地下印刷所にて

A. P. キンの回想


1905年1月、ペルミ委員会の要請を受けて、ヴャトカ組織は私をペルミへ、技術要員として派遣した。ペルミで私は、接触場所で、私より先にヴャトカから来ていたクラヴジヤ・ニコラエヴナ・ポポワと会った。彼女から、ペルミ委員会が「摘発された」こと、今は「技術」[訳注1]の立て直しなど考える余地もないことを知った。

私は、エカテリンブルクへ移るよう提案され、そのとおりにした。ここに着いて、接触場所(クルシナの書店)を訪ねると、ここでも最近、委員会の全員が摘発されており、生き残ったのは、クラヴジヤ・チモフェーエヴナ・ノヴゴロドツェワ(亡くなったスヴェルドロフ同志の妻)[訳注2]だけだと知った。

彼女は私に、委員会の印刷所で働くよう持ちかけ、アンナ・ワシーリエヴナ・クラーエワ名義の身分証を渡してくれた。この日から、私は非合法の身になった。仕事を始める前に、しばらく「きれいな」秘密の住まいで、身を潜めていなければならなかった。ある急進派の医師、スパスキーのところで、その日のうちにそこへ向かった。事情を知っていたのは、医師とその妻だけで、家の者たちには、私は親しい知り合いで、上京してきて一時的に泊まっているのだ、と説明されていた。余計な外出は控え、クラヴジヤとの会合や打ち合わせは、毎回違う場所で行って、密偵に手がかりを与えないようにした。ここで私は、秘密活動をこなす力量の試験を受けていたわけで、ここで初めて、「地下(подполье)」というものの意味を理解した。仕事の始まりを待ちながら、1か月も秘密の住まいに座っていることは、私にとって大きな重荷だったが、必要に従うほかなかった。ようやく、あるとき、クラヴジヤ・ノヴゴロドツェワとの面会の日に、明日、一緒に「技術」で働くことになる同志に会うことになる、と知らされた。数日後、私たちはヴェルフ・イセツキー工場に住まいを見つけ、そこに3人で住み始めた——私と、もう2人の同志(党名も姓も覚えていない。一人は、たしかプロホールィチと呼ばれていた)だ。身分証のうえでは、私たちは一つの家族を装わなければならなかった。つまり、一人が私の(見せかけの)夫、もう一人が(これも見せかけの)弟ということになる。

私たちの住まいは、通りに面して傾いた、小さな、2部屋を隔てる窓が1列に並ぶ、あばら家だった。中も外に劣らずみすぼらしく、壁紙は破れ、天井は煤け、床は傾いていた。仲間たちには、地下印刷所というものがすべてこんなふうだったと思ってほしくない。組織に資金が潤沢なところでは、もっとましな環境がつくられた。連想で思い出すのは、のちに私が働いたサマラの印刷所で、あそこは、ある自由主義的なブルジョアの家の、正面玄関のある瀟洒な住まいがあてがわれていた。ここ、エカテリンブルクでは、組織の資金はぎりぎりで、やっと帳尻を合わせている状態だった。だが、私たちはめげなかった——もう何もせずにいるのに飽き飽きしていたし、一刻も早く印刷所の体制を整えたかったのだ。私たちは、あばら家の飾りつけに取りかかった。家主に、印刷所の痕跡を隠さなければならなかったからだ。唯一の家具である椅子二脚は、目立つ場所に置いた。テーブルには、帳簿、紙、何冊かの本を置いて、内職の事務仕事を請け負っている事務員が暮らしている、と思わせるようにした。もう一人の仲間は、病人ということにしてあった(たしか、せむしだったと思う)。印刷機はカーテンの陰に隠し、そのカーテンで、私の寝台のある一角を仕切った。もう一つの部屋には、たらい、バケツ、洗面器、吊るした衣類のほかは何もなかった(たらいが、私たち3人目の椅子代わりに、食事のときに使われた)。

このみすぼらしい環境も、私たちを困らせはしなかった。3人とも願いはただ一つ、少しでも多くビラを送り出し、それによって、憲兵たちに、組織は生きている、数人の逮捕では組織の全体は潰れないのだと、思い知らせることだった。まず刷らなければならなかったのは、1月9日についてのビラで、私たちは、昼も夜も働き詰めになったことなど気にもせず、これを大量に、急いで送り出した。

