1873年6月28日生まれ。両親は、父は土地測量部門の官吏(1921年死去)、母はモスクワ大学の教授の娘で存命、71歳で、私のもとで暮らしている。私は測量学院で学んだが、1889年、ほかの3人の仲間と一緒にわが学院の学生運動の先頭に立ったために退学させられ、16歳で警察の監視のもとにクルスクへ追放された。ここで市の測量学校に入り、そこを卒業した。1892年にモスクワに戻り、専門を生かして測量事務所に勤め、33ルーブリの給料を受けて2年間働いたが、十四等官に任じられる2日前にそこを辞めた。決して官吏にはなるまいと固く決めていたからである。
〔写真:ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチ〕
まだクルスクにいたころから、労働者とのいくらかのつながりをつくり、サークルで経済学や歴史の本を読んでいた。モスクワでは、ミツケーヴィチ兄弟が率いていた社会民主主義組織が壊滅したあとで、労働者や社会民主主義サークルの残りの人々とすぐに知りあった。二つの社会民主主義サークルができ、私は同時にその両方に加わった。一つは、同志L. P. ラージンを中心とする、技術と謄写機の製作のサークルで、私は非合法の作業所で謄写機の製作と、それをロシアの非合法組織に広めることにじかに積極的に加わった。もう一つは、モスクワで組織された宣伝のサークルで、ヴェリチキン家(その一人ヴェーラ・ミハイロヴナ・ヴェリチキナはのちに私の妻になった)、コロコリニコフ、I. F. ブリノフ、ソロドヴニコフ、クヴァルツェフらが加わっていた。モスクワの労働者大衆(ダンガウエル工場とカイゼル工場、クルスク鉄道とブレスト鉄道の工場、印刷労働者、ブロムレイ工場、K. およびS. ポポフ茶倉庫の労働者など多数)と直接のつながりをもち、われわれのサークルの技術で印刷された文献を彼らのあいだに広めた。この技術の設置には、初めはヘクトグラフで、のちには謄写機で、最も身近に加わった。ヴェリチキン家で整えつつあったわれわれのサークルの非合法印刷所は、活字にひどく困っていたピーテルに渡さなければならなかった。われわれのところでは謄写機でうまくやっていたからである。印刷所は、ニコライ・ミハイロヴィチ・ヴェリチキンと一緒に身につけて運び出し、ピーテルへ送った。同じころ、組織の依頼で、「人民の意志派の第4ビラ」印刷所の配布の仕組みとの連絡を保ち、そこからパンフレット『織工』『罰金について』『労働日』などを大量に受け取っていた。荷の保管所は、同志ブリノフと一緒に住んでいた私の住まいに設けられていた。同じころ、組織の依頼で、モスクワのポーランド人の組織や「人民権利派」とも連絡を保ち、彼らを通じて国外から文献を受け取っていた。モスクワで人民権利派が逮捕されたとき、私は、この組織といくらかのつながりがあり、その住まいで非合法の人民権利派(古い人民の意志派)の、今は亡きM. I. スイツャンコ=オスロポワが捕まったヴェリチキン家と知り合いだったために、予備調査に引き出されたが、人民権利派とのつながりは憲兵に立証されなかったので、裁判にはかけられなかった。
1895年と1896年には、われわれのサークルの宣伝と技術の活動はとりわけうまく広がった。労働者サークルでは熱心に学んでいた。われわれは、ゲルツェン記念の示威行動、ミリュコフ教授の追放に抗議する示威行動、ペトロパヴロフスク要塞で苦しめられて死んだ作家アスティレフの葬儀などに積極的に加わった。1895年にはメーデーを祝い、1896年にはパリ・コミューン記念日にパリの労働者に国外へ挨拶状を送った。1895年秋にモスクワをおおったストライキのための扇動に積極的に加わった。両方の組織の決定により、V. M. ヴェリチキナと一緒に、1896年5月、「労働解放」団との確かで恒常的な連絡、非合法文献の出版の組織、非合法の運搬の組織などのために国外へ発った。チューリヒに着くと、すぐに「労働解放」団への協力グループに加わった。1896年8月、モスクワのわれわれの組織はズバートフに暴かれ、大規模な逮捕があり、それは10月にも繰り返された。多くの同志が、意識してか無意識にか、率直な供述をしはじめ、できるかぎり何もかもを、不在の私に押しつけた。労働者クヴァルツェフは、運搬と技術の責任者として私を洗いざらい白状した。そのころまでにプロイセン国境に整えていた運搬路(この仕事では、生まれたばかりのラトヴィア人の組織と一緒に働いた。その在外代表は同志ロラウで、1905年の革命で殺された)を通じて、われわれは何回か文献の荷と、非合法印刷所のためのたいへんこぢんまりとした便利な印刷機(3台)を送ることができた。モスクワへ向けた荷の一部は、同じクヴァルツェフに売られた。
