第1章 A. S. エヌキッゼ「カフカースにおけるロシア社会民主労働党非合法印刷所の組織と活動の歴史(1900〜1906年)」

(1923年1月14日、オールド・ボリシェヴィキ・クラブにおけるA. S. エヌキッゼ同志の報告)

この論文は本論集のために書かれたものだが、とりわけ興味深い内容であることから、先に『プロレタリア革命』第14号に掲載した。――編者

同志諸君、これから私の記憶をもとにお話しするわが党の生活と活動の出来事は、いずれ書かれるべき完全な党史のなかで、間違いなく最も輝かしい部分のひとつになるでしょう。これらの出来事は5〜6年にわたるものです。それでも、これからお話しする歴史のいくつもの場面は、私の記憶にきわめてくっきりと、鮮明に残っています。

ご存じのとおり、わが党は全体として非常に内容豊かな党です。理論の力ではドイツの党に次いで2番目かもしれませんが、組織の力、つまり非合法期と合法期を通じた組織建設の点では、間違いなく世界の労働運動で最強の党です。とりわけ、これからお話しする非合法の党印刷所の組織という点では、わが党はロシアと西欧のあらゆる革命政党のなかで疑いなく第一位を占めています。人民主義派(ナロードニキ)を含めてどの革命政党も、非合法の党印刷所の規模においても、その生産力においても、外部と内部の組織においても、旧ロシア社会民主労働党のような事業を持ったことはありませんでした。

今日は、こうした印刷所の組織にかかわる歴史だけを取り上げます。ただ、当然ながら、党全体の生活のあれこれの事柄にも触れることになるでしょう。ここで最初にお断りしておかなければなりません。私はたびたび一人称で話すことになりますし、この印刷所で働いた同志たちについては大いに称えることになりますが、この歴史全体のなかで私自身が占める位置は、副次的とまではいかなくとも、決して第一のものではありません。これらの印刷所を組織し動かした主な功績は、このあとお話しするほかの同志たちのものです。

この分野で最も重要な働き手であり、カフカースにおけるわが党の非合法印刷事業の最初の組織者にして創始者は、故ウラジーミル・ケツホヴェリ同志です。彼は最初の非合法印刷所を創設し組織しただけではありません。並外れた精力と組織の才能によって、その影響のもと、彼のまわりに一世代の同志たちが育ち、のちにこの分野の仕事で頭角をあらわしました。

ウラジーミル・ケツホヴェリはチフリス神学校の元生徒で、1895〜1897年にはチフリスの非合法サークルで私たちの先輩格の同志であり、とりわけ神学校内のサークルの先輩でした。ちなみにそのサークルには、現在のロシア共産党中央委員会書記、ジュガシヴィリ=スターリンも加わっていました。私はケツホヴェリ同志と2年あまりのあいだ地下で緊密に結びついて活動する栄誉に恵まれ、1902年に逮捕されてからはメテヒ城塞監獄に一緒に入っていました。彼はその監獄で、1903年8月17日、歩哨の銃弾に倒れました。

ケツホヴェリと私がバクーで党活動をともにするようになる前のことです。1898年末、私はそれまで組立工場の実習生として働いていた鉄道本工場から、バクー鉄道機関区の機関助手に配置換えになりました。

当時のバクーには、党の労働者組織はひとつもなく、サークルさえひとつもありませんでした(これは1898年秋の話です)。いたのは個々の同志だけで、一部はロシアから流刑されてきた人々(大半はズバートフによってモスクワから追放された人々)、一部は国外亡命から戻ってきた人々でした。チフリスの同志たちはそのうちの何人かとつながりがあり、私はバクーの住所を教えてもらっていました。すぐにこのつながりを使ってみましたが、こうした同志たちの手でチフリスの非合法サークルのような労働者サークルを組織することは、当時いろいろな理由から無理だとわかりました。彼らから得られる助けは、一部は組織のための資金、一部は文献の提供やその他の助言くらいでした。

1899年の初め、私はチフリス時代からの知り合いだった2人の鉄道員の同志とともに、最初のサークルをつくることができました。鉄道地区だけでなく、その近くの工場にもです。同じ年には、サブンチの油田地区にも2つのサークルを組織できました。これらのサークルがバクー組織の基本細胞となり、この組織は全ロシア的な規模で非常に大きな役割を果たすことになります。

1899年末、ウラジーミル・ケツホヴェリはチフリスからバクーへ移らざるを得なくなりました。彼はチフリス組織で活動し、チフリスで最初の鉄道馬車労働者のストライキを指導していたので、党の傑出した活動家としてそれ以上チフリスにとどまることはできなかったのです。そのうえ彼は、合法の印刷所の印刷工たちのなかで活動していたおかげで、チフリス組織の檄文やビラを刷らせることに成功していたことが知られていました。当然、彼の活動は憲兵の監視を逃れられず、他人の名義でバクーへ出ざるを得なかったのです。こうして1899年秋、彼は私のところに現れ、持ち前の精力と疲れ知らずの熱意で仕事に取りかかりました。サークル活動の主な重荷、つまり油田地区でも「黒い町」「白い町」でも活動を活気づけ広げていく仕事は、ケツホヴェリ同志が担うことになりました。組織の手腕でも知識でも、彼は私や、彼が来る前からそこで党活動を始めて軌道に乗せていたほかの同志たちより、はるかに上だったからです。

労働者大衆のなかで活動が広がるにつれ、ケツホヴェリ同志はどんな話をしていても、小さな非合法印刷所か印刷機を組織する必要がある、という考えにいつも戻っていきました。合法のマルクス主義文献、とりわけ新聞は――ついでに言えば、当時チフリスではグルジア語の新聞がよくできていたのですが――、当時のバクーやロシアの他の地方の労働運動においては、党の要求と課題にとても応えられない、と彼は繰り返し言いました。だから、どんなに原始的なものでもいいから非合法の出版所の組織にあらゆる力を注ぐべきだ、と主張したのです。しかし最大の障害は、私たちに何の資金もないことでした。労働者サークルの組織の初日から定めていた会費は、当然ながら印刷所の組織には足りませんでした。

会費は、サークルそのものの運営にかかるごく基本的な出費をかろうじてまかなう程度でした。そこでケツホヴェリ同志は、資金を探しはじめました。資金の一部は彼の兄から手に入れました。私の記憶違いでなければ、兄は当時ペルシア国境で小さな森林利権を持っていました。ケツホヴェリ同志はここで少々策を用いて兄に手紙を書きました。勉学を続けたい、革命の仕事はいっさいやめるつもりだ、ついては兄に援助を頼みたい、と伝えたのです。まもなく彼は200ルーブリを受け取りました。添えられた手紙で、兄はウラジーミルの「分別」を喜んでいました。この金額は、当時としては私たちの小さな組織にとってひと財産でした。200ルーブリあれば、念願の事業を組織できるだろうと考えたのです。

この金を受け取ると、ラド・ケツホヴェリはさっそく小さな手動印刷機づくりに取りかかりました。私たちはチフリス組織とつながりがあったので、この件について連絡を取りましたが、わずかな物質的援助と活字その他の印刷材料での支援のほかは助けられない、ということがわかりました。そのため、主に自分たちの力に頼るほかありませんでした。ラド・ケツホヴェリは、チフリスでしばらく合法の印刷所を切り盛りしていたので、印刷の仕事をいくらか知っていました。一方の私は、それまでこの方面の技術について何の知識もありませんでした。印刷機をどう組み立てるのか、どのくらいの大きさにするのか、などと彼が私に質問すると、私のあまりの無知に彼は驚いていました。

結局、どこかの印刷所へ行って実際の印刷の様子を見て、あとで何をすべきか考えることにしました。私たちはバクーのシャポシニコフという人の小さな印刷所へ、名刺を注文するという口実で出かけ、印刷の様子を見はじめました。当時はまだ、私たちが特に注意を引くことはない時代でした。ケツホヴェリ同志は私を指して、印刷所の主任にこう頼みました。

「この若者が印刷の仕事にとても興味を持っておりまして、どんなふうにやるのか見せていただけないでしょうか」

私たちの主な目的は、隙を見て活字ケースから活字を何本か抜き取ることでした。活字の高さや、印刷機の版盤と円筒のあいだの間隔をどのくらいにすべきかが、本やカタログからはどうしてもわからなかったからです。印刷所の主任はたいへん親切な人で、印刷所じゅうを詳しく見せてくれました。この親切のおかげで、私は印刷の技術について多くを学んだうえ、ひとつかみの活字をくすねることもできました。私たちは丁寧に挨拶して帰りました。言うまでもなく、名刺を受け取りには戻りませんでした。しかも名刺は架空の名前で注文してあったのです。

ケツホヴェリ同志は、印刷機を版盤や円筒なども含めて細部まで製図してみろと私に言いました。長いやり直しのあと(彼は私の図面をいくつも突き返しました)、私は印刷機を部品ごとに製図しました。この部品図をもとに、それぞれの部品を別々の工場に注文しました。よく覚えていますが、版盤とほかのいくつかの部品はルイセフの工場に(この工場はたしか今もバクーにあります)、円筒そのものは「黒い町」のエイゼンシュミットの工場に注文しました。ルイセフの工場では誰も私たちを気にとめませんでした。手付金を受け取り、1か月後に納めると約束してくれました。

エイゼンシュミットの工場では、作業場の主任と話しているところへ、抜け目のなさそうな紳士が近づいてきて言いました。

「ああ、これはきっと校正刷り用の印刷機ですな?」

ケツホヴェリ同志は落ち着いて答えました。

「ええ、印刷機用です。ずいぶん勘が鋭いですね、若い方。きっと出世なさるでしょう。ですが忠告しておきますと、聞かれてもいないのに考えを口にしないことです」

主任のほうは、その「若者」に、自分に関係のないことに首を突っ込むなとぴしゃりと言いました。

取り決めどおり、1か月か1か月半後には注文品を引き取らなければなりませんでした。急ぐ必要がありました。第一に「印刷所」の場所のこと、第二に活字やその他の付属品、つまりインク、ローラーなどのことです。印刷機を扱ったことのある方なら、何が必要かきっとご存じでしょう。全部でいくらかかるか計算してみると、200ルーブリでは印刷機を引き取る代金にさえ足りないことがわかりました。そこで私は、資金の交渉のためにチフリスの同志たちのもとへ派遣されました。

よく覚えていますが、私は2人の同志に会いました。ひとりはグルジアじゅうに知られた、当時の組織の指導者シリヴェストル・ジブラッゼ。もうひとりは当時若い党員だったスターリン同志、当時の呼び名でいえばコバまたはソソです。私は駅近くのチフリスの安料理屋で彼に会いました。話し合いの結果、彼らは最初、資金を出すことを断りました。チフリス組織は、印刷の事業全体を自分たちの統制と指導のもとに置きたいと考えていたからです。そうでなければ、チフリス委員会の乏しい資金から、私が頼んだ100ルーブリか150ルーブリを出す危険は冒せない、と彼らは言いました。条件についてケツホヴェリ同志から直接の指示を受けていなかったので、私はこれに何も答えられず、そのまま別れました。

それでもバクーへ戻る前に、ラド・ケツホヴェリのサークルの元メンバーだった印刷工たちから何か手に入れようとしました。彼らは夕方までに――その晩にはバクーへ戻らなければならなかったので――、印刷機用の活字やその他の材料を3プードまで調達すると約束してくれました。金については、仲間うちで集めてみて、1週間後に知らせると言いました。植字工のひとりは、印刷所を立ち上げるのを直接手伝うために、一緒に行くとまで申し出てくれました。私はこの申し出を断りました。バクーにはまだ、常設の仕事に使える確かな場所がなかったからです。

晩に、私は活字を持ってバクーへ発ちました。活字は、カフカース式の振り分け袋にただざらざらと流し込まれていました。当時の私は若くて丈夫だったので、かさの小さな3プードの荷物を楽々と車両に運び込み、上段の棚に載せて、自分もそこへよじ登りました。もちろん誰も私を気にとめませんでしたが、経験不足のせいで、みんなが何か私を疑っているような気がしてなりませんでした。

バクーの駅ではケツホヴェリが出迎えてくれ、離れたところから目配せで、ついて来いと合図しました。私たちは駅からほど近いバラハンスカヤ通りへ向かいました。そこには、小さな印刷所をまず組み立てるための部屋がありました。私がどんな状態で活字を運んできたかをケツホヴェリ同志に見せると、彼は悪態をつき、ばらばらになった活字を仕分けるには幾晩もかかるぞ、と言いました。活字ケースはまだなかったので、私たちは活字を全部、字ごとに仕分けて紙に包みました。この作業に何晩も徹夜しました。私たちは2人とも、裏返しの文字を見分けるのに苦労しました。

チフリスの同志たちが金を出すと約束した条件をケツホヴェリに伝えると、彼はきっぱりと断りました。チフリス組織の統制などあってはならない、信頼してくれるなら資金を出せばいい、そうでないならバクーで金なしでやっていく、と言うのです。

印刷機の引き取りの期限が来ても、バクーで金を手に入れられなかったので、もう一度チフリスへ行かなければなりませんでした。今度は同じ同志たちがすぐに100ルーブリと、印刷用の檄文の原稿を渡してくれました。この金を持ち、同志のひとりである植字工ワソ・ツラッゼを連れて、私はバクーへ戻りました。ついに印刷機は引き取られ、据えつけられました。そして、私たちにとってこのうえない喜びだったことに、グルジア語とロシア語で刷られた最初のビラは、仕上がりの点でとてもよくできていました。

もちろん、この仕事を軌道に乗せるには途方もない苦労がかかりました。作業はふつう夜、サークルの集まりのあとで、雨戸を閉め切り、暖炉のない息の詰まる部屋で行いました。刷り損じの紙は、暖炉のある同志のところへわざわざ運んで燃やしました。刷り上がったものは、ビラでも小冊子でも、すべてチフリスへ送ることに決めました。バクーにある印刷機の所在を隠すためです。ケツホヴェリ同志は、すでに得た成果には決して満足しない性分の人でした。まもなく、私たちの印刷機は生産力が小さいため、彼にはもう物足りなくなりました。

彼は言いました。「わたしは落ち着けないんだ。こういうビラや小冊子が何百何千とどこからかあふれ出して、広まっていく夢ばかり見る」。まもなく、印刷機を引き払わなければならない兆候が現れました。私たちの夜の作業と昼間の不在が、近所の人たちの注意を引きはじめたのです。ケツホヴェリ同志の胸には、何としても資金を手に入れ、アメリカ式か普通の円筒式の本物の印刷機械を買うという計画が熟していました。この計画を立てたうえで、私たちはケツホヴェリ同志を組織のほかの仕事からすべて外しました。彼はバクーの印刷所にしばしば出入りして知り合いをつくろうとしました。もちろん他人の書類で暮らしていたのですが、チフリスでは印刷所の所有者としての書類まで整えていました。こうした手続きはすべてよく心得ていたのです。当時、印刷機械を買うには県知事の許可が必要でした。彼はチフリスへ出かけ、知り合いの印刷業者のところでこの許可の書式を調べて写しを取りました。バクー県知事の印を注文し、トレース紙で写し取った県知事の署名も手に入れました。これはすべてチフリスで手配されました。こうして彼は、自分が名乗っていたダヴィド・イオシフォヴィチ・デメトラシヴィリの名義で、カフカースのどの町にも印刷所を開く権利があるとする、当時のバクー県知事スヴェチーンの署名入りの許可証をこしらえました。この書類を手にして、彼はまもなくバクーの印刷所「プロムイシラーニエ」の持ち主と掛け合い、便箋判の古い機械を900ルーブリで買う話をまとめました。話はまとまりましたが、当時の私たちの組織のどこもがそうだったように、金が足りませんでした。ケツホヴェリ同志は、当時何らかの公的な地位にあったバクーの何人かの同志に頼み、レオニード・ボリソヴィチ・クラーシン、ニコライ・ペトロヴィチ・コゼレンコ、エカチェリーナ・アレクサンドロヴナ・キッツの助けで800ルーブリまで集めることができました。それでも機械の代金には足りません。そこで私は組織から、鉄道を辞めて別の仕事に移り、党の仕事、とりわけ印刷所の仕事にもっと時間を割けるようにしてはどうかと勧められました。こうして鉄道を辞めるときの精算で、機関車の走行距離と修理に対する報奨金のようなものを受け取り、その額で機械の購入と据えつけの費用を当面まかなうことができました。

そして、私たちにとって晴れがましく喜ばしいある日、私たちはこの機械を買い、新しい住まいへ運び込みました。たしかその住まいはヴォロンツォフスカヤ通りの、タタール人の家にありました。このタタール人とケツホヴェリ同志のあいだにはすっかり信頼関係ができていて、老人はいつも印刷所のこの機械のそばに座り込んでいました。すっかり気に入って、幼い息子のヌリを私たちの弟子にしたいと言い出したほどです。本をつくるのは一番いい仕事だ、と彼は言いました。「ヌリを仕込んでおくれ、頼むよ、連れていってくれ。5年はただで働かせていいから」。ヌリは幼かったので、さしあたり彼の「仕事」は私たちからいろいろな贈り物をもらうことだけでした。私たちは彼をかわいがっていたのです。タタール人の老人自身も、夜になるとやってきて、私たちと一緒に時を過ごしました。もともと出不精でどこへも出かけず、いつも私たちのそばをうろついていました。おしゃべりについて言えば、バクーのアゼルバイジャン人はたいてい口が重く、誰にも何も漏らしません。肝心なのは、うちの「アリ・ババ」の老人が、ダヴィド・デメトラシヴィリ(ケツホヴェリ)のような立派で、気だてがよく、気前がよく、驚くほど飾らない愛想のよい人物が非合法の仕事をしているとは、つゆほども疑っていなかったことです。

部外者が、つまり家主やその幼い息子がどうして非合法印刷所に出入りできたのか、という同志たちの疑問には、こう答えなければなりません。バクーのアゼルバイジャン人の暮らしの事情を知らない同志には、こういう状況はたしかにまったく不可解に思えるでしょう。

