第12章 A. プロコーフィエフ「1905年 中央委員会の北部印刷所」

1905年1月末、ヤコフ・スヴェルドロフが私のところへ来て、中央委員会の北部印刷所で働かないかともちかけた。その印刷所のために、同志D. M. リーベルマンの印刷業営業権の証書を使って、ポレワヤ通りの印刷所主ロジデストヴェンスキーから印刷機が購入されていた。

Ya. M. スヴェルドロフは、すぐに出発するよう強く求めた。そのころいくつもの県に檄文を供給しなければならなかったからである。この点で彼を後押ししたのが、その日私のところに泊まっていたジノーヴィー・リトヴィン(「セードイ」)だった。私は行くことに同意したが、国外で出ている党の文献を読ませてほしいと頼んだ。

翌日、Ya. M. スヴェルドロフの弟のヴェニアミンが、ヤロスラヴリへ届けるための銅の印と、印刷所へのヤフカを持ってきた。私の古い旅券と給与手帳はスヴェルドロフが自分のものにした。

夕方ヤロスラヴリに着くと、私はヤフカとして指示された新聞『セーヴェルヌイ・クライ(北方の地)』の編集部秘書のところへ向かった。そこから印刷所そのものへ行くよう指示された。印刷所はヤロスラヴリ市内ではなく、ヴォルガ川の対岸のトヴェリツィにあった。ここでモルゲンの薬局が賃借され、その薬局のなかに印刷所があったのである。そこで私は、薬局の借り主としてのD. リーベルマン、前日着いたばかりのミハイル・チューチン、それにM. ペフズネルに会った。リーベルマンの話では、薬局の隣に警察の分署があるので、厳格な秘密保持が必要であり、誰かは特別な用事がないかぎりほとんど通りに出ないようにしなければならないという。

私は薬局の見習いパーヴェル・イワノフの名で住民登録され、M. チューチンは薬局の作業員として登録された。彼は毎日ヤロスラヴリの薬局へ薬品を仕入れに行かなければならなかったが、薬品はまるで資金不足でもあるかのように、いつも足りなかった。

着いた翌日にはもう働かねばならなかった。そのころ発足したシドロフスキー委員会とは何ものかを解説する檄文を、至急に4万部刷らなければならなかったのである。2日後にはビラはほぼできあがり、リーベルマンが夕方、妻と一緒に、『セーヴェルヌイ・クライ』編集部秘書オリゲルト・イワノヴィチ(注)が教えてくれた秘密の住まいへ運んだ。そこから檄文はさらに先へ送られていった。ときにはモスクワから同志コヴァルスキーがじかに受け取りに来て、檄文を詰めた大きなトランクを二つ持ち帰った。

(注)彼の姓は今もって知らない。私たちは仲間内では彼を「アルゲントゥム・ニトリクム(硝酸銀)」と呼んでいた。

働いていたのは私たち四人だった。ところがまもなく、組織についての見解の相違が私たちのあいだに現れはじめた。M. チューチンはメンシェヴィキの立場を強く擁護した。一緒に働けば働くほど、私たちのあいだの原則的な対立はますます強く、はっきりと現れ、ついには空気がすっかり険悪になって、仕事に以前の精力がなくなった……。そのうえM. ペフズネルは働くのを拒み、また警察分署が隣にあることも神経にこたえた。冬じゅう病気だった分署長のために、巡査がしょっちゅう薬を取りに来たのである。

ある夜、私たちは呼び鈴で起こされた。不意を突かれないようにと、入口の扉の上に取りつけておいた呼び鈴である。呼び鈴を聞いて私たちは飛び起き、警察が来た場合に備えた。それは実際に警察だったが、分署長に注射するモルヒネを取りに来たのだった。分署長はその夜のうちに死んだ。

これらすべてが重なって、仕事をしばらく中断せざるをえなくなった。一方では、憲兵に印刷所の足取りをつかむ機会を与えないため、他方では、仕事を続けるための新しい同志を見つけるためである。

第3回大会についての党への宣言を100〜200部刷ってから、私たちは、5月1日を過ぎて汽船が通うようになったら引き払うことに決めた。

5月1日の正午ごろ、ヤロスラヴリの人々がヴォルガ川の上でデモをするのを見ることができた。トヴェリツィの対岸から、ボートが次々と岸を離れはじめ、やがて一か所に集まると、革命歌を歌いはじめた。河川警察がデモ参加者を追いはじめたが、どうやら警察には軽い艇がなかったらしく、曳航船が追い散らそうとした。だがそれは容易ではなかった。汽船が近づくとボートは四方八方に散らばり、4、5隻ずつになって歌い続け、一隻には赤旗が掲げられていた。曳航船がどんなふうに「働いて」いるかを岸から眺めるのは面白かった。ボートの一群に近づくやいなや、ボートはたちまち四方八方に散り、1分もするとまた集まるのである。それはほとんど夕方まで続いた。ヤロスラヴリ市内でもデモがあったが、リーベルマンの話では、そこではカザークがデモ参加者を鞭で殴りつけたという。

2日ほどして私はニージニーへ発ち、まもなく私のあとからチューチンも発った。彼は5月末に私のところへ立ち寄り、その後1905年10月初めに私は監獄で彼と出会った。リーベルマンの話では、印刷所は1905年8月に摘発され、彼もそれとともに逮捕された。

A. プロコーフィエフ

第12章 訳注

  1. シドロフスキー委員会は、血の日曜日事件後の1905年1月末、ペテルブルクの労働者の不満を調査するために政府が設けた委員会(委員長N. V. シドロフスキー)。PDFのテキスト層では「Шпдловского」と読めるが、スキャンの読み取り誤りと判断して正しい表記とした。
  2. 「第3回大会についての宣言」は、1905年4〜5月にロンドンで開かれたボリシェヴィキ主導のロシア社会民主労働党第3回大会に関わる文書と思われるが、本文からは特定できない。
  3. トヴェリツィはヤロスラヴリのヴォルガ川対岸の集落。川が凍結しているあいだは汽船が通わないため、引き払いを流氷後に延ばしたと読める。
  4. メンシェヴィキとボリシェヴィキの対立が、中央委員会の印刷所の内部にまで入り込んでいた様子がわかる。

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