V. N. ザレジスキー(「ワレリヤン」)「地下活動の一頁 1911年の党の運搬の仕事」

1911年、深い地下の時代における、国外からの党の文献の搬入とロシアじゅうへの普及は、私の思うに、わが党の歴史の最も興味深く、最も教訓に富んだ頁の一つである。この仕事の特徴は、何よりもまず、ロシアでの文献普及の技術グループの中心に、挑発者ブリャンジンスキー、またの名「マトヴェイ」、「ペトゥンニコフ」が入りこんでいたにもかかわらず、国外からの文献が規則正しく受け取られ、組織的に広められ、まる1年のあいだ、国境でも各地でも一度も摘発がなかった(文献の送り先だったエカテリンブルクの同志チェレパノフの偶然の逮捕を除けば)ことにある。そして年の終わり近く、10月15日に、ブリャンジンスキーが、文献の受け取りと普及の道筋について手に入るかぎりの情報を自分の手に集めて、ロシアでの運搬事業全体の大がかりな摘発を仕組もうとして、モスクワ保安部に詳しい報告書を出したとき、彼は運搬の組織を摘発させなかったばかりか、逆に、自分自身が「しくじった」のである。

1911年初めから、われわれの運搬が、ブリャンジンスキーが中央委員会運搬委員会のロシア代表になった1910年末に陥っていた「昏睡」状態から抜け出したという事実は、何よりもまず、運搬についてのわれわれの古い「専門家」、同志アリベルト(ピャトニツキー)の党活動の経験によるものと考えなければならない。彼はブリャンジンスキーに、しかるべく働くよう、まさに強いたのである。

ブリャンジンスキーの保安部員としての課題は、彼が警察庁長官ベレツキーへの手紙の一つに書いているように、ロシアへの非合法文献の搬入をできるかぎり「麻痺させる」ことだった。初めのうち、彼はまさにそれをしようとして、送られてくる文献を国境で腐るにまかせ、国境のつながりの「喪失」や、自分が国境へ送った運搬係の逮捕などを口実にしていた。そしてもし文献がときにモスクワやペテルブルクに届いても、たいていは「偶然の摘発」によって保安部の手に落ちた。

中央委員会技術委員会が国外での運搬の組織の実際の指導を同志アリベルトに委ねると、アリベルトはまず、自分のロシア代表であるブリャンジンスキーの仕事に注意を向けた。アリベルトは、ロシアでの運搬の事業の据え方についてのブリャンジンスキーの報告をまったく不満足で秘密が守られていないものと認め、もしロシアで仕事がただちに目に見える成果をあげず、文献が足止めされたり、たえず摘発されながらうまく広まらなかったりすれば、それは何よりもまず、ブリャンジンスキーがロシアで事業の先頭に立つ能力がないことを意味し、彼自身も彼の仕組み全体も、ただちに仕事から外される、ときっぱり言いわたした。

ブリャンジンスキーはジレンマの前に立った。運搬の事業をまともに据えるか、責任ある任務を任せられる働き手としての資格を失うか。彼は前者を選んだ。

彼の最初の課題は、自分に代わって仕事をしてくれる、ふさわしい党活動家を見つけることになった。どうやら保安部員として、「良心にかけて」革命のために働きたくはなかったらしい。働き手を探すうちに、彼は、1902年からの党の仕事でよく知っていた私が、監獄を出てカザンに来て、党との失われたつながりを探していることを知る。彼の選択は私に落ちた。

あるとき、勤めから家に帰ると、私のところにメモが置いてあった。「今晩シチェトキン・ホテルの(何号)室にお立ち寄りいただければ、あなたのよく知っている友人に会えます。その友人はあなたとお話しできるのをとても喜ぶでしょう」

指定の住所に出向くと、1902年に私が革命の仕事を一緒に始めた、ブリャンジンスキー、またの名「マトヴェイ」、「ペトゥンニコフ」に会った。彼がロシアでのわが党中央委員会の文献の責任ある運搬係で、わざわざ私のためにカザンに来たと聞いて、私の驚きは限りなかった。

