1
オリョールには1905年8月、ルキヤノフカから釈放されてすぐに着いた。「マルク」はオデッサの地元の仕事に移るところで、私たちはゴルプコフと二人でそこに残った。
オリョールは穴の底だ。町の一部はまるで丘の上にあるようではあるけれども。いちばん美しい眺めは監獄の眺めで、この監獄は1905年以後、その残酷さで名をはせた。そのほかのあらゆる点で、この町は、何の社会生活もなく、この町だけの個性的な、際立った特徴もない、辺鄙な田舎の土地という印象を与えた。秘密活動の点でもとくに便利なところはなかった。モスクワと南部のあいだの通過地点で、そのどちらにももう役に立たないものだけを吸いこんでいた。そして実際、中央委員会中央技術ビューローがここに置かれたのは、おそらくオリョール自体の「内在的な長所」のためというより、モスクワとスモレンスクに近いことと、中央委員I. F. ドゥブロヴィンスキーの「居所」であることのためだったろう。
だが1903年末に秘密の拠点にとって大事だったこと、つまり労働者組織がないなかでの地元生活のある程度の活気は、当時スモレンスクでは利点だったが、1905年末のオリョールでは、もう欠点になりつつあり、仕事を助けないどころか、逆に縛り、小さくしていた。
日露戦争の1年半のあいだに、社会生活の顔つきは大きく変わった。労働運動は、サークルと工場単位の(広がりの点で)運動から大衆的なものへと発展し、街頭にあふれ出た。そしてその個々の地点や日付(ロストフ=ナ=ドヌー、バクー、ズラトウスト、オデッサ、ピーテル)は、一つの全体的な、切れ目のない構図に結びついた。
運動は完全な意味で全ロシア的なものとなり、同じく全ロシア的な規模での指導を求めた。その広がりが大きく変わったのだから、それへの取り組み方や仕事の方法も、同じだけ変わらなければならなかった。この状況のもとで、どこかオリョールに放りこまれて秘密にされた党の細胞は、それだけで全ロシア的な意味を失い、自己目的化して、退化していった。運動は否応なくそれを越えて、中心から周辺へ、周辺から中心へとあふれ出なければならなかった。運動はその非合法の、秘密のあらゆる現れにおいて、もうこんなオリョール的な枠には収まらなかった。
そして中央技術ビューローは、オリョールそのものと同じく、否応なく小さくなり、忘れられる運命にあった。
どうやら「マルク」もそれを感じて、「地元の」仕事に移ることにしたのだろう。そして実際、オリョールでの最初の数週間の仕事は、生活がわれわれのそばを素通りしていくことを示した。われわれは二流の通過地点にすぎず、モスクワへ行くのにオリョールを迂回できないかぎりで拠点であるにすぎなかった。まわりでは生活が泉のようにわき立っていたのに、オリョールではまだ何もかもが眠たげで静かだった。ほとんど毎日別々に用意された、よく組織されたヤフカの住まいは、ほとんど空いていた。「暗号課」はほとんど開店休業だった。旅券はあまり出ていかなかった。そして同時に、地元のモスクワ組織は、純粋に技術的な役目の分野でさえ、思わず、否応なく、もう地元だけのものでない意味をもつようになっていた。そして中央委員会はもうモスクワ地域ビューローをつくる必要があると考えた。
生活がわれわれから離れていったことは、明白ではっきりしていた。何かの時機を逸し、全体の仕事の流れはオリョールの外に集中していた。そうなるはずだった。そこには何も異常なことは現れていなかった。逆である。物事の自然な成り行きが、オリョールを、それにふさわしいただ一つの役割へと引き下げていたのである。大衆運動が優位を占めた以上、それはあらゆる点で、大衆生活の中心からしか養われ、指導されえなかった。ほかにはありえなかった。
われわれの役目、つまり文献の運搬、旅券の供給、活動家の配分の集中も、しぼみ、死んでいった。運動がとっていた広がりと、本当に日ごとどころか時間ごとに進む展開の速さのもとでは、集中化された非合法の仕組みは、もう生まれてくるあらゆる要求を満たすことはできなかった。
