N. カマガンツェフ(「クジマー」) (党員の回想)
若い党員の同志たち、とりわけコムソモール(共産青年同盟)に捧ぐ
遠い子供時代
私は1873年12月3日、レヴダ工場[訳注1]の貧しい家内職人、釘づくり職人の家に生まれた(当時のウラルでは、私営の釘づくりが盛んだった)。家族は多かったのに、稼ぎ手は父ひとりだった。学校に上がる前の私の教育は、農奴主気質の暴君である父の蹴りとげんこつだった。当時、兄はもう学校に通っていて、私は夜になると兄から学校の知恵を仕入れていた。ところが父は、私を学校にやる気がなく、釘工房でふいごを吹く仕事を仕込み始めた。仕事は朝3時から夜7時まで、朝食と昼食の休みをはさんで続き、それで日給は7コペイカ。私はまだ7歳だった。それでも学びたい気持ちはあまりに強く、秋の入学受付の日、私は忍び足で、はだしで帽子もかぶらず、粗い麻布の上着一枚のまま家を抜け出した。入学を認められたときの私の喜びといったらなかった。祖父と母が強く言い張ってくれたおかげで、私は学校に残り、まもなく読み書きを覚えた。
学業を終えると、父は私に何か手に職のつく仕事を習わせるどころか、週42コペイカでも自分の稼ぎの足しになると考えて、また釘工房に連れていった。この実地の仕事を、私は1年ほど続けた。そこへ、コチカリ金山[訳注2]から叔父(父の弟)がやってきて、自分の金山に来て、雇い人たちに貸し付けた金の帳付けをしてくれと私に頼んだ。父は、余計な口を減らせるとばかりに私を手放した。だが、そこでも運には恵まれなかった。叔父は放蕩を重ねてじきに身代をつぶし、自分が雇われる身に落ちてしまい、私は大変な苦労をして金山から両親のもとへ戻る羽目になった。
父は私を家に置こうとせず、俺をあてにするな、自分で稼げと言い渡した。ここから、1895年の徴兵検査まで、鉱山や木こりの仕事などをして渡り歩く私の放浪が始まった。もっとも、体が弱いという理由で、私は兵役には採られなかった。
鉱山を渡り歩いた日々は、無駄にはならなかった。私は、坑夫というプロレタリアートの暮らしが、小さな所有者の暮らしとはまるで違うことを目の当たりにした。彼らの利害の違い、階級的な矛盾が見分けられ、わかり始め、このときから、農奴主気質の父の庇護から完全に抜け出した。1897年、実家を捨てて、私はエカテリンブルクに移り住んだ。
革命を求めての道のり
だが、町に出てからも、私はなかなか落ち着かなかった。長いあいだ、自分を満足させてくれる何かを探していた。やがて、マカロフ兄弟の亜麻紡績工場に勤める機会が巡ってきた。ここで、労働者の大衆にじかに触れて、私は仲間を見つけた。F. M. ルカヴィシニコフたちで、彼らとともに、独学サークルを組織し始めた。サークルの仕事は、みんなで雑誌を取り寄せ、図書館に通い、気になる問題を読み、議論することだった。そして、その問題は次々に湧いてきた。とくに私たちの関心を引いたのは、自然科学と宗教だった。この問いの答えを、私たちはトルストイやツルゲーネフなどの作家の本に探した。読んでいると、「政治」「革命家」といった言葉によく出くわしたが、それが何なのか、自分たちにも説明できなかった。
あるとき、図書館で私の手に、ツルゲーネフの第4巻が回ってきた。『処女地』と『ルージン』が入っている。読み終えると、私はその本を、サークル全員に回して読ませた。サークルは私のほかに5人で、ルカヴィシニコフ、モルジャコフ、ノヴォポリツェフ、デニソワ、モロゾフだった。この本は私たちに新しい風を吹き込んだ。人々が何かを望み、何かのために闘い、苦しみ、そして民衆が革命の思想を受け入れる力をもたないことを見て幻滅するさまが、そこにあった。
それからの私たちは、物事にもっと敏感に耳を傾けるようになった。それが1900年から1903年のことだ。事件が次々に起きていた。アラパエフスクの事件[原注1]やズラトウストでの銃撃[訳注3]の噂は、労働者の間に広く伝わった。それは私たちの心をかき立て、エネルギーを注いでくれた。そのうち、エカテリンブルクには「政治」をやっている連中がいるらしい、と耳にした。
1903年1月の末、何日だったかは覚えていないが、朝、仕事に行く途中で、塀に貼られたビラを見つけた。労働者への呼びかけだった。だが、警察は壁や塀から剥がして、私たちに読ませてくれなかった。しばらくして、「社会革命党・社会民主党東部グループ」[訳注4]の署名の入った新しいビラが現れた。読んで、私たちは、エカテリンブルクには誰かがいるのだと確信し、その人たちを探し出すことにした。あちこちを探し回り、工場の内外で交わされる話や噂に耳をそばだて、組織とつながるために、夜中まで見張りに立って、誰かがビラを貼りにこないかと張り込みさえした。機会はすぐに訪れた。
マカロフ兄弟工場のエス・エル・サークルで
マカロフ兄弟の工場には、織布の副職長にテレンチエフ、アントン・イワノヴィチという男がいた。のちに私たちが「使徒」とあだ名をつけたのは、彼が扇動の演説をするとき、教会スラヴ語で話したからである。彼は中央からエカテリンブルクに、ウラルでの革命活動のために派遣されてきており、エス・エルのサークルの指導者の一人だった。そのメンバーで、今思い出せるのは、アンナ・パヴロヴナ・ブシュエワ、マルガリータ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコワ、ウラジーミル・イワノヴィチ・キスネムスキー、セルゲイ・ニコラエヴィチ・ストリジェフだけだ。
私たちは、このテレンチエフに、サークルに紹介してほしいと頼み込んだ。彼は、私たちのしつこさと、本気で活動したいという気持ちを見て、承知した。ただし前もって、規律に従うこと、秘密活動のあらゆる規則を守ることなどを、私たちに誓わせた。
1903年3月半ば、彼は私たちを、マラホフスカヤ通りのヴャトキンの家にあるアジトの一つに連れていった[原注2]。そこには助産婦のアンナ・パヴロヴナ・ブシュエワが住んでいた。私たちを、いい若者で信頼できる、と紹介してくれ、こうして彼は私たちをサークルにつないだのである[訳注5]。
