1
スモレンスク・ビューローの組織と、カーメネツ=ポドリスク(国境)での摘発ののち、私はヴォルガ流域へ派遣された。
計画はこうであった。中央委員会のバクー印刷所はすでに全力で稼働しており、毎月数十プードを出すものと見込まれていた。これほど大量の荷を鉄道だけで送るのは、困難で危険だと考えられていた(実際そうだった)。そのうえ日本との戦争が、鉄道輸送に独特の色合い(部隊や軍需品の輸送)を加えていた。そのため、ふつうの貨物の流れにもいくらかの支障が生じていた。航路を利用し、水運を使う必要があった。ヴォルガは当時すばらしい幹線で、きわめて活発な貨物の動きと多くの船着き場があり、そこから鉄道がロシアの内部へと広がっていた。
サマーラでは、もうキエフへ発とうとしていたL. Ya. カルポフに会えた。彼のかわりにI. F. ドゥブロヴィンスキーが来ることになっていた。運搬係のグループからはほかにイリーナがいた。だが彼女の仕事ははかどっておらず、見通しは立てられていたものの、ゆっくりとしか進んでいなかった。私が着いてすぐ、彼女も印刷所とのつながりを密にするためにバクーへ発ち、それきりサマーラには姿を見せず、何の便りもよこさなかった。
ところが、私より前に中央委員会には、拠点を組織し荷をペンザへ向けるための住所が渡されていた。それで、私の計画とはいくらか食い違ったが、ペンザへ行って受け取りの仕組みを準備しなければならなかった。
ペンザには味方の人間がたった一人しかいなかった。地元ゼムストヴォ参事会の教育部長A. I. スミルノフである。マルクス主義者で言語学者、チーホフという筆名でマルクスの著作やマルクスについての本を何冊か訳していた。信頼できる、感じのよい人で、よい同志だったが、ひどく優柔不断で、臆病で、神経質だったので、積極的な助けをあてにするのは難しかった。のちにそれはすっかり裏づけられた。
貸間の張り紙を頼りに自分で部屋を探し、のちに仕事に使うために、自分でいくらかの知り合いをつくろうと努めなければならなかった。だが、A. I. スミルノフについてのこの評価が悪くとられることは望まない。彼が助けようとしていたことは疑いない。そして彼は心から、懸命にそうしようとした。だが生まれつきの柔和さと慎みが、彼の手を縛っていた。インテリ特有の締まりのなさと遠慮深さが、他人を使ううえでの積極性を妨げていた。彼はいつもそのことに自分でも苦しみ、ゴーリキーの描くインテリのように、知的・精神的な均衡を保つために、自分の心から「とげ」を抜こうとしてばかりいた。
「人を自分の実験の対象として見ることはできません。人間はやはり、それ自体として価値があるのです。その人にはたぶん似つかわしくない何かのために、あらかじめ考えた利用計画をもって人に近づくのは、意識してその人をおとしめることです。それは私の頭には収まりません」
「では、あなたが必要だと考えている宣伝のために手工業者のサークルを選び出すことは、あなたの頭に収まるのですか? それだって考え抜かれた利用計画でしょう。その手工業者と、住まいの点だけで利用する必要がある参事会の書記と、どこが違うのです?」
「いや、それは詭弁ですよ……」
「実生活のなかで、詭弁と健全な論理の境目を見つけてごらんなさい」
私たちは長いこと、腹を割って話しあった。そして、どうやらほとんど成果はなかった。彼の助けで結んだ三つ四つの知り合いのうち、私が使えたのは二つ、いやむしろ一つだけだった。ほかはみな、軟弱で哲学ばかりするインテリ連中で、ときに話をすることはできても、実際の行動のための積極性に欠けていた。
結局、最初のメーデーのビラの荷が届いたとき、私は自分でそれを受け取り、ほかならぬ彼の住まいへ運ばなければならなかった。彼は喜んで住まいを私に使わせてくれた。だが、私がビラを仕分けて配布先へ送るために荷造りしているあいだずっと、彼自身は姿を消していた。
メーデーは近く、現地への配達を急がなければならなかった。それで私は、用意したかごや包みをすべてサマーラへ運び、そこからすぐにヴォルガ沿いにビラを配ることにした。
メーデーのビラはバクーの印刷所から送られてきたものだった。大判の薄紙に、すばらしい活字で、出来ばえはりっぱな合法印刷所と十分張りあえるものだった。運搬係の誇りはまったく安泰だった。品物は堂々と見せられたのである。
列車はサマーラで2時間停車した。そのあいだにすべてを引き渡し、発送の打ち合わせをすますことができた。担当地区を知る必要があった。その手始めはウラルからがよかった。それがこの旅の腹づもりだった。
エカテリンブルクでは、第一印象では、事態ははかばかしくなかった。ヤフカはうまく機能していないか、古くなっているか、摘発されていた。疑わしげに迎えられた。だが、それとなく探りを入れる言葉をいくつか交わすうち、とにかく誰か実業学校生の住所を教えてくれた。そこでまた話と疑い。ようやく、そのときウラルの活動のただ一人の建設者であったN. N. バランスキー(たしか「デミード」)のところにたどり着いた。
彼は、仕事をさばききれないことで、もうすっかり神経をすり減らしていた。スパイなしでは一歩も踏み出せなかった。そしてもう門から家を出るのをやめ、塀を乗り越えて隣の通りへ出ていた。だが仕事を任せられる相手がいなかった。通りでいつ逮捕されるかわからない危険のもとで、彼はそれでも、ヤフカからサークルへ、サークルから集会へと、町の端から端まで駆けまわっていた。仕事は待ってくれず、日ごとに増えていった。バランスキーはやっと立っているありさまだったが、去ろうとはしなかった。
2
帰り道、私は状況をはっきりさせるためにサマーラに立ち寄ることにした。そこにはもうインノケンチー・ドゥブロヴィンスキーが来ており、ペンザでの経験をふまえて、そこから実際の結論を引き出す必要があった。
ペンザでできあがっていた状況のもとでは、そこに居すわっていても何の意味もないことはあまりにも明らかだった。受け取りと再発送の拠点としては残せる。だが、安定した確かな足場がないまま、そこに仕組みを築くのは得策でなかった。中央委員会のサマーラ組織ビューローから長いあいだ離れているのも、ありがたくなかった。
インノケンチーとは、秘密を守るために水の上で、サマルカ川をボートで漕ぎながら話した(原注)。私は自分の計画を説明し、彼はそれを承認した。
(原注)漕ぎ手はボートの持ち主A. A. プレオブラジェンスキーであった。
基地と仕組みはサマーラに置く。だが受け取りの拠点はその外にする。ペンザ、シンビルスク、シズラニ、サラトフ、アストラハン。これだけあれば、どの拠点にも無理をかけずに使い分けられる。
「誰が受け取るんです?」
「サマーラの仕組みです。送り状は直接そこへ届くようにします」
「受け取り地での住まいは?」
「前もって住まいを用意しておかないほうがいい。事前の準備は事を複雑にし、危険を増します。即興でやれば、委員会はいつでも道を見つけます。それにいざとなれば、ホテルも使えます」
「考えてみましょう……」
夕方、V. P. アルツィブシェフ(サマーラの「マルクス」)のところへ行った。彼もそのほうが便利だと考えた。ヴォルガは組み合わせの広い余地を開いていた。というのも、結局どの拠点も一夏のあいだに使えるのは二度、多くて三度だからである。そのそれぞれに複雑な秘密の仕組みを築くのは得策でなく、割にあわない。そのために特別な住まいを用意するのは、委員会にとってやはり難しかったろう。それに準備そのものが、長々とした交渉や物色や探りと結びついていて、摘発を招くばかりだったろう。
だがシンビルスクやペンザのように、委員会などまるで影も形もない片隅では、やはり事前の下調べが必要であった。
決定はこうだった。運搬・技術ビューローの基地をペンザからサマーラへ移す。荷の送り先としてシンビルスク、サラトフ、シズラニ、アストラハンを指定する。同志ミロンはペンザでの自分の拠点を引き払い、下ヴォルガで最も強力な組織と仕事を結びつけるためにサラトフへ向かう。
ペンザにはちょうどよいときに戻った。地元当局は、極東へ向かうイコン列車を見送る皇帝を迎える準備をしていて、通りや中庭を掃除していた。私の住まいの向かいの空き地には地元の砲兵隊が並べられ、閲兵式の準備がされていた。わずかな荷物をまとめて、「よそのお宅へ」退散しなければならなかった。
発つ前に、スミルノフは私をゼムストヴォの技師ロッセリに引き合わせてくれた。彼がのちにペンザでのわれわれの主要な足場となり、その積極的な助けによって、ここで荷の受け取りも、資金集めも、サマーラ印刷所の組織も行われたのである。
ペンザからはまっすぐサラトフへ向かった。皇帝がシズラニ=ヴャジマ線やサマーラ=ズラトウスト線をうろうろしているあいだの時間を、この旅に使うためである。
サラトフで紹介されたのはバラムジンだった。古いゼムストヴォの活動家でマルクス主義者、ボリシェヴィキと見なされていた(原注)。彼から、ここで荷を受け取るのにわざわざ準備する必要はおそらくないだろう、と聞いた。住まいも運搬手段もいつでも提供できるという。
