原注 アレクサンドル・ミハイロヴィチ・カプースチン(党名『ニキータ』)は、1921年9月、イストパルトの提案を受けて回想を書き始めた。思いがけない死のために、彼はそれを最後まで書き上げられなかった。彼が書けた(それも清書ではなく個々のメモの形で)のは、ロシア社会民主労働党での活動のうち、彼がただの『党の平党員』で、党の活動家たちを下から見上げていた時期だけである。
カプースチン同志の回想は1905年で途切れている。のちに彼は、より積極的に党の活動に参加するようになった。1917年、彼は党の同志たちとのあいだにいくつかの意見の相違が生じ、国際主義者のもとへ去った。1918年、彼はチェコスロバキア軍の捕虜となり、オムスクの監獄に2か月収監されたのち脱走した。しかしまもなく再び逮捕されて投獄され、また脱走した。前線を越えてソヴィエト・ロシアに入ったのちは、すでにロシア共産党員として、コルチャークから解放されたエカテリンブルクで党・ソヴィエトの活動に非常に積極的に参加し、県労働部の初代部長、初代県労働組合評議会と初代県執行委員会の一員となった。1920〜21年には赤軍で働き、南部反革命の壊滅に積極的に参加した。ウラルに戻ると、ウラル軍管区で働き、イストパルトのために、主に赤軍史の資料収集の分野で非常に多くのことをなした。カプースチン同志は1921年6月26日に死去した。(Вл.ヴォロビヨフ)
*原注 1913年、カプースチン同志はしばらくトロイツク(オレンブルク県)にいた。私は彼を新聞『ステップ』の記者として世話したが、その新聞はおよそ協力者が私(書記)と彼くらいしかいなかった。彼はひどく困窮していた——ウラルで仕事が見つからなかったのだ。まもなく彼はウラルか、あるいはシベリアへ移った。その後カプースチン同志は社会民主党国際主義者のグループにいた。死ぬまでの最後の時期は、赤軍で政治啓蒙活動を行った。彼は並外れて革命に忠実だった。彼の家庭生活の悲劇は、憲兵の娘と結婚していたことだった。(Ф.スィロモロトフ)
私はいかにして革命家になったか
私がどのようにして、なぜ革命家たちの中に入ったのか、その話から始めよう。
それは1903年のことだった。私はまだ17歳にもなっていなかった。当時、私たちはエカテリンブルク郡のカリュートキナ村、ジリャコフの織物工場のそばに住んでいて、父と母はそこで織工として働いていた。
父は、工場では『ミハイル・イワノヴィチ』と呼ばれていたが、まったくの文盲だった。父の話では、工場で働き始めたのは8歳のときだという。祖父もやはり織工で、織物工場を持っていた地主の下で働いており、父がまだ抱かれて運ばれる子供のころから、工場へ連れて行っていたそうだ。読み書きについては、父が知っているのは数字だけだった。
「いいか、これがなけりゃ俺はどうにもならんのだ」と、父はよく私に言った。「織機の番号を見なきゃならん、道具も番号で仕分けなきゃならん、ほかにもいろいろ番号ってのがある。どうしても要るんで、覚えたのさ。自分で覚えた。字の読める奴に『これは何番だ』と聞く、教えてくれる、それで覚える。読み書きができたら、とっくに職長になってたさ、それがこのざまだ。まあいい、おまえにはちゃんと教えてやる……」
実際、私が7、8歳のとき、父は自ら私に読み書きを習わせてくれた。あるとき彼はエカテリンブルクに出かけて、『金の初等読本(ゾロタヤ・アズブカ)』を買って帰った。買ってきただけでなく、字の読める仲間のタラノフ(たしか紡績の監督だったと思う)を私のところへ連れてきた。
「こいつに字を教えてやってくれ」と、父はタラノフに言った。
タラノフがすぐに引き受けて、私に『アーズ』『ブーキ』と文字を見せ始めたのを覚えている。
まもなく村に、字の読めるどこかの女性が開いた家庭学校ができ、父は私をそこへ通わせた。自分が文盲だったから、私たちにも同じままでいてほしくなかったのだ。子供は、うちにはいつも4〜6人いた。死ぬ子がいれば、生まれる子もいた。最終的に、全部で13人のうち5人が残った。
父はときどき酒に溺れた。「悲しくて飲むんだ」と、いつも弁解した。だが、しらふのときも酔ったときも、たまたま本が手に入ると、それを家に持ち帰り、私に渡して「読め」と言った。自分はそばに座って聞いた。ひと言も聞き漏らさぬよう注意深く聞き、読み終わると必ず評価を下した。
1903年の春、私たちはすでにエカテリンブルクに住んでいた。試験を無事に終え、エカテリンブルク市立学校の4年生に進級したときのことだ。父は工場から帰ると、いつものように何かの本を私に突き出し、ぶっきらぼうに命じた。「読め」。
私は本を開いた。それは『ずる賢い機械(хитрая механика)』だった。声に出して読み始めると、父は読むそばからいろいろな感想で遮った。「見ろよ、うまいこと騙してるもんだ」「どれもこれも、ほんとのことを書いてるじゃないか」。
読み終えると、父は私から本を取り上げて言った。「いいか、このことは誰にも一言もしゃべるなよ」。
「ラヴィンスキーにも?」と私は聞いた。
「ああ、ラヴィンスキーならいい。ただ、あいつにも黙ってるように言っておけ。この本には本当のことが描いてある。ただ、その本当ってのが、禁じられた、政治的なやつなんだ」。
ラヴィンスキーは私の学校の同級生で、幼なじみだった。のちに、『職業的』な活動でも、私たちはほとんどずっと一緒だった。
数日後に父が持ってきた二冊目の小冊子は、『蜘蛛と蠅』だった。聞き手の輪はすでに広がっていた。父のところへは、マカロフ工場での織工仲間、アントン・イワノヴィチ・テレンチエフ(あだ名は『使徒』)が来るようになり、私のところへはラヴィンスキーが来た。
私はアントン・イワノヴィチに、いつも特別な敬意を抱いていた。彼はゆっくりと、言葉を引き延ばし、ときには遠回しに話した。だが私には、彼がいつも誰よりも賢いことを言うように思えた。そして普通の労働者の中で、彼は実際に際立っていた。1905年に彼は逮捕されたが、まもなく釈放された。
