V. N. ソコロフ 3 南部ビューロー(キエフ)

1

キエフへは重い気持ちで向かった。第一に、このメンシェヴィキの仕組みとの統合が、私にははっきりしなかった。私はそれをあまり信用しておらず、なぜか、メンシェヴィキの仕組みなどというのは見かけ倒しのものだと思われた。この1年のあいだ、委員会では筋金入りのメンシェヴィキにも出会ったが、特別にメンシェヴィキ的な文献にも、メンシェヴィキの配布係にも、どこでも一度も出会わなかった。どこでも委員会はわれわれの仕組みとわれわれの生産物でまかなわれていた。南部では彼らが優勢だという噂は届いていたが、この点で彼らが実際に役に立つという信頼はわいてこなかった。私は「いけにえにされに」行くような気がした。

キエフに気が向かなかった第二の理由は、1年前にそこで味わったつらい思い出だった。私はそのとき、摘発されたカーメネツ=ポドリスクから、復活祭の第一日にまっすぐそこへ着いた。キエフで私は、書類もなく、金もなく、尾行に追いまわされ、何日も眠らず顔も洗わないまま、通りに放り出された。ヤフカは平日しか開いておらず、知り合いもいなかった。

私と一緒にカーメネツから逃げてきたルカ・セミョーヌイチは、叔父のところへ行くためにジメリンカで降り、自分の知り合いの学生たちの住所を私にくれた。そこにたどり着いたのはもう夕方だった。実際にはルカが教えてくれたのはそのうちの一人、チェルノモルディクだけで、彼は家にいて、若い娘と楽しげに文学談義をしていた。彼は快く寝る場所を提供してくれ、別の部屋へ案内した。

「ここで楽にしてください。今お茶を持ってきます」

夜はかなり冷えていたので、暖かい部屋でお茶を待つのは心地よかった。ましてひどく腹が減っていたのだからなおさらである。喜んで外套を脱ぎ捨て、ソファの背にもたれた。とてつもない疲れを感じた。お茶など待たずに、ただ眠ってしまいたいほどだった。そしておそらくすぐに眠りこんでいたろう、もし学生がまた入ってこなければ。

「すみません……でも、あなたをお泊めできないんです……」

彼は口ごもり、目をそらしていた。私は彼を見て、何を言っているのか懸命に理解しようとした。ようやくわかって、かっとなった。

「出ていってほしいというのですね……」

「ええ……つまり……私たちはあなたを知らないので」

「オゼンブロフスキーの紹介では足りないのですか?」

「でも、彼は紹介なんかしなかったかもしれない……手紙でもあれば。彼は今ごろ逮捕されているかもしれませんし」

すっかりわかった……この「私たち」と、柔和な人間のこの気まずさ。どうやら私は娘にひどく怪しい人物に見えたらしく、彼女はかわいそうな若者にいやな思いをさせ、私にもいやな思いをさせたのである。そして今彼を説得しても無駄なことは明らかだった。論拠は彼ではなく彼女のほうにあった。

意地の悪い言葉を投げつけてやりたかった。

「挑発者があなた方のところに来る理由なんかありませんよ。お嬢さんたちと読書会をするのは、取り締まられるどころか奨励されていますからね」

だが言わなかった。そもそも、もうひと言も口をきかなかった。外套を手に取り、着もしないで出ていった。そのことでおそらく、お嬢さんに疑いが正しかった証拠を与えてしまったろう。

外套は通りで着た。そして長いこと通りから通りへと歩いた。秘密好きの若造どもへの内心の怒りのほかは、何も考えず、何も感じなかった。それから疲れ、凍え、ひどい空腹を感じた。そしてまた、この状況からの出口を探しはじめた。

私はノスコフから、A. G. シュリフテルへの「特別に信頼のおける」合言葉(「いよいよのときのための」)と彼の住所をもらっていた。シュリフテルとはピーテルの統計家大会で会って話したことがあった。二人ともそこでは同じ立場、つまり監視下にあって居住権のない身だった。それがきっかけで知りあったのである。だが彼のところへ行く決心はすぐにはつかなかった。それ以前も以後も、私は慎み深さから、自分のことで人の注意をわずらわせることがどうしてもできなかった。ところがここでは「信頼のおける」合言葉と、それにまつわるいっさいのことがある。夜中に、自分も活動しているかもしれない人のところへ押しかけるのだ。

だが論理は論理、寒さと飢えはまた別だった。何といっても彼は統計家で、同業者だ。それに私の住まいにだって、活動家も非合法の者もやって来る。しかも今の私の状況よりずっとましな状況で。そして私はこれまで一度も誰も追い出したことはない。耐えきれず、行った。そしてもちろん、ひどい目にあった。だが当時も今も、悪かったのはまさに余計な慎み深さと遠慮だったと思っている。

シュリフテルは私を断った。どうやら彼のなかにも疑念が生まれたらしい。それでも宿代にと金を差し出した。それは私のほうから断った。

もし3月の冷えこむ夜でなければ、それまでの不眠と神経のたかぶりと空腹がなければ、野宿など私には実際何でもなかったろう。そのうえ書類も何もない。足はやっとのことで動いた。塀にもたれるか、車止めの石に腰をおろせば、たちまち眠ってしまったろう。

だが動かなければならなかった。せめて少しでも体を温めるために。

そしてまた、中心街を離れないようにして通りから通りへと歩き、フレシチャーティクの端まで来た。そして左へ曲がり、ウラジーミル丘を登りはじめた。

ここでベンチにもぐりこんで夜を明かした。寒さで目が覚めると、もうかなり明るかった。駅は旅の者のためにいつも開いていて、寝た場所からはかなり遠かったが、そちらへ向かった。ポケットには、別れぎわにルカから借りた1ルーブリがあった。つまり駅でお茶を一杯飲み、丸パンを食べることができた。そうして元気を取り戻すと、またさっきの丘へ行った。もう眠るためではなく、そこから開ける眺めを楽しむために。目が覚めたときすぐにその眺めに気づいたのだが、そのときは眺めを楽しむどころではなかったのである。

復活祭の第二日を、私はまる一日通りで過ごした。疲れきるまで町の端から端までぶらつき、途中で行きあたった並木道のどこかに腰をおろした。通りはお祭り気分の陽気な人々であふれ、それを眺めるのはおもしろかったので、夜の不運はすっかり忘れた。

だが夕方になると、また寝場所の問題が持ちあがった。丘のほかに行くところがないのは明らかだった。丘のことはもう気にならなかった。それより気がかりなのは、そこで短い休息をとれるようになるまでの数時間をどうやってつぶすかだった。そこで夜を明かすつもりなら、宵のうちから公共の庭園にもぐりこむわけにはいかない。

たまたま劇場の前を通りかかった。『カルメン』。バッティスティーニ出演。ポケットから残りの小銭を全部はたいて、天井桟敷にのぼった。

そして劇場からまっすぐ丘へ。

三日目になってようやく、『キエフスカヤ・ムイスリ』紙のヤフカに行くことができた。「爺さん」(フレンケリ)がそこにいて、私の復活祭の放浪は終わった。だがそのつらい後味は長く残った。

2

「同盟者」との最初の出会いからして気に入らなかった。ヤフカには、私と鎖でつながれた一組になるはずの「ウラジーミル」のほかに、クヴャトコフスキーがその相棒として向かった「ピョートル」もいた。彼らは私を、いつになくひどく愛想よく迎えたので、それが私の注意を引いた。どうやら彼らはわれわれに対する自分たちの戦術を決めているところらしかった。ピョートルは相手に「指示を与え」ているようで、相手は注意深く聞いていた。それが、何の言葉も交わさないうちの、最初の出会いでの私の印象だった。

「お待ちしていました」とピョートルが迎えた。「うちではちょうど仕事が広がりはじめたところで、あなたはたいへん経験のある活動家ですから……私はもうモスクワにいなければならないのですが、あなたと直接話すために残っていたんです」

その先の話は、ときどき、どうやら私の知らない何かのメンシェヴィキの中央から出たらしい、指示的な指図の性格を帯びた。だがそれは推測するしかなかった。その中央のことは直接には語られなかった。ピョートルの指図の「指示性」も、形のうえではまったくそういう色を帯びていなかった。それがあからさまに現れたのはごく初めだけだったが、そのとき私の反撃にあった。

「私はもう指示を受けています。そして今は、地区の状況を知ることだけが必要だと考えています。すり合わせは実際のなかで行われるでしょう」

ピョートルは察した。そして十分に狡猾で抜け目のない人間らしく、とった方針に固執しなかった。

「もちろんそうです。そしてあなたと私はこれから全ロシアの規模で実務をすり合わせていかなければならないのですから、今われわれの仕事の基本的な点をはっきりさせておくのが有益だと思うのです」

この持っていき方も気に入らなかった。「全ロシアの規模」は、ピョートルに、私の目の前で、私が参加し、それどころか手を貸して、ウラジーミルに「指令」を残していく権利を与える。そしてのちにこの件で行き違いが起きたら、私を自分の策略に巻きこむことになる。

「ウラジーミルと私は、ここでは南部地区の規模でだけ働きます。あなたは、私の知るかぎり、北部の範囲で。ですから、事業全体の構図について話しあう根拠はないと思います」

そしてその後も私は、頑固に、まったく意識して、まさにこの「狭い」観点を守った。同時に、ピョートルを北部地区だけの活動家として扱う態度を強調した。

実際、オリョールでのドゥブロヴィンスキーとの話にもとづいて、私は彼をそう見なしていた。だがピョートルのほうは、私には明らかに、まったく違う評価をしていた。そして私の反論のあと、彼らが自分たちのためにつくりあげた構図の本当の中身を彼がどんなに覆い隠そうとしても、それは彼との長い話のあいだずっと透けて見えていた。いずれにせよ私にはもう、われわれと彼らの関係が「良好な」ものにはならないこと、彼らには「自分たちだけのための」何かの「自分たちの」計画があること、そしてここでの私の立場は、いつも警戒して、ばかにされないようにしなければならないので、きわめて困難なものになるだろうことが、はっきりしていた。

どうやら私の不満と、話への物足りなさは、三人目の話し手シェフトマン(「ウラジーミル」)に察せられたらしい。そして正しく察せられた。話が終わり、ピョートルがモスクワへ発つために最終的に別れを告げると、ウラジーミルは彼が残した悪い印象をつくろおうとした。