(原注)1905年10月以後、たしかカデットになった。
「早ければ早いほどいい。文献はほとんどなく、需要は大きい。なぜうちの、サラトフに腰をすえないんです?」
賢い「老人」は、運搬の中心が地元組織の近くにあることの利点をすぐに見てとった。サラトフにとっては、そうした近さは、仕組みの世話の点でも、地元の力をすり減らす点でも、とくに困難ではなかった。インテリがたくさん住むこの町は、秘密の目的のための住まいや金に困ったことは一度もなかった。その意味ではバラムジンは正しく、運搬ビューローの基地としてはここのほうがふさわしかったろう。だがサマーラはシベリアからの亡命者の通過地点であった。旅券の仕事はまさにそこでなければならなかった。そしてそこでは、事業に働き手をそろえることも容易だった。そのうえ、そこでは地域の組織中心と直接に接していた。だから私の構想では、サマーラのほうがやはりサラトフより有利だったのである。
バラムジンには、サラトフ農業学校のシンビルスク出身の生徒たちとのつながりが残っていた。彼はそれを私に渡してくれたが、そのつながりが今使えるほど確かで役に立つものかどうかはわからない、と断った。
皇帝はまだサマーラを通過しておらず、サラトフでは私はもう何もすることがなかったので、ウラリスクへ行ってみることにした。当時は閉ざされた袋小路のような町で、秘密活動の点ではまったく手つかずだったから、われわれの網に組みこむにはかなり都合がよいと思われた。運搬の役目を果たすかたわら、そこに組織の礎を置くか、ほかの面で利用する道をつけてみることもできた。
プスコフの統計局時代からの大の友人で、生粋のウラル・コサックである医師I. N. サヴィンが、自分の町のことをいろいろとよく話してくれていた。そしてその話のなかに、仕事に必要な要素がかなりはっきりと浮かんでいた。それを組み合わせてみる必要があった。
もっとも、サヴィン医師自身はそのころアルハンゲリスクで流刑に服していたが、私の見込みでは、ウラリスクには彼の弟で学生のA. N. がいるはずで、彼もよい知り合いだった。彼を通じてつながりをつけることができた。
しかしこの旅は、町を知ったこと以外には何ももたらさなかった。学生のサヴィンはまだ戻っておらず、ほかには誰も知らなかった。サヴィンの年老いた母親は私を温かく迎えてくれた。私は流刑中の息子の話をし、彼女はいつまでもその話をしていたがった。そしてはちきれるほど食べさせてくれた。だが質問をしてくるとき、ときどき彼女の疑わしげな、よそよそしい目つきに気づいた。もっとも彼女はすぐに気を取りなおし、さっさとまた手厚いもてなしに戻るのだった。
「さあ、お食べ……あの子は今あそこでどうやって暮らしているのかねえ? きっと誰も家庭の味なんて食べさせてやらないだろうに」
ここから私は、このもてなしが私に向けられたものではなく、彼女は息子にご馳走しているという幻想を自分のためにつくり出しているのだ、と結論するほかなかった。
「それじゃ、あんたがあの子をあそこへ送ったんだね?」
私は初めわからなかった。
「私が送ったって、どういうことです?」
「だってそうじゃないか。あの子の友だちだって言うんだろう。あの子はあっちのアルハンゲリスクにいて、あんたはこうしてほっつき歩いてる」
私はうろたえた。ブリヌイがのどにつかえたほどだった。目を丸くして彼女を見た。
「おや、何か悪いことを言ったかい? 気にしないでおくれ、あの子のことではつらい思いをしてるんだよ。さあ、お食べ」
その日のうちに発ち、それきりウラリスクに行くことはなかった。ウラリスクのかわりにオレンブルクが網に加えられたが、それは国外文献のためだけだった。
こうした旅は、実務のうえで、いつも興味深く教えられることを多くもたらした。たくさんの偶然の出会いや会話や珍事があったが、今ではもうおぼろげにしか思い出せない。
戦争が不人気だったことは知られている。そしてそれは当時でさえ、まったく寄せ集めで互いに見知らぬ広い一般大衆のあいだで隠されていなかった。こんなことを覚えている。シズラニ近くの汽船で、サマーラで乗りこんだ外交販売員が船室に入ってきた。彼はちょうど船着き場に降りていて、手に通信社の電報を持っていた。質問が飛ぶ。
「何か新しいことは? どこでやられてます? どのあたりで?」
「お待ちなさい、今見てみましょう」
腰をおろし、紙にざっと目を通して、声に出して読む。
「海上は平穏。敵影見えず。味方は増えつつあり。マカロフ提督」
まわりはけげんな顔。
「ちょっと待って、どういうことです? マカロフは『ペトロパヴロフスク』で沈んだんでしょう?」
「だから、あそこから知らせてきてるんですよ」
わかった。どっと笑い声が起こる。
「こりゃいい! まさにそのとおり。敵影見えず……味方は増えつつあり……太平洋の底でね。うまい!」
そして電報への関心はそれきりなくなった。皆は外交販売員の作り話をひねくりまわし、味わいはじめた。
一般市民は専制に対しても大胆になっていた。
談話室では、音楽を囲んで汽船の選りすぐりの客が集まっていた。どこかの地方裁判所長が、たったいま知らせの届いた「皇太子アレクセイご誕生を祝して」起立しようと提案した。どこかの気むずかしい市立学校の教師が、きっぱりとそれを断った。所長は面食らって、無邪気にたずねた。
「なぜです?」
「主義として、したくありません。私はおとなですから」
そして所長とともに立ったのは、半分にも満たない人数だけだった。
3
サマーラに戻ったとき、インノケンチーはもういなかった。彼もリョーフシュカと同じく引き抜かれていったのである。アルツィブシェフと私の二人きりが残った。
V. P. アルツィブシェフはすばらしい人だった。このうえなく正直で、このうえなく善良な心の持ち主。大柄で、でっぷりとし、もう老いはじめて体が重くなっていたが、それでも革命の仕事をやめず、やめることもできなかった。勤めの時間を含めて彼のすべての時間と、つましい暮らしにどうしても必要な分を除くすべての財産が、革命のために使われた。そして彼のそばでは、青二才の若者も経験を積んだ活動家も、誰もが「くつろげた」。彼の住まいはいつも「巣窟」、あるいは「避難所」(お好きなほうで)であり、誰もがいつも、用事でも、ただ休むためにも彼のところへやって来た。かつてはクルスクの地主で、まだ「人民のなかへ」の時代に、自分の土地を農民に与え、農民の外套と靱皮靴を身につけて、宣伝のために村々をまわった。二度シベリアのツンドラに流され、二度目の流刑のときにそこで『資本論』を学びはじめた。それ以来死ぬまでそれを手放さず、監獄に入れられるたびに、また『資本論』に取りかかった。そして彼が入れられるのは、彼の住む土地で憲兵が何かを嗅ぎまわりはじめるたびだった。晩年には、メーデーの集会の前にもそのたびに入れられるようになった。
「スタッフ」探しが始まったが、当面は一人でやるほかなかった。シンビルスクとの連絡がついた。そこにいたのは、バラムジンの教えてくれた若者二人だけだった。そのうちの一人オルロフとは、1年半ほどのちにヴォルガ沿岸の党協議会で、さらに5年後にはエニセイ県の流刑地で再会した。彼はそこで結核で死んだ。もう一人の、彼の友人の名は覚えていない。
彼らは当時シンビルスクで、することもなくぶらぶらしていた。何をどうすればいいのかもわからなかった。文献も、はっきりした気分も、おそらく彼らにはなかった。シンビルスクとはそういう町で、エスエル的でもなく、社会民主党的でもなく、どっちつかずだった。ほかの何よりもゴンチャロフの『断崖』を自慢にしていた。だが若者たちは働きたがっていた。それでバラムジンからの「依頼」をひどく喜んだ。そしてのちにその依頼を果たすことになったとき、彼らはみごとにやってのけた。
サラトフあての送り状を受け取った。中央から約束されていた助手がまだ送られてこなかったので、一人で行かなければならなかった。
ヤフカでは、たしか『サラトフスキー・リストーク』紙の編集部で、ゼムストヴォ統計局のI. P. ゴリデンベルクのところへ回された。このときは彼とほとんど話をしなかった。ヴィクトル・チェルノフの甥だと名のる誰か若者のところに寝る場所をあてがわれた。受け取り用の住まいは、駆け出しの小説家である別の若者フョードロフのところだった。だがほかの点では、自分のことは自分でやるに任された。だからこのときも、自分で文献を受け取り、フョードロフのところへ運ばなければならなかった。かごが小さかったのは幸いだった。そうでなければ、二人では手に負えなかったろう。
だがここで、それぞれの町ごとに「自分の器」があるように分けなければならなかった。アストラハンへはサラトフの誰かが行き、途中でその分も届けることになっていた。サラトフは自分の分をその場で受け取った。残りはすべて、私がヴォルガを上りながら配ることになっていた。フョードロフと私は、入れ子になる小さなかごをいくつか買い、住まいには「一個口」だけ運びこんだ。
夕方、私は彼と別れ、空いた入れ物を彼に使ってもらうよう残していった。
