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すでにかなり広範に広がった労働者・農民大衆の革命運動(ズラトウストの騒擾、バクーのストライキと銃撃、ポルタヴァの騒擾、その他の多くの現れ)を反映した党の第2回大会は、同時にまた、この運動を全ロシア的な規模で統一し組織する出発点ともなった。
この大会までは、どの都市も、どの労働者の拠点も、互いにほとんど孤立して暮らしていた。最も工業の発達した労働者の中心地でさえそうであった。それぞれが本能的に、自分のイニシアティヴで、近隣との連絡を探し、つけていた。キエフはオデッサやヴィリノと、モスクワはイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクと、北部労働者同盟はペテルブルクやヴォルガ流域と、という具合である。こうした孤立は、たびたびの摘発とあいまって、連絡を始まったとたんに断ち切った。あれこれの拠点の組織は監獄のなかに消え、その消滅は、組織的につながっていた最も近い隣人にさえ何か月も知られず、考慮されないままだった。これは一方では摘発の拡大につながり、他方では、外からの人員の補強によって組織を立て直す可能性を乏しくした。
それはまた、労働運動の思想的な統一も妨げた。多くの場合、労働者サークルは「人民の意志」派の残党のまわりに集まっていた。階級的な基礎のうえに組織しようとする本能的な志向を、彼らは、しばしばマルクス主義とは何の共通点もない合法・非合法の文献によって固め、育てなければならなかった。マルクス主義の文献は、純粋にマルクス主義的なサークルにさえ、あれこれの、これもしばしば偶然の個人的なつながりによって、偶然に入ってくるだけであった。
それも一部ずつしか入ってこなかった。そしてそうした文献の複製に多くの時間と力を費やさなければならなかった。
私は、自分も参加し活動した1896〜1897年のコストロマの労働者サークルを覚えている。そこには、本当の階級的な宣伝や啓蒙よりも、気分や本能のほうが多かった。グレープ・ウスペンスキー、『デーロ』や『祖国雑記』のばらばらの論文、V. V. の論文、筆写したビューヒナー(『力と物質』)やステプニャークのパンフレットを読んでいた。そしてサークルには同時に、たとえば、K. N. イワノフ(工科大学生で、熱烈なナロードニキ、のちのエスエル)とV. V. ブヤノフ(流刑のプチーロフ工場の労働者)、あるいは私の幼なじみで、明確にマルクス主義に近づいていたN. G. ポレターエフ(第3国会議員)といった、雑多な分子がかかわっていた。そして1897年にコストロマで、次いでキネシマ地方でも大きなストライキが起こったとき――それは、挑発的なけしかけがあったにもかかわらず、見事に組織的に、少しの行き過ぎもなく行われた――その積極的な指導者のなかには、N. P. スタイノフスキーのようなサブナーエフ組織(原注)の残党や、のちに第2国会のエスエル会派の指導者となったP. S. シロキーのような「マルクス主義者」も見られた。
(原注)古い「人民の意志」派のサブナーエフは、1889年に流刑から戻ると組織の再建を試みた。彼はコストロマ、ヤロスラヴリ、カザン、モスクワ、ヴォロネジその他の都市のサークルを統合することに成功した。1891年までに組織は摘発された。編集部
そしてこのストライキのあとになって初めて、労働者サークルのなかに、よりはっきりしたマルクス主義的な気分が現れはじめ、われわれのヘクトグラフにも「エルフルト綱領」が登場する。
