V. N. ソコロフ(自伝)

1874年、コストロマの市消防隊の兵舎で生まれた。父は当時そこに勤めていた。父は国有地農民の出で、ニコライ時代の兵士、そして本人がいつも自分の身分をそう言いあらわしていたように「憲兵団の下士官」だった。私が覚えているのは、この高貴な身分の名残、つまり銀の飾り紐と赤い飾緒のついた青い憲兵の制服だけである。この遺品は長持にしまわれていて、母は降誕祭週間の「仮装」でそれを着て見せびらかしていた。

母は小地主の屋敷奉公の農奴の出だった。町の、その地主の召使部屋で育ち、5歳のとき、同じ屋敷の子どもたちと一緒に、地主によってコストロマの織物工場の一つに年季奉公に出された。当時はそういう「働き手」の男の子や女の子がたくさんいて、朝早く、まだ眠っているうちに親類が抱いて工場へ連れていき、夜遅くまでそこに置いて、糸巻きや糸の仕分けをさせていた。母はここで、「自由」が宣言された17歳まで、そしてその後も結婚するまで働いた。

屋敷奉公の暮らしからは、生涯消えない跡が残った。裂けた耳である。ごく幼いころ、旦那の庭で旦那のスグリをつまみ食いしているところを旦那に見つかり、親心をもって罰せられた。耳をつかんで宙に持ちあげられたのである。旦那の手には母の耳輪が残り、耳は二つに裂けていた。このことを私は、母の肩で寝入りながら、ごく幼いころに知った。

私の記憶にあるころには、父はもう官庁、つまり県知事官房や地方裁判所などの使い走りだった。母は日雇いの洗濯をしていた。二人あわせて月に15〜17ルーブリほど稼いでいた。私たち子どもは五人いた。あまり腹いっぱいには食べられず、いつも困窮していた。窓一つの一部屋の地下室に住んでいた。壁を水が流れ落ち、ワラジムシが列をなして這い、ペチカの裏では黒いゴキブリがかさかさいっていた。

5歳で私はもうかなりすらすら読めた。父が暇を見て、古いやり方で「アズ、ブーキ、ヴェージ」と教えてくれたのである。そしてこのときから私の「宣伝活動」が始まった。近所の靴屋たちが仕事場に私を呼びこみ、『ブルィンの森』や『盗賊チュールキン』や『ヤーシカ・スメルテンスキー』や、そのほかたくさんのくだらない読み物を声に出して読ませた。一方、母方のおばは聖人伝を聞くのが好きで、やはりよく私の「才能」を利用した。

私は通りで、ヴォルガの岸辺で、その環境のあらゆる魅力とともに育った。ほったらかし、よその果樹園や菜園への襲撃、子どもらしくないいたずら、そして生活をそのまま、その深さと汚さのすべてにおいて観察すること。

学校はうれしかった。成績はとびきりよく、求められるより1年先を学んでいた。先生から先の知識を得るより、先生を手伝うことのほうが多かった。

休暇のあいだは働かなければならなかった。家族が増えていたからである。ヴォルガで雇われて、材木を転がしたり、はしけから倉庫へ塩や小麦を運んだり、樹皮を片づけて仕分けたりした。賃金は食事自分持ちで日に10〜15コペイカ。朝5時から夜9時まで働いた。ほとんど眠りながら、やっと足を動かして家に帰った。冬にはよく、氷の上に組んだ台に持ちあげたはしけを乾かした。船底の下の、熱が逃げないように両わきをむしろで覆ったところで、焚き火をおこした。煙もそのむしろの向こうへは逃げなかった。だからそこにいられるのは、慣れて、横になっているときだけだった。煙が目にしみ、肺を切り裂いた。夜通しの仕事で、20コペイカ、ときには25コペイカになった。

