1 「労働解放」団
1896年、「労働解放」団との連絡を整えるためにモスクワの社会民主主義組織から派遣されて国外へ行ったとき、私は、未来のわが社会民主党の国外での最初の細胞であったこの団の技術が、かなり沈滞した状態にあるのを見た。ジュネーヴでは同志ブリュメンフェリドの指導のもとで、「労働解放」団の印刷所が働いていた。この印刷所は、実のところ植字だけの、非合法の在外ロシア人の印刷所としてはかなりよく整っていたが、資金がないため生産は少なかった。運搬の仕事のほうはほとんどなかった。たまに出るパンフレットや小冊子は国外の書店で扱われ、ロシア人の集会や講演会で売られていたが、ロシアへの送りこみは整っておらず、本はときおり機会があるときにしか送られなかった。それはロシアでひどく感じられていた。プレハーノフの著作、雑誌『ソツィアル=デモクラート』、そのほかの「労働解放」団の出版物は、この時期、国境の向こう(ロシア)ではきわめてまれにしか見られず、まさに書誌学上の稀覯本だったのである。
私はモスクワの同志たちから、団の本をロシアへ届けるためにあらゆる手を尽くすよう頼まれていたので、まもなく、生まれたばかりのラトヴィア人の組織の代表と連絡をとった。彼らとはモスクワにいたころからつながりがあった。チューリヒのラトヴィア人社会民主主義組織の代表である同志ロラウは、計画した仕事にこのうえなく親身になってくれ、ドイツに住むラトヴィア人の同志の助けを得て、われわれは何度か文献の荷をモスクワ、ペテルブルク、サラトフ、ニジニに送ることができた。文献に続いて印刷機も送られた。だがまもなく、この軌道に乗りかけた仕事はやめなければならなかった。1896年のモスクワ社会民主党事件で、労働者クヴァルツェフが私のことを洗いざらい白状し、保安部と憲兵が国外の手先を通じて私をとりわけ厳しく見張りはじめたからである。そして、モスクワでの摘発と自白のために、ロシア国内の荷の経路も保安警察に断ち切られた。
その後の2年間、われわれのチューリヒ・グループは、あれこれの機会を利用して、ときおりロシアへ文献を届けるしかなかった。
ちなみに、一時、アルメニアの組織「ダシナクツチュン」のジュネーヴ・グループを通じて、カフカースへの荷がすばらしくうまく流れたことがある。そのメンバーは極端な民族主義者で、心理のうえではまったく人民の意志派の組織に近かったが、彼らの雑誌の編集部にいた、『共産党宣言』やマルクスとエンゲルスのほかの著作のアルメニア語訳を誇りにしている、たいへん教養のある一人の同志のおかげで、われわれはダシナクを説き伏せて、われわれの文献をティフリスへ送らせることができた。文献はコンスタンティノープル経由で、指定した住所に無事に届けられた。
2 『ラボーチェエ・デーロ』と社会民主党内の最初の分裂
この数年のあいだに、国外では『ラボーチェエ・デーロ(労働者の事業)』のグループが生まれた。このグループは初め、「労働解放」団の文献を喜んで運び、団の編集三人組(プレハーノフ、アクセリロード、ザスーリチ)が望むものは何でも自分たちの印刷所で出版し印刷する権利を団に与えた。まもなく、ブンドの在外組織、リトアニア人の組織、ラトヴィア人の組織も現れ、国外の出版の仕事は大いに活気づき、それとともに社会民主主義の文献のロシアへの運搬も活気づいた。それは大きな波だった。人々は熱意をもって、献身的に働いた。だが……まもなく「労働解放」団と『ラボーチェエ・デーロ』のあいだに深い原則上の意見の違いが始まり、その違いはただちに組織上の関係にも反映し、正統派のマルクス主義者はまた少数派になって、「同盟」のことは忘れ、自分たちだけで働きはじめなければならなかった。「労働解放」団の印刷所はふたたび動き出し、G. V. プレハーノフの有名なパンフレット『ラボーチェエ・デーロのための手引き(ヴァデメクム)』を世に出した。これがたちまち在外ロシア社会民主主義者の全体を二つに分けた。このころには、「労働解放」団への協力グループがいたるところで増え、強くなっていた。アキーモフ(マフノヴェツ)、今は白衛派として銃殺されたチフヴィンスキー、のちにブンドに加わったシオニストのスイルキンとライネス、ブンド派のダヴィドソンとカツェネレンソン、とうに亡くなったイワンシンを先頭とするラボーチェエ・デーロ派の代表たちの狂ったような憤激にもかかわらず、また、「労働解放」団のもとにある組織の働き手全員に対するこれら政治的ヒステリー連中のあからさまなボイコットにもかかわらず、それでも団の文献を増やし、広めることができた。
こうして、国外に『イスクラ』の組織が現れるまで、正統派マルクス主義の闘争と宣伝が続いた。
3 『イスクラ』
この最初の社会民主主義の政治新聞の第1号は、秘密のうちに出た。私はG. V. プレハーノフから、この組織の仕事の始まりを知り、彼がミュンヘンへ行くための本物のロシアの旅券を手に入れる手伝いをすることになった。私はちょうどそのころ、帝政政府にロシアから追放されたドゥホボール教徒の移送団の一つをカナダへ送り届けて戻ったところだった。ジュネーヴの私のところに、カナダで一緒に働いたよい友人A. N. コンシンがやって来た。私は彼に、ドイツへの非合法の旅のために3週間ほど旅券を貸してほしいと頼んだ。プレハーノフは私のところでコンシンと知りあい、彼の父がセルプホフに設立した有名なコンシン織物工場の組織の歴史について、あらゆる細部まで飽きることなくたずね、彼の父の経歴などに興味を示した。この新しい知人の旅券で、本人に知らせずに、プレハーノフは『ザリャー』と『イスクラ』の編集会議のためにミュンヘンへ行ったのである。3週間後、彼は始まった新しい事業にすっかり感激して帰ってきた。まもなくわれわれは新聞を受け取り、A. N. コンシンに二重底の大きなトランクをつくってやり、そこに『イスクラ』と「労働解放」団の文献を詰めてモスクワへ送り出した。もちろんコンシン自身も十分に文献を持たされた。この思いがけない荷は、『イスクラ』の第1号を持ってロシアへ向かった、ほとんど最初の荷だった。国外では『イスクラ』は初め、まったく秘密保持上の理由からあまり広められず、一部一部が、ロシアでの非合法出版物と同じくらい秘密めかして、まれに手から手へと渡っていた。
だが少しずつ、国外でもその普及は広がっていった。経済的な理由もそれを促した。資金が必要だったからである。そして、このころにはロシア人の居留地がたいへん大きくなっていたので、新聞の売れ行きは活発で、出版の金庫に一定の収入をもたらした。
4 たまたまの共鳴者を通じた社会民主主義文献の普及
われわれはこのころ、非合法のものを何か一つでもロシアへ送りこめるなら、どんな機会でも利用した。ロシア人の居留地で、大学で、講義で、下宿で、たまたま来ていたロシア人と知りあうと、機会がありしだい一人一人に文献を持たせた。とくに若者がこれにこたえてくれた。そしてしばしば、着飾った母親たちと取りすました父親たちは、自分たちのりっぱなトランクや英国製の革の長持に、壁のなかに、底に、品物のなかに、下着のなかに仕込まれた非合法文献の層をまるごと運んでいるとは、夢にも思っていなかった。子どもたちの好意ある協力を得て、父親や母親の服に文献を縫いこんだこともあり、文献はこうしてロシアに届き、当時の社会のあらゆる層に広まった。滑稽なこともたくさんあった。覚えているが、ティフリスのそういう信心深い一家が、文献を詰めこまれて、二組に分かれてロシアへ向かった。
子どもたち、ギムナジウムの男子生徒と女子生徒は、秋の学期の始まりに間に合うよう急いで先に発った。身分の高い母親はおじやおばたちと一緒に、女物のこまごました品を買うためにウィーンに立ち寄ることにした。われわれは用心して、荷物のどこにも文献がぎっしり詰まっているとはまったく知らない「両親」に文献を詰めこんだ。「子どもたち」には何も持たないよう頼んでおいたのだが、男子生徒はがまんできずに、上着の下の背中にパンフレットを何冊か縫いこんだ。旅のあいだに、上着の下のパンフレットの縁が擦れて汚れ、はっきり浮き出てきたが、残念ながら彼がそれを知ったのはあとになってからだった。ポドヴォロチスクで「子どもたち」は無事に国境を越え、何か非合法のものを運んだという誇らしい気持ちを胸にした有頂天の若者は、がまんできずに、ギムナジウムの外套を脱いで、ピロシキを買いに食堂へ駆けていった。車両へ戻る途中、誰かの私服の手が彼を呼びとめ、ついてくるよう促した。陛下のスパイである。若者はたずねられた。
「背中のそれは何だね?」
「何でもありません……」
「何でもない?」と、誰かが本のあるところを乱暴にさわりはじめた。
「調べろ……」
「服を脱ぎなさい……」
上着の下に、布切れで大事に縫いこまれた2冊の小冊子が見つかった。
「誰がこんなことをしたんだ?……」
「妹です……」
妹と荷物が引きずってこられた……捜索が行われた。子どもたちはおびえて泣き出した。
妹のところから、友だちにまだ送っていない手紙が見つかった。そこには、ジュネーヴで「政治犯」と知りあった、彼らはとてもおもしろく、ものすごくよくしゃべり、喜んで散歩をする、と夢中になって書かれていた。手紙があまりに無邪気に書かれていたので、3年ほどのち、もう革命の用事で兄と一緒にジュネーヴに来たとき彼女自身が私に話したところでは、憲兵やスパイたちは、ジュネーヴでの「とってもおもしろい暮らし」の描写に腹をかかえて笑ったという。
「この子たちをどうしたもんかね?」と国境の番人たちは互いに相談した。それでも調書をつくり、二人を足止めした。生徒たちはすっかり絶望していた。
問いただしてみて、憲兵たちは、子どもたちの立派な両親があとから来て、今ウィーンにいることを知った。そこで生徒たちに、ウィーンで両親が泊まるはずのホテルに電報を打つよう勧めた。二人は、自分たちの手助けで母親やおばやおじに非合法文献が詰めこまれていることなどすっかり忘れて、すぐに同意し、電報を打った。おびえた両親と親類はすぐにやって来た。事情を知ると、自分たちをこんなに危うくした息子と娘をひどく嘆き、憲兵大佐にわびを言い、ティフリス県知事からの信任状や推薦状を見せ、子どもたちに人前で千回もお説教をし、こんな「けがらわしいもの」は二度と読まないと若者たちに誓わせた。そして憲兵たちは寛大にも、生徒たちを両親の保証のもとに引き渡し、先へ進むことを許した。
「車両に乗りこむときになって、助かってほっとした私は」と、この若い「犯罪者」はのちに私に話した。「ふと思い出したんです。両親や親類の荷物は非合法のものでいっぱいなんだって。驚いたせいで、初めはそれをすっかり忘れていたんです。兄を見ると、兄も思い出したのがわかって、私は凍りつきました。気が遠くなりそうでした。またすぐみんな逮捕されると思ったんです。でも汽車は動き出し、誰も私たちのところへ来ませんでした。道中ずっと気が休まらず、旅が果てしなく思えました。でもとうとうティフリスに着きました。私たちはすきを見て文献をほどきました。山のようにありました。私たちはそれをあちこちに隠し、知り合いを通じて急いで広めはじめました。なぜか、とにかく全部できるだけ早くしなければならないと感じていたんです。いろいろな非合法のものが思いがけずたくさん現れたので、町では大騒ぎになりました。両親が国境での私たちの冒険を、客に外国旅行の思い出を話すときのいちばんおもしろい笑い話にしてしまったにもかかわらず、私たちは英雄になった気でいました。気の毒な両親は、ほかならぬ自分たちがその文献を全部運んできたとは夢にも思っていなかったんです。兄と私はこの出来事にすっかり影響されて、考えこむようになり、たくさん読み、ギムナジウムでサークルをつくりました。そうして事が先へ進んで、今では……私たちは社会民主主義の組織にいるんです」
もう一つたいへん特徴的な例は、ブルガリア軍の将校で、今はわれわれの同志であるクルテフの場合である。彼は勉強のためにジュネーヴに派遣されていて、そこでわれわれに説得された。そして将校の制服を利用して、大きな危険を冒しながら、何度か大量のわれわれの文献をトランクに入れてロシアへ運んだ。文献を自分の制服で覆い、ロシア軍での勤務のための公式の派遣命令を見せたのである。文献を彼はきちんとわれわれの住所へ届けた。
こうしてまったくあらゆる機会を利用して、われわれは考えつけるあらゆる方法で、非合法出版物をロシアへ押しこんでいった。
もちろん、広大なロシアにとってこれでは少なかった。もちろん、文献はいつもわれわれにとっていちばん望ましい人々、つまり労働者のところへ届いたわけではない。だが、全般的な政治的抑圧がきわめて厳しかった当時、われわれは非合法のもの一部一部が社会のあらゆる層に入りこむことを有益だと考えていた。そして、労働者階級からずっと遠いところにいる人に託してロシアへ送った文献でさえ、結局はその大部分が、社会民主主義組織を通じてまさに労働者のあいだに落ち着くことを、一度ならず確かめることができた。ロシアに住むわれわれの同志たちは眠ってはおらず、もちろん、骨の折れる仕事に必要なものは何でもいたるところで拾いあげていたからである。ときには、文献を持っていった人の住所を組織に知らせることができ、組織の者がわざわざその人と知りあうか、つてを見つけて、運ばれたものを受け取った。ときには、出発する人が文献を住所に届ける義務を引き受け、その義務をまったく正直に果たしてくれた。
5 ブンド、ポーランド社会党、保養地、書店を通じたわれわれの文献の普及
このころ国外では、ブンドが文献の運搬でよく働いていた。とくに、その有名なブラシ職人組合を通じてである。だがブンドは『イスクラ』や「労働解放」団のいくつかの出版物にきわめて否定的な態度をとっていて、もちろんそれらを1部もロシアへ運ばず、自分たちが共感するものだけを選び、それもいいかげんに運んでいた。19世紀の終わりには、ポーランド社会党(ППС)がわれわれの文献をいくらかロシアへ運んでいたが、その後関係はますますぎくしゃくし、とうとうすっかり切れてしまった。
われわれの文献や、われわれにとって受け入れられるほかの政治グループの非合法出版物をかなり広く普及させることを、われわれはこの時期もその後も、次のようにして実現した。われわれの協力グループは、スイス、ドイツ、フランスのさまざまな保養地に住む同志を見つけ出し、彼らに目録を送り、彼らはあらゆる手を尽くしてそれをロシアから来た人々のあいだに広めなければならなかった。いちばん簡単だったのは、保養地が(ほとんどどこでもそうだったが)、下宿や旅館やホテルに泊まったすべての人の名簿を特別な保養地新聞に載せているところだった。その名簿にはいつも、新しく来た人がどの国から来たかが記されていた。その人にはすぐに郵便で目録が送られた。好奇心の強いロシア人たちは、そういう新聞があることさえ知らないことが多く、革命家たちの情報通ぶりに、つまり着いたばかりなのにもう「彼ら」に知られていて、すぐさま目録をどうぞときた、とひどく驚いた。だが非合法出版物は、検閲なしに国外の自由な印刷機で印刷されていたので、それ自体で人気があった。だから誰もが、ロシアから来た自分たちが……ロシアについての新しいことを手に入れ、知りたがった。そして彼らは売店や書店へ足を運び、本を求めた。客に敏感な国外の書店主たちは、目録に記された住所にしたがってロシア人の組織にすぐ問い合わせた。もちろん彼らには委託販売で文献がたっぷり送られ、こうして自由なロシアの本や新聞の普及は増えていった。いくつかの出版物は国外でたいへん大量に売れた。どうやら記録を破ったのは、L. N. トルストイの長編小説『復活』の非合法の完全版で、『スヴォボードノエ・スローヴォ(自由な言葉)』(イギリス)の版だけで1年間に3万5000部が売れた。この長編のロシアでの版は検閲によってひどくゆがめられ、478か所で改変されていたのである。
6 『イスクラ』の運搬
『イスクラ』の存在の初期の時期に、その組織の運搬の仕事がどうだったかは、私はあまりよく知らない。だが覚えているのは、のちにウラジーミル・イリイチが、非合法文献をロシアへ運ぶいつも数多い計画に対して、たいへん慎重に、たいへん懐疑的に接し、少しでも空想の要素が見つかるとどれも退けていたことである。そういうとき彼はよく、「『われわれ』にはこの仕事でかなりの経験がある。ニシン樽の底や、機械の管や、針金の巻きのなかに文献を入れて運ぶという計画を『ごちそう』されてきたが、こういうたわごとはいつも完全な失敗に終わった」と言っていた。「簡単なほどいい」。彼はわれわれの組織のこの痛い問題を解決する何千もの計画に対する自分の態度を、ふつうそう言いあらわした。
7 社会民主主義組織「ジーズニ」とその運搬
1902年、私は国外の社会民主主義雑誌『ジーズニ(生活)』の組織と、このかなり大きな、よく整った組織が出版する一連の本、パンフレット、ビラの出版に加わることになった。「ジーズニ」はパリに、一度に15人までの植字工が組める、よく設備の整った印刷所を組織した。
政治警察がひどくわれわれを悩ますようになったので、まもなくパリから去らなければならなかった。われわれはロンドンへ移った。もちろん、編集部と技術の組織と同時に、すぐにロシアへの文献の運搬の組織にも心を配りはじめた。何としてもそれをうまく据えようと決めた。運搬グループの先頭に立ったのは、ロシアの非合法活動の記録全体のなかでも私がこれに並ぶ者を知らない天才的な運搬係、ラトヴィア人の社会民主主義組織のメンバーで、社会民主主義組織「ジーズニ」でのわれわれの同志、ラトヴィア人の同志ヴェスマンだった。彼が今どこにいて、どうしているのか、私は知らない。もう20年近く彼について何の知らせもないからである。だが当時は、彼の仕事、彼のまったく例外的な組織の才能に、ただ驚き、見とれるほかなかった。その才能はいつも、彼が率いる運搬グループの、このうえなく厳しい、峻厳な規律に支えられていた。