じつは、バクーのムスリム地区では、どの家もどの中庭もまったく閉ざされ、孤立して暮らしているのです。たいていの家は高い石塀に囲まれ、家ごとに小さな中庭があります。アゼルバイジャン人は招かれたときしか互いの家を訪ねず、それも家の男の居住部分に限られます。異教徒が住んでいる家となれば、特別に招かれないかぎり、部外のムスリムは誰もやってきません。

そのうえバクーのムスリムは、大半がロシア語を知らず、警察その他の役人との接点もまったくなく、政治的にもまったく未成熟でした。個々の市民が政府に反対する非合法の仕事、とりわけ印刷物の方面でそうした仕事をしうるなどということは、まったく思いもよらなかったのです。

バクーの大きな非合法印刷所が守られたのは、外向きのよい組織と絶対的に堅い規律のほかに、いま述べたムスリム地区のバクーの暮らしの特徴のおかげでした。例をひとつ挙げましょう。大きな中央非合法印刷所があった家が、持ち主がメッカ巡礼に出るため別の人に売られたことがありました。新しい持ち主は、自分の持ち物を見分するため、ムスリムの一団を連れてその家を訪れました。印刷所で働いていた私たちは全員、機械と活字ケースのある部屋に閉じこもりました。一団を出迎えたのはセミョーン同志で、彼が全部の部屋を案内しました。私たちがいる部屋の前まで来ると、彼は、この部屋には母と姉妹がいるので、よろしければ二人を別の部屋に移してここもご覧に入れましょう、と言いました。部屋のなかにいた私たちには、一団が口をそろえてそれを辞退し、詫びを言いながらその場を離れていくのが聞こえました。セミョーンの申し出は、ムスリムからなる一団が女性の居住部分にあたる部屋をぜひ見たいなどとは決して言い出さない、という絶対の確信にもとづいていたのです。

もちろん、大きな印刷所を地上のふつうの部屋に置くことにはそれなりの危険がありました。しかし、これらの印刷所を組織した最初の時期には、文字どおり「地下」の作業条件をつくり出すだけの資金がありませんでした。それが実現したのは、印刷所の組織の第2期になってからです。

ようやく最初の大きな印刷所でいくつかのものを最初に刷り上げ、チフリス組織に見せることができたとき――チフリス組織は私たちの大がかりな企てにたいへん懐疑的だったのですが――、その印象はとてつもないものでした。そしてその場で、人と資材の両面で私たちをあらゆる形で支えることが決まりました。チフリス組織は植字工2人を私たちのもとへ派遣し、十分な量の活字と、紙やインクその他の材料を買うための金を出してくれました。

すでに申し上げたように、これはすべて1901年末のことです。そのころにはすでにバクー委員会が組織されていました。バクー委員会は、チフリス委員会と同じく、ロシア社会民主労働党第1回大会のあと、ロシア社会民主労働党委員会を名乗っていました。私たちはカフカースの組織(当時、委員会はチフリス、バトゥーミ、クタイス、チアトゥラにありました)だけでなく、ペテルブルクの労働者階級解放闘争同盟ともつながりがありました。エカテリノスラフの『南部労働者』グループともつながりがありましたが、主要な、そして決定的なつながりは、もちろん『イスクラ』とのつながりでした。

私たちが加わっていたバクー委員会も、組織上はバクー委員会から切り離されていた私たちの印刷所組織グループも、当時ロシア各地に生まれつつあったイスクラ派グループに属していました。バクー委員会でもそのほかの非合法組織でも、私たちの活動はすべて『イスクラ』の旗印のもとで、『イスクラ』の代表者たちと緊密に結びついて行われました。これは党の第2回大会まで続きました。もっとも当時、組織のなかにはほかの潮流も芽生えていて、ある者は「ブント」に、ある者は「経済主義派」のほうに、またある者は『南部労働者』グループに傾いていました。しかしバクー委員会の活動家の中核と、ケツホヴェリ同志を頭とする独立のグループは、一貫して『イスクラ』に与していました。

この印刷所を組織してまもなく、私たちと『イスクラ』とのあいだで文通が始まりました。『イスクラ』とつながりを持ち文通することは、すなわちレーニン同志と文通することだと、私たちは当時すでに知っていました。私たちは彼に、こちらには印刷所があり、よい品質できれいに、しかも大部数を刷ることができると知らせました。すると『イスクラ』との連絡を保つようにと申し出られました。国外からは、手紙や、こちらの質問への回答が『イスクラ』の通信欄にたえず届きました。そこでの私たちの宛名は「硬音符」か「ニーナ」でした。「ニーナ」とは私たちのバクー印刷所の呼び名です。私たちは、ロシアのイスクラ派グループのためだけに仕事を限るようにと申し入れを受け、『南部労働者』との関係を断つようにとも勧められました(たしか『南部労働者』の第5、7、8号は私たちの印刷所で刷られたはずです)。しかしそれと並行して、私たちは縮小版の『イスクラ』も刷っていました。国外から縮小した紙型が送られてきて、その紙型で鉄版を鋳造し、こうして第7号から第11号までのうち4号分の『イスクラ』を刷りました。私たちの印刷所で刷った一部が国外に届くと、あまりにも見事な出来だったので、この印刷所を丸ごと『イスクラ』のために使うようにとはっきりした申し出が届きました。

覚えていますが、ある手紙でははっきりこう勧められていました。「ニーナ(これは私たちの印刷所)に勧める。ジェーニャ(これは『南部労働者』)とは一切の交際を断ち、カーチャ(『イスクラ』)と固く結びつくことを」。私たちはそのとおりにしました。私たちの共感はすべて「カーチャ」の側にあったからです。

こうして、エカテリノスラフやそのほかの同志たちの大いなる不満をよそに、私たちは『南部労働者』の印刷をきっぱり断り、国外のイスクラ組織の任務を果たすようになりました。あわせて、主にグルジア語で、チフリス委員会の仕事も引き受けました。『イスクラ』のほかにも、私たちは『ラボートニク』の『リストーク』を刷って配っていました。当時『ラボートニク』は国外で出ていて、皆さんもおそらく覚えているとおり、それには『リストーク』がついていました。グルジア向けにはそれをグルジア語に訳して刷りました。そのほかケツホヴェリは、「森の兄弟」のよく知られたおとぎ話を書き直して、グルジア語で刷りました。

このころにはすでに党第2回大会に向けた運動が始まっていました。国外から同志たちが送られてきました。私の記憶違いでなければ、当時「イスクラの代理人」と呼ばれていた人たちです。そういう同志が私たちのところにもやってきて、バクー組織の活動に積極的に加わっただけでなく、小さな編集グループにも入りました。そのグループには、ケツホヴェリ同志、医師のファインベルグ、ガリペリン、それに私がいました。ガリペリンは優れた組織者で、非常に物知りで、全面的に『イスクラ』の立場に立っていました。そのころ、『イスクラ』(私たちはそれを受け取るようになっていました)の影響のもとで、私たちはグルジア語の非合法機関紙を出そうと考え、チフリス組織と交渉を始めました。チフリス組織では当時もその後も、ジョルダニア、ジブラッゼらの著名な活動家が幅をきかせていました。ジョルダニアは当時チフリスで活動し、合法紙『クワリ』を出していました。この新聞はグルジアで大きな影響力を持っていました。『クワリ』と『イスクラ』を比べてみると、もはや合法の新聞では私たちのスローガンを守り続けられない時代が来たことがはっきりしました。『イスクラ』およびその代表者であるガリペリン同志との合意のうえで、非合法の新聞を出すことが決まりました。この新聞は『ブルドゾラ』(「闘争」)と名づけられました。ジョルダニア同志と『クワリ』の何人かの文筆家に代表されるチフリス組織は、非合法紙の発行にきわめて否定的でした。そんなことをしても資金を失うだけで、人まで失うかもしれない、グルジアの大衆に働きかけることなら合法紙『クワリ』を通じて十分にできている、と彼らは言いました。この点をめぐって、バクーとチフリスのあいだで一大闘争が繰り広げられました。ついには、ケツホヴェリ同志を説き伏せるための小さな協議会まで開かれました。ケツホヴェリは非合法機関紙の創刊を強く主張し、「合法マルクス主義は大衆を堕落させ、闘争のために鍛えない。大衆に与えられるのは水で薄めたマルクス主義だからだ」と言っていたのです。こうした考えから、彼は非合法機関紙の発行を譲らなかったのです。ケツホヴェリを説得するため、チフリスの主要な企業の労働者たちが集められ、バクーへ送られてきました。この労働者たちとの会合はよく覚えています。彼らとは1896〜1897年のチフリスのサークル以来の知り合いでした。この労働者たちは、グルジア語の非合法紙の発行に資金も力も費やさず、それより小冊子やビラの発行に全力を注いで、それだけにとどめておくよう、しきりに説きました。「政治機関紙などいらない。『クワリ』のような機関紙があるんだから」と彼らは言いました。

たくさんの例を挙げ、説明し、『イスクラ』のいくつかの論文を抜き書きして見せて、ケツホヴェリはそうした機関紙が本当に必要だと、この労働者たちを納得させることに成功しました。丸一日議論した末、彼らはついに非合法機関紙が必要だと確信し、チフリスへ戻ったら、当時かなり人手も資金も豊かだったチフリス組織が私たちを支援するよう、全力で強く訴えると約束しました。そして実際、彼らはチフリスに戻ると、当時の党委員会に大きな影響を及ぼしたのです。

ここ数年、私は当時チフリス組織のメンバーだったスターリン同志と一緒に、私たちの労働運動にとって非合法出版物がどんな意味を持つかをめぐる、バクーとチフリスのこの論争の時期を何度も思い出したものです。スターリン同志は、当時すでに革命的マルクス主義の精神で問題を正しく立てることのできた故ケツホヴェリ同志の傑出した才能を、驚きをこめて何度も強調しました。スターリンは、ケツホヴェリ同志がすでにその時点でまったく正しいボリシェヴィキ的な立場に立っていたことをよく思い出します。私もスターリン同志も、もしケツホヴェリがロシア社会民主労働党の分裂のときまで生きていたら、完全にボリシェヴィキの隊列に立ち、わが党の最も影響力のある有力な活動家のひとりになっていただろうということを疑いません。

チフリス組織がバクーでの非合法機関紙の発行を資金面で支えることに同意すると、私たちとチフリス組織のあいだに別の争点が持ち上がりました。チフリス組織は、機関紙の編集部を丸ごとチフリスに置き、バクーのグループにはチフリスの決めたことをすべて実務的に遂行させるよう主張したのです。この申し出は、ケツホヴェリ同志と私たちの編集グループ全体が断固として拒みました。

ケツホヴェリを説き伏せるため、チフリス側は有力なメンバーのひとりで、ケツホヴェリ同志の個人的な友人であり、のちの国会議員でもあるセヴェリアン・ジュグェリをバクーへ派遣しました。ジュグェリと私たちのグループとの長い交渉は実を結ばず、ついにケツホヴェリは、チフリス側の合法的な申し出をすべてきわめて厳しい調子でつっぱねました。そしてジュグェリに、ただちに帰ってチフリスの同志たちにこう伝えるよう言ったのです。そちらからの支援はいっさい断る、もし編集部の所在についてそんな最後通牒のような問題の立て方を固持するなら、どんな関係も持つつもりはない、と。ガリペリンを通じて『イスクラ』とつながっていた私たちの編集グループは……

……、やはりチフリス組織から独立した自分たちの存在を守り通し、大会以前の旧『イスクラ』の指示に従いました。

私たちはグルジア語の機関紙を発行しました。グルジアの革命運動に加わった労働者で、新聞『ブルドゾラ』を読まなかった者はひとりもいません。この新聞はグルジアの労働者を革命化するうえで巨大な役割を果たし、グルジアの読者は初めて、合法のマルクス主義機関紙と非合法のそれとの違いを目にしたのです。チフリス組織はこの経験をよく学び、合法の活動の余地が比較的広かったにもかかわらず、合法紙と並んで非合法の党機関紙を出すよう、あらゆる努力を傾けました。

この経験は、グルジアのマルクス主義合法文筆家たちの口にはあまり合いませんでした。彼らはのちに、もっとも結晶したメンシェヴィズムの牙城となりました。

ついでに言っておかなければなりませんが、グルジアの労働者大衆は、その革命性において、つねにグルジアのインテリゲンツィア出身の自分たちの指導者よりはるかに先を行っていました。

1901年のまさに暮れ、私たちの仕事にちょっとしたつまずきが起こりました。私たちは『イスクラ』からの紙型と国外からの通信の一部を、いくつかの確かな宛先で受け取っていました。そのひとつ、歯科医ソフィヤ・ギンズブルグの宛先で、ベニヤの小箱に詰めた紙型を受け取っていたのです。その小箱のひとつがバクー税関でたまたまつぶれ、税関役人たちには中身が何なのかどうしてもわかりませんでした。

彼らは憲兵本部に問い合わせるほかなく、あとで知ったところでは、憲兵本部は紙型という謎の荷物の正体を突き止めるために特別委員会を招集したそうです。

歯科医ギンズブルグは1902年1月1日の夜に逮捕され、このことで私たちの印刷所とグループは危うい立場に立たされました。ソフィヤ・ギンズブルグは、自分の名義で受け取った小包の正体について、たいへん長いあいだ尋問されましたが、この紙型が何を意味するのか、心から説明できなかったのです。彼女が知っていたのは、私たちのグループのひとりが国外から非合法の小包を受け取っている、ということだけでした。それが何に使われるのか、彼女にはまったく見当もつきませんでした。彼女は長い獄中生活を気丈に耐え抜き、憲兵の取り調べのどんな質問にも供述を断固として拒みました。

紙型が摘発されたことを『イスクラ』に知らせると、印刷所を目の玉のように大事にし、できるだけ全般的な仕事を減らして、国外の仕事の運搬を強化するようにとの提案がありました。こうして私たちは、バトゥーミで、フランスの汽船会社「パケ」を通じた国外文献の運搬を組織しました。バクーには、非合法の荷を積んだ船の名前を添えたマルセイユ出港の知らせと、船上の決まった人物に対する合言葉が届きました。

最初の文献の運搬を受け取るため、私は1902年3月の初めにバトゥーミへ派遣されました。バトゥーミに着くと、当時よく知られていたマルクス主義者ニコライ(カルリ)・セミョーノヴィチ・チヘイッゼに協力を頼みました。しかし彼は、私たちの企てがうまくいくかに大きな疑いを口にし、「パケ」社の事務所の社員ひとりの名前を教えてくれただけでした。それでも私には危険を冒すほかに道がありませんでした。『イスクラ』の国外文献の運搬を受け取りたいという願いは、それほど大きかったのです。

教えられた事務員を探し出し、海岸に呼び出して、バクーから来た目的をまっすぐに打ち明けました。私たちの荷を積んでいるはずの汽船は、ちょうどそこの沖合に停泊していました。「パケ」社の事務員は、自由に船に乗り込める立場にありました。船上でこれこれの名義の荷があるかどうか探ってくれた礼として(荷は船の料理長を通じて送られており、私たちに知らされた合言葉はその料理長に対するものでした)、彼は私から10ルーブリを受け取り、荷を全部受け取れたらさらに15ルーブリを支払う約束になりました。

こうして次のように取り決めました。汽船が夜のあいだ岸から決められた距離まで離れたら、私は密輸をやっている船頭2人と一緒に、岸とは反対側からそっと汽船に漕ぎ寄り、決められた合図で、「シェフ・キュイジニエ」は文献の包みを汽船から海へ投げ入れる、というものです。文献は水を通さない蝋紙で特別に包装されていました。

その日の夕方、私は2プードの文献を無事に受け取りました。密輸がうまくいったあと、私と船頭2人と「パケ」社の事務員は居酒屋に集まり、この先も「友情」を保つことを誓い合いました。

この方法で私たちは何度も国外から文献を受け取りましたが、バトゥーミで摘発されたことは一度もありませんでした。ちなみに、つい最近、たまたまこのエピソードを話していて知ったのですが、マルセイユからその宛先へ文献を送っていたのはピョートル・スミドーヴィチでした。当時はまだ互いに知らないままの偶然の協力を思い出して、二人で大笑いしたものです。送られてきた文献は、『イスクラ』と『ザーリャ』の各号、それに『イスクラ』と『ザーリャ』グループの単行本でした。

こうして国外から文献を受け取るようになったため、印刷所の仕事はいくらか減りましたが、それでもロシア語とグルジア語の小冊子の印刷という形で、仕事はずっと続いていました。

1902年の初め、バクーの労働運動はより広い規模をとり、その方向と綱領もはっきり定まってきました。こうしてバクー組織は成長し、強まっていきました。しかし、私を含めて私たちのグループの何人かは、バクー委員会の創設当初からそのメンバーで、組織やサークルで活動し、ときには演説もしていたので、夜に印刷所の作業へ向かうところをたやすく尾行されかねませんでした。とはいえ、印刷所の仕事に専念することも、印刷所には触れずに組織の仕事へ移ることも、まったくできませんでした。この二つの仕事を切り離すだけの人手がなかったのです。

こうした困難から、私たちは印刷所と党委員会とのあいだで人手を最終的に振り分ける問題を提起しました。ちょうどそのとき、国外から、印刷所をバクーからロシアの中央部へ移す問題を検討してはどうかという提案がありました。その提案は、当時準備中だった党大会のあとは、中央と辺境の両方に非合法文献をよりよく供給できるよう、印刷所をロシアの工業地帯のどこかの都市へ移したほうが得策だ、とはっきり述べていました。もちろん私たちはこの提案に同意し、いくらかの準備作業ののち、バクーの印刷所をたたんでロシアへ移すことに決めました。候補地に挙がったのは、ヴォルガ沿岸ではサマーラとサラトフ、中央部ではイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクです。モスクワを推す者はいませんでした。あの町で印刷所を構えるのはまったく不可能だと考えられていたのです。南部のいくつかの都市、たとえばエリザヴェトグラードやポルターヴァも候補になっていました。

1902年、バクー委員会は、堂々たるデモで街頭に出て「メーデー」を祝うことに決めました。私たちはこの行動に向けて懸命に準備し、ふさわしいスローガンを記した赤旗をこしらえ、バクー委員会名義のメーデーのビラなどをあらかじめ自分たちの印刷所で刷っておきました。