このときから、私たちの革命活動が始まった。最初は、みなで話をし、革命的な小冊子を読み、本を家に貸してもらった。最初のいくつかを覚えている。トルストイの『これでいいのか』、『どうにもならん』、『巧妙なからくり』[訳注6]などだ。
話し合いのために、はじめは、町のあちこちの家に、「ヴォルガ河畔の小さな家」などと、いろいろな作り事の名前をつけて集まった。夏になると、森に集まるようになった。
まもなく、私たちには、広めるための小冊子やビラが渡されるようになった。最初の任務は、5月1日に向けて、色刷りのビラをばらまくことだった。私たちはそれを地区じゅうにまき散らした。任務は見事にやり遂げられ、これ以後、マカロフ地区はビラであふれた。それから、私たちのサークルから、ビラの印刷のためにフョードル・モルジャコフが引き抜かれた。
だが、エス・エルと一緒に働いた期間は短かった。1903年5月の末、組織が摘発され、私たちのサークルからも一人の同志が、ほかの者たちと一緒に逮捕された。活動は、しばらく途絶えた。
社会民主党組織での最初の活動
まもなく連絡がつき、今度はエス・エルではなく、社会民主党員とだった。最初に知り合った社会民主党員は、「ポルフィーリイ」同志で、サークルの会合を2回指導してくれた。それから「ユーリイ」「マルトゥィン」たちが現れた。私たちのサークルには、労働者も学生も、新しいメンバーが次々に加わった。ウラル鉱山学校の生徒のアレクサンドル・ラヴィンスキー、市立学校のアレクサンドル・カプースチン、マカロフ工場の労働者のピョートル・ハリトーノフ、パーヴェルとワシーリーのエピファノフ兄弟などが、私たちに仲間入りした。要するに、仕事はたちまち前へ進み、ひとつのサークルはやがて三つになった。新しいサークルでは、準備的な扇動の仕事が行われ、メンバーに特別な任務は与えられなかった。この仕事は自分たちでやった。マカロフ地区の司令部は、ルカヴィシニコフの住まいだった。そこで私たちのサークルの会合が開かれ、配布用の文献が保管され、分けられ、ときには、非合法で暮らす同志たちが、身を寄せる場所を見つけることもあった。
警察とスパイは私たちに目をつけ、1903年12月の末、私たちの一人、ルカヴィシニコフ同志が、家主として、憲兵隊の騎兵大尉の事務所に呼び出された。大尉は、「ご親切に」も、24時間以内に町を出て、本籍地のレヴダ工場に戻れと提案した。ルカヴィシニコフは、レヴダに住みつき、私の父の家に身を寄せて、革命宣伝を続けた。ここで彼はすぐに、数人の同志からなるサークルを組織した。最初に加わったのは、ミハイル・エゴロヴィチ・クズネツォフ、ニコライ・アニシモヴィチ・シマラノフ、グリゴーリー・ドロフェーエヴィチ・ウムノフなどだった。
ルカヴィシニコフがレヴダに去ったあと、1904年の初めに、エカテリンブルクに「ピメン(またの名をワシーリー・イワノヴィチ)」という宣伝員が現れた。電気工の労働者だった。私は彼とともに、ルカヴィシニコフが組織したサークルと連絡をつけるために、レヴダへ行かなければならなくなった。その後、レヴダとの連絡は、私が自分ひとりで保ち、文献と金を届けていた。最初のとき(1月20日のことだ)、私はいろいろな革命出版物を100部持っていった。『労働者なら誰もが知り、覚えておくべきこと』、マルトフの『ロシアの労働運動』、『巧妙なからくり』など、そのほかにビラ500枚と、『イスクラ』第2号だった。
ルカヴィシニコフは、レヴダに3か月以上はいなかった。どうにかして、また町で暮らす許可を得たのである。それでも、レヴダとのつながりは切れず、私はこれを保ち続けた。
1903年の夏、「統一ロシア社会民主労働党」のスローガンのもとで社会民主党のサークルで活動していた私たちは、党の第2回大会が開かれ、そこでボリシェヴィキとメンシェヴィキの二つの潮流が生まれたことを、まだ何も聞いていなかった。それを知ったのは、1904年の春、たしか5月ごろ、大会の代議員で中央委員会員の男が、「ワリンカ」という党名でやってきて、報告をしてくれたときのことだった。その報告で、私たちは党の分裂を知った。分裂をめぐっては、私たちのサークルでも、多くの論議と論争があった。私自身はボリシェヴィキを支持していたが、迷う同志もいた。
警察の「訪問」
1904年の夏、サークル活動は大きく広がった。私たちのサークルも、本腰を入れて働かなければならなかった。何かしらの会合がない日は、1日もなかった。今日は宣伝サークル、明日は合同(2、3の地区から数人ずつが集まる)、かと思えば、15〜20人ほどの小さな大衆集会(マサーフカ)が設定される、といった具合だ。これらはすべて、町のあちこちか、町から3、4ヴェルスタほど離れた森の中で行われた。
活動を担っていたのはボリシェヴィキで、実際のところ、メンシェヴィキは私たちは知りもしなかったし、いたとしても何の存在感もなかった、と言っていい。エス・エルの組織は、労働者地区にはまったく影響力がなかった。
私たちのサークルからは、すでに独り立ちした扇動家が育っていた。ラヴィンスキー、カプースチン、そして私である。私たちにはもう、責任のある仕事が任されていた。自分たちだけでサークルを指導し、掃いて捨てるほど出ている文献を、使いこなして広めることだった。文献は、イセチ川の両岸にあるアレクサンドロフスキー大通りまでの全地区にあふれ、この地区にあるウクトゥスまでのすべての工場に届けられ、警察の分署さえも忘れられなかった。私たちは、警察をからかうのが好きだった。あるとき、イセチ川の片側にあるベレノフやシューロフの工場やその近辺でビラまきを終えて、第3警察分署のそばを戻る途中、警察署の入口のドアが閉まっていないのを見つけて、警察にも「ニュースをお裾分けしてやろう」と思いついた。仲間のひとり、イワン・アンドレーエフが、残りのビラを手に廊下に入り、開いた宿直室のドアから、二人の「ファラオ」[訳注7]が眠っているのを見ると、残りのビラを二人に投げつけて出てきた。夜は、鼻をつままれてもわからない闇夜で、小雨が降っていた。イセチ川の岸辺の草むらには、私たちの舟が隠してあり、一瞬でその舟に乗り込んだ。おまわりたちは目を覚まして飛び出してきて、笛が鳴り、ぬかるみを走る足音がして、「捕まえろ」という声が響いたが、そのときには私たちはもう対岸にいて、自分たちのいたずらに笑い転げていた。
