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中央委員会の地区印刷所を設ける必要は、運搬地区の組織のすぐあとに現れた。スモレンスクの拠点の仕事のごく初めから、われわれは印刷所という考えに行きつかなければならなかった。バクーや国外からの文献の送付がとぎれるのは、まったく当然のことだったが、それが運搬の仕組みの「遊休」を生み、その遊休を埋めようという当然の考えを呼んだ。そして他方で、地区の地元組織とたえず接していると、これも当然に、生産の点でもっと近づく必要に、つまり地区の印刷機関紙の必要と望ましさに突きあたった。
スモレンスクでは、この問題に近づいただけで、仕事の期間があまりに短かったため、実現する時間がなかった。だがサマーラでは、このスモレンスクの経験が仕事の初めから考えに入れられ、考えはもう定められた方向に展開していった。だからサマーラの地区印刷所は、考えだけにとどまらず、まったく現実に実現されたのである。
われわれはそれを、クヴャトコフスキー(原注)と一緒に1904年9月〜10月に据えた。自分たちの発意で、自分たちの責任と危険において据えたのである。もちろん、自分たちの金で、という意味ではない。われわれには金がなかったからである。だが中央委員会からも、この仕事のために1コペイカも受け取らなかったし、受け取ろうともせず、いわば「現地の資金」でやりくりした。
(原注)A. A. クヴャトコフスキー。アレクサンドル3世の治下で絞首刑にされたクヴャトコフスキーの息子。1904年、中央委員会の代理人としてサマーラでヴォルガ地区の組織にあたった。1905年初め、モスクワのレオニード・アンドレーエフの住まいで中央委員会とともに逮捕された。現在は外国貿易人民委員部のロンドン代表部で働いている。
そのころには、私はもうヴォルガ流域に、組織のあるところでは地元組織と、組織のないところではしかるべき人々と、しっかりしたよいつながりをもっていた。われわれの「運搬・技術ビューロー」を、補助金なしに、完全に独立採算制に移すことを、中央委員会はもう制度にしていた。そして中央委員会のほうがわれわれに貸しを開くより、われわれから借りることのほうが多かった。
1904年の夏はたいへん実りが多かった。荷はほとんど毎週、悪くても2、3週間に一度届いた。地元委員会の組織の活気は確かなものだった。地区は大きく、15県近くにわたっていた。大衆のなかでの地元の仕事は広がっていた。文献の需要は大きく伸びていた。
そこからわれわれの資金があった。それでビューローがすべての諸経費とともに維持されていた。そしていくらかの残りが出て、そこから通りがかる同志たちへの支給が行われた。ときにはそれを中央委員会の金庫に渡した。だがそれは決して、委員会から文献代として受け取る資金だけではなかった。それよりはるかに多くを、共鳴するブルジョアジーやインテリの人々から、よそで集めることができたのである。
クヴャトコフスキーと私は、この「まったくの残り」を渡すのはあまり得策でないと決めた。独立採算なら独立採算らしく、始めたことを発展させよう。委員会は技術の面ではまだ弱かった。だが地元の問題はもう持ちあがっていた。9月に招集された、ヴォルガ沿岸の委員会の小さな協議会は、檄文の材料を供給できる技術だけでなく、地域のビラが望ましいことも明らかにした。そこにはサマーラ(ポゼルン、ポトツキー)、サラトフ(マイスキー)、カザン(「ミハイル」)、ウラル(「アルカージー」)、ウファ(たしかコノヴァロフ)、そのほか誰かの代表がいた。そして皆が、新聞でないにしても、定期的なビラはいずれにせよ必要だろうと考えた。
ペンザには、ゼムストヴォの第三分子からなるグループがあり、私は春から彼らと親しくなって、活発なやりとりを続けていた。そこには荷の受け取りと配分の拠点が組織されていたので、やりとりはずっと続いていた。ときにはあれこれの用のために、わずかな金を集めることもできた。