「どうしてこんなに早く釈放されたんです?」と私たちは尋ねた。
「それはな、やり方ってもんがあるのさ」と彼は言った。「憲兵が俺に聞く。『どうして集会に行き着いたんだ』ってな。そこで俺は、森がどうやって育つか、何のために育つかを描いてみせたのさ。自然ってのは、人間が働いていないとき、楽しんで休めるように、すべてを作ってくださったんだ、とな。それで俺は森へ行ったんだ。見りゃ、緑の森が魅力的で、松がいい匂いがする。あんたたちも知ってるだろう、松の香りは、健康にいい……憲兵は俺をさえぎる。『匂いがなんだ、あんたの健康がなんだ。誰があんたを集会に呼んだのか言え』。俺は答える。集会なんかにはまるで興味がない、森へ行くのは、空気を吸って、健康を取り戻すためだ、と。あんた自身も知ってのとおり、俺たち織工は、どんな具合に働かなきゃならんか。いつも埃まみれで、そのせいで胸が痛む。それなのに、どこで休めってんです? 家は汚いし、部屋は狭いし、子供はうじゃうじゃいる。しかも、子供ってのがどんな匂いがするか、ご存じで……『俺は、と憲兵は言う、あんたに子供のことを聞いてるんじゃない、あんたがどんな暮らしをしているかを聞いてるんじゃない、あんたが逮捕された集会のことを聞いてるんだ』。ああ、俺は知ってますよ、俺が逮捕されたことは、と言ってやった。あんたらは権力を握ってる、何でもできる。ただ、俺はこれからもずっと森へ行きますよ。ほかに、新鮮な空気を吸える場所がないんでね。そう言って、また森の話を始めた、どうやって育つか、鳥がどれだけいて、どんなにきれいに歌うか。憲兵はこらえきれなくなって、もう一人の『ケルベロス(番犬)』を呼び、言った。『この馬鹿を釈放しろ』。俺は出てきた。心の中で、馬鹿はどっちだ、あんたであって、俺じゃない、と思ったが、そのことは言わなかったよ」。
アントン・イワヌィチ(愛称)はとうに亡くなった。だが、彼の二人の息子は父の遺訓をよく覚えている。1917年、彼らは志願兵としてまず赤衛隊に、のちに赤軍に入り、労働者の大義を積極的に守った。私がここで思い出している当時は、彼らはまだほんの小さな子供だった……
『蜘蛛と蠅』を読み終えると、ラヴィンスキーと私は、こうした本をどこで手に入れているのか教えてくれと、父に頼み始めた。父は長いあいだ言いたがらなかったが、アントン・イワノヴィチが助け舟を出してくれた。
「何を怖がってるんだ? あの子たちはもう大人だ、しゃべったりしやしない。それに暇な時間もこっちのほうがある。夏はどうせやることがないんだ、あの連中から少しは学ぶだろうよ」……
そのあとでようやく、父は、本をどこで手に入れているかを話してくれた。それは、なんと、マカロフ兄弟工場の、工場の『政治屋(политики)』たち——ルカヴィシニコフと、同じ工場の事務員ワーシカ・モロゾフ、それにカーチャ・デニソワ*だった。彼らこそが、私たちが初めて知り合った革命家たちだった。
*原注 ルカヴィシニコフ、フョードル・ミハイロヴィチ。マカロフ工場の労働者。『ウラル同盟』東部グループで、社会民主党員・社会革命党員の双方とともに活動。『逮捕されたが、起訴に足る証拠がないため釈放され、行政処分によりレヴダ工場に追放された』。
モロゾフ、ワシーリー・ウラジーミロヴィチ——初めは労働者、のちにマカロフ工場の事務員。1903年2月18日に逮捕され、『ウラル同盟』東部グループの事件で、住民の間での非合法文献の頒布のかどで取り調べを受けた。1903年9月、行政処分により、故郷のカザン県チストポリ郡に追放された。1905年、10月17日の詔書により恩赦。
デニソワ、エカテリーナ・イワノヴナ——マカロフ工場の女性労働者。『ウラル同盟』東部グループ(社会民主党・社会革命党)の事件で追及された。1903年2月18日に逮捕、3月12日に警察の監視下に釈放。1906年、エカテリンブルクで逮捕され、刑法126条で起訴された。
革命家たちとの最初の出会い
初めてルカヴィシニコフの部屋を訪ねることにしたとき、父は私たちに、何かの用事があるふりをして『こっそり』行くようにと注意した。恐怖と、焼けつくような好奇心を胸に、私たちは出かけた。
ルカヴィシニコフとモロゾフは、私たちに革命活動への扉を開いてくれた。私たちの最初の会話がどんな内容だったかは覚えていない。ただ一つのことだけが記憶に浮かぶ。モロゾフが、『労働者の味方をしている』公爵令嬢ドルゴルコヴァ**に私たちを引き合わせると約束したのだ。まもなく彼は本当に、私たちを一人の若い婦人に引き合わせた。彼女のことを、たしか『ナターリヤ同志』と呼んだと思う(はっきりは覚えていない)。私たちは、これが『公爵令嬢ドルゴルコヴァ』なのだと考えた。会ったのは、エカテリンブルクのアルヒエレイスカヤ通り13番地の家で、ウラル鉱山学校の生徒ソロドニコフ*が借りていた部屋だった。この部屋について、次のような光景が鮮やかに記憶に残っている。通りに面した窓には、清潔な白いカーテンがかかっていた。隅には、何も掛けていない木のテーブルがあり、その上に『愛好家用』という銘柄の刻みタバコが一包み置いてあった。私たちはその場で吸ってみて、たいへん上等だと思った。そしてテーブルの向こうに、『公爵令嬢ドルゴルコヴァ』が座っていた。彼女は私たちに、人々は『互いに騙し合い、不当に虐げ合っている』と語った。私たちは『公爵令嬢』から目を離さず、これらすべてを聞いた。
最後に彼女と会ったのは、ズロカゾフ工場の裏手の森で、題名を覚えていない本を読んだ。それから彼女は、みんなが幸せに暮らせるようにと望む革命家たちのこと、その革命家たちが勤労人民の幸福のために命を惜しまないことを語った。聞いているうちに、私たちも革命家になりたくなった。私たちは、次は木曜日にアルヒエレイスカヤ通りに来ると約束して別れた。帰り道、みんなが幸せに暮らせるようにするには、具体的に何をすべきかについて、私たちは長いあいだ語り合った。