運搬グループの最初の会議でわれわれはまず、雑誌『ジーズニ』とわれわれの組織のほかの出版物だけでなく、ロシアで普及させる必要があると考えるあらゆる出版物、とりわけ『イスクラ』とその出版物を真っ先に、ロシアへ運ぶことを決めた。パリで開かれたこの会議で、私と、当時社会民主主義組織「ジーズニ」に加わっていた故D. A. ヒルコフ(彼はのちにエスエルに夢中になった)は、国外に、とくにルーマニアとブルガリアに住む宗教的分離派(セクタント)の組織を利用して、彼らを通じてロシアへの大規模な運搬を据えることを初めて提案した。彼らとのたえまない文通や口頭のつきあいから、彼らが革命闘争の事業一般、とりわけ国外の非合法出版物の普及の事業に示している大きな共感を、われわれはよく知っていた。
われわれの提案は受け入れられた。自身農民出身の同志ヴェスマンは、すぐさまこれに敏感に反応し、自分ですぐにそこへ行って土地と人々を調べる、と言った。そして、ここでこのきわめて責任の重い仕事に新しい道が開けると思う、と言った。運ぶものが何であれ、もっと金を払ってくれさえすればいいという、しばしば引き受けた義務にひどく不誠実な職業的密輸業者ではなく、思想をもち、正直で、献身的な人々、もうけのためではなくロシアの政治的自由のための闘争を目的として働く人々が運搬を引き受けるのだから、もし彼らが本当に同意するなら、それはすばらしいことになるだろうと、前もって言えるのは明らかだ、と。その場で全員が、こうしてきわめて責任ある組織、ロシアの帝政政府の迫害によって思想ゆえに苦しんだ農民自身が築く組織ができることを指摘し、強調した。
そのほかに、ラトヴィア社会民主党のすでにあった運搬組織を利用することを決め、そのためにラトヴィア党の中央委員会と交渉し、ブルガリア、トルコ、ドイツ、イタリア、フランス、ベルギー、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、とりわけイギリスの港のロシア人とラトヴィア人の水夫のあいだに組織をつくって、海路による新しい運搬を整えることにした。
同志の一人には、ヨーロッパのさまざまな地点に非合法文献の倉庫を組織し、文献をロシアへの直接の送り先の近く、運搬係の近くへ寄せることが任された。そのさい、ロシアのスパイの注意を、またいくつかの国(たとえばプロイセン、ルーマニア、トルコ、ブルガリア)では、ロシアのスパイと地元のスパイとのあいだに疑いなく接触があったので、地元の政治警察の注意をも、非合法文献の集積地に引かないよう、発送と輸送にあらゆる用心をすることになった。文献はかなりの量をまとめて送る予定で、しばしばその国の辺鄙な場所、ロシア国境近くのどこかの村や小さな町や農場を使わなければならなかったので、そういう文献の集積が容易なことでないのは言うまでもなかった。そういう場所では、さまざまな国から一人あての郵便小包が大量に現れるだけでなく、外国人ふうの新しい人間が現れただけでも、すぐに地元の住民の好奇心をそそり、噂や話を生み、スパイの注意を引いたからである。鉄道で梱を送る場合も同じだったし、われわれに必要な土地がすべて鉄道沿いにあるわけでもなかった。
そのうえわれわれは、ロシア人のほとんど住んでいないロンドンの辺鄙な地区(London, S. E., 35, Blythe Vale, Catford)にあった社会民主主義組織「ジーズニ」の印刷所、編集部、発送部も、ロシアのスパイが厳しく見張り、郵便局や鉄道などへのわれわれの発送をすべてつけまわすようになることを、よく承知していた。もちろんいちばん簡単だったのは、大都市、つまりロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、ブダペストのさまざまな地区、ブリュッセル、リエージュ、マルセイユ、アムステルダム、のちにはストックホルムとクリスチャニア、さらにジュネーヴ、チューリヒ、ベルン、ローザンヌ、ジェノヴァ、ミラノ、ナポリ、ソフィアに文献の倉庫を組織することだった。ここではどこでも地元の社会主義者の共感を得られ、ある国の政治組織から別の国の組織への推薦をもらうことも多かった。またロシアからの労働者の経済移民のあいだの広いつながりも利用した。
われわれの運搬組織から派遣されたメンバーを通じて、倉庫のさまざまな候補地を正確に調べ、われわれの代理人を通じて、また手紙で、地元のつながりを整えているあいだに、同志ヴェスマンは、分離派の組織を通じた新しい道を調べるためにルーマニアへ向かった。彼はコンスタンツァ近辺、ドナウ沿い、そして隣接する農場や村々を調べなければならなかった。そこから戻ってくると、いつも控えめで、陰気でさえあり、無口で、めったに言葉をもらさない彼が、大いに意気ごみ、興奮して、分離派のシトゥンダ派、去勢派(スコープツイ)、モロカン派、そして帝政ロシア政府の信じがたい抑圧と迫害に押されてとうにロシアから移り住んでいた古儀式派のネクラーソフ派の人々に、どれほど温かく迎えられたかを詳しく話してくれた。私とD. A. ヒルコフの手紙を持ってそこへ行った彼は、多くの人が彼を熱心に待っているのを見た。私とヒルコフが前もってそこへ手紙を書き、われわれの手紙を持った「大事な客」が行くので、あらゆる手で助け、全面的に信頼し協力してほしいと、分離派の人々に知らせる手紙を郵便で送っておいたからである。同志ヴェスマンは親友のように迎えられた。彼は、これらロシアから追われた農民たちが自分たちの農場を見せてくれ、彼が何時間も彼らと一緒に牛や馬を調べ、家畜小屋や家の建物や穀物乾燥小屋や物置を歩きまわると、彼らがどんなに大喜びしたかを詳しく話してくれた。
分離派の人々は彼を結婚式に引っぱっていき、友人のところを一緒にまわった。こうして彼はたちまち、この感じのよい人々の暮らしと家庭の習慣のなかにすっかり入りこんだ。まもなく彼は長老たちに来訪の目的を知らせ、できるだけたくさんの文献をロシアへ運ばなければならないと説明し、その場で持ってきた本のいくつかを見せた。彼らはそれに飛びつき、読ませてくれと頼み、翌日にはこの「小さな本」の話でもちきりだった。分離派の人々はヴェスマンに、国境の向こう側への文献の移送の組織を喜んで引き受けると言い、ヴェスマンがそれがどこでどのように行われるのかを知りたがると、すぐに「ロシアへちょっと行ってみる」ことを勧めた。移送はたいてい、漁師の舟でドナウを越えて行われた。漁師たちは水路や葦原や入り江のいちばん秘密の通り道をすべて知っていて、まるで自分の家へ行くように向こう側へ渡っていた。ヴェスマンは見たものすべてに大喜びで、帰ってくると、初めて密輸業者が金のためでも恐怖からでもなく、良心にかけて文献を運ぶことになる、と言った。われわれの仲間から、まったくふさわしい人間を見つけなければならなかった。向こう側、ロシアのほうから文献を迎え、これらの素朴なロシアの人々と、彼だけが付きあうような人間である。彼らの危険な仕事に、われわれはごく控えめな報酬しか払っていなかった。われわれの選択は、われわれのグループに属し、それ以前にジュネーヴで私の宣伝サークルに加わっていた同志イワン・イワーノヴィチ・セルゲーエフに落ちた。彼は出身は農民で、分離派のモロカン派、ティフリスの師範学校で学んでいたが何かの学生騒ぎで退学になり、反抗的な気分でジュネーヴに勉強しに来ていた。ここで彼は社会民主主義者になった。分離派の人々と付きあうのにいちばんふさわしい者として、われわれは彼を非合法の身で送り出し、ロシアで文献を受け取り配達する人々の組織をまるごとつくった。分離派を通じたわれわれの最初の荷は、48プードのさまざまな非合法文献で、無事にロシアを通って中央の倉庫へ運ばれ、そこから文献はいたるところへ広められた。のちに私は国外でもロシアでも、多くの左派の文筆家に会ったが、彼らは、「ジーズニ」の出版物を、雑誌そのものも含めて、ロシアのさまざまな土地から帯封の郵便できちんと受け取っていたと話して、ひどく驚いていた。それはわれわれの「事務所」の働きだった。L. N. トルストイには、雑誌がクリミアの家まで(たしか彼は当時ガスプラに住んでいた)使いの者によって受領書と引き換えに届けられ、その受領書はロンドンのわれわれの編集部に送られてきた。こうして何回かの荷がすばらしくうまく通った。あるとき、一艘の舟に向かってロシア側の歩哨が発砲し、追いかけてきた。舟がかなり人目につかない場所でほとんど無事に荷を降ろし終えたときのことである。手際のよい漁師たちは、警備兵の注意を荷揚げの場所からそらすために、ひどくおびえたふりをして逃げ出し、警備兵の目の前で、それぞれ2プードほどの箱を二つ水に投げこんで、追跡と捜索を止めた。彼らはこの思いがけない損失にひどく落胆し、何度もわびて、そうしなければ倉庫がまるごとだめになっていただろうと詳しく説明した(原注)。漁師=密輸業者の驚くべき忍耐強さと、ドナウを越えて文献を移送する分離派の責任者たちの機転とをはっきり示す例は、ほかにもあった。あるとき、ロシア国境で思いがけない巡回が葦のなかの舟を見つけて警報を鳴らし、何発か撃ってきて、もう逃げられないことがはっきりしたとき、漁師たちはすばやく開けた場所へ漕ぎ出し、前もって用意しておいた縄で梱を舷から水中に沈め、ロシアの警備兵にけげんそうに叫んでたずねた。
(原注)のちにこの箱の一つが波でルーマニア側に打ちあげられ、ルーマニアの憲兵の手に落ちて、この見つけ物をどう考えたらよいかわからないルーマニア当局を騒がせた。汽船から落ちたのだろうと推測されたが、誰も漁師を疑わなかった。
「どうしたんです?」
問いの声が上がった。
「何を運んでいる?」
「空っぽですよ」と漁師たちは答えた。「魚をとってるんです」
「いったいどこまで流されてきたんだ?」
「流されて、気づかなかったんで……」そして漁師たちは、急いで沈めた網をこれ見よがしに引きあげた……
「流されてだと……とっとと失せろ……撃つぞ……」
そして漁師たちは、落ち着いた巡回の目の前で、濡れてはいたが貴重な荷を持って対岸へ引き返した。新しい梱を積んで、今度はいちばん安全になったまさにこの場所で、同じように粘り強く運を試すためである。
ロシア側の受け取り手たちは、近くの茂みの闇のなかにひそんで、舟がここ岸辺にいて荷を受け取らなければならないことを知らせる、取り決めたフクロウの鳴き声をじっと待っていた……
こうして、たえざる危険のなかで、国境の両側でわれわれの若い運搬グループの仕事が進んでいった。
命令が文句なく実行される集中化された権力、革命の仕事のこのうえなく厳しい規律、敵の行動のたえざる偵察、目的を達するための粘り強さ、機転と冷静さ。これらが、この種の仕事の成功にいつもつきそう道づれである。
ここで、一つのたいへん特徴的な出来事を話そう。われわれは、およそ60プードのさまざまな文献を、まったく無事にドナウを越えて移送し、ロシア国境から最寄りの倉庫へ運び、二つの組に分けて、一つを近くの小さな町へ、もう一つを村へ届け、その先の運搬手段も準備することができた。あとは、取り決めた電報で、われわれのグループがさまざまな道を通って予定の地点へ向かい、さまざまな経路で、さまざまな時間に、さまざまな用心と方法で、このかなりの量の荷を一度にさまざまな方向へ運び出すよう知らせるだけだった。ついに合図が出され、電報が送られ、われわれの文献の引き渡し係たちは同志の到着を待ちわびていた。そして、彼ら全員がもう目的地に近づいていたとき、近くのわれわれの拠点の一つからこの作戦全体を鋭く見守っていたヴェスマンは、取り決めた暗号の言葉で緊急の電報を受け取った。文献の通り道にあるわれわれの秘密の住まいの一つが思いがけず摘発された、憲兵が本を必死に探していた、尾行が見られる、というのである。ヴェスマンは、あらゆる事情を考えに入れて、ただちに同志セルゲーエフに電報を打った。セルゲーエフは、グループ全体が通過してその先のヤフカを受け取るはずの地点にいた。電報は、作戦全体を中止し、向かっている者を全員「家へ」帰し、セルゲーエフ自身はすぐにロンドンへ来るように、というものだった。セルゲーエフは電報にしたがって、あらゆる指示を出したうえで、荷物も書類も持たずに非合法で国境を越えなければならなかった。私はそのころロンドンにいて、厳しく峻厳だが同志のことはこのうえなく気づかうヴェスマンから、「大事な友人」を出迎え、部屋と、よい、静かな休息を用意しておくようにという電報を受け取った。
今でも覚えているが、印刷所から家へ帰る途中、駅から来る通りを横切っていると、大またで背を丸め、怒りと心配のあまり私に気づかずに、同志I. I. セルゲーエフが私の前をちらりと通り過ぎていった。外国の町の通りでは、群衆のなかで目立たないような外見でふるまうこと、というわれわれ共通の申しあわせを忘れていたのである。
私は顔よりむしろそのいきりたった様子で彼に気づき、足を速めて呼びかけた。彼はわれわれの住まいに近づくにつれてますます熱くなり、どうやら、まちがったやり方、専制、官僚主義、わがまま、個人の自由の蹂躙、革命家の自主性の抹殺、残酷さ、強情、そのほか彼の考えつくかぎりのあらゆる大罪、つまり明らかに同志ヴェスマンの動じない姿にすみかを見いだし、悪魔のように集まっていた大罪のために、われわれに「ひと騒ぎ」起こしたいらしかった。
振り返って私だとわかると、彼は弾丸のように私に飛んできて、ほとんどわめくように言った。
「これはいったい何だ、もうがまんできない、これは愚弄だ、将軍気取りだ、私は抗議する……」
私は彼の腕をとり、イギリスを汽車で来るとき窓からのすばらしい眺めは気に入ったか、船酔いはしなかったかとやさしくたずね、そのあいだに彼の腕をひじの上で強く押さえた。駅から来る雑多な人の群れのなかには、われわれがもらす一言一言が大事なロシアのスパイがもちろんいるのであり、だからわれわれは通りでは決して用件を話さないことを決まりにしているのだ、ということを知らせるためである。私は彼と一緒に角を曲がり、どこかの店のそばに5分ほどしつこく立ちどまって、後ろから来た人たちを全部やり過ごし、それから先へ進んで、住まいから遠ざかるまったく人けのない横丁へ急に曲がり、2、3区画ぐるりと回って、反対側から家の戸口に近づいた。
今にも破裂しそうな爆弾のようだった、このうえなく献身的なわれわれの友人は、われわれのすみかに近づくと少し冷めた。そして決まったやり方で三度イギリスふうの小さな家の戸をたたくと、ロシアから来たばかりで、監獄で子どもを亡くしたヴェーラ・ミハイロヴナ・ボンチ=ブルエーヴィチ(ヴェリチキナ)が戸を開けてくれた。彼女はこの素朴な友人をとても好いていた。イワン・イワーノヴィチはすっかり打ちとけ、いつものように勢いよくヴェーラ・ミハイロヴナに質問を浴びせた。いつ監獄から出たのか、体の具合はどうか、旅はどうだったか、今の気分はどうか?……
「ああ、あんた、かわいそうに」と彼は農民ふうに嘆いた。「あいつらにひどい目にあわされて……」と、思いがけず「あんた」と呼んで、胸がいっぱいで口から言葉があふれ出ているのだということを、われわれ皆にはっきりわからせた。
ときどき彼は自分自身の悲しみを思い出しては煮えたぎり、われわれに食ってかかろうとしたが、ヴェーラ・ミハイロヴナのやさしく意味ありげな目つきが彼を落ち着かせた。そしてとうとう何もかもが元に戻り、われわれがたずねはじめると、彼は気持ちをぶちまけ、心のうちをすっかり吐き出し、急にほとんど涙声で泣き言を言いはじめた。
「われわれの文献は全部だめになった!……私の漁師たちや分離派の人たちに何と言われるだろう?」と彼はいくつかの名を挙げたが、私はここでそれをわざと記さない。彼らのなかには今もルーマニアに住んでいる者がいて、この卑劣な国の悪辣な貴族どもが、20年以上前に彼らがあれほど熱心にやってのけた行いのために、今になって彼らに仕返しをしたくならないともかぎらないからである。
私はこのばかげた神経のすり減らしに終止符を打つことに決め、ヴェスマンの指示が最善の目的に向かうものだったと私は完全に確信している、そのことはわれわれの大事な友人であり同志である彼自身がまもなく納得するだろう、ときっぱり言った。
ヴェスマンにいつ会えるかはわからなかったが、それがまもなくだということは私には明らかだった。彼が自分の主な助手の一人をロンドンに呼んだからには、自分もここに来るはずだからである。そして実際、夕方、もうすっかり暗くなったころ、取り決めた三度のノックがわれわれの家に響いた。私が急いで戸のところへ行くと、取り決めた合言葉が聞こえた。われわれ罪深い者たちはいつも守っていたわけではないが、ヴェスマンは、それに答えがなければ、ロシアでも国外でも決して秘密の住まいに入ろうとしなかった。急いで答えて、戸を開けた。ヴェスマンだった。彼は事務員のような姿の地味なヨーロッパ人の身なりで、清潔な外套を着て、その襟の下から白いカラーをきらりと光らせ、上品に巻いたこうもり傘を持ち、きちんとしたイギリス人なら鉄道では一歩もそれなしで出かけない、小さな手提げかばんを手にしていた。
彼はいつものように落ち着いて、にこにこしながら入ってきて、皆に挨拶し、セルゲーエフを見ると、まるで彼がずっとこのロンドンに住んでいて、自分は彼の家に客に来られてとてもうれしいとでもいうように、同じく感じよく握手した。彼はすぐに板チョコを取り出して皆にふるまい、そして、山羊のように突っ立ち、上目づかいににらみつけ、鼻を鳴らして、まるでザカフカースの水牛が差し出されたくびきにどうしても入ろうとしないときのように、今にも彼に戦いを挑もうとしているセルゲーエフには、ドイツ語のユーモア雑誌を一冊渡して、そっと言った。
「ここはとてもおもしろいですよ」と、何かのカラーの絵を開いて、満面の笑みを浮かべた。
セルゲーエフはどぎまぎして、雑誌を受け取り、それに顔をうずめて、意味もなくページをあちらこちらへめくりはじめた。
われわれは座ってお茶を飲んだ。