宣伝用の、純粋にマルクス主義的な性格の文献には、まだ一定の場所が残っていた。それはまだ誰にも占められず、何にも代えられなかった。どこかの『ドンスカヤ・レーチ』がその場所を占められるはずはなく、その出版物が『エルフルト綱領』やディクシテイン(『誰が何によって生きているか』)にさえ代わることもできなかったからである。だが一般的な扇動のビラの分野では、もう集中的な供給を当てにすることはできなかった。需要がはるかに先を行っていた。それに追いつくには、地元に技術を置く、つまり仕組みを分散させるか、自前の合法新聞をつくってみるかしなければならなかった。というのも、生活が毎日自分の扇動の材料を提供しており、この仕事を非合法の仕組みに集中させれば、主題の点でも、扱いの点でも、配布の点でも、どうしても大きく遅れることになったからである。
だが、これは三つの革命を経た今だから明らかなのであって、当時はそれほど明らかではなかった。それでも当時すでに、われわれの仕組みには何かが大いに欠けていることが感じられていた。当時すでにわれわれは、労働者組織に文献や活字や用紙だけでなく、武器も供給する必要があることを考えに入れていた。第3回大会での武装蜂起の問題の提起は、偶然でも理論的なものでもなく、実際的な性格の一定の前提から、つまり各地の、いつもはっきりと意識され定式化されていたわけではない気分から出てきたものだった。そして、こうした「各地」とたえず「取引」をしていて、その気分と「需要」を考えに入れなければならないわれわれにとって、この当然の結論に行きつかないことはまったく不可能だったろう。
それに実際、そこに行きついたのはわれわれではなく大衆運動そのものだった。それもその一時期ではなく、ロシアの日々の実際だった。絶え間ない、組織的な銃撃、ストライキ、デモ、ただの大衆集会さえもが、この実際から出てくるまったく当然の結論、つまり自衛の必要、したがって武器の必要を前面に押し出さずにはいなかった。
だからゴルプコフとの最初の話からして、かなりはっきりした性格をもっていた。居所を変えなければならない、そして役目を広げるべきだ。
2
そしてこの点で、生活はわれわれのほうに歩み寄ってきた。
「ヤフカ」の役目を果たしていた弁護士ペレヴェルゼフ(原注)が電報を受け取った。
「ミロノフ事件近日審理、モスクワへの出張必要。ジーミン」
(原注)1917年にはケレンスキーの大臣。
ペレヴェルゼフはミロノフ事件などというものを扱っていなかった。「ミロン」は私の党名で、「ジーミン」はニキーチチの署名である。つまりわれわれの誰かのモスクワへの呼び出しだった。
出かける。ヤフカはドルゴルーコフスカヤ通りの遠いほうの半分のどこかだ。そこへ歩いていく。途中、辻馬車に乗った、ひどく色黒で、ひどくごつごつした男が私を追い越していく。馬車への座り方からすぐにわかる。この男はあまり乗り物に乗らず、せかせかと速く歩き、歩きながら背をかがめ、手を振りまわす人間だ。そして彼が私と同じ方向へ行くので、彼も「ヤフカへ急いでいる」のだと決める。その姿勢には苛立ちがあり、家の番地を注意深く見ている。
長いあいだ「ヤフカ」をめぐり歩いていると、こういう観察力と、自分の「職業」の人間に対するある種の嗅覚が育つ。似たような状況で「言い当てた」例がいくつも思い出される。この場合も嗅覚は外れなかった。ヤフカで私が合言葉を言ったとき、ひどく色黒の男はもうそこにいて、私は彼のところへ回された。それは「マラート」で、中央委員会のモスクワ印刷所(原注)の件で私に用があったのである。ニキーチチが呼び出したのも、まさにこの件のためだった。
(原注)「カフカースの店」を参照。
この件を片づけると、われわれの立場全般の問題をはっきりさせるために、ピーテルのニキーチチのところへ向かった。
ニキーチチは、オリョールについてのわれわれの疑念も、追加の役目についてのわれわれの考えも、共有しないはずはなかった。それどころか、その役目は彼のなかではもう決まっていた。