そこにはゼムストヴォの技師V. Yu. ロッセリが住んでいた。気のいい人間だったが、かなり無遠慮な政治家だった。もっとも彼はそれほど政治にかかわっていたわけではなく、ただ住まいや金や「よい言葉」で、そしていつでもどんな手助けもする用意があることで、「手伝って」いたのである。
彼と知りあったのはほとんど偶然だった。私がペンザで受け取った最初の荷は、社会民主党員で身内の人間であり、ペンザに組織がまったくなかった当時、私が知るただ一人の人だったA. I. スミルノフの住まいに運ばれた。私が仕分けにかかろうとして堂々としたかごをほどきはじめると、住まいの主はひどく落ち着かなくなった。よい同志で、まったく信頼できる人間だったが、彼はひどく神経質で、こんな危険な荷のある部屋に居合わせることさえいやがった。彼は正直にそれを打ち明け、帽子をつかんで私を一人残していった。
「いつも、今にも踏みこまれそうな気がするんです。足音、物音、拍車の鳴る音が聞こえて……耐えられない……あなたがどうして平気なのかわかりません」
「では、宣伝ならできるんですか?」
「それは別のことです」
なぜ「別のこと」なのか、彼はとうとう言わなかった。姿を消した。彼がいないまま、かなり長くかかった仕事を終えたあと、私は辻馬車を呼びに行き、住まいを鍵もかけずに出なければならなかった。そして、駅へ向かおうとかごを運び出していたときになってようやく、主が現れた。彼はもう落ち着いて、陽気にさえなっていた。
「次のときのために、いい住まいを見つけておきました。もっと便利で、怪しまれない住まいです」
それがのちのロッセリの住まいだった。そしてここでは、私は「わが家にいるように」なった。若く、陽気で、活発だが、たいへん有能で実際的なロッセリは、事を簡単明快に整えた。彼にはどこかに親友の若い教授たちがいて(彼らとはのちにキエフで知りあった)、彼は私をその一人ということにした。それで私は学者の友人として彼のところへ来て、彼のところに泊まった。彼の書斎で一緒に荷をほどき、荷造りした。そしてこの作業のあいだ、書斎に鍵をかけることは許されなかった。ひそひそ話もほのめかしも、忍び足の動きもなし。仕事はあまりに生き生きと楽しく進んだので、神経質なスミルノフさえ思わずわいてくる恐怖をなくしたほどだった。
ロッセリの妻も、いつも積極的に、心から夢中になって手伝ってくれた。ギムナジウムを出たばかりのように若く素朴な彼女は、いくらか感動的なロマンティシズムをもって仕事に向かった。そしてそれはよかった。われわれも実務のなかで、あまりだらけず、「自然さ」の程度に秘密を守るようになったからである。もっと軽はずみな主人は、よく彼女を説きつけた。
「ムーセニカ、もっと簡単に考えなきゃ。まじめすぎると、かえって何か隠しているんじゃないかと思われるよ……」
「わからないわ……軽はずみにも限度があって、それを越えると何もかもさらけ出されてしまうわ……」
のちに1906年、ペテルブルクで彼らに会った。彼らは近い親戚に会ったように喜んだ。だが状況はずいぶん変わっていた。彼はもう新しい状況に順応して、移民局からの出張でシベリアへ行くところだった。そして大旅行のための海軍用双眼鏡などといった、ありとあらゆるつまらないものを、熱心に夢中になって買いこんでいた。そして彼女のほうは、ロマンティックな色あいを失っていないペンザ時代を、悲しげに思い出していた。
2
ペンザでは、ゼムストヴォが町でいちばん大きな印刷所の一つを借り受け、その管理をロッセリに任せるという事情になった。私が彼に、印刷所から活字や材料を「拝借」したり、古い機械を買ったりできないかと持ちかけると、彼は即座にその計画をはねつけた。
「ばかげてる。はした金の結果しか出ないこまごました小細工、いつもの細かい危険、毎日泥棒のようにびくびくすることになる。かえって高くつきますよ。割にあわない」