1897年3月、私はN. M. ヴェリチキンから、本の表紙に貼りこんだ秘密の手紙を受け取った。彼はそこで、摘発のすべてと私が売られたことを知らせ、同志全員の名で、私がロシアに戻らないよう断固として求めていた。
P. B. アクセリロード、V. I. ザスーリチ、G. V. プレハーノフの各同志にすべての事情を示すと、私は彼らから、さしあたりロシアに戻らないという、はっきりした決定を受けた。こうして私の不本意な政治亡命が始まった。国外では文筆の稼ぎで暮らした。1896年から、当時最も急進的な新聞に、さまざまな名で書いていた。『ヴャツキー・クライ』、『クルスキー・リストーク』、『サマルスカヤ・ガゼータ』に寄稿したが、それらはみな時とともに検閲で発禁になった。家庭教師をし、筆耕をし、図書館を管理し、1901年にはジュネーヴの社会民主主義者同盟の印刷所で植字工をした。国外では、「労働解放」団の編集のもとで社会民主主義者同盟が出していた論集『ラボートニク(働き手)』と『ラボートニク・ビラ』に加わった。
ラボーチェエ・デーロ主義の時期が来ると、社会民主主義内のこの日和見主義の運動に反対する立場に立ち、さまざまな町で「労働解放」団と連帯するグループを組織した。集会を開いてラボーチェエ・デーロ派と積極的にたたかい、G. V. プレハーノフの有名な小冊子『ヴァデメクム』をロシアへ送りこんだ。同じころ、ロシアの農民運動の歴史を熱心に研究しはじめ、宗教的分離派の農民運動に注意を集中して、それを民族学者として、また歴史家として、あらゆる面から研究しはじめた。このころロシアでは、帝政政府が、積極的な抗議を示した分離派のドゥホボール教徒を信じがたい残酷さで迫害し、ついに1899年、彼らを再入国の権利なしにロシアから完全に追放することに決めた。1899年5月、私はドゥホボール教徒の一団、2318人をコンスタンティノープルからカナダへ連れていった。コンスタンティノープルでは、ロシア政府の代表が私を税関で足止めして逮捕しようとしたが、イギリス船の船長が自国の当局を通じて私を釈放させ、私はドゥホボール教徒の一団とともにカナダへ向かった。そこで1年のあいだ彼らの入植地を整え、53の共同体を組織するのを手伝った。カナダには11か月いた。それからヨーロッパに戻り、ふだんの仕事を再開した。このころ、ロンドンで出ていた社会民主主義の雑誌『ジーズニ』の編集に加わった。編集部内に生じた原則上の意見の違いのためにこの雑誌が廃刊になると、私は、国外で「在外同盟」と呼ばれていた『イスクラ』紙付属の社会民主主義組織に合流した。そこには「労働解放」団やほかの、ラボーチェエ・デーロ派でない社会民主主義組織が加わっていた。協力者として非合法新聞『イスクラ』に参加し、党の分裂後は、その存在の最初の日からボリシェヴィキのグループに残った。中央機関紙『イスクラ』がボリシェヴィキの手にあったあいだ、わが党の(ジュネーヴの)技術と発送部をすべて管理した。最終的な分裂のあとは、ボリシェヴィキの組織の承認を得て、ボリシェヴィキの非合法文献(パンフレットと本)を出版した。ボリシェヴィキの最初の非合法の在外新聞『フペリョード』の発行を組織し、ボリシェヴィキの組織の技術をすべて管理した。そのほか、同じころ、党評議会とわれわれボリシェヴィキの組織の許可を得て、分離派のための社会民主主義の小新聞『ラスヴェート』を出していたが、ボリシェヴィキの組織委員会の依頼で1905年初めに非合法でロシアへ発ったときに、その出版をやめた。1905年1月の事件のとき、私は党の用事でラトヴィア人のところへ出かけていたリガにいた。ここで一連の協議に加わった。それからペテルブルクに移り、労働者のあいだで非合法で働き、それからボリシェヴィキの中央の依頼で、われわれの大会のための扇動をしに町々をまわった。モスクワ、トヴェリ、トゥーラ、オリョール、クルスク、ハリコフ、ロストフ=ナ=ドヌー、そのほか多くの町や工場村に行った。
モスクワでは何度も集会で演説し、メンシェヴィキや調停派とたたかった。ロシアから、われわれの機関紙『フペリョード』の編集部へ、たくさんの情報、通信、論文、報道資料を送った。
国外に戻ると、同じ活動を続け、党の依頼で、1905年10月の日々に、ボリシェヴィキの在外組織の清算と人々のロシアへの移送のための委員会にいた。われわれの組織の電報でペテルブルクに呼ばれ、パリのわれわれの倉庫から爆発物を運んでくるよう頼まれ、それを果たした。われわれの戦闘隊のために、特別な胴着と腰帯に入れて、1プード半の爆発物を身につけて運んできたのである。