「あのピョートルは何をしゃべってるんでしょうね? こんなことが彼に何の関係があるんだか。誇大妄想ですよ」

だが、二人のあいだで何か取り決められたことを隠しながらピョートルと一線を画そうとするこの試みは、この言葉によってかえって私の目に際立った。同時に、「敵」陣営のなかでの私のうらやましくない立場も際立った。

この疑いは、まだはっきりせず根拠もなかったが、のちに実際に裏づけられた。

だが今は、私の課題は主として、われわれの同盟者に対して負けた立場に立たないことだと考えていた。そして、はっきり言っておかなければならないが、最初に知ったかぎりでは、ここでのわれわれの陣地は弱かった。たしかに、しばらくのちに現れたようなはっきりした分化はまだなかったが、その傾向はもう現れていた。「新イスクラ派」の気分が優勢なのは事実だった。

南部組織ビューローでは、そのときA. A. ドゥブロヴィンスカヤ(「フェーニャ」、現在のルゼル)とA. S. カルポワが働いていた。技術(運搬)の仕組みには、すでに疑いもないメンシェヴィキのウラジーミルのほかに、疑いもないボリシェヴィキのB. N. レオンチエフがいた。そしておそらく彼がただ一人だった。ほかの連中はみなそれほどはっきりしておらず、のちにメンシェヴィキとして自己決定したからである。

自前の「自分の」足場をつくり、自分の仕組みにいくらか別の傾向の人々を入れる必要があることが明らかになった。これが第一。第二に、それに劣らず、地元の組織や気分を知るために地区をまわる必要があった。

サマーラから「チョールト」とストルーニナ(「エレーナ」、現在のソコロワ)を呼び寄せた。せめて身近な協力関係だけは味方の人間で確保するためである。そしてさしあたり、仕事の状態と広がりをじかに知ることに取りかかった。

3

ウラジーミルは、彼のために公平に言っておかなければならないが、「事業」の状態についてごまかそうとはしなかった。もっとも、それはイエズス会的な率直さという特別な戦術だったのかもしれない。いずれにせよ、愚かでなく十分に狡猾な人間として、彼はどうせ不備に気づかずにはすまないこと、だからそれが露見するのを待たずに率直に話すほうが得だということを、考えに入れないはずはなかった。

「うちに何があると思います? 何もないんですよ。ピョートルが印刷所のことを話したのは恥知らずな嘘です。それがどんなものか、ごらんになればわかります……

それにうちの仕組みときたら……ああ、うちの仕組みをよく見てごらんなさい……『キリギリス』ですよ、働き手じゃなくて。それがうちの仕組みです」

初めは、彼が「まったくまったく」信用できる率直な人間に見せようとして誇張しているのだと思った。だがのちに知ってみると、彼の立場ならほかに言いようがなかったことがはっきりした。ときには彼が言ったよりももっと悪かった。

ちょうど、その「印刷所」の世話をしているアブラムとゾーヤがやって来た。そしてウラジーミルは、この宝物を自分から押しつけようとした。

「どうか、あなたが彼らと話してください。そしてどうか、こってり絞ってやってください。私の言うことは聞かないんです」

「どうして私の言うことなら聞くんです? それに、なぜ私が彼らを絞らなければならないんです?」

「だって、働かないんですよ、あの犬畜生ども。金を吸いとるばかりで」

「これまで彼らはあなたから金を受け取っていたんでしょう。あなたが話してください。私は聞いていますから」

そして聞くだけの値打ちはあった。

この印刷所は、聞けば、もう何か月も前から、モギリョフかその近くのどこかで据えつけられていた。機械も、活字も、その他いっさいのものももうあった。それなのに、いっこうに動かなかった。毎月そこから人がやって来て、仕事の手順と性格について細かく打ち合わせ、印刷する材料を受け取り、金を受け取って、また帰っていった。次に来ると、十分ありうる、もっともらしい何かの不首尾があって、仕事はできなかったが、人は暮らしており、出費は続いているので、やはりまた金が要る。1か月後にはまた同じ話、新たな来訪、新たな説明、また金、というふうに同じことの繰り返しだった。

「それで結局いつ仕事ができるんだね?」とウラジーミルがたずねる。

「おお、仕事のほうは心配ありません、もう全部用意ができてるんですから……このワッシャーさえなければ。シュロッサー(錠前工)が要るんです。そうしたらどんなにすばらしい仕事になるか、見ててごらんなさい、おやおや!……」

「まだ仕事もしていないのに、もう錠前工が要るのかね?」

「だから仕事ができなかったんです。ワッシャーなんてつまらないものですが、それがないと動かすとがたがたして、音がする……聞こえるんです……こういう仕事で、聞こえるなんてことがありえますか? おお、これは大きな、偉大な仕事です。こんなつまらないことでしくじるわけにはいきません……」

「だが、そのワッシャーはどこへ行ったんだね?」

「おお、ワッシャーですか? そもそもなかったんです、前にはそれが見えていなかっただけで。いやもう、もしそれがあったら、悪魔に持っていかれちまえ、今ごろはビラでお宅を埋めつくしていますよ……」

赤毛でくしゃくしゃ頭のアブラムは、まるで市場で商売をしていて、明らかに役に立たない品物を押しつけようと客の前で熱弁をふるっているかのように、言葉をまくしたてた。だがこの事業の中心はゾーヤだと見なされていた。彼女は座って、かなり無関心に、ぼんやりとさえして聞いていた。ときどきアブラムを見たが、彼女の顔からは何を考えているのかまったく読みとれなかった。

ウラジーミルは、どうやらこの会話について私より多くを知り、理解していた。そしてまた、私にはそう思えたのだが、わざとつまらない質問ばかりしていて、同時に、聞いている「第三者」がいることに気まずさを感じていた。私はやはりもう少し詳しく知りたかった。

「教えてください、その印刷所はどうやって秘密を守っているんです?」

私はゾーヤにたずねた。彼女は驚いたように眉を上げ、考えて、私が何を知りたいのかわからない、と答えた。

「つまり、その機械はどこに置いてあるんです、地下室ですか、部屋ですか? そこには誰が住んでいるんです?」

「私たちが住んでいます……私のいとこ、その家族、大勢です。住まいは大きいので」

「でも仕事を始めたら、通りに聞こえませんか?」

アブラムががまんできずに口を出した。

「聞こえる?……どうして聞こえるんです? あそこには靴下編み機があるんです……あの騒音ですから、これ以上の場所は見つかりませんよ」

もうそれ以上たずねる気になれず、またウラジーミルに任せたが、彼はどうやらそれがあまりうれしくなかったようだ。話の締めくくりはいつものとおりだった。

「金を。『事業のために』125ルーブリ、それと錠前工に25ルーブリ」

ウラジーミルは目をむいた。

「ワッシャー一つに25ルーブリ?」

「自前の錠前工がいれば、何もかからないんですが。でも彼は危険を冒すんです」

「何の危険を?」

「ばれたら、しょっぴかれるかもしれません」

ウラジーミルは私のほうに向きなおった。

「どう思います?」

「この印刷所は、いっそ彼らにくれてやって、完全に彼らのものにしたほうが得だと思いますね」

私の見るところ、これはまったくむき出しのゆすりだった。印刷所と設備にはもう何百ルーブリも費やされていた。「秘密を守るため」に誰もそこへ行ったことがなく、誰も設備の全体を見ていなかった。それにつけこんで、彼らはますます図々しくなっていたのである。

先のことに責任を負わないように、私は最後にもう一度だけ50ルーブリを渡すことに同意したが、ただし、今頼む仕事を果たさないなら、もうここへ来る手間は無用、機械と付属品はこちらで引き取る、という条件をつけた。

4

「シドロフのヤギ」と知りあった。それは、亜鉛凸版の実験をしていた化学者のYa. P. ポノマリョフのあだ名だった。

キエフでは、最初の数日どころか数週間、少なくとも1か月以上、私は自分の住まいをもっていなかった。それを探すのには時間を使わなければならなかった。ところが仕事がいつのまにか、すばやく私を引きこんでしまい、そんなことをする暇がなくなった。それに最初の荷が来たらすぐに地区をまわるつもりでいた。毎日違う場所で寝た。ペンザのロッセリを通じて、ここで彼の友人である工科大学の教授たちを見つけた。一人は大学のすぐそばに、もう一人はベザコフスカヤ通りに住んでいた。かわるがわる彼らのところに泊まった。ほかに学生のヴォインストヴェンスキー兄弟もいた。夜になったとき彼らの近くにいれば、そこへ行った。

ときには「シドロフのヤギ」のところにも泊まった。彼の部屋はとても便利だった。外国式の、まったく独立した一室住まいで、階段の踊り場から直接入れる専用の入口があり、家主から直接借りていた。自分の住まいを探すときには、いつもこの部屋が手本として思い出され、本当にふさわしい部屋でも、これとちがうと借りる気がなくなるのだった。

このヤーコフ・ペトローヴィチは、どこかよそ者めいていた。大きなぎょろ目、ごわごわの口ひげ、頭には山高帽。典型的な時計職人である。学生のように、居心地悪く、なげやりに暮らしていた。大きな机の上に実験室のすべてが集まっていた。そこでお茶もわかし、軽く食事もした。自分の実験や成果について話すのが好きだったが、私にはまるでわからなかった。だがその成果の結果、つまり出版物の大量の複製までは、私の考えでは、果てしなく遠かった。彼はその逆を確信していた。

「今、たった15〜20ルーブリあれば確かめられるんです。いくつか薬品を手に入れるのに。なのにくれないんですよ、あのけちんぼめ」

これはウラジーミルへの不平だった。彼はいつもウラジーミルに小銭を無心し、ウラジーミルはいつも引き延ばした。

「あいつに何ができるもんですか。何も出やしません。頭のなかはウサギが跳ねてるんですよ」

そしてヤーコフ・ペトローヴィチはいつもどこかへ駆けていき、薬局や商店で何かこまごましたものを手に入れ、自分の亜鉛板の上で何かを改良していた。だが私がキエフで働いていたあいだ、とうとうその試みからは何も生まれなかった。