文献は国外のもので、しかも書籍だったので、委員会の人たちは大喜びで受け取った。『ザリャー』、『トゥン』、『農村の貧民に』など。こういう「品物」なら、両手を広げて迎えられた。
大きな船着き場では、汽船は長く停まる。町で何の用でもすませて、同じ汽船でまた先へ進むことができる。一人用の船室なら、留守のあいだ何を置いておいても、まったく危険はない。
カザンでも、町まで7露里あったのに、同じ汽船に間に合った。もう覚えていないが、アドラツキーへのヤフカを直接サマーラで受けとったのか、それともカザンに特別なヤフカがあってそこでこの住所を教えられたのか。だがアドラツキーは、文献を取りに自分で汽船まで私のところへ来なければならなかった。そうしなければ、彼に届けるのが間に合わなかったからである。
ニジニでは、カナヴィノのどこかの家具つき貸間にあるM. F. ウラジーミルスキー医師の診察室に行き着いた。彼とは活字を送ることについて打ち合わせた。
同じニジニで、コストロマ時代の古い知り合い、サブナーエフ・サークルの生き残りの一人に出くわした。私の仕事の性格を知ると、彼は自分の「過去」を思い出し、何か教訓めいたことを私に教えてやれると考えた(人民の意志派らしいうぬぼれと説教口調は、彼にまだ残っていた)。
「荷物を手荷物として預けるのは、あなたでなく誰か別の人でなければいけません。その荷物の受取証もあなたが持っていてはいけない。それは別の人に託して送ればいいのです。そうすれば、憲兵があなたとのつながりをつかむことはありえません」
「でも、それではいくらかあべこべになりませんか? つまり、荷物の心配のかわりに自分の心配をすることに。そんなふうに秘密のための手だてを積み重ねるのは、秘密活動そのものの否定にならないでしょうか? それに、そうなったらあなた自身は何のために要るんです?」
彼は私のそんな軽率さに本気で傷ついた。真っ昼間に、何十人もの人の目の前で、ごくありふれた品物のようにかごや包みを渡す私のやり方は、彼には事業そのものへの冒涜に思われたのである。
「外交販売員のような雰囲気、商売人のやり口……それは革命家を、いや、それどころか革命の理念そのものをおとしめるものです」
「革命の理念をプードに換算してごらんなさい。そうすればそんなに怖くはなくなります。空を見ないで、足もとを見るんです」
「何でもおとしめ、俗っぽくすることはできますよ、あなた。だがそれは要するに言い逃れ、シニシズム、ボボルイキンの小説に出てくるマルクス主義です」
「私のほうでは、そんなふうにあなたを罵ることさえできませんね。ぴったりの小説を探すのにはあまりに時間がかかるし、それも前世紀のものになってしまいます」
ほんの数年前には、彼と私はともかくも理解しあっていた。今では心から話をつけようとしても何も出てこなかった。違う言葉で話していたのである。彼が、彼の時代に特有のロマンティシズムへとそれはじめると、私はおかしくなって、皮肉を言ったり、問題をもっと地面に引き寄せたくなったりするのをこらえきれなかった。私が、彼らの文献の生産は1年に何プードという単位だったが、われわれのは月に何十プードであり、この条件のもとでは、彼らの配布方法ではわれわれが今いるよりも何十倍もの人間が必要になるだろう、という数字を持ち出しはじめると、彼はそんな「小売り商人の勘定」に憤慨した。そしてまた堂々めぐりの話が始まるのだった。
この最初の巡回は、短い立ち寄りばかりだったにもかかわらず、すでにいくらかの成果をもたらした。少なくとも、地元組織の力と仕事の広がりは十分はっきりと見えてきた。そしてそのためには、長い話も特別な聞きこみも必要なかった。今後どれだけの文献が必要か、どういう性格のものが望まれるかをたずねるだけで十分だった。
「『ザリャー』や『トゥン』のようなのをもっと……」
それはインテリか学生サークル向けだということだった。つまり組織は生まれつつあるところで、労働者サークルはまだない。
「パンフレットを、同志、小さいパンフレットをもっと。20部、30部、50部。多すぎることはありません」
ここではもう明らかに別の状況、別の広がりがあった。
分派的な気分については、この最初の巡回ではまったく話題にならなかった。そして、どうやらそれは表に出ていないどころか、兆しさえなかった。それはおそらく理解できることだった。戦争はもう半年続いていた。向こうではわれわれはこっぴどく叩かれていた。不満はどこでも感じられた。戦前にはわれわれから離れていた「解放」派の弁護士たちでさえ、今はまた近寄ってきていた。大衆のなかでは鈍いざわめきが起きていた。
そしてどこでも宣伝と組織の仕事が活気づいていた。どこか遠くでまだ起きていることを考えている暇はなかった。すぐそばで生まれつつある要求が、ただちに答えを求めていたからである。
「文献をもっと。誰が書いたか、マルトフかレーニンかは、うちではまだ区別していません」
そして実際、われわれの手元にあるものは何でも、ほとんど奪いあうように持っていかれた。『農村の貧民に』や『何をなすべきか』には大喜びで手をこすった。国外から送られてきたときには、第52号以後の『イスクラ』も断られなかった。
だが、こういう、言ってみれば「相対的な無関心」のなかで、私の記憶には、この時期について何人かの不屈の人々も浮かんでくる。彼らは、もし事情がそれを求めたなら、どんな譲歩にも妥協にも応じなかったであろう。
それはV. P. アルツィブシェフである。古い人民の意志派で、おそらく以前からいつも勘でいちばん左のものを選んでおり、今は、人々の言うところでは、マルクスの『資本論』を「そらで」知っていて、いつもそれを研究していた。次にA. A. プレオブラジェンスキー、鉄道管理局での彼の同僚である。彼はまだ村にいたころからウラジーミル・イリイチを個人的に知っており、彼の正しさを疑うことなど考えるのも許せなかった。ときどき私には、彼がイリイチの「精神」にあまりに深く染まっているので、会話のなかにも読み物のなかにもメンシェヴィキ的な調子を鋭く聞きとるのだと思われた。アルツィブシェフとプレオブラジェンスキーはサマーラに住んでおり、たしかとても仲がよかった。さらにサラトフのM. P. ゴルベワ。アルツィブシェフが彼女への紹介状を書いてくれた。アストラハンのO. A. ヴァレンツォワ、ニジニのウラジーミルスキー、カザンのアドラツキー。もちろん、はっきりした方向をもっていたのはこれで全部ではなかったろう。だが激しい分派闘争はなかった。はっきりしたメンシェヴィキもいなかったからである。
I. P. ゴリデンベルクでさえ、当時は『イスクラ』の新しい路線にも、第2回大会の多数派にも、和解しがたい態度をとってはいなかった。のちに何度目かにサラトフへ来たとき、私が『一歩前進』を持っていくと、彼は私が彼の部屋で眠っているあいだに一晩でその本を読みとおしたが、はっきりした意見を言いかねていた。
「そう……一歩前進、二歩後退、それは正しい……それにしても……」
だが当時サラトフにいたI. M. マイスキーは、のちになったほどの筋金入りのメンシェヴィキではなく、ゴリデンベルクと肩を並べて働いていた。M. P. ゴルベワも二人とうまくやっていた。
4
サマーラでは、サラトフと同じく、委員会がこのころ仕事を広げていた。いくらかの力があり、労働者サークルには地盤があった。たしかに、サマーラの工業は、1905年以後に砲兵工場ができてからのような大工業の性格を、まだまったくもっていなかった。だがそこには大きな蒸気製粉所がいくつかあり、ほかにも工場があって、仕事の基盤をすでに探りあてることができた。
委員会では、中心人物としてポゼルンと、のちにメンシェヴィキになったポトツキーが働いていた。サマーラには大学町から追放された学生たちが現れ、彼らはいつでも何かの役目に使うことができた。ゼムストヴォ統計局もあった。外の警察とも内の警察ともうまくいかない、いわゆる「信頼のおけない」部類の活動家たちの避難所である。そしてシベリアで刑期をつとめる気のない連中が通り過ぎていった。だから、ここで仕組みをまとめあげ、さまざまなヤフカや中継の住まいを備えるのは、とくに難しくはなかった。
最初のヴォルガ旅行で、仕事は商業事業のやり方で、自前の外交販売員を通じて行うべきだということがはっきりした。ふつうの外交販売員はヴォルガをひっきりなしにうろついていた。何でも知っていて、何でもたずね、誰にでもうるさくつきまとう連中である。だから、ふつうの乗客はこの手合いとあまり話をしたがらず、自分が質問の対象になるのを恐れて、質問で煩わせることもしなかった。その点で、外交販売員がふつうより少し控えめであれば、それだけで好感を持たれ、信用された。二等の一人用船室なら、人から離れることも、荷物にあれこれ手を加えることも、まったく自由にできた。
委員会は私に「ワーニャ」(ノデリマン)を推薦してくれた。彼は地元の仕事にはまだ使いにくかった。最近監獄から出されたばかりで、まだ稼ぎ口が見つからなかったのである。彼はすぐに事の本質をつかんだ。せかせかしてはいないが、だらしなくもなく、何より実務家で、仕事を進めることができた。