ペテルブルクでは、われわれの新聞『ノーヴァヤ・ジーズニ』に加わり、その廃刊後はボリシェヴィキの新聞『エーホ』、『フペリョード』、『ヴォルナー』を組織した。まもなく、広い大衆のための党の雑誌『ナーシャ・ムイスリ』を組織したが、ニコライ2世の政府によって第5号で発禁にされた。それから党の依頼で、党の中央書籍倉庫と出版社「フペリョード」の長になったが、それは1906年に警察に打ち壊され、私はほかの同志と一緒に逮捕されて、クレスティ監獄の独房に入れられた。党中央委員会の依頼で「ヴィボルグ宣言」を数十万部印刷し、それをロシアじゅうの多数の革命組織にうまく配った。
当時(まさにこの1906年にだけ)司法当局は保安部と対立していたので、事実をもたず、スパイの報告しかない保安部の供述は重視されず、われわれは釈放された。だがこの書籍倉庫の件は3年半続き、それから打ち切られた。われわれは捜査のあいだに、押収された本やパンフレット、雑誌『カザルマ』の編集資料など、物的証拠のほとんどすべてを処分し、店の建物から運び出すことができたからである。同じころ、われわれの軍事組織が出していた非合法雑誌『カザルマ』のために檄文や論文を書き、当時のペテルブルク委員会の文筆と宣伝の活動に加わった。
1905年以後の反動期には、数えきれないほどの家宅捜索を受け、3度嫌疑で逮捕された。捜索はいつも成果がなく、私はこのころ民族学と歴史の研究に熱心に取り組んで一連の学術書を出していたので、科学アカデミーが、ロシア語・ロシア文学部の部長である学者で非常に有名な教授A. A. シャフマトフを通じて、いつも私の身元を保証してくれ、それで私は監獄に入ったあと、警察の監視のもとに釈放された。このころ、わが党の在外委員会の依頼で、新聞『ズヴェズダー(星)』の組織に最も密接に加わり、ボリシェヴィキのグループからその編集部のメンバーになった。その第14号のときに逮捕され、『ズヴェズダー』を編集したという直接の容疑をかけられた。もちろん憲兵にはその直接の証拠はなく、数か月監獄に入れたあと、私を釈放せざるをえなかった。クレスティに入っていたこのあいだに、私は18世紀のウクライナの作家で哲学者G. S. スコヴォロダの全集の第1巻を、原稿にもとづいて研究し編集した。これはのちに私の『ロシアにおける宗教的・社会的運動の歴史と研究のための資料』のなかで出した。
監獄から出たあと、私は『ズヴェズダー』の編集部に顔を出すことはできなかった。スパイが文字どおり私のあとをついてまわっていたからである。『ズヴェズダー』のために論文を書くだけにとどめなければならなかった。われわれの新聞にはときに協力者がとても少なかったので、いくつかの号には一度にたくさんの論文を載せなければならず、さまざまな筆名で署名した。「V. G.」、「セミョーン・グヴォーズジ」、「ニコライ・ペトレンコ」、「読者」。多くはまったく署名しなかった。
出獄後、『ズヴェズダー』紙のすべての資料と編集の仕事は、われわれの会派の国会議員N. G. ポレターエフを通じて行った。彼は議員の不逮捕特権のおかげで、私の住まいにほとんどいつもスパイが張りこんでいたにもかかわらず、危険を冒して私のところへ寄ってくれた。
その後、ペトログラードで出ていたわれわれの新聞『プラウダ』、われわれの雑誌『プロスヴェシチェーニエ』に加わった。いつもわれわれの社会民主党会派で働き、われわれの議員のために演説を書いた。力の及ぶかぎり労働運動に加わり、ペトログラード市の労働者クラブやサークルで講義をし、談話を行った。国外に住む同志たちと連絡を保っていた。そのほか、大きな合法の出版社「ジーズニ・イ・ズナーニエ(生活と知識)」を組織し、そこでK. マルクス、F. エンゲルス、V. I. レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、トロツキー、ステパーノフ、ステクロフ、コロンタイ、そのほかの党の文筆家同志の著作を含む、われわれの文献を多く出版した。私はこの出版社をずっと党のものと考えていて、革命が起きると、この巨大な出版組織を、すべての財産、資本などとともに、社会民主党(ボリシェヴィキ)の中央委員会に引き渡した。出版社「ジーズニ・イ・ズナーニエ」は全党の出版社「コムニスト」の基礎になり、私は、法律によって国立出版所に移るまで、ほかの同志たちと一緒にそれを管理した。2月革命のとき、軍隊の決起に積極的に加わった。労働者のあいだで働き、革命の第1日に、国会前広場で120人の寄せ集めの兵士の部隊を率いて、N. I. ヨルダンスキーとともにニコラエフスキー駅の向こうの街区と、そこにあった「コペイカ」印刷所を占拠し、そこで『ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト・イズヴェスチヤ』の発行を組織して、最初の夜のうちに『イズヴェスチヤ』の第1号を出した。執行委員会のメンバーの権利をもって『イズヴェスチヤ』の編集部に任命され、そこで技術担当の特別全権の役目を果たした。最初の檄文「兵士へ」と「市民へ」を書いて印刷し、それは『イズヴェスチヤ』の第1号に載り、2月革命の最初の夜に出た別刷りとして数十万部配られた。その後も『イズヴェスチヤ』の編集と執筆を続け、兵士・労働者・農民代表ソヴィエト執行委員会に発言権をもってたえず参加した。