「夏にカザンに来た妻から、あなたがここにいて党とのつながりを探していると聞きました。ちょうど、国外からの運搬の組織という事業をきちんと据えるのを手伝ってくれる、信頼できる同志が必要なのです。仕事はもちろん、何よりもまず技術的な性格のもの、つまりロシアじゅうへの文献の普及ですが、ここには経験ある、秘密の守れる組織者が必要です。あなたの課題は、あなたの指導と責任のもとで働く人々を見つけ、また町々に特別な『三人組』を組織することです。この『三人組』は、原則として、それらの町にある地下組織とは別に、われわれが組織しなければなりません。運搬係はそれと直接つながり、それがわれわれと地元組織とのあいだの中継の機関になります。こうしてわれわれは、文献を各地に届けるという目的も、摘発に対する最大の保証も達成できるのです」

もちろん私に選ぶ余地などなく、喜んで同意し、それでわれわれは別れた。

まもなく私はブリャンジンスキーから、金と、モスクワ市アルバート地区署長が発行したイワン・ワシーリエヴィチ・キリロフ名義の旅券を受け取り、モスクワに出向いた。

ブリャンジンスキーは、はっきりした課題をもって、じりじりと私を待っていた。

「国境で密輸業者とのつながりが切れてしまった」と彼は言った。「次の文献の荷はもう送られて、国境のどこかにある。あなたの最初の課題はこうだ。グロドノへ行って、ヨシフ・マトゥスを探し出してくれ。彼はネマン川の向こうの集落でソーセージ屋をやっていたが、今は店をたたんでどこかへ消えてしまった。私が教えられるのはそれだけだ。彼には『ナターシャ』から来たと言えばいい。彼が農民のカラセヴィチと引き合わせてくれる。マトゥスには古い借金の60ルーブリを渡してくれ。彼らとつながりがついたら、すぐに私に電報を打ってくれ。私が自分で行く」

受け取ったわずかな手がかりからすると、マトゥスを探し出すのはどうやらそう簡単ではなかった。グロドノには何のはっきりした計画もなしに着いた。汚いユダヤ人の宿屋に泊まる。部屋の戸を閉めたかどうかのうちに、もう誰かが戸をたたく。「仲介人」が入ってくる。「旦那、何かご入用では」とへつらうように言う。とっさに思いついた。小さな町の仲介人は「何でも知っていて、何でもできる」ではないか! 2ルーブリほどでマトゥスがどこへ行ったか調べてくれと頼んで、何の危険があるだろう。だが彼にはそのことは何も言わなかった。よく考える必要があったので、2日ほどしてまた来てくれと言った。

この2日のあいだに、ネマン川の向こうの郊外をすっかり歩きまわったが、マトゥスの跡は見つからなかった。仲介人の手を借りなければどうにもならないのは明らかだった。問題は、どうやって十分に秘密を守ってそれをするかだけだった。とうとう考えついた。やって来た仲介人に、自分はモスクワのあるソーセージ商会の代理人で、マトゥスと商売の取引があったが、半年ここに来なかったあいだに、マトゥスがどこかへ消えてしまった、と言った。仲介人には、マトゥスのソーセージ屋がどこへ移ったのかを調べてもらいたい、と。

翌日にはもう、マトゥスはソーセージ屋をたたんで、どこそこにある居酒屋を開いたという情報を受け取った。

喜びは大きかった。秘密保持上の理由から、私はその日のうちに宿屋でグロドノからモスクワへ発ったことにして、荷物を駅の手荷物預かり所に預け、何日か住まいなしで、町のまわりの森で夜を過ごし、それから小さな住まいを見つけて、モスクワから来た、出版社「プロスヴェシチェーニエ」の代理人の外交販売員という触れこみで移った。1週間のあいだ尾行がないことを確かめてから、マトゥスの居酒屋へ出かけた。