「ピクリン酸から綿火薬をつくる手だてが見つかった。ピクリン酸は大量に手に入れられる。作業所が組織されつつある。今すぐモスクワにそのための中継倉庫を見つけなければならない」
帰り道、モスクワで、「マラート」と「ミーシャおじさん」と、われわれの「旅券」の材料と、それにともなう役目を中央委員会モスクワ地域ビューローに引き渡すことで話をつけた。ここではそれが大いに必要とされており、この仕事を集中させるにはオリョールよりここのほうが目的にかなっていると思われた。それで、仕組み全体をオリョールからモスクワへ移すより前に、これらの材料をここへ引き渡すことにした。
こうして役目の問題は、どうやら中央でも、それを変えて武器の供給に移る方向で、もう実際に解決されつつあった。運搬の役目は、ひとりでに戦闘の役目へと生まれ変わっていった。同時に、モスクワの印刷所は大衆紙『ラボーチー(労働者)』の発行に合わせて手直しされていた。
オリョールからは、『ラボーチー』の印刷所のための植字工と、その外部との連絡をつけ、ピクリン酸と外殻の倉庫を整える組織者とを、モスクワへ送らなければならなかった。最初の役目にはヤシヴィリ「サンドロ」を派遣し(彼と一緒に旅券ビューローもモスクワへ送った)、二番目の役目のためにはキエフから「チョールト」が呼ばれた。
同時にゴルプコフは資金探しに出かけた。手元にある資金で新しい事業を始めるなど、もちろん考えるだけ無駄だった。そして彼は旅から2万ルーブリほどを持ち帰り、それでもう事業を始めることができた。
このころ、私はサマーラへ行く必要が生じた。東部地区の運搬ビューローには、当時V. スヴェルドロフとゲルシャノヴィチがいた。彼らとヴォルガ沿岸の委員会とのあいだに行き違いが起きていたが、その性格はわれわれには十分はっきりしなかった。ちょうどそのころサマーラで委員会の協議会が開かれていて、まさにここでこの行き違いをはっきりさせ、関係を整えるのはとくに都合がよかった。
協議会では、サマーラでの仕事時代の古い知り合い、ポゼルン、シンビルスクのオルロフ、たしか「ミハイル」に会い、新しい人、つまりここでは以前会ったことのない人としては、サラトフのヴェトロフと「イズマイル」(レングニク)に会った。行き違いはすぐに解決され、協議会での代表権というわれわれの権利も回復された。
だがまわりではもう全国的な鉄道ストライキの話が出ていて、それでここにそれ以上ぐずぐずしていることはできなかった。
シベリアからモスクワへ向かっていたプロトポポフと一緒にサマーラを発った。そして車両に乗りこむとき、目的地まではまずたどり着けないだろうと注意された。そして実際、たどり着けたのはペンザまでで、そこで車両のなかで6昼夜を過ごさなければならなかった。このストライキは政府に高くついた。運行停止のほかに、途中で立ち往生したすべての人に、毎日日当を払わなければならなかったのである。
だがペンザで立ち往生するのはあまりおもしろくなかった。私がいなかった数か月のあいだに、ペンザはほとんど変わっていなかった。同じように俗っぽく、眠たげだった。ただ、今は知り合いのスミルノフとロッセリがいなかった。
だから行くところさえなく、いやおうなく駅と車両のまわりをうろつくほかなかった。鉄道の車庫ではときどきエスエルの集会が開かれていたが、プロトポポフと私は入れてもらえなかった。
われわれのコンパートメントには、極東からキエフへ帰る若い軍医が乗っていて、私たちはすぐに親しくなった。そしてペンザに足止めされて6日目に、軍用列車がモスクワへ向かうとき、医師の口ききで、その列車にもぐりこみ、無事にモスクワまで行くことができた。
モスクワに着いたのは10月18日にかけての夜、つまり「マニフェスト」が事実上もう公布されたときで、朝早くから商店が開きはじめ、自由主義的な人々や若者が大学へと向かっていた。