執行委員会でメンシェヴィキから、同志レーニンのペトログラード到着と労働者による彼の盛大な出迎えについての論文や、彼への攻撃に反対する論文を、何の根拠で『イズヴェスチヤ』に書いたのかと尋問された。これらの論文は、われわれのさまざまな地区組織によって別刷りとして印刷され、労働者のあいだに何万部も配られた。1917年5月、メンシェヴィキは、私が決してボリシェヴィズムから離れないこと、それどころか『イズヴェスチヤ』でいつもできるかぎりボリシェヴィキの観点を推し進めるだろうことをはっきり確かめると、メンシェヴィキの指導者ツェレテリの提案で、私から編集者の資格を奪った。7月事件のとき、白衛派は私にひどく襲いかかり、家宅捜索などをした。ちょうど私のフィンランドの別荘で休んでいたV. I. レーニンが、私のところに隠れていると疑ったのである。コルニーロフの日々まで、私はペトログラードのペスキ地区の労働者組織に加わり、労働者によってボリシェヴィキの名簿から地区議会に選ばれた。2月革命のあいだ、たえず労働者の集会で演説し、1917年のメーデーのデモの準備にとりわけ積極的に加わった。同じころ、党の中央機関紙『プラウダ』に加わり、近づく闘争のためにただちに「労働者親衛隊」を組織し、プロレタリアートを武装させる必要についての論文を載せた。コルニーロフの反乱が起き、労働者、とりわけボリシェヴィキがふたたび動き出すと、私は党ペトログラード委員会によって、ソヴィエト執行委員会のわれわれのグループ付属のわれわれの新聞を組織するよう任命された。メンシェヴィキの『イズヴェスチヤ』と並んで、同じ印刷所で、ボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・イ・ソルダート(労働者と兵士)』を組織し、編集した。
10月革命のとき、スモーリヌイでの組織に積極的に加わり、最初の数日は軍事本部で働いた。酒蔵略奪の暴動が現れると、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会から、ピーテルでそれを武力で鎮圧する特別権限を受け、そのためにスモーリヌイの「75号室」を組織した。それは当時、懲罰と捜査の室の役割を果たした。酒蔵略奪の暴動は、私がつくり、その議長を務めた労働者の軍事組織によって、5日間ですっかり一掃された。75号室は政府がモスクワへ移るまで存在し、そのとき、われわれのこの組織の事件書類はすべて、一部は全ロシア非常委員会(ВЧК)に、一部は司法当局に引き渡された。同じころ、われわれの政府の組織の最初の日から、私は人民委員会議の総務部長に任命され、1920年の晩秋までこの職を務めた。
1920年秋、私はほかの何人かの人民委員とともに、いわゆるマフムード=ベク事件で、党の統制委員会の取り調べに引き出された。この事件が何なのか、私は今もって知らない。この事件の主犯マフムード=ベクは、全ロシア非常委員会での尋問のあと完全に釈放され、何の罪にも問われず、その後ソヴィエトのある機関で責任ある地位についたと聞いている。私は何かのために(心から言うが、何のためなのか今でも知らない。私は何も非難されるようなことはしておらず、良心はまったく清らかで穏やかである)、5か月間責任ある職務から外されるという判決を受けた。この期間は1921年5月10日に終わった。そのあと私は、わが共和国の経済部門の組織に力を注ぐことにした。そして今は、ヤロスラヴリ鉄道タラーソフカ駅のソフホーズ「レスヌイエ・ポリャーヌイ」の組織に力の一部を注いでいる。ここでは大勢の労働者とまったく一致して、本当に親しい関係で働き、共産党細胞、労働者委員会、生産細胞、労農監督部協力細胞、賃金査定委員会、紛争調停委員会、啓蒙委員会など、以前規定されていて今は法律にしたがって存在しているあらゆる機関をここで組織している。ソフホーズの仕事は、その若さ(わずか3年)を考えれば悪くない。
またモスクワとペトログラードの党とソヴィエトの新聞で働き、この秋から大学で講義をするつもりである。私はその大学の教授であり、社会主義アカデミーの会員でもある。