「メーデー」より前の3月14日、バクー委員会のメンバーの大半が逮捕されました。委員のうち無事だったのは、故ボグダン・クヌニヤンツと私の2人だけでした。私が助かったのは印刷所での夜の作業のおかげです。「メーデー」の準備はすべて私たちの肩にかかりました。バクー委員会の一部が摘発されたあと、印刷所をバクーからロシア中央部へ移す問題はさらに切実になりました。4月の初め、私はケツホヴェリ同志と、印刷所の植字工である2人の同志ボルクヴァッゼとツラッゼとともに、印刷所の撤去に取りかかりました。撤去とはこういうことです。活字(15プードほどありました)を全部小分けの包みにし、私がその包みを鉄道地区のある機関助手のところへ運びました。彼とは以前の鉄道の仕事でつながりがあったのです。彼はその包みを機関車に乗せてバクーから最寄りの機関区、アジキャブールへ運び、そこで信頼できる同志の倉庫係のところに隠しました。機械のほうは梱包して港の桁橋に預けました。当時の規則では、荷物は何か月も預けておくことができたのです。汽船会社「ナデージダ」が、機械の入ったこの巨大な箱を引き受けました。もちろん宛先は書かず、私たちの指示しだいで持参人宛てに発送するものとして預けただけです。会社の事務所で興味を持った人たちには、これは旋盤で、ペトロフスクかどこかほかのカスピ海の港へ送るのだと言っておきました。

活字を確かな場所に預け、機械を桁橋へ送り出したあと、植字工の同志2人はチフリスへ去り、私はバクーに残ってもっぱら組織の仕事をしました。

ケツホヴェリ同志は、国外からの提案に従い、印刷所を移す先として目星をつけた町を訪れるため、ロシアへ向かいました。1902年4月なかばにヴォルガへ発ったのです。

バクー組織は、新暦5月1日後の最初の日曜日、つまり(旧暦)4月22日に「メーデー」を祝いました。デモは非常に堂々たるものになりました。これはバクーでの労働者の初めての公然たる行動で、当時の政府発表から判断するかぎり、巨大な印象を与えました。

ロシアのほかの町もこのデモにたいへん熱心に反応しました。しかし、この成功した行動の結果、バクー組織全体がほとんど壊滅的な摘発を受けました。私たちのうち86人が逮捕されたのです。ひとことで言えば、バクー組織の幹部全員と活動的な部分全体が逮捕されました。私と故クヌニヤンツ同志(ラージン)は、デモのあと『イスクラ』へ喜びの通信を書こうと彼の住まいに向かう途中、その近くの路上でもう逮捕されていました。それでも通信は『イスクラ』へ送りました――ただし監獄からです。

3週間後には私たちは全員釈放されました。そして全体として、このデモと、それ以上に影響力と人望のある同志が大勢逮捕されたことが、バクーの大衆に対する社会民主党の影響を高めました。私たちの影響はどんどん大きくなり、きわめて精力的な活動を展開しました。夏には油田の向こうの野原にグループごと、あるいは集会の形で集まり、活動は文字どおり沸き立っていました。

ケツホヴェリ同志は新聞でバクーの摘発を知るとたいへん心配し、8月にバクーへ戻ってきました。ロシアのどの町にも印刷所にふさわしい場所は見つからなかった、と彼は知らせました。ニコライ・イワーノヴィチ・ソロヴヨフが私に話してくれたことがあります。ケツホヴェリがサマーラに着いたとき、同志たちと話し合うため翌日4時にヤフカで会うことが決まりましたが、その夜のうちにそのヤフカが摘発されてしまったのです。よそから来たケツホヴェリに、何としてもその住まいが摘発されたことを知らせなければなりません。ところが、彼がどこに泊まっているのか誰も知りません。さて、どうしたか。何人かの同志を町のあちこちに派遣し、黒いひげの、浅黒い、麦わら帽子をかぶった男が通るはずだ、それがバクーから来た同志だ、と伝えたのです。すると本当に、人相書きどおりの特徴で彼を見分けた同志のひとりが路上で近づき、「指定されたところへは行かないでください」と言ったのです。ケツホヴェリもこの話を笑い話として語り、ロシアの町はどこも、われわれ南方の人間には、みんなにすぐ目をつけられるようなところだ、と言っていました。

その後彼は『イスクラ』に、印刷所にふさわしい場所はやはりバクーしかない、私たちはここにとどまるべきだ、と書き送りました。私たちはそのとき、印刷所をバクーに残すこと、ただしアリ・ババの家に構えたこの印刷所のようなやり方ではなく、もっと秘密保持の行き届いた住まいを借りることを決めました。

バクーについての決定がなされると、ケツホヴェリ同志は住まい探しに取りかかりました。ついにチャドロワヤ通りに3部屋の住まいが見つかりました。ケツホヴェリはその住まいの持ち主であるムスリムのジブライルと話をつけました。ボール箱の工房を開くつもりで、うまくいけば彼を事業の共同経営者に迎える、と約束したのです。ジブライルは喜んでこの申し出を受け、東方の慣習どおり互いにもてなし合いが始まって、二人はまもなく義兄弟の契りを結びました。東方で、とりわけムスリムが誰かと親しくなったり義兄弟の契りを結んだりしたなら、それはもう、その人が裏切らず密告もしないという確かな保証です。ジブライルもそういう型の人間で、それを行動で証明しました。

ケツホヴェリはボルクヴァッゼ同志と私をジブライルに引き合わせ、自分の従業員だと紹介しました。私たちは彼と親しくなることも、「プロフ」(東方の料理)に招かれることも望めませんでした。

夏にペトロフスクへ持参人宛てで送った機械はバクーへ送り返され、私たちは2晩でそれをジブライルのところの新しい部屋に据えつけました。

機械と活字ケースその他の設備を据えつけると、私たちはアジキャブールから活字を運びはじめました。運び入れは、以前バクーから活字を預けに運んでもらったのと同じヴィクトル・バクラッゼ同志に任せました。バクラッゼは貨物機関車の機関助手で、バクー―アジキャブール間を3日がかりで往復していました。ですから、私たちが指示したとおり毎回1プードの包みを1つずつしか運ばなければ、15プードの活字をすべて運ぶのに1か月以上かかる計算でした。

彼は活字を自分の住まいへ運び、そこから私が夜、裏通りを回って印刷所へ運びました。このゆっくりと慎重なやり方で、すでにおよそ10プードの活字が運び込まれていました。この成功に気をよくしたバクラッゼ同志は、とりわけ5〜6プードの荷を苦もなく持ち上げられる人並外れた腕力を頼みにして、残りの活字の運び入れを一気に片づけようと決め、縄で縛った包みをいくつもまとめて保管場所から機関車へ運びました。バクラッゼ同志は、かさの小さな6プードの荷を軽々と引きずり、まったく人目を引きませんでした。ところがここで災難が起こりました。駅のそばを通って、列車を引く準備のできた自分の機関車がいる機関区へ向かっていたとき、活字の包みを縛っていた縄が切れ、活字がばらばらに飛び散ったのです。この事態にうろたえたバクラッゼ同志があわてて散らばった活字を拾い集めようとすると、通りかかった機関区の労働者や運転係の注意を引いてしまいました。バクラッゼの話では、元機関士で機関区長の助手をしていたレゲンカシフさえいなければ、万事うまく収まったはずでした。ところがこの男は、バクラッゼ同志がどんな荷を運んでいるのかをすぐに察し、駅の憲兵に通報したのです。バクラッゼとその機関士ツィクラウリは取り調べがすむまで拘束され、彼らの列車には別の機関車が向けられました。

バクラッゼがどの貨物列車で戻る予定かわかっているときは、私はバクーの機関区で彼を出迎え、直接荷を受け取っていました。このときもそうでした。ところが、バクラッゼとツィクラウリの代わりに……

……彼らの列車でやってきたのは別の乗務班でした。この班も私がよく知っている人たちでした。私自身、牽引部で働いていたからです。やってきた機関士とその助手は、バクラッゼの逮捕について知っていることをすべて話してくれました。

私はただちにケツホヴェリのもとへ行き、バクラッゼの摘発を知らせました。活字が押収されたことの影響にかかわる問題を、彼と一緒に決めなければなりません。まずバクラッゼの住まいを片づけること、次にケツホヴェリを、同じく鉄道地区にあった私たちの本部の住まいから遠ざけることです。そこで私たちは何人かの同志と会っていました。そして私は、印刷所のほかに委員会のメンバーとして組織でも活動しており、つい最近出獄したばかりでしたから、監視されていたのです。この住まいは、鉄道の機関士であるエフセイ・ゲオルゴビアニとドミートリー・バクラッゼの2人のものでした。そのときケツホヴェリはゲオルゴビアニの住まいにいました。

私は彼のもとへ行き、すべてを話して、すぐに私たちの秘密の住まいへ移るよう勧めました。そこには印刷所があり、その所在を知っているのは私たちと植字工の同志イワン・ボルクヴァッゼだけでした。ところが彼は、行くことをきっぱり拒みました。もしここに家宅捜索に来たら憲兵にすべてを話し、自分がケツホヴェリだと名乗り出て、何としてもヴィクトル・バクラッゼをかばう、と言うのです。

「わたしのせいで彼が逮捕されて、わたしが自由の身でいるなど、耐えられない」と彼は言いました。

私がどんなに説いても、ケツホヴェリ同志には効きませんでした。過去の観点からも、その後私たちが経験したこと全体の観点からも、彼の行動を評価するなら、もちろん弁解の余地はありません。しかし心理的には、そのときのケツホヴェリ同志の性格と全体的な状態を知る者なら、なぜ彼が身を隠して逮捕を免れるだけの力を自分のなかに見いだせなかったのか、理解できるでしょう。ケツホヴェリは、もちろん、あらゆる行動と振る舞いにおいて事業の利益を何よりも優先していました。しかし、私たちの事業が摘発される光景が目の前に広がったその瞬間、彼はこの事態にすっかり打ちのめされ、感情に身を委ねてしまったのです。その点で彼は並外れた人物でした。厳しい生い立ちと革命闘争のなかで鍛えられながら、同時にこのうえなく情に厚く心優しい同志の手本でもあったのです。ヴィクトル・バクラッゼが逮捕され、それに関連して、私たちの非合法の企てにこのうえない力を貸してくれた立派な同志たちが大勢逮捕されるかもしれないと知って、彼はさめざめと泣き、まもなく憲兵が来るかもしれないその住まいから、どうしても出ようとしませんでした。この住まいは、第一に間違いなく疑いをかけられていましたし、第二に、活字と一緒に逮捕されたヴィクトル・バクラッゼと同姓のドミートリー・バクラッゼが住んでいたのです。

説得が無駄だとわかると、私たちはただ、これからどうするかを話し合いました。ケツホヴェリは私に、すぐにヴィクトル・バクラッゼの住まいを片づけるよう言いました。そこにはまだ私たちが受け取っていない活字がいくらかあるとわかっていたからです。さらにその夜のうちにイワン・ボルクヴァッゼを探し出し、彼と一緒に印刷機とそこにある印刷資材すべてを救うためにあらゆる手を尽くすようにと命じ、家主が機械その他の品を家から運び出すのに抵抗したらどう話をつけるかも指示しました。こうした指示や任務に、そのとき私はいっそう驚きました。ラド・ケツホヴェリは、自分がいるその住まいからはどうあっても出ない、自分が逮捕されることで大勢の同志を救うという決心は固い、と言っていたからです。自分の行動が大きな過ちだったことを、彼自身、その夜から3日目、つまり私たちがそろってバクーのバイロフ監獄に入れられたときに認めました。しかし繰り返しますが、そのときの彼の状態では、ほかにしようがなかったのです。わが党の歴史の初期、まだ私たち一人ひとりにロマン主義がたっぷりあり、組織その他の経験が乏しかったころには、おそらくほかの土地でもこうしたことがあったでしょう。

私はケツホヴェリ同志と別れ、最寄りの工場(カスピ海機械工場)へ向かいました。そこにはアルメニア人労働者の同志たちの信頼できるサークルがあったのです。私は彼らに、私と一緒に行ってヴィクトル・バクラッゼの住まいを片づける任務を与えました。私自身がその住まいに姿を見せるのは得策ではありませんでした。そこでは大勢が私を知っていたからです。憲兵が聞き込みをすれば、私がその住まいから何かを持ち出したことが割れるおそれがありました。その労働者たちは喜んで引き受けてくれました。うち2人が注意深い屋敷番をうまく近くの居酒屋へ連れ出し、残りの者がヴィクトル・バクラッゼの住まいを調べて家捜しし、彼に不利になりそうなものをすべて持ち去りました。

バクラッゼの住まいが片づいたのを確かめると、私はイワン・ボルクヴァッゼ同志を探しに出ましたが、彼はケツホヴェリがいる私たちの以前の住まいへ行ってしまっていました。その住まいのある家に戻ってみると、家は警察と、地元の鉄道地区の大勢の野次馬にすっかり取り囲まれていました。中庭へは誰でも喜んで入れてくれますが、出てくる者はひとりもいません。住まいで家宅捜索が行われているのだとわかりました。それでも、そこに居合わせた知り合いの同志たちが止めるのもきかず、私はどうにも抑えがたく私たちの住まいへ向かいました。そこでは実際に家宅捜索が行われていて、ケツホヴェリとイワン・ボルクヴァッゼがいました。

ケツホヴェリは私を見ると不満を抑えきれず、すぐさまグルジア語で私を叱りはじめました。ここへ来たこと、そしてこの住まいから出なかった彼と同じ愚かなことを私が繰り返していることをです。憲兵大尉のひとり、ヴァルター氏はグルジア語をよく理解していて、すぐに私のほうを向き、私が来てくれて助かったと言いました。バイロフの私の住まいまで行くのはたいへん遠く、私のおかげで夜の長旅をせずにすんだ、というわけです。

こうして、私たちの秘密の印刷所がどこにあるかを知っていたただ3人の同志が、そろって自分から罠に飛び込んだのです。私たちの摘発で、私たちの事業すべてが摘発されたも同然でした。

この逮捕を避けるためにあらゆる手を打たなかった私たちの振る舞いは、今の観点からすると理解しがたいものです。しかしそれと同じくらい理解しがたかったのが、ケツホヴェリ同志ひとりの逮捕だけで済ませた、憲兵隊長ポロシンとヴァルター大尉の振る舞いです。最初はケツホヴェリと私の逮捕について調書が作られ、ボルクヴァッゼにはまったく手をつけませんでした。彼の書類から、彼がチフリスから来てまだ数日しかたっていないことがわかり、貴族の出であることも考えて、何の証拠もなしに拘束するのは無理だと判断したのです。

大佐と大尉の長い協議ののち、調書はそのままに、私たちにはただ、連行するのはウラジーミル・ケツホヴェリだけだと告げられました。警保局の指令で以前から手配していた人物です。彼らはこの獲物にたいへん喜んでいました。

身体検査で、ケツホヴェリのポケットからは旅券3通と非合法出版の小冊子数冊が出てきました。その旅券のひとつには、私たちの秘密の住まいが登録されていました。それを見たケツホヴェリは、イワン・ボルクヴァッゼと私でその夜のうちにその住まいから印刷機を運び出す手を打て、と私にささやくことができました。

もう夜中の2時でした。イワン・ボルクヴァッゼと私は、まず同志のサゴロフのところへ行きました。彼のもとには、私たちの国外の宛先、暗号、それに国外文献の運搬を受け取っていたバトゥーミの同志たちの住所が保管されていました。近日中に新しい文献の運搬が届く予定だったので、公式の受取人のひとりでもあるサゴロフ同志に、すべてを知らせておかなければならなかったのです。

サゴロフ同志は帝室領地局の倉庫の管理責任者で、公式の地位にありました。私もボルクヴァッゼ同志も、機械を取りに行く住まいで捕まらないという確信はまったくありませんでしたので、サゴロフ同志に必要な指示をすべて伝え、組織の同志たち、とりわけL. B. クラーシンに知らせてくれるよう頼みました。クラーシンは当時バイロフの発電所を管理していて、私たちの非合法の事業に資金を提供していたのです。

秘密の住まいに着くと、私はイワン・ボルクヴァッゼ同志と一緒に、据えつけたばかりの印刷機を分解して箱詰めに取りかかりました。箱その他の梱包材は、まだ燃やさずに残っていました。この機械は、夏のなかばに送り出したペトロフスクからつい最近戻ってきたばかりだったからです。足りないのは、箱の蓋にする板数枚と釘だけでした。私は材木の荷揚げ場へ走りました。そこではふつう朝5時から、大工や指物師そのほかの職人が仕事を求めているのです。その場で大工ひとりと話をつけ、板を買って住まいへ向かいました。

ボルクヴァッゼ同志と私の行動はすべて、あからさまな危険を承知のうえでした。すべて運び出すのが間に合うか、さもなければ憲兵が踏み込んできてその場で捕まるかだ、と私たちは腹をくくりました。もちろん、自分たちだけ逮捕を免れようなどという考えは頭に浮かびもしませんでした。雇った大工は半時間で箱をすっかり発送できる状態に仕上げ、その礼に1ルーブリ半を受け取りました。

朝8時までにはすべて荷造りがすみ、発送の準備が整いました。荷馬車代と、春にこの同じ機械を預けた汽船会社「ナデージダ」の事務所を通じて桁橋に荷を預けるために、およそ50ルーブリが必要でした。ところが私たちのポケットには3ルーブリもありません。私は辻馬車を雇ってバイロフカのL. B. クラーシンのもとへ向かいました。そのまま寝室へ通り、彼を起こして、いぶかしげな目で見る彼に、ケツホヴェリが逮捕された、印刷所を救うために金が要る、とまくし立てました。L. B. クラーシンは持ち前の果断さで必要な質問をいくつかし、状況をはっきりとつかむと、その場で5ルーブリ金貨で60ルーブリを渡してくれました。この金を持ち、雇った荷馬車を連れて、私はチャドロワヤ通りへ戻りました。

住まいには家主のジブライルがいました。これはいったいどういうことか、この持ち物すべての主である友人ダヴィド(ケツホヴェリ)はどこだ、といぶかる彼に、私たちは答えました。彼に不幸があって妻が亡くなり、夜のうちにチフリスへ発った、何もかも急いで片づけるよう私たちに言いつけて、と。「あなたによろしくとのことで、友情と感謝のしるしに、家財道具一切と新品のオーバーシューズを一足、あなたに残していくそうです」と私たちは付け加えました。