途中、森の真ん中で立ち止まり、向かい合って立って、どうすれば早く革命家になれるかを議論したのを覚えている。しかし、まずはもっと『公爵令嬢』の話を聞くべきだ、という結論に至った。
だが、次に『アルヒエレイスカヤ13番地』に行くことは、もうできなかった。木曜日、『公爵令嬢』が毎回必ず言い聞かせていたあらゆる用心をしたうえで出かけ、その部屋に近づいたところ、私たちはまったく予想外のものを目にした。13番地の向かい側の、雑貨屋に通じる高い階段の上に、警官が立って、13番地の家を見ていた。13番地の前まで来ると、家の中にも何か異常があるのが見えた。取り決めでは、門に一番近い窓のカーテンは半分開けておくはずなのに、それが完全に下ろされていた。視線を交わし、また階段の上の警官の注意を私たちの視線が引かないかと恐れて、私たちは門のほうへ曲がらず、そのまま通りを進んだ。通りの端まで来ると、ここで何か不吉なことが起きたのだと、はっきり確信した。角には巡査が立ち、彼もやはり13番地のほうを見ていたのだ。この巡査は、この家に来る者を待ち伏せしているのだ、と私たちはその場で判断した。そして家に帰った。
私たちにはまだ秘密活動(コンスピラツィア)の経験がまるでなかったが、このときは推測を誤らなかった。数日後にルカヴィシニコフに会うと、アルヒエレイスカヤの部屋は実際に『摘発された』のであり、一連の逮捕があったことを知った。1903年5月のことだった。
**原注 公爵令嬢ドルゴルコヴァ、マルガリータ・アレクセーエヴナ(党名『ナターリヤ』)。『ウラル同盟』東部グループ(社会民主党・社会革命党)の活動家の一人。1903年5月24日にエカテリンブルクで逮捕され、裁判前まで、つまり1905年10月17日の詔書により、同盟事件のほかの被告とともに釈放されるまで、獄中にいた。1902年にはモスクワで、学生騒擾への参加により取り調べを受けた。3か月の収監ののち、行政処分によりモスクワから追放された。
*原注 ソロドニコフ、アレクサンドル・ゲオルギエヴィチ。ウラル鉱山学校の生徒、社会民主党ボリシェヴィキ。『ウラル同盟』東部グループ(社会民主党・社会革命党)の事件で、ヘクトグラフでの印刷および非合法文献の頒布のかどで追及された。1903年6月3日、アルヒエレイスカヤ通り13番地の秘密アジトで逮捕された。
1905年、ソロドニコフはРСДРПエカテリンブルク組織の事件で逮捕され、7月26日から8月21日まで獄中にいたのち、警察の監視下に釈放された。同じ1905年、彼はスィセルチ工場で、ゼネスト中の労働者への扇動のかどで再び逮捕された。これらすべての事件について、ソロドニコフは1905年10月17日の詔書により、裁判を免除された。
サークルで
摘発のあと、私たちは長いあいだ、組織とまったく連絡がとれないままだった。どんな経路だったかは今は覚えていないが、1903年の秋までに、この連絡を再び確立した。プチロフ工場かソルモヴォ工場から来た宣伝員の労働者が、私たちの面倒を見るようになった。姓は覚えていない。彼とは、マラホフスカヤ通りとシビルスキー大通りの間にあるルゴヴァヤ通りの部屋で、3、4回会っただけだった。この同志の、『労働者の暮らしが苦しいのは、資本家が労働者から汁をすっかり搾り取るからだ』という言葉は、しっかりと記憶に残った。
その頃、『社会革命党と社会民主党のウラル同盟』は崩壊し、組織は分かれて、それぞれ別々に存在するようになった。
1904年の初め、私はすでにいくらか活動的になっていた。通っていた第二市立学校で、生徒のサークルを組織したのだ。この頃、それまでどこでも一緒だったラヴィンスキーは、もう学校を卒業していた。私たちのサークルには、アナトーリー・クドリャシェフ、ワシーリー・スンツォフ、フョードル・ザリヴィン、コンスタンチン・ポポフ、ニコライ・ヴィノグラードフが入った。このうち、ロシア共産党(РКП)に残ったのはクドリャシェフだけで、あとの者は、青春の『過ちを正している』か、行方知れずになって、おそらく平凡な俗物になったのだろう。私たちのサークルで宣伝員として活動していたのは、たしか同志『ファッデイ』(ザルキント)だった。
学校では、この頃、教師たちが私に注意を向けるようになった。何のせいなのかはわからない——私がよく勉強するようになったからか、授業での答えを、必ずしも教科書どおりにはしなくなったからか。だが事実は事実で、一部の教師は私を疑わしげに、一部は好奇心をもって見るようになった。幾何を教えていた、学校の視学官ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・サンドリガイロの授業でのことを覚えている。私は机に向かってドブロリューボフを読んでいたが、あまりに夢中になって、周囲の様子に注意を払わなくなっていた。突然、怒鳴り声が聞こえた。
「カプースチン、そこで何を読んでいる?」
私はとっさに本を机の中に隠した。だがもう遅かった。視学官は私のそばに来て、机の中の本をすべて出すように言った。私はすぐさま無邪気な顔をつくり、机から本を『取り出し』始めた。教科書をすべて出し、同時にドブロリューボフをこっそり机の奥深くに押し込んだ。出した教科書を視学官に見せた。
「ふむ」と視学官はうなった。「どれ、自分で見てみよう」。そして、隠された本を見つけると、数秒間、あらゆる角度からそれを眺めた。
「借りた図書館に返しなさい。それとこの手の本は、二度とここに持ってこないこと。これがどんなことにつながるか、わかっているのか? シベリアに流されるぞ。やめなさい、こんな本は読むな。私も学生のころは読み始めたものだが、その後、改心した。ところが私の友人は、それで身を滅ぼした。大学を終えられなかった。アルハンゲリスク県に流されて、生涯を台無しにされたんだ」。