党の仕事は、ソフホーズで、近くの村々のクラブで、記念の催し(メーデー、11月7日など)の日には近くの工場で行い、大きな意味のある催しには、ときどき近隣の農民をソフホーズに招く。
共産党に入るとき(最初の登録)、私を党員に推薦してくれたのは、同志V. I. ウリヤーノフ(レーニン)とミハイル・ステパーノヴィチ・オリミンスキー(アレクサンドロフ)だった。
文筆活動については、1895年に活字になりはじめたことを伝えておこう。書きはじめたのは1889年で、自分を取り巻く環境の風俗を描いた短い戯曲をいくつか書いた。当時の決まりどおり検閲に出したが、すべて禁止された。このことが私に悪い影響を与え、私は閉じこもって書くのをやめ、ロシアの詩の研究に夢中で取り組み、その成果が私の詞華集『ロシア詩選』で、1894年にようやく刊行された。これはもともと『市民的な動機によせて』と名づけていたが、この題名も、詞華集の序文も検閲で禁止され、詞華集そのものの優に半分も、獰猛な検閲官S. I. ソコロフの赤インクで塗りつぶされた。私の最も初期の作品の一つは、国外の社会民主主義雑誌『ラボートニク』に「セヴェリャーニン」の筆名で載った戯曲『屠殺場』である。これは劇の形で書くことへの熱中の続きとして生まれた。それ以前に私は新聞『ヴャツキー・クライ』に書きはじめていた。
合法の出版物のためのさまざまな論文の材料の研究のほかに、私はこのころ、ロシアの労働運動と革命運動の歴史を書くことを目的として、それを熱心に研究していた。だが実際の生活が権利を主張し、この仕事に最後まで打ちこむことはできなかった。この仕事の成果の一つが、私が編んだ論集『ロシアにおける革命運動の40年(1862〜1902年)の総括、ロシアの革命党派・グループの綱領と綱領的論文集』である。私はこの「総括」を何巻かに分けて出すつもりだった。この論集は出版社「ジーズニ」から出るはずだったが、「ジーズニ」の清算のときにG. A. クークリンに渡した。クークリンはそれにロシア革命運動史の短い概説の形でいくらか補足をして、自分の出版社「ロシア・プロレタリア文庫」(ジュネーヴ)から出した。同じころ、私はロシアの農民運動の歴史について手に入るかぎりの資料を大量に研究していた。「ロシアの奥地」には「何百年の静けさ」しかないのか、それともそこにも独自の要求や志向や運動や抗議、つまりあちこちでばらばらに、組織されずに現れる個々の爆発よりも持続的な抗議があるのかを、正確に知りたかったのである。まさにこの研究、ロシア史の遠い時代までとらえようとしたこの研究のおかげで、私はまもなく、農民のあいだで最も組織だった要素、つまりいわゆる分離派、正教から離れ、まぎれもない結束と組織性とそのほかの階級的抗議の要素をもつ、同じ農民に突きあたった。とくに私の心をとらえたのは、ノヴゴロドとプスコフの共和国の自由を愛する人々、イワン雷帝にあれほど憎まれたいわゆるストリゴーリニキについての情報だった。彼らの歴史をたどり、同時に西ヨーロッパの、主として分離派の農民運動の歴史を研究するうちに、わが国の古い宗派と、残虐なローマ教皇とその手下どもの火と剣によってあれほど残酷に苦しめられたアルビ派などの宗派とのあいだに、並行関係だけでなく、直接の依存関係と継承関係があることが、私にはますますはっきりしてきた。
こうしたことすべてが私を、民衆の生活の深い源へと引き寄せ、私は日々の党の仕事のほかに、余暇をすべて、ロシアの宗教的・社会的運動の歴史についての、印刷された資料だけでなく手書きの資料のきわめて詳しい研究に注ぐようになった。
私はロシアにあった分離派の組織と大きなつながりを結び、彼らのところに念入りに保存されている、きわめて興味深い歴史・民族学の資料を見いだした。幸いなことに、この素朴で感じのよい人々は、それを研究と保管のためにまったく信頼して私に渡してくれたのである。ドゥホボール教徒とともにカナダへ行ったことで、私はロシアの共産主義的な分離派の大きな古い共同体をまったく自由に観察し、研究することができ、観察するだけでなく、何世紀ものあいだ彼らの集団的な記憶に保たれてきた口承文学を書きとめることもできた。この記録と研究の成果は、何よりもまず、私がまとめたドゥホボール教徒の『生命の書』で、それについては以前、専門文献にはきわめてぼんやりした情報しかなかった。カナダから私はドゥホボール共同体の歴史についての膨大な資料を持ち帰った。まずイギリスへ、それからジュネーヴへ戻ると、A. およびV. チェルトコフの出版社「スヴォボードノエ・スローヴォ」で『ロシア分離派の歴史と研究のための資料』を出しはじめ、5冊を出した。4冊はドゥホボール教徒、1冊はバプテストについてのもので、私の序文と詳しい注をつけた。同じころ、同じ出版社から、ドゥホボール共同体についての手書きと印刷の文献(ロシア語と外国語)の書誌を別巻として出した。それは『ザカフカースのドゥホボール教徒の教え、生活、カナダへの移住の研究のための聖歌、手紙、物語その他の手稿の目録。付・ドゥホボール問題文献目録』という題だった。