秘書には、カザンから追放された医師助手の女性たちのなかからE. D. ストルーニナを見つけた。彼女はそれ以来ずっと党で働きつづけている。のちに彼女はキエフでの仕事に移され、ついでオリョールとモスクワの中央委員会中央技術ビューローに移り、そこでレスナヤ通りの中央委員会印刷所を直接管理した。
そして最後に、ノスコフがキエフから「エクステルン」(検定受験生)の「ヴィクトル」(姓は覚えていない)を送ってきた。機転がきいて器用な男で、日常の会話でも、綱領にかかわる問題でも、口ごもることがなかった。
だが彼とはまもなく別れなければならなかった。彼は地元の新聞に「地方通信員」ふうの暴露記事を書いた。それが掲載された。彼はそれが気に入って、さらに文筆の腕を振るう口実を探しはじめた。そして秘密の運搬係のかわりに、「特派員」の顔をしはじめた。彼の新聞での活動やつながりが活発になるのは、われわれにとってまったくありがたくなかった。そこへもう一つ、つまらないことが起きた。彼は生活費として渡されたなかから少額を両親に送り、その埋め合わせを私に要求した。額はたいしたことはなかった。だが彼が、今後もそうすることを認めるのはわれわれの義務だと「原則的に」問題を立てたので、もちろんわれわれはそれを断らなければならなかった。そして2か月ほどで、彼はわれわれのもとを去って帰っていった。
アンドレイ・ココソフをサマーラから手放さなければならなかったのは、たいへん残念だった。彼はこの夏、元一年志願兵として軍に召集され、シンビルスクの自分の部隊で勤務していた。夏に彼はニジニ事件で逮捕され、汽船でニジニへ送られた。連隊からニジニまで彼を護送する役目は参謀将校に任され、彼はその将校と一等船室で一緒に乗っていた。船室の戸口には見張りに憲兵が立てられていた。
朝早く、カザンで、ココソフは軍服を着て手ぬぐいを持ち、便所へ行った。そしてしばらくして、軍服をそこに残し、ルバシカ姿で出てくると、憲兵のわきを通り過ぎて船着き場へ、そして岸へと歩いていった。辻馬車……カザン……床屋……駅……そしてインザ=シズラニを経て、彼はサマーラに現れた。
私たちは彼と長いこと話した。技術の仕事には彼はきわめてうってつけだった。まして以前ニジニ・ノヴゴロドの印刷所で働いたことがあったのだからなおさらである。だが彼をシンビルスクのこんな近くに置いておくのは危なかった。いつ同僚に出くわすかわからない。それで彼をモスクワへ送らなければならなかった。
しだいに小さな仕組みがまとまっていった。地区は広がった。すべての場所との連絡ができた。しかもそれは具体的で実際的な連絡、つまりどの拠点にもわれわれの誰かがもう行ったことがあり、それも手ぶらではなかったのである。夏の後半には、われわれはもう、ヴォルガ沿いにはニジニからアストラハンまで、ヴォルガをはずれてはヴォロネジ、タンボフ、ペンザ、エカテリンブルク、チェリャビンスク、ウファ、オレンブルクへと活動を広げていた。シベリアの征服も目標にかかげ、ついでに言えば、私はアストラハンからそこへ2プードほどの荷を一つ送った。
送り状はほとんど毎週届いた。そしてわれわれの誰かが、どこへどう自分で運ぶか、どこへ再発送してよいか、あらかじめ指示を受けて出かけていった。
グループにはもう一人、キネリ農業学校の生徒を協力者として引き入れた。なぜか彼は「ツァラトゥストラ」と呼ばれていたが、それはまるで似合わなかった。
それは、いったん選んだ思想の方向が、その後の一生の課題になるような型の活動家だった。そういう人を、ほかの轍に押しこむのはもう難しい。「ツァラトゥストラ」がわれわれの仕事にとって価値があったのは、生まれも習慣もまったくの「民衆」で、したがって暮らしを知っており、物事を実際的に、冷静に見ていたからでもあった。
白紙の旅券と印章を手に入れた。彫刻師もいた。本物の旅券や印章の写しも手元にあった。
要するに、仕事はフル回転だった。ビューローは月に30〜40プードもの文献を通した。中央委員会からの手紙の一通を、ランプの上であぶってみると、そこには示された精力と仕事の成功に対するわれわれへの「感謝」が読みとれた。
それはもちろんばかげていて、いくらか役所くさかった。だが、白状しなければならないが、悪い気はしなかった。
5
違う住所あての送り状が二通同時に届いた。バクーからサラトフとアストラハンへ「カフカースのチューヴャキ(室内靴)」が送られたのである。ワーニャと打ち合わせる。私はすぐにアストラハンへ行き、3〜4日後に彼がサラトフへ発って、そこで落ちあう。
アストラハンは、ほかのいくつかの拠点と同じく、荷を受け取る可能性があることをまったく知らされていなかった。そしてそれは、われわれが経験から気づいていたように、それほど怖いことではなかった。むしろ危険は少ないくらいだった。
O. A. ヴァレンツォワは、私がこんな贈り物で喜ばせると、思わずああと声をあげた。
「いったいどうやってそんなことができるんです? うちにはまったく住まいがないのに! 知らせてくれなければ」
「知らせたら、準備を始めるでしょう。成功の保証もない交渉をあれこれして、事情を知る人の輪が広がる。それはいつも役に立つとはかぎりません。なんとか即興でやってみましょう」
「さあ、どうなることやら!」
彼女の声には、もっともないらだちさえ聞こえた。どうぞご自分で好きなように切り抜けてください、というわけだ。それでもなんとかなった。
「それはいつ要るんです?」
「今日、明日」
「まあ、なんて人たち!」
そして本当に見つけてくれた。それで、ほとんどその日のうちに荷を受け取ることができた。受取人も見つけてくれた。のちにサマーラのわれわれのグループに加わり、われわれと一緒にキエフへ、それからモスクワへ移り、そこで印刷所を管理していたが、M. ゴーリキーに気に入られて、ほかの仕事に引き抜かれていった、あの「チョールト(悪魔)」である。
みごとにうまくいった。チョールトのほかに、作業をすべて行ったその住まいの若い娘も手伝ってくれた。
半分は私と一緒にサラトフまで行くように荷造りされた。もう半分は、アストラハンでトムスクあてに出すことになっていた。
「ナジェージダ」(原注)で発送した。箱はこぢんまりとしていて、かなりぎっしり詰まっていた。そのため、その重さが怪しく見えるおそれがあった。この場合にふさわしい品名を考えなければならなかった。数日前に新聞で、トムスク工科大学のカフカース調査隊のことを読んだのを思い出した。そして「鉱物標本」と書いた。
(原注)ヴォルガの大手汽船会社の一つ。――編集部
運賃を書きこむために、係が紙を受け取った。品目表のなかを長いこと探していた。
「うちにはそういう品物はありませんね」
「でも、それはまったく品物じゃありません。学術調査隊がカフカースで集めたものです」
「それはいったい何なんです?」
「それはですね……貝殻の跡のついたいろいろな石とか、石炭とか、鉱物とか……教授や学生があそこで集めたんですよ」
「でも、どの運賃でそれを見積もればいいんです? 品目表にそういうのはありません」
「では、近いのを選んでください」
まったくおもしろくない成り行きになった。せめて彼らの品目表を知っていたら。ちくしょう、品目表なんか。名前をひねり出すなんて、まったく魔がさしたものだ。それに、確かめるために開けてみろと言われるかもしれない。
「そうだ、別の品名に書き直させてください。たとえば『教材』。大学のためのものですから」
「教材というと、教科書……本ということですね……」
「本でもかまいません。私にはどういう名目で行っても同じことです」
「でも、運賃は高くなりますよ」
「高くてもかまいません」
ようやく話がついた。計算が始まり、そろばんがはじかれた。運賃は20ルーブリ何がしかになった。たとえ50と計算されたとしても、私はこれ以上喜びも、これ以上心配もしなかったろう。大事なのは、引き渡して、送り状を受け取り、宛先へ送ることだった。
「お支払いください」
「支払う? それは受け取るときに払います」
「荷物が持参人払いで送られ、しかもそれが誰にでも要るものではないとなると……こちらはただ働きになるおそれがあります」
これは新たな打撃だった。たしかにサラトフまでの切符は用心してあらかじめ買ってあったが、彼らが求める額を払うことはできなかった。とにかく持ちあわせがなかったのである。
「要らないなんて、とんでもない。25人がほとんど一夏かけて集めたものですよ、それが要らないなんて」
「そんなことはこちらにはわかりません」
「でも、私だって頼まれて送るだけなのに、自分の金で払うことになるんですよ。旅費が足りなくなりそうで心配です」
「では、せめて半分でも払っていただけませんか?」
「それならできます。そちらも安心させ、私も足止めを食わないように」
だがサラトフまで、私の手元には全部で3ルーブリほどしか残らなかった。ヴァレンツォワのところへ借りに戻る気にはならなかったし、遠くもあった。まっすぐ汽船へ向かった。