別の話もある。同じアンドレーエフが、酔っ払いの巡査の外套の裾にビラをぶら下げるのに成功し、巡査は、人々の目の前を、それを下げたまま歩き回った。私にもこんなことがあった。あるとき、ビラまきの最中に、コロベイニコフの工場のそばを通らなければならなかった。湿っぽくて雨に濡れるおそれがあり、ビラを無駄にしたくなかったので、工場の中へじかに投げ込もうと決めた。ろくに考えもせず、15枚ほどをひとまとめにして窓に突っ込んだ。狙いは当たり、ビラは金工の作業台の上に着地した。こんないたずらは山ほどあり、全部は思い出せない。当時の私たちは革命の熱気にあふれ、たがいに「度胸」を競い合っていた。
1904年には、召集された兵士たちと接触する仕事もあった。兵士は、民家に分宿していた。この頃、私はすでにセルゲイ・アレクサンドロヴィチ・チェレパノフと知り合いだった。彼は発電所で働いていて、私はそこで、兵士の間に広めるためのビラや、レヴダに供給するビラを受け取っていた。
チェレパノフと知り合えたのは、ラヴィンスキー同志を通じてだった。あるとき彼がチェレパノフを連れてきて、私たちのサークルで話をしてもらったのである。そのとき、私たちはチェレパノフに「ルカー」とあだ名をつけ、仲間たちにも党名をつけた。ラヴィンスキーは「マクシム」、ルカヴィシニコフは「マカール」、そして私は「クジマー」。古い同志のなかには、今でもこの党名で私を知っている者がいる。
ルカヴィシニコフの家は、マカロフ地区の司令部があったので、見張りがつけられた。近所の小市民たちが、この家を革命の巣窟と呼んで、私たちを密告していたのだから、警察の目に留まらないわけがなかった。警察は、しょっちゅう家宅捜索で私たちを悩ませたが、いくら探しても、結果は毎回むなしかった。あるものはいつも念入りに隠してあって、ときには私たち自身でも、すぐには見つけられないほどだったからだ。何も出ないので、私たちはそのまま放免された。
あるとき、こんなことがあった。私は、ウラル鉱山技術者協会から紙を受け取り、それと一緒にビラの原稿を3点受け取ってくるよう命じられた。これらはすべて印刷所に届けるためのもので、私が自分で市内を持ち歩くのは怪しまれるので、接触場所を教えて、妻を使いに出した。妻は洗濯女なので疑われようがない。彼女は品物を受け取ると、シーツで包み、ナプキンで縛った。1904年6月25日の朝9時ごろのことで、彼女が家に戻ったちょうどそのときに、警察が家宅捜索にやってきており、門から中庭に向けて見張りが立てられていた。この間抜けな新米巡査は、「中庭には入れてよいが、中庭から出してはならない」と命じられていたのだろうが、命令を逆に受け取ってしまい、妻が包みを持って門に近づき、開けようとすると、怒鳴りつけて、中に入れなかった[訳注8]。
工場の経営陣も私たちを追い回し始めて、私たちを要注意人物と知りながら、厄介払いしようとした。夏の終わりに、私とルカヴィシニコフは解雇された。仕事を失って、夏の残りは日雇いでどうにか食いつないだ。秋になると、その仕事さえなくなって、私たちは大変苦しい状況になった。妻たちのわずかな稼ぎでは、私たちを養えなかった。何をすべきか、真剣に考えなければならなくなった。
本の行商人たち
だが、まもなく私たちは仕事を思いついた。商売の経験があるルカヴィシニコフが、私にこう持ちかけたのだ。
「ニコラ、商売をやろうぜ」
「何でだ? 何を売って、元手はどうする? 金なんてびた一文ないんだぞ」
「金はほんの少しでいい、3〜4ルーブル。本や絵、極東の総督どもの肖像画に、それからちょっとしたがらくたを仕入れて、農村へ行くんだ。農村はこういうものに飢えてる」
思いついたら、即実行だった。ルカヴィシニコフの母親から3ルーブルを借り、スィチンの店に行って本を仕入れ、かごに入れて、農村に売りに持っていった。商売は順調で、私たちは食べていけるようになった。
だが、その商売の中でも、革命の仕事は忘れなかった。本や絵の類は、いろいろな内容のものを仕入れる。そこへ、ビラ、パンフレット、小冊子を入手し、家で、それぞれの薄い本、たとえばゴーリキーの短篇や『聖なる医師パンテレイモンの生涯』の中に、ビラを1枚ずつはさんで、売り出したのである。
とはいえ、事件なしには済まなかった。あるとき、私たちはレヴダ工場のミハイル祭の市に行くことにした。クレンシチコフの店で、『ドン語』社や『槌』社が出した出版物を仕入れ、スィチンの店では、暦、祈祷用の名簿帳、その他ありとあらゆるがらくたを仕入れて、レヴダに着き、市場に掘っ立て小屋を構えて、景気よく売り始めた。2日で、ほとんど全部が売れた。3日目に、残りを売り払って家に帰ろうとしたところで、「事件」が起きた。酔っ払った駐在巡査が、私たちの小屋にやってきて、商品に興味を示した。私たちが要注意人物だと知っていたことは明らかだ。紐に吊るしてあった、日露戦争のころの小冊子、『戦火の中で』を見つけると、彼はそれを手に取ってめくり、検閲の許可が出ているかどうかを調べようとしたが、「酔眼では」見つけられなかった。私はページを切り開いて彼に見せなければならなかった。彼は納得したが、それでも「箱の中には何がある?」と尋ねた。ルカヴィシニコフ同志は、暦と祈祷用の名簿帳だと答えたが、私は彼をからかってやろうとして、こう言った。「まあ、ご覧になってください、ひょっとしたら検閲を通っていないかもしれませんよ」。巡査は冗談だと察して、かんかんに怒った。「この私をからかおうというのか! 持ち物をぜんぶ集めろ、警察に行くぞ」。私たちは、白状する気はなかったが、ひどくおびえた。ちょうどそのとき、近くで喧嘩が起き、巡査は私たちを放り出してそちらへ駆けつけ、私たちは小屋をたたんで、さっさとその場を立ち去った。
こうして私たちは、1905年まで、革命を農村や工場に運んで回った。1905年からは、つてで職に就くことになった。私はスィロモロトフを通じて、ピシュミンスコ=クリュチェフスク銅鉱山に、計量係として就職した。
革命の仕事は、あらゆるところで広がり、事件は熟しつつあった。戦争の敗北とガポン事件は、扇動に最良の材料となった。
「銅」鉱山で
