(「チョールト」の回想からの抜粋)
たしか1905年8月、私が南部地方(キエフ)のメンシェヴィキ的な環境のなかでもがいていたころだったと思うが、当時中央委員会の技術局があったオリョールの「ミロン」(V. N. ソコロフ)から手紙を受け取った。手紙のなかで「ミロン」は、キエフを引き払ってオリョールの彼のもとへ来るよう勧めていた。同時に、私にはきわめて責任の重い、それだけに興味深い仕事が待っている、とも書いてあった。私はたちまち腰を上げた。キエフには何の未練もなかったし、とにかく党の仕事は私の目にははっきりとした権威を持っていたからである。
オリョールでは古い友人のミロンとエレーナに会い、初めてA. P. ゴルプコフにも会った。だがオリョールにいたのはほとんど汽車から汽車への乗り継ぎほどのあいだだけだった。「ミロン」が、モスクワへ行けとひどく急かしたからである。モスクワで私は、党中央委員会の機関紙『ラボーチー』を印刷する予定の中央委員会印刷所を引き受けて管理することになっていた。
私はもう、党の仕事で十分に責任ある任務を担うことには慣れていたが、自分に予定されている役割を知らされたとき、その瞬間の私ほど誇らしい人間はまずいなかっただろう。私はそのとき23歳だった。
ヤフカと合言葉と住所を授けられて、私はモスクワへ向かった。当時の私はすさまじい記憶力の持ち主だったので、住所も合言葉も、暗号でさえ、一度も書き留めたことがなかった。
モスクワではドルゴルコフスカヤ通りの、歯科医マカロフスカヤ=ニキーチナの待合室へ行き、順番を待って、診療台にどっかり腰を下ろすと、「磁器の歯を入れてほしい」と要求した。この合言葉と引き換えに、弁護士補ミハイロフ(ミーシャおじさん)の住所と合言葉を受け取り、彼が私をさらに「マラート」(シャンツェル)に引き合わせた。マラートとは、翌日さっそく会うことで話がついた。その日はヤフカに同志エヌキッゼ(セミョーン)が来ることになっていた。彼は当時ゲオルギー・レジャーヴァ名義の旅券でモスクワに住み、ゲオルギーと名乗っていた。ほかならぬ彼が中央委員会印刷所の技術的な組織者であり、私は彼からそれを引き継ぐことになっていた。ゲオルギーとの面会は、レオンチエフスキー横町のカフカース風の地下酒場「メナブデ」で行われた。酒場の主人は身内の人間で(現在は共産党員)、そのため彼の酒場は印刷所のためのヤフカになっていた。
ゲオルギーと知り合うと、私たちはあらゆる秘密保持の用心をしながらレースナヤ通りへ向かった。その55番地の家、ブッティルカ監獄のまさに鼻先に、印刷所はあった。
(写真説明)V. I. ボゴモーロフ(「チョールト」)
ゲオルギーには正当な評価を与えなければならない。場所の選び方においても、秘密保持の辛抱強さにおいても、純粋に建設という意味においても、彼はまさに天才的な手腕を発揮した。小さな3階建てのレンガの家で、1階はその下を通る門で二つの等しい部分に分かれ、そこに店が入っている。門から最初の店をゲオルギーが借りて、「カフカースの品」――米、干しぶどう、干し杏、干し桃、カフカースのチーズ――を商うことにしたのである。店を借りるときにもう、ゲオルギーは家主に、店の下の地下室は湿っぽい、このままでは米の蓄えをそこに置くことができない、地下室を乾燥させて商売に使えるようにするには、地下室に排水用の井戸を掘らなければならないだろう、と念を押した。こうした下準備があったので、隠し部屋をつくる工事にとりかかることができた。そこにこそ印刷機と活字ケースを置くことになっていたのである。地下室の奥に深さ2サージェンほどの排水井戸が掘られ、その壁には縦に板が張られていた。深さ1サージェンのところで、太い角材の二つの張り帯のあいだの井戸の板張りの一部が蝶番いで取りつけられ、落とし戸になっていて、その奥から水平な通路が始まり、地下室の床下を、家の通りに面した正面と直角に、掘り進められていた。この通路は店に付属する住居の台所の下で終わっていた。この台所の下の地中に、容積約1立方サージェンの小部屋がつくられ、そこに高速印刷機「アメリカンカ」と活字ケースが据えられていた。水平の通路は断面が正方形で、腹這いになってしか進めないほどの大きさだった。