ヴェスマンはとくにセルゲーエフに気を配り、こんなきつい仕事のあとで休むのはどんなに気持ちがいいかと話した。
「とくに脚がよく休まるんですよ。部屋をそっと歩いて、何も考えないでいると、気持ちがいい……ぜひスリッパでね。あなたはきっと持っていないでしょう、いつも長靴で自分を痛めつけて。スリッパを持ってきてあげましたよ」と、彼は手提げかばんから、紙で大事に包んだ柔らかいスリッパを取り出した。
「房つきでね」と、セルゲーエフに渡しながら見とれた。「ぽんぽんがとてもおもしろい」と、満面に笑みを浮かべ、顔を輝かせて言った。
セルゲーエフは、どうやらまったく別のことを予期していたらしく、ぐにゃりとなり、気が抜けて、おとなしくなり、本当に足が綿毛に沈むような、柔らかく優美なスリッパを熱心に眺めていた。
少しずつヴェスマンは、たいへん込み入った運搬の経緯、文献と人の集結のいきさつを話してくれた。そして突然の警報! どうやら周辺のどこかで何かの摘発があり、憲兵は手がかりをつかみ、それをたどって偶然にわれわれの秘密の住まいの一つに行きついた。そこはセルゲーエフがグループ全体を受け入れるはずの場所で、文献全部と人全部の摘発は避けられなかったろう。彼は捜索の先回りをして、事実よりもむしろ内なる直観にしたがって、全員を呼び戻した。ある者は国外へ、ある者はロシアの奥へ戻し、この区間を通る運搬をすっかり閉じ、ルーマニア、ブルガリア、オーストリアへ送った小包はすべて郵便で返送を求めて止め、この地区全体をいわば完全に清算し、組織の参加者全員に、1か月のあいだ一緒にいることだけでなく、互いに知り合いであるそぶりを見せることさえ禁じた。
「事はたいへん重大です」と彼は短く付け加えた。
セルゲーエフは目をむいて座り、まるで口がきけなくなったようだった。今になってようやく、彼はこの件がどれほど重大で、もしヴェスマンの冷静さがなかったら、彼自身も、文献全部も、ロシアのグループ全体も完全に壊滅させられ、誰も彼もがもう憲兵と保安部の手のなかにいたろうことを理解した。こういう摘発は数えきれない災いを招きかねなかった。彼は、もうヴェスマンの贈り物の柔らかいスリッパをはいて休むほかに、することは何もないと悟った。
恐ろしい神経の緊張のあとで、彼は死ぬほどの疲れを感じ、崩れ落ちたかのように小さく背を丸め、寝たいと言い出した。
ヴェーラ・ミハイロヴナが心をこめて何かの薬を一杯飲ませ、やさしく言った。
「おやすみなさい、寝て、休んでください。ぐっすりよく眠れますよ」
そして彼は誰にも挨拶せずに、寝て休むための支度がすっかりできていた上の自分の部屋へ、とぼとぼと上がっていった……
ヴェスマンはほほえんで、そっとたずねた。
「あそこは暖かいですか?」
「暖かいですよ……」
「暖かくしておかないと。眠るでしょう……明日は起こさないでください……」
そしてわれわれはそれぞれの部屋に引きあげた。
憲兵は占拠したわれわれの住まいに2か月居座り、われわれの組織のために厳重な待ち伏せを用意していた。スパイたちはいらいらして、その町の周辺のいたるところをうろついていた。われわれは見張り役から宿敵たちの活動について正確な情報を受け取ったが、彼らの努力はすべてむだだった。
一時はルーマニアの地元当局も、どうやら何かの情報と指示を受けたらしく動き出した。だが何もかもがすっかり静かで、誰もがふだんの仕事をしていたので、彼らも襲いかかる相手がおらず、まもなく落ち着いた。この一件から5か月目になってようやく、ヴェスマンは、このうえない用心をしたうえで、この国境に一隊を送ることに決め、残っていた文献をすべて無事に運び出し、ロシアじゅうに広めた。
漁師と分離派の人々も仕事に戻り、その後も長いあいだ、われわれの隷属させられた祖国へ自由な印刷の言葉を届けつづけた。
もちろん、いつもこんなに何もかもなめらかに運んだわけではない。ときにはひどい、打ちのめされるような摘発があり、組織はその傷を長いあいだ癒さなければならなかった。
たとえば、長いあいだたいへんうまく働いていたわれわれの同志イワン・イワーノヴィチ・セルゲーエフは、何かつまらないことでしくじって同志たちと一緒に摘発され、予審のあいだ1年以上監獄に入っていた。
この摘発はわれわれの陣営を大いに乱し、われわれはそのとき運搬を陸路から、水夫のあいだの組織を通じた海路へ移した。だがそれでも、全体として、社会民主主義組織「ジーズニ」は運搬をたいへんうまく整え、かなり長いあいだロシアの多くの組織に文献を供給することができた。
8 1905年1月9日のあとのリガでのヴェスマンとの出会い
われわれの組織「ジーズニ」が内部の原則上の意見の違いのために解体したとき、たまたま、この赤い郵便配達人、捕まえがたいヴェスマンも、ロシアで逮捕された。私はそれ以来すっかり彼を見失っていたが、1905年、1月の日々のさなかのリガでまったく思いがけず彼に会った。私は組織ビューローの依頼でロシアをまわっていて、ラトヴィア人とのつながりを整えるために非合法でリガに来ていたのである。それはペトログラードの1月9日のあとの、リガの有名なデモの日だった。彼は私の秘密の住まいにやって来た(彼は当時非合法の身で暮らしていた)。そしてわれわれは一緒に町を見てまわった。負傷した労働者でいっぱいの病院、殺された人々の死体が積みあげられた死体安置所。この恐ろしい人生の光景を見て、彼は顔色を変え、夕方、デモ隊を銃撃した下士官教育大隊の兵営を爆破することを委員会に提案した。だが残念ながら、二、三人のほかは支持されなかった。そのなかには、私に宿泊のための住まいをあてがってくれた、地元の工科大学の化学の私講師で、ラトヴィア社会民主主義組織にたいへん近い人物もいた。彼は、数日のうちに必要な量の爆発物を届け、この爆破を技術的に組織することを引き受けていた。それはもちろん、増長した帝政政府へのよい効果とふさわしい返答になったろう。大隊のさまざまな勤務者のあいだにはよいつながりがあったので、爆破の計画は何ら空想的なものではなく、もちろん十分に実行可能だった。だが、リガの社会民主主義組織では、残念ながらもう当時、メンシェヴィキの甘酸っぱい気分が支配していて、もちろん彼らにはこれがすべて恐ろしいことに思われ、彼らはあちこちうろたえ、銃撃の犠牲者の葬儀のデモのために熱心に旗を縫い、あらゆる戦闘行動をまったく否定していた。まだその時ではない、というのである……ヴェスマンと私は、旗用の布がたくさん用意され、女性労働者たちが黙々と集中してそれを縫い、刺繍しているそういう秘密の住まいの一つに立ち寄った。真っ赤な布に、革命の聖なるスローガンを刺繍している娘たちを見るのは心を打たれる光景だった。
「本当にこれだけなのか?」と、同志たちがヤツメウナギとゆでたじゃがいもの昼食に誘ってくれたとき、ヴェスマンは言った。
「いつになったら、打撃には打撃で答えることを覚えるんだ?」と彼は声に出して言った。
だが答えはなかった。すべては静かで、ただ、布を飾る女性労働者たちのすばやい手の下で、真っ赤な布がさらさらと音を立てるだけだった。
それでも1905年の秋までには、メンシェヴィキ的なラトヴィア人たちも、防衛と攻撃の必要を感じはじめた。ロンドンのラトヴィア人グループは当時、自分たちの戦闘組織のために、水夫を通じて拳銃や弾薬を熱心に運んでいた。
9 社会民主党の分裂のあと
ロシア社会民主党の分裂のあと、技術の仕組みはすべてボリシェヴィキの手に残った。党の新しい中央委員会は、ジュネーヴに本格的な中央発送部を組織することを決めた。わが党の中央委員である同志F. V. レングニクが、発送部と技術部門全体の組織、そしてそれに付属するきちんとした簿記について話しに私のところへ来た。私が自分の計画を説明すると、彼はそれを承認し、私にこの責任ある仕事を引き受けてほしい、すぐにウラジーミル・イリイチと話す、と言った。その日の夕方、私はウラジーミル・イリイチから、細かい、ビーズのような筆跡できちんと書かれた小さなメモを受け取った。翌朝10時に来てほしい、というのである。もちろん私はちょうどその時刻に彼のところにいた。そこにはもうレングニクがいた。
「あなたに発送部と技術部門をすっかりお任せしたい」とウラジーミル・イリイチは、自分の部屋から出てきて、挨拶し、ルバシカを締めるベルトを歩きながら留めつつ、いつものようにすぐ用件に取りかかって言った。
「私の義務は……」と私は答えてたずねた。
「ちくしょう、これはいい、人がまず義務について話し、それからたぶん権利について話すというのは……」と言って、彼は片目を細め、まるでじっと見定めるように、にやりと笑って私を見た。
「平の革命家には、ただ一つの権利があると思います。中央委員会に課されたことをすべて最もよく果たすという権利です」と私は答えた。
「それだけ?……」
「ほかの権利は知りません……」
「出だしはいい、と、と、とてもいい……」と言って、彼はすぐに私の向かいに腰をおろし、まるで本物の商人のように実務的に、新聞1号がいくらかかるか、人員、何を減らし何を足すべきか、新聞にはどんな紙を使うのがよいか、本は何部刷るか、などなどを計算し、考えはじめた。
私の実際的な指摘にはどれにも注意深く耳を傾け、すぐに身構え、とくに重要だと思われる段落を番号をつけてはっきりと書きとめ、あれこれの提案にその場で同意することも少なくなかった。
「これをもう一度、さらにもう一度確かめて、全部よく考えて、短く書きとめてください。そして木曜日に、われわれは木曜日のきっかり3時に集まることにしていますが、そこで話してください。最終的に話しあいましょう」
「急がないでください」と、彼は別の件で言った。「全部よく考えてください。まちがうよりはしないほうがいいということを覚えておいてください。われわれの資金はひどく限られている。まちがえればメンシェヴィキが騒ぎたて、ロシアにも響く。われわれはどこでもはっきりした、確かな歩みをしなければならないのです……」
いつもこうだった。慎重さ、先見の明、計算、勘定、倹約、最小の出費、ロシアから来た人々への最大の注意、とくに労働者への特別な配慮。
この実際的で実務的な話は1時間以上続き、1904年1月ごろのことだったが、その結果、ウラジーミル・イリイチの手元には、話の中身から出てきた何十もの問題が記された一枚の紙ができた。彼はその紙を木曜日まで私に渡した。木曜日には各項目に詳しく答えることになっていた。
その場で中央委員(レーニンとレングニク)の署名のある正式の任命を受け取り、私はその日のうちに、偶然この仕事を負わされていたがあまり向いておらず、むしろそれを重荷に感じていた、今は亡き同志レイボヴィチ(ツェイトリン)から、発送部、印刷所、製本所などを引き継ぎに行った。
10 新しい発送部の組織
ボリシェヴィキとメンシェヴィキの闘争は、もうかなり激しく燃えあがっていた。
発送部の正式の住所はP. B. アクセリロード名義で、ふつうの郵便も、書留も、送金も、何もかもが彼の名あてに届いた。われわれはすべて彼の委任状によって受け取っていた。われわれがメンシェヴィキに完全に依存しているだけでなく、一個人に依存していることは、まったく明らかだった。関係をきっぱり断つほど仲たがいすれば、必ずアクセリロードが郵便局に、通信の受け取りを別の人に委任しなおすと届け出ることになり、そうなれば通信は例外なくすべてわれわれから断ち切られてしまう。発送部の住まいもアクセリロードの名義で借りられていて、彼がそう望むだけで、特定の名義で借りられているこの場所に、われわれは入れなくなりかねなかった。こうしたことはすべて、できあがった状況のもとでは私にはまったく異常に思われ、ただちに住まいと郵便の住所を変えることから始めようと私は提案した。
住まいを変えて私の名義で借りることには、何の争いも意見の違いもなかった。だが郵便の住所を変えることにはためらいがあった。なんだかまだ、打ち壊しに取りかかり、P. B. アクセリロードらのような尊敬すべき人々に不信を表すのは気まずかった。そして実際、気まずいだけでなく、恐ろしくさえあった。何しろ彼らは、われわれが長いあいだこのうえない敬意をもって接してきた、いちばん身近な同志であり、師だったのだから。だが政治的な生涯を生きるのは野原を横切るのとは違い、ここでは純粋に個人的な共感や愛着は容赦なく踏みにじられる。昨日の友は不倶戴天の敵になり、ついさっきまで和やかに愛しあっていたところに、意見の違いと憎しみが有無を言わさず飛び出してくる。原則上の分岐、信念による分岐ほど深い分岐はないからである。この住所の問題では何か妥協を見つけることに決まったが、のちにそれをたびたび悔やんだ。
その日のうちに私はV. M. ヴェリチキナと一緒に住まいの手配にかかった。その数か月前から、私はアルヴ川の岸のコリーヌ通り3番地に、新しく改装中の大きな建物を見つけておいた。その前には広い空いた川岸の土地が広がっていて、将来そこに小公園がつくられる予定だった。小さな住まいに分けられたこの建物は、政治亡命者が住むのにたいへんふさわしかった。ジュネーヴではわれわれは広いつながりをもっていて、この建物も所有している持ち主の会社の理事長への、しっかりした推薦を得た。われわれは喜んで住まいを貸してもらい、自分たちもそこに住み、ロシア人はわれわれの推薦があるときだけこの建物に入れる、と取り決めた。しだいにわれわれは建物のほとんど全部を埋めた。まさにここへ、党中央委員会の発送部を移すことにしたのである。契約はその日のうちに結ばれた。ついでに記しておくと、まさにこの建物に、われわれと発送部のほかに、われわれの同志たちが住んだ。比類のない非合法旅券の作り手F. F. イリイン、本人もそして今は亡き妻のクラニフフェリドも、われわれの組織で働いたM. I. リャードフ(マンデリシタム)。この建物には、党中央委員会の図書館、文書庫、閲覧室を設け、1階のかなり大きな場所をそれにあてた。ここにはレペシンスキー夫妻も住んで、われわれ亡命者仲間を食べさせ、講演、報告、討論、政治的な会合の場となり、新しく来た多くの同志たちの最初の滞在場所となった、ロシア人の共同食堂を開いた。ここ、この建物には、ロシアから来た亡命者の植字工の組合によって、自由な協同組合のロシア語印刷所も設けられ、そこでボリシェヴィキの出版物や、われわれの新聞『フペリョード』などが印刷された。こうしてここには、時とともに本当にボリシェヴィキの力が集中した。マルトフがこちら側へ来るのをあれほど嫌い、自分のある論文のなかで「濁ったアルヴの岸辺」に陣取った「スズメバチの巣」に言及するのをこらえきれなかったのも、ゆえなきことではない。周知のとおり、そこからは本やパンフレットや講演や新聞や辛辣な風刺画によって、長く組織的なメンシェヴィキの陣地への砲撃が行われたのである。
住まいへの入居の許可を得ると、私はすぐに、このころにはもうすっかり組織されていたボリシェヴィキのジュネーヴ協力グループを総動員し、一日で発送部全体をすべての本の在庫とともに新しい場所へ移して、皆を既成事実の前に立たせた。すばやく本の倉庫を組織し、本物の書店の体裁を与え、毎日厳密に決まった時刻に訪問者の受付を開き、秘密保持上のあらゆる用心に気を配った。ここにはロシアから逃げてきた同志や非合法で来た同志のためのヤフカも集まっていたからである。この同じ場所に、あらゆる印章、用紙、旅券手帳など、きわめて必要で革命的に貴重な道具をそろえた旅券ビューローも設けられた。
数日後にこの突然の発送部の移転を知ったメンシェヴィキは、ざわつき、なぜ自分たちに知らせずにやったのかと不平を言いはじめた。だがこれは疑いなく党中央委員会の在外代表の職務に属することであり、すべて彼の承認と文書による指示のもとで行われたので、けちのつけようがなかった。
発送部が新しい場所に移ったが、その郵便の住所は変わらないままだった。そしてまさにこの住所をめぐる闘争が始まる。くり返すが、中央委員会の代表は、住所を不意に断固として変えることに踏みきらず、ウラジーミル・イリイチも、一見小さな、注意を払うに値しないようなこの問題で、彼自身の言い方によれば「ぐらついた」のであり、それがのちにわれわれに余計な、うんざりする、ひどく不愉快な面倒を少なからずもたらしたのである。
11 郵便の住所の歴史
非合法文献の組織一般において、とりわけ非合法新聞においてはなおさら、いつもきわめて重要な『イスクラ』の郵便の住所の歴史に注意を向けてみれば、第1号(1900年12月)から第6号(1901年7月)まで、つまり9か月間、『イスクラ』はまったく郵便の住所なしに発行され、ただ「イスクラ印刷所」という簡潔な署名があるだけだったことがわかるだろう。国外でも、ほとんど非合法で、誰にも秘密のうちに出され、ロシア人居留地ではごくわずかな部数しか配られず、運搬の力が許すかぎり、すべてロシアへ向けられていたからである。
第7号(1901年8月)から、『イスクラ』には紙面の終わりの「郵便箱」欄の下に、次の文面の告知が現れる。
「国外に出た人々が『イスクラ』とどのように連絡をとればよいかという、たびたびの問い合わせについて、われわれは繰り返すが、国外からは、あらゆる手紙、資料、金を、シュトゥットガルトのディーツの住所あて、『ザリャー』編集部気付で送らなければならない。Verl. J. H. W. Dietz Nachfolger, Stuttgart。『ザリャー』編集部は、『イスクラ』あてに受け取ったものをすべて、いつもただちにわれわれに転送する」
ここでは『イスクラ』編集部が連絡方法を「繰り返す」と言っているが、実際にはこの新聞のそれ以前の号のどこにもディーツあての住所は示されておらず、この「繰り返し」が秘密保持の目的のためにだけ使われたことはまったく明らかである。