私はうろたえた。あまりに思いがけなかったので。そして彼を安心させようとした。
「あなたにはここで何の危険もないはずです。そのために印刷所にわれわれの人間を入れて、その人はあなたが何かの形でかかわっていることさえ知らないようにします」
「いや、そういうことじゃない。それではあまりに手工業的で、けちなごまかしの臭いがする。こうしましょう。私がレーマンから新しい機械を付属品全部と一緒に取り寄せ、活字もあなたが見本から選ぶものを取り寄せて、駅から受け出さずに、あなたの言うところへ再発送しましょう」
これは思いがけずすばらしい事の運びで、私の気まずさは、彼がこうして呼び起こした大きな喜びのなかにすっかり沈んでしまった。
「でも、それは冒険の臭いがしますよ。われわれには金がそれほどないんです」
「つまらないことです。印刷所がかぶりますよ」
そして実際、見本から活字も機械も選んだ。いちばん軽い機械として、ボストン機に決めた。住まいに合わせやすいからである。そしてその日のうちにモスクワへ注文を出した。
「それでも、印刷所にあなた方の人間を寄こしてください。活字を盗むためではなく、宣伝のために。もしかしたら、あとで何かの役に立つかもしれません」
そして2週間ほどで、彼はもうサマーラの私に注文が果たされたことを知らせてきた。再発送の細部を一緒に話しあった。ペンザに駅が二つあることが、組み合わせをずっと楽にした。荷は印刷所に寄りさえしなかった。ただ一つの駅からもう一つの駅へ運ばれ、「機械部品」という「名目」で、じかにサマーラあてに出された。これは秘密活動の伝統からいくらか外れていた。だがペンザのような沼地で、こんなに重い荷をめぐって複雑な秘密の手だてをとるのは、おそらくかえって悪かったろう。危険は減るどころか、まちがいなく増えたろう。若さと見かけの軽はずみにもかかわらず、大の実務家であるロッセリは、まったく健全に考えた。
「荷造りしなおすために印刷所に運びこめば、余計な目、余計な、どんなものかわからない推測や噂が生まれる。そのためによその住まいを見つけるのは無理だ。荷は30プードもある。秘密活動とは、ばかげたところまで突きつめた用心のことです。ここではあまり正統派にならないようにしましょう」
私はそのころまでに、通りでの疑わしげな振り返り(尾行がないか)から、非合法の品をミンスクからアストラハン経由でオデッサへ送ること(足跡を消すため)まで、秘密活動のあらゆる段階をもう十分に見て、経験していた。そしてどちらも、私の見るところ、危険を増し、必要もないのに時間と力を奪うだけだった。だからロッセリが私を説得するのはまったくたやすかった。それにほかに手はなかった。そしてサマーラには「身内の」人間、運送倉庫の主任V. I. アレクサンドロフがいた。
まさに彼に荷の受取証が渡され、荷は彼の倉庫に収められた。運搬に特有のあらゆる「用心の手だて」がとられ、箱から発送地と再発送地の刻印や、通過の足跡を示すあらゆる記載が消された。
残るは人と住まいを見つけることだった。そしてここで運がよかった。思ったより早く片づいた。当時ヴォロネジで働いていたN. N. カルダシェフが、どうしても、板とローラーと古い活字からなる地元の「技術」を片づけなければならなくなった。そして彼はその人員全部を、しかもこれ以上は考えつけないほどの組み合わせで、サマーラのわれわれのところへ送ってきた。
やって来たのは、袖なし外套を着た、若く、陽気で、賢いウクライナ人で、妻と二人の子どもを連れていた。まさにうってつけの家主だった。暮らしの便利さにうるさくなく、ひどく実際的な町人気質で、事業に献身し、そのためだけに生きている。彼の本当の姓は、私の非合法の協力者の大多数と同じく、残念ながら知らない。たずねる習慣がなかったのである。旅券では、記憶ちがいでなければ、イワン・パーヴロヴィチ・コヴァレンコだった。彼は植字工も連れてきて、委員会の技術のための活字の一部と付属品まで持ってきた。それにシベリアから来た女性植字工が、もうサマーラでわれわれに引きとめられていて、設備が整うのを待っていた。
