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党中央委員会付属の技術ビューローの組織が始まったのは、1903年秋、党の第2回大会が終わってまもなくのことである。
大会前のイスクラ派のキャンペーン全体、大会での党の統一(もっともその統一は、すでに分裂(ボリシェヴィキとメンシェヴィキへの)の始まりとなったのだが)、各地との連絡をつける必要。これらすべてが、政治的な性格だけでなく技術的な性格の一連の問題をも、日程にのぼらせていた。
言うまでもなく、ここで第一に立っていたのは、国外の、また国内で生産された地下文献を、きちんと規則的に受け取り、配分する問題だった。文献の入手にかかわるあらゆる問題を一手に集め、この分野での手工業性とたたかうような機関を組織する必要があった。
〔写真:A. P. ゴルプコフ〕
そういう組織が存在するための主な条件は、もちろん、厳しく秘密を守ることだった。したがって、中央技術ビューローの場所の選択は、きちんと機能するために大きな意味をもっていた。その場所としてスモレンスクの町が予定された。
実際、工業の発達が弱いために、町には労働者という爆発的な要素がなく、そのためさまざまな捜査機関も弱かったので、憲兵が介入してくる時期が遅くなることを期待できた。他方で、町には、当時まだ党にいくらかの手助けを拒まなかった自由主義的なインテリが多く、信頼のおけないゼムストヴォの統計家たちがひとかたまりいた。これは、一連の補助的な技術上の便宜を必要とする仕事を軌道に乗せるのに、きわめて好都合な条件だった。それに国境に比較的近いことも、きわめて重要だった。何しろ、大量の文献を国外から運びこむだけでなく、そのほかに人を国外へ出し入れし、南から北へ、北から南へ、「ヴォログダからケルチへ」、「ケルチからヴォログダへ」と送り出さなければならなかったのである。「大街道」の上にあるスモレンスクは、実際に大きな便宜を提供していた。
1903年10月、技術ビューローの組織を始めるために、同志V. N. ソコロフ(「ミロン」、「シカーリク」)がスモレンスクに派遣された。
当時すでに大物で経験を積んだ秘密活動家で、何もないように見える場所で必要なつながりをすばやくつけ、ヤフカや宿泊所や文献保管用の住まいなどを見つけ、技術上の手助けに必要な人々をまわりに集めることのできる人だった彼は、まもなく国境との糸をつなぎ、文献を受け取って各地へ送りはじめた。
しばらくして尾行に気づいた彼は、3月初めに別の仕事へ去らなければならず、技術ビューローの仕事は私に残された。
おそらく1か月半ほどのちに、スモレンスクにA. I. リュビーモフ(同志「マルク」)が来た。彼とは、二人そろってスモレンスク監獄の独房に入ることになった1904年12月末まで、すべての仕事を分けあった。
* * *
1903〜1904年のスモレンスクには、ほとんどメンシェヴィキだけからなる、かなり弱い地元の社会民主主義組織があり、地元の職人や少数の労働者のあいだで仕事をしていた。地元の社会民主党員では、V. V. ドミートリエフ、有名な統計家パレツキー、ゲインを覚えている。
だがわれわれは、厳しい秘密保持の必要から、そして何らかの形で警察に目をつけられている人々とつながって自分を「危うく」しないために、地元組織と、友好的なものであれ敵対的なものであれ、どんな関係も結んではならないことになっていた。私はまだしも、合法の身で、同時にスモレンスク県ゼムストヴォ病院に医師として勤めていたので、同じような合法の人々の誰かと会っても大きな疑いを招くことはなかった。だが「マルク」(当時は何とかいうアルセーニー・ペトローヴィチの旅券で暮らしていた)は、この秘密活動の規則を厳しく守っていた。
だから当然、われわれが接する人々の輪は、われわれの仕事に直接加わっている同志か、何かの手助けをしてくれる人々だけに限られていた。
前者のなかには、エヴゲーニヤ・アレクサンドロヴナ・カリタとナスターシヤ・ドミートリエヴナ・コッツェワがいた。当時まったく革命に身を捧げていて、技術の仕事で大いに助けてくれた。
後者のなかでは、教育者のD. A. レベジェフ(今は故人)を思い出す。社会民主主義者とはとても言えないが、まだ古いタイプの急進主義者で、町はずれにあった自分の住まいをまるごとわれわれの自由に使わせてくれた。そこを、いわば技術ビューローの仕事を「管轄する」役目を負った中央委員のV. A. ノスコフ(原注)が、たびたびやって来ては喜んで使っていた。
(原注)ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ノスコフ(「ボリス・ニコラエヴィチ」、「ニール」、「セヴェルツォフ」)。第2回大会で選ばれた3人の中央委員の1人。1905年以後は革命から完全に離れ、1912年か1913年に極東で拳銃自殺した。彼については後述を参照。
われわれのいつもの本部になっていたのは、たいへん革命的な気分の(その気分を今日まで失っていない)医師M. T. クシネル(現在は合同国家保安部(ГПУ)の衛生部長)の住まいだった。彼のところでわれわれはときどき、「マルク」のバイオリンを聞くためにも集まった(彼は、演奏はやめてしまっていたが、なかなかのバイオリン弾きだった)。ヤフカとしていつも使っていたのは、地元の弁護士I. L. グリンカの住まいで、彼はちなみに、当時の最初の政治裁判の一つ、レオン・ゴリドマンが被告となったキシニョフの『イスクラ』印刷所事件で弁護人を務めていた。