彼はこの話題で長いこと語り、何度も強調した。「やめなさい、読むな、悪いことになるぞ」。
この一件を、彼はおそらく職員室でも話したのだろう。だが教師たちは、この話をそれぞれ違うふうに受け止めた。そのうちの一人、ミハイル・イワノヴィチ・ヴォロサトフは、この件のすぐあと、私のところへ来て、自分の家へ来るようにと言った。
この教師はたいへん感じのいい人で、クラス全員に好かれていたから、私は招きに応じることにした。主な関心は、なぜ、ほかならぬ私を家に呼ぶのか、ということだった。教師のあいだに、そんな習慣はそれまでなかった。学校が終わってすぐ、授業のあとで彼のところへ寄った。部屋じゅうに散らばった、膨大な数の本が目に飛び込んできたのを覚えている。
彼のところには、ごく短い時間、おそらく30分ほどしかいなかった。彼は私に、なぜドブロリューボフを読んでいるのか、誰がそれを勧めたのかと尋ねた。後者の質問には答えなかったが、彼はそこから、私が彼にいくらか不信感を抱いているのだと結論し、自分から、主に何を読むべきかを助言し始めた。まず、ツルゲーネフの『父と子』を読み、読み終えたら来て、この本から受けた印象を話すようにと勧めた。
だが、二度目に彼のところへ行くことは、もうなかった。私が行ったのは復活祭の休暇前で、復活祭のあとで学校に出ると、ミハイル・イワノヴィチはもう学校に姿を見せなかった。彼の不在が気になった私たちは、視学官に、なぜいないのかと尋ねた。視学官は、おおよそこう説明した。「ミハイル・イワノヴィチは重い病気で、おそらくもう戻らないだろう」。しかし生徒たちの間で、М.И.ヴォロサトフが逮捕されたという噂が流れ始めた。確かめるため、仲間の一人を彼の家に行かせたが、下宿の女主人は、ヴォロサトフは『出かけた』と告げ、その際、使いの者には、ミハイル・イワノヴィチがどこへ『出かけた』のかがはっきりわかるような様子を見せた。
もっと面白かったのは、歴史教師ミハイル・アレクサンドロヴィチ・アサノフとの一件だ。組織は私に、『フェチソフスカヤ通り5番地、第一の入口、右手の右のドアに行って、そこでビラの包みを受け取れ』という任務を与えた。
夕方、日が暮れたばかりのころ、私は指定の住所へ向かった。着いて呼び鈴を鳴らした。ドアを開けたのは、どこかの女性だった。合言葉を言った。彼女は、すぐに廊下から部屋に入って、私に必要な人を待つようにと言った。部屋は薄暗かった。私は壁際の小さなテーブルのそばに座った。女性は出ていき、壁の向こうで、誰かに私のところへ出てくるよう頼んでいるのが聞こえた。やがて誰かが出てきて、電灯をつけた。私は息が止まるほどだった——目の前に立っていたのは、私たちの歴史の教師、М.А.アサノフだったのだ。私は面食らいすぎて、最初、彼とどう話を切り出せばいいかわからなかった。実は、この教師は、あまり評判がよくなかった。クラスは、彼が高慢に振る舞うのを好まなかった。まだ全然若かったというのに。
彼もまた、おそらく私に劣らず、この出会いに面食らっていた。数秒間、私たちは黙って向かい合い(私は座っていた椅子から立ち上がった)、互いを見つめた。ついに彼が沈黙を破った。
「カプースチン?」
「はい、私です、ミハイル・アレクサンドロヴィチ」
「どうしたことだ、君、これは?」
「こうなんです、指示されて来たんです。ここにあなたが住んでいるとは知りませんでした……」
「なるほど。では、君が来た用件はこれだ」。そう言って、彼は、それまで手に持っていたビラの包みを私に渡した。
「ただ、学校で私たちが会ったことは、口外しないように。秘密活動だ。君にはおそらくわかるだろう」
そのあと彼は長いあいだ、君が『政治』に手を出すのはまだ早い、まず勉強して、教育を終えて、それから好きなだけ活動すればいいと語った。
私は弱々しく反論し、親に資力がないからどのみち先へ進学はできないし、市立学校ももうすぐ終わるのだから、と言うにとどめた。
「そうか、君、君の歴史の授業での答えが、全部が『イロヴァイスキー』どおりではないと気づいていたんだ。いまやっと、それがどこから来たのかわかった。よし、行きなさい、気をつけて」……
受け取った包みをズボンの中に突っ込み、ベルトをきつく締めて、私は指定された宛先へ、包みを届けに向かった……
【訳注】イロヴァイスキーは、当時広く使われていた歴史教科書の著者です。
1904年
1904年の夏は、活動はぐっと減った。サークルで私たちを指導したのは、ヤーテス工場の労働者ペトル・ピメノヴィチだった。彼とは、私がどこかに部屋を借りることで話をつけた。そこにはモロゾフ、ダニーロフ、そして私が入る予定だった。部屋の設備費として、組織から少しばかり金を受け取った。父は、私が家を出たがっていると知ると、それは許さないと言い渡した。
当時、私たちのサークルには、フョードル・モルジャコフ、エカテリーナ・デニソワ、フョードル・ルカヴィシニコフ、ニコライ・カマガンツェフ、エピファノフ兄弟、イワン・イワノヴィチ・マカロフ、アレクセイ・ナザロフ、グリゴーリー・レベジェフが入っていた……
しばらく、同志『ファッデイ』が私たちを教えていた。私たちは、他の誰よりも彼に好感をもっていた。彼は政治経済学の講義を始めたほか、革命歌も教えてくれた。私たちがいちばん気に入ったのは『インターナショナル』だった。ロシア語を覚えたあと、同志『ファッデイ』は、フランス語で歌えるように教えようと決めた。その稽古がどれほどうまくいったかは覚えていない。私の記憶に残っているのは、サビの数語、『セ・ラ・リュ・フィナル』だけだ……ほかには何も残っていない。