銅鉱山には、私はすぐに慣れ、仲間はいないかと、地盤を探り始めた。いることがわかり、私はすぐに彼らとつながった。ウラルの坑夫たちで、アレクサンドル・ソロドニコフは分析助手、アレクサンドル・ウトキンは火災係の職長[訳注9]をつとめていた。ソロドニコフはエス・エル、ウトキンはエス・デー[訳注10]だったが、意見の違いが仕事の邪魔をすることは、当時はなかった。私たちはストライキのための扇動、専制打倒の扇動をしていたが、個人的なサークルでは、それぞれが自分の綱領を擁護して、よく論争した。まもなく、エカテリンブルクにマリヤ・オスカロヴナ・アヴェイデがやってきて、ゴーゴリ通り31番地に住みついた。ある休みの日、私たちはソロドニコフと一緒に町に出て、そこで彼が私を「オスカロヴナ」に引き合わせた。「オスカロヴナ」は、私に、マカロフ工場とレヴダとの連絡をつけてほしいと頼んだ。しかし私は、彼女がエス・エルだと思い込んでいたので、何も具体的には言わなかった。別のときに、ひとりで彼女のところへ寄ると、そこにセルゲイ・チェレパノフがいて、連絡がつながった。
銅鉱山での私たちの仕事は短かった。扇動が気づかれ、私たちは早々に厄介払いされた。いろいろな口実で解雇されたが、扇動の結果は防げず、私たちが鉱山を離れてほどなく、ストライキが起きた。
1905年5月1日のエカテリンブルク
1905年、エカテリンブルクの労働者と勤労者は、はじめて公然と5月1日を祝い、赤旗のもとで市内をデモ行進した。私は、鉱山の仕事の後始末をしていたので、5月1日のデモには参加できなかった。町に着いたのは5月4日で、5月5日にヴェルフ・イセツキー墓地で開かれた集会に参加した。500〜600人ほどの労働者が集まった。委員会からは、エカテリンブルクに着いたばかりの「イワン」(ブシェン)同志と、「ヴィターリイ」同志が出席していた。ヴィターリイを私たちが冗談で「ブルジョア的」扇動家と呼んだのは、彼が労働者らしくない、ひどく恰幅のいい体つきをしていたからで、ちなみに、非常に巧みな弁士でもあった。ブルジョアジーの抑圧や暴力について、ストライキの意義について語ったのは「ヴィターリイ」で、労働者階級の置かれた状況を非常に鮮やかに描いてみせた。集会の参加者全員でヤテス工場へ行き、労働者の一部がストライキをしていて、大部分(老人たち)が働いているその工場で、全員を仕事から引き上げさせよう、と決まった。
その場、集会の会場で、ストライキ基金のためのカンパが集められた。墓地の女の番人の、あるおばあさんが集会にやってきて、驚いたように「これはいったい、何の人たちが集まって、何が要るんだい?」と尋ねていたのを覚えている。
「わたしゃここに30年住んでるが」と彼女は言った。「こんなにたくさんの人は見たことがない」。「ヴィターリイ」同志は彼女を切り株に座らせて言った。「聞いてごらん、おばあさん、これから何を話すのか」。老婆は聞き入り、目に涙を浮かべて十字を切っていたが、演説が終わると言った。「この世に70年も生きてきて、ほんとうのことを聞いたのは今日がはじめてだよ」。そして、帽子を持ってカンパを集めに回りだすと、どこからか、2グリヴナ(20コペイカ)の入ったぼろ布を取り出して、十字を切ってから差し出し、こう言った。「とっておくれ、みなさん。いいことのためなら、最後の金だって惜しくないよ」。
集会が終わると、私たちは「勇ましく、同志よ、足並みそろえて」を歌いながら、ヤテス工場に向かった。デモ隊が工場に着かないうちに、ハリトーノフ庭園からヴォズネセンスキー大通りに沿って、騎馬の「ファラオ」たちが姿を現し、後ろからは、半個中隊の兵士が隊列を整えて進んできた。群衆はざわめき、走って逃げ出す者もいた。工場の門は閉められ、中に入ることはできず、労働者を引き上げさせることはできなかった。
はやる警官たちがナガイカ(革の鞭)を振るい始め、私を含む何人かの同志が、背中を打たれた。駆けつけた将校が、彼らに私刑を禁じ、「ヴィターリイ」同志と話をつけると、解散してくれるように頼み、デモは終わった。
マサーフカ(野外の秘密集会)
労働者の最初の熱気は過ぎた。ストライキは、経営者が工場を止める、あるいは仕事に出ない者を解雇するという脅しで、収まり始めた。生活は元の軌道に戻ったように見えた。しかし実際には、そうではなかった。労働者の心には、不満のおりが残り、多くの者が、専制とは何か、政治闘争とは何かを理解し、革命サークルにより強い関心をもち、加わるようになった。地下の生活と活動は沸き立ち、サークルは雨後のキノコのように増え、サークル活動は大衆集会(マサーフカ)に取って代わられた。集会は、町から遠く離れた場所で、厳重な用心のもとに行われた。町から5、6ヴェルスタ離れた場所でマサーフカが決められ、見張りが1ヴェルスタごとに2、3人ずつ配置されることもあり、その合言葉は、たとえば「おじさん、ここからシャルタシの町までは遠いかい」とか「灰色の牛で、角が斑のを見なかったかい」といった、ひどく凝ったものだった。それでも、スパイは入り込んできた。あるとき、私たちはサークルで妻たちを連れて、お茶を持って野原の「牛の墓場」へ出かけようと思い立った。二人一組で行くことにした。大部分は先に行き、私たち4人、モロゾフ、ルカヴィシニコフ、アンドレーエフ、私が、行列のしんがりを務めた。どこからともなく、青い眼鏡をかけ、エンドウ豆色の外套[訳注11]を着た、並外れて背の高い男が現れた。立ち止まった彼は、私たちに尋ねた。「みなさん、『犬の墓場』はどこですか」。私たちは、それがどういう「代物」かすぐに見抜き、この男に「本物の」「犬の墓場」への道を教えてやりたくなった。彼と一緒にチェリャビンスク鉄道の線路を、火薬庫のほうへ進んでいくと、モロゾフとアンドレーエフが、杖でその男を打ちのめした。
郡ゼムストヴォ参事会でのデモ
1905年9月、ブルィギンの国会法[訳注12]をめぐって、郡ゼムストヴォ参事会の会議が開かれることになった。
私たちのサークルの集会を、シビルスキー大通りのアレクサンドル・ワシーリエヴィチ・パトリケーエフの家で開くことが決まった。集会には30〜35人が集まった。ゼムストヴォ参事会の議事にどうやって妨害を仕掛けるか、という問題が提起された。それを話し合って、私たちはデモの詳細な計画を立て、全員に任務を割り振った。私には、色刷りのビラを印刷し、スローガン入りの赤い小旗を用意することが任された。