労働運動の初期の成長のこの未分化こそ、第2回大会によってまったく正しく考慮されたのであり、またまったく正しく、それに対抗して、大会が作成した党規約の第1条が定められたのである。ここで問題なのは、大会のメンシェヴィキ派があれほど党員の資格を気にかけた、あれこれの「援助する」教授たちのことよりも、むしろ、労働者組織そのものの分化、その階級的自覚の明確さ、組織と活動の方法をはっきりしたものとすることが、すでに必要でありかつ時宜にかなっていたことであり、それはボリシェヴィキ派によって正しく示されたのである。
これが大会の最も基本的な成果の一つであり、労働運動の地方の細胞に単一の組織的基盤を与えた。
そしてもう一つの、これに劣らず重要な成果は、党の技術機構の設置と文献供給の中央集権化である。一見すると、テフニカなどはかなり二次的な事柄で、この問題についての大会の決定がどうであれ、それに基本的な原則問題と同じ意義を与えるには及ばないように思われるかもしれない。しかし、それはまったくそうではない。当時労働運動が発展していた具体的な状況のもとで、すなわち広大なロシアの領土で、合法的な可能性のかすかな兆しさえまったくなく、個々の地域の経済がきわめて多様であるという条件のもとでは、ばらばらの組織やサークルをある程度技術的に結びつけることは、ものの道理として、同時に思想的・組織的な結びつきにもならざるをえなかった。この時点までは、文献の供給は、おそらく最も大きな拠点(ペテルブルク、モスクワ、キエフなど)を除けば、偶然的で個人的なものであった。このため大部分の地方組織は、異質なイデオロギーの残響を反芻してそれに順応するか、あるいは自前の、必ずしもうまくいかない創作に、自前の技術的な原始的手段の組織化に追いやられた。そしてそれは、運動そのもののテンポにも性格にも影響を及ぼさずにはいなかった。手工業性はそこからの自然で避けがたい帰結であった。それゆえ、宣伝・扇動文献の中央集権的な(今ふうに言えば「計画的な」)供給、大量の供給が、第2回大会で選ばれた中央委員会の第一の課題とならなければならなかった。
このような課題の遂行は、何よりもまず純粋に「技術的な」利点、すなわち一つの特定の課題に力と資金を集中させ、同時に地方の活動家を大量の細々とした技術的な心配から解放するという利点を約束していた。どれほど多くの時間と資金と、しばしば高度な能力を持つ人材が、最も原始的なヘクトグラフをつくり、紙やインクを手に入れ、印刷することに費やされていたかは、誰もがあまりにもよく知っている。ごく小さなビラ一枚に何か月もかかることがあり、その時間はより生産的な仕事のために失われた。中央集権的な供給は、これに終止符を打つはずだった。さらにそれは、各組織のすべての活動を、それ自身の「地方的な」願望や気分にかかわりなく、根本から変えるだろうし、思想的な統一もつくりだすだろう。共通の供給テフニカをつくるだけで、おのずとばらばらの細胞が単一の党の有機体へと結合するだろう。そして実際の党の結集と建設は、この基礎のうえに、すでに本当に全ロシア的な規模で展開されなければならなかった。
カフカースでは当時、中央委員会の大印刷所が設けられつつあった。それは1905年の革命まで存続し、そのあいだにきわめて価値のある、見事に仕上げられた出版物を何十プードも生み出した。その仕事については、のちに語ることになろう。オデッサでも印刷所が設けられつつあった。(ドイツとの)国境では、フェリクス、ピャートニツァ、シュルトゥーク(コップ)が運搬の整備に携わっていた。このころ彼らにポーヴァル(シチェコルジン)が加わった。オーストリアとの国境では、マリツマンと(旅券上の)クドリンが働いていた。
以上が、中央委員会委員V. A. ノスコフ(「グレーボフ」「ボリス・ニコラエヴィチ」)との会話から思い出すかぎりの、いわゆる運搬・技術ビューローの網を組織する全ロシア的計画の前提であった。ほかならぬノスコフに、この計画を実行する任務が課されていた。これらのビューローは、地方の労働者組織から自立した細胞として組織されることになっていた。これによって、第一に分業の利益が追求され、第二に、そして最も重要なことに、摘発に対する「相互保険」の原則が貫かれた。ビューローが地方の労働者組織と組織的に密接に同居すれば、どうしてもヤフカ用の住まいや住所などを共用することになり、そうなれば一方の事業の摘発が他方の摘発を招くからである。
