(1906〜1907年のロシア社会民主労働党秘密印刷所での仕事)
鉛の塵がわれらの息を毒し、 健やかな頬の色を奪い去ろうとも、 われらの生が尽きせぬ苦しみとなり、 若き日々が燃え上がることなく燃え尽きようとも、 われらは活字ケースの前の持ち場を離れず、 落ち着きて未来を見つめよう! 鉛の文字を、すばやい手で、 力強い言葉へと組み上げよう。
「植字工の讃歌」
1905年の12月蜂起ののち、一時的に勝利を収めた専制は、労働者階級とそのイデオローグたちに対する弾圧、そして反政府的な傾向の新聞雑誌に対する弾圧を強めた。
1906年、党の活動家に対する捜索と逮捕が強まり、また合法的に出ていた社会主義の雑誌や新聞が発行禁止されたために、革命勢力は地下に潜らざるをえなくなった。もちろん当然のことながら、党の社会主義的印刷物もまた地下に移った。
そのころ、1906年の終わりに、非合法に活動していたロシア社会民主労働党モスクワ委員会は、モスクワ県の工業地帯、そして一部はモスクワ市内での革命宣伝を強めるために、地区の地下テフニカ、つまり秘密印刷所を組織した。
残る問題は、実際に働く技術要員だけだった。当時(ガーゼトヌイ横町の)「トルード」印刷所で働いていた私に、党員としてこの非合法テフニカで働かないかという話が来て、私は迷わず喜んで引き受けた。かつてその参加者だった私のなかでは、1905年の12月のできごとの燃え尽きようとする炎の照り返しがまだゆらめいていて、それをもっと大きな規模でふたたび迎えることを粘り強く望んでいたので、おおぜいの思想上の同志たちとともに、反動の灰の下でくすぶる革命の火を「あおり立てる」ために、喜んでテフニカへ行ったのである。
秋の雨の夜の闇のなか、私は同志(委員会とテフニカの連絡役をしていたイワン・エフィーモヴィチ・プラストゥノフ)とともに、クラスヌイエ・ヴォローチャの向こうの地区の、広くて人けのない中庭の奥に立つ小さな木造の離れに近づいた。
合図のノックで入口の戸が開いた。私は最後に一度外の空気を吸い、一瞬あたりを見回し、耳に届く大都会の外の暮らしの最後の音を全身で吸いこんで、住まいの敷居をまたいだ。私はモグラのように、まったく孤立して、何週間も外の空気に触れずに暮らし働くことになっていた。小さな住まいに若者が大勢集まって屋敷番や保安部の注意を引かないよう、必要な用心のために、私は警察に住民登録をせず、まったく秘密裏に暮らさなければならなかったのである。
私にとって、暮らしのすべての糸は、秘密保持のために窓いっぱいのモスリンのカーテン二枚で覆われた、一つの小部屋に集まっていた。印刷機の立てる音が他人に聞こえないように、窓の通風口は開けられず、そのため小部屋の空気には鉛の塵や、そのほか印刷所特有のつんとする強い臭いがしみこんでいた。そんな空気のなかで、私たちは四人、男三人と女一人で暮らしていた。仲間のうち二人は夫婦ということで、三人目は間借り人として住民登録していた。彼らはテフニカの用事でほとんど毎日町に出て、白紙やインクなどを運び込み、刷り上がった文献を運び出さなければならなかった。彼らは、とある鉱物油組合の代理人ということで登録されていた。
たえず逮捕の危険にさらされながらも、結果(監獄、懲役など)のことはなぜか考えず、あらゆる思いは、できるかぎり多くの印刷物を出すことに向けられていた。檄文、ビラ、そして何より新聞『ボリバ(闘争)』である。この新聞は1905年に出ていた合法の社会民主主義新聞と同じ名前で、したがって、時代の不順によって地下に追いやられた、いわばその後継紙であった。新聞は、すでに述べたように、ほとんどもっぱら周辺地域に配られた(モスクワでも配られた)。私自身も、週に一度(風呂に行くために)外の空気に触れるとき、社会主義的な考えを持つ印刷工・植字工の仲間たちを訪ね、私が渡すことで、彼らを通じて新聞は印刷所にも入りこんだ。