仕事は、それも張りつめた仕事は多く、時がたつにつれてますます増えていった。
地元組織とのつながりを整え、強め、文献の荷を受け取り、その文献を仕分け、保管し、配分し、技術の働き手を探し、毎日やって来る同志たちをさまざまな方向へ送り出さなければならなかった。仕事は春から、とくに1904年の夏と秋にさらに増えた。スモレンスクは中央委員会のかなり頻繁な会議の場となり、何人かの中央委員はかなり長いあいだ町に住んでいた。彼らはここに自分たちの日常の仕事を持ちこみ、技術ビューローは否応なく、中央委員会のビューローという、もっと広い役目を担わなければならなかった。
* * *
国外で印刷された文献はほとんどすべて、北部国境を通ってきた。当時そこは、とても長いあいだ、とてもうまく、同志フェリクス(「パパーシャ」ことM. M. リトヴィノフ)が担当していた。彼は当時、私の記憶ちがいでなければ、リガに住んでいた。道筋を確かめるためにたびたび国境をまわり、文献の運搬や、個々の同志の国外への出入りにかかわるさまざまな問題を話しあうためにスモレンスクにやって来た。いつも落ち着いていて、実務的で、一分もむだにしない彼は、覚えているが、いつも、事はきちんと進んでいるという何か確信のようなものを人に与えた。すばらしい秘密活動の修業と経験と手際のよさのおかげで、彼に任された地区での摘発は例外的なものにとどまり、彼は長いあいだ交代なしに北部国境で働くことができた。彼はたしか、この仕事でとうとう一度も摘発されなかった。
国外からの文献は、いつも完成品の形で届くとはかぎらず、「紙型」の形で届くこともあった。そのときはそれをさらにバクーの非合法印刷所へ送って印刷させなければならなかった。『イスクラ』の号がよくそうして刷られた。
南部国境からの文献の受け取りは不規則だった。そこでは仕事がひどくとぎれがちで、恒常的な国境の道筋と規則的な文献の送付が、どうしても軌道に乗らなかった。南部国境では、B. S. マリツマン(「フィリップ・フィリッポヴィチ」、当時の有力な党活動家で、1901年の有名なキエフ監獄からの11人の脱獄の参加者、1905年以後は自由の日々のあいだもその後もモスクワで働いた)、あるいは同志「ルカ」、そしてV. N. ソコロフが、たいへんな困難と、たえざる危険のなかで熱心に働いていた。だが、南部国境から来る文献は、われわれの技術ビューローにはほとんど届かなかった、と確信をもって言える。一部は摘発され、一部は、届いたかぎりでは、地元組織へ行った。
われわれが受け取った文献はすべて、われわれが各地へ配分し、送った。われわれがじかに文献を供給しなければならなかったのは、実は大きな地区だけで、そこから先は地区の中心が地元組織へ配分していた。
いちばんよく組織されていたのは南部ビューローと東部ビューローだった。
キエフにあった中央委員会南部ビューローの長は、当時、同志L. Ya. カルポフだった。同年夏に中央委員会に補充選任された大物の党活動家である(同志カルポフは1921年に死去。最高国民経済会議幹部会員だった)(原注)。
(原注)死ぬまで私の個人的な友人であった同志カルポフは、もちろん、特別に人物描写をするにあたいする。彼を記念して出版されている、少なくとも出版されるはずの論集のために、それを書きたいと思っている。
東部ビューローはサマーラで軌道に乗った。そこでの運搬はV. N. ソコロフが組織した。そしてビューローは、ワシーリー・ペトローヴィチ・アルツィブシェフのまわりに集まっていた。彼は「マルクス」のあだ名をもっていたが、マルクスとの似かたは、もっとも、ごくかすかなもので、それも長い巻き毛のせいだけだった。
アルツィブシェフは古い革命家で、私はのちに、1年後にサマーラで彼と知りあうことになったが、「土地と自由」派の出だった。記憶ちがいでなければ、すでに1879年に東シベリアへ流され、北氷洋を通る逃亡の失敗に終わった試みに参加した。この逃亡は、同じ逃亡の参加者だったポーランドの作家セロシェフスキーが描いている。もう何年も監獄と流刑を重ねていた彼は、90年代にマルクス主義者になり、『資本論』の第1巻をそらで覚えたが、ほかの巻はたしかまったく読まなかった。彼なりにたいへん正統派のボリシェヴィキだったが、反乱者的な色あいがあり、いつも何かとんでもない空想を抱えていた。たとえば、日露戦争中(1905年5月のことだった)、ロシア軍の極東への移動を妨げるためにヴォルガにかかるシズラニ鉄橋を爆破するとか、何か特別な方法を使うと約束した刑事犯の助けを借りて国立銀行の支店を襲うとかいうことを、本気で話し、夢見ていた。
V. P. は秘密活動の規則をすべてよく知っていたが、それを滑稽なやり方で使った。窓にきちんと合図を置くのだが、それを外すのをたびたび忘れ、そのため彼のところへ来るわれわれはいつも惑わされた。スパイに尾行されたときの用心の手口はすべて使ったが、同時に、町のほとんどすべての通行人にその姿を知られているというのに、遠くからわれわれの仲間におじぎをし、何か大声で呼びかけたりした。