私たちは、会議の日を、待ちきれない思いで待った。その日は、私たちボリシェヴィキ組織の、はじめての公然たる行動の日だったからだ。
ついに待ちに待った瞬間がやってきた。準備は万端だった。役割は前もって決めてあった。「コンラート」同志のために、短いが非常に熱い演説が用意された。
参事会の会議には、一般の傍聴人も入れた。私たちの仲間は、怪しまれないよう、傍聴人にまぎれ込んだ。「国会」の議題の順番になると、私たちはみな「コンラート」同志のまわりに固まり、議長に、労働者にも発言させてくれと頼んだ。議長は、まだ時期ではないと言ったが、私たちはじれて騒ぎ立て、足を踏み鳴らして叫んだ。「労働者にとっては、もう時期が来ている」。
「コンラート」は雷のような演説を始めた。
「われわれ労働者には、法律は要らない、労働者はブルジョアと一緒に国会には入らない」——「コンラート」の声が轟いた。
議員たち、とりわけ幹部席は大混乱になった。議長が鐘を鳴らし、傍聴人は席から出口へ殺到したが、ドアには鍵がかかっていた。電話に駆け寄ったが、線は切られていた。このとき、ビラが幹部席に向かって滝のように降り注いだ。誰かが、血まみれのニコライの肖像画に、タールを詰めた卵をぶつけてのけた。幹部席の面々は脇の部屋に逃げ込み、議員たちと一緒に座っていた司祭は、何度もテーブルに駆け寄っては、また駆け戻り、脇の部屋からびくびくと顔をのぞかせた。誰かがどうにか警察に知らせ、警察は間を置かずに現れたが、もう遅かった。私たちは小旗を捨て、「勇ましく、同志よ、足並みそろえて」を歌って、通りに出て、群衆にまぎれた。センナヤ広場では、ちょうど馬市が開かれていたのだ。翌日の新聞は、ボリシェヴィキがゼムストヴォ参事会で騒動を起こしたことを書き立てた。
Ya. M. スヴェルドロフ同志の指導のもとで
夏は、最も熱い宣伝活動のうちに過ぎていき、私たちの中から「上級」のサークルが選抜された。メンバーは、セルゲイ・クラパーニン、ワーシャ・ピニジャコフ、ガーリャ・リャトキナ、ラヴィンスキー、カプースチン、ルカヴィシニコフ、そして私。このサークルを指導したのは、「イワン」同志、セルゲイ・エゴロヴィチ・チュツカエフ、N. A. チェルドィンツェフで、ときには「ルカー」、つまりセルゲイ・チェレパノフも顔を出した。私たちの中から宣伝員が養成された。私はレヴダにもよく通った。ひとりで行くこともあれば、同志の誰かと行くこともあり、一番多かったのは「ルカー」同志との同行だった。
夏の終わりに、エカテリンブルクに「アンドレイ」同志、すなわちヤコフ・ミハイロヴィチ・スヴェルドロフが現れた。彼のもとで、活動はさらに広がった。秋には、メンシェヴィキやエス・エルとの闘争が激しくなった。
十月十七日の詔書とエカテリンブルクの事件
10月17日までの時は、いつのまにか過ぎた。私はこのころ、ウラル鉱山技術者事務局で、守衛として働いていた。事務局の書記は、F. F. スィロモロトフ(「フェディチ」)だった。ここには、筆耕として、ガーリャ・リャトキナとヴァーリャ・クルトフスキフが働いており、ほかの同志たちもここに出入りしていた。ひとことで言えば、ここはエカテリンブルクの革命勢力すべての司令部だった。
詔書の知らせが入ると、熱に浮かされたような仕事が煮えたぎった。10月17日に向けた夜通し、私たち4人、ガーリャ、「ポルフィーシカ」(ウラリェーツ)、ソロドニコフ、そして私が、ヘクトグラフでビラを刷っていた[訳注13]。
10月17日、ビラは市内全域と工場地区に配られた。12時に、大聖堂広場で感謝の祈祷が行われ、司祭が詔書を読み上げ、多くの弁士が詔書の解説をしながら演説した。最後に、カーチャ同志が立ってこう言った。「私たちはお祝いをしているけれど、これを勝ち取った同志たちは監獄に入っています。私たちは行って、彼らの釈放を要求しなければなりません」。群衆はどよめいた。「行こう」。そして、監獄に向かって動き出した。監獄には、多くの同志が入っていた。オスカロヴナ、クラウディヤ・ノヴゴロドツェワ、クラーエワなどである。監獄の塀に近づくと、群衆は立ち止まった。「イワン」同志が、監獄の管理部に代表団を送るべきだと提案した。代表たちは入っていったが、そのとき、群衆の中で騒ぎが起きた。誰かが、うっかりか、あるいは挑発の目的で、発砲したのだ。群衆は脇に逃げ出し、なかなか落ち着かせることができなかった。代表団は、監房を回って、収監されている同志たちに、今日でなければ明日には自由になれると知らせ、監獄長には、囚人を釈放するよう要求した。監獄長は、検事の許可がなければ釈放できないと言った。群衆はどよめいた。「ここに検事を呼べ」。30分後に、検事が現れた。彼は集まった人々に解散するよう求め、知事宛てに電報を送ったので、明日には返事が来るはずだと告げた。
10月18日に向けた夜通し、私たちはほとんど眠らず、またビラを刷り、情勢について話し合った。アンドレイ同志は、喜ぶのはまだ早い、詔書は政府の挑発にすぎない、と言っていた。
18日の早朝には、もう私たちは起き出していた。人々は、集合場所に集まり始めた。監獄の門では、釈放された同志たちが群衆を迎えた。私たちは歓喜のうちに町に戻った。また夜通し、準備の仕事が続いた。ビラが刷られ、19日に大聖堂広場で開かれる集会への呼びかけが刷られた[訳注14]。
黒百人組もまた、準備をしていた。
19日の朝には、かなりの数の人が集まったが、その顔ぶれは小市民だった。私たち、組織された労働者はごく少なく、100人か150人ほどだった。工場の労働者は、手違いから、仕事を引き上げさせられていなかったのだ。この誤りは私たちに大きな痛手となった。もっと労働者がいれば、あのようなことは起きなかったかもしれない。群衆の中には、何やら不穏な動きが見えた。私は様子をうかがうために群衆の列の中を歩き回り、聞こえてくる話は、非常に芳しくなかった。市場の男の一人は、集会を潰せと扇動していた。「やつらが始めたら、すぐに始めろ」と言っていたのだ。要するに、何かの組織された動きが準備されているのは明らかだった。群衆には、変装した消防士と警官がまぎれ込んでおり、その指揮をとっていたのは、分署長のバトゥエフだった。