のちに私たちは、1906年にブトゥイルキ監獄で再会した。彼は爆弾製造の作業所の主として逮捕されていたのである。

彼のところで夜休むのはよかった。話をしなくてもよかった。彼はそれを求めなかったし、自分もとくに話好きではなかった。だが話すときにはいつも、ずるそうな、人のよいからかいをこめていた。自分ではこのうえなく善良で、ずるさのない人間だったのだが。だからこそ、おそらく「ずるさ」を装っていたのだろう。

ある日、ヤフカへ行く途中で、通りで「グリーシャ」(ステルニン)に会った。彼は私をちらりと見ると、見覚えのある目つきをして、通り過ぎた。この賢く才能ある若者は、スモレンスクで、旅券ができるまでしばらく私のところに住んでいた。それから私は自分の服を着せて、仕事に送り出した。そのあと、どこかで摘発されたと聞いていた。そして今、通りで会ったときの彼の妙なふるまいは、すぐに私に告げた。脱走したのだ。

ヤフカでまた会った。ここではもう秘密を守らなくてよかった。聞けば、彼はエリザヴェトグラードに入れられていたという。古い監獄で、苔むしていて、監房はじかに野原に面していた。のこぎりを差し入れてもらい、格子を切って抜け出した。短く、はっきりと、余計なことを付け加えずに話した。それ以来、私は彼に二度と会わなかった。

技術グループの活発な協力者B. レオンチエフのところへ行った。彼はどこかポノマリョフに似ている。やはり「ずるさ」を装っているようなところがある。彼は私を物置に連れていき、そこに設けた保管所を見せてくれた。中へ入ると、近くにはまったく誰もいなかったのに、用心深く念入りに戸に鍵をかけた。そして見せ終わるまでずっとささやき声で、ときには耳もとで話した。

ウラジーミルは彼のことをいらだたしげに語った。彼がはっきりしたボリシェヴィキだったからか、彼の秘密主義の奇癖のせいか、まだわからなかった。

ところが彼の保管所には、動かないままの文献が置かれていた。

「どうしてこれは塩漬けになっているんです?」

「あの人たちに聞いてごらんなさい。どうやら仕事熱心すぎるんでしょう」

彼はいつも何にでも不満だった。

5

レオンチエフの保管所を空にして地区をまわることにした。まずエカテリノスラフとオデッサへ。蓄えがそれほど多くなかったのでなおさらである。半分に分けた。運んだ。

エカテリノスラフの手前で目を覚まし、棚を見ると、エカテリノスラフ用の私の小さな革の旅行かばんが消えていた。隅も、上も、座席の下ものぞいたが、何もない。

「何か足りないのかね?」

「ええ、旅行かばんが」

「そりゃピャチハトキだね。あそこはいつもそうだ。泥棒の連中さ。何が入ってたんだね?」

「つまらないものです、下着が一組と、手ぬぐいと石けん。かばんが惜しいですよ」

「届け出なきゃ。でもまあ、見つかりゃしないだろうがね」

もちろん届け出はしなかった。オデッサの分から割くことにした。だがひどく落ち着かず、いまいましかった。2週間ほどして、クレメンチュグの組織からキエフ・ビューローに人が来て、泥棒がどこかで文献入りの旅行かばんを盗み、中身は彼らの組織に渡して、旅行かばんは自分のものにした、と知らせてきた。

エカテリノスラフでは、まっすぐホテルへ行った。旅券を預け、用事で部屋を出たとき、廊下で、廊下係に指示を与えている巡査部長に出くわした。

「到着客に気をつけていろ……何かあったら、すぐに報告しろ……」

明日は2月19日だと思い出した。それで警察が気をもんでいるらしい。それにふさわしいビラが必要だということに、今になって初めて思いあたった。そういうものは何も持っていなかった。

ヤフカでは、地元の組織と仕事がまったく生気を失っていることがわかった。ヤフカは行き当たりばったりで、規律がなく、私をどう扱っていいかわからないようだった。ヤフカの相手と一緒に二人の少女が廊下に出てきて、物珍しそうに私を眺め、聞き耳を立てた。なんだか家庭的で、組織だっていなかった。

「彼が今どこにいるのか知らないんです……今、あそこに誰がいるか、知らないかい?……」

この問いは、どうやら妻に向けられたものだった。

「前は彼は……」通りの名が続く。「もしかしたら今もまだそこに?……」

しばらく考えたすえ、住所を教えてくれた。

「本人でなくても、とにかく誰か教えてくれますよ」

教えられた住所へ行くと、労働者の住まいだった。仕切りの向こうの、黒い口ひげの男のところへ通された。合言葉を言うと、彼は答えた。つまり正しい。だがここでも同じ印象だった。私をどう扱っていいかわからない、まるでこんなことはめったになく、地元の事柄の整った穏やかな流れを乱すものだ、というような。

自分の使命と、今後こうした連絡を続ける必要を説明する。持ってきたものをどう渡せばいいかたずねる……ささやき声で話す。

「ええ……それはとてもいい……ここへ持ってきてください」

そして私のけげんな目つきに気づいて、きまり悪そうに付け加えた。

「大丈夫です……今は、うちにはほかに場所がないんです。あとで打ち合わせましょう」

昼食後の時刻が決められた。包みを持って歩かないように、チョッキの下やポケットに、体のまわりにきちんと並べて全部身につけて持っていくと、彼のところにはほかに若い労働者が数人いて、どうやら会議中らしかった。

人の前で、背を向けて荷を下ろし、ベッドの毛布の下に積まなければならなかった。もう話はできなかった。ただ黒い口ひげの男に、地元の需要の大きさをたずねた。だがそれにも何かはっきりしない答えしか返ってこなかった。

私はここを、地元の仕事の性格と広がりについてまったく何の見当もつかないまま去った。ここで働いているのがボリシェヴィキなのかメンシェヴィキなのか、はっきりした印象さえ持てなかった。受け入れの様子が組織も規律も弱かったことからすると、メンシェヴィキのところへ行ったのだろう。だが私が荷を下ろしたときに居合わせた仲間たちや、耳にしたいくつかの言葉は、その逆をほのめかしていた。いずれにせよ、エカテリノスラフをまったく物足りない気持ちで去った。

オデッサでは、ヤフカから、たしかアンドロニコフという弁護士補のところへ回された。書斎で彼を待っていたとき、くず籠のなかに、机の下に丸めて捨てられた『イスクラ』の一号が目についた。そしてそれが、のちにきわめてはっきりした性格の兆しだったことがわかった。

主人に来訪の目的を説明すると、彼はいらだちを抑えるのも必要ないと思ったらしい。

「プレハーノフのたわごとですか。せっかくですがお断りします……いや、何かもっと新鮮なものをください」

このときまでで初めての、こんなにはっきりした態度だった。問題をはっきりさせなければならなかった。

「その評価を、大会前の文献にまで及ぼすのですか、それとも特定の筆者に対してですか、それともほかに基準がおありですか?」

「いや……どうして全部に……そんな必要はまったくありません。でもこれは……」彼は『イスクラ』を指さした。「これはとんでもない代物です。われわれは労働者を堕落させたくありません。一号だってあそこには入れませんよ。最近の小冊子にも、同じ程度のものがいくつかあります」

ここでは明らかに、分化の点で事態はもうずっと先へ進んでいた。そして相手のいらだちから判断すると、メンシェヴィキが優勢になりはじめていた。彼らをそれに手助けする気も理由も、私個人にはなかった。だが他方で、彼が大会後の文献、とくに『イスクラ』に見てとっていた、労働者を「堕落させる」影響を、誇張するつもりも私にはなかった。それでも、オデッサは最小限の量の『イスクラ』をわれわれを通じて受け取ることで話がついた。

こうして帰り道には、もう考えるべき材料があった。これまで文献の「性格」の問題は、われわれの前でこれほど鋭く立てられたことはなかった。送られてくるものは何でも、同じように、どこでも「比例して」受け取り、配っていた。送られてくるのはバクーとドイツ国境から、つまり明らかにメンシェヴィキ的な大会後の文献が、ある程度まで手直しされている拠点からだった。それに、特別に分派的な文献は、もちろん『イスクラ』を除いて、まだ生まれる時間がなかった。そのうえ、北西地区の地元組織も東部の組織も、主としてボリシェヴィキ的、悪くても日和見的な「沼地派」だった。だがどちらもほとんど「おしゃべり」はせず、根気強く、懸命に働いていた。具体的な大衆的な仕事のなかで、それまでの数年でかき立てられた労働者大衆を結集する状況のなかで、集団的な活動へと向かう彼らの雰囲気のなかで、階級的な政治路線を実際に、具体的に手探りする過程で、個々の問題についての理論的な意見の違いは、なんとなく二の次になり、先鋭化しなかったのである。

ここではもう別の状況と雰囲気があった。積極的な活動家だけでなく、組織を支える周辺部、つまりあらゆる「住まい」、「ヤフカ」、「住所」、それを探しまわるギムナジウム生や学生までもが、みな議論に巻きこまれ、みな「しゃべり」、みな自分の綱領を探していた。オデッサでの出来事は、たちまち、兆しが現れたというだけでなく、始まり、ところによってはもう終わってしまった分化の、はっきりした光景を目の前に広げた。分派はもう形をとり、結晶しつつあり、党を支える仕組みに対して自分たちのはっきりした要求を突きつけはじめていた。そして明らかに、その要求は無視できず、逆に、両方一緒にではなく、あれこれの方向に合わせた立て直しの問題を立てなければならなかった。

オデッサはまっすぐに問題を立てていた。これこれの文献をよこすか、さもなければ、あなた方はまったく要らない。そしておそらく、オデッサは例外ではなかったろう。いや、きっとそうだ。だが明日には逆の要求を突きつけるところも、明らかにあったはずだ。

この状況のもとで、われわれは実際に何を、誰に与えることができるのか?