『イスクラ』第2号(1901年2月)の「郵便箱」欄にはこうあった。「われわれの出版を支持してくれたすべての同志にお知らせする。われわれが選んだ連絡方法は、一見多くの不便があるように見えるが、まったく目的にかなっていることがわかった。あらゆる用心を守れば、資料は速く、きちんと届く」。ここで言われているのが、この社会民主主義組織の、郵便の住所を厳しく秘密にしていた個々の代表者を通じて資料を編集部へ届ける、超秘密的な方法であることは、まったく明らかである。分厚い雑誌『ザリャー』の編集部あてのディーツの住所を告知したことで、『イスクラ』は初めて国外の地下から広い世間へ出たのである。この住所は『イスクラ』編集部にとってもちろんたいへん便利だった。『イスクラ』と『ザリャー』の編集部は同じで、郵便はすべてディーツの手から直接、ウラジーミル・イリイチと、いつもこの主にウラジーミル・イリイチがつくった新聞の編集部のあるところに住んでいた彼の最も身近な友人たちの手に渡ったからである。当時『イスクラ』の編集部はミュンヘンにあり、そこからすべての資料が印刷所へ送られていた。
『イスクラ』第9号(1901年10月)には、同じ告知の下に追記が現れる。「この住所を使うすべての方に切にお願いする。外側の封筒にはディーツの住所だけを書き、(『ザリャー』編集部あての)転送の指示は内側の封筒にすること」。ロシアの仲間から知らされたドイツの警察が、『イスクラ』がどこで印刷されているかを必死に突きとめようとし、言うまでもなく同志ディーツと彼の郵便を見張りはじめたことは、まったく明らかである。ドイツ社会民主党のために、出版物の豊かさと多様さでほかのどの社会民主党にも並ぶもののない比類のない出版社を組織し、ドイツの労働者階級と全世界にあれほど多くの光を与えた同志ディーツは、いつもロシア社会民主主義者のあらゆる企てにとりわけ共感をもって接し、力と可能性の及ぶかぎりいつもそれを助けた。彼はロシア語ができ、若いころ植字工としてロシアのペテルブルクにいたことがある。聞いた話では、彼は雑誌『ソヴレメンニク』を組み、N. G. チェルヌイシェフスキーを知っていたという。この最初の非合法の分厚い社会民主主義雑誌『ザリャー』のために自分の住所を提供したことで、彼はもちろんドイツ警察の雷を招く危険を冒したのだが、それにもかかわらず住所を提供し、『ザリャー』を出版し、広く普及させ、それによってロシア社会民主党を大いに助けたのである。
『イスクラ』第10号(1901年11月)からディーツ=『ザリャー』の住所は外され、ようやく第17号(1902年2月15日)でふたたび現れ、第22号(1902年6月)まで定着する。この号で初めて、ディーツの名と並んで新しい住所が現れた。この号の「郵便箱」欄には、次の短信が載っている。「われわれの文献の注文はすべて、国外からは次の住所あてにお願いする。Herrn P. Axelrod, Zürich, Vogelsangstrasse, 9/II」。
第22号(1902年6月)では、ディーツの住所はすっかり消え、その場所にアクセリロードの住所が刷られ、古い住所については思いがけず次の短信が現れる。「ディーツの住所を使ってわれわれと連絡をとる(そして金を送る)すべての方に切にお願いする。内側の封筒に、手紙(通信または金)が『ザリャー』編集部あてであることを記すこと。そうしないと、資料や手紙がわれわれに届かないおそれがある」。読者は驚く。だが亡命生活とはそういう厄介なものである。問題はここでごく簡単に解決された。もちろん、ディーツを何か疑った者はいなかった。だが彼は、自由主義者のほうへ戻っていったかつての『イスクラ』の協力者ストルーヴェを、雑誌『オスヴォボジデーニエ(解放)』の出版とともに受け入れていた。そして『オスヴォボジデーニエ』も同じところで出版されていたので、内側の封筒のない『ザリャー』あての郵便が『オスヴォボジデーニエ』に紛れこむようになり、『イスクラ』あての資料が『オスヴォボジデーニエ』に載るようになったのである。おそらくそれはわざとではなく、ただ混乱が生じていたのだろう。だから『イスクラ』は、『ザリャー』の編集者の一人のものである新しい住所を告知しなければならなかった。このアクセリロードのチューリヒの文献用住所は、『イスクラ』のほとんど毎号に、第42号(1903年6月15日)まで載る。この号で住所はいくらか変わる。この号の『イスクラ』の「郵便箱」欄にはこう刷られている。「『イスクラ』『ザリャー』『ロシア革命的社会民主主義者在外同盟』あての金と手紙、ならびに文献の注文は、次の住所へお送りいただきたい。M-r Paul Axelrod, Acacias. Genève (Suisse)」。
アクセリロードは当時チューリヒに住んでいて、そのままそこに住みつづけた。『イスクラ』と『ザリャー』の編集部はロンドンからジュネーヴに移り、そこにわが党の正統派の指導者たちが全員集まった。『イスクラ』の印刷所もジュネーヴに移り、アクセリロード名義で設けられた発送部は拡大されたが、アクセリロード自身は地理的に離れていたので、もう発送部の仕事に直接かかわってはおらず、郵便はすべて彼の委任状でジュネーヴで受け取られていた。
党の第2回大会での分裂は、われわれの中央のジュネーヴ発送部と金庫の住所の変更に、すぐには反映しなかった。
第46号(1903年8月15日)から、『イスクラ』は新しい編集(レーニン=プレハーノフ)のもとで発行されはじめ、第51号(1903年10月22日)まで続いた。
第52号(1903年11月7日)は、G. V. プレハーノフの編集だけで出た。V. I. レーニンが、生じた意見の違いのために、そのとき『イスクラ』の編集部を去ったからである。
第53号(1903年11月25日)から、『イスクラ』は、G. V. プレハーノフによって補充選任された新しい編集部のもとで発行される。そこにはポトレーソフ(スタロヴェール)、L. マルトフ、P. アクセリロード、V. ザスーリチがふたたび戻った。まさにこの号から最後まで、新聞『イスクラ』はもっぱらメンシェヴィキのものになる。プレハーノフはそこでますます影響力を失い、ついにがまんできなくなって、メンシェヴィキの「党活動家の第1回全ロシア協議会」の決定のあとで編集部を去り、そのことについての声明を『イスクラ』第101号(1905年5月29日)に掲載した。そしてこのときから、かつては全党の、それ以前は正統派で革命的だった新聞は、すっかり社会民主党内の新しいロシアの日和見主義者の機関紙になるのである。
G. V. プレハーノフは、どうやら、「労働解放」団の古い同志たちや、『イスクラ』のもっと若い同志たちとの将来の決裂を予感して、早くも1905年3月から『社会民主主義者の日記』を出しはじめる。間に合ううちに、あらかじめ準備し固めておいた文筆の陣地へ退くためである。だがそこへ退くと、彼はほとんどまったく孤立し、大衆を組織する機関、新聞のかわりに、生活の状況によって、自分自身の「日記」、つまり何か個人的な、もっぱら個人主義的なものを出すことを余儀なくされる。われわれの社会的・革命的な生活全体が、集団的な創造へと力強く進んでいたときにである。こうして、ロシア社会民主主義の創始者、比類のない演説家、指導者、革命家、マルクス主義の理論家ゲオルギー・ワレンチノヴィチ・プレハーノフの、最後の15年間の生涯と活動のドラマの第一章が始まったのである。
12 ボリシェヴィキの独自の住所をめぐる闘争
「『イスクラ』編集部の変更」という短信が載った『イスクラ』第53号では、在外中央委員会代表の強い要求で、発送部の住所に添えた文面がすぐに変えられる。先に挙げたアクセリロードのジュネーヴの住所に、次の言葉が付け加えられる。「すべての手紙と通信には(内側の封筒に)『中央機関紙編集部あて』『中央委員会あて』または『同盟あて』と必ず記すこと」。こうしてここで初めて、「中央機関紙」(メンシェヴィキ)と「中央委員会」(ボリシェヴィキ)の住所の区別が現れた。この、一見小さな事柄のなかに、両陣営、とくにボリシェヴィキの当時の気分がもうはっきりと反映していた。彼らはこうして、文筆のうえで決裂し、組織のうえでもメンシェヴィキと、その中央である「中央機関紙」と「同盟」から「境界を引き」はじめたのである。同じ号の「郵便箱」欄の下には、やはり初めて、同じ警戒を明らかに示す在外中央委員会代表からの短信が載った。「中央委員会は」とこの短信は言う。「中央委員会に用のあるすべての者が連絡できる代理人が、今は常時国外にいることを広く知らせる。会見の場所と時間は党員を通じて知ることができる。党のつながりをもたない者は、『イスクラ』の住所(Genève, Acacias. Paul Axelrod)あてに、必ず『中央委員会あて』と記して書面で連絡されたい」
当時まだボリシェヴィキのものだった中央委員会の代表、ボリシェヴィキのF. V. レングニクは、ここでも、ロシアから来る同志の指導と情報提供において、メンシェヴィキとその影響からの分離を求めた。だが、この声明は、その主眼がもちろん最後の言葉にあったのだが、言うまでもなく、それだけでは足りなかった。アクセリロードの住所と並んで、ボリシェヴィキの側からの権威ある住所を打ち出す必要があった。当時のわれわれの考えでは、それはアクセリロードの発送部の住所と並んで『イスクラ』に刷られなければならなかった。さしあたり、『イスクラ』第53号と第54号には、アクセリロードの住所と、その横に先に挙げた在外中央委員会の声明が刷られている。第55、56、57、58、59、60号には両方の住所ともまったくなく、党の印刷所の住所(Rue de la Coulouvrenière, 27)だけが刷られている。そこではメンシェヴィキが完全に、分かちがたく支配していて、実際のところ、当時ボリシェヴィキのものだったわが党の中央委員会にとって、印刷所は名ばかりのものだった。われわれはそこで何の影響力も指導力ももっておらず、「メンシェヴィキ」が中央委員会のあれこれの指示に従うつもりがあるのか、われわれが送ったものを印刷するつもりがあるのか、いつも疑うことができた。われわれの出版物の多くがそこで果てしなく長引き、たとえばウラジーミル・イリイチの本『一歩前進、二歩後退』は、党の印刷所で、ひどく遅れ、印刷所の責任者たちに敵意をもって鼻であしらわれながら組まれた。同じように、ウラジーミル・イリイチの『イスクラ』編集部あての手紙「なぜ私は編集部を去ったか」も、メンシェヴィキの編集部によって止められて印刷されず、それが、まったくもっともな理由で、ウラジーミル・イリイチに、自分にあからさまに敵意をもつこの新聞にそもそも何かを印刷に送ることを、すっかりいやにさせた。
編集部は恥知らずにも、『イスクラ』第58号で、国外やロシアの同志たちの、膨大なプロレタリア大衆に認められた党の最大の指導者の論文がなぜ載らないのかという、まったく当然の心配げな問い合わせに対して、「郵便箱」欄に、こういう厚かましい、と言うだけではすまない答えを刷った。
「何人かの読者へ。『イスクラ』に同志レーニンの論文が載らないのは、単に、われわれが彼の手紙(『なぜ私は編集部を去ったか』)を延期して以来、同志レーニンがこれまで『イスクラ』に何も送ってこないからである」。周知のとおり、この尊敬すべき編集部は、ウラジーミル・イリイチの手紙をあまりにしっかり「延期」したので、それはわが党の中央委員会の出版で、『なぜ私は「イスクラ」編集部を去ったか』という題の別冊のパンフレットとしてしか出ることができなかった。もちろん、メンシェヴィキの側からの関与はいっさいなしに。こうして、メンシェヴィキとの実務上の分岐はますます熟し、強まっていった。彼らは、見せかけの「党の統一」を守りたいようなふりをしていただけで、実際にはどこでも、ごく小さなことでも、党の大きなほうの半分の意見を考慮しようとせず、中央機関紙の紙面での自由な討論という空疎な言葉を盾に、その意見、その影響力を全力で押しつぶし、かき消そうとする、本当に不寛容な分裂主義者としてふるまっていた。彼らが中央機関紙で印刷を許したのは、彼らに反論し、嘲笑し、ゆがめるよい口実を与えるような同志の作品だけだった。ウラジーミル・イリイチのような「協力者」は彼らには望ましくなく、彼らは彼の論文を号から号へと「延期」して、すっかり塩漬けにしてしまった。当然だ! 大会の多数の意志に反して、一人の人間の気まぐれで、大会で少数派だった者、明らかに当時のロシアの革命的プロレタリアートの意志を表していなかった者たちがふたたび引き入れられた党の中央機関紙の編集部を、ウラジーミル・イリイチが去らざるをえなかったという知らせを、ロシアのプロレタリアートがどう受けとめるか、彼らはよく知っていたのである。
1904年初め、ジュネーヴの中央機関にいたボリシェヴィキは皆、自分たちの住所をもつ必要と、郵便のすべてが中央機関紙の住所に依存していることの不当さを痛感した。在外中央委員会代表は、せめて中央機関紙の住所で別の封筒で中央委員会あての郵便を受け取りたいという彼の希望を、「正義の」メンシェヴィキ編集部がどれほど無遠慮に扱うかを、経験から思い知った。この声明は、見てのとおり、ただ号から削られた。そしていつも、印刷所の主任である同志ブリュメンフェリドが組版をするときに、ちょうどこの声明のための場所が足りなくなるのだった。1904年3月、私は在外中央委員会代表とウラジーミル・イリイチに、『イスクラ』の号を必ず二重の住所、一つは中央機関紙、もう一つは中央委員会の住所で出すよう強く主張し、その住所は必ずウラジーミル・イリイチの名義にするよう提案した。多くの者が、できあがった関係のもとで、これを押しとおせるかどうか疑ったが、私は、それは私の仕事だ、中央委員会の代表が同意している以上、まさにそのとおりになる、と言い、すぐに中央委員会からしかるべき書類をもらっておいた。そのうえ私は、『イスクラ』の折りこみ紙の数を制限することにした。度を越してふくらんでいく号は、もう新聞という観念を失いかけていたし、何よりわれわれの金庫をひどく枯渇させていたからである。そして新聞の発行の支払いをしなければならないのは党の中央委員会であり、中央委員会はこの面倒な義務を中央委員会のジュネーヴ中央発送部に負わせていたのである。プレハーノフの住まいで行われたマルトフとの会見で、私ははっきりと、中央委員会の指令により『イスクラ』の号はこれから二つの住所をつけて出ることになる、と言い、紙面の縮小について正確に取り決めた。その場にいたG. V. プレハーノフは、まったく話に口をはさまず、ただ新聞1号がいくらかかるかを知りたがった。そして、われわれがほとんど10日ごとに使わなければならないかなりの額を知ると、その大きさに驚き、すぐに言った。「どうしても縮小しなければならない。これではあの人たちを債務者監獄に送りこんでしまう」。そしてその場で精力的に、もう組版用に送られてきていた多くの論文を延期し、ほかのものはパンフレットにまとめることなどを提案した。
私は新しい住所の文面を渡し、これなしには『イスクラ』はもう1号も出ない、と言った。住所をプレハーノフも見て、マルトフと目を見かわしてにやりと笑った。
「これを、中央委員会の中央機関紙に対するはっきりした不信の表れと見なせということですか?」とマルトフは毒をこめて、あざけるように言った。
私は彼の「毒」には注意を払わず、ただこう言った。
「このほうが混乱が少ないでしょう。党の事業は発展していて、何もかもきちんと整え、実務の足場に乗せる必要があるのです」
「まあいいでしょう」と、マルトフはまだ腹を立てて、もごもごと言い、住所の文面を書類かばんにしまった。
この住所はマルトフにとって愉快なものではなかった。
アクセリロードの住所に、われわれは次の文面を加えた。「党中央委員会あて、または党発送部あての国外からのすべての通信は、ふつうのものも送金も、次の住所に送られるよう、中央委員会はお願いする。V. Oulianoff, 3, rue de la Colline (près Pont-neuf). Genève (Suisse)」。こうして、大会での分裂以後初めて、党中央委員会は、この組織上の細部においても、当時メンシェヴィキの手にあったわが党の中央機関紙から解放されたのである。
この二重の住所は、『イスクラ』第72号(1904年8月25日)まで刷られる。まさにこの号に、当時の党中央委員会の、とりとめのない、「どの姉妹にも耳飾りを配る(誰にも気を使った)」声明が載った。中央委員会では変化が起きていた。ボリシェヴィキのF. V. レングニクはロシアで非合法の身で逮捕された。ボリシェヴィキの何人か(同志グレーブ)はひどくぐらつき、調停派の中央委員会をつくった。おそらく、党内の「いさかい」がやむことを心から望んでいたのだろう。だが党内にはいさかいなどなく、深い原則上の意見の違いがあったのだから、中央委員会のこういう人のよい気分全体が党のためにならず、かえってまっすぐに害になったことは、言うまでもない。それはしばらくのあいだこの意見の違いを覆い隠したが、まもなくそれはいっそう鋭く現れることになった。中央委員会は、もちろん、同志レーニンが中央機関紙の編集部に入るよう希望を表明したが、この提案がなされたのは、メンシェヴィキの仲間がみなレーニンをスプーン一杯の水にでも溺れさせかねないことが、皆によく知られたあとのことだった。調停派の中央委員会のもう一つの美しい希望は、皆がいさかいをやめることだった。そしてその場で「中央委員会は、現時点での臨時大会の招集と、その大会のための扇動に、断固として反対を表明した」。言うまでもなく、決議のこの項は、まっすぐに党内のボリシェヴィキに向けられていた。その場で、ウラジーミル・イリイチ・レーニンへの間接の攻撃もなされた。第6項で、「ロシアにおける中央委員会の活動と、国外におけるその代表(レーニンと読め)の活動との不一致が党組織にもたらす害を考慮し、中央委員会は次のとおり決定する。中央機関紙との関係において、中央委員会の代表は、委員会の直接の委任によらないかぎり、責任ある行動をとらない」とうたわれたのである。党中央委員会のこういう人事の変化と政策の路線の変化のあとでは、全線にわたってメンシェヴィキへの陣地の明け渡しが始まることはまったく明らかだった。そしてそのとおりになった。在外代表には、メンシェヴィキ型の調停派が任命され、彼はすぐさまメンシェヴィキのカノッサへ出かけ、同じ『イスクラ』の号に、同志マンデリシタムがドイツ語で出した本『党危機の解明のための資料』に反対する声明を、「リャージン、中央委員会全権委員」の署名で載せた。中央委員会はこの本と何の関係もない、というのである。そしてこの号から、もちろん、党中央委員会あてのV. I. ウリヤーノフ(レーニン)の住所が『イスクラ』から消える。発送部の住所も消え、すべての通信はふたたび中央機関紙の住所(アクセリロードら)に委任しなおされた。さらにこの声明によって、党中央委員会は全同志に、党の印刷所では多かれ少なかれ「重要な」作品が印刷されるが、中央委員会の出版物は今後「中央委員会刊」という記載をつける、と知らせた。