はじめは、これはすべていかにももっともらしく彼には思えたようで、ダヴィドに別れを告げられなかったことを残念がりました。ところが私たちが箱を荷馬車に運びはじめると、まったく思いがけず抗議し、せめて友人からの書面の知らせがなければ、あんたたちが彼の従業員だと知っていても友人の持ち物を任せるわけにはいかない、と言いました。私たちには、では電信局へ行って、問い合わせへの返事がすぐ来たら彼からの電報を持ってきましょう、と申し出るほかありませんでした。彼はこれに同意しました。そこで私は電信局へ行き、バクー郵便電信局の電信部長をしていた同志アレクサンドル・チョニエフを訪ねました。彼は、「悲嘆に暮れる」ダヴィドからジブライル宛ての返信電報を、すばやくこしらえてくれました。電報は番号つき、テープ貼りで、すべてきちんとしたものでした。

電信局から戻ると、チャドロワヤ通りではすべてがさっきのままでした。ジブライルは電報を受け取って手のなかでひっくり返し、それでもやはり信用できないと言いました。「見たところあんたたちはいい人たちだが、本当はペテン師か盗人で、わしの友人のものを盗もうとしているのかもしれん!」というのです。私たちは憤然と反論しはじめましたが、ジブライルにはまったく効きません。私たちは言い張り、むきになりました。一睡もせず休みもせずに夜を明かし、今か今かと憲兵の到着を待ちながら、明らかに動揺していたのです。それがかえって、もともとなかなか抜け目がなく世間を知り尽くしたジブライルの疑いを招いたのかもしれません。そのうえジブライルは家主であるだけでなく、自分の住む地区の屋敷番の頭でもあったのです。

ダヴィドの持ち物は渡さないと彼がきっぱり言うので、私たちは荷馬車を帰し、ボルクヴァッゼ同志と二人でジブライルの説得に残りました。彼は何度も、いったん帰って数日後、ダヴィド本人が戻るか手紙をよこすころにまた来いと言いました。そして疑わしい人間だからと、私たちが借りている住まいに泊まることさえ拒んだのです。それでも私たちがしつこく食い下がるので、ジブライルはとうとう堪忍袋の緒が切れました。彼は使用人のひとりを巡査のところへやり、その使いにアゼルバイジャン語でこう言ったのです。「分署の旦那に伝えろ。うちに怪しいやつが2人来ている、しょっぴいたほうがいいと思う、とな」。

うまくいかないために神経が高ぶっていた私たちは、その場でジブライルを罵りはじめました。おまえこそ泥棒だ、強盗だ、友人で「兄弟」である人との約束も守らない恥知らずだ、と。

この状況に出口がないと見て、私たちはボルクヴァッゼと二、三言ことばを交わし、ジブライルに実情をありのまま話すことに決めました。立っていた通りから彼を部屋へ呼び入れ、こう告げました。ケツホヴェリは逮捕された、ここに予定されていたのはボール箱の工房ではなく、政府とツァーリに反対する本を刷るはずの非合法印刷所だった、ケツホヴェリは逮捕のときこの住まいの住所が記された旅券を押収されたから、まもなくここに憲兵が踏み込んでくる、と。そしてジブライルはその振る舞いで、私たち全員だけでなく自分自身も破滅させようとしている、もし私たちが逮捕されたら、彼は私たちの共同経営者だったと言う、そうなればよくて10年の徒刑で、家は全部没収される、私たちはもう長いこと政府に逆らって活動していて、徒刑も、死さえも恐れはしない、と。

この言葉を聞くと、ジブライルはすっかり様子が変わり、怒りからか恐れからか震えはじめました。そして私たちの手を取り、狭い路地を抜けて自分の小さな家へ走り、完全に閉ざされた離れた部屋へ私たちを連れていきました。そこで彼は、ひどく動揺しながら、事情をきちんと説明してくれと言いました。私たちはここで、私たちの逮捕と印刷所の摘発が何をもたらすかを、まったく率直にわかりやすく説明しました。すると彼は、自分が恐ろしい事件に巻き込まれたと悟って、すがるように尋ねました。「教えてくれ、兄弟。何か助かる道はあるのか?」私たちは、助かる道はただひとつ、私たちの使っていた住まいから印刷機とこの印刷所の品を運び出すことだ、と答えました。すると彼は不意に飛び上がり、私たちを部屋に残したまま通りへ飛び出していきました。あとでわかったことですが、彼は、自分がやった使用人と、「泥棒」2人を捕まえにこちらへ向かっていた分署の巡査を出迎えに走ったのです。ジブライルは、自分が愚かにも無駄な手間をかけさせたのだと巡査をうまく納得させ、いくらか落ち着いて部屋の私たちのところへ戻ってきました。私たちはもう一度彼に一部始終を話し、彼も私たちの言うことが正しいと納得しました。

憲兵が来るまで(私たちの見立てでは、彼らはその朝のうちに家宅捜索に来るはずでした)もうあまり時間がなかったので、私たちはジブライルに、引き止めずに箱ごと行かせてくれと申し出ました。……

……ところが私たちがたいへん驚いたことに、彼はその箱を渡すことをきっぱり断りました。箱を持っていたら通りで捕まるかもしれない、そうなったら何もかもおしまいだ、それより自分のタタール式の荷車でこの箱を最寄りの村へ運び、そこにある小さな果樹園に、私たちが返してくれと言うまで隠しておくのが一番いい、と言うのです。その場で彼は、名誉と信仰にかけて、私たちをだましも裏切りもしない、憲兵の家宅捜索があってもうまく供述してみせる、と誓いました。

彼の提案のほうが私たちには受け入れやすく、いくらかの出費と、私たちの品を長いあいだ預かってもらうことに対して50ルーブリを支払って、それに同意しました。彼はその場で、私たちの目の前で荷車に馬をつなぎ、箱を二つとも積み込むよう指図しました。そして私たちを裏口から人気のない路地へ送り出し、別れ際に、すべて大事に預かる、ダヴィドか、私たちが逮捕されなければ私たちの誰かの指示があれば返す、ともう一度約束しました。

彼のところを出ると、ボルクヴァッゼ同志と私は、食事をして、この一部始終のあといくらか人心地つくために、最寄りのレストランへ行きました。ボルクヴァッゼはその日のうちにチフリスへ発って同志たちに私たちの摘発を知らせ、私は非合法の身となってバクー組織での活動を続けることに決めました。そのレストランで私たちは別れました。ボルクヴァッゼは夕方チフリスへ発ち、私は夜10時ごろ、鉄道地区のバラハンスカヤ通りを歩いているところを逮捕されました。

9月4日の朝、以前からよく知っているバイロフ監獄で目を覚ますと、私の窓の向かいの別棟にケツホヴェリの頭が見えたので、大声で挨拶しました。すると彼からは悪態の嵐が返ってきました。私は看守たちの怒鳴り声や警告もかまわず、その場でグルジア語で、その夜に起きたことをかいつまんで説明しました。彼は機械の一件の結末に大満足で、ジブライルは約束を守るだろうと確信を口にしました。

逮捕されたのは、ケツホヴェリと私のほかに、ヴィクトルとドミートリーのバクラッゼでした。その翌日にはグリゴリー・サゴロフも連れてこられました。わかったところでは、彼の管理のもと、彼の宛先で受け取った国外文献が摘発されたのです。

バクーの監獄に2週間入れられたのち、チフリス控訴院検事の指示で、私たちはチフリスへ移され、メテヒ城塞の独房に入れられました。チフリスへ送られる前に、私たちは全員バクー憲兵分遣隊で取り調べを受けました。

カルポフ大尉が私を取り調べているとき、彼の部屋に国外文献の入ったトランクが二つ運び込まれました。ひとつには『イスクラ』の各号が、もうひとつには『ザーリャ』の各号とレーニンの小冊子『何をなすべきか』が入っていました。カルポフはこのトランクを私に示して言いました。

「ご覧なさい、エヌキッゼさん。これはあなたのものですね?」

数分後、カルポフは憲兵本部長に、電話にだったか隣の部屋にだったか、呼ばれました。出ていくとき、そこに立っていた憲兵に命じました。

「こいつを見張っていろ」

憲兵と二人きりになると、私は、開いたトランクに入っている本を見せてくれないかと頼みました。

彼は許してくれましたが、手早くやれよ、とだけ言いました。私は『イスクラ』第22号と小冊子『何をなすべきか』を手に取りました。組織はこの号をこのうえなく待ちこがれていました。ロシア社会民主労働党の綱領草案が載っていたからです。そして、あれほど評判になった小冊子『何をなすべきか』は、さらに待ちこがれていたのです。私は、感じのよさそうな顔をしたその憲兵に尋ねました。「同郷のよしみで、この二冊を持っていってはだめかな?」彼ははじめはにべもなく断り、それから、私のところで見つかったらもっとまずいことになるぞ、と説明しました。私は言いました。こちらはもう逮捕され、身体検査も済んでいる。どうやら新たな検査はなさそうだから、見つかることはまずあるまい。もし見つかったら、あんたに気づかれないようにくすねたと言う、約束する、と。私の立場と心からの頼みが彼の心を動かしたのは明らかで、彼はぶつぶつ言いました。

「まあいい、持っていけ。ただ、その……もうちょっと用心してな」

取り調べの翌日か翌々日、私たちはチフリスへ送られました。道中、私は『イスクラ』と『何をなすべきか』を少しずつ分けてうまく隠し、メテヒ城塞の独房へ持ち込むことができました。

こうして、ウラジーミル・ケツホヴェリが直接加わり指導した、私たちの非合法印刷所の活動の第1期は終わりました。


私たちが逮捕され、ジブライルの家での憲兵の家宅捜索が空振りに終わったあと、バクーの警察は総出で、印刷所と、国外文献の運搬という私たちの非合法活動にかかわった人々を探しました。しかしこの捜索はどれも何の成果もあげませんでした。

メテヒ城塞に4か月拘禁されたのち、私たちと一緒に逮捕された2人のバクラッゼとグリゴリー・サゴロフは釈放されました。こうして獄中に残ったのはケツホヴェリ同志と私でした。取り調べでわかったのは、チフリス憲兵本部はバクーでの私たちの活動をよく知っていたものの、私たちに不利な直接の証拠書類は持っていなかった、ということです。例外は、私が暗号で書いた『イスクラ』宛ての手紙2通で、彼らはこれを押収して解読していました。ケツホヴェリと私は、第151条および第152条で起訴されました。憲兵大尉ルーニチは、押収したと称する私たち宛ての匿名の手紙をたびたび見せました。そこには、私たちの印刷所が警察に見つかり、大勢の同志が逮捕されたと書かれていて、その同志たちの名前まで挙げられていました。私たちは最初からこうした小細工をすべて見抜き、取り調べではいっさい供述しないという方針を初めから決め、それを堅く貫きました。

メテヒ城塞の規則はたいへん厳しいものでした。それは1902年と1903年、政治犯に対してとりわけ残忍に振る舞ったゴリツィン公がカフカースの総司令官だったころのことです。こうした厳しさにもかかわらず、囚人たちはありとあらゆる手を使って互いに連絡を取り合い、小さなメモ、ときには小冊子の何ページもをまるごと回していました。

当時メテヒ城塞には、のちに党内でたいへん目立つ地位を占めることになる同志が大勢入っていました。グルジアの主だった活動家の大半が、そのとき逮捕されていたのです。私たちがバクーから持ち込んだレーニンの小冊子『何をなすべきか』と『イスクラ』第22号は、メテヒ城塞の獄中生活にひとつの時代を画しました。私の独房の上にはとても大きな雑居房があり、取り調べがすでに終わって東シベリアへの流刑を待つ同志16人が集められていました。彼らのシベリア送りは数か月遅れ、そのあいだに彼らは、先ほどの小冊子『何をなすべきか』と党綱領草案を載せた『イスクラ』第22号という精神の糧を得て、房のなかでこれらの問題を学ぶひとつの学校を開くことができました。これらの問題についての彼らの意見や、いくつかの点で生じはじめた意見の相違は、独房にいるほかの同志たち全員に伝えられました。その同志たちのグループと、私からいくつか独房を隔てたところにいたケツホヴェリ同志とのあいだで論争が始まりました。

私たちバクーの者は、断固として小冊子『何をなすべきか』の立場に立ち、同志たちの圧倒的多数が、のちにグルジア・メンシェヴィズムの指導者となった人たちまでもが、私たちに加わりました。

ケツホヴェリ同志は、その精力と疲れを知らない熱意で監獄全体を活気づけ、懲罰房にいる同志にまでメモを渡す方法を編み出す名人でした。監獄の定めた「規則と秩序」を彼はいつも破り、多くの点で、監獄当局が彼の振る舞いにまったく違う態度で臨むようにならしてしまいました。刑事犯の徒刑囚たちともケツホヴェリはよい関係を築き、彼が特別に連れていかれる教会の中庭への散歩のために主庭を通るときには、中庭や窓から刑事犯たちがみな大声で彼に挨拶しました。上層部は囚人ケツホヴェリを押さえつけるようたえず指示しましたが、たいてい監獄当局にはなすすべもありませんでした。

ケツホヴェリの独房の窓はクラ川に面し、対岸には小さなタバコ工場がありました。ケツホヴェリ同志はいろいろな合図を使ってこの工場の労働者たちとうまく連絡をつけ、昼休みや夜の作業のあとには、労働者たちが大勢、監獄の向かいに長いこと立ち、ケツホヴェリの合図に合図で応えていました。しばしば監獄から最寄りの警察署に電話で知らせが行き、労働者たちは追い払われました。

こうしたことをすべてよく知っていた控訴院検事は、彼の注意をほかのことに向けさせようと思い立ち、鉛筆数本と番号を振ったノートを持ってきて、自分の過去の半生の回想や、さまざまな理論問題についての見解を書いてみないかと勧めました。

ケツホヴェリ同志は、最初のノートを、検事本人を含むお偉方全員の痛烈きわまる風刺画で埋め尽くし、残りの紙と鉛筆は、じつにたくみに各房へ配ってしまいました。検事が次にやってきたとき、ケツホヴェリは自分の「作品」を彼に差し出しました。検事はあれほど自制心のある人物でしたが、激怒しました。ケツホヴェリにまんまとこけにされたのですから。

当局はケツホヴェリに特別な厳重処遇を適用することにしましたが、そうした試みのたびに囚人全員からこのうえなく激しい抗議が起こりました。城塞の外側の窓は何度も板で打ちふさがれましたが、私たちはそのたびにそれを壊し、そのためにあらゆる処罰を受けました。

1903年の初夏、バクーから知らせが届きました。私たちの印刷機は無事にジブライルから受け出され、私たちの同志たちの手で据えつけられ、たいへんよく設備も整えられた、というのです。印刷所と同志たちが押さえられたという憲兵の話は、どれも嘘だったのです。この知らせは、獄中での活動と勉強に新たな力を与えてくれました。ケツホヴェリ同志に至っては、外からのこうした知らせを受けると、どんな規則や指示にもまったく従わなくなり、同志たちとの連絡を倍にして皆を励ましました。

監獄当局ではケツホヴェリを押さえつけられないと悟り、かといって彼を別の監獄へ移す決心もつかなかった上層部は、もっと単純で残忍なことを企てました。歩哨のひとりに酒を飲ませて買収することにしたのです。その歩哨は、ケツホヴェリ同志が窓の格子越しにほかの同志と話していたとき、一度警告しただけで発砲し、1903年8月17日、彼を即死させました。

こうして、カフカースにおけるマルクス主義の分野でもっとも傑出した若い活動家のひとりであり、党のあらゆる非合法事業の最良の組織者であり、のちにわが党のもっとも重要な中央印刷所となったバクー非合法印刷所の創始者であった人の生涯は、終わったのです。


中央非合法印刷所の活動の第2期は、私とケツホヴェリがメテヒ城塞にいたあいだに始まりました。この事業の主な組織者は、トリフォン・エヌキッゼ、組織内での呼び名でいえば「セミョーン」同志でした。セミョーン同志は1899年から私たちのバクーのサークルのメンバーで、サブンチ地区の「ヴォータン」工場でサークルを組織していました。1900年なかば、彼はバクーを離れてエカテリノスラフへ行かなければならず、そこでブリャンスク工場の組立工として働いていました。私たちが逮捕されたあと、同志たちに呼ばれてバクーへ戻り、ケツホヴェリとその協力者たちの逮捕で中断していた事業の立て直しに取りかかったのです。

事業の対外的な指導と、必要な資金すべての調達は、L. B. クラーシン同志が引き受けました。彼は当時、ロシア社会民主労働党第2回大会招集のための組織委員会のメンバーで、のちに党中央委員会ロシア・グループのメンバーとなりました。

印刷所の再建とその後の組織でセミョーン同志のもっとも近しい助手となったのは、以前私たちのもとで働いていた同志たち、ラド・ドゥンバッゼ、イワン・ボルクヴァッゼ、シリヴェストル・トドリアらでした。この同志たちの助けを得て、セミョーンは事業全体をより確かな土台の上に据えることができました。ジブライルから私たちの機械を受け出す役は、M. S. バグダチヤンが引き受けました。彼が当時組織にどんな力を貸していたかを知る同志は多くありません。バグダチヤンはこの任務を巧みに果たし、機械を取り決めた場所へ運びました。獄中のケツホヴェリ同志と私は、私たちの印刷所がふたたび活動を再開し、党のイスクラ派組織の任務と指示を果たすようになったことを知りました。これはまだ党第2回大会の前のことです。

印刷所は大がかりに組織され、資金も資材も紙も十分に行き渡っていました。仕事はたいへん盛んに進みました。

1903年の初め、ロシアの労働運動は大きな広がりを見せ、南ロシアとバクーでの労働者の有名な夏のストライキが準備されていました。文献の需要があまりに高まったので、もう一台、より改良された機械を手に入れてこの印刷所を拡張することが計画されました。