ある講義室で、私にはまったく公然と思われたが、社会民主党モスクワ委員会が、階段教室のいちばん上の段に上がって会議を開いていた。「マラート」もそこにいた。労働者を先頭に、政治犯の釈放を要求して総督のところへ行った代表団の報告が聞かれていた。
「彼はおびえていました」と報告者は締めくくった。「とても動揺していて、請願すると約束しました」
私は「マラート」に話しかける。
「代表団がそんなにすぐ彼を信じて、即時釈放を強く求めなかったのはまちがいではありませんか?」
「マラート」は思いがけない激しさで答えた。
「あなたはメンシェヴィキのような考え方をしますね。武装蜂起だけが、彼らにわれわれの要求をただちに実行させるのです」
「どんな要求かによりますよ。彼に突きつけられた要求なら、武装蜂起がなくても実行できたはずです」
だが、なぜ私が「メンシェヴィキのような考え方」をしたのか、そのときもその後も、とうとうわからなかった。
どの講義室でも集会が開かれ、ボリシェヴィキはもう「労働者の手を武装する」必要についてのスローガンを掲げて演説していた。中庭のロモノーソフ像のそばでも、絶え間ない集会が開かれていた。
夕方、工学学校には、釈放されたばかりの古い中央委員会がそろっていた。クヴャトコフスキーが帽子をあみだにかぶって、四方八方へ演説者を送り出す采配を振るっていた。
オリョールに戻ると、ポグロムの状況が待っていた。「マニフェスト」を記念して、ゴルプコフとエレーナはデモに出かけ、その先頭を歩いていたので、黒百人組の反対デモの棍棒や鉤棒をまっさきに浴び、かなりの傷を負った。エレーナは病気になり、私たちの二部屋は、女主人がぞっとしたことに、ユダヤ人の家族と子どもでぎっしり埋まっていた。皆が床に座ったり這ったりしていて、ソヴィエト時代の鉄道の駅のように、立つことも通ることもできなかった。ポグロムの気分はもうおさまっていたが、彼らが通りに出るのはまだ危険だった。
いくつもの住まいを見つけて、夕方、彼らをもっとよい条件のところへ移さなければならなかった。だが黒百人組の憎しみは、もう自由主義者に向けられていた。そして地元組織は自衛を組織しなければならなかった。ここで武器の必要がきわめてくっきりと現れた。こうしてまったく実際的な道からも、われわれはまたこの仕事に取り組む必要に行きついたのである。
仕組みをモスクワへ移す問題はもう決まっていて、われわれはその準備を始めた。ここにこれ以上とどまるのは、政治的にも実際的にも、もはや何の意味もなかった。ピーテルからバクーへ帰るA. エヌキッゼが通っていった。聞けば、バクーの印刷所はたたまれて、北のピーテルへ移されるところだという。われわれがこの袋小路にとどまる理由は、なおさらなくなった。
3
モスクワへは11月初めに移った。移転は、ニキーチチからの新たな緊急の呼び出しと重なり、ほとんど駅からまっすぐにヤフカを探さなければならなかった。そこからヴォズドヴィジェンカ通りのM. F. アンドレーエワのところへ回された。
戸を開けたのは、背の高い、ひどく見覚えのある男だった。M. F. は留守で、彼は待つように勧めた。
「じきに帰ってくるはずです」
私たちは広間に座って、最近の出来事や、生まれたばかりのカデットについて話した。しかも私の田舎者の耳には、多くの用語や略語が新しく、よくわからなかった。聞き返さなければならず、そこから遅れているという気持ちと、いくらかの気まずさが生まれた。そして相手を見れば見るほど、ますます見覚えがあるように思えたが、どこでいつ会ったのか思い出すのもますます難しくなった。そして、知り合いがあまりに近しく思えたので、それをたずねるのも気まずかった。
もう発行が始まっていた『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』の話になった。そして何か無意識の連想の力で、私は突然、この話し相手を絵はがきや雑誌でしか見たことがなく、実物を見るのは初めてだということを思い出した。この発見はあまりに思いがけなかったので、一瞬、話の糸が切れた。何しろそれは90年代からの私の大好きな作家、ヴォルガの気分と私の故郷の色彩をもち、私が育った街頭の大胆さでいつも私を魅了してきた作家だったのだ……『クワルダ』、『悪魔の話』、『フォマー・ゴルデーエフ』……