白髪の老人で、がっしりしていて、人のよさそうな様子をしていて、見たところいかにも堅実な人物だった。カウンターのそばのテーブルに座り、昼食を頼み、都合のよい瞬間をとらえて、「ナターシャ」から来たとまっすぐ言った。彼はすっかり身構えたが、愛想よくほほえんで、彼女の暮らしぶりや健康のことをたずねた。どうやら私を「探って」いるらしかった。私はナターシャを知らなかったので、何かまずい返事でこの抜け目ない老人に疑いを起こさせないように、借金を持ってきたとまっすぐ言い、彼がナターシャから受け取ることになっていた60ルーブリを渡した。これで彼の私への態度はより信頼に満ちたものに変わった。彼は、私が事の本質を知っていることを見てとったのである。しかも求められていたのはわずかなこと、つまりカラセヴィチを教えることだけだった。

マトゥスは私をネマン川の河岸通りへ行かせた。そこのある通りで、カラセヴィチが何かの土木工事の請負人として働いていた。こうして、ブリャンジンスキーが「長いあいだ回復できなかった」失われたつながりは、私によってたいへん早く見つけ出された。

ブリャンジンスキーに電報を打つと、彼はすぐにやって来て、つながりが回復し、文献も無事だと知ると、「ひどく喜んだ」。彼の手先たちは2か月以上も失われたつながりを見つけられず、文献が無事かどうか、もう心配していたのだと彼は言った。

2日ほどして、「失われていた」文献、2プードずつの包み二つが、どこかの農民によって私の住まいへ届けられた。文献はたいへん念入りに油布で包まれ、中くらいのトランクほどの大きさの細長く平たい梱の形に、亜麻布で縫いくるまれていた。そこには中央機関紙『ソツィアル=デモクラート』の号がたくさん、プレハーノフの『日記』、パンフレット、それにロンドン大会の議事録が少しあった。

受け取った文献の半分を持って私はモスクワへ行き、そこでブリャンジンスキー本人かその指示を待つことになった。もう半分はブリャンジンスキーが持って、ドヴィンスクとペテルブルクへ運んでいった。モスクワで私は、文献の一部を普及させるための「三人組」の組織に取り組み、残りは技師ボグダーノフに保管を頼むことになっていた。ボグダーノフはネメツカヤ通りの技師組合の何かの建設事務所で働いていて、私はその後も運搬の用で何度か彼に会った。

「三人組」は、カルーガ関門の外のヴィノクーロフ工場の労働者ワシーリエフを通じて、まもなく組織できた。彼は古い経験ある秘密活動家だった。本人は私とだけ接触し、「三人組」には入らなかった。彼の指導と監督のもとで、カルーガ関門だけでなくほかの地区の若い工場労働者が何人か働いていた。とりわけ、彼らにはブラグーシャや、市の発電所や、電車の車庫とのつながりがあった。

モスクワには1か月以上いて、ブリャンジンスキーから何の指令も受け取らず、することもなくうんざりしていた。とうとう彼から、ドヴィンスクに来るようにという手紙を受け取った。ドヴィンスクにブリャンジンスキーは定住し、住まいを借り、技師という触れこみで暮らしていた。

ブリャンジンスキーは私に、同志アリベルトから、メーデーの檄文を期限どおりに各地へ送れという断固とした要求を受け取ったこと、残り時間が少ないので、私にそれを国境で受け取り、ロシアのどこか中心的な町から、次の住所あてに郵便で送るよう頼む、と言った。