並行して、私たちは組織のための実務もこなした。私は、ブロヒナの店でヘクトグラフ用インクを一瓶『入手』してくる、という任務を与えられたのを覚えている。うまく『入手』すると、組織は私にビラの筆写を命じ、私はそれをやり遂げた。書き終えたあと、インクで汚れた自分の指を長いこと眺め、どこかの憲兵に、私の手がヘクトグラフのインクで汚れているのを見られはしないかと、ずっと怯えていた。それで、そんな手で通りを歩くときは、いつもポケットに手を入れておこうとした。ヘクトグラフ用には、歌『勇ましく、同志よ、足並みそろえて』も書き写した。
1904年の私たちの主な仕事は、ビラまきだった。それは、いつも大きな喜びだった。とくに翌日、自分たちの仕事の成果をもう目にできるときは。私たちは毎日、私たちのビラが読まれているかどうかを確かめた。ビラは実際に読まれていた。おもに朝早く、警察が回収する前に。だが、警察の回収は早かった。塀にしっかり貼りつけられたビラには、警察もずいぶん手を焼き、警官たちは、それをサーベル(俗称『ニシン』)でこそげ落とさなければならなかった。私たちは、ビラをこそげ落とす作業の様子を観察することにも、劣らぬ関心をもっていた。
マルクス『資本論』での失敗
あるとき、夜通しの猛烈な作業で、夜の大半を眠らずに過ごしたあと、私たちをウラル鉱山学校に入れるために教えていた家庭教師のフョードル・スコモロホフが、私たちの疲れきった様子に気づいて、どうしたのか、今日町に現れたビラをばらまいたのは君たちじゃないのか、と尋ねた。私たちは否定しなかったが、自分たちが関わったとも言わなかった。そこから彼は、自分の推測が当たっていると理解した。以後、彼は自分から、どうすれば早く『本物のマルクス主義者』になれるかを助言し、その際、マルクスの『資本論』を読むよう勧めた。
私は彼の助言を実行することにした。しかも、私が『宣伝してやった』同志の一人、ワシーリー・スプエフが、あるとき私に会って、もう『資本論』を読んだと言ったのだ。これは私の自尊心をひどく傷つけたので、何が何でも『資本論』を読破しようと決めた。長い順番待ちのあと、ティホツカヤ図書館で手に入れた。『資本論』を持って家に帰る道すがら、私は文字どおり胸が高鳴った。しかし、読み始めたときの幻滅は、それだけいっそう大きかった。
私は窓辺に座り、寝台の背に足をのせ、本を膝に置いて『資本論』を読んだ。最初のページを読み終えて、まったく何も理解できなかった。
「さて、二ページ目でなら、何かわかるかもしれない……」と思った。
ページをめくって読む。まったく同じ状態——何もわからない。もとに戻して、最初のページから読み始める。またわからない。まさか、と思う、俺はそんなに馬鹿で、何も理解できないのか。ワーシカ・スプエフは読めたのに、俺にはできない、と私は長いこと悩んだ。結局、読むのをやめ、絶望に襲われ、自分はまったく取るに足らない人間だと結論した。翌日、また読み始めた。結果は全く同じだった。こうして『資本論』を読み通せないまま、私はそれを図書館に返した。のちに、このことを『ペトロヴィチ』(С.Е.チュツカエフ)にこぼしたところ、彼は、準備が足りない人には誰にでもあることで、君に『資本論』を読むのはまだ早い、と言って慰めてくれた。
『技術部』の摘発
1904年の秋、エカテリンブルクで『技術部』が摘発された。『技術部』に関わって何人が逮捕されたかは覚えていないが、私たちの地区からナザロフ*が挙げられたことは知っている。彼はラヴィンスキーの従兄で、のちにコルチャークに銃殺された。
*原注 ナザロフ、アレクセイ・ミハイロヴィチ。РСДРПの活動的な活動家。1905年1月4日、РСДРПエカテリンブルク委員会の印刷所事件で逮捕。同年4月14日、保証人つきで釈放。ナザロフに関する予審は、1905年10月21日の詔書により打ち切られた。1911年、ナザロフはРСДРПエカテリンブルク組織の事件(セルゲイおよびマリヤ・チェレパノフの事件)で逮捕されたが、起訴に足る証拠がないため、裁判前に釈放された。
【訳注】『技術部(техника)』は、非合法の印刷・複写を担当する組織部門を指します。
秋の逮捕のあと、私たちはまた組織との連絡を失った。1905年1月になって初めて、組織がなんとか生き延びていたことを知った。1月の事件に続いて、エカテリンブルクでは、一連の『飛び入り集会(летучка)』が行われた。
そうした『飛び入り集会』のあと、工場から帰ってきた父は、長いこと、腹の底から何かに笑いこけ、ずっとこう言っていた。「ああ、見事だ」。私は黙ってそれを見ながら、何が『見事』なのか、父が自分から話し出すのを待っていた。だが父は、まず誰かの巧みさを、一人でじっくり味わうことにしたようで、頑として黙ったまま、ただ一つの言葉『見事だ』を繰り返した。
「いったい何なんだ? 話してくれよ」と、私はこらえきれずに言った……
「いいか、俺たちが工場を出たとたん、そこに『政治屋』がいたんだ。それで話し始めた。長いこと話した。そいつが話し終わったとたん、突然、パトロール隊が駆けてくる。となりゃ、みんな行進して家に帰るさ。ほれ、捕まえてみろ。見事なもんだ、あいつは。ハハハ。事務所から電話で通報したんだろうが、まあ、うまいこと連中を出し抜いたもんだ。影も形もなくなっちまった」。
1月9日
数日のあいだ、私たちの家では、ペテルブルクでの1月9日の銃撃が話題になっていた。
「労働者たちがペテルブルクに、ツァーリにパンを願いに行ったんだ。ご肖像や聖像、聖旗を持って、司祭も連れてな」と、父は話した。「ところが、そのツァーリが、やつらに小銃をぶっ放したんだ。ずいぶん殺されて、けが人も出た。新聞にはそのことは何も書いてない、まるで何もなかったみたいにな。まったく馬鹿な連中だ、なんで行ったんだ。ツァーリが何をくれるってんだ。決まってる、何もくれやしない。それでパンをもらったってわけだ」。
母は、この話のあいだじゅう、ああ、ああ、と嘆いていた。
「せめて子供たちのことは、子供たちのことは哀れんでくれてもいいのに、それなのにあの子たちまで」