思わずうろたえたのを隠すために、時計を見た。
「お急ぎですか?」
「ええ……いや……ある場所に行かなければならないものですから」
呼び鈴が鳴った。
「どうやら彼女です」
それは本当にM. F. だった。今度は三人で用件の話を始めた。数日前、砲弾の作業所を組織し、戦闘の仕事を直接担当していたグロジャンが、電車のなかで黒百人組に殺された。誰かが彼の代わりを務めなければならなかった。そしてM. F. もゴーリキーも、この代わりには、われわれの手元にいて『ラボーチー』の印刷所を担当していた「チョールト」がいちばんふさわしいと考えた。
「『チョールト坊や』を私たちにくださいな。彼の代わりなら、グロジャンの代わりより早く見つかるでしょう」
「チョールト」は譲られ、その代わりにエレーナがつくことになった。
モスクワでの今後の方向を見定めるうちに、「運搬」は、それとして、われわれの運搬は、生活によって清算されたことがはっきりした。バクー印刷所の生産物は公開の市場に出た。『ノーヴァヤ・ジーズニ』が出ており、出版社『コロコル(鐘)』が組織されつつあった。
だが、奇妙なことに、委員会の技術のための活字を求める各地からの注文はやまなかった。どうやら、地下の習慣や伝統がまだ生きていたか、合法出版物が需要を満たしていなかったのだろう。いずれにせよ、ここモスクワで、何組かの活字を買って各地へ送らなければならなかった。ただ今はそれがもっと簡単だった。たしかにレーマンの活字鋳造所はまだ購入のための「知事の許可書」と旅券の提示を求めていたが、もう単に「形式のため」だった。覚えているが、あるとき、たしかアリスタルフが、過マンガン酸カリですっかり洗い落としたために赤茶けて透けて見え、書きこんだ文字や署名がにじんで、下っぱの庭番でさえ目につくほど新しい偽造書類を持って、活字を買いにレーマンへ出かけたことがある。それでもレーマンでは、提示された「旅券」を見てにやりと笑っただけで活字を売ってくれた。おまけに、その旅券は1年期限のもので、ロシア人の名で書かれていたのに、持参人ははっきりしたユダヤ系の顔立ちだったのである。
各地のわれわれの仕組みはまだ残っていて、われわれはそれとの連絡を保ちつづけていた。
そこから武器を求める強い問い合わせが始まった。黒百人組の組織とポグロムが、これらの問い合わせの直接の前提だった。キエフのルカは、国境を越える武器の道をもう整えていた。中央委員会のビューローに武器を求めてきた地元の委員会は、そこからわれわれのところへ回されてきた。この仕事を据えなければならないということになった。
少しずつ、モスクワの商店で十丁単位で拳銃やウィンチェスター銃を買うことから始めた。そこではもう許可なしで売ってくれたので、課題は、買った武器を持って通りで逮捕されないようにすることだけだった。そのために、それは商店で念入りに荷造りされ、速い辻馬車で用意した住まいへ運び出された。そしてそこから注文先へ送られた。
だがこの仕事は、もちろん大きな広がりをもつことはできなかった。あまりに大きな資金が必要で、そういう資金はわれわれにはやはりなかったし、「商店」以外の入手先も必要だった。そのため、この役目にはわれわれの資金と力の一部しか回らなかった。残りの部分は「自由な」労働者新聞の流れに向けることにした。
ドゥブロヴィンスキーやクヴャトコフスキーと一緒に、モスクワ委員会の同意を得て、大衆的な労働者機関紙『フペリョード(前進)』を出そうと考えた。ボリシェヴィキの『ボリバー(闘争)』とメンシェヴィキの『モスコフスカヤ・ラボーチャヤ・ガゼータ』がそのときもう出ていたのか、それともやはり準備中だったのかは覚えていない。だがそれらがわれわれの『フペリョード』と同時に存在していたことは、はっきり覚えている。