  1. ニジニ・ノヴゴロド、K. V. ドリャフロフ気付ヴェトシニコフ
  2. ムーロム、トルツェフ工場、M. Ya. ヤコヴレフ
  3. エカテリンブルク、A. A. チェレパノフ、シベリア銀行の建物
  4. キエフ、A. アヴェリナ、ペルミノフ講習所
  5. ベーラヤ・ツェルコフ(?)
  6. エカテリノスラフ、A. ブリリン、タルノポリ兄弟商会
  7. ロストフ=ナ=ドヌー、N. マルシャク、ソグラーシヤ横丁6番地8号
  8. ドン第1管区ニコラエフスカヤ村、治安判事マヌイロフ
  9. チタ、S. フェドレンコ、ザバイカル鉄道集落、車掌車庫

こうしてその年、党の文献は、モスクワとペテルブルクのほかに、さらにロシアの9か所に届けられていた。ペルシアからロシアを通過して運ばれていたカフカースは数に入れずに、である。

事実上の運搬係になった私とアリベルトとの連絡を「速める」ために、彼は私にアリベルトの国外の住所と暗号も教えた。暗号に使われたのは、「世界文庫」第3版のハムスンの小冊子『飢え』だった。使い方はこうである。暗号文の初めに五つの見せかけの分数を置き、六つ目の分数の分子と分母の合計が、私が、あるいは私あてに暗号を組むのに使うページを示した。それからまた五つの見せかけの分数が続き、そのあとでようやく暗号が始まった。暗号は語を分けずに一続きの行で組んだ。分数の分子は行を、分母は行のなかの文字を示した。母音はくり返してはならなかった。この暗号は、挑発がなければ解読するのはほとんど不可能だった。

メーデーのビラを広める仕事では、ブリャンジンスキーは私に「白紙委任」を与え、ただ一つのこと、つまり期限どおりにそれを各地へ届けることだけを求めた。こうしてこの時点から、ブリャンジンスキーは名目上の指導と監督を保ちながら、事実上、仕事から身を引いた。

罪深いことだが、私は古い秘密活動の習慣から、自分の仕事の細部をすべて彼に打ち明ける気にはなれなかった。そのわけは、私がぼんやりと彼に感じはじめていた本能的な不信だった。それは何よりもまず、ブリャンジンスキーの暮らしぶりを観察するうちに生まれた。私は、ブリャンジンスキーがモスクワでも、グロドノでも、ドヴィンスクでも金に困っていないのを見ていた。だが私は、彼が「職業革命家」であり、党が当時、職業革命家の働き手に月40ルーブリしか出していなかったことを知っていた。ここには何かいかがわしいことがあるように思われた。私が気づいた第二の点は、ブリャンジンスキーが、最近帰ってきたばかりの国外へまた行こうとしていて、どうやって行くつもりかという私の問いに、知事が発行した旅券でまったく合法的に行く、と答えたことである。そして最後に第三に、あるとき、グロドノで家に帰ると、ブリャンジンスキーが私の住まいにいて、私の書類を、とくに机に置いてあった手帳をかきまわしていた。その最中に不意をつかれた彼は、どぎまぎしたようで、私を「点検」していたのだと説明した。これらの事実が全部重なって、心のなかに何か不信のぼんやりした沈殿を残した。だから私は、アリベルトと直接連絡がとれることをたいへん喜んだ。

まず私は、文献の中央倉庫を設けるのに都合のよい場所の選定と、自分の助手の問題に取り組んだ。真剣に考えたすえ、チェルニゴフ県ノヴォズイプコフ市に決めた。ここには、エカテリノスラフから追放された私のよい知り合い、マーニャ・チェンバレワが住んでいた。一方で、そこは辺鄙な片田舎で、労働運動はまったくなく、したがって警察の警戒もなかった。他方で、ノヴォズイプコフはちょうど、ゴメリとクリンツイという二つの大きな商業の中心の交差点にあり、そこから文献を郵便で送るのがたいへん便利だった。

ノヴォズイプコフに決めると、そこが文献の中央倉庫を組織するのにどれほど都合がよいかを現地で確かめるために、自分でそこへ行った。チェンバレワの婚約者という触れこみで行き、もちろん誰にも何の疑いも起こさなかった。町はたいへん都合がよいように思われた。