1905年のモスクワで、武装蜂起の直前、もう空気に火薬の臭いがしていたころ、通りで誰かが私のひじにそっと触れて、何かささやいたのを覚えている。そのささやきから、誰かが、すぐそこのトヴェルスコイ並木通りにあったビアホールに入らないかと誘っているのだとわかった。立ちどまって、やっとのことでV. P. アルツィブシェフだとわかった。彼は髪を染めていたが、頭と鬚の毛が何ともばかげた紫色になっていたのである。
だが、こうしたことを全部さておけば、彼のために公平に言わなければならない。彼は年齢にもかかわらず、いつも革命の熱意に燃え、それでほかの人々をも感化した。ちなみに、彼が勤めていたサマーラ=ズラトウスト鉄道管理局で、多かれ少なかれ党を助ける人々をまわりに大勢集めたのも、それで説明がつく。
中央地区には、ほとんどいつもわれわれ自身が供給しなければならなかった。南部と東部のビューローには文献を送って、その先の移送と配分は彼らに任せていたのに対して、中央地区ではほとんど県ごとに別々に文献を送らなければならず、それがもちろんわれわれの仕事をひどく難しくした。
一時、同志「クレシチ」がオリョールにいてこの仕事を整えようとしたが、うまくいかなかった(「クレシチ」ことイワン・イワーノヴィチ・ビービコフは、まもなく党からすっかり離れて弁護士補になった)。
* * *
ロシア国内での文献の主な源は、党の歴史で有名なバクーの印刷所だった。当時バクーに住んでいた同志「ニキーチチ」(L. B. クラーシン)の発意で組織され、その注意深い監督のもとで機能していた。党の発展の歴史に大きな役割を果たしたこの印刷所の歴史は、一部はもう語られ、一部はさらに記述を必要としている。ただ付け加えておかなければならないのは、われわれの計画では、バクーの印刷所からの文献は、ふつうはスモレンスクまで来ないことになっていたということである。バクーから直接、近くの地元組織へ向けられ、スモレンスクのわれわれは、残りの文献を地元組織へ配分するときに、いわばそれを「勘定に入れて」いたのである。
各地からのさまざまな苦情のため、文献の配分はきわめて几帳面に行わなければならなかった。同志「マルク」はこの点できわめて細心だった。割り当ては、組織の(おおよその)力、そのメンバーの数、仕事の規模、その地区の工業の発達などに応じて行われた。
これらのデータはみなきわめておおよそのもので、おそらくしばしば現実とは合っていなかったろう。だが今でも覚えているが、「マルク」と私は、組織の名と、『イスクラ』の何号を何部、ビラを何枚、パンフレットを何冊送るかを記した表を、熱心につくったものだった。
地下の条件のもとでのこの仕事全体、つまり文献の受け取り、保管、仕分け、荷造り、輸送、国外や地元組織とのやりとり(手間がかかり時間を食う手紙の暗号化)、やって来る同志の受け入れ、世話、送り出しは、それにふさわしい条件と、ふさわしい人々を必要とした。
倉庫になる住まい、来訪者が泊まる住まい、ヤフカが必要で、技術の助手が必要で、荷を運ぶ経験ある運搬係が必要だった。
毎日「マルク」と一緒に(もちろん別々に)ヤフカへ出かけると、そこにはいつももう何人かの来訪の同志がいた。一人一人と、違うことを違うやり方で話さなければならなかった。ある者は国外へ抜けようとしており、ある者は国外から来ていた。どこへ行けばよいか指示を求める者がおり、文献を持ってくる者がいて、それを取りに来る者がいた。地下の時代のヤフカの、ありふれた、見慣れた光景である。
当時あったさまざまな合言葉が、来訪者の受け入れをさらにややこしくした。当時は、言葉によるものも本によるものも、信頼の程度に応じて実にさまざまな合言葉があった。信頼の程度は三つあった(三番目の最高の程度は、中央委員か中央委員会の代理人のものだった)。私の見るところかなり不出来だったが、ありふれたものの一つはこうだった。来訪した同志が何か小さな本を差し出し、その本の決まったページの決まった行に、文字の上の細かい点を見つけなければならない。文字の上の点の数によって、信頼の程度が決まるのである。
来訪する同志の数はときにとても多かった。部屋は騒がしく、押しあいへしあいになり、われわれに住まいを提供してくれる共鳴者の自由主義者たちは、おそらくこの時間にはもう共鳴していなかったろう。
ヤフカのあと、「マルク」とわれわれのいちばん身近な助手のE. A. カリタとナスターシヤ・ドミートリエヴナとどこかでまた会って、当面のやりとりについて話し、翌日の打ち合わせをした。夜遅くなってようやくそれぞれの家に帰り、受け取った通信の解読にとりかかった。ひどく退屈な仕事だったが、ときには誰にも任せられなかった。
文献の配達や仕分けを手伝ってくれた多くの技術の働き手は、もちろん私の記憶から消えてしまった。まして、その後彼らと会う機会もなかったのだからなおさらである。だが、国境からスモレンスクまで、スモレンスクからさらに各地へ文献を運んだ何人かの運搬係は覚えている。この仕事には人を十分に選ばなければならなかった。秘密活動の習慣、鉄道の旅の心得、外見、身のこなし。これらは、非合法文献のような危険な荷を運び、積み、積みかえることができるために、どうしても必要な資質だった。