トヴェルスコイ並木通りのホルチェフの印刷所と契約を結んだが、当時エスエルぶっていたこの事業家は、ごくありふれた詐欺師だということがわかった。12月蜂起のあと、われわれの契約書が保安部に押収されると、彼は自分の倉庫に保管されていたわれわれの紙を着服し、そのうえわれわれの金を1500ルーブリほどせしめたのである。
おもしろい一こま。地下から抜け出したばかりのわれわれは、すぐには「立憲的な」精神を吸収できなかった。自分たちの新聞の発行に何であれ「許可」が要るなどということは、勝利をおさめたあとではまったく余計な、遠い過去の遺物に思えた。そこで、印刷所と契約を結び、新聞に『フペリョード』の近刊予告を出したとき、われわれは、それを「届け出制」で出したものとすっかり信じこんでいた。そしてこの素朴な思いちがいに、発行直前の最後の数日まで浸っていた。そして第1号の発行日を印刷所に具体的に決めなければならなくなったとき、ようやく、印刷所はわれわれに「許可」を求めてきた。
「もちろん、これはつまらない形式ですよ」とホルチェフ(印刷所の持ち主)は自由主義者ぶって言った。「でも、念のためにね。監督官に求められるかもしれない……私を罰金ですませてくれればいいのですが」
われわれは誇らしげに、届け出制しか認めないと言明した。だが、少なからず毒をこめて、自分たちもそれが最善だと思っているが、形式主義者の監督官は別の意見で、自分たちは印刷所を危険にさらすわけにはいかない、と答えられた。
最初の妥協の苦さをすっかり味わわなければならなかった。だが、もう予告してしまった『フペリョード』紙の許可を取る時間はなかった。発行日は発表され、すべてそれに合わせて準備されていて、どんな延期も事業に混乱をもたらした。助けてくれたのは同じホルチェフだった。
「うちの印刷所に、週刊誌『クニージヌイ・ルイノク(書籍市場)』の許可が置いてあります。どうやら出すつもりはないようです。ヴァレンチノフ(原注)と話してごらんなさい、もしかしたら譲ってくれるかもしれません」
(原注)当時モスクワで出ていた分厚いマルクス主義雑誌『プラウダ』の編集者。
ヴァレンチノフと話さなければならなかった。彼は快く自分の権利をわれわれに譲ってくれた。だが『クニージヌイ・ルイノク』は書誌学の週刊誌で、日刊の政治新聞『フペリョード』ではない。手品を使わなければならなかった。新聞の題字『クニージヌイ・ルイノク』は小さな活字で組み、副題の『フペリョード』を太字で組んだ。ほかの形式上の手続きはすぐに片づいた。
新聞の事務所と編集部は、クヴャトコフスキーの強い主張で、ニキーツカヤ通りの劇場の向かいに、「3階より下でなく」置いた。
「黒百人組の手が届きにくいように」
4
新聞の事務の技術的な仕事はすべて、自分たちの肩に負った。A. P. ゴルプコフ、V. D. ゴルプコワ、エレーナ、私、そして主任会計係としてV. スヴェルドロフ。編集部はイン. ドゥブロヴィンスキーが率い、クヴャトコフスキーとモスクワ委員会の代表ワシーリエフ=ユージンが加わった。のちにシリヴィンとL. Ya. カルポフも加わった。地区や工場への配布はモスクワ委員会が引き受け、そのために地区の失業者を使った。
第1号が出たのは、たしか11月の末だった。そしてもう第1号から、どんな憲法やどんな「自由」が、「出版の自由」にいたるまであっても、ブルジョア国家ではどこでも見られる、労働者新聞に対する態度がはっきりした。ツァーリの検閲はもうある程度その陣地から追い払われていて、労働者新聞を迫害するこの「文化的な」方法はまだ使うことができなかった。だが、アメリカ式のふつうのブルジョア的方法、そこではいつも使われ、今ではどこでも使われている方法、今日の用語で言えば「ファシスト的」、当時のロシアの用語で言えばポグロム的な方法が、われわれにも使われたのである。