まず第一に、こうしたビューローを三つ、中央ロシア、南部、ヴォルガ流域につくることが予定された。その際、その展開の拠点として最も都合がよいと考えられたのは、一方では十分に大きく十分に活気があって、秘密の仕事のためのインテリやブルジョアのつながりを確保できる都市であり、しかし他方では、とりわけ工業都市であってはならない都市であった。そうでなければ、技術ビューローの秘密の機能はどうしても非合法の労働者組織の機能と交差し、どちらの組織も摘発の可能性が倍になるからである。
スモレンスク、ポルタヴァ、そしてサマーラかペンザが予定された。
私はスモレンスクの整備を提案され、1903年9月にプスコフからそこへ向かった。スモレンスク・ビューローの活動範囲には、ヤロスラヴリ、コストロマ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、トゥーラ、オリョール、クルスク、ブリャンスク、ヴィテプスクが含まれていた。モスクワは自分で自分の面倒を見ていた。もっとも、のちにはわれわれの拠点からもモスクワにいくらか分けてやらなければならなかった。
スモレンスクは、谷間と袋小路と、城壁の外や川向こうの場末の町で、「オディギトリヤ」と「ブローニ」があり、かなり活気があって、自前の地方新聞さえあった。われわれの目的に完全にかなっていた。その後この町をよく知るにつれ、事前の見込みが裏づけられた。自分の「尾行」を確かめる必要があれば、いわゆる「ブローニ」を通ってボゴヤヴレンスキー城壁口へ、あるいはセンナヤ広場を抜けるだけでよかった。これら「あまりに開けた道」には、どんな密偵も隠れていられない。想定される、あるいはありうる尾行をまく必要があれば、思い切って谷底の「オディギトリヤ」へ降りていくか、ソルダツキー城壁口をくぐって町のこの部分の小さな暗い路地へすべりこめば、どんな跡もまかれてしまい、それを解きほぐすのは「上からの嗅覚」をもってしても難しいだろう。大きな工業企業がないため、補助的な秘密の目的にまだ利用されていないインテリとブルジョアジーのかなり広い層が残っていた。ユダヤ人定住地域境界線に近いことが、町の住民のある層に、市民的な半ば合法性と反政府的な一定の雰囲気をつくりだしており、それによって本当に秘密の事業がある程度より強固に守られうるのであった。
私が主な紹介状を与えられていたのは二人の人物、神学校の教師レベジェフと統計家セミョーノフであった。どちらも社会民主党の党員だった。前者は、どうやら何の決まった党活動もしていなかったようだ。スモレンスクではそもそも党活動はでっちあげなければならないものだったからである。後者はどうやら労働者とつながりがあり、そのために懸命に秘密を守っていた。その後まもなく国外へ出るにあたって、彼は自分の半ば神話的な手工業者とのつながりを、ブリリング、私、それにもう一人の誰かで急ごしらえした委員会に遺した。だがこの委員会は、どうやら死産のままに終わった。少なくとも、その活動の現れを一つも今思い出すことができない。
レベジェフは、私が状況とつながりのなかで方向を見定めるのを助けることになっていた。セミョーノフは、ゼムストヴォの統計ビューローでの私自身の合法化に力を貸すことができた。これは、党の金庫に負担をかけないための稼ぎとして必要だった。