市立学校に入ると、もっと「きれいな」稼ぎ、つまり月1ルーブリ半、2ルーブリ、それに昼食つきの「家庭教師」の口が現れた。

手に入るものは何でも読んだ。学校の図書室はまるごと読みつくした。靴屋たちとのつながりも絶たず、今度は彼らが本を手に入れるのを手伝った。

学校を終えたあと、さらに勉強しようと何度か試みた。何にもならなかった。働いて家族を助けなければならなかった。弟たちが育っていた。

公共クラブの図書室に勤めた。そこで禁書の部門に行きあたった。チェルヌイシェフスキー、ピーサレフ、ドブロリューボフ、ラヴロフ。こういう本を求める人々と知りあった。こういう人々、つまり髪の長い学生、眼鏡をかけた神学生、そのほかの「皇帝も神も認めない」人々は、学校にいたころから私の興味をひいていた。父は県知事官房から、流刑囚のフレロフスキー(ベルヴィ)あてに検閲済みの手紙を届けなければならなかった。父は私を使いにやった。そしてもうそのころから、私はこういう人々に「恐ろしい」ところは何もないという結論に達していた。今ではそれがわかっていた。そしていっそう興味をもって彼らに近づき、彼らのために禁書を手に入れ、自分でもむさぼるように読んだ。

まさにそのころ、私の手に最初のヘクトグラフ刷りの小冊子、ステプニャークの『ニヒリズム、宣伝、テロリズム』が渡った。父はそれを見つけて、「皮をひんむいてやる」と言った。だが、もう脅しで私を押さえつけるには遅かった。逆に、ますますおもしろくなった。

図書室はやめなければならなかった。給料が安かったからである。植字工、校正係、石鹸工場や商店や灯油倉庫や製材所の事務員と、次々に職業や勤め先を変えた。朝早くから夜遅くまでの仕事。夜は教師になるための勉強をし、勤め先の労働者たちと皇帝や神について議論した。それが主人の耳に入ると、追い出された。ときにはそれがあまりに急で、身の回りのものをかき集めるのがやっとで、夜中にたたき出された。製材所ではストライキを起こし、憲兵に引き渡されなかったのは、ただ主人が私をその事件の証人にしたくなかったからだった。

同時に、同じ年ごろの若いギムナジウム生のサークルとの緊密なつながりも絶たず、一人でバックル、ソーントン、ミルを読んだ。そして、白状しなければならないが、ほとんど理解できなかった。

こうして1890〜1892年が過ぎていく。稼ぎと本、本とサークル、サークルとまわりの人々への体系のない宣伝。

町に、ピーテルから追放されたプチーロフ工場の労働者V. V. ブヤーノフが現れる。彼とのつながりができる。彼のまわりに、私のような青二才の若者たち、ポレターエフ、アレクサンドロフ、セミョーノフが集まりはじめる。日曜日ごとに居酒屋でお茶を飲みながら集まる。読んだことや経験したことを交換する。休日と休日のあいだは、めいめいが自分の働く場所で「宣伝」をする。労働者とのつながりもいくらかでき、本を渡し、われわれの話に引き入れる。ギムナジウム生とのつながりは弱まる。

教員免状を取り、稼ぎ口を探すうちに……ロードニキの工場村で家庭教師になった。まったくばかげた偶然である。食卓でナイフとフォークを使って皿から食べることもできなかった通りの小僧が、いくつもの言葉を話す家庭の家庭教師になったのである。3、4か月後にはまた稼ぎ口を探さなければならなかった。

生まれた村で読み書きの学校を開こうとした。司祭が反対した。「教えるなら、わしの教区学校で教えなさい」。承知しなかった。百姓たちは冷淡で、支持してくれなかった。やめた。少年犯罪者の矯正施設の指導員の口がめぐってきた。引き受けた。そして3年間、良心にかけて力を振りしぼったが、追い出された。司祭が、私が収容児たちに有害な本を配っていると密告したのである。