アストラハンとツァリーツィンのあいだで、また新しい騒ぎに巻きこまれた。船室には私のほかに、三人のたいへん立派な人物が居合わせた。坊さん、郡警察署長、そしてツァリーツィンの教師である。誰かがふと思いついて、「坊さん式でプーリカを一勝負」しようと言い出した。
腕前がないとも、金がないとも、どんなに言いのがれても、聞こうともしなかった。四人目が足りなかったのである。署長に言わせれば、三人ではゲームではなく、なんだかわけのわからないものだ。
「せめて席がふさがるように、座っているだけでも」
坊さんも説きつけた。
「四人なら一人はいつもお休みの番、つまり見物していればいいんですよ。それに40分の1点なら、子どもらのひまわりの種代にもなりゃしない。それでも時間はつぶさなきゃ。主義の上で損になることなんか、何もありませんよ、本当に」
説き伏せられた。座った。
だがずっと、下手なふりを通さなければならなかった。結局、彼らが一人ずつ順番に私の札で勝負をし、私は札を持っているだけになった。困ったことに、彼ら自身にとって、私の札のほうが自分のよりおもしろいのだった。手が来なくて勝負にならない配りはまれにしかなかった。
「溺れた人みたいについてますな、失礼な言い方ですが。肌着を着て生まれたのか(幸運の星の下に生まれたのか)、悪魔のばあさんと仲よしなのか」
「席を替えましょうか?」
「配るのに邪魔にならないように、皆で移らなきゃ」
移った。札もついてきた。もう一度移った。それからまた初めのように、札で席を決めた。何をしても効き目がなかった。私の相手たちは、一人ずつ順番に、私の札で自分たちを負かして私を勝たせた。そして自分たちの負けを私のかわりに記録までしてくれた。
「プーリカ」が終わるころには、私のプラスはマイナスを何倍も上回っていた。それぞれが自分の分を払い、精算のあと、私の前には紙幣と金貨までが置かれていた。
教師は「取り返したい」気持ちがひどく強かった。
「勝負はしても、取り返そうとはしなさんな」と坊さんが冗談を言った。だがすぐに、バンクで取り返そうと言い出した。
金は机の上から片づけないでおいた。ゲームは簡単なものだったので、一度見ただけでわかった。あとは自分の勝ち分を負ければ、釣り合いが戻るはずだった。私はむだに金を賭けた。たえず見ずに賭け、親の総取りに賭けた。だが負けようとすればするほど、うまくいかなかった。山は大きくなっていった。相手たちは熱くなってきた。坊さんと教師の手が震えはじめ、賭け金を言う前に、ポケットのなかの金を頭のなかで苦しげに数えなおしている様子が見えてきた。山を全部いっぺんに賭けて負け、自分の重苦しい気分から一気に抜け出したいという強い気持ちがわいてきた。
坊さんと署長がとうとう汽船を降りなければならなくなり、ゲームは終わった。教師はすっからかんに巻きあげられていて、見るも哀れだった。打ちひしがれた様子で彼は自分の船室へ向かった。朝にはツァリーツィンで降りるはずで、もう夜が明けかけていた。
一人になった船室で、このばかげた出来事を思い返した。そして一晩でたかぶった神経が、その先の成り行きを広げていった。巻きあげられた教師は、どうやら金持ちではなさそうだから、今ごろ横になって自分の弱さを悔やんでいるだろう。一晩じゅうのことを記憶のなかでたどりなおし、自分の不幸の張本人のことで考えが止まる。その張本人が誰で、どこから来たのか、彼にはまったくわからない。汽船や鉄道では、つましいツァリーツィンの教師のように素朴で人を信じやすい人々を巻きあげるいかさま師が、ちょくちょく乗りまわっている。
そして、もう荒れた神経に支配された私の論理は、当然の結論に行きつく。教師はツァリーツィンで船着き場に降りると、その場で警察に、いかさま師に巻きあげられたと届け出る……
もう眠れない……船室にいることもできない。出口を考えなければならない。なんとかして、気の毒な教育者の心の平衡を取り戻してやらなければならない。甲板を歩きまわり、あらゆる出口を考えめぐらす。もう密告は避けられないと思われ、したがって何かするなら今しなければならない。彼の金をこっそり返しておこうか……
だがそこへ彼本人が現れた。どうやら彼も落ち着けずに、甲板に這い出してきたらしい。
ゲームでまったくむだに時間を使ってしまった、あとに残るのはいやな、重苦しい荷物だけだ、体にも心にも、という話を始める。残念ながら、勝ち分と一緒に自分の良心の呵責も投げこめるような慈善の募金箱が、そばにはない。
さらに話すうちに、彼が村のための小さな図書館をいくつか組織していることがわかり、私はその目的に勝ち分の50%を寄付する。
そのあと二人ともすぐに落ち着いた。そしてツァリーツィンに着くころには、さっきの出来事とはまったく関係のないことを、すっかり打ちとけて話していた。そして私は心のなかで、ようやく少しは服を新しくできるだろうと勘定していた。それはもうずっと前にしなければならなかったのに、いつも金が足りなかったのである。
6
ワーニャはもうサラトフにいて、地ならしをしていた。今回は「自分たちの」辻馬車屋が荷を受け取った。委員会は獣医のG. A. オボルドゥーエフを通じて彼とつながっていた。オボルドゥーエフとは、とくに中立の住まいで会った。それから運送業の主人とも直接やりとりするようになり、一緒に計画を練った。
仕分けと荷造りのために、荷を町の外の、瓜畑があって運送屋が所有地をもっているところへ運び出すことに決めた。この遠出はまったく「農作業」らしいものだったので、何の疑いも招かないはずだった。
箱を荷馬車に積み、そのまわりにシャベルや縄など瓜畑に必要な道具を並べて、2時間ほどでもう現地に着いた。
腹が減るまでは、何もかもうまくいった。そこで、食べ物をすっかりサラトフに忘れてきたことがわかった。ここではまったく手に入らなかった。スイカ、メロン、トマトなら好きなだけあった。番人から固くなったパンを一切れもらえたが、塩は彼のところにもなかった。
腹を鳴らしながら働き、空腹のかわりにスイカでのどの渇きをいやすほかなかった。それでも仕事はうまく終わり、夜にはもう町に戻って船着き場にいた。
サマーラの自分の住まいに戻ると、ドイツふうの分け目の髪にヴィルヘルムふうの口ひげをはやした、洒落た若い男が待っていた。すぐに、訪問者は国外から来たのだと見当がついた。彼が合言葉を言いはじめるやいなや、推測は当たった。
「同志ミロン?」
「その本人です」
「ロシア人とカバルダ人の戦い……」
「または、夫の棺の上で死にゆく美しいイスラム教徒の女」
「その本はどこで読みましたか?」
「花婿が好かれるところで」
「そこの暮らしはよかったですか?」
「食べ物はまあまあでしたが、寝るのは寒かった」
しまいには二人とも大笑いしていた。この不格好な合言葉はいつもそういう効き目があった。それまで見知らぬ同士だった人々を、たちまち陽気な気分にし、互いに打ちとけさせたのである。
これはいわゆる「信頼の三段階」の合言葉で、イスクラ派から出たもの、ノスコフが数えきれない宿泊用の住まいの一つで考え出し、それから広まった。A. V. ショトマンには、この合言葉にまつわる何か滑稽な事件が、これより2年前にあった。
もしかすると第四、第五の信頼の「段階」もあったのかもしれないが、私は三つしか知らなかった。今ではそれは驚くほど不格好で、ばかげた作りに思える。だが当時、われわれはそれをしかるべく真剣に、敬意をもって扱っていた。そこにこめられた「信頼の段階」は厳格に守られなければならなかった。第一連で止まった者は、自分が持ってきた質問への正確な答えしか期待できず、それ以上は決してだめだった。第二連は彼の資格をいくらか高めた。そして第三連だけが、彼に対してまったく打ちとけることを許したのである。
これはA. A. クヴャトコフスキーで、東部地区の組織者としてやって来たのだった。
彼が来て、仕事は活気づいた。彼は国外からまっすぐやって来て、生きた気分の空気をもちこんだ。それは、いつも実務に追われているわれわれがまったく切り離されていたものであり、仕事のなかでたびたび欠けていたものだった。われわれは手探りで生活のあとを追い、届いてくる切れ端で自分たちの行動や仕事の方向を修正していた。だがそれでも、純粋な実務主義に滑り落ちるのは防げなかった。環境や、当時でさえ珍しくなかった目の前の仕事の過重が、しばしば全体の見通しをさえぎり、ぼやけさせた。だから新しい人が来ると、いつもまわりにできていた日常の霞が晴れ、気分と積極性が高まったのである。
とくに運搬の仕事にとって、「アンドレイ」の到着は利点でもあった。彼は私を巡回に出られるようにしてくれ、同時に全体の組織の仕事とより緊密に結びつけてくれた。私たちはすぐに、半分言っただけで通じあうほど打ちとけた。何かの計画に取りかかるとき、それを最後まで展開し、細かく根拠づける必要はなかった。一方が核心だけを言えば、もう一方がすぐに根拠と付随する前提を補ったのである。
活動家を各地へ送り出しはじめた。エカテリンブルクへはバランスキーの交代として「アルカージー」が、カザンへは「ミハイル」が送られた。誰か、もう覚えていないが、ウファにも据えられた。仕事はどこでも活気づいており、ほとんど自然発生的に生まれてくる労働者サークルとのつながりを集めるために、一人二人ででもよいから、せめて初歩的な組織の細胞をつくることがどうしても必要だった。そしてわれわれは、その一人二人の活動家のそばに、すぐに技術、つまり「標準の」活字2プードとローラーと鏡を置くことも同じく必要だと考えていた。