党第2回大会のあと、非合法の党文献を大量に出す問題は切実なものになりました。クラーシン同志は中央委員会ロシア・グループのメンバーに補充選出され、資金を集めて党の非合法事業に供給する任務を負いました。当時の条件のもとでは困難なこの任務を、L. B. クラーシンは見事に果たし、ロンドンの党大会(第5回)まで、党の物質的な資金の主な面倒はクラーシン同志(党名ニキーチチ)が見ていました。

新しい機械の入手はセミョーン同志に任されました。彼はこの任務を、バクーで「アロル」という屋号の小さな合法印刷所を営むオヴァネシャンツを通じて果たしました。セミョーン・エヌキッゼは、ゲオルギー・ミハイロヴィチ・レジャーヴァ名義の旅券を持って合法の生活を送り、実業界の人たちのあいだで、「電力」社の社員を名乗っていました。この会社の取締役のひとりがクラーシン同志でした。セミョーンはオヴァネシャンツに、「電力」社のために印刷所を組織するよう命じられたと告げ、そこで国外で機械を、またペテルブルクのレーマンで活字その他の資材を買うために、オヴァネシャンツとある取引を結びました。こうして、しかるべき額の手数料で、「アロル」の持ち主がこの件を引き受けました。彼の助けでアウクスブルク機械工場の価格表から機械が選ばれ、ライプツィヒで2100ルーブリで購入されました。この機械はまったくの新品で、『イスクラ』判、つまり便箋の倍判の平床式高速印刷機でした。ふつうの作業で、1時間に1200枚以上刷ることができました。ところが……

……機械がバクーに届くと、「アロル」の持ち主は目を輝かせ、商売っ気を起こして、自分のかなり古びた印刷所を新しくし、セミョーンには自分の古い機械をつかませようとすぐに決めました。そしてセミョーンが機械を受け取りに来ると、こう言い放ったのです。

「欲しいなら、この古い機械を持っていけ。新しいのはやらん」

セミョーンは、この小さな経営者の強情さと決意のほどを見てとり、言い争うことはせず、考えておく、2日後に最終的な返事をもらいに寄る、とだけ言いました。

「アロル」印刷所の持ち主を説き伏せるのは無理だと、はっきりわかりました。機械は彼の商会宛てに届いていましたし、自分の印刷所を新しくしたいという願望はとてつもなく大きかったのです。機械は大きな箱3つに梱包され、テレフォンナヤ通りからほど近く、しかし「アロル」印刷所からは遠い、広いが夜は人通りのない通りに面して扉のある倉庫に保管されていました。セミョーンは危ない橋を渡ることに決めました。

新しい印刷所のための秘密の住まいはもう見つかっていたので、彼は夜、同志たちと、国外から届いた機械が保管されている倉庫をこじ開け、それを第1平行通り11番地へ運びました。そこで私たちの主要な非合法印刷所は、1906年1月にたたまれるまで存続したのです。倉庫をこじ開け、箱を荷馬車に積み込むとき、セミョーンを先頭とする同志たちはあまりに大胆かつ断固として行動したので、すぐそばで立番していた巡査は、荷の本当の持ち主でない者がやっているとは夢にも思いませんでした。とりわけ重い箱を積むとき、同志のひとり、たしかイワン・ストゥルアが、巡査に「手を貸してくれよ、同郷のよしみで!」と叫ぶと、巡査は喜んで手を貸しました。

印刷所の持ち主は機械が盗まれたと知ると激昂して、セミョーンを殺すと脅しましたが、同じ脅しを返されて、黙らざるを得ませんでした。結局、セミョーンとサルキス・オヴァネシャンツのあいだは、すっかり和解して友情で結ばれることになりました。その後、必要な資材の購入にはすべて彼の商会の名義が使われました。

機械を運び込んだ家は、高い塀に囲まれた小さな中庭つきの、典型的なタタール風の小さな家でした。大きな部屋が3つ、アジア風の台所が2つ、それに小さなパン焼き場がありました。ひとつの部屋は通りに扉の開く商店に仕立てられていて、紙やインクを受け取り、文献を引き渡す場所になりました。この家は丸ごと借りなければなりませんでした。そうしなければ印刷所を構えることはできなかったのです。どんな隣人がいても、絶対に危険だったからです。

印刷所をそこへ移すころには、私は監獄から釈放され、警察の公然の監視のもとで村へ追放されていました。しばらくして、私を東シベリアへ流刑にする判決がすでに出ていたため、また逮捕されそうになりました。私はそのことを前もって知らされ、逃げることができました。非合法の身でバクーへ戻ると、組織から、しばらくまた印刷所で働くようにと言われました。私が着いたころには、機械はもう新しい場所に据えつけられていて、印刷所のさらなる設備を整える必要がありました。これは1903年秋、つまり党大会のあとのことです。この印刷所にはまったく特別な任務が課せられていたので、セミョーン同志には、規律、秘密保持、内部の規則という点で、まったく別のやり方で事業を組織するよう求められました。最初から、この印刷所で働くために定められる規則すべてに従うことに前もって同意した、決まった顔ぶれの働き手を集めることになりました。当初の人員は8人で、私もそのひとりでした。ただ、はじめは設備に多くの時間を取られたので、仕事を全力で展開することはできませんでした。その代わり最初から、その後2年以上にわたって破られることのなかった組織上の規律が実行に移されました。その規律がどんなものだったかはあとでお話しするとして、まずこの印刷所の規模と配置を描いてみましょう。

すでに申し上げたように、機械は国外から届いたまったくの新品で、あらゆる付属装置はもちろん、ローラーを鋳造する型までそろっていました。まもなく私たちは鉄版製作機、製本機、断裁機を手に入れました。ひとことで言えば、印刷所は技術のあらゆる規則にかなった設備を備えていたのです。家は丸一年の契約で借りられ、私たちの中庭のなかで、穏やかに暮らす周囲の隣人たちのあいだに落ち着いた雰囲気をつくる必要がありました。通りはかなり人通りが少なかったのですが、家の向かいにはタタール人の店があって、たえずムスリムたちが大勢集まっていました。そして通りかかるよそ者でムスリムらしくない者はみな人目を引きました。この地区は町のはずれにあり、住人はもっぱらムスリムでした。家は公式にはセミョーン同志が借り、母と弟と一緒に住んでいることになっていました。母も弟も見せかけでしたが、家の住人3人全員の住民登録の書類はちゃんと整っていました。セミョーンはときどき「母」を連れて軽馬車で町へ出かけ、町からの帰りには彼女と一緒に家のそばのタタール人の店に寄っていろいろな買い物をしました。そして「母」に対してとりわけこまやかな気配りを見せ、こうした慣習をたいへん大事にするムスリムの老人たちから大いに褒められ、好かれたのです。こうした工夫のおかげで、セミョーン同志は私たちの家のまわりに好ましい近所づきあいをつくり出すことができました。このころ、アルメニア人とムスリムの関係は非常に先鋭化していて、それには政府の政策が少なからず一役買っていました。ムスリムとグルジア人の関係はもともといつも良好でしたが、この時期には特にグルジア人への好意が強調されていました。近所の人はみな、セミョーンとその家族がグルジア人だと知っていました。一方、印刷所で働いていた残り7人の私たち同志は、誰にも絶対に姿を見せてはならず、周囲の人たちにとって私たちはまったく存在しないも同然でした。この家の住所は誰も知りませんでした。初めのうちは、あらゆる連絡についてセミョーン同志とただひとりつながっていたL. B. クラーシンさえ、それを知らなかったのです。

印刷所は1903年11月1日に操業を始めました。最初に刷ったのは一枚のビラで、『イスクラ』の記事「ロシア社会民主労働党第2回大会についての通知」でした。これは写真に撮った形で、小さな紙片にして送られてきたものです。

同志諸君はお気づきかもしれませんが、この印刷所は最初から新『イスクラ』に奉仕していました。言っておかなければなりませんが、そのころには、第2回大会で兆しを見せた党の分裂がすでに熟しつつありました。ご存じのように、1905年春まで『イスクラ』は党の中央機関紙とされていました。印刷所は新イスクラ派の任務を果たしていただけでなく、そこで刷られるものはすべて、党中央委員会がそのメンバーを通じて私たちに伝える個別の指示によっていました。そのメンバーこそ、のちにボリシェヴィキ派に属することになる中央委員会員たちでした。それは、党第2回大会で中央委員に選ばれた故グレーボフ(ノスコフ)同志と、中央委員会ロシア・グループのメンバーだったL. B. クラーシンです。

しかしまもなく私たちは、当時働かざるを得なかった条件のままでは、印刷所をこの先維持できないと悟りました。その条件とはこうです。私たちは部屋のひとつを機械と植字台に当てていました。このひとつの部屋に、印刷、製本、発送する文献の梱包の工程がすべて集中していたのです。ですから、家宅捜索があれば事業全体がたちまち摘発されてしまいます。

印刷所で働く者の側では、部外者や、たまたま家の窓の前を通る警官や密偵の注意を引かないよう、あらゆる手が打たれていました。私たちの誰も、昼間に通りに面した部屋へ姿を見せることは許されませんでした。昼間は私たちの持ち物も寝具もすべて、機械のある部屋に片づけられました。機械の部屋を除くすべての部屋は、朝8時から夜11時まで、部外者を入れても心配のない様子としつらえになっていました。私たちが作業する部屋はもちろん立ち入り禁止です。誰かがそこへ入ろうとすれば、セミョーンかその「母」が、女性の部屋だと告げます。ムスリムにとっては、それで入ろうとしないことが絶対に保証されました。バクーに長く住んでこの慣習を知っているロシア人、つまり警官や役人の大半も、これを守り、尊重していました。もっとも、家宅捜索に来られたら、そんな申し立てではもちろん助からなかったでしょう。呼び鈴による合図はよく整えてありました。仲間は通りからいつも特別な鳴らし方をし、私たちはそれを知っていました。「よそ者」の鈴が鳴ると、私たちはすぐに作業を止め、誰が来たのかに耳を澄ましました。部外者に戸を開けるのはもっぱらセミョーンか、彼が留守のときはその「母」「姉妹」「弟」、つまりその家に登録されて公式の住人とされている人たちでした。鈴も来客もありました。水運びが来る、3日ごとにごみが運び出される、八百屋、果物屋、行商人、商人、新聞売りがしょっちゅう鈴を鳴らす、といった具合です。一度は、受け持ち区域の分署の巡査部長がセミョーンを訪ねてきて知り合いになり、必要なら力になろうと申し出ました。彼はムスリムをみな泥棒か強盗だと思っていたのです。祝日には巡査たちが賀詞を述べに来ましたし、市参事会の調査員が人口調査などで二度やってきました。こうした来訪はすべて私たちの考慮に入れられており、それについては一定の規則がつくられ、もっとも厳格に実行されていました。

ある来訪が私たちをひどく怖がらせ、機械部門と印刷所の作業部分のためにもっと確かな場所をつくる問題に、きっぱり決着をつけさせることになりました。ノウルーズ・バイラム――その年は私たちの受胎告知祭と重なりました――のある朝、家主である立派なムスリムがセミョーンのもとへやってきました。頭と角を染めた見事な雄羊を土産に連れてきて、メッカへ行くことに決めたので、家を遠い親戚に売る、その親戚が数時間後に兄弟たちと、買う家と中庭を見に来たがっている、とセミョーンに告げたのです。セミョーンにとって、この知らせは打撃でした。彼はうろたえ、急に沈んだ様子になりましたが、すぐに客に向かって、こんなに立派で尊敬すべき家主とお別れするのが残念なのだと説明しました。家主はその心遣いに感じ入り、新しい家主もとてもよい立派な人で、ハッジで、メッカへ行ったこともあるのだ、などと言ってセミョーンを安心させました。私たちの家主にとって、メッカへ行ってハッジの称号を得ることが最高の夢だったのです。新しい家主は家を明け渡せと言いはしないか、とセミョーンが尋ねると、家主は、買い手は家をたくさん持っているし、それどころか「あんたのところのグルジー(グルジア人)の店子は出ていったりしないだろうな」と私に聞いてきたくらいだ、と答えました。

来客を待つあいだ、私たちは全員、機械のある部屋へ移り、中庭に面したベランダ側の戸と雨戸を閉めて、来訪の成り行きを待ちました。昼の1時ごろ、立派なムスリムの老人たち6人ほどが家を見にやってきました。私たちは息を殺し、一言一句に耳をそばだてました。セミョーンは彼らをあちこち案内し、すべての部屋と中庭を見せました。私たちの戸の前を通りかかると、セミョーンは、ここは母と姉妹の部屋だが、ハッジがここもご覧になりたいなら、女たちを別の部屋へ移すので少しお待ちください、と言いました。老人たちは口をそろえてそれを断り、そそくさと部屋の前を離れ、やはり主に女性の居住部分である台所さえ見ようとしませんでした。来客たちはセミョーンと親しげに別れを告げて帰っていきました。私たちは真っ暗な部屋にいました。そうでなければ、お互いの顔が見えたら大笑いをこらえきれなかったでしょう。

家主たちが帰ると、私たちはみんなで中庭へ飛び出し、うちの雄羊と長いこと遊んではなでてやりました。新しい家主は翌日、セミョーンに雄鶏と雌鶏と、見事に仕上げたプロフを盛った木の盆を丸ごと贈ってきました。こうして私たちのところにはちょっとした所帯ができあがりました。雄鶏はどうもうちに合いませんでした。隣の庭へ飛んでいっては他の雄鶏と必死の戦いを始めるのです。追い返されるか捕まえられ、隣家の屋根から罵声とともにうちの庭へ投げ返されました。うちの雄鶏の振る舞いが近所とのもめ事を招きかねないので、締めてしまいました。雄羊と雌鶏は夏までうちにいました。

家が売られ、新しい家主が不意に訪れたあと、印刷所をできるかぎり確かな場所へ移す問題はさらに切実になりました。つまり、機械と印刷所の作業部分すべてを、本当の地下へ隠すことに決めたのです。私たちの家のなかでは何もできそうにありませんでした。平屋で、地下室もなかったからです。家の窓のない側には、壁にじかに接してかなり大きな馬屋と干し草置き場が建てつけられていました。馬屋の奥には、やはり高い塀に囲まれた小さな中庭がありました。細長い馬屋は一方の端が通りに面し、小さな部屋3つで終わっていました。そのころこの馬屋には馬が2頭いて、一部には飼い葉が置かれ、三角形の空き地で終わって私たちの機械のある部屋に接する馬屋の端は、空いていました。この馬屋の持ち主の息子で、若いタタール人のアッサンはセミョーンの知り合いで、ときどき遊びに来ていました。あるときセミョーンは自分から、彼のところへ行って馬を車につなぐところを見たいと頼み込み、一緒に町を乗り回したいと言い出しました。アッサンは喜んで引き受け、セミョーンは馬屋と中庭と、馬丁ひとりだけが使っている3つの部屋を詳しく見て回ることができました。馬屋を2度目に見て回ったところ、その床は私たちの住まいの床よりおよそ2アルシン低いことがわかりました。話し合いの結果、馬屋の空いている部分を借りるか買うかして自分たちの目的に使うのがもっとも適当だということになりました。私は夜、家の屋根の上から馬屋の配置を調べ、その部分を借りられれば、地下通路をつくって機械その他作業に必要な付属品をそこへ移せるという結論に達しました。セミョーンは隣接する家を買う件を探りはじめました。まずアッサンには、加工する資材を入れておく小さな倉庫用の場所が要るのだと話しました。アッサンやほかのムスリムには機会あるごとに、自宅にアーク式電灯用の炭素棒をつくる小さな工房を開くつもりだ、「電力」社と市当局からその炭素棒の大口注文を受けているのだ、と話していました。こうした噂は、箱がかなり頻繁に家へ運び込まれ、また運び出されることに周囲の人たちが注意を向けないよう、わざと流したのです。紙、インクその他の資材も、刷り上がった文献も、すべて荷車で箱に入れて運ばれ、荷車屋はまったくの仲間でした。いくらか交渉したのち、アッサンはセミョーンに、父は馬屋全体を3部屋つきで2000ルーブリで売る用意がある、しかも、元の持ち主である父に、実際に使っている部分を貸してくれるなら、その分として年1ルーブリ半を払うつもりだ、と知らせてきました。馬屋を買って印刷所をそこへ移すと決めると、私たちは党中央委員会の代表に2000ルーブリの支出を求めました。党第2回大会のあとは党の金庫にかなりよく資金が流れ込むようになっていましたが、それでも2000ルーブリは一度の支出としてはたいへんな大金でした。セミョーンが……

……セミョーンがL. B. クラーシンを通じて同志たちにこの話を持ちかけてみると、多くの者がこの企てに否定的でした。セミョーンは手ぶらで戻ってきて、私たちの協議で、私が夜のうちに古参の同志たちのグループを訪ね、印刷所の状況について真剣に話し合うことになりました。すでに何千ルーブリもつぎ込み、ちょっとした家宅捜索でも失いかねない印刷所です。私は夜、取り決めた場所へ行き、そこでコゼレンコ、エカチェリーナ・キッツ、N. M. フレロフ、I. E. グコフスキー、L. B. クラーシンの各同志に会いました。意見を交わしたのち、故グコフスキー同志がきっぱり言いました。すでに印刷所にかけた費用を考え、この事業の重要性の大きさを考えれば、2000ルーブリぐらいの額で事を止めるなどまったく許されない、と。そして、もし党の金庫に今この額がないなら、自分が会計係をしているバクー市参事会の金庫から2000ルーブリを借りよう、と提案したのです。当時の市長は著名なナロードニキ、A. I. ノヴィコフでした。グコフスキーはノヴィコフに招かれて会計係になっていました。ノヴィコフは、属する潮流は違っても、革命家が革命家に対するように、グコフスキーをはじめ私が名を挙げた同志たち全員に、このうえない敬意と信頼を寄せていました。グコフスキーは実際にこの金を一時借りることができ、たしか1か月後に、党の主計であり全資金の調達者であったクラーシン同志の手で市の金庫に返されました。まもなく新しい小屋(もとの馬屋)は、将来の倉庫というもっともらしい名目で買い取られました。購入後、もとの馬屋を入念に調べると、馬屋の端は飼い葉置き場から根太の壁で仕切られ、その部分から中庭へ出る以前の戸口は石でふさがれていることがわかりました。つまり、私たちの機械室にじかに接する馬屋の三角形の部分はまったくの空っぽで、まるで運命そのものが私たちの非合法事業のために用意したかのようでした。購入の取引は4月の初めに成立し、私は4月末までに、地下通路の計画を立て、新しい場所の設備、地下通路の構築、壁の修繕に必要な品物と資材のリストをつくらなければなりませんでした。機械を分解し、家の壁をぶち抜いて、私たちの部屋から半地下の空間へ部品ごとに直接移すことに決めたからです。レンガ、粘土、板、鋼索などの必要な資材は、少しずつ小分けにして家へ運び込まれました。