チェンバレワのつながりを通じて、彼女と私は3人の同志を見つけた。彼らの一人一人が、ほかの者のことは知らずに、自分のところに文献を保管することに同意した。私にとってとりわけ役に立ったのは、ノヴォズイプコフのある織物店の店員「ヴォロージャ」で、彼は勤め口の立場上、店の倉庫に文献を保管するまったくの機会をもっていた。ほかの二人は、遠い親類の一般の住民の家で、自分の持ち物の入ったかごという名目で、かごに入れて文献を保管した(娘の一人の場合、それは彼女が「点検する」のが好きな嫁入り道具だった)。こうして私はいつでも、ノヴォズイプコフの3か所に、何プードかの文献を集めておくことができた。それ以上は必要なかった。文献は倉庫に寝かせておくべきものではなく、その大部分は受け取るとすぐに各地へ送られたからである。

倉庫の問題を片づけると、郵便で送る組織について考えなければならなかった。これにも同じチェンバレワが手を貸してくれた。ゴメリで彼女は、警察庁がさまざまな場所からそこへ集めていた監視下の人々のグループとつながりをもっていた。私は彼らとつながりをつけ、ゴメリの人々から助手を集めることができるようになった。彼らを通じてクリンツイでも人を見つけた。ゴメリの流刑者たちの指示にしたがって、私は警察にまったく汚れていない、ゴメリとクリンツイの若者を2、3人選んだ。彼らが知っていたのはただ一つ、指示された住所の書かれた小包が持ちこまれたら、それを持って郵便局へ行き、その町のよく知られた住民の誰かの名で郵便に出さなければならない、ということだけだった。彼らの一人一人が知っていたのは一つの住所だけ、つまり一人はニジニへ送り、もう一人はキエフへ送る、というふうで、そのうえ、小包が摘発された場合、その人は警察にほかの情報を何も与えられなかった。知っていた住所は、どのみち、その人が小包とともに逮捕されれば摘発されるはずだった。一人一人が、自分が非合法文献を送っていることは知っていたが、それがどこから届けられるのかはまったく知らなかった。最悪の場合、その人に小包を渡した同志も逮捕の危険を冒しうるが、それを避けるために、小包を出すときには、発送者と面識のない見張り役が郵便局へ行き、小包が摘発された場合にはすぐにわれわれに知らせることになっていた。

小包はゴメリとクリンツイの秘密の住まいでつくった。文献はたいてい私が自分でノヴォズイプコフからそこへ運び、荷造りも自分で見守った。小包はこうしてつくった。さまざまな文献を10フント送り、そのまわりを、たばこの紙管用の空の木箱や空の平たい箱で囲むのである。そうすると、かなりかさはあるが重さの軽い小包ができた。手に持っても、なかに文献があるとはまず思われない。一つの小包の外見が別の小包に似ないようにも努めた。二つを同時に送ることは決してなかったが。そのうえ、町をたえず変え、個々の小包は「ついでに」、ゴメリとクリンツイのまわりの村で出した。

すでに言ったように、発送者の住所には、地元の「尊敬すべき」、よく知られた住民の名を使うようにしていた。覚えているが、ゴメリではとくに人気のある「発送者」は、どこかの大佐と、ロシア民衆同盟の議長だった。この名士たちからの小包を受けつける役人は、宛先を知ると、たいてい、ひどく愛想がよくなった。「ああ、誰それさんからですか、どうぞ!」