残念ながら、私が個人的に集めたものや、A. およびV. チェルトコフのたいへん興味深い文書庫から得たもの、分離派の人々と身近に接していたさまざまな人から渡されたものを含む、分離派の歴史の資料を出版するという当時の私のこの大きな仕事は、一時中断しなければならなかった。私は、明らかに政治的な抗議と、社会革命とまではいかなくとも、少なくとも最大級の社会改革への期待の跡を帯びていたロシアの分離派の運動の評価をめぐって、出版者のA. およびV. チェルトコフと鋭く意見が分かれたからである。
このころパリで社会民主主義の雑誌『ジーズニ』が生まれ、私はそこに分離派の問題についての一連の論文を載せた。とくに論文「現代ロシアにとっての分離派の意義」(1902年)では、当時支配していた専制にその闘争の矛先を向けていたロシアの政治勢力全体の動きのなかでの、彼らの役割を明らかにしようとした。雑誌『ジーズニ』ができる前にも、私はできるかぎり、雑誌『スヴォボードナヤ・ムイスリ(自由な思想)』や『スヴォボードノエ・スローヴォ(自由な言葉)』、ジュネーヴとイギリスで出ていた『スヴォボードノエ・スローヴォ』の論集、『スヴォボードノエ・スローヴォ・ビラ』で、資料の選択に加わりながら、同じ問題を明らかにし、同じ問題を前面に押し出そうと努めた。出版物『ナロードヌイエ・リストキ(民衆ビラ)』と『民衆ビラ文庫』の編集に加わり、分離派向けのものを含む、広い大衆にまさに必要なパンフレットを世に出した。これらのパンフレットは、社会民主主義グループのほかの出版物と同じく、ルーマニア、ブルガリア、ザカフカース、トルコにあった強固な農民・分離派の組織の助けで、大量にロシアへ運ばれた(原注)。トルコの場合は、荷はコンスタンティノープルを通った。合法の文献では、同じころ、さまざまな筆名で、新聞『スイン・オテチェストヴァ(祖国の子)』、『ルースキー・クーリエル』、『サマルスカヤ・ガゼータ』、『オデッスキエ・ノーヴォスチ』などに論文を載せた。雑誌『ルースコエ・ボガートストヴォ』や『ミール・ボージー』にドゥホボール教徒についての総括的な論文を載せようとした試みは失敗した。どちらでも検閲がそれを禁止し、論文はゲラ刷りのまま私の手元に残った。1901年になってようやく、ホドスキーの雑誌『ナロードノエ・ホジャーイストヴォ(国民経済)』に、「V. B. B.」の署名で、1)「カナダのロシア人移民」、2)「カナダのドゥホボール教徒の経済状態」という題の二つの論文を載せることができた。そこでは、ドゥホボール教徒のロシアからの追放とカナダへの移住の政治的な面にはほんのわずかしか触れずに、乾いた、どちらかといえば統計的な概説を書いた。
(原注)これについて詳しくは、ここに発表した私の論文「社会民主労働党における国外の技術の組織とわれわれの文献の普及」を参照。
合法の出版物で働くことはますます難しくなるだろうということが私にはまったく明らかになり、できるかぎり国外で書こうと努め、個々の論文のほかに、『パヴロフカ村の農民の事件』という小冊子を世に出した。周知のとおり、この農民たちは、分離派として彼らを迫害する正教の司祭の圧迫に耐えかねて決起し、地元の教会兼礼拝堂を壊し、そのために村の黒百人組分子にひどく殴られ、それから裁判によってシベリアに移住流刑と徒刑に送られたのである。
ロシア社会民主労働党の第2回大会(1903年)に、私は「ロシアにおける分裂派と分離派」という題の報告を提出した。これはのちにジュネーヴで雑誌『ラスヴェート』第6〜7号(1904年6〜7月)に掲載され、そこでは分離派の運動が社会政治的な観点から明らかにされていた。
ロシア社会民主労働党のこの大会では、分離派について次の決議が採択された。「ロシアにおける分離派の運動が、その多くの現れにおいて、現存の秩序に向けられた民主主義的潮流の一つであることを考慮し、第2回大会は、すべての党員に、分離派を社会民主主義に引きつける目的で、分離派のあいだで活動するよう注意を促す」
分離派のための特別な「小新聞」をつくるという私の案が大会に知られていたので、上記の決議に次の補足が採択された。「大会は、中央委員会に、同志ボンチ=ブルエーヴィチの報告に含まれる提案の問題に取り組むよう委任する」