こうした資材はすべて、家の中庭にきちんと積み上げられました。小さなバール、シャベルその他の道具も手に入れました。そのあいだも、印刷所のふだんの仕事はいつもどおり進んでいました。メーデーの前には、中央委員会からいつもたくさんの原稿が届きました。そのころにはもう日露戦争が始まっていて、戦争についての急ぎのビラがたくさんありました。メーデーのビラだけでも、各地の党委員会に発送するため、20万部を超える注文が中央委員会からありました。ちなみに1904年5月1日のビラは、ロシア社会民主労働党中央委員会ロシア・グループの注文でマクシム・ゴーリキーが書いたものでした。ビラは短いものでしたが、このうえなく鮮烈でした。私たちはそれを薄い巻紙用の紙に、くっきりと大きな見事な活字で20万部以上刷りました。私たちは急ぎの仕事をすべて5月1日までに片づけ、1週間作業を休むことにしました。私たちの計算では、印刷所を新しい場所へ移して設備を整えるのに1週間かかるはずだったからです。旧暦5月1日、ロシアのプロレタリアートの大部分がこの日を祝っていたその日、私たちは朝早くから、自分たちの部屋から新しい場所へ大きな穴をうがちはじめました。経験のない石工にとって、石の壁をぶち抜くのはたいへんな重労働でした。それでも並外れた若い精力と粘り強さのおかげで、正午には壁に穴が開き、私たちは新しい暗い空間へもぐり込んで、はじめてそこを自由に見て回り、隅々まで調べることができました。私たちの場所に付け加えることにした馬屋の部分は、床が柔らかい土間でした。夕方までに壁の穴をいくらか広げ、部品ごとに分解した機械を新しい場所へ移しました。ただし、直径1メートルで一体成型の弾み車だけは別です。弾み車はしばらく脇へよけておくほかありませんでした。新しい場所では、機械の土台づくりに取りかかりました。こうした作業のすべてで、私の技術教育とこれまでの実務経験がはじめて、必要不可欠な事業に役立ちました。たしかに粘土ではありましたが、機械のためにレンガ2枚分の厚さ、四隅はレンガ4枚分の新しい土台を築くことができました。その後の経験から、この土台は十分に丈夫だとわかりました。残りの床はあっさり踏み固め、ところどころレンガやトタン板を敷きました。一方の仕切り壁に沿って、白紙と刷り上がった文献のための棚をこしらえ、活字ケース3台、やはりいったん分解して組み直さなければならなかった机2つ、製本機その他の資材をそこへ移しました。壁に開けた穴は、夕方までにふたたびふさがれ、漆喰が塗られました。こうして私たちの機械と印刷所の備品すべては、壁の向こう側に塗り込められたことになりました。例外は弾み車で、これは中庭へ転がし出して何かのがらくたで覆っておきました。そのあとの主な課題は、新しい場所への確かな入口、つまり家の合法の部分で家宅捜索があってもまったく気づかれない入口をつくることでした。そのために、以前印刷機械が置かれていた部屋にあった2つの壁龕のうちひとつを使いました。この壁龕は内側が木で張られ、底は石で、漆喰を塗って膠入りの塗料で白く塗られていました。私たちは壁龕の底を垂直方向にうがちはじめ、土台の端、つまり地面に達するまで掘りました。その地面は、もとの馬屋の床とほぼ同じ高さでした。壁龕の底の大きさは、印刷所の新しい場所へ自由に出入りし、あらゆる資材を運び込んだり運び出したりするのに十分でした。あとは、入口の痕跡をすべて隠すようにしなければなりません。そのために私たちは厚い板で大きな木の蓋をつくり、その片面に漆喰を塗って、下から壁龕にあてがうと隣の壁龕と同じ底になるようにしました。この板の面に漆喰を定着させ、叩いても本物の壁龕ともう一方の壁龕の偽の底とが区別できないようにするのには、たいへんな労力と苦心がかかりました。そのあとこの板は、L. B. クラーシンの助言と図面によって、蝶番でまったく自由に上げ下げできるように改められました。しかも長い試行錯誤の末、漆喰を塗った部分がもとの壁龕の底にぴったり収まるように仕上げたので、上から見ても、それが動く底だと気づくことはまったくできませんでした。最初のうちは壁龕の底を開けたままにして、私たちは新しい場所へ自由に出入りし、通路の四方に漆喰を塗りました。しかし誰かが来たり、知らない鈴の鳴り方がしたりすれば、ただちに印刷所の新しい地下の半分へ身を隠し、そこから壁龕の底を閉めて、とても丈夫な三脚で支えました。これがすべてできあがり、機械が据えつけられ、印刷所内の配置がすべて整うと、次の日曜日に、いよいよ弾み車を運び込むことにしました。これがなければ作業ができないのです。弾み車のために、今度は台所の壁をぶち抜かなければなりませんでした。朝、石の壁に弾み車の大きさに合わせた細長い割れ目をうがち、夕方までには、私たちにとってこのうえない喜びだったことに、すべてが無事に終わりました。そして翌朝から、今度は安全な場所で、仕事はふたたび活気を取り戻したのです。

台所の、ふたたびふさいで漆喰を塗った壁の帯を、石灰で白く塗られた壁に紛れさせるため、私たちは湿った漆喰を火で乾かしはじめました。しかし白塗りにはどうしても染みが出るので、この部分の壁全体をむらのない様子にするため、壁一面を煙で燻すことにしました。ひとことで言えば、家宅捜索のときに何も目につかないよう、怪しい箇所はすべてこうして偽装したのです。仲間の一人ひとりが家宅捜索をする憲兵になりきって、あれこれ指摘しました。ひとことで言えば、外から見るかぎりすべてが万全で、秘密保持のあらゆる欠点にきわめて批判的で口うるさい私たち自身が、自分たちの腕前と機転にうっとりするほどでした。しかし、地下と印刷所全体のそこへの移転だけでは、まだ事業全体の安全は保障されません。内部で、組織面でそのための最大限の保障を生み出すような作業条件をつくり、必要な規律を定めなければなりませんでした。第一に、作業の時間割がつくられました。標準の労働日は、昼休みを除いて10時間と定めました。1日は次のように始まり、終わりました。朝7時半きっかりに起床し、半時間で顔を洗って寝具を地下へ運び下ろさなければなりません。8時に作業開始。10時きっかりに、壁龕を叩く音でお茶に呼ばれます。そのためにきっかり15分が当てられていました。お茶のあとはまた1時まで作業に戻ります。1時から2時までは昼休みです。このあいだに昼食をとり、新聞を音読しました。2時きっかりにふたたび印刷所へ下り、7時半まで働きました。そのさい、印刷所を出る前には必ず、すべてを片づけ、活字をきれいに洗い、刷り損じを集めて運び出し、床を掃き、機械を拭いて油を差す、という規則でした。ひとことで言えば、朝すぐに作業にかかれるよう、すべてを整えておかなければならないのです。たいてい8時にはもう全員が体を洗って、夜のお茶の席につきました。お茶のあとは、地下への通路が始まる部屋、以前印刷所があった部屋へ移りました。この部屋は今やとても居心地のよい場所になっていました。アスファルトの床は上等な絨毯2枚で一面に覆われていました。部屋には、やはり絨毯を掛けたアジア風の寝台2つのほかは、家具は何もありませんでした。私たちは寝台に座るか、絨毯の上にただ寝そべりました。夜の時間が、私たちの仕事のなかで一番幸せな時間でした。ここでも時間の使い方が割り振られていました。週4晩は各自が好きなことをします。読書をしたり、そっとギターをつま弾いたり、チェッカーをしたり、ただおしゃべりしたりしたのです。そして週3晩は、共同で本を読んだり、何かの問題を検討したりするのに充てられました。「よそ者」の鈴が鳴れば、定められた規律どおり、ただちに、しかし物音も立てず慌てもせずに地下へ身を隠し、そこから入口をふさいで合図を待ちました。昼でも夜でも、私たちが立ち去ったあとの部屋はどれも、この家に公式に登録されている者以外の人間がいることに誰も気づかないよう、片づいてこざっぱりした様子でなければなりませんでした。これをすべて、私たちは2年半のあいだ、きわめて厳格に、このうえなくきちょうめんに守りました。地下で働いていたのは、初めは5人、のちに7人でした。私たちは2つの部屋で寝ました。私は同志3人と一緒に、地下に隣り合う部屋で寝ていました。私はいつもごく眠りが浅く、鈴が鳴れば必ずすぐに目を覚ませたので、地下の入口のすぐそばに寝ていました。そして必要なときには、すばやく同志全員を起こし、地下の入口を開け、そこでランプをともし、同志たちの持ち物と寝具を受け取るのが私の役目でした。そのあと同志たちはすばやく地下へ入り、私たちは内側から入口を閉めました。鈴が鳴るたびにこの操作を何度も繰り返さなければなりませんでしたが、ときには点検のために自分たちで警報を鳴らしもしました。

印刷所の仕事そのものに移る前に、ここで事業全体の対外的な組織について手短にお話ししましょう。

すでに申し上げたように、外部との連絡はセミョーン同志に任されていました。彼はクラーシン同志と連絡をとり、そのクラーシンを通じて、印刷すべき原稿すべてと、文献の発送先の住所すべてが、部数と印刷物の一覧を添えて届けられました。私たちの家には同志の誰も訪れず、訪れてはならず、クラーシンを除いて同志の誰も印刷所の住所を知りませんでした。家に非合法に住んでいた印刷所の働き手は、誰ひとりとして昼間に家を空けることは許されませんでした。外出については厳しい日程表がつくられていて、それによると私たちはそれぞれ2週間に1度、夜8時から11時まで町へ出ることが許されました。出かけてよいのは同志2人一緒で、必ず11時までに帰らなければなりません。この日程表は2年間きちんと守られ、私たちの誰もそれを破ろうとは思いもしませんでした。セミョーン同志と、この家に登録どおり住んでいたほかの人たちは、いつでもさまざまな用事で外出しましたが、夜12時を過ぎて家の外にいることは誰にも許されませんでした。その時刻までに戻れなかった者は、セミョーンも含め、その日は家にはまったく帰らないのです。夜12時を過ぎてからの鈴は、たとえ取り決めた鳴らし方であっても、よそ者とみなし、先に述べた用心をすべて実行しました。

印刷所への紙の搬入は専任の人が担当し、刷り上がった文献を箱工房へ届けるのもその人の役目でした。箱工房では、私の図面どおりに箱が注文され、文献が梱包され、箱に表書きがされ、その箱がやはり専任の人に引き渡されました。その人は鉄道の代理店員、計量係、店員などとつながりがあり、文献を持参人宛てで預けました。送り状と控えはセミョーンに渡され、彼がそれを私たちのところへ持ってきました。私たちはその正確な写しをとり、控えはロシア共産党中央委員会技術ビューローが指定した特別の宛先へ送られました。ちなみに技術ビューローのメンバーは、当時ゴルプコフ同志、故リュビーモフ(マルク)らでした。送り状と文献が届くと、これこれの送り状の荷を受け取ったという知らせが私たちのところへ送られてきました。こうして私たちは、文献が届いたかどうかを把握していたのです。事は、私たちのところへ紙その他の資材を運び、特別な梱に包んだ文献を運び出していた人たちが、自分たちが運び出しているのがほかならぬ文献だとは知らないように仕組まれていました。箱工房ではもちろん、この文献がどこから運ばれてくるのか知りませんでした。鉄道で発送する人も、自分がどんな荷を送っているのかまったく知らず、もし見つかったとしても、その文献が地元でつくられたものだとは知りようがありませんでした。紙その他の資材が運び込まれると、それはすべて通りに扉の開く部屋に積まれ、刷り上がって梱包された文献は、荷車が到着する数分前にその部屋へ運ばれ、同じ部屋から荷車に積まれて箱工房へ送り出されました。新たに運ばれてきた紙と資材は、数分のうちに私たちが地下へ片づけました。こうして、たとえば半時間後に家宅捜索が踏み込んできたとしても、家じゅうどこを探してもまったく何の痕跡も見つからなかったでしょう。

私たちがこのうえなくきちょうめんに実行していた小さな用心を、今ここですべて挙げるのは難しいのですが、この規律と事業の内外の組織のおかげで、この生産力の点で壮大な非合法事業を守り抜けたのだと確信しています。家のなか、とりわけ地下の部分では、秘密保持の点で最大の保障を与え、また私たちにとっていくらかでもましな作業環境をつくるものは何でも、たえず改善していきました。地下への入口は、しばらくして……

……しばらくして改良され、作業場から住まいへ出ると、鋼索に取りつけた滑車のおかげで、壁龕の底が機械的に閉まるようになりました。ふたたび入口を開けるには、開く底の上に両足で乗って下へ踏み込めばよく、すると底全体がよいローラーの上をなめらかに下がっていきました。私たちは仲間内で自分たちの作品を誇りにし、外部の同志たちにこれをすべて見せたいという強い気持ちがありましたが、それは差し控えました。セミョーン同志のたっての頼みで、クラーシン同志だけが夜に私たちの印刷所を訪れることを許されました。彼は目にしたものすべてにたいへん驚き、第2回大会で選ばれた党中央委員グレーボフ(故ノスコフ)を連れてきてよいかと私たちに許しを求めました。グレーボフ同志は実際にクラーシン同志とやってきて、故グレーボフは事業の組織全体にこのうえなく感心しました。とりわけ内部の組織と規律、それに仕事の出来ばえに驚きました。覚えていますが、私たちは彼に、エルフルト綱領、レーニンの小冊子『農村貧民に与う』、マルトフの小冊子『ロシアにおける労働者の事業』の、国外の『イスクラ』印刷所で刷られたものと私たちが刷ったものを見せましたが、彼にはどうしても区別がつきませんでした。それもそのはずで、私たちは印刷所のために、ペテルブルクのレーマン活字鋳造所に、『イスクラ』の新聞用・書籍用と同じ活字を特別に注文していたのです。紙も『イスクラ』と同じものでした。それはクラーシン同志が、知り合いのウッチの工場主に私たちの印刷所のために特別に注文したものでした。仕事の出来ばえについて言えば、印刷所では私を除いて、同志はみな腕のよい植字工と印刷工でした。帰り際、グレーボフ同志は中央委員会を代表して私たちに礼を述べ、私たちの印刷所を、ロシアのプロレタリアート全体を温める「全ロシアのペチーカ(暖炉)」と呼びました。

印刷所が存続したおよそ2年半のあいだ、私たちを訪れたのは、ロシア社会民主労働党中央委員会のメンバーや代理人のうちわずか数人だけでした。そのなかには、故カルタショフ同志、I. I. ビビコフ、ポスタロフスキー(ヴァーディム)、コゼレンコ、エカチェリーナ・キッツがいました。印刷所ができて2年目の終わり、私たちはあるとき、著名な技師であるV. V. スタルコフ同志を特別に招いて住まいに通し、地下への入口を見つけてみてくれと頼みました。彼は入念にすべての部屋を調べ、壁という壁、怪しいと思う箇所を叩いて回りましたが、私たちの入口を見つけることはできませんでした。彼が負けを認めたご褒美に私たちは彼を地下へ案内しましたが、彼はあまりに感心して、自分たちに出版の自由が宣言されたら、この事業全体を当時のままの姿で残し、高い料金を取って世間にこの設備をすべて見せてはどうか、そうすれば党はたいへんな利益をあげられる、と提案したほどです。

地下での作業中は、換気がまったくないため、たいへん息苦しくてたまりませんでした。1904年の夏、私たちは屋根に小さな窓をうがち、上には小さな木の塔屋をつくり、下には小窓をつけてふさぎました。ムスリムの家の平らな屋根にはこの種の窓がよく見られるので、私たちの窓もまったく注意を引きませんでした。それでも夏にはひどい蒸し暑さで、バクーの灼熱のために印刷機械のローラーまで溶けてしまい、7月にはたいてい印刷を中断し、そのあいだに紙型と鉄版を用意したり、印刷する大きなものを組んだりして、同志の一部は7月いっぱい休暇をとりました。

上に述べた用心にもかかわらず、家宅捜索のさいに見つからないという確信はやはり持てませんでした。そこで私たちは、逮捕されるときには警察に武装抵抗をすることに決めていました。私たちは全員リボルバーで武装しており、もし見つかっていたら、この決定は間違いなく実行されたでしょう。その決定が正しかったかどうかは、また別の問題です。

しかし当時の私たちには、ほかの決定はできませんでした。さらに、内部の関係はまったく同志らしく友好的で、皆が等しくたくさんの仕事を抱え、等しく月々25ルーブリを受け取り、食事も暮らしも一緒で、ひとことで言えば互いに何の差もつけていなかったものの、やはり人間は人間です。同志の何人かは厳しい規律と作業条件を明らかに重荷に感じ、神経質になりはじめ、つまらないことで互いに口論をすることも少なくありませんでした。私は彼らの年長の同志であり、理論面でもっとも準備があり、また仕事のあらゆる苦労を彼らと分かち合っていたので、疑いのない認知と尊敬を受けていました。そこで私は、私たちに与えられたわずかな自由な夜の時間に、私たちグループの暮らしをあらゆる形で彩る義務があると考えました。共同で本を読む会を開いたり、何人かといろいろな科目を勉強したりしましたが、何よりもよく話したのは歴史全般、とりわけ社会主義の歴史でした。とくに多くの時間を費やしたのは、たとえば天文学のような、いろいろな抽象的な科目でした。天文学には皆が大いに熱中しました。私は当時この科目にいくらか知識があったので、星の世界の話をするだけでなく、夏の暗い夜にはよく小さな中庭へ出て、地面に仰向けに寝そべってバクーのいつも晴れた空をながめ、私は中庭から見える星座の話をしました。こうした夜を同志たちはとりわけ好みました。