教師としてのこの先の経歴には、きっぱり見切りがつけられた。「信頼できない」。そのあいだに多くのことが変わった。サークルではナロードニキ主義かマルクス主義かへの自己決定が始まった。コストロマで大きなストライキが起こり、キネシマ郡に広がった。金を集め、ひそかにストライキの成り行きに働きかけた。ストライキは組織的に、行きすぎもなく進み、勝利に終わった。裁判にかけられたのは数人の労働者指導者だけで、3週間の拘留を言い渡された。だがこれも「信頼できない」という汚点を強めた。

ゼムストヴォの統計局に身を寄せた。仕事に夢中になった。とくに村とじかに接することに。ナロードニキ主義や共同体には、もう懐疑的になっていた。『エルフルト綱領』を複写するためのヘクトグラフを、もう組織していた。村や、物乞い(を生業とするもの)から贋金づくりにいたるまでの数多くの家内工業の調査が、ナロードニキ的ロマンティシズムの残りをすっかり追い出した。

1897年、ゼムストヴォの活動家、学生、労働者のあいだに、もうまったくマルクス主義的なグループが現れる。ザヴォーリン兄弟、ネヴザーロフ、T. I. ポポフ、N. P. ボグダーノフ。これが未来の北部同盟の材料として集まっていく。何人かの活動家は地元の小新聞のまわりに集まる。1897〜1898年のヴォルガ流域の飢饉が、マルクス主義的な気分を、はっきりしないナロードニキ的な気分から最終的に選り分ける。工場地帯でサークルができていく。いくらかのマルクス主義文献、雑誌『ジーズニ』や『ナチャーロ』が入ってくる。

1900年にはプスコフの統計局に移らなければならなかった。ここにはもうすっかり選り分けられた人々が集まっていた。レペシンスキー、クラシコフ、ストポーニ、ゴルン。国外の中央や『イスクラ』と直接のつながりがあり、活発なやりとりをしていた。第2回党大会招集のための組織委員会(O. K.)も、ここに主な基地をおいていた。だから仕事は、もう模索や手探りではなく、実務の課題とその遂行という、まったくはっきりした具体的な性格をもっていた。住まい、旅券、運搬、秘密のやりとりなどの問題が、たえず注意と、実際の組織的なすり合わせを求めていた。宣伝とサークルの組織はついでの仕事だった。これらすべてとじかに接し、秘密活動のあらゆる役目を実地に知ることになった。

そしてここで初めて、本格的に憲兵に目をつけられ、1902年に北部労働者同盟事件で逮捕された。

第2回大会のあと、中央委員会の依頼で、1903年秋、北部地区の運搬・技術ビューローを組織するためにスモレンスクの統計局に移った。この依頼は果たした。

1904年2月、中央委員会によって、オーストリア国境を組織するためにカーメネツ=ポドリスクへ移された。2か月後、国境のオーストリア側で逮捕されたが、証拠不十分で釈放された。ロシア側へ渡るとき、今度は祖国の国境の憲兵に逮捕された。だが切り抜けて、非合法の身分に移り、ロシアの内地へ逃れた。

東部地区の運搬・技術ビューローを組織するためにサマーラへ派遣された。依頼は摘発なしに果たした。そのうえ、中央委員会のサマーラ印刷所を組織した。

1905年1月、南部地区の運搬・技術ビューローを組織するためにキエフへ移された。3月に逮捕され、8月までルキヤノフカに入っていた。

釈放後、中央委員会中央運搬・技術ビューローを管理するためにオリョールへ送られた。11月にビューローとともにモスクワへ移った。労働者新聞『フペリョード』の発行と、1905年12月の蜂起に参加した。

1906年、中央委員会の技術の主任のまま、同時にモスクワ委員会の書記を務めた。第1国会解散のあとで逮捕された。そして裁判までブトゥイルキ監獄に3年入っていた。

1909年、エニセイ県へ移住流刑。生活のための仕事は、エニセイの大事業家の事務所で、魂のための仕事は、ミフ・サトコという筆名で書いた、ボリシェヴィキ寄りのシベリアの(主としてイルクーツクの)新聞で。新聞は次々にたくさん出ては、きまって発禁になった。『ヴォストーチナヤ・ザリャー』、『イルクーツカヤ・ジーズニ』、『ナーシャ・ムイスリ』、『モロダヤ・シビーリ』、『ノーヴァヤ・シビーリ』、そのほか多くの名で、全部で20にもなった。店員組合での秘密の活動と、第4国会選挙の組織。