集会は「アンドレイ」同志が開いた。樽に上がって、話し始めた。すると突然、群衆から声が聞こえた。「引きずりおろせ、あいつはユダ公だ」[訳注15]。彼が樽から降り、代わってイワン・ブシェン同志が話し始めると、群衆はさらに激しく叫び出した。「やつらは神を冒涜している、やっちまえ」。群衆は雪崩のように私たちに襲いかかった。信じられないことが起こった。棒が飛び交い、瓶が飛び、銃声がして、私たちは退却しなければならなかった。
翌日、私たちはこの乱闘の結果を知った。私たちの側と黒百人組の側から、数人ずつが病院に運ばれ、『ウラルの生活』紙の寄稿者ソロヴィヨフ[原注3]が、ポケットにヘクトグラフで刷ったビラを入れていたという理由で、黒百人組に殺された[訳注16]。こうして私たちの喜びは曇り、アンドレイ同志の、詔書は専制の挑発だ、という予言めいた言葉が思い出された。
反動の強まり
反動が頭をもたげ始め、愛国主義的なデモが始まり、聖旗や血まみれのニコライの肖像画を掲げた行列が歩き回った。不穏な時代になった。革命家たちが住んでいる家が襲撃されると予想され、ドアにチョークで印がつけられる例もあり、夜は出歩くのが危険になった。黒百人組は図に乗って、通行人に「お前は十字架を身につけているか?」と尋ねることさえあった。身につけていれば手を出さず、なければ、「異教徒」として殴りつけた。
それでも、集会や会合は開かれたが、屋内だけで、警備をつけて行われた。私たちは、リボルバーや刃物で武装した。こうして1906年まで続いたが、そのころ、目立つ革命家たちの一斉検挙が始まった。アンドレイ同志の首には、その居場所を知らせた者に5000ルーブルを与えると、警察が懸賞をかけた。だが、愛すべきオルガナイザーを匿ったのは、労働者だけではなく、リベラルまでがそうだった。このあと、組織は、始めた仕事を続け、ブルジョアジーがもはや打ち負かせないほどの力を蓄えるために、また地下に潜った。
ふたたび地下へ、そして逮捕
私は、技術者協会の住まいを出て、ナゴルナヤ通りの自分の家に移らなければならなかった。私のところでは、サークルの会合がよく開かれた。1906年2月17日に、サークルの会議が予定されていた。まだ全員が揃っていなかったが、シーシカ、セーニカ(若いユダヤ人)、カーチャ・デニソワ、それに宣伝員のワシーリー同志(「指物師」)が来ていたところに、警察が踏み込んできた。ディーナ・ポリャコワ(すでに逮捕されていた)の件でデニソワを捜していたのだ。私たちのところに集会のようなものがあるのを見ると、憲兵たちは「どういう連中だ」「どうやってここに来た」などと尋問を始めた。とくに彼らが話しかけていた「ワシーリー」同志は、質問に答えるのを拒んだ。すると憲兵たちは、ここが革命サークルだと疑い、家宅捜索を始めた。私のところには、そのとき、たくさんの文献があった。『ブレヴェストニク(海燕)』、『モロート(槌)』、それにいくつかの非合法の小冊子、たとえばレーニンの『二つの戦術』、それからいくつかのビラ、その中には、私がマカロフ地区の代表として出席した州党協議会の決議が2通あった。
憲兵たちは、レーニンの小冊子と決議、それに『ジーチェリ(観客)』誌の1号のほか、何も持っていかなかったが、私のところにあったトランクに目をとめた。ミハイル・チスチャコフ(またの名をヴィロノフ)同志のものだった[訳注17]。トランクは鍵がかかっており、鍵は、当時レシェトニコフ図書館に住んでいたチスチャコフが持っていた。「これは誰のトランクだ?」と聞かれて、私は、自分のもので、中には下着が入っているが、鍵はなくした、と言った。それから、憲兵たちは私たちに服を着るよう言い、第2警察分署に連行した。上官に報告すると、彼らは私たちを、見張りもつけずに受付に置いていった。この隙に、「指物師」同志は、帽子を分署に置いたまま出ていってしまった。私たちは、朝10時から夜7時まで警察に留め置かれた。その間に、私たちの住まいでは家宅捜索が行われていた。私たちが逮捕されたあと、妻は、証拠になりそうなものを隠すのに間に合い、同志全員に、私たちの家に行かないようにと知らせた。家では待ち伏せがしかけられていたのだ。
まるまる3日間、憲兵は張り込んでいたが、誰も現れなかった。私たちは、8時ごろ、監獄に連行された。
監獄を渡り歩いて
監獄には、すでに多くの被逮捕者がいた。大部分は労働者で、ひとりぼっちで退屈することはなかった。毎日、新しい者が連れてこられた。当時の規律はゆるく、ほぼ1日じゅう、塀の中を歩き回っていた。夜は、10時まで監房の鍵が閉められず、私たちは、いる者ほぼ全員が、どれかの監房に集まった。政治経済学やほかの問題についての講義を聞いたが、それを講義してくれたのは、当時収監されていた「ファッデイ」同志(ザルキンド)——技師で、すばらしい宣伝員、マルクス主義の理論家だった。ほかの同志であるインテリたちは、読み書きのできない者に読み書きを教え、読み書きのできなかった者は、3、4か月で、読み書きができ、政治的にも準備のできた状態で監獄を出ていった。
3月に、イスラム教徒の墓地の裏での集会が摘発され、16人が逮捕された。その中には、チュツカエフ、ミハイル・チスチャコフ(ニキフォル・ヴィロノフ)、「イワン」、「フェディチ」、「ポタープィチ」などがいた。最初のうちは、獄中は楽しく、時間は有益に過ぎていった。春には、ドゥーマが招集されることになっており、私たちはそれにたいへん期待したが、何も得られなかった。私たちは何度も、恩赦を期待して、「所持品」をまとめたが、その期待はむなしかった。血まみれのニコライの政府は、別の考えだったのだ。
1906年5月1日には、メーデーの野外集会で、また30人ほどが逮捕され、その中にはオスカロヴナもいた。私たちは、約150人にふくれあがった。顔ぶれは、党派の面でさまざまだった。エス・エルもいれば、アナーキストもいて、社会民主党員が(多数派として)いた。単なる小市民も非常に多く、あちこちから手当たり次第にかき集められた連中だったが、監獄は、その多くをりっぱな革命家に変えた。