イワン・パーヴロヴィチの活字で、われわれはもうどこかの委員会に恩恵を施すことができた。そしてそれを、たしかカザンへ送った。当時そこへは「ミハイル」が送られており、アドラツキーとクレシャが働いていた。あるいはこの活字はウファに行ったかもしれない。もう覚えていない。いずれにせよ、このころわれわれは、そのどちらの町にも、さらにエカテリンブルクにも、小さな「技術」を供給した。
イワン・パーヴロヴィチは自分で住まいを探すことを引き受けた。それがいちばん都合がよかった。ボストン機を持つ権利を与えてくれる「紙袋作業所」のような事業を開こうというわれわれの案は、よく考え話しあったすえ退けられた。サマーラは大きな町だが、われわれが考えていたような種類の職人でさえ、ここには十分いた。全体の町人的な暮らしぶりと、互いの競争や足の引っぱりあいは、落ち着いた、最小の危険での仕事を約束しなかった。もっと高級な種類の事業は、われわれの資金では無理だった。それに、もっと複雑で大がかりな秘密の手だてを必要とし、それは結局、生産そのものに見あわないだろう。
それで、イワン・パーヴロヴィチの案、つまりただ住まいとして小さな一戸建てを借りる、それもみすぼらしい「表口」があればなおいい、という案に決まった。この入口は、イワン・パーヴロヴィチにとって、「新年から」雑貨の小店を開きたいという口実になる。そしてそれまでに残る2、3か月は、営業許可の手続きをしながら、同時に未来の客として近所の人たちと親しくなりながら、フル回転で働くことができる。
「とんでもない、それこそ私の天職ですよ。人と腹を割って話し、心を開いて、その人の片隅をのぞきこむ……私のどこが『怪しい』人間です……毎度ありがとうございます、お客さま、41コペイカで、おまけつき……」
妻は彼のおしゃべりにただ穏やかにほほえみ、信頼しきったように見ていた。そして、危険な事業に巻きこまれた、人づきあいのよい陽気な夫に対する、二人の子どもを連れた素朴な女性のこの信頼しきった穏やかな態度は、おそらくイワン・パーヴロヴィチ自身の論拠より説得力があった。私は彼女にたずねた。
「あなたもそう思いますか?」
彼女は笑いながら答えた。
「この人はね、ナマズみたいにするりと身をかわして、気づかせもしないんですよ。一度なんか、ちょうど机の上に全部広げたところへ、巡査が入ってきたんです。この人はまるで身内みたいに喜んで。いい人だ、友だちだ……って、巡査の外套を脱がせて、体で机を隠して。それでべらべらしゃべりまくって、そのまわりでせかせかするんです。巡査のほうはぽかんとして、わけがわからない。そのあいだに私は机に布をかけて、印刷機の上にじかにサモワールを置いたんです。この人はまだ巡査をもてなしていて、どうぞ、珍しいお客さま、お茶で温まっていってください、って」
イワン・パーヴロヴィチがこの話のあいだ、思わず顔に、あのとき巡査を迎えたときに見せた有頂天の喜びを浮かべてみせるので、われわれは笑いがこみあげてくる。
「それで、温まっていったんですか?」
「だってサモワールは冷たかったんですもの。この人は私に、おまえ、早く湯をわかしてくれ、いい人を温めてあげなきゃ、って。私は、あの人が本当に温まるつもりで座りこんでしまうかもしれない、と思って。それじゃあ大変だって。それで、懲りるようにじろりと見て、ぴしゃりと言ってやったんです。私にはやることがないとでも思ってるの、時間はずれにごちそうなんか用意していられないわ、あんたたち怠け者には居酒屋が足りないっていうの?って」
イワン・パーヴロヴィチががまんできなくなる。
「初めはわからなかったみたいで、むっとしたんです。それから言ったんですよ。よし、そういうことなら居酒屋へ行こう。おまえの言うとおりだ、かみさん。さあ行こう、友よ、あそこならお茶だけじゃなくて楽しめるからな」