このあいまいな声明は、もちろん事情を知る者にしか理解できなかった。実際、この「重要さ」を誰が決めるのか? もちろん中央機関紙、つまりメンシェヴィキである。つまり、ボリシェヴィキの文献は、もう全党の資金で世に出ることはできない、ということだった。これまでわれわれは、出版物によって中央機関紙とメンシェヴィキ全体に多くの不愉快な思いをさせていた。実際、彼らの揺らぐ陣地を容赦なく一歩一歩暴き、新しい『イスクラ』の新しい戦術は労働者階級にとってよい結果にならない、とどこでも労働者の目を開かせる文献に、彼らがどんな「重要さ」を認めえただろう? 党の発送部を通じて出され、ボリシェヴィキの書き手の筆になるわれわれの出版物の一覧を見れば、そこには実際、メンシェヴィキにとってまったく苦々しいものがたくさんあったことに、十分納得がいくだろう。その出版物とは次のとおりである。
- N. レーニン『「イスクラ」編集部への手紙(なぜ私は編集部を去ったか)』。読者が覚えているように、中央機関紙の編集部によって印刷を「延期」されたもの。
- N. レーニン『同志への手紙(われわれの組織上の任務について)』
- パヴロヴィチ『ロシア社会民主労働党第2回大会について同志たちへの手紙』
- V. V. ヴォロフスキーの筆になる『ロシア革命的社会民主主義者在外同盟第2回大会議事録への注釈』
これらはみな数か月のうちに出版されたもので、メンシェヴィキには、われわれが今後もこういう暴露的な文献を印刷しつづけることは明らかだった。
二つの椅子のあいだに座るのは不便であり、政治では不可能でさえあるから、われわれの調停派が客観的にメンシェヴィキの椅子に座りなおさざるをえなかったことは明らかであり、彼らの調停の活動全体は、もちろん、メンシェヴィズムへの坂道を下っていった。
われわれは発送部などで以前どおり働きつづけたが、一緒に働く最後の日々が近づいていることをはっきりと見ていた。
13 軍隊のなかでの非合法の仕事
ロシア社会民主労働党は、ずっと前から軍隊のなかでの仕事を整えようと努めてきた。その本質からして、この仕事はきわめて困難で危険だった。ニコライ2世の政府の手先たちは、自由なロシアの言葉が農奴のように縛られた兵士の兵営にいささかも入りこまないよう、兵士の誰一人として、プロレタリアートの思想の宣伝に人生の目的と意味を見いだしている人々と「犯罪的な」知り合いになれないよう、目を光らせていた。そして実際、兵営に入りこむのはきわめて難しかった。わが党が働きはじめたばかりの19世紀の90年代には、われわれの非合法の集会に兵士の制服がちらりとでも現れたことは、ほとんど覚えがない。当時の非合法文献も、兵士の外套を着た労働者や農民の暮らしについて、兵営からの直接の参加はもとより、短い報告さえ、ごくまれにしか記していない。当時の軍隊は、全国を抑圧する帝政のよく調教された従順な道具だった。
彼らはおとなしく全国をめぐり、学生の、労働者の、農民の、そのほかあらゆる運動とたたかい、鉛の弾と鞭で、おずおずとした抗議を黙らせた。その抗議はときに激しいストライキや、地主の土地の境界で死んでいく農民の必死の抵抗になったが、彼らが求める「真実」は一つの言葉で表されていた。「土地を、土地がほしい」。
労働者を銃撃した「勇敢なるファナゴリア連隊の兵士たち」へのツァーリの祝辞、農民の懲罰に対する軍の褒賞。それが、「内なる敵」、つまり奴隷の鎖を断ち切ろうとするロシアの民衆そのものとたたかうために帝政政府が送り出す兵士の部隊の死をもたらす遠征に、いつもどこでもつきそうものだった。
わが党の力による軍隊のなかでのいくらかでも組織的な仕事は、日露戦争のときから始まる。動員のおかげで、宣伝を受けた労働者や、プロレタリアートの立場に立ち、マルクス主義と社会民主主義の闘争戦術を身につけたインテリの何人かが軍隊に入りこむ。あちこちの兵営にわれわれの檄文が現れ、兵士や下級将校の小さな自己教育サークルができたりした。目ざとい上官たちはまもなくこの手間のかかる仕事にも気づきはじめ、兵営に入りこむ「民間人」をとくに念入りに監視するよう求める、一連のいかめしい通達を出す。この秘密の通達は国外の新聞に載り、それによって、われわれの組織と兵営とのあいだに疑いなくつながりがあることが、あらためて強調される。日露戦争が始まるとすぐ、わが党は、労働者と農民の血の流れのなかに両国の自国ブルジョアジーの繁栄を見いだそうとする、世界帝国主義のこの新しい現れに、ただちに反応しはじめた。わが党の中央委員会は宣戦布告のすぐあとで、二つの檄文を出した。一つは「ロシアのプロレタリアートへ」、もう一つは「兵士へ」で、「ロシアの兵士は何のために死ななければならないのか」という題だった。そしてわが党の中央機関紙『イスクラ』は、そのとき戦争について五つの檄文を次々に出した。1)「戦争に反対する戦争」、2)「すべての労働人民へ」、3)「国際的な憲兵」、4)「社会へ」、5)「誰を助けるべきか?」。檄文はすべて国外で出され、われわれのあらゆる出版物に転載され、非合法でロシアに大量に現れた。あらゆる手段でそれを兵士のあいだにも広めようとした。ペテルブルク、モスクワ、オデッサ、ニコラーエフ、ハリコフ、そのほかのわが党の委員会も、何よりも兵士大衆に向けた同じような檄文を出した。檄文のほかに、わが党はこのころ、ロシアの一般の兵士にもわかる一連の小冊子を出しはじめる。国外で出された兵営の生活の物語がロシアに入りこみ、すぐに兵士のなかに読者を見いだす。1903年にはもう、被告がもっぱら兵士で、わが党の出版物を含む非合法文献の保管と配布の罪に問われる、最初の政治裁判が見られる。
日露戦争が始まってまもなく、日本に大勢のロシア人捕虜の兵士が連れてこられるようになった。わが党の在外委員会は私に、ロシア人捕虜の兵士にわれわれの文献を供給する手はずを整えるよう任せた。わが党のジュネーヴ中央発送部は、ロシア人捕虜の兵士がいる収容所への道を見つけることができた。これにいちばん力を貸してくれたのはニューヨークに住むロシア人たちで、とりわけ、とうにアメリカの正式な市民となり、当時フィリピン諸島の政府で高い地位についていた有名なロシア人亡命者ラッセル医師(ルッセリ)を通じて、とてもうまく、多くのことができた。ラッセルはロシア人捕虜の救援委員会を組織することを許されていた。この委員会は彼らに下着、食料、筆記用具、新聞や本を供給していた。新聞や本はわれわれからラッセルのもとへ行ったが、さらに秘密を守るため、ニューヨークで荷造りしなおされ、ジュネーヴからではなくニューヨークからの小包としてラッセルのもとに届いた。まもなくわれわれは兵士から、本や新聞を求める手紙を受け取るようになった。それらの手紙はフィリピン諸島から転送されてきた。ロシア艦隊が次々に敗北し、多くの水兵が上海、シンガポール、香港、そのほかの港町に抑留されたとき、われわれはすぐにそちらへ注意を向け、同胞に大量の文献を送った。これらの場合のほかにも、われわれは一般に、インド、中国、大洋の島々のすべての港町の書店に、われわれの文献を置いた。対馬へ向かったロジェストヴェンスキー提督の艦隊の航路を準備するわが国の船や、あらゆる商船がたえずそこに寄港していたので、岸に上がった水兵は誰でも、われわれの国外の出版物を全力で手に入れようとすることをよく知っていたからである。実際そのとおりで、これらの土地でのわれわれの文献の売れ行きは活発だった。
ロシア人捕虜のあいだでのわれわれの仕事に対するG. V. プレハーノフの態度を記しておくのは、たいへん興味深い。
党の発送部がまだ一つだったころ、あるとき私はゲオルギー・ワレンチノヴィチからメモを受け取った。「重要で急を要する用件で」住まいに来てほしいというのである。G. V. プレハーノフは当時、党評議会のメンバーで、新しい『イスクラ』編集部のメンバーだった。V. I. レーニンはもう編集部を去り、マルトフとその仲間がプレハーノフによって補充選任されていた。
行く。
ゲオルギー・ワレンチノヴィチは秘密めかして私を迎え、客間に通して言う。
「党評議会から正式の問い合わせをする前に、古いなじみのしるしとして、二人きりで率直に話そうと思ってお呼びしたのです」
「いったい何のことです?」と私はいぶかった。
「教えてください、ただしまったく率直に。あなたはわれわれの党の発送部の立場で、日本政府と関係を結んだのですか?」
私は思わず目を見開いた。そしてどうやら、私の顔には隠しようのない驚きが表れたらしく、ゲオルギー・ワレンチノヴィチはすぐに付け加えた。
「もしかしたら、そういう試みがあったのでは。誰かがあなたに近づいて探りを入れたとか、誰かがあなたをこの件に向けたとか?」
私はすぐに、この話の矛先がもちろん発送部ではなく、私に向けられているのでもないことを悟った。当時、アクセリロード(原注)の手軽な筆から、ウラジーミル・イリイチは、独裁的な目的を達するためにはどんな手段も辞さなかったドイツの活動家シュヴァイツァーとどこでも比べられるようになっていた。だから明らかに、ここでもメンシェヴィキのあいだで、この方面からウラジーミル・イリイチの評判を落とそうという考えが生まれたのだ。ちょうど帝国主義戦争の時期に、アレクシンスキーとその一味のあいだで、ウラジーミル・イリイチに対する同じような中傷がつくりあげられたように。ブルジョアジーと黒百人組のあからさまな手先であるこれら卑劣な紳士たちは、ウラジーミル・イリイチが戦争中にドイツ政府と関係をもったと非難してはばからなかったのである。
(原注)『イスクラ』第55号(1903年12月15日)の彼の雑文「ロシア社会民主主義の統一とその任務(手工業性の清算の総括)」の末尾を参照。
これらのほのめかしがどこへ向かっているかを悟って、私ははっきりと、きつくプレハーノフに答えた。
「党評議会のメンバーであり、最古参の社会民主主義者であるあなたが、明らかに中傷的な噂話を情報の糧にし、つい最近までの親しい同志に政治的な卑劣さの疑いをかけられるとは、驚きです」
ゲオルギー・ワレンチノヴィチは、どうやら自分の立場の気まずさをすっかり悟ったらしく、すぐに言った。
「まさにそれをすべて、私的な会話でも、もしかしたら党評議会でも反駁するために、あなたを前もってお呼びしたのです。じかに源から、まったく正確で確かな情報を手に入れて、反駁の余地のないようにするために。私自身は」と彼は付け加えた。「そんなことはまったく信じない、それは噂話だ、きっとまったく別の何かが隠れているのだ、とはっきり言いました……」
私は、ラッセルを通じて日本のわが捕虜に非合法文献を供給する組織全体について、詳しく話した。彼は、われわれがそんなに大量の文献をそこへ送っていることにひどく驚いた。ラッセルは個人的に知っており、たいへん精力的で革命の事業に献身した同志として全面的に推薦する、われわれの活動を全面的に支持する、と言った。
私はすぐに付け加えた。
「もしわれわれが日本の労働者党とごく緊密な関係を結び、それを通じて捕虜のあいだでの宣伝をさらに精力的に行うことができたなら、きっとそうしたでしょう。われわれは戦争を宣言した帝政政府をまったく認めず、もちろん、ロシアと日本の両方の政府の頭越しに、日本のプロレタリアートとともに、この戦争を壊すために兄弟として働いたでしょうから。けれども、まことに残念ながら、日本のプロレタリアの組織はあまりに弱く、それを試みる意味がありません。それでわれわれは、ラッセル医師を通じた活動と、船や石炭船や軍艦や輸送船などが寄港すると考えられ、ロシアの水兵や兵士や将校や官吏や労働者が岸に上がり、したがってわれわれの文献を買うことのできる、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアのあらゆる港町の書店にわれわれの文献を置くことにとどめることにしたのです。もちろん」と私は付け加えた。「それらすべての町に、たとえ無給でも、われわれの宣伝家や扇動家や文献の配布者がいればもっとよかったのですが、残念ながら、そこへ人を送る力も資金も足りません。現地でふさわしい人を見つけるのは、きわめて難しく、ほとんど絶望的です」
プレハーノフは、ロシア人捕虜や水兵や兵士のあいだでのこの仕事の計画に夢中になりはじめ、決してそれを否定せず、プロレタリアートにとってブルジョア政府との闘争以外に何の関わりもないのはもちろんのことであり、プロレタリアートのあらゆる連帯、まして隣りあう二つの民族の生活のこれほど緊迫したときの仕事は、望ましいばかりか示威的なものであり、そのうえ強力な扇動の手段としてきわめて有益だ、とはっきり言った。のちに私は、彼自身が世界社会主義大会で、日露戦争についての演説をし、日本のプロレタリアートに挨拶し、大会での日本の代表、同志片山と兄弟の契りを交わし、手を握り、大会全体の万雷の拍手のなかで彼と抱きあったとき、思わずプレハーノフとのこの会話を思い出した。それは、排外主義が荒れ狂っていた日々に、世界の注目を集めた重要な政治的示威だった。
私はプレハーノフに付け加えて、数日前、党の発送部がベルリンの日本領事館から、『イスクラ』と『ラスヴェート』を2部ずつ予約する手紙を受け取ったこと、われわれはこの予約者をほかのすべての予約者と同じく登録し、ほかのすべての予約者と同時に新聞を送っていることを話した。ついでに、われわれの新聞や文献の予約者や注文者には、あらゆる公的な場所や機関(さまざまな政府、ロシアの大使館や領事館にいたるまで)がかなりたくさんあり、われわれはもちろん、それが誰であるかにまったく注意を払わず、すべての予約者の注文にこたえている、と伝えた。
プレハーノフはそれにまったく同意し、付け加えた。
「書店や駅や売店でわれわれの出版物を誰が買ったかまで、本当に取り締まるわけにはいきませんからね!」
これでわれわれの話は終わった。
ゲオルギー・ワレンチノヴィチは別れぎわに、日本にいるロシア人捕虜のあいだでの仕事の結果を知らせてほしいと頼み、付け加えた。
「これで、評議会でも、私の『友人たち』にも何を言えばいいかわかりました……」と彼は苦笑して言った。「おばさん連中の噂話を政治的な意見の違いに変えようとする者たちに恥をかかせる、十分な自信があります……」
そしてわれわれは別れた。
ロシアにとって恥ずべき敗北に終わった日露戦争は、ロシアを最初の革命へと導いた。この出来事の展開のなかで、誰もがもちろん覚えているのは、黒海艦隊の水兵の反乱である。彼らのあいだではわれわれの宣伝と扇動がたえず行われており、黒海の提督ギリデブラントはそれにいかめしい通達で憤慨していた。周知のとおり、反乱を起こした「ポチョムキン」の艦上には、オデッサとニコラーエフの委員会のわれわれの同志たちと、わが党の中央委員会が「ポチョムキン」に送りこんだ特別全権の人物、われわれの親しい同志のボリシェヴィキがいた。続いてキエフの工兵の反乱が起こり、国外には最初の兵士と将校の政治亡命者、つまり海と陸の反乱に積極的に参加した人々が現れた。彼らの多くはロシアでわが党の名で働き、国外で正式にわが党に加わった。ロシアでのこれまでにない力強い社会的・政治的運動の運命全体が、軍隊が蜂起に加わるか、それとも蜂起に反対するかにかかっていることが、誰の目にも明らかになったからである。
多くの場所でわれわれのこの宣伝と扇動はよい成果をあげ、軍隊は10月の巨大な街頭デモに引き入れられた。だがわれわれはまもなく、軍隊へのわれわれの働きかけがやはりきわめて弱く、この仕事に全力を注がなければならないことを確信せざるをえなかった。1905年末にはもう、われわれボリシェヴィキは、すべての委員会に、もっぱら軍隊のなかでの、兵営のなかでの宣伝に力を注ぐ軍事組織を設ける。すぐにわれわれの組織の非合法機関紙、新聞『カザルマ(兵営)』がつくられた。定期的にではなく、材料がたまり、発行の技術的な可能性ができしだい出された。われわれはそれをペテルブルクのさまざまな印刷所でひそかに出した。印刷はすばらしく、内容もおもしろかった。たいへん好んで読まれた。新聞はもちろん非合法で地方へも送られた。新聞のほかに、『カザルマ』の編集部からの檄文も出された。警察と保安部は、編集部の居場所をつきとめ、印刷所を押さえようとあらゆる手を尽くした。いちばん滑稽だったのは、あるとき保安部が、私が管理していた(ペテルブルクの)わが党の出版社「フペリョード」を徹底的に打ち壊したときのことである。文字どおり何もかもひっくり返し、私とほかの同志を逮捕したが、われわれのところで校正係ということになっていて、実際には新聞『カザルマ』の仕事に全面的に打ちこんでいた同志チュジャーク(ナシモーヴィチ)、日露戦争中にアルハンゲリスクで兵役を拒否し、裁判にかけられ、拘留から国外へ逃亡し、1906年にはペテルブルクで他人の旅券で暮らしていた彼を、保安部はわれわれの店から客と一緒に外へ出してしまった。どうやらスパイから何かのほのめかしを得ていたらしく、保安部の役人たちは念入りに何かを探し、ペチカのなかなどものぞいたが、天板の下や脚のなかなどに『カザルマ』の文書が保管されていた、ありふれた仕掛けの机を見つけることはできなかった。そして私は監獄から出たあと、この文書を無事にその場所から運び出し、われわれの軍事組織に渡した。