ところが、いわゆる「堅実な」インテリ、すでに一定の社会的地位を持っている人々とは、以前ほど事は簡単ではなかった。彼らにはシュトゥットガルトに自分たちの代弁者(『オスヴォボジデーニエ』)がおり、まだ非合法政党とかかわりを続けていたとしても、それは惰性によるもので、彼らとあっさりきっぱり縁を切ることができなかったからにすぎない。あるいは、彼ら自身の「階級的」目的にまだ何の現実的な根拠もなかったからかもしれない。だが革命的な行動方法への懐疑はすでに身につけており、そうした行動を助けたいというとくべつの望みは示さなかった。
つながりを広げるため、最初のうちは、ある自由主義的な弁護士(のちに第1国会議員、カデット)の紹介に頼らなければならなかった。彼は川向こうの図書館の理事長で、彼を通じてそこにわれわれの人間を入れる必要があった。
彼はきわめて愛想よく迎えてくれた。話は地元の生活とその現れの次元をめぐった。彼は地元の社交界と行政について、驚くほど機知に富んだ、生き生きとした人物評をしてみせた。憲兵界に対する地元での立ち回り方についても、まったく正しい方向を示した。だが、われわれが期待していた助力は断った。
「どんな文化の拠点にもそれぞれの使命と絶対的な価値があります。それをどんな危険にさらすのも得策ではないでしょう」
「同意します。しかしわれわれが申し出ていることには、危険のかけらも、まして『危険にさらす』ことなど、まったくありません」
「グロムイカ(憲兵将軍)には、その点について彼なりの論理がありますからね」
その先、話はまったく「原則的な」ものになった。「当面の目的の一致」についてである。このテーマを、オスヴォボジデーニエ派は今やことあるごとに持ち出しはじめていた。
「われわれとあなた方の根本の敵は一つ、専制です。この主要な城塞を陥落させるまでは、互いに食い合う必要はありません」
「しかしあなたは、図書館にわれわれを近寄らせないことで、たった今それに手をつけられたのですよ」
「図書館は小さな実務上の事柄です。それで歴史的な誤りが測られるわけではない……」
「とはいえ?……」
「あなた方の教条主義、あなた方の不寛容のために、あなた方は生活から外れたところを歩いている。大量の犠牲と顕微鏡的な成果。実践的な真理を犠牲にした理論的な真理」
「これまではあなた方のほうがわれわれより実際的だった、それはそのとおりです。問題はただ、あなた方の実践がわれわれの犠牲によって固められているのではないか、ということです」
二度と会いたいという気持ちもないまま、別れた。
まだ「堅実」でない、学生服を着古してもいないインテリとのあいだには、別の性格の食い違いがあった。この部類の人々は、もちろん「参加する」のにやぶさかではなかった。だが彼らは、第一に自分たちにぜひ「重大な」仕事を「与えて」ほしいという希望を表明し、第二に、危険からの保証として、より大きな「自主性」を要求した。ある駆け出しの医者との私の会話は、まさにそういう意味を持っていた。医科大学時代の彼の革命性は疑いをいれなかったし、彼をわれわれに推薦したのは、ちょうどそのころ流刑中だった彼の友人で、やはり医者だった。
「重大な仕事は与えられるものではなく、取るものです。そして危険の度合いは、活動家のいわゆる『用心深さ』に反比例するのです」
これは私の側の無作法だった。そして、おそらくまったく公正だったわけでもない。だが、大きな仕事へのこの要求の陰から、そうした活動家のまわりにでき始めていた、学生時代の「革命性」の思い出に彩られた小市民的な居心地のよさを守り固めたいという願いが、あまりにはっきりのぞいていたのである。