ここではバクーとはまったく連絡がなく、国外からの(南部の)運搬は「ルイバク(漁師)」(タラセーヴィチ)が担当していた。方向の点ではかなりはっきりした人間である。南部技術ビューローの技術の仕組み全体も、ボリス・レオンチエフのようなごくわずかの例外を除いて、この点では何の疑いも起こさなかった。それはみな学生の若者で、大半は「原則的な前提」を議論したがり、(ボリシェヴィキ的な)規約第1条への反対にはっきり傾いていた。「転覆」の意味で彼らに頼るなど、考えるだけ無駄だった。

それに彼らは、住まい、住所、せいぜい配達の使いといった、まったくの下働き的な役目の性質上、そういう支えにはなりえなかった。ポルタヴァから派遣された、二人のこのうえなく人がよくてせかせかした学生運搬係を思い出す。いつも一緒で、いつも陽気でのんきで、いつも我先にとあれこれの用を果たそうとしていた。だが彼らと一緒に転覆などできるものではなかった。A. G. ゴイフバルグを思い出す。当時はまだ若い学生で、「転覆」どころか、そもそもはっきりした方向をもつにはあまりに青かった。若い技師の「ノース」は、気のいい若者だったが、頼りにできるほど安定してもおらず、仕事に深く入りこんでもいなかった。

当時のキエフ委員会ははっきりとメンシェヴィキ的だった。

南部組織ビューローは、指導者がたびたび交代した(カルポフ、ドゥブロヴィンスキー、ドゥブロヴィンスカヤ、スミドーヴィチ)ので、この場合に実質的な支えになることはまずできなかったろう。状況をはっきりさせるには、明らかにモスクワへ行かなければならない。それまでは、「キノコと名のったからには籠に入れ」、つまり乗りかかった舟に乗っているほかなかった。

6

モスクワ行きは延期しなければならなかった。そこからO. マンデリシタムが来て、中央委員会の逮捕を知らせたのである。クヴャトコフスキーも彼らと一緒に捕まった。そしてとどめに、クヴャトコフスキーがいなくなったので、北部地区の長にはピョートルが残った。彼とは私はまったく話すことがなかった。

そして新たな打撃。ボリス・レオンチエフが摘発された。駅で国外からの荷を受け取り、住まいに運んで、その夜のうちに監獄に入っていた。今やまったく一人で切り抜けなければならなかった。中央委員会の逮捕で連絡はすべて切れ、新たに探しださなければならなかった。残っていたのはニキーチチだが、彼とは直接の連絡がなかった。それにマルク、彼の居場所ははっきりわからなかった。組織ビューローでも状況はまったく苦しかった。スミドーヴィチはこのころ、たしかまだそこにいなかった。自分で連絡を探しに出かけるために離れることもできなかった。ウラジーミルとは今のところ仲よく暮らしていたが、この友情は「外交的な」性格を帯びていた。彼の「誠実さ」への信頼はもう消えていたからである。

サマーラからエレーナと「チョールト」がやって来た。これはもう一定の頼みであり、疑いのない支えだった。「一人ではない」ので、少し楽になった。

「チョールト」はすぐにプスコフとピーテルへ派遣した。プスコフの古いつながり(そこにはまだ「シガールイチ」(原注1)と「プチェラー(蜜蜂)」(原注2)が残っていた)を通じて、北部の国外運搬(「パパーシャ」(原注3)、「ピャートニツァ(金曜日)」(原注4)、「シュルトゥーク(フロックコート)」(原注5))と連絡をつけるためである。

(原注1)ゴルン、1917年にはプレハーノフ派。 (原注2)リャプコフ。 (原注3)リトヴィノフ。 (原注4)ピャトニツキー。 (原注5)コンフ。

住まいはまだなく、それを思い出すのは夜、あらゆるヤフカが「閉まり」、その日に決められた話や会合がすべて終わってからだった。用事がすべて終わって通りに出ると、どこへ泊まりに行こうかと考えこんで立ち止まることがよくあった。たいていは、ロッセリを通じて知りあった教授たち、ベザコフスカヤ通りのチジェフスキーか、工科大学の向こうのナゴルスキーのところへ向かった。ときにはワシリコフスカヤ通り近くの学生ヴォインストヴェンスキーのところへ、そしてごくまれに、もうほかにどこにも行き場がないときには、シドロフのヤギのところへ。

7

エリザヴェトグラードあての送り状が届いた。「チョールト」と一緒に荷を受け取りに行く。彼はそのあと、キエフに戻らずに「管区」まわりに出ることになっていた。私は、そこに何があるのかを知って、はっきりした見通しをもち、「チョールト」にしかるべき指示を与えたかった。今の彼は、まだサマーラにいたころクヴャトコフスキーにもらった外国製の外套を着て、キエフで手に入れた外交販売員用のトランクを持ち、とても合法的に見えたので、泊まるのはホテルでなければならなかった。

のちに私も同じホテルに移らなければならなくなった。だがそのあいだ、私たちはほとんど隣どうしに住みながら「知らない仲」だった。

ここでいくらかの足止めがあった。組織は調停派の戦術をとっていたが、住まいも資金もなく、私をある獣医のところへ回した。彼は、ブルジョア的なつながりをもち、それを党の仕事に使っているほとんどただ一人の人間だった。

地元の党の女性活動家と一緒に彼のところへ行った。だが、まずうまくいかないだろうと前もって言われていた。彼はかなりそっけなく、だが礼儀正しく迎えた。そして用件を知ると、きっぱり断った。

「できません。ピョートルのこういう企ては気に入らないんです」

聞けば、ピョートルはモスクワへ発つ前にここで働いていて、彼が運搬組織に加わったことはここでも知られていたのだった。そして彼とわれわれの話し相手とのあいだには先鋭化した「原則的な」意見の違いがあったので、どうやらその余波がわれわれにも及んだらしい。

「1サンチームも出しません」

「それで荷が摘発されてもですか?」

「どうしようもありません」

「では住まいは?」

「あなた個人なら、私のところを使っていただいてかまいません。ほかには自由になるところはありません」

荷はまっすぐホテルで受け取らなければならなかった。そしておそらく、公然と自信をもってやったからこそ、無事にすんだのだろう。荷造りはかさばっていて、ひどかった。前もってそれを知っていたら、受け取る危険をおかさなかったかもしれない。

「チョールト」はロストフ=ナ=ドヌーとウラジカフカースへ向かった。私は、そこからキリギリスたちをポルタヴァ、ハリコフ、チェルニゴフへ送るためにキエフに戻った。

キエフでは新しい事件が待っていた。クヴャトコフスキーと私がサマーラを発ったとき、途中で、ちょうど1月10日にタンボフに立ち寄り、そこからサマーラ印刷所へ檄文を送った。この檄文と、アルツィブシェフあての添え状を、委員会の女性(のちのワシーリエワ)が運んでいった。手紙はかなり確かなつてで送られ、暗号にする暇はなく、手元に鍵(本を使う鍵)もなかったので、まったく無関係な手紙の行間に、必要なことを鉛筆で書いた。ワシーリエワはこの手紙を直接アルツィブシェフに渡すことになっていた。彼の名はどこにも書かれていなかった。そもそもそこには人名も地名も何もなかった。そして彼女はすべてを正確に果たした。手紙は宛てられた人の手に渡り、何の疑いも噂も呼ばなかった。

ところが今になって、2か月後に、ウラジーミルが私に言う。

「あの犬畜生のピョートルが、あなたに何かばかげた言いがかりをつけていますよ。彼のところへ行って、どやしつけてやりなさい」

「どういうことです?」

「サマーラへの何かの手紙のことです」

「どんな話です?」

「何かばかげたことをしゃべってるんですが、私にはよくわからなかった。暗号がまずくて」

どうやら全部は言わず、何かを言い残しているようだった。だが追加の質問から、どの手紙のことかわかった。明らかに、ピョートルはそれを知っていて、もちろん自分に最も有利に思えるやり方で利用するだろう。この点では何の疑いもなかった。だが、ここにもウラジーミルの側からの罠がありはしないか。彼がピョートルを罵ることから始めたのは、何か策略を隠しているのではないか。いずれにせよ、何かの噂が這いまわりはじめた以上、すぐにそれをはっきりさせなければならなかった。

「では、あなたの考えでは、行くべきだと?」

「私ならそうしますね」

その日のうちに発たなければならなかった。

モスクワで、ヤフカの近くでピョートルに会った。一緒に入った。ひどく愛想がよく、私が来たことに大喜びしてみせる。「電報で呼ぼうと思っていたんです、どうしても必要だったので」

「サマーラへのどんな手紙のことを、ウラジーミルに知らせたんです?」

不意をつかれてうろたえ、赤くさえなった。

「どうして彼はあなたに言ったんだろう。あれは彼への私の個人的な手紙だったのに」

「中傷は、個人的な手紙に書かれたら中傷でなくなるのですか?」

彼は、サマーラから「調査してほしい」という依頼の手紙が来たのだと説明する。誰が書いたのか、どう書いたのか、なぜなのか、はっきりせず、混乱していて、しどろもどろだった。私にはただ一つのことがはっきりした。ピョートルはこれを足場に何かを組み立てて、私を仕事から外したいのだ。

事実をありのままに述べ、アルツィブシェフに確認を求めること、それまでは個人的な手紙で勝手な解釈をすることは控えることを提案する。

この話には、ピョートルの秘書が同席していた。たしかラウリとか何とかいう騎士めいた名で、のちにキブリク(原注)という名で合法化した男である。彼にサマーラへの問い合わせが任された。

(原注)15年ほどのち、メンシェヴィキの中央委員。

8

キエフに国外から新しい荷が届いた。驚くほどばかげたやり方だ。組織そのものの基地があるところで受け取るのは、一部ではなく全体を摘発の危険にさらすことである。しかも古い反乱の巣キエフあてに、それも国境から、小さな町や村から送るとは。キエフで摘発されない荷がめったにないのも無理はない。

私はこれに初めから反対してたたかい、ポルタヴァ、ハリコフ、エリザヴェトグラードの住所をもう渡してあった。それなのにまたここへ。しかもまた「家財道具」、つまりひどいかごに、ひどい荷造りで、すきまから本の角がはみ出しそうになっている。この前にはもう二つの荷が摘発され、レオンチエフが捕まっていた。明らかに、受け取りのときに何か特別な手段をとらなければならない。

キエフの古株で、地元委員会の指導者である「爺さん」(フレンケリ)のところへ行く。彼はメンシェヴィキで、私が彼の観点を共有していないことを知っているが、助けを断ったことは一度もない。彼と一緒に計画を考える。Xが荷を受け取り、Yが受け取りが無事に行われるかどうかを見張る。住まいはあらかじめ決めておく。もし尾行が見つかれば、見張り役のYが決めておいたやり方で受取人のXに知らせ、Xは荷を住まいの前を素通りさせて、予定の通り抜けのできる中庭へ運ぶ。そこには二人の男が待っている。荷は中庭を通って別の通りへ運ばれ、そこで別の辻馬車に乗せられて別の住まいへ行く。