夏から秋にかけて、小包は規則正しく送られ、無事に宛先に届いた。ただ秋の初めに、モスクワの「自由主義的な」新聞『ルースコエ・スローヴォ』の電報欄で、エカテリンブルクで、彼の名あてにもう小包が送られていたときに、チェレパノフが人民銀行で逮捕されたことを読んだ。逮捕されたのはまだ小包を受け取る前だったが、この新聞の知らせは私をひどく不安にさせた。私は新聞のその箇所を切り抜いて、私がその監督のもとで直接働いている者として、ブリャンジンスキーに参考として送った。同じ情報を並行して国外の同志アリベルトにも送った。私自身が摘発された場合に、中央倉庫とのつながりを回復する道が失われるのを恐れて、私はブリャンジンスキーにチェンバレワの住所を教えた。私が逮捕された場合、彼女が、ブリャンジンスキーから送られた人を、ノヴォズイプコフの倉庫の実際の所在地とも、ブリャンジンスキーが何も知らないゴメリとクリンツイの配布の仕組み全体とも結びつけることになっていた。この秘密保持上の用心のおかげで、ブリャンジンスキーは、1911年10月15日に上記の報告書を保安部に出したとき、倉庫のはっきりした所在地を示すことも、普及の仕組みを明らかにすることもできなかった。彼は報告書で、私、ワレリヤン(私の古い党名)が文献を持ってノヴォズイプコフへ行き、そこでそれを郵便小包に荷造りし、クリンツイとゴメリの住民の助けでノヴォズイプコフ、クリンツイ、ゴメリの郵便局を通じて送っている、とあいまいに言っているだけである。ゴメリとクリンツイの住所も人物も一つも挙げることができず、ノヴォズイプコフでは、私の主な住まいで倉庫としてチェンバレワの住所を挙げただけだったが、それはまちがっていた。

ブリャンジンスキーによる運搬事業のこの比較的遅い裏切りは、のちにすっかり明らかになった考慮から出たものだった。春に同志アリベルトから、運搬の仕事がまずければブリャンジンスキーの組織者としての無能の証拠になると警告されて「お灸をすえられた」あとでは、彼はもう、働き手としての評判を危うくせずに運搬を摘発させることはできなかった。自分に疑いをかけられずに、そもそも働き手としての評判を「汚さず」に運搬を摘発させるには、アリベルトがそれを知り、自分で私と付きあうことを欠かせない条件として、運搬の事業を事実上すべて私に渡す必要があった。国境でもロシアでも、すべてのつながり、すべての受取人の住所などが私の手にあり、普及の仕組みも私が据えたものなら、運搬の組織全体の摘発は、ブリャンジンスキーを陰に置いておけるからである。この目的のために、彼は私にすべてを渡し、私をアリベルトと直接結びつけ、私に何か月か働かせたのである。どうやら、運搬については「事は決まった」、もう逃げられないと考えて、ブリャンジンスキーは夏のあいだに運搬のもう一つの面、つまり党活動家の国境越えに取り組もうとした。ここで彼はたしか7月から10月まで働き、やはり当面は摘発なしだった。私は、ここでも彼が大がかりな摘発を準備していたことを疑わない。だがその後の出来事が、こちらでもあちらでも彼の邪魔をしたのである……

私の述べたブリャンジンスキーの「報告書」から、モスクワ保安部は、ノヴォズイプコフでの「キリロフ」(私)と倉庫の住所を得た。だがそれはチェンバレワの住所にすぎなかった。ブリャンジンスキーはその名あてで私に手紙を書き、金を送っていたのである。ブリャンジンスキーのこの「まちがい」が、運搬ではなく、彼自身を破滅させた……事の次第はこうだった。

10月の終わりか11月の初めに、私はアリベルトから、次の荷が国境に着いたという知らせを受け、それを倉庫へ運んだ。大部分は倉庫に残し、一部を郵便での発送を始めるためにゴメリへ運んだ。ゴメリで2、3日足止めされた。そのあいだにノヴォズイプコフで出来事が起きた……