こうして、印刷所をもち、何か原始的で貧弱な「生徒の」(ときには文字どおりの意味で)仕組みをもつ地元の「中心」ができていった。はたから見ると、それはときに奇妙な印象を与えたかもしれない。だが当時じかに仕事にぶつかっていた者なら、そんな貧弱な「中心」でさえ、すぐに事実上の中心、つまり労働者グループのなかにすでに現れていた傾向や、組織をつなげようとする本能的な模索を集める焦点になったことを知っている。
組織建設のこのやり方は、とくにウラルについて、当時G. V. プレハーノフによって『イスクラ』で(原注)、まるまる一篇の雑文にわたって痛烈にからかわれた。われわれにとって、この意地の悪い雑文はインテリの遅れと、具体的な状況への完全な無理解という印象を与えた。当時、下からの建設は、「上の」支点をつくることによってのみ革命的でありえたのである。
(原注)60号前後。
7
「マエストロ」(のちに「チョールト」と改名)がやって来た。アストラハンからヴァレンツォワが、今後の配置のためにわれわれのもとへ送ってきたのである。私は、彼があそこで文献を受け取るときに手伝ってくれたことで彼を知っており、彼を運搬に使うことにした。
ちょうど送り状が届いたところで、いつもと違って、われわれがずっと避けてきたサマーラあてだった。私は「チョールト」に、すぐに自分の部屋を見つけ、そのかごを自分の持ち物として自分のところで受け取るよう提案した。住まいで住民登録をするための旅券を渡し、彼はいきなりこの仕事を片づけなければならなかった。
彼の最初の試みを、もちろん前もって細かく打ち合わせてはあったが、私は遠くから、また近くから、わざわざ「問い合わせ」に立ち寄った運送事務所で見守った。彼はまったく落ち着いていて、自然だった。彼の旅券の登録がすむ前に、荷はもう仕分けられ、彼のところから別の住まいへ運び出されていた。
国外文献の送り状が、荷造りがずさんなので受け取りには用心するように、という警告つきで届いたとき、この作業は「チョールト」に任された。
「サラトフへ行かなければなりません。荷は鉄道の駅にあります。見張られているかもしれません。だから事前に調べる必要があります」
「わかりました」
彼には、鉄道員とつながりのありそうな運送屋と屠畜場の獣医への直接の連絡先を渡した。配分と配達の住所は、用心のために渡さなかった。
「向こうで荷造りしなおして、自分の住まいへ運んでください」
「承知しました」
まる一週間何の噂もなかった。彼に渡した住所にはがきを送ることは打ち合わせてあったのに。
そして10日ほどたって、ようやくはがきが届いた。「健康回復。出発する。よろしく」
サラトフで「調べ」をしてみると、荷は「ついさっき」憲兵詰所に運ばれたことがわかった。受取人を荷造り破損の調書をとるためにそちらへ回すよう、荷役組合員に言いつけてあった。さらに調べると、かごは手つかずのまま憲兵詰所付属の物置に置かれており、その物置は事務室の一角を仕切りで囲っただけのものだということがわかった。
「チョールト」はオボルドゥーエフを通じて鉄道労働者と連絡をとり、かごの奪取を組織しようとする。
夕方、憲兵詰所に当番が一人しかいないとき、すぐ近くの、貨車の列のあいだで、ピストルの発砲と助けを求める叫び声が起こる。駅は大騒ぎになり、貨車のあいだを人が走りまわり、怪しい人影の追跡が始まる。憲兵は気でも狂ったように当番室から飛び出し、走りながらサーベルを直し、ホルスターを開ける。
すると、すかさず三人の男が憲兵詰所にすべりこみ、またたく間に錠をもぎ取って、かごを引きずり出した。ほかの馬車から離れて用意しておいた自前の辻馬車が、それを準備しておいた住まいへ運び去った。そして彼が去ると、別の馬車が雇われて、新しい場所へ移した。
新しい荷造りに詰めかえるのは、もう半時間の仕事だった。そしてそれからまた三つ目の場所へ移され、そこで数日保管されてから、ようやくサラトフから運び出せるようになった。
こういう助手がいると、仕事はずっと楽になった。ワーニャもチョールトももう独力で巡回でき、各地での連絡や足場の組織と利用にも自分たちで慣れた。
「ツァラトゥストラ」はまだ若く、ときどき熱くなったので、遠くへ出すのはあまり用心深いとは言えなかったろう。それに学校にも縛られていたので、サマーラの近くでのよい頼みの綱になっていた。秘書のストルーニナも、もう独力で旅をしていた。仕事を知らずにその秘書は務まらない、というのが、息の合ったわれわれのグループ全体の考えだった。経験はどんな話よりもよく教えるのである。
最初の試みとして、彼女にカザンあての活字のかごを持たせ、道順と金を渡して、「広い世の中へ」送り出した。彼女はりっぱにやりとげた。
今や、仕事のほかの面を考える時間もできた。「予算」を組織する必要があった。委員会からの文献代の受け取りはもちろんあったが、すべての出費をまかなうほど多くはなかった。委員会自身も困っていて、かつかつの暮らしをしていた。サラトフとサマーラは別として、ほかの委員会はみな、資金を見つける手段をもっていたとはいえ、本当に貧しかった。
中央委員会からは何も受け取らなかった。逆だった。そこから人が来るたびに、われわれが彼らのために集めなければならなかった。独立採算制が徹底していた。
募金を組織する必要があった。報告つきの夜会を開いてみる。ただしサマーラではなく。アルツィブシェフがM. P. ゴルベワへの手紙を書いてくれ、私はペンザ経由でサラトフへ向かった。ペンザにはちょうどよいときに着いた。まさにエスエルの開いた有料の夜会の日だった。好奇心から残り、夕方スミルノフやロッセリと一緒に見にいった。
報告をしたのは、ピーテルから来たばかりのペンザの詩人で地主のロドゥイジェンスキーだった。たしかアンネンスキーの葬儀に参加したことを報告した。形式ばって、退屈に、陰気な顔つきと口調で話した。そしてどうやら本当に、聴衆に悲しみや哀れみとまではいかなくても、死ぬほどの退屈を味わわせた。
当時の若者には、たとえたいへん立派な人々を葬るのであっても、こういう葬式の演説は向いていなかった。
彼のあと、いくらか間があいた。発言したい者がいなかった。ロッセリが私のわき腹をつついた。
「エスエルに一泡吹かせてやりなさい……あの人たちはもう、葬式のほかには話すことがないんだ」
生まれて初めて、こんなに大きな、しかもインテリの集会で発言した。頭のなかにはロッセリがたった今耳打ちした「葬式」以外、ひと言もないまま、机の前に出た。
「立派な人々を葬るのは、いつも立派な仕事でした」と始めた。それで鞭が入ったようだった。会場は耳をそばだてた。どうやら言葉にも口調にも「論争」を聞きとったらしい。
だが私にはそれどころではなかった、論争どころでは。もし論争があったとしても、それはおそらく私の望んだことではなく、思いがけず、即興でそうなったのである。
最初の一言のあとで、もうこの高ぶった論争的な口調で話すべきではないと感じた。立派なアンネンスキーは、ここの多くの人にとって「立派な人」ではなく、イデオローグであり、象徴だったからである。そしてもう、ちらりと、ぼんやりと、すぐ近くに地元エスエルの指導者フョードロヴィチのにらむような目が見えた。それが私を落ち着かせ、すぐに筋道と口調を与えてくれた。
「人生はあまりに過酷なもので、われわれに葬式を贈らずにはおきません。そして今も、われわれのそばを列車がひっきりなしに東へ這っていきます。そこで行われている果てしない、非人間的な葬宴に材料を与えるために。
その葬宴に比べれば、今ここでわれわれに語られたヴォルコヴォ墓地への葬送の散歩など、何ほどのものでしょう……
悲しむのなら、悲しみを西ではなく東へ向けなければなりません。なぜなら、そこ、東では、戦争のなかで世界が生まれつつあり、死が、千の顔をもつ死が、生をはらんでいるからです。だが今、死について語る者は、自分でも気づかぬうちに自ら死んでいくのです。
われわれは生きた人間であり、死の上を越えてその先を見るのがわれわれにはふさわしく、そしてそれがふさわしいのはよいことなのです」
それから当面の政治、その大衆生活との矛盾、「英雄」たちがただ一人の殺害によってこの大衆生活を目覚めさせようとして逆の結果に行きつく試み、力強い階級的生活の新しい、もう大きな芽へと話を移した。
そしてちょうどそのころ真っ盛りだったバクーのストライキに話を移した。
「われわれは生きた人間であり、われわれの場所はそこにあるのです。死んだ碑文や、死んで動かない記念碑のある墓地ではなく。今、悲しみの場所はなく、悲しむ時間もありません。生きた生命が死闘のすえに太陽へと突き進んでいる。われわれはそれに背を向けるのでしょうか?!……」