こうして、イワン・パーヴロヴィチが自分で、自分の選択で住まいを探すことに決まった。だが、印刷に回す原稿について編集の権利を自分のものとはしないこと、その意味で特権はすべてわれわれにあることを、あらかじめ取り決めた。当時はこういう但し書きが必要だった。印刷所の働き手が、原稿の編集で決定権を主張し、自分たちの気分に合わないと思うと印刷を拒むことが(それもそうまれではなく)見られたのである。
3
住まいは中心からそれほど遠くない、モスカテリナヤ通りの近くの静かな横丁に見つかった。通りに面して窓が四つある木造の平屋で、表口の階段が傾いていた。町人ふうの小さな家で、なかはかなり使いやすかった。
イワン・パーヴロヴィチはすぐに手入れにかかった。斧と金槌と釘を持って歩きまわった。ここを打ちつけ、あそこのすきまをふさぎ、掛け金をつける。中庭に窓が面した奥の部屋では、とくに念入りに雨戸を調べる必要があった。そして、動いている機械の音が雨戸を通して中庭に届かないか、とくに注意深く耳を澄ます必要があった。何晩も耳を澄ませ、あれこれの工夫を凝らした。そしてとうとう、真夜中でもそこから音一つもれないようにした。夕方から窓の内側に、フェルトを張ったぴったり合う板をはめるのである。同じくぴったり合う、フェルトでくるんだ衝立で、この部屋のほかの部屋へ通じる戸もふさいだ。窓枠も「保温のため」フェルトでふさいだ。
印刷所を地下室に置くのはやめた。働き手に余計な苦労をかけるだけで、警察が来れば地下室でも助からない。念入りに手を入れた部屋なら、それに劣らず安全だった。ただ呼び鈴を直し、内と外の合図を正確に取り決めた。
われわれの住人が家に入るとすぐに、印刷所が運びこまれた。そして彼らは新しい住まいをどんなに喜んだことか! たちまち、仲のよい働き者の家族のように、家庭的にきちんと落ち着いた。
この場所を知っていたのはクヴャトコフスキーと私だけだった。ほかのすべての人には隠されていた。われわれのビューローのメンバーである、このうえなく感じがよく正直なV. P. アルツィブシェフにさえ、それが彼を傷つけているのに気づいてからも、明かさないことにした。だが、われわれの考えでは、ほかにしようがなかった。町の犬さえ彼を知っており、憲兵はメーデーのたびに彼を監獄に隔離していた。通りでは、遠くから誰の目にもとまった。大柄で、でっぷりとして、白髪まじりの長いたてがみに、マルクスの風貌(党名でもそう呼ばれていた)。われわれの考えでは、印刷所のある通りに姿を見せただけで、彼は印刷所を摘発させてしまったろう。
そしてしばらくのあいだ、彼の目を見るのも、とくに印刷所のことを彼と話すのも、まったく気まずかった。
「この縞のある悪魔どもめ。私は子どもかね……あそこへ通うとでも思うのかね?……それにそういうことなら、逆の結果になりかねないよ。だって私は今、どのあたりに顔を出さないほうがいいのか、わからないんだからね」
もちろん彼の言うとおりだった。だが、あんなにうまくできあがりつつあった事業への心配は、ワシーリー・ペトローヴィチへの信頼や心からの愛着より強かった。
「もう少し待ってください、軌道に乗るまで。これは不信ではなく、ただの用心です。知る人が少ないほど、危険も少ないんです」
だがもう一人、この宝物を教えるだけでなく、なかへ入れなければならない人がいた。そこへ紙を運び、そこから「製品」を引き取る必要があった。ときにはイワン・パーヴロヴィチ自身がそれをした。小さなそりを引いて市場へ出かけ、倉庫に寄るのである。ときには彼と印刷工と女性植字工が、散歩がてら、印刷物を上着の下に隠して特別な住まいへ運び出した。だがやはり外からの手助けと、印刷所の外でわれわれと会う決まった場所が必要だった。