それでも、仕事の環境はめったにないほど好都合だった。ほかの土地で何らかのかたちで仕事にかかわったことがあり、ここでも心から働きたいと願いながら、その場を見いだせずにいるインテリは、十分すぎるほどいた。1か月もたたないうちに、われわれはもう一定の、かなり息の合ったグループにまとまった。レベジェフと私のほかに、E. A. カリタ、K. V. カッツェワ、シュテルンベルグ(原注)(「マルファ」)、その他の多少とも積極的な人々が加わった。荷下ろし用と保管用の住まいが見つかった。手紙、送り状、電報用の住所やヤフカは、大した苦労もなく、秘密保持のあらゆる規則に従って手に入った。堅実なブルジョアの名前で、商店に、医者の待合室に、といった具合である。こうしたことはすべて、今ではあまりによく知られているばかりか、古くさく原始的なものとなった。それらからはひどくナイーヴなものが漂ってくる。それ以来われわれが経験した三つの革命と、形を変えていく闘争の有為転変は、秘密保持の仕事の手法や方法をたえず変えることを余儀なくした。状況は複雑になった。とりわけ1905年以後はそうである。ブルジョアジーとインテリは分解し、離れていった。労働運動はいくらかの合法的な足がかりを得、それとともにその非合法の部分も、自らの事業を組織する基盤をある程度広げ、変えることができた。だが当時は、すべてがもっと単純で、原始的だった。「人民の意志」の時代の秘密保持の伝統がまだ生きていて、それに、現在の状況と実践に最もふさわしい細部が付け加えられるだけだった。
(原注)姓が正確かどうかは保証しない。
ロマンティシズムはいつも人間の本性につきものである。秘密保持はそれにいくらかの糧を与えた。そしておそらく、われわれの一連の「住所」「ヤフカ」「住まい」も、この「純粋に人間的な」前提なしに手に入ったわけではなかった。その目的がいくらかの神秘に包まれていると、それらは目に見えてより快く提供された。合言葉をいくらか複雑にすると、信頼と協力の気持ちが高まったのである。
たまたま、仕事のごく初めに、インテリの大きな集会が開かれた。スモレンスクの弁護士の一人が、キシニョフから戻ったばかりだった。彼はそこで『イスクラ』の印刷所(ゴリドマン)の事件で弁護人を務めたのである。これは、当時新しかった1902年の刑法典の手続きで扱われた最初の事件であった。そしてこの裁判についての報告が、大きな集会の目的となった。われわれのグループを惹きつけたのは、報告そのものよりも、仕事のためにつながりを広げる可能性だった。そして実際、この意味で集会はすばらしい成果をもたらした。とりわけこの集会で、われわれは初めてA. P. ゴルプコフ医師(現在は保健人民委員部参与会員)と知り合った。彼は積極的な仕事を「恋しがって」いたので、すぐにわれわれのグループの最も積極的なメンバーの一人になった。そして3、4か月後に私がスモレンスクから別の土地へ移らなければならなくなったとき、A. P. は事業の頭として残った。
3
私は初め、一部屋に住んだ。家主からほとんど隔てられていて、玄関からじかに入れたので、かなり都合がよさそうに思えた。場所も適当に思えた。城壁の外の、木造の、いわば中くらいの地主屋敷のような家々が建ち並ぶ通りである。どの家も所帯がしっかりしていて、ほどよく堅実に見える。どの家も自前の付属屋や建て増しに囲まれ、その向こうに自分の庭の大きな木々がそびえている。単なる小市民はこういう通りには住まない。彼らにとっては建て込み方がまばらで広すぎるからである。手工業者もこういう通りを避ける。客と人通りが足りなくて気が滅入るからである。中級の役人と、医者、弁護士、選挙で選ばれたゼムストヴォ議員といった堅実なインテリが、こういう通りの典型的な住人である。人通りはそれほど多くないが、辻馬車の御者たちはこういう通りをよく知っている。人々はここにしっかりと腰を落ち着けて住んでいるが、出張や荷物を持っての来訪もそう珍しくはない。人々はうわさや陰口にはあまり傾かず、ある程度の分別が、好奇心や他人事への干渉を許さない。月に2、3度、「兄弟」や「学生の友人」が荷物を持って数日やって来るゼムストヴォの統計家なら、ここでは隣人の疑いを招かずにすむだろう。そして家主も、その階級特有の自由主義から、そうした来訪や出発のいくらかの神秘には、ただ目をつぶってくれるかもしれない。