印刷所の「要員」は次のとおりである。店の公式の主人で、営業許可証もその名義で取られたグルジア人の同志。彼のもとには妻と生まれたばかりの赤ん坊がいた。主人は印刷所では働かず、店だけをやっていた。店にはほかに、「マラート」が私たちに推薦してくれたロシア人の店員ワシーリー・エゴロヴィチもいた。一同のなかで商売のわかるのは彼だけで、彼の「商売人らしい物腰」が店に本物らしい様子を与えていた。鉱夫たちの言い方を借りれば「地表」についての話を終えるために、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスクの女工出身の娘(「トルーバ」)にも触れておかねばならない。彼女は、公式には主人の女中ということで印刷所にいた。
さて「地下」のことだ。その要員は、たしか三人のグルジア人、サンドロ、シラ、ゲオルギーだった。
人々と印刷所そのものを把握し、いわば建設者ゲオルギーからそれを「操業へ」引き継ぐとすぐに、紙の購入と、その店への安全な搬入と、印刷された『ラボーチー』の印刷所からの搬出という問題が、私の前に鮮明に立ちはだかった。ミロン、ゲオルギー、それに「中央委員会印刷所の新しい管理者」と知り合いたいと私をペテルブルクへ呼び寄せたニキーチチと相談したうえで、私は、スモレンスクの貴族アレクセイ・アレクセーエヴィチ・マレワーヌイ(当時私が使っていた旅券の名義)の名で、運送取次業者として、ソフィスカヤ河岸通りのココレフ商館の倉庫の一つを借りた。
よい関係を築くために、私はココレフ商館の倉庫の運搬人頭をバルチューグの食堂に招き、そこで、「マラート」が私のもとへ寄こした同志、つまり私の「店員」を運搬人頭に引き合わせた。ご馳走にすっかり打ち解けた運搬人頭は、私たちの商売の成功を祈り、この若い運送店に得意先まで回してやろうと約束した。その後の仕事で彼は私たちの邪魔をしなかったばかりか、何も知らぬまま幾度となく助けてさえくれた。ひとことで言えば、ココレフ商館で私は、若いが手堅い商売人という評判を獲得したのである。倉庫を借りた翌日にはもう、ゲオルギーがカフカースから届いた米一貨車分の送り状を私に渡し、私はそれをおごそかに駅から自分の倉庫へ運び、さらに数日後には、最大判のすばらしく薄い便箋用紙を何箱か買って、これも自分の倉庫へ運び込んだ。
倉庫で「店員たち」と働き、ココレフ商館の運搬人頭から幸先のよい始まりを祝われたその日、倉庫から何台かの荷車分の米がレースナヤ通りの「カフカースの店」へ運び出された。そこでは「地表」は商売のための米を、「地下」は印刷のための紙を待ちかねており、紙は米袋のなかから取り出された。この最初の試みの結果、「店員」も私も、紙を米袋に縫い込むときに巨大な針を不慣れな手つきで扱ったために、てのひらがすっかり刺し傷だらけになった。
『ラボーチー』の号が刷り上がると、印刷所でそれをまたもや米袋に詰め、袋には黒インクで新しいもっともらしい印をつけ、私がそれを、今度は自分の責任で買い入れた米の荷ということで、ココレフ商館の自分の倉庫へ運んだ。
それから私は「サン=ガリ」商会から、爆弾の外殻として必要だった鉄亜鈴をひと山買い、倉庫でそれを荷ほどきして、空いた箱に『ラボーチー』の号をすべて詰めた。いくつかの箱は、郵便あるいは運送会社を通じて地方の宛先へ直接送り、モスクワと中央地方向けの一部――それも大部分――は、ある弁護士(たしかゴロドフスキー)の住まいへ送りこんだ。彼の助手をしていた同志たちが、その荷を何かの破産管財人の書類として受け取った。彼らの雇い主は破産事件の専門家だったからである。その先は、号はモスクワ委員会の若者たちによってモスクワじゅうに持ち去られた。