「馬鹿だな、弾が選り好みするか——子供だろうが、子供でなかろうが。みんな同じに撃たれるんだ」と、父は反論した。
「馬鹿、馬鹿って、じゃあ、あんたは馬鹿じゃないの? あんたの子が撃たれたらどうするの」
「なら、うろつかなきゃいいんだ。連中は誰でも撃つんだから……」
「でも、言ってたじゃない、ツァーリは民の味方だって。大臣たちが騙してるんだって」——母はツァーリをかばおうとした。
「どっちもどっちだ。同じ畑の実だ。まあ、俺の考えじゃ、労働者ももう頼みには行かんだろう。ほら、学んだんだ。俺はいつも言ってた、ツァーリは誰よりも先に騙すって。その通りになった。『政治屋』ってのは、こういうことを知ってる——あいつらは何でも知ってる。ツァーリを信じるなと言ってたんだから、あいつらの言うことを聞くべきだったんだ」
「あんたもそのうち、息子と一緒に政治屋になるわよ」
「なってやるさ。それに、お前は女で、何もわかってないし知らんのだから、黙ってろ」
「そのかわり、あんたはいつも何でも知ってるのね。物知りは野原を駆けずり回り、物知らずはペチカの上で寝てるっていうけど」
「なら、寝かせておけ」
「あんただって、工場から工場へと追い回されて、いつ家族のことを考えたのよ……」
「追い回させとけ、俺は頭は下げんし、ツァーリに頼みにも行かん」
「なら頼まなきゃいいじゃない。子供たちと一緒に飢え死によ。あんたは子だくさんなんだから」
「育つさ、死にやしない。工場に働きに出る。一人はもう自分の足で立って、働いてるじゃないか」
話は、私のことだった。少し前に私は、地方裁判所の公証人文書庫に、筆耕として月給14ルーブルで勤め始めていた。
1月9日の銃撃について、数日のあいだ、工場じゅうで話が続いた……
その先、5月の出来事までは、私の記憶には何も残っていない。ただ、この時期に、第2ボゴヤヴレンスカヤ通りの公証人バトマノフの住居で、組織された集会が開かれたようだ、ということだけを覚えている。
1905年5月1日のエカテリンブルク
5月1日を前に、エカテリンブルクじゅうがビラで埋め尽くされた。私はもちろん、この仕事に最も積極的に参加した。5月1日の前日、仕事が終わるとすぐ、私たちはビラを持ち、何も食べずに、女子修道院の裏の森へ向かった。私とラヴィンスキーは、ほかの者たちよりずっと早くそこに着き、みんなが集まってくるまで長いこと待たなければならなかった。そこへは責任ある組織者たち、『イワン』(ブシェン)、『ルカー』(チェレパノフ)、『緑』、そのほか名前も党名も忘れた何人かが来ることになっていた。ある同志を『緑』と呼んでいたのは、彼が髪を染めていて、横から見ると緑がかって光ったからだ。この事情は、彼を陽気にからかう種になった。全員が集まると、私たちは森の奥へ入った。途中、私は突然めまいがして倒れ、数分間意識を失った。目を開けると、『イワン』が私の世話をしていた。何があったのかを尋ね、この日の朝から何も食べていなかったので、おそらく単に空腹のせいだろうと判断して、『イワン』は家に帰るよう勧めた。だが私はきっぱり断り、先に行った仲間を追いかけた。追いついて、エカテリンブルクを地区に分ける作業に取りかかった。私には市の北部地区が、ラヴィンスキーにはヴェルフ・イセツキー工場のいくつかの通りが割り当てられた。ビラまきを終えたのは、午前3〜4時になってからだった。それまではいつもラヴィンスキーと同じ地区でビラをまいていたのに、彼と離れ離れになったので、私は自分の『仕事』のあいだ、あらゆる種類の恐怖を味わい、ちょっとした物音にも耳を澄ませた。周囲に誰もいないのを確かめると、私はベルトの下からビラを引き出し、家の門の下から中庭へ押し込んだり、都合のよいほうに従って、塀越しに投げ込んだりした。5月1日の祝日そのものは、エカテリンブルク第一駅の左手、線路の向こうの、どこかの小さな川のそばで迎えた。このときは少人数で祝った。そこにいたのは、覚えている限り、『イワン』、クラウディア・ノヴゴロドツェワ、セルゲイ・チェレパノフ、ミハイル・ゲルツマン*、『オシープ』(姓は忘れた——クレンシコフ書店の者**)、私、あと3、4人だった。
*原注 ゲルツマン、マヴシャ(ミハイル)・アーロノヴィチ。РСДРPの活動的な活動家。1906年4月25日に逮捕され、エカテリンブルクの自宅の捜索で発見された戦闘用武器の取得・保持のかどで取り調べを受けた。1908年10月6日、カザン裁判所の判決により禁固1年、さらに内務大臣の決定によりアルハンゲリスク県に3年間追放された。近年はエカテリンブルク、チェリャビンスク、ヴャトカ県で働いた。
**原注 ギレフ、イオシフ・グリゴリエヴィチ(『オシープ』)。1905〜06年にクレンシコフの書店で店員として勤め、エカテリンブルクの社会民主党組織で活動した。1907年、エカテリンブルクの社会民主党組織の代表としてロンドン大会に選出された。1907年9月10日にエカテリンブルクで逮捕・投獄され、1908年に行政処分によりヴォログダ県に2年間追放された。1911年、РСДРПエカテリンブルク組織の事件(セルゲイおよびマリヤ・チェレパノフの事件)で再び逮捕された。
デモ
私たちの組織は、宣伝の目的で、あるゼムストヴォの会議を利用することに決めた。そのため、私たちは一人ずつ、郡ゼムストヴォの会議場に集まった。総勢は30人ほどだった。会議が始まると、私たちの同志の誰かが発言を求めた。議長は拒否し、会議の進行を邪魔しないよう求めた。私たちは食い下がり、騒ぎを起こした。私たちを抑えきれず、議長は会議を閉会した。すると、組織のメンバーの一人が鮮烈な革命的演説を行い、『専制打倒! 武装蜂起万歳!』の叫びで締めくくった……
演説のあと、私たちは、ゼムストヴォの議員たちが警察を呼ぶ前に、ゼムストヴォ参事会の会議場から姿を消した。警察が到着したとき、会場に私たちの仲間は一人もいなかった……