第1号は、印刷所から編集部へ運ぶ途中で、トヴェルスコイ並木通りでならず者たちに襲われた。新聞は引き裂かれ、車道にばらまかれ、あるいは束ごと持ち去られた。だからすぐに運搬の護衛の問題を解決しなければならなかった。当時『フペリョード』の発送部で働いていたN. I. ムラーロフとその兄弟は、まるごと一つの護衛隊を組織しなければならなかった。朝早く彼らは印刷所へ出かけ、そこから刷りあがった新聞を積んだ荷馬車を護送した。しかも、護送隊が移送囚の一団を囲むように、モーゼル拳銃を構えて荷馬車を取り囲み、そういう姿で新聞を編集部へ届けたのである。そして2、3日後には、運搬だけでなく、印刷そのもの、さらには印刷所の護衛の問題さえ持ちあがった。印刷所ではポグロムへのパニックが現れはじめていた。
もしモスクワ蜂起が迫ってきて、あらゆる編集部とあらゆる印刷所でふだんの仕事をすべて止めてしまわなかったら、この先「物事の論理」がわれわれをどこへ導いたかはわからない。
12月6日か7日、今ではもう思い出せないが、『フペリョード』の最終号が出た。次の号の原稿は印刷所に渡されていたが、われわれの出稿係「アリスタルフ」(ローゼンベル)は、夜そこへ行ったところ、もう通してもらえず、通りで銃床で殴られて分署に送られた。それで彼に何が起きたのかわからないまま、彼を見失った。蜂起のあとの1月になってようやく、彼は分署の蒸し風呂から、素肌に毛皮外套をはおり、素足に浅いゴム靴をはいて逃げ出すことができた。
最後の、出なかった号を印刷所に渡したあと、ゴルプコフと私はもう、ニキーツカヤ通りの編集部からサドーヴァヤ=トリウムファーリナヤ通りの家へ、まっすぐの道では帰れなかった。トヴェルスコイ並木通りではパトロールが身体検査をしており、ブロンナヤ通りではバリケードが築かれていた。動物園のわきを通り、グルジヌイとトヴェルスキエ=ヤムスキエ通りを抜けて迂回しなければならなかった。しかもここでも道中ずっと、モスクワの浮浪少年たちが街灯を壊し、バリケード前の活気とざわめきをもちこんでいた。
夕方、トリウムファーリナヤ=サドーヴァヤ通りで最初のバリケードを築いた。暖かい、曇った夜。街灯一つ、窓の明かり一つない。大勢の若者や市民が、歩道だけでなく車道まで埋めて、用心深く、張りつめて通りを動き、ざわめいている。辻馬車は消えた。大声の話は聞こえない。通りにはありえない、復活祭のような静けさと、産卵期の魚か、遠くの氷流しのような、動く群衆のかさかさいう音。そしてときどき、あちこちで、ぽつんと拳銃の発射音と弾の飛ぶ音。そしてすぐそれに続いて、いくつかの声。「同志諸君、落ち着いて。これは挑発だ!」。そしてこのロマンティックで不気味な静けさのなかで、それを圧して、トヴェルスカヤ通りとサドーヴァヤ通りの角でバリケードを固める斧や金槌の音だけが響く。
翌日もそれ以後も、バリケードの時期のあいだずっと、われわれはほとんど毎日、バリケードとパトロールを抜けて編集部に集まった。パトロールから拳銃を隠すことも覚えた。来なかったのは、シモノフ村で労働者を指導していたインノケンチーと、ハモヴニキだかプレスニャだかのバリケードに入りびたっていたV. スヴェルドロフだけだった。
われわれはバリケードのすぐそばに住んでいて、その護衛と補修にできるかぎり加わった。そして夕方になって兵士のパトロールの出撃がやみ、撃ちあいが静まると、ストラストノイ広場へ用心深く忍んでいって、遠くから、人けのない真っ暗な広場と、小さな焚き火のまわりを心細げに動く一団の兵士たちを眺めるのはおもしろかった。
5
蜂起は鎮圧された。プレスニャは焼かれた。始めた事業をまた立て直そうと試みはじめた。
だが住まいを変えなければならなかった。このあいだに、編集部と一緒に身を寄せていた建物が、黒百人組の本部の一つであることがわかった。建物の管理人の年老いた退役大佐は、われわれに出ていってほしいとはっきりほのめかした。われわれのほうにも、ここにとどまる気はなかった。どこかマールイ・パラシェフスキー横丁に、もっとつましい住まいを見つけ、1906年を迎える大晦日に、ニキーツカヤ通りで最後の集まりをもった。
