に、拳銃を下に向けて持ち、挑むような姿勢で立っていた。覚えているが、私の前には大きな半円の空白があり、その向こうにヒステリーを起こさんばかりにおびえた顔が並んでいた。通りから、私の若者の一人の遠ざかっていく「で・き・た」という叫びが聞こえたとき、私はくるりと踵を返し、通りへ駆けおりて、どこかの辻馬車に飛び乗った。御者は私の拳銃を見ると、全速力で馬を走らせた。それで何本か通りを抜け、降りて、2、3本の横丁を歩いて駆け抜け、そこでまた辻馬車を拾い、何度か角を曲がってまた降り、また歩き、そしてとうとう、追っ手がないことをしっかり確かめてから、屠畜場のアバルドゥーエフのところへ向かった。かごはもう無事にそこへ着いていた。
サマーラに戻ると、同志たちは私の成功を長いこと喜び、私は「本物の悪魔(チョールト)」だということになった。こうして「チョールト」が私のいつものあだ名になった。
もう一つ覚えているのは、『中央委員会東部地区報』が印刷されていた印刷所の足跡を消すために企てられた出来事である。
サマーラの憲兵が嗅ぎまわりはじめて、印刷所がサマーラにあると疑わないように、『報』の第1号が出たらサマーラでの配布を押さえ、そのあいだにそれを地区の県庁所在地の一つへ送って、まずそこで出し、それからサマーラで出すことに決めた。選ばれたのはペンザで、そこにはほとんど組織がなかったので、同志たちには知らせず、彼らに知られずにすべてをやることにした。
覚えているが、印刷所からまっすぐ、まだ湿っている『報』の紙が私のところに届けられ、汽車まであまり時間がなかったので、私はそれをトランクに押しこんで駅へ急いだ。同じ車両に、われわれとつながりがあり、いろいろな手助けをしてくれていた医学専門学校の女子学生ヴォルコワ(シベリア出身)が、ピーテルへ行くところで乗っていたことがわかった。私は彼女に、『報』の紙を、まくのに便利なビラ(三角形)に折るのを手伝ってくれと頼んだ。束を渡し、われわれは車両の上段の寝台に壁のほうを向いて横になり、腹の下で片手を使って、私の手持ちを全部折った。
それから全部をトランクにしまい、ポケットにビラを詰めこんだ。真夜中にペンザに着いた。少し雪の舞う、風の強い天気だった。駅から辻馬車を拾い、駅からかなり遠い町の中心へ向かった。大通りに入るやいなや、私はビラを右へ左へとまきはじめ、風がそれを舞いあげて通りじゅうに運んでいくのを見た。
通行人は一人も見えず、数少ない巡査たちは寒さを避けて隠れていた。こうして大通りに沿って町じゅうを走り、どこかの横丁へ曲がって、辻馬車から離れるためだけに、ホテルへ行くよう命じた。ホテルで寝ぼけた給仕を起こし、(わざわざ質問のために考え出した)地主スタルチェンコが泊まっていないことを確かめてから、残りの部数を一般の家の郵便受けに押しこみながら駅のほうへ歩いた。そしてもう、いたずら心からではあったが、大いに楽しく、持ち場の巡査がおそらく暖まりに行って留守にしていたのを利用して、警察署の玄関の間に何部か投げこんだ。
それから駅に戻り、義務を果たした気持ちでお茶を飲み、(まったく運よく)急行列車(たしかシベリア急行)に飛び乗り、車掌にいくらかの心づけをやって、食堂車でサマーラまで帰った。
こうして仕事は、多かれ少なかれ鮮やかな場面や体験をともないながら、まったくなめらかに進んだが、いつも、われわれが果たしている仕事の重要さと責任を忘れなかった。
その年の終わりに、アンドレイと「ミロン」が南部で働くために去り、われわれの運搬の仕事はひどく減った。そしてワーニャと私は、純粋に地元のサマーラの仕事に少しずつ加わるようになった。その仕事はその時期(1月9日以後)、秘密活動の色をほとんど失い、ほとんどすっかり街頭へ持ち出されていた。ここで私は、いやおうなく集会で演説しなければならなくなった。主に、ゼムストヴォの自由主義者たちのおしゃべりの会のりっぱさをぶち壊すためにである。
早春、たしか3月に、キエフの「ミロン」から手紙を受け取った。中央委員会南部ビューローで働くために南へ移るよう提案してきたのである。
私はすぐにそこへ発った。
V. ボゴモーロフ
訳注(ボゴモーロフ)
- 筆者V. ボゴモーロフ(目次では「V. M.」、ソコロフのサマーラ印刷所章では「V. I.」)は、ソコロフの東部地区・南部ビューロー・中央技術ビューローの各章に「マエストロ」「チョールト」の名で登場する人物。サラトフ駅でのかごの奪還は、ソコロフの東部地区章第7節にも、別の角度から描かれている(ソコロフの記述では発砲、こちらでは信号雷管の破裂となっている)。
- 「アバルドゥーエフ」は、ソコロフの東部地区章では「オボルドゥーエフ」と表記されている。原文のまま。
- 『報』は原文で「бюллетени」「Беллютень」(誤植)と揺れている。ソコロフのサマーラ印刷所章で『東部ビューロー通信(クロニカ)』と呼ばれているものと同じ出版物を指すと思われる。
- 「スタルチェンコ」は、筆者がホテルの給仕にたずねるためだけにでっちあげた架空の名。