そのためにうってつけだったのが、A. A. プレオブラジェンスキーの一家だった。今も、このつつましい、類まれに信念の固い人の姿が目に浮かぶ。彼はまさにその慎み深さのために、表立って活動してはいなかった。だがそのかわり、彼も、彼のてきぱきした主婦である妻マリヤ・イリイニシナも、党の実際の仕事なら何にでも身を粉にする用意があった。それでわれわれは、つまらないことで彼らを使うのを避けていた。二人とも民衆らしい風采で、習慣も同じだったので、人前でも通りでも目立たなかった。だがこういう仕事ではどれでも、彼らはかけがえのない存在だった。
彼らの住まいは中継地に変えられた。そしてマリヤ・イリイニシナは印刷所の洗濯女の役を引き受けた。そこから汚れ物の包みをそりに載せて運び、そこへきれいな洗濯物を届けた。前者の場合にはそこで印刷物を引き取り、後者の場合には紙を届けた。そしてそれから、彼らの住まいから、彼も彼女も自分で背負って運搬用の住まいへ運ぶか、誰かほかの者が持っていった。
プレオブラジェンスキー夫妻との組み合わせがどれほど便利で、彼ら自身が近所の人々のあいだでどれほど「汚れのない」評判をもっていたかは、のちにわかった。あるとき、M. I. が夕方、文献の入った袋を持ってきて、朝そこから取り出すつもりで納屋の薪の陰に隠した。朝、近所の女が彼女のところへやって来る。
「マリヤ・イリイニシナさん、たいへんなことになったんだよ……」
「どうしたの?」
「納屋へ行ったらね……見ると薪の陰に袋があるんだよ。のぞいたら何かの紙だ。私は字が読めないから、息子のミーシェンカに見せてみようと思ってね。あの子が見るなり言うんだよ。捨てなよ、母さん、早く燃やしちまいな、でないとあそこへぶちこまれて出てこられなくなるよ、って。どうしたらいいかね?」
「持っていって燃やせばいいじゃない」
「とんでもない、あんた、袋いっぱいなんだよ。うちは人がしょっちゅう出入りするし……あんたのところならどうだい?……ペチカは大きいし、子どももいないし……」
「じゃあ、持ってきなさい、燃やしてあげるから」
文献はその日のうちに片づけられた。そして近所の女はもう誰にも話さなかった。怖かったのである。そして仕事はそれからもずっと長いあいだ、同じ調子で続いた。
最初の試しの仕事は、私の「当面の情勢について」の序論と、カザン、サマーラ、ウファ、サラトフから仕事の進み具合をわざわざ知らせてきた一連の報告をのせた『ロシア社会民主労働党東部ビューロー通信』だった。たしか10〜12ページほどに組めた。500部刷った。
喜びはひとしおだった。仕上がりのきれいさは、まったく非合法の印刷所を思わせなかった。
クヴャトコフスキーは顔を輝かせた。
「バクー版と比べてどこが劣る? 彼らの紙をよこしてごらんなさい、どんなものができるか」
印刷所ではもっと大喜びだった。
「こんな印刷所なら摘発されても悔いはない。憲兵どもに、本物の印刷所で金を出してこれだけ刷れるもんならやってみろってんだ」
実際には、もちろん、これらの歓喜はみな大げさだった。新しい活字と最初の号の念入りな準備が、もちろん効いていた。きれいさ、明瞭さ、くっきりした刷りあがりが、見ばえのする印象を与えたのである。
この第1号はすぐには配布に回さず、何日か押さえておいた。そのあいだに、われわれの運搬係「チョールト」(V. I. ボゴモーロフ)に、100部か200部を持っていってペンザでまくように頼んだ。当時われわれは、それがサマーラに対する避雷針になると確信していた。今ならおそらく別のことを考え出すだろう。
「チョールト」はたちまち支度をして出発した。車中で上段の寝台に寝そべり、外套をかぶって、まくときに扱いやすいように『通信』を一部ずつ四つ折りにした。夕方にはペンザにいた。誰のところにも寄らず、誰にも会わなかった。町の主な大通りをすべて歩きまわった。通りや門の下に投げ、郵便受けや表口の戸のすきまに差しこんだ。そしてその夜のうちに急行列車でサマーラに戻った。
そしてペンザでは、あとでわかったのだが、これがたいへんな評判を呼んだ。以前はエスエルが一手に牛耳っていたインテリの夜会で、彼らに対していくらかの懐疑が示されるようになった。彼らはまだヘクトグラフからそれほど遠くへ来ていなかったのである。