監獄の規律は厳しくなった。私たちは、起訴状を突きつけられることもなく拘束されていたので、神経質になった。看守側の誰か、検事や監察官が監獄を視察するたびに、いつも同じ質問が出た。「何か申し立てたいことはありませんか?」。私たちの側の質問は、「私たちの件は誰の管轄ですか」「もうすぐ釈放されますか」だった。「私ではなく、憲兵隊管区か内務省の管轄だ」というのが、いつも返ってくる答えだった。のちには、視察に来た幹部に対して、「沈黙戦術」や「猫の音楽会(大ブーイング)」を仕掛けるようになった。
ハンスト
6月のはじめ、私たちはハンストのための扇動を行い、要求を突きつけた。事件の審理の促進、食事の改善、その他である。当局はハンストをつぶそうと、私たちを分散させることに決めた。6月16日に、私たちのうち17人が呼び出され、荷物をまとめろと命じられた。私たちは、はじめ、釈放されるのだと思って喜んだが、やがて喜びは落胆に変わった。ニコラエフスク囚人中隊への移送が決まったのだ。その日の夜、私たちは駅に連れていかれた。移送された者には、ブシェン、スィロモロトフ、イワン・イワノヴィチ・プレトニョフ、N. デルブィシェフ、ヴィロノフがいた。だが、当局は誤算をした。ハンストは、ニコラエフスクの囚人中隊でも、エカテリンブルクでも行われたのである。私たちのハンストは7日間続き、エカテリンブルクでは、11日間絶食した者もいた。とくに意志の強さで際立っていたのは、若い女性たち、オリガ・ミロポリスカヤとリンマ・クネイだった。その後、事件の審理は速められ、私たちの、ある者は釈放され、ある者は流刑に送られ、ある者は法のさまざまな条項にもとづいて起訴された。
流刑へ
私とデニソワは、内務省付置の特別審議会[訳注18]により、労働者への扇動のかどで、2年の流刑が言い渡された。エカテリンブルクの者のうち、チェルドィニへの移送に当たったのは私ひとりで、ほかの、移送ルートを進む者たちは、ロシアのさまざまな場所や、カフカスやラトヴィアから来ていた。
モトヴィリハでは、機関庫の労働者たちが、政治流刑囚の護送団が来ると知って、私たちを出迎えた。何千人もの大群衆でホームに出て、私たちの窓に金を投げ込み、列車が駅を離れると、赤旗を掲げ、「みんなで、同志よ、足並みそろえて」を歌いながら、列車が見えなくなるまで、あとを追ってきた。ペルミでは、駅から監獄まで連行される私たちを、群衆が監獄まで見送り、道に生花の花束を投げてくれた。監獄はぎっしり詰まっていた。移送囚が、四方八方から集まってきていた。ここで私は、古参の革命家たち、レフ・ドイチ、パルヴス[訳注19]などに会い、すでに面識のあった技師のマロゼモフとも会った。彼とは、エカテリンブルクの州協議会で顔を合わせたことがあった。全員がシベリアへ送られていた。
ペルミの監獄では、チェルドィニへの出発を待って、まるまる1週間座っていなければならなかった。チェルドィニに着くと、私たちは郷に振り分けられた。私と、あと3人の同志は、トゥルパン郷に送られた。町から最も北にあって、最も遠い郷である。私たちは、その郷に最初に着いた者たちに入っていた。この僻地では、最初のうちは、非常につらい思いをした。政府の食費手当は月2ルーブル40コペイカしか出ず、収入の道など考えられなかった。住民自身も、狩りしかしていなかった。住民は、はじめのうちは私たちに冷たかったが、やがて慣れてきた。私たちは、読み聞かせや談話をし、嘆願書を書いてやり、その報酬は受け取らなかった。これで私たちは、トゥルパンの人々に気に入られた。
はじめのうちは、外部から金や食料までの援助があり、新聞や雑誌が送られてきたが、やがていかなる援助も考えられなくなった。それはひとえに、流刑囚の数が日ごとではなく時間ごとに増えて、どんな組織も、全員を助けることはできなくなったからだ。政治囚だけのあいだは、まずまず暮らすことができた。コミューン(共同生活)で暮らし、たがいに助け合い、持てる者は持たざる者に分け与えた。だが、政府は、あらゆる手を使って流刑地の政治的分子の組織を崩そうとし、刑事犯を大量に送り込んだ。盗みと酒が始まり、暮らしは耐えがたいものになって、私は脱走を決意した。
脱走
持ち物を売り払って、私たち3人、私とラトヴィア人の流刑囚2人は、1906年11月28日に逃げた。私は、党のつてで、ウファーにたどり着いてそこに落ち着いた。ウファー党委員会は私を、オルガナイザーの助手に任命した。この仕事を私は2か月続け、給料は月5ルーブルで、住む家もなかった。この金では暮らせず、私は委員会に、チェリャビンスクに異動させてくれるよう頼んだ。チェリャビンスクに着き、仕事を求めたが、そこでは就職できず、私はシベリアに送られそうになった。労働者党員の同志たちの家に泊まったとき、この件が話題になった。同志たちは、どこへも行かず、流刑の地に戻って刑期を務めるようにと、私に助言した。理由は、職業をもたない身では、深刻な失業の時期に職に就くのは非常に難しい、ということだった。
ふたたび流刑地で
同志たちの助言を聞いて、私はトゥルパンに戻り、知事に、私をチェルドィニ郡から、より工業的な地方に移してくれるよう嘆願書を書いたところ、幸運にも、それは認められた。知事は、私をヴェルホトゥーリエ郡に移すことを許可し、そこでは居住地を選ぶことができた。私はニジニ・タギルを選び、ヴィイスキー銅精錬工場に落ち着いた。
1907年3月からタギルに落ち着いた私は、夏じゅう、工場で働きながら、党の仕事にも参加した。ここでは、セルゲイ・ゴルシコフ、イワン・サモイロフ、Al. ペトロフ(私の見るところ、全員メンシェヴィキ)が活動を指導していた。私はタギルで、1907年11月25日まで働いた。不意に、警察分署長に呼び出され、知事の通達にもとづいて、私は、以前から移されていたすべての流刑囚と同様、もとの流刑地に出頭しなければならない、と告げられた。私は分署長に、トゥルパンに行くと約束し、分署長から、19ルーブル45コペイカ(食費手当)の郵便為替を受け取り、トゥルパンには行かずに、エカテリンブルクとレヴダに行き、1908年2月20日まで家で暮らし、それから、流刑地へ刑期を終えに向かった。こうして私は、釈放まで引き延ばした。1908年7月14日に釈放され、1909年の初めに、またマカロフ工場に就職した。