その後もこのようなやり方で、印刷所への紙の供給と印刷物の搬出が行われた。
これらの仕事はすべて何の障りもなく進んだことを特記しておかねばならない。ただ私は、供給と搬出のさまざまな作業の純粋に外面的な側面に、作業を行うそのときどきの客観的条件に応じて、ありとあらゆる新しい工夫を取り入れなければならなかった。
仕事の都合上、私はモスクワのあちこちの地区にいくつも住まい(部屋)を持ち、さまざまな姿をとらねばならなかった。小商人、運搬人、立派な紳士、ぼろをまとった男、「白裏地」の学生、そして……スーミ騎兵連隊の将校にまで。ニキーチチ(L. B. クラーシン)は私に、印刷所の維持、紙、運送作業のための資金についてはマリヤ・フョードロヴナ・アンドレーエワに頼むように、彼女にはそのことについて指示が与えてある、と教えた。ペテルブルクから戻ると、ミーシャおじさんが私をマリヤ・フョードロヴナに引き合わせてくれた。その後私は、当時M. F. アンドレーエワとA. M. ゴーリキーが住んでいたヴォズドヴィジェンカの、きわめて頻繁な客となった。そしてのちに戦闘的な仕事に移ってからは、一時期そこに住んでさえいた。そこで私は、今は亡きN. P. シュミットとその姉妹とも知り合った。
バウマンの殺害と葬儀から数日後、通りかかったみすぼらしい「愛国デモ」の前で帽子を取らなかったという理由で、パーヴェル・アウグストヴィチ・グロジャンが通りで黒百人組に殺された。彼は中央委員会軍事技術局のモスクワグループの首班だった。ちょうどそのころ、党の文献を合法的に印刷できるようになり、『ノーヴァヤ・ジーズニ』が発刊されたので、当然ながらレースナヤ通りの私たちの印刷所の仕事はそれほど忙しくなくなり、私は、故P. A. グロジャンが担っていた、きわめて秘密性の高い仕事を引き受けないかと提案された。私は大喜びで承知し、中央委員会中央技術局の指示によって、印刷所とその連絡網をエレーナ・ダリヤノヴナ・ソコロワに引き渡した。ただしココレフ商館の倉庫だけは手元に残した。殺されたP. A. グロジャンの兄弟「ドミートリー・セルゲーエヴィチ」(ユーリー・アウグストヴィチ・グロジャン)が私を導き入れた、その後の技術・戦闘の仕事に、それが必要だったからである。
チョールト(V. A. ボゴモーロフ)
モスクワ 1923年3月17日
第11章 訳注
- 「チョールト」(Чорт)は「悪魔」を意味する変名。写真説明では「V. I. ボゴモーロフ」、末尾の署名では「V. A. ボゴモーロフ」と、父称の頭文字が食い違う。原文どおりとした。
- 『ラボーチー』(Рабочий、労働者)は1905年にボリシェヴィキ中央委員会がモスクワで非合法に発行した大衆向けの新聞。本章の印刷所は、第1章エヌキッゼ、第3章ストゥルアが語るレースナヤ通りの地下印刷所と同一である。
- 「セミョーン」は、第1分冊と同様、T. T.(トリフォン)・エヌキッゼを指す。第1章の話者A. エヌキッゼとは別人である。
- 「ミロン」=V. N. ソコロフは第4章「カフカースの店」の筆者。エレーナは、本章末尾に名の出るエレーナ・ダリヤノヴナ・ソコロワと同一人物と思われる。「ニキーチチ」=L. B. クラーシン。「マラート」=V. L. シャンツェル。
- N. E. バウマンは1905年10月18日(旧暦)にモスクワで黒百人組に殺害されたボリシェヴィキ。『ノーヴァヤ・ジーズニ』は1905年10月末からペテルブルクで合法的に発行されたボリシェヴィキの日刊紙。N. P. シュミットはモスクワの家具工場主で、党に資金を提供した。
- 鉄亜鈴を爆弾の外殻に用いるという記述は原文のとおり訳した。凡例の方針により、武器に関する技術的な補足は加えない。
- 「白裏地」の学生は、制服の裏地に白い絹を使った裕福で保守的な学生を指す言い方。