「フランツィスク」というあだ名のたいへんよい運搬係を覚えている。(1917年の)10月革命の前とその直後にモスクワで働いていた同志たちは、おそらく、地区でのさまざまな演説や、ケレンスキー時代の市議会での演説から、かなり辛辣で意地の悪いメンシェヴィキのカブリャクを覚えているだろう。彼は1918年にサマーラへ去った。このカブリャクがその「フランツィスク」なのだ。いずれにせよ運搬係としては、彼は卓越していた。
運搬係の「ワーニャ」(姓は知らなかった)を思い出す。彼はみごとに役目を果たし、まさに外交販売員そのものの風采で、自分の職業にすっかりなじんでしまったため、1905年10月以後は身の置きどころが見つからず、当然のように失業者になった。
だが彼らのために言っておかなければならない。彼らは疲れを知らずに、きちんと文献を運び、摘発はほとんどなく、ただ彼らの手際のよさと機転に驚くほかなかった。
残念ながら、手元に第5回大会(1905年、ロンドン、ボリシェヴィキの党大会)の議事録がない。この大会で同志「マルク」は(「レトニョフ」という筆名で)中央技術ビューローの活動について報告した。この報告は、ビューローを通って各地に配分された文献の量が比較的多かったことを示す数字で裏づけられていた。
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1904年の夏と秋は、さまざまな党内の出来事に富んでいた。それは主に国外で展開したが、屈折した形でロシアにも反映した。
当時すでに補充選任されたメンバーで補われていた中央委員会は、活発な活動をしていた。ひんぱんに開かれた中央委員会の会議の場所として選ばれたのも、やはりスモレンスクだった。
だから、三人のメンシェヴィキ(クロフマリ、V. N. ロザノフ、V. アレクサンドロワ)の中央委員会への補充選任で終わった動揺の政策の時期、いわゆる「沼地派」が形成された時期はすべて、スモレンスクで、主として教育者D. A. レベジェフの住まいで過ぎた。そこで主に中央委員会の会議が開かれていたのである。
中央委員のなかでいちばんよく来て、長く滞在していたのは(もちろん、のちにやはり補充選任され、ずっとスモレンスクに住んでいた「マルク」は別として)、V. A. ノスコフ、I. F. ドゥブロヴィンスキー(「インノケンチー」)、L. Ya. カルポフだった。ときおり「ニキーチチ」(L. B. クラーシン)とL. E. ガリペリン(「ワレンチン」、「コニャーガ」)も来た。覚えているが、ごく短いあいだ中央委員だった「クジマー」(医師F. V. グサロフ(原注1))も一度来た。中央委員会書記のF. I. シチェコルジン(「ポーヴァル(料理人)」)もよく来た。
(原注1)医師F. V. グサロフは1907年、クロンシタット蜂起事件で移住流刑の判決を受けた。私は2月革命前とその直後にシベリアで彼と会った。彼はボリシェヴィキのままだったが、積極的には動かなかった。1917年夏に短いあいだペテルブルクに来たが、まもなくシベリアに戻った。1921年、シベリア保健部で働いているときにチフスで死んだ。
ここに名を挙げた同志の多くは、もうこの世の道を終えている。それもちょうど、いちばんよくスモレンスクに来ていて、したがって私がいちばん親しくなった人たちである。そのうちの何人かとは、その後も何年にもわたってさまざまな党の仕事でぶつかり、彼らをよく知ることになった。
もちろん、彼らの一人一人が詳しい多面的な評価にあたいする。党の生活における彼らの役割、革命運動のさまざまな発展段階での彼らの意義、彼らの全体的な人物像には、特別の伝記や詳しい回想がささげられなければならない(原注2)。
(原注2)1年半ほど前に約束された、ジノヴィエフ同志の総編集による同志インノケンチー記念の論集が、いまだに出ていないのは残念でならない。
もちろんそういう課題を引き受けるつもりはないが、私はこれらの同志の何人かを、スモレンスク時代だけでなくその後の年月にわたって知っていたので、個人的な思い出を分かちあいたいと思う。
* * *
何よりもまず、同志「マルク」を思い出したい。心の資質の点でまれに見る人で、かつては不屈で一貫した革命家だったが、1914年の戦争の始まりとともに政治的な顔つきをがらりと変えた人である。
働き手としての彼は、並はずれた粘り強さ、どんなに小さな仕事にも真剣に取り組む態度、どんなことも最後までやりとげる能力で人を驚かせた。ほかの同志の仕事には厳しかったが、自分にはさらに厳しかった。
今でも覚えているが、われわれは、書きとめずに覚えておかなければならないおびただしい数の住所について互いに試験しあった。そして彼は、自分の記憶に何か抜けがあると、心から悲しんだ。スモレンスクで彼がいつも、地元組織あての手紙の束を暗号にするために夜更けまで座っていたこと、ブンドが出した「暗号」についての小冊子をこのうえなく念入りに研究していたことを覚えている。
だが、技術の、いつも手間のかかる細かい仕事も、彼が学ぶ妨げにはならなかった。彼は何をするにもそうだったように粘り強く根気よく、マルクス主義の文献を研究した。本をよく読むことができるという、きわめて大きな長所をもち、社会民主主義の文献をよく知っていた彼は、よく教育されたマルクス主義者へと成長していった。