1905年夏のエカテリンブルクにとって最大級の出来事の一つは、市内のほぼすべての企業の労働者が参加したデモだった。
警察の役人たちが立ち会っていたにもかかわらず、デモはきわめて穏やかに終わった。まず私たちは、ズラトウスト通りのパンフィロフ工場のそばに集まり、そこから市の中心部へ向かった。ポクロフスキー大通りを通り、そこからウクトゥススカヤ通りに曲がって、第1警察分署のそばを進んだ。警察署に着く手前で、私たちは小さな赤旗を掲げた。このはためく旗の下で、誰かが歌い出した。
故郷で多くの歌を聞いた
喜びではなく、悲しみを歌っていた
だが、そのうち一つが心に刻まれた
それは労働者アルテリの歌……
すると、デモの残りの大群衆が、数十の声でそれに続いた。
よいしょ、ドゥビヌシカ、それ、えいやっ
よいしょ、緑の棒よ、ひとりでに行くぞ
引け、引け、そら、えいやっ
警察分署を通り過ぎ、大通りを右に折れると、組織のメンバーである私たちは、デモの中央でより密に固まって、歌い出した。
古い世界を捨て去ろう
その塵を我らの足から振り払おう
我らに黄金の偶像はいらない
憎らしいのは、ツァーリの宮殿……
大通りから、私たちはセンナヤ広場を通って、マカロフ工場へ、労働者を仕事から引き上げさせに向かった……
私たちの後ろと通りの両脇を、警察官たちが、警察署長その人を先頭に進んでいた。
警察の当惑はあまりに大きく、私たちをどうしたらよいか、全然わからなかった。デモ隊がセンナヤ広場に出たとき、警察署長は突然、私たちに懇願することにした。
「諸君、解散してくれ、頼むから、お願いだ。私は今朝から何も食べていないんだ」
「構わんさ、閣下、俺たちだって毎日食べてるわけじゃない」と、群衆の中から声が上がった。「こっちは閣下を引き止めちゃいない。家にお帰りなさい、あんたがいなくても道は見つかるさ……」——労働者たちは、『閣下』の懇願にこう叫び返し、言葉に息の合った笑いを添えた。
警察署長はもう一度、何か言おうとしたが、威勢のいい、からかうような歌声が、彼の声をかき消した。
みんなで、同志よ、足並みそろえて
闘いの中で意気を強くし
自由の王国への道を
この胸で切り開こう
マカロフ工場の労働者たちは、引き上げた。彼らは、デモ隊を、とうに待っていたのだ。デモは市内へ引き返し、警察の当惑した状態のまま、すべて終わった……
1905年のサークル活動
1905年の夏、私たちのもとでは再びサークル学習が行われた。とくに記憶に残っているのは、セルゲイ・エゴルイチ・チュツカエフとの学習だ。彼とは革命運動史を一通り学び、政治経済学を始めた。その後は、『ピョートル・ヤコヴレヴィチ』が私たちを指導した。彼を通じて、私たちは、マカロフ地区向けの文献やビラも受け取っていた。あるとき、修道院墓地で彼からビラを受け取るために、一緒に歩いていたのを覚えている。アレクサンドロフスキー大通りを歩いていると、突然、彼が立ち止まり、腹をつかんで、悲痛な声で言った。「出てくる」「出てくる」。私たちは最初、意味がわからず、彼を見ながら思った。——何が出てくるんだ?
そして——突然、二人で吹き出した。
彼のほうは、腹とズボンを押さえたまま、すっかり途方に暮れて私たちを見ていた。
「まあいい、そっと行こう」と彼は言い、私たちは先へ進んだ。彼が修道院墓地に着くやいなや、ズボンを留めていたベルト——その裏にビラの束が入っていた——が緩み、ビラがズボンの中へずり落ち始めた。墓地までは、片手で文献を押さえ、もう一方の手でズボンを支えながら行かざるをえなかった。その姿を見て、私たちは笑いをこらえるのに苦労した。
もしそのとき、どこかの熟練のスパイに出くわしていたら、間違いなく逮捕されていただろう。だが、幸い、すべては無事に済んだ。
感じのいい人だった、このピョートル・ヤコヴレヴィチは。ラヴィンスキーと私は、彼を心から好きになった。彼はなぜか誰にでも好かれた。公正で、穏やかな人だった。のちに、1906年に、私たちはエカテリンブルクの監獄でピョートル・ヤコヴレヴィチに再会した。彼は移送囚として、シベリアのどこかの県——たしかトボリスク県——へ送られるところだった。
1905年の夏、私たちはクラウディア・ノヴゴロドツェワの友人『マリヤ』と、その後、マリヤ・オスカロヴナ・アヴェイデ(コルチャーク時代にエカテリンブルクで銃殺された)と学習し、その後、『上級型』のサークルに移った。そこには、セルゲイとアレクサンドルのチェレパノフ、ワシーリー・ボロズディン、それにたしか、ほかにも誰かがいた。
ここでの学習は討論形式で行われた。討論には『イワン』(ブシェン)、ミハイル・ヴィロノフらが参加した。私たちの集まりは、ドクトル・ドブロホトフの家か、発電所(セルゲイ・チェレパノフの住居)で、そして、たしか1、2回は公証人バトマノフの家で開かれた。私たちに部屋を提供してくれたドブロホトフ、バトマノフ、その他何人かは、当時、エス・エルとエス・デーを庇護していた自由主義者だった。
同じころ、私たちの組織は、エス・エルとの合同集会もたびたび開いた。当時のエカテリンブルクのエス・エルの指導者は、ストリジェフ(『ジョルジュ』)、ミハイル・ポリャコフ(現在は共産党員)、それにたしかヴェセロフだった。当時、エカテリンブルクのエス・エルは、労働者大衆の間ではあまり影響力がなかった。労働者の一部だけが、ヴェルフ・イセツキー工場で彼らについていた。私たちは、エス・エルを、おもにインテリゲンツィアが入る党だと考えていた。8月には、ドゥーマの話が出始めた。ブルイギン・ドゥーマは、何かくだらない、無用なものとして見られていたが、同時に、このドゥーマは、専制が『折れつつある』ことを意味していた。集会はまだ秘密の性格を帯びていたが、私たちはそこで、もう以前より自由に感じていた。これらの集会は、グルホフスカヤ河岸通りの技術者協会の建物で開かれた。そのころには、ストライキの波がすでにロシア全土を覆い、労働者たちは公然と、近づく闘いについて語り始めていた。私たちは来たるべき戦いに備え始めた。戦闘団を作る必要が語られ始めた。多くの党員が、拳銃や短剣を持つようになった。私も、大きな短剣と、ルフォーシェ式の拳銃を手に入れた。