チェンバレワの名あてに、ブリャンジンスキーから送金が届いた。夕方前、文献の一部を保管していた同志の一人が彼女のところへ来て、私が出発のときに保管を頼んでいったロンドン大会の議事録4部を、一晩預かってほしいと頼む。彼女の住まいには非合法のものを何も置いてはならないという私の厳しい禁止にもかかわらず、彼女は同意する。そして夜、警察が「I. V. キリロフ」を捕まえにやって来る。キリロフはいなかったが、チェンバレワの家宅捜索で、上記の議事録と、ドヴィンスクのブリャンジンスキーの住所の書かれた送金の控えが見つかった(どうやらブリャンジンスキーは自分の「不可侵」をあまりに信じていて、いつも正しい住所を書いていたらしい)。チェンバレワは逮捕され、文献も送金の控えも押収された。住まいには、私を待つ待ち伏せが残された。

憲兵隊の到来、家宅捜索、チェンバレワの逮捕、彼女の住まいでの待ち伏せは、眠たげな町に大きな騒ぎを起こした。住民はそのことをひそひそ話しあい、物見高くその先を待っていた。好奇心の強い人々のほかに、のちにわかったように、私には共鳴者もいたのである。

何も疑わずに、この出来事から2日ほどして、私はノヴォズイプコフに着く。汽車を降りて駅を通り抜けるとき、自分が何かおずおずとした好奇心の中心になっていることに気づいた。駅にいた何人かの人がはっきりと私に注意を向け、何人かは私がどこへ行くかを見ようと駅から出てきさえした。それは私には奇妙に思われたが、まったく安全だと確信していたので、なぜかそれに「政治的」な意味を認めなかった……ただ本能的な用心から、大通りを避けて、横丁を通ってチェンバレワの家へ向かった。日が暮れかけていた……住まいの近くで、地元の技術学校の生徒の若者たちの一団に出くわした。駅と同じ、奇妙な驚いたような好奇の目……彼らから何歩も離れないうちに、一人が私に追いついてきた。「失礼ですが、どちらへ?」「家へ帰るんです」と私は驚いて答える。

「アリトシュレルの住まいへですか? あそこには待ち伏せがいて、あなたを待っていますよ」

これは大変だ! しかもポケットには10コペイカ玉が一枚、これでは逃げる金もない。そのあいだに残りの若者たちも私たちのところへ来た。若く、興奮した、同情に満ちた顔を見て、私は彼らにまっすぐ、もちろんあそこへは行けないが、金がないので今すぐ逃げることはできない、それに汽車もしばらくない、と言った。

「じゃあ、ぼくらが助けますよ!」と若者たちは答えた。「ぼくらの住まいへ行きましょう。今、通りを歩いてはいけません。あなたを知っている人が大勢いますから」

若者たちに囲まれ、一人と帽子を交換して、私は彼らの誰かの住まいへ向かった。そこで食べさせてもらい、飲ませてもらい、皆で出しあって3ルーブリ集めてくれた。そして朝4時ごろ、ゴメリ行きの貨物列車が出るとき、私はひげをそり、技術学校の生徒の制服を着て、陽気な技術学校生の一団と一緒に駅へ向かった。皆でホームに出て、私は無事に汽車に乗った。この若者たちが誰だったのか、どうして私を知っていたのか、今もわからない。だが彼らが私を救ってくれたのである……

出発の前に、警察をまごつかせるために、そして一部は、助かったうれしさから「いたずら」をしたい気持ちから、私はチェンバレワに手紙を書いた。「商用で」ノヴォズイプコフを、途中で彼女のところに寄らずに通らなければならない、長いあいだ行ってくるので、モスクワから手紙を書く、というのである。この手紙は私の出発後、技術学校生の一人によって駅のポストに入れられ、「無事に」「宛先に」届いて、警察の手に落ちた。のちにチェンバレワが話してくれたところでは、私の手紙は当局によって「しかるべく」評価された。彼女を尋問した検事補はそれを彼女に読んで聞かせ、こう言った。「なるほど、あなたの『婚約者』は今のところわれわれの裏をかいた。ここに来ていたのに逃げおおせ、そのうえからかっている!……まあ、今日でなければ明日には捕まる。彼の姓はわかっているんだ、ザレジスキーだ」