1913年、クラスノヤルスクに移り、1914年初めにはチタに移って、ザバイカル地区の統計作業を管理した。ザバイカル協同組合連合での私的な仕事、ボリシェヴィキ寄りの協同組合雑誌『ナーシェ・デーロ』の編集。戦争中、反軍国主義的な大新聞『ヴォストーチナヤ・シビーリ』の組織と編集に参加。1915年に逮捕され、文筆活動を禁じられた。『ヴォストーチナヤ・シビーリ』の廃刊後、ツィンメルヴァルト派の立場をとる労働者週刊紙の組織に参加したが、それらは当局によって組織的に発禁にされた。1916年、地域協同組合大会での政治決議のために逮捕。

2月革命後、党委員会のメンバーで、党組織を代表して労兵ソヴィエトと治安委員会に出た。初めから「すべての権力をソヴィエトへ」の路線の支持者。その後、メンシェヴィキとの分裂、ザバイカル州党委員会とチタ党委員会の議長、党機関紙『ザバイカリスキー・ラボーチー』の編集。10月25日から1月まで、ザバイカルの緩衝期に、人民評議会の労働者会派の指導者、工業・財政人民委員。ソヴィエト権力の樹立とともに、州人民委員会議の議長。

シベリアの反動とチェコ軍団によるシベリア鉄道の占領で、ザバイカルの赤軍組織の件で来ていたモスクワに、私は足止めされた。戻ることはできなかった。それでも突破しようとしたが、ウファで白軍の戦線にモスクワから切り離された。戦線を越えてモスクワに戻った。

1918年の冬は、労働人民委員部(Н. К. П.)で統計・経済部長として働いた。1919年8月まで、最高国民経済会議の工場統計部長。

8月、チェリャビンスクが奪取されると、シベリアへ発った。チェリャビンスクで県党委員会と県革命委員会のメンバーだった。オムスクが奪取されるとそこへ移され、シベリア革命委員会のメンバー、農業人民委員部の全権代表となった。同時に経済部(現在のシブプラン)を組織して管理し、シベリア統計局を組織して管理した。一時『ソヴェーツカヤ・シビーリ』紙を編集し、シベリア国立出版所の参与会に加わり、シベリアの中央の党とソヴィエトのあらゆる出版機関に参加した。

1921年末、農業人民委員部の参与会のメンバーとしてモスクワへ移された。

訳注(ソコロフ自伝)

  1. 原文の見出しは「V. N. ソコロフ(自伝)」。
  2. 「アズ、ブーキ、ヴェージ」は教会スラヴ語式の字母の名で、古い読み書きの教え方。
  3. 『ブルィンの森』(ザゴスキン)、『盗賊チュールキン』などは、当時の民衆向けの通俗読み物。
  4. 「フレロフスキー」はV. V. ベルヴィ(筆名フレロフスキー)。『ロシアにおける労働者階級の状態』の著者。原文は「Верви (Флеровский)」。
  5. 「ステプニャーク」はS. M. ステプニャーク=クラフチンスキー。
  6. 「ソーントン」は原文「Тарнтон」で、W. T. ソーントン(イギリスの経済学者、『労働論』)と思われる。
  7. 「北部労働者同盟」(北部同盟)は、ヤロスラヴリ、コストロマ、ウラジーミル県などの社会民主主義組織の連合。
  8. 「ストポーニ」は原文「Стонали」と読めるが、A. M. ストポーニと解した。
  9. 「Н. К. З.」は農業人民委員部、「Н. К. П.」は労働人民委員部と解した。「シブプラン」は原文「Сибилан」と読めるが、シベリア計画委員会(Сибплан)と解した。
目次