だがこうした条件のもとでも、それなりの不便が現れた。出かけるときに部屋に鍵をかければ、家主への不信を示すことになる。かといって鍵をかけずにおけば、使用人の好奇心を誘うことになる。
あるとき、活字の入った箱が運ばれてきた。われわれのところでよくあったことだが、活字は詰め物もなしにぎっしり詰めこまれていた。箱は小さく、薄い板でできていて、重さが見かけにそぐわなかった。それで辻馬車の御者はうめきながら運びこみ、箱をもっと丁寧に扱うよう注意しなければならなかった。玄関に居合わせた女主人が、けげんそうに、明らかに疑わしげに、荷物と御者とをじろじろ見た。そして翌日、勤めから戻ると、私は自分の机の上に文字の活字が二つとスペースが一つ置いてあるのを見つけた。どうやら彼女は掃除の際に玄関でそれを見つけ、私の振る舞いの「不作法さ」を思い知らせたのである。
密告はどうやら恐れなくてよさそうだった。だが活字は、明らかにすぐに救い出さなければならなかった。もう明らかに傷んだ箱を運び出せば、あとに活字の跡を残す危険があったし、そのままでは運べる重さでもなかった。かといって辻馬車を呼べば、すでに警戒している注意をさらに引くことになる。
自分で背負うほかなかった。それも、本当に背負いきれない重さを、人目につかないように身に着けて運ばなければならない。箱の中身を、どちらかに傾かないように、しかも上から外套を着られるように、体のまわりに配置するのは簡単な課題ではなかった。古いズボンを使い、裾をしっかり縛って二重の袋にした。それぞれの半分に30フントほど入った。それから首にかけて、胴の両側に垂らした。外套と上着のポケットにもそれぞれ数フントずつ入った。両手には、紙に包んだ本の形をした10フントの包みを一つずつ持った。この武具一式を肩に負うと、外套はやっとのことで、それもボタン一つだけで留まり、息をするのも難しく、足はひとりでに曲がった。
それでも行かなければならなかった。ほかに手はなかったのである。秋の真っ暗な夜が、荷馬のように息をし、酔っぱらいのように重さによろめき、手に持った重い包みで釣り合いをとりながら、やっとのことで足を運ぶ秘密活動家の悲劇を、母親のように優しく包み隠してくれた。道は人けがなく、街灯一つなく、秋のぬかるみが凍ってでこぼこになった巨大なバザール広場を横切っていた。40〜50歩ごとに、即席の袋が首をいくらか休ませてくれるよう、地べたにじかに座りこまなければならなかった。だが休むたびに、立ち上がるのはますます難しくなった。
知り合いの数学教師が、卒業試験のために生徒にこんな意地の悪い問題をつくったことがある。「同時に別々の場所からメッカに向かって二人の巡礼者が進んでいた。前もってマホメットの歓心を買おうと、一人は四つんばいで、もう一人は後ろ向きにかかとから進んだ……」。続いて、一人目の右の手のひらと左の足の裏とのあいだの距離、二人目の内股と外股の歩幅の長さが正確に示されていた。この問題によれば、聖なる墓に参る時を早めたいという願いは、どちらの巡礼者にも同じ程度にあったが、それによって一人目は一定の時間ごとに「鼻で地面を掘り」、二人目は進路の直線から何度かの角度でそれていく……。だがこの問題の数学的な側面は、このときの私の関心事ではなかった。この変わり者たちがどれだけの時間で巡礼を果たすかはどうでもよかった。だが私は、彼らの悲喜劇的な偉業の「重さ」を身をもって理解し、鉛に地面へと押しつけられながら、二人のうちどちらのほうが、私の武具一式を喜んでメッカまで届けてくれるだろうかと考えてみたのである。
何度か、荷物の一部をすぐそこの道の脇に置いていき、あとで取りに戻ろうという誘惑にかられた。だが「あとで」見つからないのではないかという恐れが、それを思いとどまらせた。