党の仕事を一緒にし、マルクス主義の理論に関心をもっていたことで、われわれはまもなくたがいに親しくなった。いつも仕事のことを考え、集中し、厳しく、その日の当面の心配ごとからめったに気をそらさない彼は、ときに陰気で無愛想な人間という印象を与えた。
だが、もっと親しくなり、話のなかでたえず互いの考えを交わすうちに、私は彼のなかに、熱意をもって革命に身を捧げた人間、あらゆる行いにおいて、まわりの人々とのあらゆる関係において几帳面なほど正直な人間、そして私生活には何か禁欲的な響きのある、自己犠牲的な同志を見いだした。私にはしばしば、彼が、文学がその姿を残してくれている古い人民の意志派の何人かの直系の子孫のように思われた。
精力的で粘り強い働き手で、自分のことをかまわず、あざやかな革命的気質をもち、浅黒く、暗くまじめな、きらきら輝く目をした、思慮深く誠実な人。そういう人として、彼は私の記憶に残った。その後の年月にも、彼がモスクワ委員会の書記だったときにモスクワで、シベリアから脱走したあとの1909年に「ボリシェヴィキ・センター」の協議会でパリで会ったとき、私は彼をそういう人として知っていた。
それだけに、1914年にシベリアで流刑の身にあったとき、若いころから党と、革命と、労働運動に身を結びつけ、もう90年代の終わりに党に入ったマルクが、極端な祖国防衛派、プレハーノフ派の陣営に入り、「エジンストヴォ(統一)」グループのメンバーになったと知って、私は驚いた。
最後に彼に会ったのはモスクワで、彼は私の仕事部屋にやって来て、「手の指が腐っていく、夜になると熱が上がる、外来で包帯をしてもらっているが効かない」と言った。私は「指が腐る」ことをこんなに軽く考えていることにひどく驚き、知り合いの医師への紹介状を書いて、すぐに行って入院するよう勧めた。
彼は実際に入院した。そこで初めのうちは良くなったように思われたが、どうやら敗血症の過程はずっと前に始まっていたらしい。まもなく肝臓に膿瘍ができ、彼は1920年1月初めに死んだ。
* * *
あの時代、つまりばらばらのかけらから党を組み立て、力を集めていた時代に、きわめて特徴的な人物だったのがV. A. ノスコフである。彼は思想上の指導者ではありえなかった。理論家ではなく、それになろうとするとまちがいをした。だが当時のロシアの土壌での実際の仕事のなかで、深い地下の条件のもとで、彼はすっかり自分の居場所を見いだし、そこに根をおろした。扇動家でもなかった。少なくとも私はそういう彼を知らなかった。だが一人の人間を説き伏せ、「動揺させ」、ひっくり返し、それもすばやく、ひと押しでやってのけることにかけては、偉大な名人だった。
「今夜は自分で行って、彼とよく話してくる」と、彼は動揺している誰かのところへ向かうとき、よく言ったものだった。
それは、そして確かにそう当てにしてよかったのだが、翌日にはもう新しい「つながり」をくれるか、自分の新しい「いけにえ」を連れてくるという意味だった。
そのうえ彼は決して口数が多くはなかった。だがおそらく彼の組織者としての能力は、前置きもなしに相手に話しかける、まったく真剣で何のこびもないわずかな言葉のなかにも、何か奇妙な色の目でじっと見つめる視線のなかにも、かすかに皮肉な、それと気づかないほどの笑みのなかにも現れていた。特徴的なのは、彼が聞き手を少しずつおびき寄せたりせず、「指を一本出せば、腕ごと食いちぎる」ということわざのようにはふるまわなかったことである。彼はいきなり腕ごとつかみ、そして勝った。こうして自分のまわりに人を集めながら、彼は自分の「名づけ子」を決して忘れなかった。放浪の暮らしのなかで、あれこれの町に来ると、できるかぎりいつも古い知り合いを訪ねようとした。
そして実際、彼はたくさん旅をしなければならなかった。身軽で、すばしこく、精力的な彼は、行く手のあらゆる障害をたやすく乗り越えた。非合法で暮らし、たえず旅券を変え、きびしく捜索されていて、保安部では彼のあだ名はすべて知られていたが、それでもスモレンスクに「ちらりと姿を見せ」たり、キエフ、サマーラ、モスクワへ行ったり、彼の言う「ちょっとのあいだ」、さまざまな冒険をしながら国境を越えてジュネーヴへ出かけたりするのを妨げなかった。覚えているが、そういう「ちょっとのあいだ」の一つで、彼はベルリンで何か月か監獄に入ることになり、戻ってきてから、それをたいへんユーモラスに話していた。
このときはまったく旅券なしでベルリンに無事たどり着き、ある同志の部屋に泊まった。あるとき、家主が留守で彼が一人で部屋にいると、警察の役人が入ってきて、彼の身元に関心をもった。
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチはそれが気に入らず、こういう場合に巡査部長をあしらうよきロシアの習慣を思い出して、警官に2マルクを差し出した。そのためにその場で調書をとられて逮捕され、監獄に入れられた。しばらくして彼は裁判にかけられた。弁護人は当時まだ若い弁護士だったカール・リープクネヒトで、弁論のなかでロシアの野蛮な生活条件を挙げ、その条件のなかで育った人間の無実を論じた。それでも裁判所は彼に3か月を言い渡し、こうして彼はジュネーヴに3か月遅れたのである。