1905年10月の日々
ついに十月の日々がやってきた。当時、私は、エカテリンブルク地方裁判所の首席公証人のもとで勤めていた。10月18日の夕方、役人たちは何かにひどく動揺していて、そのうちの一人が私のところに来て言った。
「何か聞いてないか?」
「いいえ」と私は答えた。
「何かの詔書が出たらしい……」
19日の朝、街はいつもと違うにぎわいだった。11時ごろ、私が裁判所の当直室にいると、役人の一人が駆け込んできて叫んだ。
「電報が来たぞ……」
声に出して読み始めた。読み終わらないうちに、誰かが廊下から知らせた。
「通りでデモをやってるぞ」
私は事務室のことも忘れて、通りに飛び出した。私一人ではなく、おそらく役人の優に半分は逃げ出したのだろう。
私たちも聖堂広場に走った。
ウクトゥススカヤ通りを、赤旗をなびかせた群衆が進んでいた。大聖堂に近づいた。そこには一瞬で巨大な群衆ができ、集会が始まった。演説者のために、どこからか木箱が持ち出された。誰かがその箱の上に立った。彼がほんの数語話したところで、何やら騒ぎが起き、『倒せ、殴れ』という叫びが上がったのを、はっきり覚えている。群衆は四方へ散った。何が起きたのか理解する間もなく、私の頭上に巨大な手が上がるのが見えた。手はゴム製の警棒を握っている。目のほとんど真ん前に、大きな赤いあごひげが現れた。赤ら顔が燃えるようだった。どうしてそうなったのかは覚えていないが、私は一瞬で『ルフォーシェ』を引き抜き、引き金を引いた……『赤ひげ』はどこか下のほうへ潜り込み、ジラルドフ商店のほうへ走っていく……ところが、私のみじめな『ルフォーシェ』は、結局、発射しなかった。しかしそのとき、私のまわりでは、何発かの銃声が響いた。
左を見ると、толчок(市場)のほうから、警官たちが鎖のように並んで広場に向かってくるのが見えた。広場の人はもうめっきり少なくなっていた。私はボゴヤヴレンスカヤ通りへ向けて走り出した。後ろから誰かが走ってくるのが聞こえる。私は振り返らずに、足を速めた。
ボゴヤヴレンスカヤからロマエフスカヤ通りに飛び込み、背後の足音が聞こえなくなってようやく立ち止まった。
あたりを見回した。通りをコサックが馬で進んでくる。私はのんきに散歩している人のふりをして、ティモフェエフスカヤ河岸通りに出て、そこから堤防を渡って、再び裁判所に戻った。そこではすでに、広場で美術学校の生徒イワノフと『ウラル生活』の寄稿者サヴェリエフが殺され、ほかにも何人かが負傷し、多くの者が殴られた、などの話が出回っていた。しかも話の中では、警察は組織的に動いた、この殴り込みは故意に仕組まれたものだ、挑発なしには済まなかった、といったことも指摘されていた。
3時に、私は家に向かった。通りには人があふれていたが、通行人はみな、壁際や家々の門に身を寄せていた。通りの真ん中を、コサックが何人かずつの隊で馬を進めていた。
大通りをソルダツカヤ通りまで歩くと、人通りの少ない、それゆえ落ち着いた場所に出た。ここでは、コサックに出くわすことはもうまれで、それも二人組か、あるいは一人きりだった。
家では、父も母も仕事に出ていなかった。母はすぐに声を上げて私を迎えた。「ああ、神様のおかげ、生きてた。もうお願いだから家にいて、どこも覗かないで」。
父も母に同調した。
「ああ、何日かはおとなしくしているほうがいい。見ろ、罠を仕掛けやがった。俺もな、危うく逃げおおせたんだ。最初は教会の柵の中に駆け込んだ。見てると、発砲が始まった。俺は何も持ってないから、柵の陰から出て、コロプコフスカヤ通りをシモノフスキー橋まで駆け抜けて、そこからぐるっと回って家に帰ってきた。おまえはどこにいた?」
私は話した。
「ほれ見ろ。射手め。あの拳銃はやめとけ。撃てもしないのに、あんなのを持ってたら捕まるぞ」
「いや、直すよ」
「直す、って。見たろう、何をやらかしてるか。政治屋をみんな一網打尽にする気だ。そら、これが自由ってやつだ……」
まもなく、実際に何人かが逮捕された……
戦闘団にて
エカテリンブルクの党組織は、黒百人組から身を守るための戦闘団を編成することを決めた。団の『司令官』には『フェディチ』が任命された。私とラヴィンスキーは、同じ十人組に入った。しかし、ラヴィンスキーは私に勝った——組織を通じて『スミス&ウェッソン』を買ったのだ。私はそのとき金がなく、自分の『ルフォーシェ』と短剣のままでいるしかなかった。
戦闘団の最初の訓練は、ヴェルフ・イセツキー工場の近くの『将軍の別荘』で行われた。しかし、戦闘力の面ではどれほど弱くても、私たちの戦闘団には、やはりいくらかの意味があった。私たちがなお開き続けた集会のあと、団員たちは、私たちの責任者である『イワン』(ブシェン)、『アンドレイ』(Я.М.スヴェルドロフ)らを、家まで送り届けた。
集会では、『イワン』と『アンドレイ』のほか、セルゲイ・エゴルイチ(チュツカエフ)も演説した。労働者大衆の間で大きな成功を収めたのは『アンドレイ』だった。カデットやエス・エルが組織した集会を潰す必要があるところには、いつも同志『アンドレイ』が向けられ、彼はいつもそれをやってのけた。
最初の十月のポグロムのあと、当初は沈んでいた気分が、また高まり始め、市民の層にまで広がった。ある集会のあと、私が帽子を持って、組織のためのカンパを集めに回り、15〜20分で100ルーブル以上を集めたのを覚えている。地方裁判所に勤めていたある娘さんは、すっかり感激して、すぐに帽子に金貨で5ルーブルを入れてくれた。
(以下、原文はここで終わり。原注のとおり、回想は1905年で途切れています。)