「技術」と連絡をとるのは、いつも一人だけと決まっていた。当時それは、夜9時から10時ごろに私たちのところへやってくるクラヴジヤだった。窓の鎧戸を打つ、決められた合図の叩き方で、私たちは彼女だとわかり、いつも待ちわびていた。彼女は、中央とエカテリンブルクのあらゆる党の情報を私たちに知らせ、外国とロシア国内の新しい出版物を持ってきてくれた。クラヴジヤ同志が、秘密活動上の事情で長いこと姿を見せないことがあり、そんなときには、私たちは不安になった——また摘発が起きたのではないか、この先どうすればいいのか、そして私たちの「技術」は、しんと静まりかえるのだった。ある時のことを覚えている。お金は底をつき、パンは食べつくし、明かりには小さなろうそくの燃えさしが一本残るだけ、印刷用の紙も足りず、それなのにクラヴジヤはいつまでも来ない。私たちは、これは深刻な事態だと判断した。だが、合図の音一つで、みんなたちまち元気を取り戻し、いっぺんに陽気になった。仕事が大量にたまるときは、私たちはあまりに夢中になって、秘密活動の心得を忘れてしまうことがあった。窓の枠は1列並びで、印刷機の大きな胴(わたしたちの機械は、その手の機械にしては大きすぎて、まったく不釣り合いだったのだが)を回すときの、少しの不注意な音も通りに聞こえてしまう、ということを。私たちの仕事に求められた極度の秘密保持のもとでは、同じ住まいに長く居座ることは許されなかった——印刷所が存在した8か月のあいだに、私たちは住まいを3回変えた。

刷り上がったビラを外へ運び出すのは、私たちのうち、いちばん秘密活動らしく見える者の役目だった。これはたいてい私に回ってきた。工場地区の女の、ふだん着の質素な服に、大きな肩掛けをかぶり、何かまっすぐな上着を着て、私は典型的な工場地区の平凡なおかみさんに見えた。全身にビラを巻きつけて、私は委員会の持っている秘密の住まいへ向かい、そこに置いてくる(そこが、いわば本部倉庫だった)。そこから先は、地区のオルガナイザーたちが、工場や工場地帯へと配って回った。

生活は、この4枚の壁の中で過ぎていった。印刷所で働く者は、どんな大衆集会にも、いかなる会合にも、姿を見せてはならなかった。8か月「技術」に座りっぱなしのあいだ、一度だけ、委員会が、あるマサーフカ(大衆集会)への参加を許してくれたことがあった——私たちの喜びといったらなかった。私たちは、この日を大変な思いで待ちわびた。そしてついにその日が来た。町を出て森へ行くと(1905年の初夏のことだ)、50人ほどが集まっているのが見えた。私たちは、しばらくのあいだ気持ちが落ち着かなかった——まるで見たこともない光景に入り込んでしまったかのようで、話している人の言葉を、口を開けたまま聞き入っていた——何か祝祭のような高揚感があった。夜11時か12時ごろ、森にいるあいだじゅう革命歌を歌いながら、帰路についた。家に帰ると、またすぐに仕事だった。

5月1日向けのビラのあと、そして5月1日のデモの試みのあと、警察はひどく神経を尖らせ、私たちの印刷所を探して、街じゅうを駆けずり回るようになった。だが、今度も、私たちは自分たちの生み出したものを守りきることができた——森の中に埋めたのだ。ノヴゴロドツェフ家の馬で、夜のうちに運び出した。しばらく「技術」を葬っておき、私たちは避暑客を装って生活した。教師(夫婦)と、そしてクラヴジヤの弟——町から5ヴェルスタほどのザイムカで、クラヴジヤの叔母、アレクサンドラ・フョードロヴナ・ムィリニコワのところに身を寄せていた。2週間ほどすると、捜索は下火になった。印刷機を掘り出して、私たちはまた仕事にかかり、また「ブリヌィを焼く」(冗談で、私たちはビラのことをこう呼んでいた)ことを始め、8月の初めまで「焼き」続けた。そのあいだに、仲間の2人、プロホールィチとフェドセーイチは、別の仕事に移った——というより、エカテリンブルクからすっかり出ていってしまった。私と老婦人の家主とで、二人きりになった。印刷所の主任を務めるほかなかったのは私で、植字も、版の組み方も、胴の締め方も、インクの塗りも、私一人でやらなければならなかった。アレクサンドラ・フョードロヴナが紙を渡してくれ、刷り上がったものを胴から外してくれた。ビラは、次々に出回った。町では、印刷所の捜索についての噂が広まり、警察は町の外、別荘地まで探しに来た。またしばらく、印刷機を隠さなければならなかった。それでも工場からは、文献をよこせという催促が続いた。次に予定されていたのは、すでに好評を博していた小冊子『蜘蛛と蠅』の再版だった。私たちはまた紙を手に入れ、仕事にかかった。刷ったのは1600部(今でも覚えている)で、印刷を終えたところで、1905年8月、私たちは監獄に入ることになった。私と一緒に、住まいの主人だったアレクサンドラ・フョードロヴナ・ムィリニコワも逮捕された。同じころ、エカテリンブルク委員会の新しい構成員全員も、ことごとく捕まった……