地区ではこの号はすぐに配られ、それ自体にではないにしても、出版という考えそのものに大きな関心を呼んだ。
そしてそのすぐあとで、委員会から注文が来はじめた。とくにサマーラ委員会から。だがこの委員会はいちばん用心して避けなければならなかった。印刷所に地理的に近いので、印刷所の足跡をつかまれかねなかったからである。
『通信』の第2号も出た。そして出版の基本目標の実現、つまり新聞はもう近かった。
ヴォルガ流域には書き手がいた。サラトフのI. P. ゴリデンベルクとマイスキー、カザンのアドラツキー、サマーラのポトツキーとポゼルン。中央委員会と綱領について、出版の働き手と実施の技術について話をつけさえすればよかった。それに取りかかった。
思想の中心としてだけでなく組織の中心としても、新聞は大いに必要とされていた。いわゆる「宴会」キャンペーンが始まりつつあった。ピーテルではあの有名なゼムストヴォ大会が開かれた。これまで非合法の周辺にいた弁護士や文筆家たちが、今ではそれを見下すようになった。彼らからこんなお世辞を聞かされることも少なくなかった。
「手工業。政治的な広がりがない。ロシアの大地のモグラども」
大衆的な組織と、大衆が街頭に出ることの必要は、誰もが感じていた。
サマーラでの即興の夜のデモを覚えている。おそらく、この町ができて以来初めてのものだったろう。
ピーテルの大会についての報告のために、ゼムストヴォ会館で大きな自由主義者の集会が開かれた。委員会は労働者を動員した。会場には大勢の人が詰めかけた。報告のあと、桟敷から、群衆のなかから演説が行われた。たしかに、それはとくに文章としても論理の組み立てとしても優れてはいなかった。だがそれはたいして重要ではなかった。大多数の共感はそちらの側にあった。そしてこの演説のすぐあとで歌声が起こった。「古い世界と縁を切ろう」。そして労働者のグループが長い列をなして廊下を通り、通りへの出口へと向かった。聴衆はあっけにとられ、目を見開いて、会場と桟敷からのこの示威的な退場を黙って見ていた。
通りには人けがなかった。警察は準備していなかった。そしてドヴォリャンスカヤ通りを妨げられずに歌いながら行進して、デモは解散した。
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1904年12月末、中央委員会の指令で、クヴャトコフスキーと私は急にサマーラから移された。彼はモスクワへ、私はキエフへ。この配置換えのからくり(中央委員会の技術の仕組みを統合するというメンシェヴィキとの合意)がはっきりしたのは、もうあとになって、道中でだった。
急いですべての仕事とつながりを引き継ぎ、1月初めに、われわれの配属を最終的にはっきりさせるためにドゥブロヴィンスキーと会うことになっていたオリョールへ発った。
印刷所はもう全力で動いていた。ビューローとの外部の連絡も整っていた。働き手の内部の関係にも何の心配もなかった。材料や紙の搬入と出版物の搬出もすばらしくうまくいっていた。そしてその直接の技術上の監督と世話はプレオブラジェンスキーに引き継がれた。
だがわれわれはもう印刷所となじみ、働き手たちと仲よくなっていた。仕事を途中で投げ出したくはなかった。組織したときにわれわれが考えていたとおりに、それが仕上げられるという確信はなかった。とくに新聞を組織できるかどうかが心配だった。残念ながら、この心配は当たった。
1月10日の朝、タンボフに着いた。そしてここで電報からピーテルの1月9日のことを知った。もっと正確な知らせがないか知るために、タンボフに立ち寄ることにした。
その日のうちに招集されたタンボフ委員会の会合で、われわれはピーテルの事件の問題を提起した。そして、事件についての認識はまだ十分はっきりしていなかったにもかかわらず、かなりはっきりした気分が現れた。「バリケードへ!」