受け取りに行くのは、レオンチエフの友人で「国際寝台車会社」に勤めていたワーシャ、すばしこくて激しやすい若者である(原注)。確認は私が引き受け、受け取りの手順全体を片時も目を離さず見張る。

(原注)たいへん興味深い人物。この3か月ほどのち、キエフの人民会館でヴォドヴォーゾフのバクー虐殺についての講演があった。講演の途中で、郡警察署長が警告のあと集会を解散させる。これに対して、背後から至近距離で署長に銃弾を撃ちこんだのが……このワーシャで、彼はまんまと姿をくらます。彼はキエフから逃れる手助けを受けた。1906年、私はモスクワで、印刷工組合の理事になった彼に会う。1913年、まったく偶然にクラスノヤルスクで彼に出くわす。彼はドミートリー・グストフという名で暮らし、シュヴェツォフ商会の外交販売員として勤めている。戦争中はノヴォニコラエフスクの購買販売組合で理事として働き、貨車の投機の嫌疑をかけられる。そこから追い出される。オムスクでたばこ工場を開き、大きな家主になりかける。ソヴィエト権力が来るとウラジオストクへ逃れ、メルクーロフの協力者になる。

かご(かなりかさばる)が受取人に渡される。赤帽がそれを背負い、駅前の広場へ運び出す。ワーシャは辻馬車をつかまえ、念入りに荷を据え、赤帽に支払って出発する。私は駅のそばの人ごみにまぎれてこれらの手順をすべて見守り、彼が出発し、雑踏から離れていくのを見届ける。彼と駅との距離は広がっていき、尾行や追跡の兆しはまったくない。つまり無事だ。もう彼は全体の流れにまぎれ、見えなくなる。今から追いかけても、まず成功は見込めない。姿を消した。それに誰も追っていない。まわりではこの件に誰も関心を示さず、物見高い目一つ見当たらない。辻馬車がわれわれのかごを乗せて駅を去ったことで私の頭のなかにできていた空白は、駅前の暮らしがもう埋めていた。

ほっと息をついて、お茶を一杯飲みに食堂へ行く。ひそかに張りつめて待っていたので、のどがからからになっていた。それから、かごが届けられるはずの住まいへ歩いて向かう。家の人たちはその時間に留守にするつもりだったので、合鍵はあらかじめワーシャに渡してあった。そしてその住まいは、たまたま、私がよく泊まっていたチジェフスキーの住む中庭にあった。今は泊まっていない。もう1週間ほど前から、その近くのカラヴァエフスカヤ通りに自分の住まいがあるからである。

中庭に入り、まずチジェフスキーのところへ寄るが、彼は留守だった。中庭はいつものように静かだ。目当ての住まいに寄り、戸に触れてみる。鍵がかかっていて、誰も答えず、人の気配はまったくない。私の勘定ではほんのわずかな時間しかたっていないので、荷がここへ運びこまれた形跡が何か残っていないはずはない。それなのに、まるで少なくとももう何時間も、ここには生きた人間が一人もおらず、何の動きもなかったかのような静けさと落ち着きだった。彼は住所をまちがえたのではないか、別の場所へ行ったのではないか、という考えが浮かぶ。もしかしたら、私が見落とした尾行に気づいたのかもしれない。

これでたちまち心の平衡が崩れ、不安でいっぱいになる。中庭に出て、門の下へ行く。もう暗い。門のところで、通りから来た男がまっすぐ私にぶつかり、あわててたずねる。

「おい、どうだ……失礼、まちがえました……」

そして走り去る。「スパイ」だ。

どうやら何か起きたらしい。これに鞭打たれる。ワーシャを探しに行く。ある場所にも、別の場所にもいない。三つ目の場所を教えられる。そこで本当に彼を見つける。

彼は鍵を返し、事は失敗したと言う。

「で、かごは?」

「あそこ、住まいのなかです」

「でも私はあそこに行ったが、静かだった。気のせいじゃないのかね?」

「とんでもない、追われたんです。辻馬車屋と二人でかごを住まいに押しこんで、私は戸に鍵をかけました。通りに出ました。反対側から門に二人の男が馬車で乗りつけてきた。私たちを見ると、一人が飛び降りた。『止まれ』。私は辻馬車屋に言った。『出せ』。その男は自分の席に飛び乗って、あとを追ってきた。でも彼らは馬をこちらの方向へ回さなければならなかったので、遅れた。ユダヤ人市場のほうへ走らせて、振り返ると、追ってくる。値段の交渉をしなくてすむように辻馬車屋への金を用意しておいた。そして市場で、走っている最中に金を押しつけて、飛び降りた。すぐに人ごみへ、電車の陰へ、一つ、二つ、三つ角を曲がって、見失わせました」

私は打ちのめされて家に帰った。こんなにみっともなくばかを見るとは、鼻先で見落とすとは。

9

翌日チジェフスキーのところに寄り、長いこと彼の窓から、あの不運な住まいの入口を見張った。怪しい動きは何もなく、何か異常なことをほのめかすものは何もない。二度、時間を変えて通りを歩き、通行人や行きあう人々を、とくに通りの角のあたりを注意深く観察した。どうやら、きれいだ。ワーシャは思いちがいをしたのかもしれない。神経が張りつめていて、全神経を何かを待つことに集中していると、そういうことがある。何といっても、私は駅のそばで何も怪しいことに気づかなかったし、誰も彼のあとを追って出ていかなかったのだから。

エレーナが通りでその住まいの主婦のルダノフスカヤに会い、彼女は、かごは自分たちのところにあって、いつ開けられるかとじりじりして待っている、と知らせた。夫の将校V. G. ルダノフスキーは今日病院を退院するはずで、文献をいくらかウラル・コサック軍の友人たちに送ることを許してほしいと言っている、という。

「駅からかごがつけられた疑いがあるんです」

この将校夫婦はほとんど身内だったので、エレーナには不安を隠す理由はなかった。

「でも、それならどうして今まで押さえに来ないんです? つまり、なんでもないんですよ……」

かごは運びこまれたその場所に置いたまま、中身を少しずつ別の場所へ運び出してみる、ということで話がついた。空になれば、かごはもう危険ではなかった。逆に、それを追っていた者がばかを見ることになる。

そして小雨のぱらつく夕暮れどき、エレーナは医師助手の女学生三人と一緒に住まいに入った。文献の包みを体じゅうにぶら下げて、無事に出ていった。二度目の往復もすませ、かごのたっぷり半分が別の場所へ移された。

時間が遅くなったので、それ以上続けるのはやめ、翌朝に約束した。ルダノフスキーは積極的に手伝い、友人たちへの郵便小包二つ分を自分用に選び出した。

朝、私にはいくつか用事があった。そしてかごを空にする作業がとても気になったので、昼食どきにある食堂でエレーナと会う約束をした。彼女はルダノフスキーのところへ向かった。

思ったより早く片づいた。食堂で待つには長すぎた。ベザコフスカヤ通りへ行き、住まいの前を通った。通りは落ち着いて見え、門のところにはいつもの人の動きがあり、怪しいものは何もない。チジェフスキーのところへ行って、窓から「あの」住まいをのぞいた。何の気配もない。ルダノフスキーのところへ行ってみることにした。彼とは知り合いではなく、一度も会ったことがなかった。まだ口ひげもない若者で、まったくの同志だが、方向はまだはっきりしていない、ということは知っていた。それならなおさら、彼と知りあって、ここに「自分の影響力」を固めておく理由がある。ウラジーミルと彼の仕組みと袂を分かつ可能性は、とくに最近の出会いや話のおかげで、もう予感されていた。

心のなかでのこの最後の理由が決め手になった。

下へ降り、門の下から出て、ルダノフスキーの家へ向かった。

中庭の明るい日差しのあとでは、廊下は薄暗く見えた。そこにはいくつかの戸が面していた。その一つのそばに、口ひげのない若い将校が立って、誰か私服の男と話していた。

愛想よく迎えた。

「こちらへご用ですか?……」

「そのとおりです」

「どうぞ」

彼は、2日前に私がその取っ手を握っていたまさにその戸を、いんぎんに開けてくれた。

私はただ、愛想のよい主人に手を差し出して、名のりさえすればよかった。

だがその儀礼をすませようと彼の顔を見ると、彼はあざけるように笑っていた。部屋からの光が、青い憲兵の制服を照らした。部屋のなかには、憲兵たちの大柄な背中、郡警察署長、ほかの人々が見えた。

「どうぞお入りください」

「でも、なぜです?……」

「お願いします」

肩をすくめて、敷居をまたいだ。将校が私のあとから入ってくる。

「こいつか?」

問いは私の前に立っている男に向けられている。彼は振り向いて、すばやく、おびえたように私を見まわす。

「いいえ、ちがいます」

それは辻馬車屋だった。つまりワーシャを探していて、私を彼とまちがえたのだ。

ポケットには、ペンザやサマーラで暮らし、ヴォルガ沿いのすべての町で住民登録した古い無期限の旅券が入っている。会ったことも見たこともない、六等官の息子ミハイル・ウラジーミロヴィチ・サトコフスキーの旅券で、彼は私より10歳ほど年上だった。その10年を消し、彼の筆跡でこの姓を署名することを覚えなければならなかった。ここの住まいでは、別の旅券で住民登録していた。だから自分の住まいがこのうえ摘発される点では、まったく安心していられた。自分の手で書きとめた、かごの中身の小さな一覧表がチョッキのポケットに入っていた。それは簡単に捨てられる。魔がさして、厚い紙に書いてしまったのだが。

これらすべてが頭のなかで、すばやく、止まらず、とどまらず、そしておそらく私自身はまったく関わらずに、ぐるぐるまわる。青ざめた若い女性、どうやら主婦らしい人が目に入った。もう一人の将校、彼女の夫はいなかった。エレーナも、彼女と一緒に「運び残り」を運ぶはずだったほかの娘たちもいなかった。巡査、憲兵二人、辻馬車屋、それに私服が二人。署長が机に向かって調書を書いていた。