どうやら目立つ印象を与えたらしい。ここではまだ社会民主党員の話を聞いたことがなかったようだ。ペンザはエスエルの領地である。そしておそらくこの事情、社会民主党員の演説の新しさが、われわれの発言の成功に何より貢献したのだろう。
ロッセリはすぐにそれを利用して、バクーの労働者のために帽子を回した。そして同時に、夜会の収益を「分ける」ための運動を始めた。
フョードロヴィチが発言したが、もう口調をつかめず、論争へそれていった。だからそれはわれわれを強めるだけで、彼自身を強めはしなかった。そして実際、ロッセリは私に、収益は分ける必要はない、全部われわれがもらえる、とささやいた。
だが、ここにぐずぐずしているのはやはり危険だった。それで、フョードロヴィチの話を聞き終えないうちに、われわれは騒ぎにまぎれて抜け出し、まっすぐ駅へ向かった。
8
サラトフでも運に恵まれ、いくらかの金を持ってサマーラに戻った。
だが余った金はいつも、それを何に使おうかという考えを生む。資本は回転を求めるからにちがいない。クヴャトコフスキーもまさにそう考えた。
「こまごましたことに消えてしまう。あるいはボリスが来て持っていく。これを資本に変えなければ。ここに印刷所を置いたらどうだろう。とくにマルクスの夜会がうまくいけば?」
「よし」
成功した発言のあとペンザを発つとき、私はロッセリと、しばらくして農業問題についての報告のための夜会を開くことを打ち合わせていた。報告はアルツィブシェフが行う(彼はなぜかわれわれのあいだでこの分野の専門家と見なされていた)、そして報告者の頭の上の壁には、本物のマルクスの肖像を飾る。そういう演出の思いつきを考えたのもロッセリで、もう子どものように夢中になって準備に取りかかっていた。
印刷所をつくるという考えはあまりにうまく運んだので、すぐにその実現の準備にかかった。中央委員会に知らせ、承認を受けた。必要な要素、つまり植字工を探し、世話をする住まいや人員を組織する準備に取りかかった。成功は疑いなかった。ヴォルガ沿岸の委員会の小さな協議会で、地域の印刷機関紙の問題を提起し、全面的な賛同を得た。これについては、印刷所そのものと同じく別に書いている(原注)ので、ここでは立ち入らない。
(原注)「中央委員会サマーラ印刷所」を参照。
そのあいだにアルツィブシェフはペンザでの報告の準備をしていた。彼の立場は楽ではなかった。当時のわれわれの農業綱領はとりたてて有利なものではなく、「切り取り地」より先には進んでいなかった。そしてこの切り取り地は、エスエルとの衝突のたびに、いつも辛辣なあざけりを呼び、彼らにとってデマゴギーの格好の土壌になった。
そのころにはエスエルはもう「社会化」を考え出しており、インテリのとりとめのない聴衆の前で彼らと争うのは、いつも大きな困難をともなった。たえず問題を一般的な経済理論の領域へとそらし、過去の前提や、共同体、アルテリなどについての文献に注意を集中させ、「英雄と群衆」の理論に寄り道しなければならなかった。しかもこの点でもエスエルはもうアヴェナリウスの「並行論」で武装していて、しばしば勝ち誇った気でいた。これに加えて、ペンザがいつもエスエルの領地で、いつも本質的に「農業的な精神」に染まっていたことを考えれば、アルツィブシェフの立場の難しさはよくわかるだろう。
そして彼は、どうやらこの役を引き受けたくなかったらしい。それについては黙って準備を続けてはいたが。だが報告の日を知らせるようにという電報が届くと、われらが人のよいおじいさんは延期しようとした。日は決められた。そして出発の直前に、私はクヴャトコフスキーがぜひ彼と一緒に行くよう強く主張した。
これはきわめて適切だった。V. P. 一人だったら、総動員したエスエルにきっとつつきまわされていたろう。だがとくに成功だったと自慢することはやはりできなかった。もっともエスエルの鼻はへし折られ、社会民主党員はそこで市民権を得たのである。
印刷所の準備で、仕事は山ほどあった。少なくとも、中継の住まいや住所を探したり、あれこれの役目を担ってくれそうな共鳴者たちとあらゆる交渉や取り決めをしたりすることにまつわる、こまごました雑事が山ほどあった。こうした準備の気苦労はどれほど細かく見えても、それでもまる何日もかかった。それらの日々を、時間単位で割り振らなければならなかった。そして奇妙に思われるかもしれないが、この騒ぎのなかでは、読書の時間さえ、ときには、われわれの中継地に一日二日三日と立ち寄る同志と話す時間さえ、ほとんどなかったのである。
たとえば「ヴィクトル」・タラトゥータは、ほとんど2週間われわれのところに滞在した。彼はシベリアから来て、「ヨーロッパの境目」にあるわれわれのところで足を止め、彼が流刑で過ごしたあいだに現れた環境と気分の違いをよく見て、考えてみようとしたのである。私は彼の住まいにいくらかの文献、第2回大会の議事録を持っていった。必要と思うことは自分で引き出してくれ、というわけだ。話をする暇はなかった。そして、どうやら彼がずっと閉じこもっていたあいだに、私が彼を訪ねたのは2、3度で、彼と話をしたのかどうか、何について話したのかも、まったく覚えていない。
冬が近づいていた。運搬は鉄道に移った。巡回、住まい、その他の条件で、これに合わせたいくらかの手直しが必要になった。夏のほうがやはり楽だった。受け取りや荷の保管のための住まいなしですむことも少なくなかった。ときには運送事務所からそのまま船着き場へ運んで、そこに預けた。一日二日たったらそこから引き取って、駅へ運んで「預ける」ことができた。さらに数日たったら駅から別の船着き場へ。その荷のための住まいが見つかるか、空くまで。
冬はもっと難しかった。人々は身を縮め、寄り集まり、互いの目の前でうろうろすることが多くなる。そして彼らの目の前で起きていることは、彼ら自身にも目につきやすくなる。そこから、もっと機転をきかせる必要、もっとたびたび状況を変え、住所を変える必要、そのほかありとあらゆる余計なこまごましたことが生じた。面倒でうんざりするが、仕事には欠かせないことだった。
それに今や印刷所も加わった。そのため住まいの問題はずっと複雑になった。
『通信(クロニカ)』への通信はまだ全体の組織の住所を通じて来ていた。だが地域機関紙の発行に移る時点で、この状況は変わらなければならなかった。編集の仕事には自前の「隔離された」仕組みが必要で、印刷の仕事には別の仕組みが、運搬は自分の特別な役目に閉じこもらなければならなかった。
そのかわり、シベリアからの活動家の通過は下火になった。そしてそのおかげで、ビューローの仕組みを(部分的にではあるが)同じように使うことができた。
宴会キャンペーンが始まった。ところどころでわれわれの組織の行動が始まった。サマーラでは、ゼムストヴォの会館でピーテルの解放派大会についての報告があったあと、ドヴォリャンスカヤ通りで即興の夜のデモが行われた。カザンでは「ミハイル」が大学の学生集会にもぐりこみ、政治演説をした。サラトフでは、たしかゴリデンベルクが、労働者組織の代表として宴会で演説した。
ウファでも、オレンブルクでも、エカテリンブルクでも、タンボフでも、ヴォロネジでも、どこでもこの時期は、労働者の代表が一時的に地下から部分的に表に出るという形で過ぎていった。
戦争のことはまったく誰も考えず、関心を持つ者もほとんどいなかった。それはあまりに遠く、どんな階級的利害にもこたえていなかったので、もし多くの人にひどく痛い思いをさせていなかったら、まったく忘れられていたろう。だがそれは、質も量も大きな痛みではあっても、純粋に個人的な性質のものだった。夫や兄弟や息子が殺された、あるいは殺されなかった……戦争と直接結びついていた人々だけが、戦争のことを考え、それに対してあれこれの態度を蓄えていった。ほかの人々にとっては、それはただ邪魔になるか、ならないかだけだった。
バクーからは、戦争についてのビラと一緒に、「基本的な」宣伝文献が来ていた。『エルフルト綱領』のすばらしい版、『農村の貧民に』、『赤旗』。送付はもう規則的になっていた。皆それに慣れていた。そして送り状の受け取りがときに遅れると、すぐに警戒され、あれこれの推測を呼んだ。
この夏と、1905年1月までの冬のあいだに、われわれのサマーラ・グループは、自分たちの仕組みを通じて少なくとも150プードの文献を通した。その5分の4がバクーのもので、国外のものは少ない部分にすぎなかった。
そしてその間ずっと、一度の摘発もなかった。
同時に、ウファ、エカテリンブルク、カザンには手動の印刷機が供給された。そしてレーマンから直接活字を買う方法も見つかった。われわれはオレンブルク県知事の用紙と、その官房の印章や彼の署名の写しを手に入れた。そして彼の名で活字購入の許可書を書いたのである。
旅券はもっと簡単だった。用紙と手帳の蓄えはいつもあった。印章も十分にあった。
12月の末、クヴャトコフスキーと私は、サマーラから一人はキエフへ、一人はモスクワへ移るよう指令を受けた。私にとっては、それはおそらくちょうどよいころあいだった。非合法の人間にとって、同じ町に7か月というのは十分すぎるほどである。まして一度も作戦が失敗しなかったのだからなおさらだ。統計家である私にとって、確率論は空疎な言葉ではなかった。