その会合の場で私は、この精神で「すべての市民へ」という檄文を書きあげた。ツァーリへのこの行進はデモではなく革命である、ということ、そしてそこから「街頭へ!」「バリケードへ!」という呼びかけ。檄文は承認され、すぐに委員会のメンバーの一人によって、われわれのサマーラ印刷所へ送られた。
〔写真:A. A. プレオブラジェンスキー〕
それは印刷されなかった。私の代わりにノスコフがビューローに送りこんだポルヤン(たしかそういう姓だった。ただし全ロシア中央執行委員会でコサックの代表だった人物ではない)が、メンシェヴィキどころか、もっと悪い人間だとわかったからである。彼は街頭への呼びかけを「暴発主義」だと考えた。そして檄文の代わりに、われわれの印刷所で合法新聞の電報を刷りなおした。
私がまたサマーラに来たのは、ようやく1905年10月初め、まさにストライキの直前だった。
印刷所はもう動いておらず、倉庫に置かれていた。それをめぐって、その所有権をめぐって、ボリシェヴィキとメンシェヴィキのあいだでいがみあいが続いていた。プレオブラジェンスキーは、ずっと仕事を妨げ、結局は彼に作業をやめさせることになった、こまごました、いらだたしい行き違いやあつれきを長々と話してくれた。彼は、譲歩したり角を丸めたりする気も能力もまったくない、「レーニン的な不屈さ」の誠実で頑固な支持者だった。だが人々から離れていたので、自分にとって不快な傾向が入りこむのを組織的に防ぐことはできなかった。それで、曲がった姿を見ないように、いっそ木を一度に切り倒すほうがいいと考えたのである。
印刷所の内部の生活にもっと近く、直接かかわっていた彼の妻も、この話にいくらか付け加えた。だが彼女の話は、分派とは別の分野のものだった。
われわれがサマーラを発ってまもなく、女性植字工の乳飲み子が、何か鉛中毒のようなものにかかった。印刷所のことが心配で医者を呼べなかった。子どものことが心配で、医者のところへ連れていくこともできなかった。死んでしまうかもしれない。母親は絶望していた。ほかの者たちは、もし本当に子どもが死んだらどうするかという問題を決めかねていた。どの出生簿にも記載されておらず、誰も葬ってくれないだろう。この非合法の亡骸を連れて鉄道で2、3駅行き、車両に置いてこようという案まであった。
子どもは思いがけず回復しはじめ、事はまた軌道に乗った。だがこの騒ぎともめごとは、どうしても仕事に影響した。仕事はいつも、ごくささいなことにいたるまで、あらゆる行動の明快さと正確さ、そして冷静な思考を求めていたからである。その秩序が乱されると、仕事はなめらかに、とぎれなく進むことはできなかった。
それがそもそも「地下」印刷所の宿命である。そこでの仕事は、ほかのどんな仕事よりもはかりしれないほど強い神経を求めた。そしてはかりしれないほど多くの忍耐と、自己犠牲と、絶え間ない自己観察とを。
V. ソコロフ
訳注(サマーラ印刷所)
- 本章は、東部地区の章(第8節)で「別に書いている」とされた稿にあたる。
- 「クヴャトコフスキー」の父は、1880年に処刑された人民の意志派のA. A. クヴャトコフスキー(処刑はアレクサンドル2世の治下)。原注の「アレクサンドル3世」は原文のまま。
- 「外国貿易人民委員部」は原文「Н.К.В.Т.」。
- 「ボストン機」(бостонка)は、小型の手動式卓上印刷機の通称。
- 「41コペイカで、おまけつき」(сорок одно с кисточкой)は、小商人の決まり文句をまねた冗談。
- 「ピーテルのゼムストヴォ大会」は1904年11月のゼムストヴォ代表者会議。
- 「古い世界と縁を切ろう」は「労働者のマルセイエーズ」(ラヴロフ作詞)の冒頭。
- 「チョールト」の本名は原文で「V. I. ボゴモーロフ」とされている。本書所収のボゴモーロフの回想(本タブ後半)の筆者と同一人物。
- 檄文を握りつぶした「ポルヤン」について、原文は「全ロシア中央執行委員会でコサックの代表だった人物ではない」と断っている。