「あなたの書類は?」

「どうぞ」

「キエフでの住民登録はないのですか?……」

「着いたばかりです」

「この荷物と一緒に?」

「荷物は何もありません」

「何の用で?」

「仕事の交渉で」

「どんな仕事です?」

「文筆の仕事です」

「ふむ!……なぜよりによってここにいたのです?」

「門に貸間の張り紙があって、見に寄ったんです」

そして署長と何かささやきあったあとで、

「それでもあなたを拘束しなければなりません……しばらくのあいだ」

「あなたがそれを必要とお考えなら。でも、この不愉快なことを長引かせないでいただきたいものです」

「すぐにすみます……とりあえず分署へ行っていてください……付き添いと一緒に」

彼がばかにしているのか、愛想よくしようとしているのか、判断しかねた。だが考えこんでいる暇はなく、同意するほかない。

私に巡査を一人つけ、旅券は取りあげられる。

「あとであちらで受け取れます」

出るとき、新たな不安。庭番に出くわさなければいいが。彼は2度ほど、チジェフスキーのところで私を見かけていた。だが彼は中庭にも門の下にもいない。

並木通り分署はすぐ角を曲がったところにある。巡査は丁寧だ。私がきちんとした身なりで、「はっきりするまで」の半ば逮捕された者にすぎないと見なされているからである。それで私は事務室で待たされることになり、当番の巡査部長がたえず見張っていて、一歩も私のそばを離れない。私が席をはずさなければならないときは、きちんとついてきて、戸を閉めないように頼む。愛想はいいが、しつこい。

1時間、2時間、3時間と座っている……「あちら」ではまだ終わらない。あとどれだけの人がそこへ寄って、同じ目にあうことか? エレーナとほかの者たちはどこにいる? 私が来る前にもう監獄へ送られたのか、それとも「彼ら」が来る前に包みを持って住まいを出たのか? もしそうなら、きっと残りを持ち出すためにまた戻ってくるだろう。たいした残りに出くわすことになる……

そしてチョッキのポケットのこのばかげた手書きの一覧表、どうしても処分できない。巡査部長は、私がちょっとでも動くと目を上げて私を見、私がまた動かなくなるまで見ている。それでも、ポケットのなかで、取り出さずに、鉛筆で住所を暗号で書いたセルロイドの手帳は消した。だがこの一覧表は(ちくしょう!)……ただ一つの証拠が、まだポケットのなかにある。それどころか、ポケットから突き出していて、巡査部長にももう見えているような気がする。

外套を脱いで、革張りの長椅子に座り、そのクッションにもたれた。座面が終わって背もたれが始まるところに深いひだがあることに、前もって目をつけておいた。すきを見て、この一覧表をそこに葬ることができる。それは時計と一緒にポケットに入っていて、時計を出したりしまったりするあいだに、もう細い筒に丸めてあった。

巡査部長と話し、長い足止めに首をかしげ、長椅子の上で身動きする……できた……紙切れは収まった。目で作業を確かめた。何の跡もない。

今や生まれたての赤ん坊のようにきれいで、けちのつけようがない。気が楽になり、腹が減ってきた。

「それにしても……私は朝から何も食べていないんです。ご親切に、問い合わせに人をやってもらえませんか」

「じきに戻ってきます」

だがこの「じきに」が、もう3時間続いている。

彼はとても愛想がよく、「レストランから昼食を持ってこさせる許可を」もらいに人をやる。これは私のことを遠回しに思い出させるもので、「待つ」べき立場の巡査部長が指示を求める直接の問い合わせではない。

結果を待ちながら、部屋を歩きはじめ、何かのメロディーを口ずさみさえする。

どうやらここの「身内」らしい男が入ってくる。長椅子の私の席に座り、巡査部長と話しはじめる。二人はほとんど並んで座ることになり、来た男はたびたび巡査部長のほうに身をかがめて小声で話すので、話はほとんど私の耳に届かない。ただ、ときどき笑いあっているのが見える。

また巡査部長のほうに身をかがめ、また背をのばし、また身をかがめる……だが今度は床のほうへ。何かの紙切れを拾いあげ、読んで、巡査部長の鼻先に置く。

「私の一覧表」……

これはスパイで、座って長椅子を手で探り、哀れな紙切れを押し出したのだ。

巡査部長は私のほうをちらりと見たが、何も言わず、二人は話を続けた。私は打ちのめされたようになり、歩きつづけたが、もう口ずさみはしなかった。

ルダノフスキーのところから彼らが戻ったのは夕暮れだった。誰も連れてこなかった。どうやらまっすぐ監獄へ送ったらしい。

巡査部長はすぐに彼らと一緒に書斎に入り、彼のあとには、私のメモは机の上に残っていなかった。1分後、私は呼ばれた。

「身体検査をさせていただきます」

ポケットから全部出させられた。そして驚いたことに、そこには今日受け取ったばかりで、すっかり忘れていた『プロレタリー』の最新号が出てきた。

「これでおわかりでしょう、お帰しするわけにはいきません」

私は黙っているほかなかった。

分署に泊められ、空いた監房に一人で入れられた。ほとんど眠れなかった。南京虫のせいというより、遅ればせの考えや思いめぐらし、そしてこの一日のうちに何が起きたかもしれず、それを私がまったく知らないことへの不安のせいだった。何もかもあまりに不意に起き、状況はあまりに急に変わった……記憶にはまだ日の照る昼がありありと浮かび、その空気や匂い、さわやかな春の風、動きの自由が感じられた……そして、監獄の戸が背後で閉ざされた者なら誰でも知っている恐ろしい憂鬱が、歯を食いしばらせ、思わずうめき声をもらさせた。

10

この憂鬱は、朝目を覚まして、壁をすべる日の光を見たときにいっそう強くなった。

窓は戸の向かい、板寝床の上にあった。寝床の上に立つと、そこから分署の狭い中庭、高い板塀、その向こうの一般の家の中庭が見えた。そこでは人々が自由に歩き、子どもたちが遊び、犬が中庭の隅々を駆けまわっていた。その自由な中庭に面した窓からは陽気な若い声が聞こえ、使用人たちが言いあいをしていた……

一言で言えば、自由な人々のいつもの暮らしが、いつものとおりに流れていた。彼らは閉じこめられた者のことなどほとんど考えなかったので、窓から彼らをうらやんでいる牢獄がすぐそばにあっても気にならなかった。彼らはそれに慣れていて、それは彼らには関係なかったのである。

警察の中庭の塀のそばに、丸太が積みあげてある。その上に立って跳びあがれば、塀の縁に手がかかる。塀は向こう側のほうがずっと高いらしい。あの中庭の入口がどちら側にあるのか、知りたいものだ。おそらく、声が聞こえ、別の家にぴったりくっついた大きな家の端がのぞいているほうだろう。反対側には、どうやら付属の建物がある。

ベザコフスカヤ通りとビビコフスキー並木通りに対する分署の配置、何時間か待った部屋、階段からこの監房へ降りてきた方向を思い出す。おそらく、この大きな家はベザコフスカヤ通りに面している。

悲しい思いにふける長い一日が、今始まったばかりだ。どこからか、右からか左からか、電車の鐘の音が聞こえてくる。何かの鈍い、かすかなうなりがしばらく続き、また鐘の音。

「お茶を飲みますか?」

ほら、深い思索に割りこんでくる「俗っぽい現実」だ。

板寝床から飛び降りて、巡査とお茶と朝食のことを決める。金を渡す。

「ここにはどのくらい置かれるんでしょう?」

「それはわかりません。家の人に何か伝えることがあるなら、それはできますよ」

そして用心深くあたりを見まわす。

「ありがとう、ここには誰もいないんです」

そしてまた窓へ。空を眺め、空気を感じ、跳ねまわるスズメの声を聞き、塀の向こうに現れる人々を見ていると、考えがよくまとまる。

私の窓の下の中庭に、誰か男が現れた。やつれた顔、しわくちゃのカラー、山高帽。巡査が一緒だ。どうやら逮捕者らしい。散歩だ。

巡査は丸太に腰をおろし、男はそのそばを歩きまわる。誰かが連れ出される音がなぜ聞こえなかったのだろう。おまわりは煙を吸いこみ、つばを吐く。それからしばらく私を眺める。人のよい目つきで。

「窓からのぞいちゃいけませんよ、旦那」

「禁じられるまではいいでしょう」

「まあ、そういうことなら」

そして私をほうっておく。

時間はゆっくり、うんざりするほどのろのろと過ぎる。何の期待も、何の計画もない。何も知ることができず、今いちばん気になることをたずねる相手もなく、自分の消息を誰かに伝えることさえできない。戸は閉ざされ、ほかの人々との危険なつながりは断たれ、今、この瞬間にそれを取り戻そうとすることはできない。それはほかの人を巻きこみ、隠さなければならないことを明るみに出しかねない。おしまいだ。いた者がいなくなった。呼びかけようとする試みは少ないほどいい。彼らが無事なら、昨日のうちに自分で察したはずだ。捕まったのなら、なおさら彼らに糸をのばしてはならない。

中庭に新しい男が、同じ巡査と一緒に現れる。どうやらここは逮捕者の「散歩」の場所らしい。おそらく私もここを歩かされるのだろう。

「丸太、塀、中庭……あちら側に門……」

決心はひとりでにまとまった。失うものは何もない。ここでは私の名は知られていない。仕事を一からやりなおせる。過去は旅券と一緒にここに残る。危険? 何もない。どのみち入っていなければならないのだから。やってみるほうが得だ。

今や時間は速く過ぎはじめた。近づきたい目標ができた。そして、散歩に出してもらえないのではないか、監獄へ連れていかれるのではないか、どこかほかの場所で散歩させられるのではないか、という不安も生まれた。