昼間は印刷をし、夕方から夜にかけては私が植字と組版をした。仲間たちは植字ができなかった。一日に私たちは、筆記用紙大、4ページの新聞『ボリバ』を最大2000部刷った。ビラや檄文も刷ったが、その題名は、昔のことなので思い出せない。
仕事に必要な活字その他の印刷資材は十分にあったし、そのうえ私は町へ出たときに、植字工仲間を通じてそれをふんだんに手に入れた。
木製の活字ケースのいくつかは、蝶番いで二つ折りにでき、上から蓋が閉まるようにつくられていたので、活字が一つの仕切りから別の仕切りへこぼれることはなかった。ケースはカバーに入れると小さな箱に見えたので、疑いを招かずにたやすく持ち運べた。
印刷機は独特のものだった。簡素だががっしりした普通のテーブルに、鉄のレールが2本ねじで取りつけられていた。テーブルとレールのあいだには、音を和らげるためにフェルトが敷いてあった。レールの上には四角い樫材の台車、つまり、活字の高さより少し低い木の小さな縁をつけた板が載っていた。台車のなかには組版が締められた。台車には蓋がかぶさり、その上面は帆布だった。蓋のくぼみに、印刷用の白紙を一度に1ダースずつ入れた。テーブルの中央には、鉄の支柱に、フェルトを巻いた鉄のローラーが取りつけられていた。この鉄の支柱にある小さなねじで、ローラーの下を通る台車へのローラーの押しを加減した。刷り上がりはとても鮮明で、合法の印刷所の仕事に少しも引けをとらなかった。
印刷のやり方は次のとおりである。すでに述べたように組版の入った木の台車がレールの上に載っているテーブルの両端に、二人の同志が立つ。台車の両側には鉄の取っ手があった。三人目の同志がインクローラーで組版にインクを塗る(インクローラーは印刷用のローラー素材でつくられていた)。インクは厚いボヘミア・ガラスの上で練られた。それから、紙の入った台車の蓋を閉じ、台車をレールの上でローラーの下へ、あちらへこちらへと引いて通す。台車をローラーの下に一度通すごとに、一枚の刷りが得られた。
時間も休息もかまわず、たゆみない労働のうちに日々が過ぎていった。外から、向こう側の外の世界から受ける印象はわずかだった。だが、この籠もりのモグラのような暮らしは私には苦にならなかった。テフニカのある、鉛の塵と印刷所の臭いがしみこんだ小部屋が、私の思いと関心のすべてを吸いこんでいた。社会主義という大きな機械の小さなねじである私は、生きた、自由な、真実の言葉を組んでは刷りながら、自分の仕事を果たしていて、とても気分がよかった。
1907年の初め、いくつかの兆候から、仕事仲間たちは屋敷番の住まいを怪しげに見張る動きに気づきはじめ、摘発を避けるために住まいを変えることに決まった。
新たに私たちは、スハレフ塔の近く、第1メシチャンスカヤ通りの、建ったばかりの大きな石造りの家の地下階に落ち着いた。秘密保持の点では、テフニカにこれ以上の場所は望めなかった。どっしりした石の壁、どっしりした天井で、昼夜いつでも、聞きつけられる心配なしに刷ることができた。好奇の目からは、家の前の植え込みの小庭を囲む鉄柵が私たちを守ってくれた。テフニカの窓にはまたカーテンが掛けられた。
要員の顔ぶれはいくらか変わった。家主の役は、白髪の、まだかなり元気で革命的な考えの老婆が引き受けた(姓はたしかセレブリャコワ)。テフニカの仲間の姓は、カール・ヴンシュ、ワシーリー・マクシキン、コンスタンチン・フィラートフ、それにユダヤ人の女性(姓は忘れた。私が去る少し前にテフニカに来た)、そして私である。