こうした立場にあったので、私はいつも同志間のどんなもめ事も収めることができました。そして、これは同志たち自身が口をそろえて認めていたことですが、過度に謙遜せずに言えば、あの条件のもとで固い友情と事業への愛を保てたのは、多くは私の性格のおかげでした。その数年間、私はあまりにしばしばもめ事を収め、同志を和解させたので、この癖は今では私の欠点になってしまったほどです。

同志の誰かがひどく重荷に感じ、体力的にも気分的にも私たちのところでの仕事にそれ以上耐えられなくなれば、必要なものをすべて持たせて送り出しました。

印刷の専門家ではない私自身の役目は次のとおりでした。第一に校正をしました。第二に機械を回しました。機械をきれいに保つのも私の役目でした。刷り上がった紙を折り、綴じ、文献を束ね、指示に従って各組織への発送分を振り分け、小包ひとつひとつの重さを量り、資材の入荷と都市ごとの文献の発送について完全な記録をつけました。そのほか、鉄版の鋳造も手伝い、うまく鋳造できなかったいくつかの版から使える部分を切り出して組み合わせ、印刷に十分使えるページに仕上げました。部屋と住まいの掃除については、ほかの者と同じ役目を負っていました。ひとことで言えば、印刷所の仕事では、私は同志たちのなかでいわば雑役夫でした。申し上げたように、ほかの同志たちは熟練工でした。

分派的な気分で言えば、私たちのあいだではボリシェヴィキが多数でしたが、メンシェヴィキも数人いました。私たちの意見の相違は、仕事にはまったく影響しませんでした。しかし党第3回大会、つまりボリシェヴィキとメンシェヴィキの公式の分裂のあとは、印刷所はまるごとボリシェヴィキのロシア社会民主労働党中央委員会の管轄となりました。

印刷所の初めからたたまれるまでそこで働いたのは、次の同志たちです。イワン・ボルクヴァッゼ、ウラジーミル・ドゥンバッゼ、シリヴェストル・トドリア、カラマン・ジャシ、イワン・ストゥルア、それに私です。ほかにも多くの働き手がこの印刷所を通り過ぎていきました。その名前を挙げます。セミョーン・エヌキッゼ同志、その「母」エリザヴェータ、その「姉妹」リーザ・ドズネラッゼ、ヴラス・ムゲラッゼ、別名トリア――有名なメンシェヴィキです――、メンシェヴィキのヴェーラ・オシポヴナ・コルサク、ジュネーヴから送られてきたゲルシャノヴィチ同志、マカール・ゴグアッゼとその妻マリア・ゴグアッゼ、のちにチフリスのデモで命を落としたワシーリー・フツァシヴィリ、フマリャンツ同志、それにカト・ミカッゼです。

この同志たち全員について、私はたいへん多くのよいことを書きたいと思います。彼らはその献身によって、当時だけでなくその後も、今日に至るまで党の隊列にとどまり、党にたいへん大きな力を貸してくれたからです。しかし、いつか党活動全般についての回想を書くことができたら、別の場所でこの問題に立ち戻りたいと思います。ここで述べておかなければならないのは、当時バクーには、党のこの新しい中央印刷所と並んで、私たちの非合法印刷所の支部が存在していたことです。そこにはケツホヴェリ同志が手に入れた私たちの以前の機械が置かれていました。その支部では上に挙げた同志の何人かが働き、主にロシア社会民主労働党カフカース同盟のためにグルジア語とアルメニア語の文献を刷っていました。この支部はまもなくたたまれ、印刷機はチフリス組織に引き渡されてそこで1906年まで存続しましたが、その年の秋に摘発されました。こうして、残念ながらケツホヴェリ同志の機械を保存することはできませんでした。

さて、私たちの中央印刷所の仕事の問題に戻りましょう。常設の仕事として、印刷所は党の中央機関紙である『イスクラ』の印刷を引き受けていました。『イスクラ』は国外から送られてくる紙型で刷られました。鉄版は私たち自身で鋳造し、そのために私の図面どおりに特別の鉄版製作機をつくらせました。ここでついでに思い出しておかなければならないのは、1914年にメンシェヴィキの新聞『ルーチ』にレオン・ゴリドマンが載せた短い記事です。彼は1902年と1903年にキシニョフの町で『イスクラ』の小さな印刷所を組織した人物です。その印刷所は摘発され、ゴリドマンは裁判にかけられ、法廷で、当時『イスクラ』に掲載された有名な演説を行いました。このレオン・ゴリドマンが『ルーチ』に書いたところでは、彼はレーニン同志の助言で、非合法印刷所に鉄版の仕事を組織することに取りかかり、彼の言うところでは、いくつかの問い合わせのためにレーニンが彼をドイツの同志たちのところへ行かせたのだそうです。これは国外でのことで、ゴリドマンの話では、彼はそこで故ジンガーと話したところ、ゴリドマンが非合法の小さな印刷所で鉄版印刷のような複雑な印刷を組織するつもりだと知って、ジンガーは大笑いしたそうです。ゴリドマンは、彼の言うところでは、非合法の条件のもとでは空想的で実行不可能な事業にレーニンが自分を押しやったことに、ひどく面食らったといいます。

このことを思い出して申し上げなければなりませんが、私たちの非合法印刷所では鉄版をじつに幅広く使っていました。『イスクラ』を刷るだけでなく、活字を節約するために、ビラやチラシをすべて鉄版方式で刷ったのです。レオン・ゴリドマンの演説まで、私たちは鉄版で刷りました。こうしてレーニン同志の助言は、いつものように、彼の知らないこの分野でもまったく正しく、きわめて必要で、実行可能なものだったことがわかったのです。

言っておかなければなりませんが、私たちのところでの紙型の製作と鉄版の鋳造はまったく原始的なやり方で行われ、私たち自身が編み出した、大きな印刷所ではまったく使えないような方法が用いられていました。3年後、ペテルブルクの大きな印刷所で鉄版印刷の工程を見たとき、私たちのやり方とまったく似ていないのにひどく驚きました。活字合金を溶かすのには、七輪のような、木炭を使うふつうの格子つきの炉を使いました。これはたいてい夜、台所でやりました。鉄版を鋳造したあとは、全員が二日ほど頭痛に悩まされました。煙と、溶けた金属から出るガスにみなやられたからです。鉄版の型の温まり方が不均一だったり、紙型の乾き方が不均一だったりするために、同じページを何度も鋳造し直さなければなりませんでした。そのため気泡のないページができることはめったになく、何枚かの鉛の板から、よい部分を切り出して組み合わせて1枚にしました。それから全体を板に固定し、その形で印刷機の版枠にはめ込んで刷りました。とくに難しかったのは『イスクラ』で、ページが大きかったからです。しかし、こうした困難にもかかわらず、同志たちの信じがたい精力と粘り強さのおかげで、『イスクラ』やそのほかの印刷物は完璧な出来ばえになり、先に述べたように、ふさわしい紙に私たちが刷ったものは国外のものとまったく区別がつきませんでした。『イスクラ』は第53号から第64号まで、各号1万部ずつ刷りました。ロシア各地の党委員会はどこもこの新聞を十分に受け取っていました。最初のころに刷った小冊子には、レーニンの『農村貧民に与う』、同じく著名な小冊子『何をなすべきか』、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』、カウツキーの『エルフルト綱領』がありました。『エルフルト綱領』のうち100部は特別な紙に刷られ、私たちの工房で綴じて断裁されました。そのうち一部には表紙の裏に献辞を書き入れて、カール・カウツキーに贈ったのです。私たちが伝え聞いたところでは、彼は自分の著作が私たちの党の非合法印刷所で刷られたことに感嘆し、私たちの心遣いにたいへん感じ入ったそうです。100部の残りは、クラーシン同志が、私たちの党に好意を寄せる自由主義的で半ば同調的な人たちのあいだでひそかに売りさばき、かなりの額を集めました。『エルフルト綱領』を含め、小冊子はどれも5000部から1万部刷りましたが、小冊子によっては1万5000部に達したものもありました。どの印刷物をどれだけ刷るかの指示はすべて、中央委員会技術ビューローから受け取りました。とりわけたくさん刷ったのは、日露戦争の問題にかかわるビラや、『イスクラ』の個別の記事でした。パルヴスの記事「戦争と革命」や、トロツキー同志が書いた多くの記事やビラが思い出されます。選挙制度や憲法制定議会などについての記事もたくさんありました。仕事はいつもたくさんあり、とりわけ最後の数か月には、1日14時間、ときには16時間ぶっ通しで働くことも稀ではありませんでした。春にはしばしば外へ出たくなりましたが、それでも私たちはどこにも出かけず、もっぱら仕事に打ち込んでいました。党の文献がすべて、まず原稿のまま私たちのもとに届くということに、私たちは大きな満足を覚えていました。私たちは大衆のなかでの生きた党活動から切り離されていましたが、党の著作物にはすべて通じていたのです。こうした学校は、多くの者にとって無駄にはならず、その後、当時はひとつだったロシア社会民主労働党のどちらかの分派におけるそれぞれの居場所を、きっぱりと定める助けになりました。

ビラやチラシはたいてい薄い巻紙用の紙に刷りました。小冊子も軽い紙に刷り、私たちが綴じて、発送する文献の重さを最小限にするために余分なところはすべて切り落としました。文献は印刷所のなかで、送られてきた宛先ごとに仕分けて振り分け、ばね秤で量って、どこへどの文献をどれだけの重さで送ったかを正確に記録しました。残念ながら、中央印刷所で刷った文献の一覧を記憶から挙げることはできませんが、党のさまざまな委員会が私たちから受け取った文献の正味の重さは正確に覚えています。私たちがさまざまな宛先へ送ったあらゆる種類の文献は、正味の重さだけで全部で548プードでした。文献がすべてごく軽い紙に刷られていたことを考えれば、これは膨大な部数になります。印刷所をたたむずっと前に百万部を超えたことをよく覚えています。私たちはそのことを、小さな宴で祝ったほどです。548プードの文献のうち516プードが届け先に届き、失ったのは32……

……失ったのは32プードの文献でした。ある運搬ではポルターヴァとエリザヴェトグラードで全部でおよそ10プードが摘発され、残りのおよそ20プードは、次のようないきさつでサマーラで失いました。ポルターヴァとエリザヴェトグラードでの摘発のあと、バクーに大きな注意が向けられ、鉄道の代理店員たちの情報では、荷物の発送が厳重に監視されていました。そこで私たちは文献を送る別の方法に頼り、航路の開いている時期には、アストラハン経由でヴォルガをさかのぼる海路での運搬を強化しました。それ以前から、私たちはバクーから鉄道や海路で送られる小口の荷物の梱包の仕方や品名を研究していました。ヴォルガ経由では、「グドロン」(アスファルト製造用の石油残渣)という品名で、小さな2プードの箱に入れて文献を送るようになりました。当時このグドロンは、さまざまな商会がバクーからたいへん大口で出荷していました。商会ごとに独自の梱包があり、樽や箱で出荷されていました。私たちは工房で二重の箱を注文しました。内側の箱に文献を入れ、その箱を大きな箱に入れて、まわりにグドロンを流し込んだのです。箱には「グドロン」の番号と等級を示すしかるべき印刷の表示をつけ、この箱をサマーラ、サラトフその他の町へ、やはり持参人宛てで、架空の商会名義で送りました。うまくいっていたのですが、1905年7月、船倉から箱を降ろしているとき、クレーンから箱がいくつか落ち、そのうちひとつが粉々に壊れてしまったのです。どうやら荷役夫たちのグドロンの扱いが雑だったようです。壊れた箱からはグドロンが流れ出しました。高い気温ではふつう液体になるからです。そしてグドロンと一緒に文献まで這い出してきました。内側の箱も壊れていたからです。もちろん包みはすべて開けられ、私たちにとってはこのうえなく残念なことに、大量の文献(およそ20プード)が摘発されました。この一部始終を、サマーラで文献の運搬の到着を待ち、汽船の荷揚げのあいだ群衆のなかに立っていた同志が見ていました。このことは私たちに知らされ、私たちはそれ以上バクーから「グドロン」を送りませんでした。そのかわり、石油業者たちには間違いなく損害を与えました。知らされたところでは、本物のグドロンの樽や箱がすべて、ほぼ1か月のあいだヴォルガのあらゆる桁橋で開けられたからです。

全体として、私たちが発送した文献全体のうち摘発されたものはわずかでした。『官報』には国外からの非合法社会民主主義文献の持ち込みについての記事が載り、その新聞では、文献はペルシアを経由してバクーへ入ってくるなどと論証されていました。しかし、非合法の条件のもとで、これほどの量を、しかも何よりこれほど品質よく刷れるなどとは、誰も思いもよらなかったのです。

8プードの文献を、私たちは次のようにして摘発から救いました。荷は、エリザヴェトグラードで私たちの文献が摘発されておよそ3か月後にそこへ送られ、送り状はミンスクへ、私の記憶が正しければアダモヴィチ同志宛てに送られました。ふつう私たちはそうしていました。文献はある町へ、その文献を受け取るための書類は別の町へ送るのです。文献と書類を発送して2日後、技術ビューローから、アダモヴィチ同志が逮捕された、彼の宛先には何も送るな、という警告つきの電報が届きました。もう手遅れでしたが、私たちはエリザヴェトグラードでの最初の摘発のことで憲兵に仕返しをしたくてたまりませんでした。私たちは手荷物取扱所の事務員から、急行便の古い送り状用紙を何枚か手に入れました。この用紙はもちろん別の番号でした。この用紙はどれも以前は国家証券印刷局で刷られていて、偽造が難しいものでした。発送した用紙の番号はいつも記録していたので、このときもミンスクへ送った用紙の番号がわかっていました。私は製図の腕をすべてここで発揮しました。このうえなく根気のいる作業で、ほとんど徹夜して、古い用紙の番号を、私が送った用紙の番号に書き換えることに成功したのです。出来はとてもよく、私たちはすぐにこの書類を持たせて同志のひとりをエリザヴェトグラードへ派遣し、彼はそこで荷を全部無事に受け取りました。あとで技術ビューローとエリザヴェトグラードの同志たちから知ったのですが、私たちがミンスクへ送った用紙は憲兵の手に渡り、彼らがエリザヴェトグラードに現れたときにはもう何も残っておらず、その落胆ぶりはたいへんなものだったそうです。私たちが偽造した書類を本物と照合してひどく驚き、バクーの貨物駅に大がかりな取り調べを差し向けました。この面で私たちに大きな力を貸してくれた鉄道の同志、ネストル・マムライシヴィリ同志は、そのせいでいくらか割を食いましたが、まもなく非の打ちどころのない職員として、すべての「権利」を回復しました。

印刷所で働く同志たちの内部の関係は、いつも友好的で確かなものでしたが、それでも党の歩みのある局面ではかなり揺れ動きました。覚えていますが、レーニンが『イスクラ』編集部を去り、新聞『フペリョード(前進)』を出したあと、私たちのあいだの関係はとげとげしくなりました。そのころ、一方では『イスクラ』に、他方では新聞『フペリョード』に、組織と戦術の問題をめぐる論争的な記事がいくつも現れはじめました。とりわけよく覚えているのは、プレハーノフとレーニンのあいだで論争が燃え上がったとき、武装蜂起と権力奪取についての記事をめぐって、私たちがどれほど熱く議論したかです。私たちの大半はレーニンの側につきました。当時はまだボリシェヴィキもメンシェヴィキも存在していませんでしたが、私たち同志の大半の共感は旧『イスクラ』の側にありました。ガポンの一件のあと、私たちのあいだでは大きな論争が起こりました。意見の相違が生まれつつあったにもかかわらず、私たちは党に対するこのうえなく大きな責任を感じて、いつも論争を乗り越えることができました。しかし党第3回大会と、『プロレタリー』がボリシェヴィキの中央機関紙と宣言されるころには、印刷所にはボリシェヴィキ潮流の支持者だけが残っていました。

党は大きくなり、文献への需要はけた外れに伸びました。そのため、私たちの印刷所の生産力が大きく、ロシア全土への配布網もたいへんうまくいっていたにもかかわらず、私たちには印刷物への党の飢えを満たすことはできませんでした。とりわけモスクワとペテルブルクの工業地帯で、文献への需要が並外れて高まっていました。そこでわが党の中央委員会は、私たちの印刷所がこうした工業の中心地とボリシェヴィズムの拠点から離れていることを考え、私たちの同志たちの経験を生かしてモスクワに印刷所を立ち上げるための措置をとる問題を提起しました。セミョーン同志はモスクワへ呼ばれ、その町での印刷所の組織を任されました。そのころレオニード・ボリソヴィチ・クラーシンもモスクワで活動していました。セミョーンはカフカース物産の商人としてモスクワに現れ、店を借り、そこへ米や干しぶどうその他の品を運び込みました。そしてレスナヤ通りの、店の隣の地下に印刷所を設けたのです。この印刷所には、私たちのバクー印刷所から同志たちが派遣されました。シリヴェストル・トドリアとゲオルギー・ストゥルアです。ちなみに、この店では女中としてイクリャニストワ同志(現全ロシア中央執行委員会委員)、党名「トルーバ」が働いていました。彼女が、自分が1905年に女中として働いていた場所に非合法印刷所があったと知ったのは、1922年になってからでした。このことは、私たちの同志たちの秘密保持がいかに高かったかをあらためて示しています。レスナヤ通りの印刷所はたいへんうまく稼働し、あらゆる時事的な文献で中央工業地帯に奉仕するようになり、それによってバクー中央印刷所の仕事を大いに軽くしました。この印刷所については、そこで直接働いた同志たちが語り、書くべきもので、今の私の任務には入りません。