V. A. ノスコフは、1905年2月、モスクワの作家L. アンドレーエフの住まいで、中央委員会全体とともに逮捕された(自由の身で残った「ニキーチチ」と、そのときもうスモレンスクで監獄に入っていた「マルク」を除いて)。1905年の革命のあと監獄から出されたが、もうあまり党の生活に加わらず、まもなくすっかり離れてしまった。
最後に彼に会ったのは、1906年夏、ヤロスラヴリを通ったときだった。彼はそこでデミドフ高等法学校で学んでいて、党の事柄にはいっさい加わらず、自分をまったくの一市民と感じていた。覚えているが、この話題で私と話したとき、彼はこう言った。「いや、今では合法性の鞍から私を振り落とすことはできないよ」
その後の彼の生活については何も知らない。もうシベリアにいたとき、彼がたしか1912年に極東で拳銃自殺したという知らせを受け取った。
* * *
同志インノケンチーについては、これまでほとんど書かれていない。トゥルハンスク地方での彼の死の知らせを受けて、当時モスクワで出ていた労働者新聞に載ったいくつかの小さな記事、いくつかの雑誌の短信、1922年6月の『プラウダ』の一号に載った同志V. P. ノギンの内容豊かな記事。どうやら、ほとんどそれだけである。
だが、党における彼の役割、すぐれた政治活動家としての意義、外面的な出来事のうえできわめて多彩な生涯は、彼がそれ以上のものにあたいすると考えさせる。そして彼の死後10年(1923年6月)までには、この欠落が埋められることを望みたい。
党が短いあいだ地下から出たまさにそのときにノスコフが政治生活から去ったことが、地下の仕事の狭い条件での秘密活動家=組織者としての彼独特の性質と、いわば有機的に結びついていたとすれば、インノケンチーには、まさに、その巨大で多彩な能力を大きな規模で展開できる広い政治の舞台が欠けていた。一人にとって地下は本当の活動の場であり、もう一人にとってそれは息苦しいものだった。
もしインノケンチーが10月革命まで生きていたら、彼はわが党とソヴィエト権力の大物指導者の一人になっていたろう、と確信をもって言える。
自分のすべてを革命への奉仕に捧げ、「私は自分を労働者階級に結びつけた。それはもう最終的なものだ」と言っていた彼は、大きな政治的勘と、マルクス主義の分析方法を使うすばらしい能力をもっていた。1905年には、狭い秘密の集会でも、広い公開の集会でも、「当面の情勢」についての報告者として彼にまさる人を見つけるのは難しかった。彼は状況をすばやくつかみ、正確に、的確に特徴づけることができた。
武装蜂起が鎮圧されたあと、モスクワで、もうプレスニャの壊滅のあとに、『フペリョード』(モスクワ地域委員会の機関紙)(原注)の編集部に集まったときのことを思い出す。
(原注)この新聞の文筆面と技術面を担ったのは、同志インノケンチー、M. A. シリヴィン、タガンスキー、L. Ya. カルポフ、V. スヴェルドロフ、V. N. ソコロフ、A. A. クヴャトコフスキー、私などだった。全部で6号出た。蜂起の最初の銃声とともにその存在を終えた。
われわれの前には、新聞を続ける試みをするかどうかという問題があった。われわれの多くは、どうしてもせめてもう1号は出さなければならないと考えていた。武装蜂起をスローガンに掲げたからには、その鎮圧のあとでモスクワのプロレタリアートに報告し、今後の展望を示さなければならない、とわれわれには思われた。だがインノケンチーは状況を評価することができ、われわれに賛成せず、きっぱりと言った。
「まじめに事にあたるなら、すぐに偽造書類を手に入れて非合法の身に移らなければならない」
そして彼は正しかった。
1週間後、われわれはみな監獄に入っていた。
10月17日以後の自由の日々には、タガンカ監獄から出たばかりの彼は、たいへんな精力を見せ、一日じゅう動きまわっていた。数多くの集会で演説し、討論会に出かけ、何日も労働者街に入りびたって、労働者が集まるところならどこででも扇動をした。
どこかのエスエルの討論会から帰ってくると、彼はその討論会の内容をひとことで特徴づけた。「エスエルとはどうにもならない。私は彼らにすべての自由と土地の切れ端を提案するのに、彼らはすべての土地と自由の切れ端を欲しがるんだ」
その後私は、まず1907年夏に、彼が休暇中だったときにフィンランドのカイヴォラで一緒に暮らし、それから1908年にペテルブルクで一緒に働いて、彼をたびたび見ることになった。
すぐれたマルクス主義者で、政治的にも文学的にも幅広い教養をもち、的確で研ぎすまされた言葉を使うすばらしい話し相手で、少し詩人でもあり、ときにユーモアたっぷりの語り手でもあった彼は、個人的なつきあいのなかで大きな印象を与えた。
彼をあまり知らない人々にも、同じような印象を与えたろうと思う。頭のよさからは逃れられない。彼自身が話してくれた、彼をいくらか特徴づける一つの出来事を思い出す。
1908年にペテルブルクで逮捕されたあと、彼はヴォログダ県に追放されたが、流刑地に1週間いただけで、まもなく逃亡した。パリへ向かう途中、その先の行き先を受け取るためにヴィリノに立ち寄らなければならなかった。彼は二等車に乗っていて、ポケットには、誰か予備役の下級兵士のまったく役に立たない期限切れの旅券を持っていた。もちろん誰にも見せられない旅券である。同じコンパートメントには、とてもおしゃべりな若い男が乗っていて、ヴィリノの商人だとわかった。夜更けまで話しこんだ。そして翌朝目を覚ますと、商人は鎖つきの金時計がなくなっているのに気づき、それを鉄道の係員に届け出た。状況は不愉快なものになってきた。