昼のお茶が運ばれた。小雨がぱらついた。日は夕方に向かった。それでもまだ呼ばれない。

「散歩に行きますか?……」

「ええ……ええ……」

外套を着て出る。中庭では巡査が二人待っている。散歩は私の窓のすぐ下で、10歩行って端、10歩戻る。巡査たちは、昔の決闘の介添人のように、柵のところに立つ。

二人のあいだの壁の小さな張り出しに、塀のほうを向いて腰をおろす。身を引きしめなければならない。

二人のあいだをすり抜けて塀へ、一瞬だ。私の跳躍が彼らの意識に届いて反応を呼ぶには、もっと時間がかかる。彼らにとっての不意打ちに、私の勝ち目のすべてがある。

もう一度歩いて、また同じ場所で壁にもたれた。

ぐずぐずしている暇はない。今にも「終わりだ」と言われるかもしれない。

跳び出す……丸太の上に跳ぶ……丸い表面で足がすべった……立ちなおった……塀の縁をつかみ、体を引きあげ、兵隊式に脚を塀の向こうへ振りあげた。そして塀の向こう側、自由な中庭の上に、足が地面に届かないまま、ぶら下がった。外套の裾を巡査につかまれ、外套の袖が私を吊っている。

「たいへんだ、逃げた!……」

わめいているのは巡査だ、うろたえて、女のようにわめいている。だがそれはぼんやりとしか聞こえない……

必死に身をゆすって、地面に落ちる。帽子はその前に落ちていたが、それどころではない。巡査は塀の上だ。

中庭を突っ切って……門から通りへ……全速力で……

雨のあとで通行人は少ない。自分の動きを調整することはできない。巡査はもう後ろから走ってきて、わめいている。

「つかまえろ! 逮捕者が逃げたぞ!……」

どこかの少年を突き飛ばす。よけるのが間に合わなかった。走る勢いが速すぎて、横丁へ曲がれなかった。ベザコフスカヤ通りをまっすぐ駅のほうへ飛ぶ。一区画、二区画……

向かいの歩道から、前方で、人々が行く手をさえぎろうと急いでくる。横丁へ曲がる……後ろから、横から、前から笛……もう両手を広げて向かってくる……

中庭へ……奥へ……隅へ。どこか暗いところへ、すきまへ……脚はもうがくがくし、肺に鋭い痛み。

どこかの地下室……パン焼き場……奥の奥まで駆けこみ、もうどこにも行き場がなくなる。そして桶の陰の暗い隅に身を押しつける。

叫び声。「やつはどこだ?」「誰に用だ?」「誰もいないよ」

だが追っ手はもう私のそばにいる。そしてそこにいて、私が隅にもぐりこむのを驚いて見ていた太った男が、私に近づいてきた。

「出てきなさい」

軽馬車では座らせてもらえず、長々と横たえられた。二人が両側に座って押さえつけた。三人目は後ろの踏み台に立ち、私の頭を横にねじった。それで話すことも叫ぶこともできず、ただ短いうめきがもれるだけだった。私は息がつまった。

そしてはたからは、ただ一つのことしか見えなかった。父も母もわからないどころか、そもそも二つの音もつなげられなくなった酔っぱらいが運ばれていく。

「まあ、ずいぶん飲んだもんだ……」

同じ監房で夜を過ごしたが、今度は下着だけにされ、頭には何一つ考えもなく、打ちのめされ、呆けていた。寒さも南京虫も感じなかった。眠れたのかどうかさえわからない。

朝早く、ルキヤノフカへ移された。

11

これで、私の積極的なキエフでの仕事は、まる5か月のあいだ終わった。

監獄でルダノフスキー夫妻に会った。彼から、彼らの住まいではそれ以上誰も逮捕されなかったことを知った。朝、エレーナが来たとき、ルダノフスキーは小包を縫いあげるのに忙しく、それを持って郵便局へ出かけた。友人たちのためにひと肌脱ぐ機会が転がりこんだことに大喜びしていた。

「コサックの連中に読ませてやろう……」

彼らはエレーナと、昼食後に残りを片づけることにしていた。ルダノフスキーは郵便局から、まっすぐわなのなかへ戻ってきた。しかも郵便の受取証を持って。その場で、彼の目の前で、スパイが小包を取りに郵便局へ送られた。

エレーナはそこへ私のあとで来た。だが彼女にとって、この来訪はそれほど悲しい結果にならなかった。

「何のご用です、奥さん?」

「何も。貸間を見たかったんです」

「またほかのときに見てください」

どうやら、このごたごた全体にうんざりして疲れていたので、もう考えをめぐらす手間をかけなかったらしい。

彼女は言い返さず、戸を閉めた。だが門を出るときにはもう、後ろから追っ手の気配がした。人ごみにまぎれ、そこにたった一台いた最初の辻馬車にたどり着いて、姿を消した。そして1週間後、エレーナが住まいに寄ったときとそっくり同じケープを着た、ハリコフから着いたばかりのどこかの娘が、駅からルキヤノフカへ連れてこられた。

私が監獄に入って2、3日後、どこかの待ち伏せにかかったウラジーミルも連れてこられた。彼から外の様子を知った。私のことは彼らはまったく知らなかった。水に沈んだように消えたのである。だが住まいはすぐに片づけた。「チョールト」は、ルダノフスキーの住まいから盗み出せたものを配りに出かけた。

ウラジーミルと話しながら、罪なことだが、私は内心、彼の不幸を少し喜んでいた。第一に、自分のへまがそれほど悔しくなくなった。第二に、ウラジーミルを長とする事業そのものが、統合されたものからほとんどメンシェヴィキ的なものになりつつあったからである。だが彼は2週間後にはやはりうまく抜け出した。

そしてその後、彼は、私が彼の側からの罠を恐れていたのには根拠があったことを証明した。エレーナが用事で出かけたあるとき、彼は彼女に知らせずに住所と住まいを変えてしまい、彼女と「チョールト」は元のもくあみになった。そしてクレシチとマルクがわざわざやって来て、ここに新しい、今度はもっぱら自分たちの、ボリシェヴィキの基地を築く手助けをしなければならなかった。

監獄で、第3回大会と、並行して開かれたメンシェヴィキの協議会のことを知った。ここのボリシェヴィキは私一人だった。レオンチエフも釈放されていたからである。

大会については、また聞きのまた聞きの断片しか聞けなかった。そして根本の傾向しかつかめず、それも実際の事実や決議についての情報よりは、むしろ勘と推測によるものだった。だがメンシェヴィキと短いあいだ一緒に働いた実地の経験から、大会での彼らとの分裂を歓迎せずにはいられなかった。われわれの日々の仕事のなかでも、あれこれの原則や構想についての絶え間ない話のなかでも、いつも二つの態度の性格がはっきり現れていた。ボリシェヴィキの単純さ、明快さ、はっきりした態度、メンシェヴィキの屁理屈、紛らわしさ。それは、われわれ地下の平の活動家のあいだだけでなく、指導的なサークルでもそうだった。ここから、こうしたまったく人間的な前提から、政治の領域への避けがたい論理的結論も出てくる。一方には革命性、他方には政治屋ぶり。

ウラジーミルが私の同志であるエレーナと「チョールト」に仕掛けた策略のことを聞いて、むしろうれしくさえあった。迷いは少ないほどいい。この策略でわれわれがこうむった組織上の「損失」については、まちがいにはいつも代償を払わなければならない。そして面会に来たエレーナから、マルクが来て、ここでもう独立の仕事が始まったことを聞くと、それでウラジーミルとさえ和解する気になった。満足した人間はより寛大になり、より進んで敵を許すものである。それに実際、私も彼に対して同じことを準備していたのだ。彼のほうがうまくやり、運がよかった。それは彼の罪ではなく、私の不運である。

「ポチョムキン」の知らせが届いた。あちこちの兵士の運動について、断片的な情報が入りはじめた。たしかに弱く、たいていはまとまりのないものだったが、合わせれば、もう何か並はずれたものになっていた。ストライキがあちこちでほとんど絶え間なく起きていた。そしてこれらすべてが一緒になって、思わずピーテルの1月9日と結びつき、希望を抱かせ、気分を高めた。

監獄はあらゆることに敏感に耳を傾け、それなりに反応していた。そこではもう、ある種の不文の憲法ができあがっていた。私が入った日に、「旧体制」がその特権を守ろうとする最後の試みがあった。一斉の身体検査のあいだに、監獄長マリツキーが囚人(たしかパイケス)に平手打ちを食わされ、サーベルで彼に斬りつけた。負傷者は病院に送られ、監獄長にはボイコットが宣言された。彼と話をするのをやめ、そもそも彼に注意を払うのをやめたのである。そして上司は、どうやら彼をかばう決心がつかなかったらしい。彼はおとなしくこのボイコットに従い、政治犯の区画には姿を見せなかった。そこでは彼の役目を副官のボトヴィノフスキーが果たしていた。ずるく、抜け目のない老人で、どんなことでも先鋭化させなかった。

「従いたくない? それはご自由に。マリツキーに報告しておきます、好きなようにするでしょう」

そして自分の出世をだめにしたくなくて、誰ともうまくやっていた。

われわれの廊下には、「赤十字」からのたっぷりした「共同の」差し入れが公然と運びこまれていた。われわれの台所の食料業者との精算のためには、われわれの代表が事務所に呼ばれ、その会計報告も同じように合法的に事務所で赤十字の代表に渡された。

われわれは台所の直接の監督と、そこでの常時の当番を要求した。そしてたしかほかにも何か、マリツキーの解任まで要求したような気がする。というのも、それだけのためにハンガーストライキを宣言するのはばかげていたからである。女囚の棟も加わった。

水だけで絶食し、ときどき塩で味覚の神経をごまかした。2、3日の苦しい空腹のあとは落ち着いてきた。動作がにぶくなり、まわりのことにまったく興味がなくなった。大部分の者は起きもせずに寝台に横たわっていた。まわりはすっかり静まりかえった。錠のがちゃつく音も、のぞき穴を開ける音も、窓越しの話し声もない。廊下の憲兵は持ち場で眠っていた。まったく何にも邪魔されずに。

ときどき副官のボトヴィノフスキーが廊下に来て、あちこちののぞき穴に近づいた。

「どうです、元気ですか?……まだ飽きませんか?……変わった人たちだ!……どうせマリツキーはあなた方のところへ来やしないのに」

「でも台所は……」

「台所なら、こんなことをしなくても手に入りますよ」

これはもちろん、ハンガーストライキを崩す彼一流のやり方だった。

だが本質的には、彼はまったく正しかった。「変わった人たち」なのだ。ハンガーストライキは当局から余計な心配を取りのぞくだけだった。憲兵や看守は当番中に寝だめをし、邪魔されないことをありがたがっていた。散歩に出る者は日に日に少なくなった。出ても、日なたに座って動かず、話もしない。女囚の棟では失神やヒステリーが始まった。誰かと近くで話すことができなくなった。いやなにおいがして、互いに顔をそむけなければならなかった。

6日目には、面会と散歩に出たのはメンシェヴィキのヴェルホフスキーと私の二人だけだった。そして馬跳びをしようとさえしたが、それはおそらく、われわれ全員のために生じた状況の空虚さ、静けさ、屈辱という気の滅入る雰囲気を、自分たち自身の目からごまかすためだったのだろう。

生きながら腐って、当局をあらゆる手間から解放するなんて、ばかなことをしているのではないか?