戦争の前
工場では、革命の仕事はまったく行われておらず、町でもおそらくなかっただろう。知り合いだった同志のうち、会えたのはワーシャ・ピニジャコフだけで、党の活動は行われているのかと聞くと、何もない、完全な壊滅で、ほとんどが再逮捕された、と言った。こうして、私は組織と連絡をつけることはできなかった。1910年の初め、私は町を出て、レヴダに移り住んだが、そこにも何の活動もなかった。1905〜06年の生き残りの一匹狼がいるだけで、それも思想はまちまちだった。私は町から、逮捕のあとも無事に保管されていた文献を、100部ほど持ってきた。これを使って、私はレヴダで革命活動を始め、じきに数人の同志でサークルを組織した。最初に私のもとに加わったのはグリゴーリー・ウムノフで、続いて、アレクセイ・イワノヴィチ・シチェコルジン(1918年にコルチャーク派に銃殺された、古参党員の一人)らが加わった。
そのころ、疾病保険金庫の運動[訳注20]が始まり、私たちは最も積極的に参加しなければならなかったが、労働者はこの考えの意味を理解できず、私たちの努力は水の泡となった。労働者は、金庫の組織を拒んだ。1913年、協同組合の組織化運動のときには、労働者の協力のもと、協同組合を組織することができた。
私たちのサークルは、人数が増え続け、すでに15人ほどになっていたが、そこへドイツとの戦争が襲いかかり、労働者は排外主義に走って、サークルの半分以上がこの病に感染し、私たちから離れていった。だが私たちはボリシェヴィズムの事業に忠実であり続け、彼らとの妥協なき闘争を始めた。
原注(原著の脚注)
[原注1] 1902年、地元の労働者による、工場の倉庫への襲撃があり、その際にパンと鉄が持ち去られた。
[原注2] のちに、テレンチエフはスパイだったことが判明した。
[原注3] イストパルトの文書中に、ソロヴィヨフが保安部(オフラーナ)の密偵だったことを示す資料がある。
訳注
[訳注1] レヴダ工場(Ревдинский завод)は、エカテリンブルクの西にある製鉄・鉄工の工場集落。筆者の郷里で、のちに逮捕・流刑の合間にもここに身を寄せている。
[訳注2] コチカリ金山は、南ウラル(現チェリャビンスク州)にあった金鉱区。
[訳注3] 1903年3月にズラトウスト工場で、ストライキ中の労働者に軍が発砲し、多数の死傷者が出た事件。
[訳注4] 「ウラル同盟」の東部グループのことと思われる。同グループは、社会民主党員と社会革命党員が共同で活動した組織で、カプースチンの回想の原注(原注3〜5)にも登場する。
[訳注5] この「テレンチエフ・アントン・イワノヴィチ(あだ名『使徒』)」は、カプースチンの回想に登場する、マカロフ工場の織工アントン・イワノヴィチ・テレンチエフ(あだ名『使徒』)と同一人物とみられる。カプースチンは彼を、憲兵を煙に巻く話上手の頼もしい人物として描いているが、この回想の原注は、彼がのちにスパイだと判明したとする。二つの回想は、この人物の評価が正反対である。
[訳注6] 『巧妙なからくり(Хитрая механика)』は、カプースチンの回想で、彼の父が持ち帰った禁書としても出てくる、非合法の政治パンフレット。なお、『これでいいのか(Неужели так надо)』はトルストイの小冊子と原文にある。
[訳注7] 「фараон(ファラオ)」は、警官・巡査の俗称。
[訳注8] 原文は「не пустил」で、「入れなかった」の意味に解した。妻が包みを持って戻ってきたところで、門番に入るのを拒まれたため、包みの中身(ビラの原稿など)が捜索を免れた、と読める。
[訳注9] 原文の職名は、字が不鮮明で「пожеженного(пожарного?)мастера」と読める。「火災係の職長」と推定して訳した。
[訳注10] ソロドニコフの党派については、カプースチンの回想の原注では「社会民主党ボリシェヴィキ」とされており、ここの「エス・エル」という記述と食い違う。同姓同名の別人か、党派の記憶違いか、原文からは確定できない。なお、本文の「Солодняков」は誤植と見てソロドニコフとした。
[訳注11] 「гороховое пальто(エンドウ豆色の外套)」は、当時、私服の刑事・スパイを見分ける目印として、揶揄的に使われた言い回し。
[訳注12] 1905年8月にブルィギン内相の案で公布された、諮問的性格の強い国会(ドゥーマ)の設置法。多くの革命派は、これを無用なものとしてボイコットした。
[訳注13] 十月詔書の日付は10月17日(旧暦)で、地方に知らせが届いたのは通常その翌日以降である。筆者の記述する日付は、実際より1〜2日早い可能性がある。カプースチンは、電報が届いたのを19日と回想しており、同じ事件の日付が二つの回想でずれている。
[訳注14] 「Соборная площадь」は「大聖堂広場」で、カプースチンの回想の「Кафедральная площадь」と同じ場所を指すとみられる。
[訳注15] 原文は「жид」で、ユダヤ人への蔑称。ここでは黒百人組の群衆がスヴェルドロフ(ユダヤ系)に向けた罵声であり、「ユダ公」と訳した。
[訳注16] カプースチンの回想では、同じ10月19日の広場で殺された『ウラルの生活』紙の寄稿者は「サヴェリエフ」とされており、筆者の「ソロヴィヨフ」と名前が異なる。
[訳注17] 同じ人物が、本文でも「ミハイル・チスチャコフ(またの名をヴィロノフ)」と「チスチャコフ・ミハイル(ヴィロノフ・ニキフォル)」の二通りで書かれている。カプースチンの回想では、同じ人物とみられる「ミハイル・ヴィロノフ」が登場する。原文の表記のゆれとして、そのまま訳した。
[訳注18] 特別審議会(Особое совещание)は、内務省に置かれた行政処分の機関で、裁判を経ずに、政治的に不穏と見なされた者を流刑に処すことができた。
[訳注19] パルヴス(A. L. ゲルファント)は、1905年のペテルブルク・ソヴィエトの指導者の一人で、この年の末に逮捕され、流刑に処された。レフ・ドイチは、社会民主党の古参活動家。
[訳注20] 1912年の労働者保険法にもとづく、疾病保険金庫の設立をめぐる運動を指す。