残念なことに、ペテルブルク委員会付属のわれわれの軍事グループには怪しい分子が入りこみ、そのなかには明らかにスパイがいた。『カザルマ』の主な活動家たちは逮捕され、軍法会議にかけられ、シベリアへ流された。『カザルマ』のあとも、兵士向けの新聞を出そうとする試みが何度かあったが、あまり成功しなかった。
1907〜1908年の反動の暗黒の年月には、われわれの仕事は労働者街でさえきわめて困難になり、軍隊のなかではとりわけそうだった。
周知のとおり、第2国会の会派は、兵士のあいだでの宣伝の件で摘発された。
兵士のあいだでの宣伝の問題には、ほとんど近づけなかった。保安部はそれほど厳しく兵営を見張り、どうやらこの点で配下の手先にとくに強い命令を出していたらしい。
たとえば、われわれが挑発者として見破った、ペテルブルクの有名な活動家、あだ名「リューシャ」は、全力で、彼女の言う「強力な」軍事社会民主主義組織をつくろうとし、まったく誰も彼もをそこへ引きこもうとした。この抜け目のない女をひどく疑わしく見るようになったわが党の経験ある古い秘密活動家たちの、二重の用心だけが、何十人もの同志を確実な摘発から救った。「リューシャ」はまもなく正体を暴かれ、すばやくペテルブルクから姿を消した。
もう一人の有名な挑発者ミロンは、『プラウダ』でいつも何とかして軍事の問題に触れ、それによって新聞も編集部も協力者も破滅させようとしていた。
そして最後に、最も有名な挑発者マリノフスキーは、全力で、彼の言う「国会外の」軍事組織を自分のまわりにつくろうとした。「軍隊のなかに支えをもつ」ためだというのである。そしてちなみに、マリノフスキーにそもそもきわめて用心深く疑い深く接していた筆者が、この提案をしてきた彼をあっさり追い払ったとき、彼はひどく憤慨した。それからよいことは何も生まれないのがはっきり見えていたからである。この件でマリノフスキーときっぱり決裂した3週間後、彼は国会で挑発者として暴かれ、ピーテルの地平から姿を消した。そして私は、彼が同じ提案をもちかけたほかの同志たちと同じく、念入りな家宅捜索とスパイのとりわけ厳しい監視を受けた。
こうしてこの数年、軍隊のなかでのわれわれの宣伝はほとんどまったく静まり、帝国主義戦争の年月にふたたび盛りあがることになる。
14 V. I. レーニンの本『一歩前進、二歩後退』の刊行
同じころ、1904年春、党の印刷所でウラジーミル・イリイチの本『一歩前進、二歩後退(わが党の危機)』が印刷されていた。この本はメンシェヴィキをすっかり悲しませるはずだった。彼らは、それが出れば党のなかでまちがいなく転換の気分が現れはじめること、もちろんメンシェヴィキに有利ではない気分が現れることをよく知っていた。だからこそ、新しい在外代表の同志ノスコフが任命されると、彼らは元気づき、ウラジーミル・イリイチのこの本を差し止めようと試みたのである。
ウラジーミル・イリイチの著作がメンシェヴィキの手にある党の印刷所で組まれていたとき(原注)、私は念のため、この本を折りごとにあらかじめすばやく印刷し、同じように製本所へ運び出す手を打ちはじめた。製本所ではそれがすぐに作業にかけられ、最後の折りが刷りあがったらすぐに本を世に出せるようにするためである。私は、党の印刷所の責任者たちがウラジーミル・イリイチの本の刊行に障害を設けるかもしれないと、はっきり考えていた。私の暗い予感は当たった。製本所で最後の折りをすばやく綴じ、表紙を貼り、同じくすばやくウラジーミル・イリイチの本を発送部に届けたとき、つまり居留地、グループ、書店、個人へすぐに送り出す手はずがすっかり整えられていた発送部に届けたとき、われわれの発送部に突然、中央委員会の在外代表、同志ノスコフが現れ、私にたずねた。
(原注)ついでに、イストパルトのための情報として。ウラジーミル・イリイチの『一歩前進、二歩後退』の原稿は、彼が直接清書して書いたもので、ほとんど一つの書き直しもなかった。書きはじめる前に、彼はそれほどすべてを自分のなかで練りあげていたのである。私はその原稿そのもの、大判の便箋に書かれたものを大事に保管していた。それは、われわれのジュネーヴのグループが組織した、われわれの発送部の文書庫、ロシア社会民主労働党の図書館と文書庫の、きわめて貴重な財産のすべてとともに、スウェーデンへ送られた。そこには100箱以上あった。この党の財産をすべてストックホルムから受け取るために、緊急の手を打たなければならない。そこには、ごくまれな、いや最もまれな出版物、原稿、手紙などがある。これはぐずぐずしてはならない。
「レーニンの本はいつ出るんです?」
「もう出ました……」と言って、私はできあがった1部を彼に渡した。
「どういうことです? つい今しがたまで印刷していたのに」と彼はいぶかった。
「今はもう製本されています」
「あなたたちは何をしているんです?」と彼は問いつめた。
「本をあらゆるところへ送るための小包を準備しているところです」
「いや、いや、それはいけない……私はまだそれを読まなければならない」
「どうぞお読みください……」
「いや、いや、送ってはいけない……中央委員会の権限で送ることを禁じる」
われわれは大笑いした。
「検閲官の役を演じる中央委員会代表だ……」
「これが調停派か!」
「とんでもないことだ……」という声があちこちから聞こえた。
「中央委員会の名で正式に申し入れ、ウラジーミル・イリイチの本の発送の停止を求められたのですから」と私はノスコフに言った。「まず第一に、あなたの言葉をただちに書面で確認していただきたい。第二に、あなたにそういう申し入れをする権限を与える党規約の条項を示していただきたい……」
ノスコフはかっとなって青ざめ、文字どおりわめいた。
「禁じる、禁じる、中央委員会への不服従だ、見ていろ、除名するぞ……」
われわれの尊敬すべき同志がすっかり激怒の発作に陥っているのを見て、われわれはただ笑い出し、党の隊列のなかで検閲官の役を演じるのは中央委員にとってどれほどふさわしくないかと言った。私のほうからは、彼の書面による通知を待つが、もちろん発送は止めず、それどころか当面はそれを強める、と言った。
ノスコフは熱湯をかけられたように発送部から飛び出し、弾丸のように中央機関紙のところへ駆けていった。われわれは落ち着いて仕事を続け、ウラジーミル・イリイチの本をすぐに大量にあらゆる国へ送り出し、ロシアへ届けるための最も精力的な手を打った。
この件ではノスコフとのあいだで手紙のやりとりがあったが、彼はもう発送部には現れなかった。
決裂はますます熟していった。
われわれはウラジーミル・イリイチの本の発送に力を入れた。製本されたものをすべて受け取り、ロシアへ送るための薄紙のものも含めて、すぐにあらゆる可能な道で党の委員会や組織へ送り出した。ウラジーミル・イリイチの本はメンシェヴィキのあいだに憤激の爆発を呼び、もう『イスクラ』第66号(1904年5月15日)に「わが党の意見の違いについてのカウツキー」という雑文が載り、そこで『イスクラ』編集部はウラジーミル・イリイチの新しいパンフレットをこきおろしはじめた。ほかの論文では、とくにマルトフが、第2回大会の論争全体を、原則的な意見の違いの高みから、個人的な恨み、編集部の席をめぐるいざこざなどへ引きずりおろそうと、あらゆる手を尽くした。
15 ボリシェヴィキのメンシェヴィキからの最終的な組織上の分離
まもなく、ついに完全な技術上の線引きの時が来た。中央委員会の新しい在外代表は、発送部を自分の手に引き取りたいと望んだ。われわれはそれにすっかり準備ができていた。党の発送部の財産を引き取るための委員会が私のところへ来たとき、私はもちろんすぐに、公正に言ってメンシェヴィキに属するものはすべて引き渡すことに同意した。最初の会合で私は、彼らはボリシェヴィキの書き手の筆になる文献、まして分裂後に出た論争的な文献はあまり広めたくないだろうから、言うまでもなくそれはわれわれの発送部に残しておく、と指摘した。
「では、あなたたちは自分の発送部をもつのですか?」と誰かが私にたずねた。
「もちろんですとも。メンシェヴィキの『イスクラ』がわれわれから去ったら、われわれが死ぬとでも思っているのですか?……」
私は、以前も今も出ていて、一般的な理論の性格をもち、われわれにも十分受け入れられる文献を、「相互の合意によって」できるだけ多く平和的に勝ちとろうと努めた。この問題はかなり平和的に片づいた。
最後に私は、彼らはいつ引っ越すつもりかとたずねた。
そしてここでようやく、発送部の住まいを自分たちの名義で借りておいたことがどれほどよかったかがはっきりした。メンシェヴィキはわれわれからこの住まいを奪い、それによって新しい発送部を設けるための大量の手間をわれわれにかけさせようとしていたことが明らかになったからである。
私はきっぱりと、この住まいは私の名義で借りたもので、誰にも渡すつもりはまったくない、私にはそれが必要だ、などと言い、その場で、彼らには自分たちの発送部があり、その住所なども『イスクラ』に刷られていると指摘した。とうとうこの問題も片づき、まもなくメンシェヴィキは自分たちのものをわれわれのところから運び去った。
16 新しいボリシェヴィキの出版社の組織
われわれはほっと息をついた。少なくとも、われわれの関係はすっかりはっきりした。われわれはパンフレットを出すことにした。ウラジーミル・イリイチは私に、この仕事を組織して、党の名を見出しに掲げながら、「ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチ出版社」という総称で本を出しはじめるよう提案した。私は喜んで同意し、数日のうちに、小さなロシア語の協同組合の植字所をもっていた亡命労働者のグループと契約を結んで、印刷所の手はずを整えた。われわれはそれを、皆が住んでいた同じ建物に移し、すぐに仕事にかかった。大会のための闘争、メンシェヴィキとの論争に向けたパンフレットを次々に出した。レーニン、ガリョールカ、リャドヴォイ、シャホフ(マリーニン)、オルロフスキーらのパンフレットが次々に出て、いたるところに広められた。メンシェヴィキははっきりと不満を示し、とうとう私は党評議会から問い合わせを受けた。なぜ評議会の許可を求めずに本を出すようなことをしたのか、というのである。
私はすぐに短い返事を用意し、党員の誰かが社会民主主義の書き手のあれこれのグループの筆になる本の出版に携わることを禁じている、わが党の規約の条項を示してほしい、と評議会に頼んだ。この返事は、送る前にもちろんウラジーミル・イリイチに見せ、彼は全面的に賛成した。党評議会は私の問いに答えないままにし、われわれの出版活動は順調に発展しつづけた。何冊かのパンフレットが出て、すっかり組織ができあがり、仕事を続けるのがとても簡単になったとき、私はウラジーミル・イリイチに、すべての出版物に彼の住所をつけ、出版社そのものも私の名ではなく彼の名にしてほしいと頼むことにした。ウラジーミル・イリイチはきっぱりと断り、新しくつくられつつある党(さしあたりは分派)である社会民主主義ボリシェヴィキにとって、そのほうが千倍も権威があり、よいという私のあらゆる論拠にもかかわらず、それをすべて退け、私の住所だけが残ることを断固として、きっぱりと主張した。そして、私がいくつかの会話について内々に話し、われわれ自身の同志の何人かのあいだに私に対する嫉妬や不満や要求の兆しがあるという一連の論拠と事実を挙げ、こういう亡命者のくだらないことで何か力がそがれるのをひどく恐れている、私の姓が示されなくても、もちろん以前も今もそうしてきたように働く、彼の、ウラジーミル・イリイチの出版社から本が出れば、すでに述べた不満が見られるところにすっかり平静がもたらされるだろう、と言ったあとで、ようやく彼は私に言った。
「まあ、いいでしょう。平静のためなら刷りなさい、こんなふうに」と言って、すばやく紙切れに書いた。
「ウラジーミル・ボンチ=ブルエーヴィチとN. レーニン刊」
私は鉛筆をとって、自分の姓を消そうとした。
彼は突然じっと、厳しく私を見て、短く言った。
「それはしてはいけない……」
鉛筆を取りあげ、すぐにたくさんの問題についての実務の話に移った。
17 協力グループの組織と運営
われわれは日ごとに組織を強めていった。
まもなくわれわれのジュネーヴの中心は、すでにあるわれわれの組織の協力グループを整え、彼らと知りあい、グループに党の状況を知らせるために、私をスイスめぐりに派遣し、ワツラフ・ワツラヴォヴィチ・ヴォロフスキーをドイツ、フランス、ベルギーへ送った。
彼も私も、生まれつつあったボリシェヴィキ組織の協力グループを組織し、結びつけることができた。
ベルンでは、そういうグループの先頭に、ベルン大学の学生、同志ラドムイスリスキー(ジノヴィエフ)、現在のペトログラード労働者・赤軍代表ソヴィエト議長と、のちにわれわれの軍事組織のメンバーとなり、帝国主義戦争中に志願して加わったフランス軍の隊列でフランスで戦死したカザコフ(スヴィヤギン)が立った。
ベルンのグループは「日露戦争についての報知」の発行に取りかかり、この事業からの収入をすべてボリシェヴィキの金庫に送った。同じようなグループがほかのすべてのスイスの町にもできた。ワツラフ・ワツラヴォヴィチ・ヴォロフスキーは、ベルリン、ダルムシュタット、ミュンヘン、さらにリエージュ、ブリュッセル、パリに強力なグループを組織した。彼はどこでも暴露的な講演を行い、そのためどこでもメンシェヴィキに追いまわされた。メンシェヴィキは、ワツラフ・ワツラヴォヴィチがなぜ流刑地で最初の妻と別れたかについて、ありとあらゆるばかげたことを言いふらすことより、ましなことを何も思いつかなかったのである。
もちろん、メンシェヴィキのこの立派な「原則的」キャンペーンは、われわれの隊列のなかでは、こういう噂好きの連中への笑いや冗談や軽蔑のほかには何も呼び起こさず、この穏健できちんとした人々の気風には、俗物根性といちばんいやらしい小市民性が支配していることを、あらためて浮き彫りにしただけだった。
国外でのわれわれの文献の普及の仕事をすっかり組織し整えると、われわれは同時に、われわれの出版物をロシアへ運ぶ組織に懸命に取り組んだ。
18 小口の運搬
国境を越えるふつうの文献の移送のほかに、われわれはいわゆる小口の運搬を組織することにした。この仕事でいちばん大事なのは、われわれの仕事をできるだけ秘密に行えるような、ふさわしいスイスの作業所を見つけることだった。
党の分裂のとき、V. M. ボンチ=ブルエーヴィチ(ヴェリチキナ)は、ジュネーヴのボリシェヴィキ・グループで、このいわゆる「小口の運搬」という手間のかかる役目を引き受けた。というのも、われわれは、個々のパンフレットにしても、われわれの新聞『フペリョード』にしても、呼びかけ、ビラ、討論や政治の資料にしても、出版物が出たらすぐに、たとえ1部ずつでも、ロシアへ送らなければならなかったからである。われわれの労働者組織、委員会、個々の責任ある同志は、ボリシェヴィキのジュネーヴの主任編集者であり指導者であるV. I. レーニンがしっかりと進めている政治路線をいつも知り、感じとることができるように、それをできるだけ早く手に入れなければならなかった。
ヴェーラ・ミハイロヴナは、われわれの仕事に共感していた「自分の」スイス人の製本職人に課題を出した。印刷されたごく薄い紙を貼りあわせることができ、しかも湿らせれば一枚一枚簡単にはがせるような糊を考え出すことである。われわれのスイスの友人は数多くの実験をして、イギリスでふつう福音書を印刷するごく薄い聖書用紙か、それにふさわしい種類の紙に印刷して貼りあわせたわれわれの文献を、ぬるま湯を張ったたらいで用心深く湿らせれば、一枚一枚自由にはがし、乾かして、ふつうの新聞のように読めるようにした。当時のわれわれの実際の目的にとって、これは大きな成果で、発送のさいに大きな利点をもたらした。貼りあわせれば体積が最小になり、そして何より、貼りあわせたものはすべて、製本用の厚紙、額縁の台紙、絵を貼るための厚紙、アルバムのページ、トランクの底や側面、化粧道具入れ、手鏡の台、ケースや婦人帽の箱などのあらゆる品物をつくる材料として使えたからである。この技術上の改良を達成すると、ヴェーラ・ミハイロヴナは自分で、また知り合いを通じて、ジュネーヴでもほかの町でも、ジュネーヴのいたるところに現れるロシアのスパイの注意を引かないように、ありとあらゆる品物や小物を買い集めはじめ、一部は自分の住まいに運び、一部はジュネーヴの知り合いのところに預けた。そして仕事は沸き立った。われわれの文献のおびただしい部数が、こうしたたいへん優美な小物のなかに仕込まれた。あらゆる聖母像や、西ヨーロッパの最良の画家たちのほかの版画が、一流の製本職人の最高の技術と優美さで、1枚ずつ、またはまるごとわれわれの文献だけでできたアルバムとして、厚紙に貼られた。あとは、ロシアへ行くたまたまの旅行者にこれらの品物を渡すとき、スパイの注意を引かないようとくに用心するだけでよく、それは一連の回り道によって完全に果たされた。
しばしば、どこかの大ブルジョアの家族や、ロシアへ向かう女子学生は、V. M. の「親類」や知り合いへの優美な贈り物を持っていくことで、自分たちが確かな運搬係であり、文字どおりわれわれの文献を詰めこまれて旅しているなどとは、つゆほども思っていなかった。聖母像などの版画は、製本職人を通じて単に郵便で送り、それが摘発された例を私は知らない。