憲兵たちにとって、印刷所の摘発はまるごと一つの祝祭だった。家宅捜索には、ただの巡査から検事に至るまで、あらゆる階級の者が立ち会い、家じゅうがひっくり返された——ストーブの灰の中まで、すべてがかき回された。立ち会った者たちの顔に浮かんでいた、あの得意満面の様子は忘れられない。彼らの喜びようは、印刷所を押さえたことに加えて、私という、若く、経験の浅い(彼らの見立てでは)女を捕らえたことにもあった。彼らは、私を取り調べれば、ほかの者たちのことを聞き出せると期待していたのだ。だが、この点で彼らは見込み違いをした。地下活動は、黙ることを教えてくれていたし、それを教えてくれたのは、革命の優れた師たちとの付き合いでもあった。私たちは、刑事犯の女性たちが入っている、独立した木造の建物に入れられた。監獄そのものには覚悟ができていたが、私を打ちのめしたのは、ただ一つ、身体検査だった。あのときは、下着一枚になるまで脱がされ、体じゅうを隈なく調べられた。私は、一緒に捕まった仲間たちから引き離され、独房に入れられた——寝台もなく、テーブルもない(この房は、もともと刑事犯の女たちの何人かを入れるためのものだった)。寝るときは、フェルトの敷物を一枚敷き、小さな旅行用の枕を使うほかなかった。房内は、灯油ランプで照らされていて、それは一晩じゅう燃え続け、強烈な臭いを放っていた。手元に置くことを許されたのは、コップ、湯沸かし、スプーン、タオル、石けんだけで、刃物のたぐいは一切禁止だった——ナイフも、フォークも、はさみも、針も、だめだった。鉛筆と紙を持つことも許されなかった(経験に学んで、私たちはそれを壁の中に隠すことを覚えた)。規律はこうだった——朝6時起床、7時にお湯とパンの配給、12時に昼食、5時にお茶、6時から7時に点呼。当直の看守と副所長が監獄内を見回ったあと、夜の点呼のあとは就寝。日中は10分から15分の散歩、決められた日には面会があり、一部の者には鉄格子越しの面会、一部の者には直接の面会が許された。私自身は、面会は一度もなかった。

時間の過ぎ方は、誰にとっても同じというわけではなかった。私たちの大部分は、新しい環境に慣れないまま、何に手をつければいいのかわからず、無為に過ごしていた。一方で、すぐに本を手に取り、来る日も来る日も読みふける者たちもいた。中には、何をすることもできず、ただ部屋を歩数で測ったり、自分の寝台(あればの話だが)や板張りの寝床に、体を伸ばして横たわったりするだけの者もいた。読むことにも、歌うことにも、横になることにも、歩くことにも飽きると、壁を叩き合ったり、監獄用の暗号アルファベット[訳注3]で文通したりし始めるのだった。

どれほど厳重な隔離のもとでも、監獄には常に、ほかの棟にいる仲間や、外の世界に手紙を届ける手立てがあるものだった。こうして私たちは、10月まで座り続けた。そこで、「紙の自由」[訳注4]についての「詔書」が届いた。その日の昼間、巨大な群衆が監獄の前に集まり、私たちの釈放を要求した。房を、代表の仲間たちが群衆の中から回って歩き、私たちにこう伝えた——お前たちは自由だ、と。10月18日の昼12時ごろ、私たち政治犯は全員、監獄の外に出て、自由の身となった。


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訳注

[訳注1] 「техника(技術)」は、当時の地下組織の用語で、非合法の印刷・複写の部門・作業一式を指す。カプースチンやカマガンツェフの回想にも同じ意味で登場する。

[訳注2] 「亡くなったスヴェルドロフ同志」とあるが、Ya. M. スヴェルドロフは1919年に死去しており、この回想が書かれた時点(1920年代前半)ではすでに故人。クラヴジヤ・チモフェーエヴナ・ノヴゴロドツェワは、カプースチンとカマガンツェフの両回想にも登場する人物で、序文の署名者「K. ノヴゴロドツェワ」と同一人物とみられる。

[訳注3] 「тюремная азбука(監獄アルファベット)」は、壁越しに文字を伝えるための、囚人のあいだで使われた叩き符牒(ノック信号)の体系。

[訳注4] 原文「бумажных свобод」(紙の上だけの自由)は、十月詔書が実質を伴わない、書面上だけの約束にすぎないという、皮肉を込めた当時の言い回し。カプースチンやカマガンツェフの回想でも、詔書への懐疑がたびたび語られている。

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