ロシア社会民主労働党中央委員会は、分離派のための小新聞の出版の提案を検討したのち、「中央機関紙の編集部と一致して」、試験的に分離派のための社会民主主義の小新聞の出版を始めることは可能で有益だと考える、と私に通知した。
わが党の中央委員会からこの通知を受け取ると、私は分離派のための特別な雑誌『ラスヴェート(夜明け)』を出しはじめ、そこにさまざまな論文をたくさん載せた。同じころ、「ウラジーミル・オリホフスキー」の筆名で、ペテルブルクの雑誌『オブラゾヴァーニエ(教育)』に、「カナダの大草原のドゥホボール教徒」と「ドゥホボール運動の歴史から」という題の一連の概説、さらに「軍隊の騒擾と軍事監獄」を載せることができ、少しあとには「ドゥホボールの叙事詩」という題の概説を載せたが、これは2回目の、ひどくゆがめられた概説で打ち切らなければならなかった。検閲が掲載を断固として禁止しただけでなく、筆者を裁判にかけるために、編集者に筆名を明かすよう求めたからである。雑誌『オブラゾヴァーニエ』の編集者、故V. P. オストロゴルスキーは、きっぱりとそれを拒んだ。合法の出版物で現代(1905年)の分離派の運動の総括的な特徴づけをしようとした私の試みも、ペテルブルクで出ていて、今は亡きゴロヴィンスキーが編集していた『世界文学通報』に載せるはずだった私の大きな論文「分離派の世界から」を禁止した検閲によって、根本から断たれた。同じころ(1904年)、私は『イスクラ』に(無署名で)、聖職者の要求と聖宗務院の政策の評価を、「ロシアの教権主義の力」という題の論文として書いた。その大きな抜粋は、ヨーロッパとアメリカの多くの新聞や雑誌に転載された。
1905年には、学士院会員ラマンスキーの雑誌『ジヴァーヤ・スタリナー(生きた古き時代)』に、「ドゥホボール教徒の儀式」という題のかなり大きな研究を載せた。
1908年には、もうロシアで『ロシアの分離派と古儀式派の歴史と研究のための資料』の出版を再開することができ、まもなくそれに、より一般的で、私の考えではより正しい名、『ロシアにおける宗教的・社会的運動の歴史と研究のための資料』を与えた。この「資料」を私は自分で大きな巻ごとに出しはじめ、全部で6巻を出し、詳しい研究、論文、注をつけた。1917年の革命は、私が、タタリノワのサークルの活動、文献、政治的事件の研究にあてた「資料」の第13巻に取り組んでいるところにやって来た。この巻は、この研究に大いに取り組んだ友人ヴィシネフスキーと一緒に出すつもりだった。それは大部分が印刷されているが、今もまだ世に出ていない。そのほか、私は雑誌『ソヴレメンヌイ・ミール』、『ソヴレメンニク』、『ヴェストニク・エヴローパ』、『ミヌーフシエ・ゴードゥイ』、『ゴーロス・ミヌーフシェヴォ』、『万人のための雑誌』、『プラーヴォ』、『ザプロースイ・ジーズニ』、新聞『キエフスカヤ・ムイスリ』、『ウートロ』(ハリコフ)、ときには『ルースキエ・ヴェードモスチ』に書き、これらの出版物に、私の関心のある問題、とりわけ歴史・民族学的な性格の問題についてのさまざまな論文を載せ、党の出版物には当面の政治問題について書いた。そのほか、グラナートの『百科事典』の常任協力者として、そこに分離派の問題についていくつかの項目を書き、総合的な多巻本『ロシアにおける農民改革』にも、1850〜1861年の時期の分離派の運動の概説を書いた。同じころ、L. N. トルストイの死後まもなく、私の提案で『トルストイ博物館協会報』が生まれ、私はその刊行の最初の年に編集し、そこにこの出版物にかかわる問題についての一連の論文や記事を載せた。
分離派の共同体やグループの調査のためのロシアの旅についての短い報告は、科学アカデミーの報告に載った。そこで私は1906年から、A. A. シャフマトフとV. I. スレズネフスキーの両学者の活発な助けを得て、その写本部に、分離派の問題についての写本文献の特別な部門を設けることができた。同じころ、私の報告にもとづき、A. A. シャフマトフを通じて、科学アカデミーの協議会から全国のあらゆる司法機関に、分離派、古儀式派、そして一般に宗教的な裁判について司法機関にあるすべての資料(訴訟・捜査記録、物的証拠など)を科学アカデミーに引き渡すよう、一般的な指示が出された。小包が何百もアカデミーに届きはじめた。こうしてかなりの文書庫ができはじめた。これを宣教師たちがかぎつけて、司法大臣シチェグロヴィトフに報告した。彼は、これらの資料が科学アカデミーを通じて世俗の学問的な研究と分析の領域に入っていくことを悟り、すぐにこれらの資料をすべてモスクワの司法省の文書庫に送らせた。そこでそれらは、もちろん無事に民族学者や歴史家の好奇の目から隠され、文書庫の管理者ヴィソツキーが印刷したいくつかの抜粋を除けば、今日までほとんど研究されないまま眠っている。だが彼にも、これらすべての資料に学問的な評価を与える機会はなかった。こうして、さまざまな形で千年以上続いてきたロシアのこの巨大な農民運動を研究するための資料の中央文書庫をつくろうという私の試みも、ロシアの専制政府の力によって断ち切られたのである。