私自身がこの小口の運搬のサービスを利用することになったときのことを、よく覚えている。1905年初め、組織の依頼で非合法の身でロシアをまわっていたとき、ハリコフで、私をかくまってくれた急進的な家で、彼らがほんの数日前に国外から、豪華な台紙に優美に貼られた、すばらしい三色刷りのベックリンの絵を受け取ったことを知った。
主人と女主人は、「復活祭」にこんなにすばらしい贈り物を送ってくれた、自分たちを覚えていてくれた国外の親しい友人が誰なのか、あれこれ推測していた。私は、もう主人の書斎の壁を飾っていたその絵を見せてほしいと頼み、すぐに、それがジュネーヴの、われわれの運搬部からのものだと察した。
主人は快く絵を見せてくれ、消印がフランスの、「何とかいう町、モルネ」だったと言った。私は、郵便局をふさがないように、スパイにつけられないように、われわれがしばしば、ジュネーヴから数キロのところに国境があったフランスから、それもたいていモルネから出版物を送っていたことを知っていた。主人は「身内」の人間だったので、私は、この絵は私あてのもので、今後も彼はそれを受け取ることになり、すぐにわれわれの組織に渡さなければならない、と言った。すぐに大きなたらいにぬるま湯を頼み、書斎の戸に鍵をかけ、容赦なく台紙を切り開き、できるだけ上の紙の層をはがして、そのかたまり全体を水に沈めた。15分ほどで全体に水がしみこみ、私は簡単に一枚一枚はがして、これらの本の新刊を広い書斎じゅうに並べはじめた。主人はなんだか茫然として立っていて、すばらしいベックリンの絵が、われわれの新聞『フペリョード』の最新号や、レーニン、ガリョールカ、リャドヴォイのパンフレットや、さまざまなビラなどを生み出すのを、どうやら自分の目が信じられないようだった。紙はすぐに乾き、2時間後には、やって来た組織の同志たちと一緒に、大喜びで、急いでむさぼるように、わが党のこの最新の言葉をすべて読みはじめた。その場で新しい指示を受け取り、その日の夕方には、まったく新しい情報をもって集会で演説することができた。われわれが全身全霊で従っていたあの人の、ジュネーヴからの力強い声に励まされ、勇気づけられて。
ヴェーラ・ミハイロヴナは小口の運搬の仕事を発展させつづけ、西ヨーロッパの、さらにはアメリカのたくさんの町から、受け取った住所のかたまりにしたがって、封をした封筒で、ふつうの郵便の手紙として、大量のパンフレットをロシアへ送った。封筒の外見を念入りに変え、しばしば架空の商社の名を刷った。種苗店の目録、農機具、機械製造、薬品の目録を念入りに大量に集め、そこにわれわれの文献をはさんで、郵便でロシアへ送った。
一時は憲兵が叩いて調べることを覚えたためにすっかり失敗していた二重底のトランクも、われわれの製本職人の発明の才のおかげで、また使われるようになった。彼は知り合いの大きな手工業者を雇い、われわれのためにトランクをつくらせた。その骨組み全体が、われわれの糊づけした秘密の厚紙でできていたのである。だから二重底をつくる必要さえなかった。
こうして小口の運搬が働き、ヴェーラ・ミハイロヴナはそれに多くの力と精力を注いだ。そして、こういう発送が続いたあいだずっと、摘発は一度もなかった。小口の運搬はつかまえようのないものになった。実際、旅客が運ぶあらゆる品物を特別に調べ、あらゆるトランクを壊したりするわけにはいかなかったからである。そしてV. M. は、彼女がいたるところへ送った品物や絵などが目的地に届いたという知らせをたえず受け取って、限りなく喜んでいた。
19 われわれの新しい出版社の活動
このあいだにわれわれは次のパンフレットを出した。独自にわれわれの文献を出しはじめるにあたって、われわれは次の声明を載せた。「社会民主主義の党の文献、とりわけ第2回党大会の多数派の原則的な路線を擁護する文献の出版を企てるにあたり、すべての共鳴者に、この企てへの物質的・文筆的な支援を呼びかける。V. ボンチ=ブルエーヴィチ、N. レーニン」
そして少しずつ、この援助がさまざまな方面から寄せられはじめた。このあいだにわれわれは次の出版物を出した。
- ガリョールカ『ボナパルティズムを打倒せよ(中央委員会宣言の分析と批判)』
- ガリョールカとリャドヴォイ『われわれの誤解』。この興味深いパンフレットの内容は次のとおり。1)ガリョールカ「われわれの誤解」、2)同「誤解は晴れた」、3)リャドヴォイ「ついに」、4)L. M.「編集部から(『イスクラ』)」、5)リャドヴォイ「L. M. への回答」、6)同「『イスクラ』への協力を望む読者へのお知らせ」、7)同「ローザ・ルクセンブルク対カール・マルクス」、8)同「結論の一つ」、9)ガリョールカ「党なき機関紙と機関紙なき党」
- 『党へ』。内容:1)「党へ」、2)リガ委員会の決議、3)モスクワ委員会の決議、4)ジュネーヴ多数派グループの決議、5)1904年9月2日にジュネーヴで開かれた「調停派」の集会への多数派グループの公開状、6)「出版者より」
- リャドヴォイ『社会主義について』
- シャホフ『大会のための闘争』。内容:1. 第2回大会のための闘争、2. 編集部の交代に対する委員会の態度、3. 編集部の交代に対する委員会の態度(続)、4. 第3回大会のための闘争、5. 第3回大会のための闘争(続)、6. 中央委員会の一部の少数派への移行
- ガリョールカ『新しい道へ』。内容:「新しい道へ」、「腐った殻のなかの健全な思想」
- 『リュドミーラ・グロモゾワの演説』
- ゴーリンとリャードフ『仲裁裁判における第四者』
- 『ロシア社会民主労働党中央委員会在外代表の声明』
- カール・カウツキー『社会革命』。内容:1. 社会改良と社会革命、2. 社会革命の翌日
- 『党発送部の引き渡しについての声明』
- 『ロシア社会民主主義者在外同盟第2回大会議事録への注釈』
- N. レーニン『農村の貧民に(社会民主主義者が何を望んでいるかについての農民への説明)』
- N. レーニン『われわれの組織上の任務についての同志への手紙』
- N. レーニン『罰金について』
- N. レーニン『ロシア社会民主主義者の任務』
- オルロフスキー『アムステルダム大会と少数派の報告』
- リャドヴォイ『自由主義者の綱領』
- オルロフスキー『党に反する評議会』
読者が見てのとおり、これらはみな主として党内の問題、わが党内の新しい日和見主義の潮流に対する激しい闘争にかかわり、組織と戦術の問題を検討しており、ごくまれに、ほとんど偶然に、われわれはこの枠を出て、一般政治的な意味でそれに劣らず、しばしばそれ以上に重要なほかの問題に触れることができただけだった。マルクス主義の理論と実践の問題は言うまでもない。われわれの資金はきわめて限られていて、1コペイカも惜しみ、必要な額を文字どおり小銭をかき集めるようにして集め、自己課税、あらゆる募金、写真の販売などを導入した。そしてそれはすべて、もちろん、はるかに足りなかった。ロシアからも資金は来たが、反抗的なブルジョアジーのあいだにわれわれはつながりがなく、その資金は乞食のような稼ぎの労働者街から流れてきたので、われわれの金庫がひどく乏しくしか満たされなかったのは言うまでもない。
20 最初のボリシェヴィキの新聞『フペリョード』の組織
だが、それにもかかわらず、われわれは何としても文筆による宣伝と扇動の広い道に出なければならず、そのためには自分たちの新聞が必要だった。この考えは文字どおり私を休ませなかった。私は、われわれの金庫がほとんど空であることを前提に、その組織の実際をすべて考えぬいた。そのことを言ったとたん、ウラジーミル・イリイチがおびただしい実際的な質問を私に浴びせることがわかっていたので、私はとくに念入りに、何から何まで細かく考えぬいた。この企てについては、さしあたり数人の同志しか知らなかった。とくに詳しく、この問題をワツラフ・ワツラヴォヴィチ・ヴォロフスキーと話しあった。新聞の名として私は「フペリョード」を提案した。組織した労働者たちが稼ぎのためにわれわれの希望に全面的に応じてくれたロシア語の協同組合の印刷・植字所と取り決め、紙の掛け売りを取りつけ、印刷所の持ち主と話をつけて輪転機で新聞を刷ることを取り決め(以前われわれは彼のところですべてのパンフレットを刷っていた)、あらゆる計算、見積もり、配布方法、国外(ヨーロッパとアメリカ)での未来のわれわれの新聞の配布と現金での販売のおおよその見積もりをすませると、私はこれらの資料すべてと、新聞の題字の試し刷りを持って、ウラジーミル・イリイチのところへ話しに行った。きわめて重要な用件で来たと言って、私は、予定した問題を話しあうあいだ、彼とナジェージダ・コンスタンチノヴナのほかは絶対に誰も同席しないよう頼んだ。新聞のことが余計に広まるのを恐れていたのである。多くの人にとってその出現は気に入らないもので、予定した計画の実現を邪魔されるかもしれないことを知っていたからである。
ウラジーミル・イリイチは身構えた。私はまっすぐ用件に入り、パンフレットでやっていける時期は過ぎた、新聞を出しはじめなければならない時が来た、と言った。
「新聞?」とウラジーミル・イリイチは跳びあがった。「言うのは簡単だ?……金はどこにある? 書き手の力はどこにある?……」
「どちらもあります。有り余るほどあります」と私は答えた。
「ふむ……ふむ……」とウラジーミル・イリイチは口癖を口にした。「疑わしいね……」
「どうか聞いて、書類を検討してください」
そして私は几帳面に正確に、新聞の原価の見積もり、国外とロシアに必要な紙の量、配布の方法、新聞を売ってくれる、以前『イスクラ』を広めていたわれわれのグループや保養地や居留地の個人の一覧を話しはじめた。しかも収入の数字を誇張しないように、われわれの新しい新聞の配布部数を3分の1減らしておいた。仕事の各部門についての話のあとで、私はウラジーミル・イリイチに、すべての考えとすべての数字が簡潔に記された紙を渡した。
ウラジーミル・イリイチは、どうやら関心をもったらしく、すべての前提を確かめ、合計を計算し、ときどき合いの手を入れた。
「正しい。でないとうちでは、書きまちがいでゼロを一つ余計に書いて、あとで大あわてになるからね。
1万……1万……部、毎号……いや、それは無理だ、多すぎる。どこへやるんです? 2000、3000でも十分すぎる……」
私は配布の見積もりを渡した。
「この数字に確信がありますか?」
「ええ、まちがいなく」
「誇張はないと、私に個人的に言えますか……」と言って、ウラジーミル・イリイチは試すように、まじめに、射抜くような目を上げて私を見、じっと私の目を見すえた……
「言えます、ウラジーミル・イリイチ。きっぱりと確信をもって言います」と私も同じくまっすぐ彼の目を見て答えた。「これらの数字はすべて3分の1減らしてあります」
「だが最初の数字、『イスクラ』の数字は、あなたが新聞を発送した数ですか、それとも金を受け取った実際の売れ行きですか?……」
「実際の売れ行きです。数字は、それに対する送金を受け取ったあとで取ったものです……」
「それはおもしろい」
ウラジーミル・イリイチは数字を検討しつづけ、紙をとって何か計算し、考え、突然言った。
「5000部くらいなら刷れるかもしれない」
私は彼に見とれた。
「これこそ」と私は思った。「党の本当の主人だ。プロレタリアの1コペイカ1コペイカをなんと倹約することか、どれほどの知識と技をもって、彼にとってまったく新しいように見える分野に取り組むことか。そしてなんと夢中になることか……」
私が渡した書類をすべて読み終えると、彼は紙の掛け売りと印刷所についてはひどく懐疑的だった。そして私が紙の事務所と印刷所からの正式の手紙を見せ、それが本気で、すっかりまとまっていて、紙は今すぐにでも持ってこられ、印刷所からはいつ版が組まれるのかという再度の問い合わせが来ていることを確かめると、彼は突然たずねた。
「掛け売りは誰の名義です?」
「私のです」と私は答えた。
「それじゃあ、ひどい目にあいますよ。2か月であなたを食いつぶしてしまう。払うものがなくなって、裁判に引きずり出され、差し押さえられ、監獄行きだ」
私は笑って、それはそれほど怖くない、われわれには予備資金がある、ミハイル・ステパーノヴィチ・オリミンスキーは新聞の組織のために自分の金時計を金の鎖ごと質に入れると申し出ている、ほかにもまだ何か見つかる、要するに、なんとかなる、と言った。
「いや、いや、そういうわけにはいかない……皆が加わって、われわれ皆の連帯保証で、万一のためにあなたを守らなければならない。そうでなければ私は同意しない……」
ここでも、いつものように、ウラジーミル・イリイチは、一緒に働く同志の生活のあらゆる細部にいつも立ち入る、このうえなく思いやり深い年長の同志として自分を示した。
私は書類ばさみから、刷った新聞『フペリョード』の題字を取り出して見せた。
「新聞はこういうふうに出そうと思っています」
ウラジーミル・イリイチは静かに笑い、やさしい、温かい目で私を見て言った。
「もう題字まで用意してある……急ぎすぎじゃないかね?」
題字は彼の気に入った。そこで私は、新聞についての予告を出すための、同じ題字を小さくした試し刷りを取り出して言った。
「ウラジーミル・イリイチ、今すぐ予告の文面を準備して、2、3日後に身近な協力者の集まりを指定し、編集のあらゆる問題をはっきりさせて、すぐに仕事にかからなければなりません」
3日後に私の住まいで、われわれの書き手と実務家の総会を招集することに決め、その場で集まりのメンバーの名簿をつくった。私の覚えているかぎり、そこには、V. I. レーニン、N. K. クルプスカヤ、A. A. ボグダーノフ(リャドヴォイ)、M. S. オリミンスキー(ガリョールカ)、V. V. ヴォロフスキー(オルロフスキー)、V. M. ボンチ=ブルエーヴィチ(ヴェリチキナ=ペローワ)、M. マンデリシタム(リャードフ)、P. N. レペシンスキー、F. F. イリイン、パヴロヴィチ、V. D. ボンチ=ブルエーヴィチ、グセフ、マリーニン(シャホフ)、ニシチャヤ(筆名)、L. A. フォーチエワ、L. グロモゾワ、そのほか当時ジュネーヴに住んでいた何人かの同志が入った。
集まりの前に、ウラジーミル・イリイチは新聞の発行について読者への呼びかけの文面を私に渡した。私は急いでそれを組み、集まりに持っていくために、あらかじめ数千部刷っておいた。それは1904年11月末のことだった。
われわれの集まりはこのうえなく活気にあふれ、喜びに満ちていた。皆が呼びかけを歓迎した。ただウラジーミル・イリイチだけが初めは不機嫌だった。彼は、同志たちと一緒に、刷られた呼びかけという既成事実の前に立たされたことにはっきりと不満を示し、私に向かって言った。
「どうして刷ったんです? 誰が許したんです?」
私はいぶかるふりをして、あっさり答えた。
「議論のときに皆が読みやすいように、少しだけ刷ったのです。1部も配っていません。集まりが望むなら、今すぐこの場でこれを全部処分して、版をばらしてもかまいません」
「では、これはただわれわれの便宜のために刷ったのですか?……」とウラジーミル・イリイチは聞き返して、にやりと笑った。彼は信じたような、信じないような様子だった。
ミハイル・ステパーノヴィチは人のよい顔で、うれしそうに笑いながらウラジーミル・イリイチをなだめ、オルロフスキーはずるそうに私に目くばせした。二人とも私のいちばん親しい友人で、秘密の段取りをすべて知っていて、この呼びかけの山がもう帯封をされ、住所を書かれて、隣の部屋に置いてあり、集まりで呼びかけの文面が承認されるのを待って、その夜のうちに郵便で世界の隅々へ送り出されることになっているのをよく知っていたからである。
集まりが始まった。
ウラジーミル・イリイチは経済面での疑念を率直にすべて述べ、この問題がすぐに検討されて、新聞の発行を始めてよいと全員一致で議決され、話が文筆の面に移ると、ウラジーミル・イリイチはここでさらに大きな悲観を見せた。通信員も材料も少ない、新聞はひどいものになる、などなど。だが集まりは大いに盛りあがり、皆が新聞の実現をあまりに強く望んでいたので、ウラジーミル・イリイチの悲観もぐらついた。編集部が議決された。主任責任編集者V. I. レーニン。部門の編集者M. S. オリミンスキー、A. A. ボグダーノフ、V. V. ヴォロフスキー。その場で、A. A. ボグダーノフの知らせによれば当時パリにいてジュネーヴに来るつもりだったA. V. ルナチャルスキー(ヴォイノフ)を招くことが決められた。
新聞『フペリョード』の発行についての声明の文面は、何の修正もなしに全員一致で採択された。
集まりは陽気になり、革命歌とインターナショナルの合唱で締めくくられた。
ウラジーミル・イリイチもこの夜、いつものように合唱に加わり、とくに熱をこめて歌った。
真夜中過ぎに皆が帰りはじめると、私と、この建物に住む同志たちも外套を着はじめた。
「あなたたちはどこへ?……」とウラジーミル・イリイチがたずねた。
「用事があるんです……」
「どんな用事です?」
私は自分の部屋を開けて、帯封をされたビラの山を見せた。
「これは何です?」
「新聞『フペリョード』についての呼びかけです。今すぐ郵便ポストに入れて、朝いちばんの郵便で世界じゅうへ飛んでいくようにするんです……」
「これは挑発だ」と、ウラジーミル・イリイチは冗談めかして笑いながら、そしてどうやらこの速さを喜びながら言った。
同志たちは、とうとうイリイチを「出し抜いて」、新聞を出すよう「むりやりさせた」と冗談を飛ばした。
われわれはめいめいひと抱えずつ呼びかけを持ち、ポケットに押しこんだ。ウラジーミル・イリイチも手伝うと言い、自分の地区で投函すると言った。彼はわれわれの中心からかなり離れたところ、好奇の目の届かないところに住んでいた。さまざまな会合などのためには、そのほうが秘密を守れたのである。