ヴィリノに着いて、たとえさしあたり証人としてでも調書をとるために憲兵詰所へ行き、役に立たない偽造書類を見せることは、まったく不可能だった。逮捕は避けられなかった。そこでインノケンチーは、はっきりけりをつけることに決め、若い男に近づいてこう言った。「あなたが、私が時計を盗んだと疑っているのかどうか知りませんが、言っておきます。私は政治流刑から逃げているところです。そしてあなたしだいです。ヴィリノで私を憲兵詰所へ連れていって、私がそこで逮捕されるか、それとも、憲兵を避けて駅から出るのを手伝ってくれるか」
若い男は思いがけない心づかいを見せ、もしそれを全部前もって知っていたら、時計のことでこんな不愉快な騒ぎを起こさなかったのに、今は何かいやなことにならないように、できることは何でもする、と請けあいはじめた。
そしてヴィリノに着くと、商人はインノケンチーと腕を組み、知り合いのように陽気に話しながら、首尾よく彼を連れて駅を抜け、辻馬車に乗せて、愛想よく別れを告げた。
1908年、ペテルブルクには、党のいくつかの分派の代表からなる、いわゆる中央委員会の「五人委員会」が、全権をもつ中央機関として存在していた。ボリシェヴィキからはI. P. ゴリデンベルク(1922年にモスクワで死去)が、ポーランド人からはインノケンチーが委任を受け、ブンドからはたいていユージン(アイゼンシタット)が来て、メンシェヴィキからはM. I. ブロイドが入り、ラトヴィア人からは誰も出させることができなかった。この五人のうち、当面の仕事はほとんどインノケンチー一人がしていた。
この「五人委員会」の、あるいはたいていは「三人委員会」の会議に(私は書記だった)同席して、私は、あらゆる原則的な問題の解決にあたって全体の方向がインノケンチーのものであることを見、当時きわめて論争的だった党内の力関係のなかで、彼がどれほどの確固さと政治的勘をもって自分の路線を進めていたかを観察することができた。
1908年12月、パリでの全ロシア党協議会へ行こうとしていた彼は、ワルシャワ駅で逮捕された。われわれの中央委員会ビューローで働いていて、たいへん活動的な女挑発者だとわかった「リューシャ」(当時徒刑に服していた第2国会社会民主党議員セーロフの妻)の裏切りによるものだった(原注)。
(原注)この人物の「活動」については、彼女の「日々」を私はたいへんよく知っていたので、別に話したいと思っている。
インノケンチーとふたたび会ったのは、1909年、パリでのことだった。私は、「フペリョード」グループ、召還派、神探求派など、ボグダーノフ、ルナチャルスキーらの潮流との線引きの問題で、いわゆる「ボリシェヴィキ・センター」(『プロレタリー』拡大編集部)の協議会に出るためにそこへ行ったのである。
もう長いこと肺結核を患っていたが、以前はあまり健康に注意を払わなかったインノケンチーは、ここで何度も私に病気のことをこぼした。そして実際、彼はずっと労働者の会議にきわめて活発に参加していたのに、なんだか打ちひしがれているように見えた。何かが彼を苦しめていること、何かつらい心の動きの影響のもとにいることが見てとれた。進行する病気がもう破壊の仕事をしていて、その結果が彼の悲劇的な死だったように私には思われる。
パリのあと、二度と彼に会わなかった。協議会が終わってペテルブルクに戻ると、私は数日後に(同じ「リューシャ」の親切な手助けで)逮捕され、1911年にはシベリアにいた。
まもなく、インノケンチーもシベリアに着き、トゥルハンスク地方に置かれたことを知った。われわれは手紙をやりとりし、私は彼から何通かの手紙を受け取った。最後の手紙は、彼が流刑地で取り組んでいた高等数学についての考察でいっぱいだった。1913年6月、彼はエニセイ川で死んだ。
トゥルハンスク地方を通る途中で彼を訪ね、まる一晩一緒に過ごした同志シュリフテルは、インノケンチーが重い病気でひどく打ちひしがれた人間という印象を与えた、と証言している。
3
スモレンスクで運命が私を引き合わせた、その仕事がスモレンスクと結びついていた、今はもう亡き何人かの人々を思い出したかった。そのため、やむをえず脇道にそれ、技術ビューローのその後の存在の記述から離れなければならなかった。
1904年の末には、われわれの仕事のなかにもう何か新しい「風」が感じられていた。われわれが憲兵の注意を引いたことは、もう明らかだった。活気づいた仕事、スモレンスクを通る大量の文献、通信、さまざまな方向への人の移動、スモレンスクのような静かな町に、警察に捜索されている非合法の人間が大勢現れたこと。これらは否応なく怪しく思われたはずだった。