楽しい新年の迎え方だったとは言えない。皆の心には、壊れた「昨日」とはっきりしない「明日」がいやな影を落としていた。葬式のあとの名の日の祝いのようだった。リャードフの兄が少し活気をもちこもうとしたが、やはりうまくいかなかった。
そして翌日、新しい場所に移った。夕方、まだ家具が山のように積みあげられていたところへ警察が現れ、そこに集まっていたクヴャトコフスキー、ゴルプコフ夫妻、スヴェルドロフを連れていった。エレーナと私は、何が起きたかを知らずに朝そこへ行き、1時間半ほど待ってから、彼らを探しに出かけた。前日に起きたことがわかったのは、彼らのそれぞれの住まいでだった。
事業の再開など考えるだけ無駄だった。仕事の書類や帳簿はすべて保安部にあった。編集部にいた活動家たちはモスクワじゅうに散らばり、あるいは去っていった。残ったのはエレーナと私だったが、『フペリョード』の正式の発行人である私のかわりに、私と同じ姓の誰か弁護士補が保安部に連れていかれた。
こうして、われわれの最初の「自由な」労働者新聞は終わった。3、4か月後にそれを立て直そうとしたが、印刷所を見つけようとするわれわれの試みは、すべて失敗に終わった。どの持ち主も承知しなかった。労働組合を通じても、仲間の植字工や印刷工を通じても印刷所に近づこうとしたが、さらにうまくいかなかった。さびれた印刷所の持ち主でさえ、新聞が「労働者の」ものだと知るやいなや、警戒し、それから申し出を断った。どんな考えも捨てるほかなかった。
そして中央委員会中央技術ビューローも死に、その後、どうやら再建されることはなかった。死んだのは、その働き手たちが取り除かれたからではなく、新しい状況のなかで、もうそれに居場所がなかったからである。新しい条件は、新しい習慣と、まったく別の広がりと、別の方法を求めていた。新しい「立憲的な」現実がどれほどみすぼらしいものであっても、緊密に結束し秘密に守られた技術サークルからそのなかで方向を定め、それを指導することは、もう不可能だった。まだ生かしきり、使いきってはいない古い方法と同時に、新しい、形成されつつある状況によりふさわしい新しい方法をも使うことを可能にするような、別の形を探さなければならなかった。
生活は発展していた。そして一時的に打ち負かされ、一時的に地下に追いこまれたとはいえ、生活はもう新しい道を自分のものとして身につけており、古い形にはもう収まりきらなかった。
まったく新しい仕事の時期が開けつつあった。それに取り組むには、長い一連の適応のしなおし、新しい習慣の蓄積、より広い活動の広がりが必要だった。
V. ソコロフ
訳注(中央技術ビューロー)
- 原文の見出しは「中央委員会中央技術ビューロー オリョール―モスクワ」。節番号は原文では「I.」から始まり、以後「2」〜「5」。
- 「ニキーチチ」はL. B. クラーシン、「マラート」はV. L. シャンツェル、「ミーシャおじさん」は不詳(原文のまま)。M. F. アンドレーエワはゴーリキーの伴侶。グロジャンが殺された件は1905年11月。
- 第2節のニキーチチの言葉など、武器・爆発物にかかわる箇所は、歴史的な事実の記述としてのみ訳し、技術的な補足は加えていない。
- 「三つの革命」は1905年、1917年2月、1917年10月の革命。
- 「カフカースの店」は、第2分冊所収のV. ソコロフ「カフカースの店」(モスクワの中央委員会印刷所の回想)を指すと思われる。
- 「ペレヴェルゼフ」はP. N. ペレヴェルゼフ。1917年臨時政府の司法相。
- 『フペリョード』の正式発行人としての「私と同じ姓の弁護士補」の逮捕は、偽名(または名義)の同姓による取り違えと思われる。
- 「リャードフの兄」は原文「старший Лядов」。M. N. リャードフ(マンデリシタム)の兄弟を指すと思われる。
- 「1906年を迎える大晦日」は原文「в канун 1906 года」、つまり1905年12月31日。