私は以前と同じく警察に住民登録をせず、したがってまたもや透明人間の役回りを引き受け、外の空気にはめったに顔を出さなかった。
こうして、すでに述べたように、秘密保持の点では住まいは申し分なかったが、衛生の点ではひどいものだった。石の壁はいつも湿気でじめじめし、水滴が床へと流れ落ちていた。部屋の換気はできず、そのため住まいにはいつもかび臭い、むっとする空気と、湿気から立ちのぼる甘ったるい蒸気がこもっていた。これらすべてが、日ごとに少しずつ体に影響していった。絶え間のない労働、つまり原稿の植字、組版、新聞の印刷などと、鉛の塵のしみこんだ湿ったかび臭い空気のなかでの絶え間ない滞在、これらすべてが重なって、ついに私の若く丈夫な体を蝕んだ。夏の初めには、私は紙のように青白くなっていた。かびと湿気が「健やかな頬の色を吸い取った」のである。ただ夕方、日の暮れごろにだけ、「しくじらない」ようにしながら、開けた通風口に口を寄せて、外の空気をむさぼるように吸った。夕方になるとランプがともされ、テフニカの窓は厚い毛布でぴったりと覆われ、私たちはまた印刷にとりかかるか、私が社会民主主義の文筆家たちの次の原稿の植字にとりかかるのだった。
不健康な労働条件は、5月には私の健康をすっかり損なってしまった。通りへ出ると風が吹いただけでよろめき、力は衰え、もう印刷はできず、座って原稿を組んだ。めまいがして、顔も手も透き通るようになった。これが湿った地下の部屋の影響である。
私の代わりは誰もおらず、長いあいだ後任を探した。ようやく、カルーガの植字工である同志ニコライ(のちに懲役地で亡くなった)が私と交代した。
テフニカを去ってから、私は亡くなった父の遺産を受け取り(注)、その3分の2を党の委員会に渡し、残りで、損なわれた健康を(せめていくらかでも)取り戻し、新たな力を蓄えるために、田舎の同志のもとへ行った。
(注)父は、勤めていた工場での負傷のために金を受け取っていた(機械で片腕を切断されたのである)。
1907年の終わり、私は兵役のために故郷へ帰った。数か月後にモスクワへ戻ると、私が一緒に働き連絡をとっていた社会民主党員の多くが、もうタガンカ監獄に入っていると知って悲しくなった。モスクワは社会主義組織のこのうえない壊滅を経験していた。のちに逮捕された社会民主党員の同志たちは「32人」裁判で裁かれた。そのころ、テフニカもほとんどすべての同志ともども摘発された。
その存在した全期間に、テフニカは新聞『ボリバ』を約20号(各号数千部)と、かなりの量のさまざまな社会民主主義文献、つまりビラなどを出すことができた。
自由の身で残ったロシア社会民主労働党の党員たちは、逮捕と、始まった新しい党内潮流「解党主義」との影響のもとで、地下活動から離れ、大部分は小市民の大衆のなかに溶けこんでいった。
A. ドブロホートフ
第13章 訳注
- 冒頭の「植字工の讃歌」は、本文では作者名が示されていない。定型詩の韻律は訳出せず、内容を直訳した。本文後半の「健やかな頬の色を吸い取った」はこの讃歌の一節を踏まえている。
- 『ボリバ』(Борьба)は1905年秋にモスクワで出た合法の社会民主主義日刊紙と同名。本章の『ボリバ』はその非合法の後継紙である。
- 「32人」裁判は、1908年ごろに行われたモスクワの社会民主党員に対する裁判と思われるが、本文以上の詳細は確認できなかった。
- 「解党主義」(リクビダトールストヴォ)は、反動期に非合法の党組織を解散して合法活動に限ろうとした主にメンシェヴィキ内の潮流を指す、ボリシェヴィキ側の呼び方。
- 故郷の地名、テフニカの仲間のその後は、本文からはわからない。