もういくつかの警告の兆しが現れはじめていた。マルクの住まい、厳しく秘密にされていた住まいの女主人のところに、何か怪しい男がやって来て間借り人のことを聞いていった、かと思えば、私に家宅捜索があると警告が来る。周辺部の誰かのところではもう捜索があった。共鳴する自由主義者たちは過度に用心深くなりはじめる。エリサヴェトグラードから、エリサヴェトグラードの組織を摘発させた何かの挑発者がわれわれのところへ向かったと知らせてくる(彼がわれわれのところまで来たのか、ビューローの摘発で何かの役割を果たしたのかは、はっきりしていない)。通りで、どこかから来た同志が不用意に私を呼びとめて話しかけ、私はすぐに、われわれのまわりをうろつく何かの「第三者」を見た。どうやら、スヴャトポルク=ミルスキーの「春」が、われわれの秘密活動の手法をいくらかゆるめていたらしい。
一言で言えば、その後の年月にもたびたび感じることになった「摘発前夜の雰囲気」ができあがりつつあった。
だが当面、仕事はまだいつものとおりに進んでいた。マルクは12月に用事でキエフの南部ビューローへ出かけた。私は一人残り、仕事はさらに増え、新年になったらすぐ彼が戻ってくるのを待ちこがれていた。だが待つことはできなかった。
私は歯科医の住まいで、専用の入口のある部屋を借りていた。それはたいへん便利だったが、部屋があまりに小さかったので、同志たちは冗談に「部屋つきの専用入口」と呼んでいた。12月の末日近く、夜中に戸をたたく音で目を覚ました。私の「誰です?」という問いに、戸の向こうの誰かが名のった。「地元の警察署長だ」。私は手元にあった暗号の手紙を焼きはじめ、そのあいだずっと「今開けます」と約束していた。
だが来た者たちはあまりにじれったくて、戸を強く引っぱりはじめた。戸はとうとう持ちこたえられず、どうしたはずみか開いた。まっさきに飛びこんできた憲兵大佐は、部屋がごく小さいので、戸から一歩踏み出しただけで、指を危険にさらして、まだ燃えている手紙をつかむことができた。焦げた手紙の端には何かの数字が見え、そこから手紙が暗号だと推測できたが、それ以上は何も読みとれなかった。
なぜか私が連れていかれた憲兵将軍の住まいへ向かう途中、憲兵たちのあいだの話から、その夜町で多くの家宅捜索が行われていることがわかった。そこから、われわれの組織は跡をつけられ、徹底的に一掃されたと結論できるように思われた。
憲兵将軍のグロムイカは、典型的なウクライナふうの白いほおひげをたくわえた、押し出しのよい老人で、起こさなければならなかった。彼は寝ぼけたまま、将軍の上着をはおりながら出てきて、なんだかぼんやりと私を見、私を連れてきた憲兵大佐と何か話して、何か切れぎれの命令を出した。書記が令状を書き、私は大佐と一緒に監獄へ向かった。
数日後、マルクがちょうど監獄に連れてこられ、監獄の反対側の棟に入っていることを知った。もちろん、われわれはすぐに互いに連絡をとることができた。聞けば、彼はキエフから着いたところをスモレンスク駅で逮捕され、そこから荷物と、私への土産に持ってきた「キエフのジャム」と一緒に監獄へ運ばれたのだった。ジャムは監獄の当局が喜んで平らげた。
憲兵は何かの事件をでっちあげようとしたが、時がたつにつれて、それがうまくいかないことがますますはっきりしてきた。彼らは「小鳥をつかまえた」と自慢していたが、それでもすべてにおいて絶望的に混乱していた。
私の事件を担当したのは、捜査能力でスモレンスクに名の知れた憲兵大佐グラドゥイシェフで、のちに1906年に通りでエスエルに殺された。だが彼もやはり暗闇のなかをさまよい、私とマルクとのつながりを立証することもできなかった。彼の手にあったのはごくわずかな情報で、それも外面的な性質のものだけであり、「内部からの照明」がなかったため、組織の性格そのものはわからないままだった。そして春には、さまざまな町での居住権を制限して、われわれを釈放しなければならなかった。この事件が最終的に片づいたのは、1905年10月だった。
そのあいだに、2月初めに中央委員会のほとんど全員が逮捕された。そして春にはロンドンで第3回(ボリシェヴィキの)大会が開かれ、マルクはそこで中央技術ビューローの活動について報告した。彼が大会から戻ると、われわれは、初めは彼と、のちにはV. N. ソコロフと一緒に、同じ性格の仕事を、だがもうスモレンスクではなくオリョールで据えはじめた。
だがそれはもう別の時期である。
A. ゴルプコフ
訳注(ゴルプコフ)
- 原文の見出しは「中央技術ビューローの仕事について(回想の断片)」。節番号は原文で「1」「2」「3」。途中の「4S.」と読める記号は区切りの星印の誤読と解した。
- 第1節末で、マルクが報告した大会を原文は「第5回大会(1905年、ロンドン、ボリシェヴィキの党大会)」としているが、1905年のロンドンのボリシェヴィキ大会は第3回大会である。原文のまま訳した。第3節末では正しく「第3回大会」としている。
- 「マルク」はA. I. リュビーモフ。北部ビューロー章の訳注も参照。
- 「スヴャトポルク=ミルスキーの『春』」は、1904年8月に内相となったP. D. スヴャトポルク=ミルスキーの宥和政策の時期。
- 「グロムイカ」はスモレンスク県憲兵局長。北部ビューロー章にも登場する。
- 「エジンストヴォ」はプレハーノフ派の祖国防衛主義グループ。
- 「リューシャ」は、原文によれば第2国会の社会民主党議員セーロフの妻で、中央委員会ビューローで働きながら保安部に通じていた人物。
- 「すべての自由と土地の切れ端」は、エスエルの「すべての土地」と社会民主党の「切り取り地(オトレースキ)」の要求をもじった洒落。