1905年の夏なかば、モスクワの印刷所が稼働しはじめると、バクーの印刷所は日々の急ぎの文献から解放されました。バクーの印刷所には急ぎではない任務が課せられ、このころから私たちの仕事には、それまでの数年間のような熱病にかかったような慌ただしさは見られなくなりました。私たちはもっぱら小冊子と単行の論集の印刷に移りました。1月9日以降に展開し、やがて1905年の10月の「自由」をもたらした出来事は、私たちの印刷所に定められた内部の規律にも影響せずにはいませんでした。公然たる労働運動が高まるにつれ、私たちの同志たちは、この厳重に秘匿された場所から出て大衆のなかで働くべきときだ、という話をしだいに頻繁にするようになりました。ひとことで言えば、迫りくる「自由」とロシア全土での労働運動の高まりは、私たちの厳重に秘密を守る環境に、今日の言葉でいえば「弛緩」と呼ばれるものを持ち込んだのです。日ごとに、外へ出たいという同志たちの当然の願いを抑えるのは難しくなっていきました。一方で、働いていた同志の多くは、私たちの印刷所はもう党にとって以前ほど必要ではないと感じていたからです。今や党には合法の可能性がたくさんあり、それが印刷物へのたえず増える需要を満たすだろうと信じられていました。それでも、すでに経てきた鍛錬と同志たちの高い規律のおかげで、私たちの印刷所では内外の規律の違反はひとつも起こりませんでした。1905年10月17日の詔書のあと、党は実際、さしあたり、あらゆる文献や定期刊行物を出すとてつもない可能性を手にし、私たちの非合法印刷所への原稿の流入はたちまち最小限に減りました。私たちの前には、作業と人員を減らすか、印刷所を一時閉鎖するかという問題が立ちはだかりました。他方で、生まれた状況のもとでは、まわりで事業全体が摘発されやすくなるのではないかという恐れも生じました。私たちは本能的に、非合法印刷所がまだ必要になるかもしれないと感じていたのです。10月の出来事に対する私たちの非合法サークルの熱狂をよく覚えていますが、その出来事を評価したとき、なぜかいつも、この「自由」はもろいものだ、もしかするとまた一年前のように引きこもって働かなければならないだろう、という結論に達したこともよく覚えています。私たちの印刷所の運命については私たちでは決められず、そのころバクーにはこの件で中央委員会から委任を受けた同志もいませんでした。そこで、問題を確かめるため、私をペテルブルクの中央委員会へ派遣することになりました。11月、私はペテルブルクに着き、教えられたボロトナヤ通りのヤフカから、まっすぐロシア社会民主労働党中央委員会ボリシェヴィキのメンバーの協議に向かいました。協議は、ポクロフスカヤ広場に近いサードヴァヤ通りのはずれにある、技師ブルスネフの住まいで開かれました。この協議で、私ははじめてレーニン同志に会いました。レーニン同志が「ああ、これがアベリ同志だね」と言って私を迎えたとき、私はひどくどぎまぎしました。『イスクラ』と、とりわけウラジーミル・イリイチとは、ずっと前から文通していたのです。彼はすぐに本題に入り、南部とカフカースの情勢や、私たちの組織の気分について質問しはじめ、とりわけ、印刷所で働いている同志たちはどんな気持ちでいるか、外へ出たがっていないか、と尋ねました。私は彼と、そこに居合わせたクラーシン、ボグダーノフ、ポスタロフスキーの各同志に、バクーや私の知っているほかの土地で何が起きているかを手短に伝え、私たちの印刷所と同志たちの気分について詳しく話しました。そしてその場で、私たちの決定を伝えました。あれほど苦労して軌道に乗せ、秘密保持の点でもあらゆる面で試された事業の整理に取りかかるよりは、たとえ一時何もしないとしても、同じ非合法の条件のもとにとどまるほうを選ぶ、という決定です。よく覚えていますが、レーニン同志はその場で、彼の言うところの10月の「自由」にのぼせあがり、出版の自由はいずれにせよ保障されるから、もう人を地下に塗り込める必要はないだろう、などと想像している同志たちをあざけりはじめました。それでも中央委員の多数決で、私たちのバクー中央印刷所はたたむが、働き手の顔ぶれはそのまま保ち、ばらばらにせず、ボリシェヴィキが予定しているペテルブルクの大きな合法印刷所へ丸ごと移すことに決まりました。「そして、もしこの若者たちがまた必要になったら、また非合法の条件に戻す。彼らの経験があれば、もう一度この事業を組織できるだろう」と、そこでは言われました。またその場で、機械を梱包して持参人宛てでペテルブルクへ送ることも決まりました。ボリシェヴィキが予定している合法印刷所が開かれるまで、機械は、ボンチ=ブルエーヴィチとP. P. ルミャンツェフが発行していた『ヴェーストニク』を刷っていたリテイヌイ大通りの印刷所に据えることになりました。このころ、わが党の中央委員会とメンシェヴィキの組織委員会(彼らの中央委員会はそう呼ばれていました)とのあいだで、統一と共通の中央の設置について交渉が行われていました。ちなみにレーニン同志はこのことについて私と話し、こう言いました。「われわれはメンシェヴィキに五分五分で統一しようと提案しているのに、向こうは共通の中央に自分たちの支持者をもっと入れたがっている。どう思うかね、これに同意すべきかどうか?」。私はもちろん、……

……私はもちろん、断じて同意すべきではないと答えました。するとレーニン同志は笑って、それはいいと言い、ボグダーノフ同志らに、ほら、カフカースの同志たちはこう言っているぞ、と注意を促しました。ここから私は、ボグダーノフらはボリシェヴィキの票数が少なくても共通の中央に加わるつもりだったのだと推し量りました。ペテルブルクにしばらく滞在したのち、私は印刷所をたたむという正式の決定と、そのために必要な資金を受け取りました。その金の一部は、モスクワのボリシェヴィキの新聞『フペリョード』の編集部でゴルプコフ同志から受け取ることになっていました。モスクワへ着いてゴルプコフ同志から金を受け取ったとき、私はついでにモスクワの同志たちに、バクーへ非合法印刷所をたたみに行くのだと話しました。故マラート同志がそれに不賛成の意を示したのを覚えています。私は12月6日、つまりモスクワ武装蜂起の前夜にバクーへ発ちました。そのころモスクワじゅうが沸き立ち、事件が熟しつつあるのが感じられました。私もほかの同志たちも、主にモーゼルで武装してまったく自由に町を歩き回り、自由に弾薬を買い、ペトロフスキー公園で射撃の練習をしていました。現在の第4ソヴィエト会館にあったゴーリキーの住まいでは戦闘組織の協議があり、そこで新型の手榴弾が披露されました。M. F. アンドレーエワはこの協議を快く許してくれましたが、ただひとつ、すべてアレクセイ・マクシーモヴィチのいないところでやること、という絶対の条件つきでした。彼女は手榴弾の爆発を恐れ、彼を危険にさらしたくなかったのです。もちろん私たちは爆発など少しも恐れていませんでした。披露された爆弾には中身が詰められていなかったからです。それでもこの条件には同意しました。

全ロシア鉄道ストライキが宣言されたので、私は最終列車でバクーに着きました。私が着く前日、黒百人組がボリシェヴィキの傑出した労働者のひとり、ピョートル・モンチンを殺害していました。ボリシェヴィキのバクー委員会は盛大な葬儀を行うことに決め、モンチンの遺体はチフリスへ運ばれました。葬儀にはもちろんメンシェヴィキや社会革命党の組織も加わりました。12月9日、葬儀の式次第を話し合うため、三組織すべての委員会の拡大会議が開かれることになりました。ゼネストは鉄道だけでなく油田でも、バクー市内でも宣言されていました。この会議で、私は3年以上会っていなかったカフカースの同志たちの前にはじめて姿を現しました。彼らは私が現れたことにたいへん驚きました。もっとも近しい同志たちでさえ、私がそのあいだずっとバクーの地下で働いていたことを知らなかったからです。私は彼らに、ペテルブルクから来たと告げ、私たちのバクー委員会のために中央委員会からいくつかの指示を受けていると言いました。私はボリシェヴィキ中央委員会の代表として葬儀委員会に加えられました。覚えていますが、夜中の2時ごろ、ピョートル・モンチンの葬儀にかかわる問題について、すべての労働者と住民に向けた臨時の檄を出す必要が生じました。当時バクー委員会は町の事実上の権力だったのですが、それでもこの檄を朝までに刷ることはとてもできない、ということになりました。私がアリョーシャ・ジャパリッゼ同志に、檄の原稿を渡してくれれば朝4時までに刷り上がったものを何千部か届ける、と申し出ると、同志たちはひどく驚きました。私は私たちの非合法印刷所へ行って同志たちを起こし、2時間後にはビラが上等の紙に立派な活字で刷り上がりました。私はふたたび会議に戻り、ビラの束を持ち込み、それはその場で各地区へ配られました。その夜はじめて、私はアリョーシャ同志に、中央委員会の主要な印刷所がバクーにあること、そして私がこの数年そこで働いていたことを打ち明けました。モンチンの葬儀には何万という人々が加わりました。ザカフカース鉄道はストライキ中だったので、棺と付き添いの代表団をチフリスへ運ぶために特別列車が仕立てられました。私もその列車に同乗しました。チフリスの同志たちは、何千というチフリスの労働者たちと一緒に、松明を掲げ、歌いながら信号機のところで私たちを出迎えました。列車は信号機のところで止められ、モンチンの遺体を納めた棺は、すぐ近くに住む彼の母の家へ運ばれました。出迎えたチフリスの同志たちの代表団を率いていたのは、メンシェヴィキ側はイシドル・ラミシヴィリ、ボリシェヴィキ側は当時まだボリシェヴィキだったサクヴァレリッゼでした。

チフリスからバクーへ戻ると、私は同志たちと印刷所の撤去に取りかかりました。機械のほかに、あらゆる印刷資材が膨大にあり、刷り上がった文献も最大60プードありました。機械を除くすべての資材と財産は、ボリシェヴィキのバクー委員会に引き渡しました。機械は分解して箱2つに梱包しました。そのためにもとの馬屋の壁をひとつ壊し、堂々と機械を中庭へ運び出して梱包を始めたのです。その数日間、同志たちはひどく物憂げに、気乗りしない様子で働きました。あれほど「自由」を求めていたのに、住み慣れたこの場所を離れ、何より、一歩一歩自分たちでつくり上げ、固めてきたものすべてを壊すのが惜しかったのです。近所のムスリムたちは、自分たちのすぐそばで何が行われていたのかをはじめて目にし、知りました。彼らは驚いて首を振り、ひそひそ話し合っていました。私たちの住まいから地下への通路は機械室の側からふさがれ、土で埋められました。つまり、もとの状態に戻したのです。その土台の下には、日付と私たちの署名を鋳込んだ鉛の板を埋めました。おそらく、この板は今でも掘り出せるでしょう。こうして、およそ2年のあいだ人工の光しか浴びてこなかった私たちの機械は、日の光のもとへ這い出したのです。同志たちは、党の最初の要請があればペテルブルクか、党が指定するほかの場所へ出向くという条件で解放されました。機械は普通便でペテルブルクへ送られました。今度はこの荷を偽装する必要はなかったので、印刷機械として預けました。私たちの地下の撤去と取り壊しは1906年1月19日に行われ、機械が稼働を始めたのは1903年11月1日でした。つまり機械は地下で2年2か月稼働したことになります。据えつけられたのはそれより前です。

2月なかば、私はペテルブルクへ着いて機械を受け取り、まずリテイヌイ大通りに据えつけました。その後、フォンタンカ96番地に印刷所「デーロ」(ボリシェヴィキの大きな合法印刷所)が開かれると、私たちの機械はそこへ移され、その精度と申し分のない調子のよさから、挿絵の印刷に使われました。

ストルイピンの命令で印刷所「デーロ」が叩きつぶされたあと、私たちの機械、つまりドイツで買った『フォアヴェルツ』型の機械と、ボリシェヴィキがメシチェルスキーから買った小さな輪転機(この機械でメシチェルスキーは自分の有名な新聞『民衆の友』を刷っていましたが、私たちのもとでは新聞『ヴォルナ(波)』『エーホ(こだま)』『ペトログラード・エーホ』が刷られました)は、イワノフスカヤ通り14番地のベレージンの大きな印刷所へ移されました。この印刷所の支配人はA. A. ベリャーコフで、彼を通じて、私たちのバクーの機械、合法の印刷所で「バクー号」と呼ばれていた機械を今でも見つけ出して、せめてモスクワかペトログラードの『プラウダ』に贈るか、博物館の品として保存できるのではないかと私は思います。この機械はそれに値するからです。いつか非合法の印刷機やあらゆる工夫の博物館がつくられれば、活字の上で靴ブラシで叩いてビラを刷ったもっとも原始的な印刷機から、一流の平床式高速印刷機まで、たいへんわかりやすい全体像が得られるでしょう。

1906年、第1回国会が解散されたあと、情勢はふたたび非合法の党機関紙の発行が問題になるような展開をたどりました。バクーとモスクワの非合法印刷所にいた私たちの同志たちの顔ぶれは、そっくりそのまま残っていました。はじめ彼らの大半はフォンタンカの印刷所「デーロ」で働き、この印刷所が叩きつぶされたあとは、この同じ同志たちに、フィンランドのヴィーボルクで、当時の私たちの機関紙である『社会民主党員』の発行と印刷を組織することが任されました。ウラジーミル・イリイチは当時クオッカラに住んでいて、そこへ校正刷りが届けられました。申し上げておかなければなりませんが、私が挙げた印刷所の仕事に加わった同志たちはみな、その後ずっと党と最近の革命の出来事に積極的に加わり、その多くは今日に至るまで、党やソヴィエトの責任ある仕事を果たしています。私は1906年6月、中央委員会の決定により、ザカフカースで活動するためペテルブルクから派遣されました。10月まではクタイス県の農村組織で活動し、ロシア社会民主労働党(当時は統一していました)の全カフカース大会のあとはバクー組織で活動しました。こうして、1902年にバクーで逮捕されて以来、私はふたたびバクーのプロレタリアートのなかで、愛する仕事に戻る機会を得たのです。

その後の私の党活動は別の分野に属し、非合法印刷所とは直接の関係がありませんので、印刷所についての私の回想はここで終わりにすべきだと考えます。

A. エヌキッゼ

モスクワ、クレムリン。1923年2月21日

【PDF入力者による注記】電子化のもとにした本には61〜62頁が欠けており、そこにはエヌキッゼの話の結びと自伝の冒頭があった。話の結びは『ボリシェヴィキ地下活動の技術』第2版によって補った。

第1章 訳注

  1. エヌキッゼ:アヴェリ・サフロノヴィチ・エヌキッゼ(1877〜1937)。この報告当時は全ロシア中央執行委員会書記。1937年に粛清された。本章の「セミョーン同志」は「トリフォン・エヌキッゼ」と本文に明記されており(33頁)、第1分冊の「セミョーン」=T. T. エヌキッゼと同一人物。著者との血縁関係は本文には書かれていない。
  2. ラド・ケツホヴェリ:「ラド」はウラジーミルのグルジア式の愛称。本文でも両方の呼び方が混在するので、原文どおりにした。変名はダヴィド・イオシフォヴィチ・デメトラシヴィリ(12頁の「デメトレシヴィリ」は原文の表記揺れ)。
  3. メテヒ城塞監獄:チフリス(現トビリシ)のメテヒ教会に隣接した監獄。
  4. ズバートフ:S. V. ズバートフ。モスクワ保安部長として、警察の管理下の官製労働組合で知られる。
  5. 「黒い町」「白い町」:バクー東郊の製油所地区。サブンチ、バラハニは油田地区。
  6. 単位:プードは約16.4kg(548プードは約9トン)。アルシンは約71cm。
  7. 印刷機の用語:手動の станок を「印刷機」、動力つきの типографская машина を「印刷機械」、стереотип を「鉄版」、матрица を「紙型」と訳した。
  8. エイゼンシュミット工場の場面(9頁):主任がたしなめた「若者」は、口を出した紳士を指すと読める(ケツホヴェリが皮肉で紳士を「若い方」と呼んだのを受けたもの)。
  9. 「ロシア共産党中央委員会書記」(6頁):報告時(1923年1月)のスターリンの職は書記長。本文の書き方のまま訳した。
  10. 暗号名:「ニーナ」=バクー印刷所、「ジェーニャ」=『南部労働者』、「カーチャ」=『イスクラ』。「硬音符」(ъ)も宛名として使われた。
  11. 『イスクラ』の号数:14頁では「第7号から第11号までのうち4号分」、自伝(第2章)では「7〜11号」。第2期の印刷所については51頁で「第53号から第64号」とある。
  12. 「パケ」社:マルセイユの汽船会社 Compagnie Paquet。「シェフ・キュイジニエ」は料理長(chef cuisinier)。
  13. 第151条・第152条:刑法典の罪状。本文は条文番号のみ。
  14. メーデーの日付(20頁):「新暦5月1日後の最初の日曜日、つまり4月22日」。新暦では5月5日に当たる。
  15. レーマン:ペテルブルクの活字鋳造所(O. I. レーマン)。
  16. 「全ロシアのペチーカ」:ペチーカはロシアの暖炉。
  17. ゴリドマンの記事(50頁):レオン・ゴリドマンはキシニョフの『イスクラ』印刷所(通称「ニーナ」とは別)の組織者。「ジンガー」はドイツ社会民主党のパウル・ジンガー。
  18. グドロン:タール状の石油残渣。
  19. ゴルプコフ:第1分冊の引き継ぎメモでは「ゴルプコフ」と表記しているが、原語は Голубков なのでここでは「ゴルプコフ」とした。
  20. 「ロシア共産党中央委員会技術ビューロー」(46頁):原文はЦ.К.Р.К.П.(ロシア共産党中央委員会)。当時の党名はロシア社会民主労働党で、報告時の呼び方が混入したものと考えられる。本文は原文どおり。
  21. ハッジ:メッカ巡礼を果たした人の称号。「グルジー」はテュルク系言語でグルジア人。
  22. ノウルーズ・バイラム:ペルシア暦の新年。本文ではこの年、正教会の受胎告知祭(旧暦3月25日)と重なったとある。
  23. 『ラボートニク』の『リストーク』:「労働者解放団」系の在外出版物とその付属リーフレット。
  24. 武装に関する記述(48頁、58頁):原文にある歴史的事実の範囲で訳し、補足はしていない。
  25. 「故マラート同志」(58頁):第1分冊での「マラート」=V. L. シャンツェル。
  26. 欠落頁:底本PDFには61〜62頁がなく、本章の末尾(60頁末「この同じ同志たちに」以降)はPDF入力者が第2版から補った頁によって訳した。
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