その夜のうちに、われわれはたくさんの郵便ポストを帯封の郵便物で埋め、中央郵便局の大きなポストや地区の郵便局にも大量に投函した。
翌日、朝いちばんの郵便で、あらゆる党派、あらゆる傾向のジュネーヴのロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人、アルメニア人、ラトヴィア人の亡命者が、ボリシェヴィキが新聞を出しはじめることを知った。もちろんわれわれは、新聞や雑誌の編集部だけでなく、プレハーノフ、マルトフ、ザスーリチ、アクセリロード、ダン、ポトレーソフらにも、有力なメンシェヴィキにも個人あてに呼びかけを送った。食堂や閲覧室にも届いた。そして朝から昼までに、ロシア人のジュネーヴでは、ボリシェヴィキの新聞『フペリョード』の発行の話でもちきりになった。たちまち、われわれが新聞の発行のために巨額の金を受け取ったという伝説が広まった。
有力なメンシェヴィキの一人が、通りでオリミンスキーに会うと、すぐにたずねた。
「ボンチ=ブルエーヴィチが新聞の発行のために20万フランを受け取ったというのは本当ですか?」
オリミンスキーは、われわれの秘密、つまり新聞の1ページ分の金さえなく、「勇気は町をも落とす」ということだけを心に、この危険な航海に乗り出したのだということを明かしたくなくて、何かあいまいに答えた。
数日後、ヨーロッパの町々のわれわれのグループから、新聞を求める問い合わせが四方から届きはじめ、挨拶や、特別募金による金が送られてきた。そして仕事は沸き立った。
21 われわれの文献に対するメンシェヴィキの態度
独自のボリシェヴィキの新聞の出版が当時どれほど重要だったかは、メンシェヴィキの『イスクラ』がすぐに口調を変えたことからだけでもわかる。以前は、まったく本格的な罵倒と、われわれのグループの文筆活動へのあからさまな嘲笑のほかに、われわれはこの新聞に何も見なかった。ウラジーミル・イリイチが、この尊敬すべき新聞が、革命的『イスクラ』の創設者の一人でありその主任編集者だった人のこの声明を塩漬けにしたあとで、『なぜ私は「イスクラ」編集部を去ったか』を別冊のパンフレットとして刷れば、すぐさま「編集部より」の罵倒で、いつものように個人的なあてこすりと、『イスクラ』の論争の高潔さについての大量の言葉と、ウラジーミル・イリイチの人格への必死の攻撃とがなされた(『イスクラ』第55号、1903年12月15日、「党より」欄の「編集部より」の論文を参照)。プレハーノフは、多少とも党にかかわる論文ではどれでも、もちろんウラジーミル・イリイチとその協力者たち、この「頑固者」「石頭」などを、手当たりしだいに叩いた。プレハーノフのあとには、「馬がひづめを出すところへ、ザリガニもはさみを出してついていく」ということわざのとおり、マルトフが、そのあとにアクセリロード、ポトレーソフ、そしてメンシェヴィキの教義を信じた誰も彼もがついていった。新聞の機関銃からのわれわれへの砲撃に対して、われわれは、完全な決裂までは、ときおり小さなパンフレットという形であれこれの砲弾を彼らの陣営に送ることしかできず、決裂の前に最大口径の大砲をぶっ放したのはただ一度、1904年5月のウラジーミル・イリイチの本『一歩前進、二歩後退』だけだった。メンシェヴィキの陣営ではまぎれもない混乱が起き、彼らは全員の筆で反論を書きはじめ、この本の出版後ほとんど1年もの間、新聞の紙面に反論を載せつづけ、長いあいだ落ち着くことができなかった。
この攻撃はひどいもので、覚えているが、あるとき、1904年春、ウラジーミル・イリイチは党のなかで起きていることすべてにとくに打ちのめされていて、何もかもをほとんど絶望的に見ていた。ちょうどロシアでのわれわれの最良の同志たちの摘発の知らせを受け取ったばかりだった。ジュネーヴの人けのない通りの一つで私に会い、ニュースをたずねると、彼は思いがけず私にたずねた。
「グールヴィチのアメリカの住所を知っていますか?」
「知っています」と私は答えた。
「教えてください……」
「何のためです?」
「アメリカへ行って、そこで統計の仕事をしようと思うんです……」
ウラジーミル・イリイチは真剣に、なんだか眉をひそめてそう言った。
「いったい何のために? 何か統計の仕事に興味がおありなら、言ってくだされば、すぐに手に入れますよ」
「いや、出ていかなければ。ここでは何も出てこない」とウラジーミル・イリイチは頑固に言った。
私の心は凍りついた。「まさか」と私は思った。「この革命の闘士が、悪意ある物書きの俗物どもの攻撃に打ち砕かれたのか? 大衆はいつだって彼の側にいるのに!……」
「何をおっしゃるんです、ウラジーミル・イリイチ。ただふさぎの虫にとりつかれただけですよ。事態はそんなに悪くありません……よくなりつつあるし、もっとよくなります……」
だが私は、ウラジーミル・イリイチが本当にひどく暗い、打ちひしがれた気分にあったので、私の慰めがすべてむだであることを感じていた。
私はすぐに、ウラジーミル・イリイチと会うたびにいつも持ち出していた話、つまり彼が大会についての本を書く必要があるという話に移った。
「そう、そう、書こうと思っている……もうすぐ取りかかると思う……書いたら、アメリカへ行くよ……」と彼は急に陽気に言い、目を輝かせた。「さようなら」と言って、彼はすばやく出くわした横丁へ曲がり、せかせかした足取りで歩いていった。
私は彼が角を曲がって見えなくなるまで、長いこと後ろ姿を見送った。
「書きはじめさえすれば……」と私は思った。「そうすればどこにも行かない……力はきっとよみがえる……ひどい過労だ……眠っていない……頭痛……」。そして私はこの会話を誰にもいっさい話さないことに決めた。ずっとあとになってようやく、民衆の大衆の指導者として運命そのものに選ばれた人の悲劇的な心の動きについての情報を失わないために、ミハイル・ステパーノヴィチ・オリミンスキーにそれを打ち明けた。
ウラジーミル・イリイチは仕事に腰をすえ、われわれは彼が毎日書いていることを知るようになった。彼は自分の本『一歩前進、二歩後退』に取り組んでいたのである。
アメリカのことは、彼はもう二度と口にしなかった。ただ一度だけ、われわれが「党中央委員会図書館・文書庫」を組織し、ウラジーミル・イリイチに特別な鍵を渡して、彼が夕方来て図書館の部屋に入り、一人で仕事ができるようにしたとき、彼は私に会って、メモを渡して言った。
「あなたからグールヴィチに手紙を書いてください。もしかしたら、この本を手に入れてくれるかもしれない……」
メモには統計集や雑誌の長い一覧があった。私はすぐにウラジーミル・イリイチの望みをかなえ、同志グールヴィチはわれわれの図書館にとても親切にしてくれて、挙げられたものすべてだけでなく、アメリカの統計雑誌や出版物や新聞を一連のものまで送ってくれるよう手配してくれた。われわれはまもなくそれをすべて受け取りはじめ、ウラジーミル・イリイチはこの本の宝を喜び、分厚い統計集を前に何晩もすわりこんで、たっぷり抜き書きをしていた。
「これでよし」と私は思った。「アメリカはジュネーヴに用意した。ウラジーミル・イリイチはわれわれと一緒にいて、彼の仕事は沸き立っている」
メンシェヴィキはめげずに、都合がよかろうと悪かろうと、あらゆる機会にわれわれを罵りつづけた。われわれは何を非難されなかったろう? 「ふさわしくない行い」でも、「ボナパルティズム」でも、われわれが、われわれだけがまったく全員のために設けた党の図書館と文書庫を奪ったことでも、金庫を奪ったことでも、そもそも狡猾な人類が考え出したかぎりのあらゆる大罪でも。決裂のあとわれわれが独自にパンフレットを出しはじめた出版活動については、メンシェヴィキの仲間、この「ロシア・プロレタリアートの真の代表者」たちの高貴で清らかで聖なる手にたまたまとりついた何かの疥癬のような、すぐに過ぎ去るものとして、このうえない軽蔑をこめてしか語られなかった。
われわれの出版社から同志シャホフのパンフレット『大会のための闘争』が出ると、すぐに『イスクラ』に「編集部への手紙」が載り(第79号、1904年12月1日を参照)、そこでは同志シャホフはもちろん「氏」と呼ばれた(それはわれわれの隊列ではいつも侮辱とされていた)。そしてすぐに、「なぜかロシア社会民主労働党という表題を掲げているが、実際には『V. ボンチ=ブーレヴィチとI. レーニン』という私的な出版会社から出された」パンフレット『大会のための闘争』の「46ページ以下に」、などと書かれた。
われわれのグループの、文筆的・政治的な、純粋に党の仕事に対するこうした見下しは、『イスクラ』そのものにも、もちろんロシア人居留地の集会にも、ロシアで出ていたメンシェヴィキの地下出版物にさえ、まれならず見られた。
22 ボリシェヴィキの復讐
われわれはただ、痛烈な風刺でメンシェヴィキに答え、復讐することしかできなかった。われわれの隊列には、われわれの古い友人で同志のP. N. レペシンスキーがいて、生まれつきの才能で、党の論争をすばやく、才気たっぷりに風刺画の言葉に移しかえた。有名な風刺画「ネズミがネコを葬る話」は彼の毒のある筆によるもので、そこではウラジーミル・イリイチが、死んだふりをしたネコとして描かれている。「ネズミたち」、つまり『イスクラ』編集部は、この成り行きを大喜びして、「ネコ」のウラジーミル・イリイチを本当に死んだかのように弔い、その罪を一つ残らず読みあげる。だが、ああ恐ろしい! ああ奇跡! ずっとずるそうに細めた目で「ネズミたち」を見張っていた「ネコ」のウラジーミル・イリイチが、突然跳ね起きて、ネズミたちの葬宴を片づけはじめた。ネズミたちはあわてて装具を落としながら、ちりぢりに逃げた。
この意地の悪い風刺画はメンシェヴィキのあいだに信じがたいほどの憤激を呼び、生まれつきネズミを受けつけなかった(同志レペシンスキーはもちろんそれを知らなかった)プレハーノフは、ふさわしくないネズミの姿に描かれたことにあまりに衝撃を受け、憤慨したので、彼にとても優しく接していた善良で忠実な伴侶のロザーリヤ・マルコヴナ、われわれがとても好きで尊敬していた人が、私とヴェーラ・ミハイロヴナのところへやって来て、ほとんど泣きながら、「ジョルジュ」(彼女はゲオルギー・ワレンチノヴィチをそう呼んでいた)に対するこのひどい嘲弄への憤りと憤慨をぶちまけた。われわれは、風刺画を出すことは今のわれわれに使える唯一の自己防衛の武器であること、『イスクラ』がプレハーノフ自身を含むすべての編集者によってウラジーミル・イリイチについて書いていることはあまりに腹立たしく下劣で、それに比べれば風刺画は無邪気な冗談にすぎないことを、何とかして説明した。私はまっすぐに、われわれはこういう風刺画のシリーズを出して、『イスクラ』からわれわれに迫ってくる書き手たちを撃退するつもりだと言った。だが彼女はわれわれの論拠に耳を貸さなかった。有名な夫のためにあまりに傷ついていて、彼を誰かと比べることがありうるとさえ考えたくなかったのである。彼女は誰が風刺画の作者かをしつこくたずね、もちろんわれわれはそれに答えるのを避けた。帰りぎわに、動揺して興奮した彼女は、ジョルジュがもうこの「いやらしい刷り物」に出てこないことを望むと言い、付け加えた。
「ご存じのとおり、ジョルジュは血の気が多いから、作者を知ったら、決闘を申しこむかもしれませんよ」
私は思わずほほえんで言った。
「文筆上のもののほかは、ご存じのとおり、社会民主主義者はどんな決闘も認めません」
ロザーリヤ・マルコヴナのこの言葉から、われわれは、われわれのつい最近までの師ゲオルギー・ワレンチノヴィチ・プレハーノフがどれほど憤慨し、傷ついていたかを推し量ることができた。
そして彼女は、私の理解したところでは、このうえなく重い憤りと身にしみる侮辱の気持ちを抱いて、われわれのもとを去っていった。だがわれわれにはほかにどうしようもなかった。政治的な見解とは、これほどまでに人々を完全に引き離すものなのである。
23 新聞『フペリョード』に対するメンシェヴィキの態度
われわれが純粋にボリシェヴィキの最初の新聞『フペリョード』の発行の知らせを送り出すやいなや、『イスクラ』でも講演でも、口調はたちまち大きく変わる。
1904年12月15日の『イスクラ』第80号の「党より」欄には、「新しい新聞」という題の、明らかに中央機関紙の編集部、つまり『イスクラ』の編集部の差し金による短信が載る。
「われわれは」とこの短信は伝える。「新しい社会民主主義の新聞『フペリョード』の発行の告知を受け取った。それによれば、この新聞は『以前V. ボンチ=ブルエーヴィチとN. レーニンのまわりに集まっていた書き手たち』によって発行され、これらの筆者たちの活動を導いている原則を実際に推し進めるつもりである。こうして、党の隠語で『強硬』派として知られる傾向が、党の政策のあらゆる問題について自由に意見を述べる機会を得る。これは喜ばずにはいられない。なぜなら、『ボンチ=ブルエーヴィチとレーニンのまわりに集まった』書き手たちがこれまでほとんどもっぱら扱ってきた組織問題という狭い領域は、同志の広い大衆にこの傾向の政治的性格を明らかにする機会を与えなかったからである」
ほら、ご覧なさい、言ってみれば、神のお助けで、なんと思いがけない大転換だろう。
つい前日、前の号では、われわれは皆つばを吐きかけられ、泥にまみれさせられ、『イスクラ』の考えでは、自分たちの出版物に「ロシア社会民主労働党」という表示をつける権利さえもたなかったのに、今では彼ら、メンシェヴィキが自分たちの手でわれわれを党のふところに導き入れ、昨日の「ボナパルティスト」や「急進派」や、そのほか何だか知らないが、彼らが組織問題だけでなく党の政策のほかのあらゆる問題についても党の前で明らかにする機会をもつことを歓迎し、喜んでいるのである。
「これこそ新聞の力だ」と、私はメンシェヴィキの編集部のこの短信を読んで思った。「『猫は誰の肉を食べたか知っている』(後ろめたいところがあるのだ)……彼らは、ウラジーミル・イリイチの手にある新聞が、あらゆる障害を打ち砕き、若いが力強い、プロレタリア大衆の革命的社会民主主義の運動をぴったり取り囲もうとしている日和見主義の壁をすべて打ち壊す、強力な破城槌になることをよく知っているのだ。経済主義が何よりもウラジーミル・イリイチの力によって打ち砕かれたように、メンシェヴィズムも同じく、ロシア革命の巨人である彼の力によって打ち砕かれるだろう」
新聞の告知が出ると、われわれの立場はたちまち強まった。思いがけない、未知の友がわれわれのもとに集まりはじめた。四方から手紙や挨拶や協力の申し出がどっと届いた。すぐに通信や報告が届きはじめた。ロシアから新しく来た労働者には皆、労働運動や労働者の生活についての回想を書かせ、こうしてきわめて貴重な、新鮮な、生き生きとした材料を手に入れた。
1904年12月22日、われわれの新聞『フペリョード』の第1号が出た。ウラジーミル・イリイチは見ちがえるようだった。彼はふたたび自分を取り戻したのである。
彼は奮い立ち、信じがたいほどの精力で、新聞のまわりの組織の仕事に取りかかった。
1905年1月4日、私は組織委員会の依頼で、第3回党大会のための闘争の仕事をするために、非合法でロシアへ発った。
新聞『フペリョード』はきちんと発行され、その巨大な党の仕事を果たしていた。
V. ボンチ=ブルエーヴィチ
訳注(ボンチ=ブルエーヴィチ)
- 原文の見出しは「社会民主労働党における国外の技術の組織とわれわれの文献の普及(個人的な回想から)」。節番号は原文で1〜23(第21節は番号が読みとれないが、順序から21とした)。
- 「ドゥホボール教徒」は、兵役を拒否して迫害され、1898〜99年にトルストイらの支援でカナダへ移住したキリスト教の分離派。筆者はその移住を手伝った。
- 『ラボーチェエ・デーロ』は「経済主義」傾向の在外ロシア社会民主主義者同盟の雑誌。『ヴァデメクム』はプレハーノフが1900年に出したその批判。
- 「ジーズニ」は1902年にボンチ=ブルエーヴィチらが国外で出した社会民主主義の雑誌とその出版グループ。のちに解体した。
- ロンドンの住所の地名を原文は「Gatford」と刷るが、Catford(キャットフォード)と解した。
- 「シトゥンダ派」(штундисты)、「去勢派」(скопцы)、「モロカン派」(молокане)、「ネクラーソフ派」の古儀式派はいずれもロシアの宗教的少数派で、多くが国外に移住していた。
- 第8節のリガでの兵営爆破の提案は、原文が記す歴史上のエピソードとして訳した(技術的な内容は原文にもない)。
- 「ラッセル医師」は、ナロードニキ出身の亡命者N. K. スジロフスキー(筆名ラッセル)。原文は「Руссель」。
- 「シュヴァイツァー」はJ. B. フォン・シュヴァイツァー。ラサール派の全ドイツ労働者協会の指導者で、独裁的な手法で知られた。
- 「片山」は日本の社会主義者片山潜。1904年のアムステルダム国際社会主義大会でプレハーノフと握手した場面は有名。
- 『ラスヴェート(夜明け)』はボンチ=ブルエーヴィチが国外で出していた宗教的分離派向けの社会民主主義の雑誌。
- 「ミロン」はチェルノマーゾフ、「マリノフスキー」はR. V. マリノフスキー。いずれも保安部の手先。
- 「ガリョールカ」はM. S. オリミンスキー、「リャドヴォイ」はA. A. ボグダーノフ、「オルロフスキー」はV. V. ヴォロフスキー、「シャホフ」はN. I. マリーニン、「パヴロヴィチ」はP. A. クラシコフの筆名。
- 第21節で引かれている『イスクラ』第79号の記事は、出版者名を「V. ボンチ=ブーレヴィチとI. レーニン」と誤記している(原文「Бонч-Буревича и И. Ленина」)。本文はこの誤記のまま訳した。
- 『一歩前進、二歩後退』の原稿の行方について原注が「ストックホルムからただちに受け取るべき」としているのは、1924年当時の呼びかけである。