ゴメリに着くと、私はI. V. キリロフの旅券を「洗い」、ウラジーミル・ニコラエヴィチ・ボリソフ名義の旅券に仕立てなおして、それでゴメリに住みついた。ノヴォズイプコフに残してきた倉庫の運命を確かめないうちは、さらに遠くへ逃げる権利は自分にはないと考えた。ごく短いあいだに、助手たちを通じて、倉庫は無事だが、何かの送金が憲兵の手に落ちたことを確かめた。送金が押収されたことで、私はブリャンジンスキーの運命をひどく心配した。送金が彼からのものであることを疑わなかったからである。

ブリャンジンスキーに危険を知らせる取り決めた電報を打ち、すぐにアリベルトに手紙を書いた。ノヴォズイプコフで偶然の摘発があった、文献は無事だが、どうやらブリャンジンスキーの住所が保安部員の手に落ちたらしい、と。アリベルトから手紙を受け取ったときの私の驚きはどれほどだったことか。彼の知らせでは、ブリャンジンスキーはノヴォズイプコフで彼の住所が摘発されたことに関連してドヴィンスクで逮捕されたが、ほんの数日入っていただけで釈放され、ロシアで任された仕事(どうやらボローニャの党学校の受講生を国境越えさせる仕事)を勝手に放り出して、国外へ去ったというのである。「これはすべて」と同志アリベルトは書いていた。「われわれにまことに気の滅入る印象を与えた。ブリャンジンスキーの過去についてあなたが知っていることを、すべて知らせてほしい。ブリャンジンスキーの知っている古い郵便の住所は、もちろん無効だ。新しいのを送る」

このブリャンジンスキーの偶然の逮捕で、暴かれた保安部員としての彼の「経歴」は終わった。だが当時ブリャンジンスキーはまだそうとは疑っておらず、どうやら自分の逮捕を私の摘発と結びつけてはいなかった。それは、彼が警察庁長官ベレツキーにあてた報告からわかる。そこで彼は、偶然逮捕され、そのあと技術グループの代表として党協議会にもぐりこもうとして、パリへ「急いだ」と書いている。だがそれはうまくいかなかった。こうして、1911年のブリャンジンスキーの仕事全体は、党に何の害も与えなかった。この男は「策を弄しすぎて」、自分の張った網に自分でかかったのである。

まもなく私は、ノヴォズイプコフの倉庫から文献をすべて運び出し(チェンバレワのところの議事録4部が失われただけだった)、ゴメリに倉庫をつくり、もう一度国外から文献の荷を受け取って、新しい住所へ送り出すことができた。運搬係としての私の活動は、運搬の事業が新しい基礎の上に組織しなおされ、私がこの仕事から解かれるまで、さらに2か月ほど続いた。

V. N. ザレジスキー(「ワレリヤン」)

訳注(ザレジスキー)

  1. 「アリベルト」はO. A. ピャトニツキー。ソコロフの南部ビューロー章の原注に見える「ピャートニツァ(金曜日)」と同一人物。
  2. 「ブリャンジンスキー」(Бряндинский)は1911年に暴かれた保安部の密偵。「ベレツキー」はS. P. ベレツキー、1912〜14年の警察庁長官。
  3. 「ボローニャの党学校」は、1910〜11年にイタリアのボローニャで「フペリョード」派が開いた党学校。
  4. 「ロシア民衆同盟」は黒百人組の代表的な団体。そこの議長の名を「発送者」に使ったのは皮肉な秘密保持の手だて。
  5. ノヴォズイプコフで技術学校生が「アリトシュレルの住まい」と言っているのは、チェンバレワが間借りしていた家の持ち主の名と思われる(原文に説明はない)。
  6. 末尾の署名は原文で「В. П. Залежский」と読めるが、目次の表記に合わせてV. N. とした。
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