1905年から1918年までの時期には、そのほかにいくつかの単行本を出すことができた。そのうち、研究書『ハンガリーとセルビアのナザレ派』、研究書『カナダの大草原のドゥホボール教徒』第1巻、『キリスト教徒に対する血の中傷』、『軍隊と軍事監獄の運動』、『時代のしるし』(アンドレイ・ユシチンスキー殺害とベイリス事件)を挙げておく。最近は『分離派の世界から』という題の巻が出た。パリで印刷が始められ、ロシアでは帝政の検閲に禁止された少年時代の回想『閉鎖学校での6年間』は、現在出版の準備中である。そのほか、さまざまなテーマのパンフレットや、同志や同時代人についての回想を出した。これらすべてのほかに、私はたえずわれわれのボリシェヴィキ社会民主主義の新聞・雑誌に書き、『ヴォルナー』、『エーホ』、『フペリョード』、『ナーシャ・ムイスリ』、『プロスヴェシチェーニエ』、『ヴェストニク・ジーズニ』、論集『テクーシチャヤ・ジーズニ』、『ズヴェズダー』、『プラウダ』、『ラボーチャヤ・プラウダ』、『プーチ・プラヴドゥイ』、そのほか検閲であれこれの名が発禁にされるたびに次々に生まれた「プラウダ」の数々に、たくさんの論文を載せた。
1918年の革命のあと、私はわれわれの出版物のさまざまな編集委員会に加わったほか、『ペトログラード労働者・農民代表ソヴィエト・イズヴェスチヤ』、新聞『ラボーチー・イ・ソルダート』、『全ロシア中央執行委員会イズヴェスチヤ』(ペトログラードとモスクワ)、『クラースナヤ・ガゼータ』、『クラスノアルメーエツ』、『ユーヌイ・コムニスト』、『アギト=ロスタ』、『子どもの週間』、雑誌『プロレタールスカヤ・レヴォリューツィヤ』、『モロダーヤ・グヴァルジヤ』に書き、現在も寄稿しており、さまざまな論集、文集、暦に寄稿している。モスクワの協同組合出版社「ジーズニ・イ・ズナーニエ」の編集者を務めている。
私がこれまでに書いた論文、パンフレット、本は400以上にのぼり、本名でも、まったく無署名でも、また次の29の筆名でも書いた。1)「V. B.」、2)「V. B. B.」、3)「V. G.」、4)「V. O.」、5)「A. グリゴーリエフ」、6)「イワン・ガヴリーロフ」、7)「N. ヴォルギン」、8)「ニコライ・ヴォルギン」、9)「イワン・ゴルレンコ」、10)「セミョーン・グヴォーズジ」、11)「アントン・クルグリコフ」、12)「G. コロソフ」、13)「D. ペトレンコ」、14)「ウラジーミル・オリホフスキー」、15)「ウラジーミル・オリスキー」、16)「ニコライ・ペトレンコ」、17)「セヴェリャーニン」、18)「ロマネンコ」、19)「モスクヴィチ(モスクワっ子)」、20)「スタロジール(古株)」、21)「トムおじさん」、22)「読者」、23)「見送った一人」、24)「聴衆の一人」、25)「出版者」、26)「同志」、27)「古い同志」、28)「『ラスヴェート』編集部」、29)「編集部より」。
ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチ
訳注(ボンチ=ブルエーヴィチ自伝)
- 1905年秋に「パリのわれわれの倉庫から爆発物を運んできた」くだりは、原文の記述をそのまま訳した(技術的な補足はしない)。
- 「人民権利派」(народоправцы)は1893〜94年の「人民の権利党」。「人民の意志派の第4ビラ」印刷所は原文「Народовольцев 4 листка」。
- 「ヴィボルグ宣言」は1906年7月の第1国会解散に抗議して、ヴィボルグで議員たちが出した納税・兵役拒否の呼びかけ。
- 「75号室」はスモーリヌイの、のちに全ロシア非常委員会(チェカー)の前身の一つとされる部屋。「マフムード=ベク事件」の内容は原文でも不明とされている。
- 「十四等官」は原文「коллежский регистратор」で、文官等級の最下位。
- 冒頭の生年は原文で1873年。末尾の「1918年の革命」は原文のまま(1917年の誤りの可能性がある)。
- 「学士院会員ラマンスキー」は原文「академика Ломанского」で、V. I. ラマンスキーを指すと思われる。