そうかもしれない。だが他方で、こういう考えは胃袋の前提から出てくるのではないか……

8日目に住民投票が行われ、圧倒的多数がハンガーストライキをやめることに決めた。要求が満たされるという正式の保証は得られなかった。だが台所は約束された。そしてまもなくその約束は果たされた。

12

だが監獄にとどまるのはますますつらくなっていった。外では車輪が(監獄の尺度で言えば)あまりに急速に回りはじめていた。新聞を読むだけでは満足できなかった。生活が、同志との接触が、その真っ最中に外から引き離された、あの仕事の活気が必要だった。

エレーナは面会のたびに、あれこれの同志がキエフに来たことを話し、彼らからのよろしくを伝えてくれた。あるとき、マルクの依頼で、もし私が保釈金で出られるなら、彼が一定の額を保証できる、と伝えてくれた。

これらすべてが心を波立たせ、喜ばせ、外への思いをいっそう強めた。

保釈金では出してもらえなかった。キエフの件のほかに、プスコフの件が見つかったからである。キエフの憲兵は、保釈金なしでも出すことに異存はなかった。この年配の中佐は、どうやら昇進で上司に冷遇されていたらしく、尋問のたびに自分のつらい境遇をこぼした。私は初めからいっさいの供述を拒んでおり、彼はそれでもプスコフ憲兵局の依頼で私を呼び出さなければならず、私はプスコフとも話したくなかったので、中佐と私の話はみな、まったく私的な性格のものだった。

「それでもね、私はあなたがうらやましいんですよ。自由な人だ(今監獄にいるのはかまいません)。出られれば、どこへでも好きなところへ行ける」

「私はそれほどうらやましがりではありません」

「私なんか、うらやまれるところはありませんよ。家族、娘たちは学校、息子は……いや、この外の自由がないんです。それが内の自由も生むのにね」

どうやらこの老人には、ちょっと心をぶちまける相手がいなかったらしい。そして彼の小さな傷ついた魂は、注目を求めていたのである。

「あなたを釈放することは、保釈金なしでもできるんですよ。ただプスコフがね」

そして彼は実際、その場で、私を拘留から解いて特別監視下に置くという書類を書いた。そして同時に、プスコフの件で拘留するという別の書類にも署名させた。それで私は、監獄から3露里離れたところで、椅子から立ちもせずに、監獄を出てまた監獄に入ったのである。

だがプスコフは拒否した。そして外はますます強く、ますます強く私を引きつけた。

それに、監獄で脱走を考えない者がいるだろうか?

考えずにはいられなかった。それはときに時間をまぎらわせ、短くしてくれる。憲兵局で書斎への呼び出しを待っていたとき、中庭に面した窓から、隣の家の屋根が窓より1サージェン半ほど低いところにあるのを見つけた。この屋根は、ほぼ同じくらいの高さで、まったく低い付属の建物の屋根の上にそびえていた。

だから4階から三跳びで地面に降りられる。私を追って階段を駆け降りてくるあいだに(私のあとから跳ぶ者はまずいないだろう)、私は楽に別の通りへ出て、人ごみにまぎれることができる。中庭を出るときに帽子をそこに置いて、ハンチングをかぶるのがいい。

ただ自分の大胆さだけをあてにした、ごく単純な計画。ときにはこのほうが、念入りに練りあげた複雑な計画よりうまくいくことがある。

そして憲兵局への最初の呼び出しのときに、背中のチョッキの下にハンチングを隠し、頭には帽子をかぶる。

いつものように、何度も待ったことのある同じ部屋に通された。窓のほうへにじり寄る。今日はいつになく憲兵がおしゃべりだ。何か質問をしてくる。窓のほうに目をやりながら、気乗りしない返事を、たぶんとんちんかんに返す。椅子を勧めてくる。

「ありがとう!……もう5か月座っています(入っています)から」

この地口が気に入ったらしい。彼はいっそうおしゃべりになる。私が窓に近づくと、彼も一緒に近づいてくる。私が窓台にひじをつくと、彼はそこに腰をおろす。

「悪魔にさらわれちまえ! 脚をつかんであっちへひっくり返してやろうか」

「あなたの知り合いの学生で、誰か推薦してくれませんか? 息子の家庭教師に」

「その学生を監獄にぶちこむためにですか?」

「まさか。われわれにだって良心はありますよ」

「小さいのがね」

「今はこういう時代ですから……あなたを監獄に置いておく必要もなくなるかもしれません」

「そうしたら、あなた方は何をするんです?」

戸が開く。私の中佐が入ってくる。

「いやあ、おめでとう。プスコフが同意しました。あなたは自由です」

「今すぐ? まったく?」

「今すぐ、今すぐ。もちろん、まったくではなく、特別監視下ですが。キエフに住むおつもりですか?」

「もちろん」

「それはけっこう。では、ここに署名してください。そしてこの人が警察本部まで送っていきます。そこで放免されます。ごきげんよう」

このためなら、彼が差し出した片手だけでなく、10本の手を握ってもよかったろう。

半時間後、私はもうまったく一人で通りを歩いていた。生まれ変わって、にぎやかな広い通りを一度も見たことがないかのようだった。何もかも新しく、おもしろく、色あざやかだった。そしてずっと遠く、はるか後ろに、小さな監獄が残っていた。今そこへ戻るのは、墓穴に降りるのに等しかった。

釈放されたのは、ちょうどブルイギン国会についての規定が公布された、あの「歴史的な」日だった。だがそれは人々の意識のそばを素通りしていった、この国会は。誰も、どうやら、それに何の意味も認めていなかった。

そして2日後には、もう、ちょうどそこで設置されたばかりの中央委員会の新しい印刷所との連絡をつけるために、オデッサへ行かなければならなかった。

その印刷所の機械と活字は、私がまだ入っていたあいだにエレーナがモスクワで買っていた。そして今、その設置が技術的に適切で、秘密が守られているかを確かめなければならなかった。

オデッサでは、何かの清涼飲料(クワス)の売店にあるヤフカで、そこで受け入れ役をしていたS. I. グセフと話した。そして印刷所を管理していたのは、スモレンスク時代からの私の古い協力者マルファだった。

思い出すのだが(今になってようやく)、私は印刷所の場所を見に行った。どこかの作業場、たしか箱づくりの作業場が、通りに出口のある半地下にあり、上板が持ちあがる事務机があって、その下に活字ケースが隠されていたのが、ぼんやりと浮かぶ。印刷所そのものはまだ箱に入っていて、それがそこに置いてあった。だがそこでどうやって秘密を守るつもりだったのかは、まったく思い出せない。

いずれにせよ、印刷所はのちに稼働した。10月ストライキのあと、われわれがもうモスクワにいたとき、ルカが来て、このオデッサの印刷工たちは10月17日のすぐあとで、「ロシア社会民主労働党中央委員会印刷所」という看板を掲げた、と話していた。

オデッサから戻ると、中央委員会の指令で、国外へ発つマルクの交代としてオリョールに移された。オリョールではA. P. ゴルプコフと一緒に中央委員会の中央技術ビューローを、10月ストライキまで管理した。そのあと仕組みをモスクワに移し、その役目にもう一つ新しいものを加えた。武器の購入である。

党の経済のこの新しい部門は、10月17日のすぐあと、ポグロムが始まるやいなや、ひとりでに現れ、われわれはそれを引き受けなければならなかった。

訳注(南部ビューロー)

  1. **第5節のオデッサの場面について。**原文は「меньшевики начинали брать перевес」、つまり「メンシェヴィキが優勢になりはじめていた」である。以前の試訳(引き継ぎメモの段階)で「ボリシェヴィキ」としていたのは誤りなので、原文どおりに改めた。第52号以後の『イスクラ』はメンシェヴィキ派の編集であり、それを罵る弁護士補(ボリシェヴィキ側)のいらだちから、ソコロフは「メンシェヴィキが勢いを増している」と読みとっている。続く「彼らをそれに手助けする気も理由も、私個人にはなかった」の「彼ら」もメンシェヴィキを指し、文脈は原文どおりで一貫している。
  2. 冒頭のキエフでの野宿の話は、北部ビューローの章に出てくるカーメネツ=ポドリスクでの摘発(1904年春)の直後のこと。「ルカ・セミョーヌイチ」はオゼンブロフスキー(原文では「Озембловский」)。
  3. 「ピョートル」はクレストフ(原文「Клестов」)、「ウラジーミル」はシェフトマン。いずれも統合された技術組織のメンシェヴィキ側の担当者。
  4. 「爺さん」フレンケリはキエフ委員会の指導者(メンシェヴィキ)。
  5. 「シドロフのヤギ」は、「シドロフのヤギのように(ひどく)殴る」という慣用句から取られたあだ名。
  6. 「2月19日」は1861年の農奴解放令の記念日で、毎年ビラまきやデモが警戒された。
  7. 原注で「キブリク」とされた人物は、のちのメンシェヴィキ中央委員。「ラウリとか何とかいう騎士めいた名」は原文のまま。
  8. 「キノコと名のったからには籠に入れ」はロシアのことわざ(引き受けた以上は最後までやれ)。
  9. 「ポチョムキン」は1905年6月の戦艦ポチョムキンの反乱。「ブルイギン国会」の規定公布は1905年8月6日(旧暦)。
  10. 第3回大会(ボリシェヴィキ、ロンドン)と、メンシェヴィキのジュネーヴ協議会は、ともに1905年4〜5月。
  11. 末尾の数段落(ブルイギン国会以下、オデッサとオリョールの話)は、PDFでは次章(国境)と同じ頁(119頁)にある。
  12. 原注のワーシャの経歴にある「メルクーロフ」は、1921〜22年に沿海州の反ボリシェヴィキ政権を率いたS. D. メルクーロフ。
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