それでも、去りたいという気持ちはとくになかった。仕事全体があまりに整然と、うまく組み上がり、まとまってよく息の合ったグループができていて、それをすぐに取り替えるのは無理だったし、ばらばらになるのは新しい土地でほかの人々とまた息を合わせなおすことを意味した。
オリョールでI. ドゥブロヴィンスキーに会うことになっていた。そして彼から、中央委員会が技術の仕組みをメンシェヴィキのものと統合すると決めたことを知った。クヴャトコフスキーはモスクワでクレストフ(「ピョートル」)と共同で働くために、私はキエフでシェフトマン(「ウラジーミル」)と同じように同居する運命になった。
一日後、二人はほとんど同時にオリョールを発った。アレクサンドルは北へ、私は南へ。
その後彼と会ったのは、1905年の10月ストライキのあとだった。一人はモスクワのタガンカで、もう一人はキエフのルキヤノフカで、それぞれ数か月を過ごしたのちのことである。
V. P. アルツィブシェフの伝記によせて
V. P. アルツィブシェフは1857年、クルスク県の地主である父の領地に生まれ、そこで幼年時代の最初の数年を過ごした。のちに両親によってクルスク陸軍ギムナジウムに入れられた。
ギムナジウムを終えると、17歳の若者だった彼は革命組織に加わる。このときから生涯の最後の日まで、彼は革命家として働く。個人の運命のどんな不幸も、どんな障害も、彼を止めはしない。
ワシーリー・ペトローヴィチの好きな言葉は、マルクスの『資本論』のある序文に引かれた言葉、「汝の道を行け、そして人々には言うにまかせよ」であった。そして彼は社会主義の道を歩み、どんな力も一瞬たりとも彼をその道からはずれさせることはできなかった。彼はためらいも疑いもなく、自分の思想の未来を信じて、その道を歩んだ。
〔写真:V. P. アルツィブシェフ〕
V. P. にとって社会主義は遠い未来の理想にとどまらなかった。社会主義の教えから、彼は日常生活のための道徳の規則を汲みとっていた。現在の条件のもとで未来の人間でありうるかぎり、彼はそうであった。
父の死後、彼は遺産として領地の一部である土地を受け継いだが、それを父のかつての農奴だった農民たちに譲り渡した。
革命活動の最初の歩みでは、彼はナロードニキであった。労働者の服に着替え、大工道具を持ち、靱皮靴をはき、背負い袋をかついで、彼は「人民のなかへ」出かけ、そこで社会主義の宣伝を行った。
この時期の活動のなかで、彼はザイチネフスキーと知りあった。その名はロシア革命史で知られている。まもなく二人は親しい友人になり、彼らの発意で革命新聞『若きロシア』が発行されるようになった。それから彼は逮捕され、ヤクーツク州の極北、北氷洋に近いヴェルホヤンスクの町へ流刑にされた。
そこでは、ほかの同志たちと並んで、作家のセロシェフスキーも彼と一緒に流刑にされていた。その作品には、シベリアのこうした辺鄙な、命取りの片隅での流刑者の生活の描写が見られる。
社会主義の理念に身を捧げた追放者たちにとって、人々から遠く離れ、半ば未開のヤクート人のなかで暮らすのはつらいことだった。彼らは逃亡を決意した。逃亡は、北氷洋を通ってアメリカへ渡る以外に道がなかった。自分たちで大きな舟をこしらえ、川を下って海へ出て、そこからベーリング海峡を越えてアメリカへ渡るつもりだった。だが逃亡は成功しなかった。
弓で武装したヤクート人とコサックが途中で彼らに追いつき、捕らえた。抵抗はできなかった。皆の食料を手に入れるために狩りに出かけた同志たちが、銃を持っていってしまっていたからである。彼らはヴェルホヤンスクへ連れ戻された。
ヤクーツク州での流刑期間を終えると、V. P. は革命の仕事を続けるためにロシアに戻った。
運命、いや、むしろ、彼が魂の隅々まで憎んでいた専制政府が彼を追いまわし、1890年、彼はまたエニセイ県タセーエヴォ村に流された。
ここで彼は大いに勉強し、大いに読書した。このころ彼は、当時急進的な新聞だった『ヴォストーチノエ・オボズレーニエ(東方評論)』に寄稿している。とくに地元の経済生活に関心をもった。その研究の成果として、彼の書いた本『シベリアにおける自然経済』(ヴォストーチノエ・オボズレーニエ刊)が出た。
タセーエヴォ村への流刑は2年だったが、彼がもう発とうとしていた最後の数日に、政府にはその期間では不十分と思われ、流刑はさらに2年延長された。
1894年、彼はクラスノヤルスクに移り、ほかの同志たちと一緒に若者や労働者のあいだに革命サークルを組織する。クラスノヤルスクでは、アンガラ川の航行改善のための組織に勤め、エニセイスクの町に移るが、ここでも革命の仕事をやめず、学生のサークルを組織し、そこでマルクスの教えについて講義をする。
このころにはマルクスの『資本論』が彼の福音書となり、彼は生涯それを手放さない。革命の仕事ができない条件のもとで暮らさなければならないときにはいつも、彼は『資本論』の研究に没頭し、どの命題が何ページに述べられているかを示せるほどよく知っていた。
1900年、彼はペテルブルクに移り、ここで社会民主主義の仕事にきわめて密接に参加するが、まもなくまた逮捕されてサラトフへ送られ、そこから1901年にサマーラに移り、社会民主主義組織のメンバーになる。
彼が来てまもなく、彼の指導のもとで、「ヴォルガ流域」の地域社会民主主義組織がつくられる。その中央ビューローはサマーラに置かれ、カザン、ニジニ・ノヴゴロド、シンビルスク、サラトフその他の都市の党細胞がこれに加わる。中央委員会とつながった地域ビューローは、党活動家を「各地」へ送り、細胞に党の文献を供給するなどした。
〔写真:友人たちに囲まれたV. P. アルツィブシェフ〕
1905年を彼はサマーラで過ごす。彼の住まいには「革命の本部」があった。警察にけしかけられた黒百人組の群れが、この住まいを打ち壊そうとした。同じころ、彼は数人の同志とともに通りで黒百人組の群衆に襲われ、かろうじて逃れる。
1907年、彼は逮捕され、2年の期限でアルハンゲリスク県へ流刑にされる。そこからウファに戻り、生涯の最後の日までここにとどまり、若いころと同じ情熱、同じ熱意、同じ気性で、同じ革命の宣伝と組織の仕事を続けた。
この闘士、献身的な革命家に対してずっと残酷だった運命は、その生涯の終わりに、彼のすべての犠牲に報いる最良の贈り物を与えた。革命的人民がかちとった自由を現実に味わうことを許したのである。プロレタリアートがかちとった革命的自由というこの壮大な建物には、故V. P.、この社会主義のための革命の闘士によって据えられた煉瓦が一つならずある。
晩年の物質的な欠乏も、病も、年齢も、彼の魂の根本原理、すなわち限りない自己犠牲の感情、自分自身を、自分の人格を集団のなかに、党の利益のなかに完全に溶けこませる感情に、少しも影響を与えなかった。
死のわずかひと月ほど前に、ワシーリー・ペトローヴィチは自分のなかに力と気力を見いだし、2月〜3月革命のすぐあとでウラルの工場へと駆けつけた。
人民の親しい友、そのよりよい幸福な未来のための闘士に、永遠の記憶を。
訳注(東部地区)
- 「同志ミロン」はソコロフの党名。「インノケンチー」はI. F. ドゥブロヴィンスキー、「リョーフシュカ」はL. Ya. カルポフ。「アンドレイ」「アレクサンドル」はA. A. クヴャトコフスキー。原文でもクヴャトコフスキーは「アンドレイ」(党名)と「アレクサンドル」(本名)の両方で呼ばれている。
- 「レーマン」は、ペテルブルクの著名な活字鋳造所O. I. レーマン社のこと。
- 『ザリャー(曙)』は『イスクラ』編集部の理論誌、『トゥン』は不詳(原文のまま。小冊子名の略称と思われる)。『農村の貧民に』はレーニン著(1903年)。『一歩前進、二歩後退』はレーニン著(1904年)。
- 「プーリカ」はプレフェランス系のカードゲームの勝負単位。「バンク」は賭博的なカードゲーム。原文の細部(「40分の1点」=「по сороковой」)は賭け金の単位で、訳はおおよそのもの。
- 「マカロフ提督」は1904年4月、旗艦「ペトロパヴロフスク」の触雷・沈没で戦死。皇太子アレクセイの誕生は1904年8月。
- 夜会の報告者が語った「アンネンスキーの葬儀」について、原文は「たしか」と記憶があいまいなことを示している。ナロードニキ系の評論家N. F. アンネンスキー(1912年没)の葬儀は時期が合わず、別人の葬儀の記憶違いの可能性がある。原文のまま訳した。
- 「切り取り地(オトレースキ)」は、1861年の農奴解放で農民から切り取られた土地の返還を求める、当時の社会民主党の農業綱領の要求。エスエルの「土地社会化」と対比されている。
- 「Позерн(ポゼルン)」は原文では「Позери」と読めるが、B. P. ポゼルンと解した。
- アルツィブシェフの伝記中、ザイチネフスキーとの『若きロシア』発行の記述は、1862年の同名の檄文(ザイチネフスキー起草)とは時期が合わず、原文の記述のまま訳した。
- 「チューヴャキ」はカフカースの革製の室内履き。荷の偽装名。