この受難の道がカリタの住まいで終わり、扉を叩こうと手が触れたとたん、緊張がすべて一瞬にして消えた。もう立っていることも部屋に入ることもできなかった。玄関の間で荷を下ろし、すっかり身軽になってから、やっとのことで手近な椅子までたどり着いた。
活字を仕分けると、組まれたままの題字の版が出てきた。「南部労働者」とあった。
それを見たのは、このときが初めてだった。
4
部屋を引き払い、町のまったく反対側に独立した住まいを借りなければならなかった。下の階には、落ちぶれた陸軍将校が、家族と、片づかない半ば無学な妻の姉妹たちを大勢抱えて住んでいた。三つの小部屋からなる中二階が、専用の外階段と階段下の物置つきで、私の分だった。新しい住まいのための必要な家具には20ルーブリかかった。将校とはすぐに知り合いになり、彼は従卒に私の住まいの掃除をさせ、サモワールを運ばせることを許してくれた。下の階の乱雑さ、だらしなさ、無知は、中二階にもいくらかの奇妙さ――一人で一部屋にではなく「住まい」全体に住むといった、あるいはそのほかの、いくらか普通でない生活条件――を持つ一定の権利を与えた。そして結局は、ごくすぐに、こうしたちょっとした奇妙さは、もともと気づかれていたとしても、もう気づかれなくなった。家族に虐げられた軍人とお茶を飲みながらの2、3度の「心からの」会話、その妻の市場の買い物のための2、3度のわずかな貸し、妻の姉妹へのボンボン一箱――それで、中二階には、何の疑いも心配もなく、毎日でも「委託販売用」の「本」を荷車ごと運びこみ、それから「注文主」へ発送することができた。勤めのほかに個人的に「委託販売」をしているというこの作り話は疑いを招かなかった。まして、階段下の物置に空の荷物用の行李が3、4個たまると、そのうちの一つを将校の妻が自分のためか妹のためにきまってねだってくれたのである。
だがよい関係にも悪い面がある。あるとき、国境を越える際に水に落ちた荷が運ばれてきた。スモレンスクまでの道中で、行李のなかの文献は凍りついて板のようになっていた。解かして乾かさなければならなかった。三日間病気になって住まいから出ないことにした。破らないようにきわめて根気よくゆっくりと、すっかり濡れたごく薄い『イスクラ』の号をはがし、床一面に広げ、椅子の背にかけた。そのうえ二つの部屋に縄を張って、洗濯物のように干さなければならなかった。片面が乾くと、裏返す。
すると親切な隣人たちが心配しはじめた。ひっきりなしに駆けつけてくるのである。
「ステパンをお医者さんに行かせましょうか?」
「ありがとうございます。それほど悪くはありません。治りますよ」
「何かお飲みになってます? お薬はありますの?」
そして閉めきった部屋に目を走らせる。
「お掃除しましょうか? 独身の方は皆、散らかったなかに座っているのがお好きなんですもの」
私は、散らかったのは好きではない、片づいていないのはベッドのあるこの部屋だけだ、と懸命に言い張り、話を別の方へそらす。
30分すると夫がやって来る。
「おや、病気になんかなっていいもんですか! ロシア人じゃないんですか?」
「いちばんロシア人ですよ」
「そうでしょう。わしのところに、いちばんロシア的な、よく効く薬がありましてな……。たちどころに治りますよ。それとも、ここへお持ちしましょうか?」
夕方まで治らなければ伺いますと約束する。どうやら彼は、私の顔と返事に、あまり客を歓迎しない何かを感じとったらしい。
「じゃあ、そういうことなら、帰りますよ。いらっしゃい」
彼のあとから忍び足で階段を降りて、扉に鍵をかける。しばらくするとノックの音。無視する。もっと強く叩く。同志の誰かが来たのではないかという考えが浮かぶ。開けると、将校の妻の妹である。
「シーマがあなたに薄焼き菓子を届けるようにって。それから、サモワールを立ててお茶を飲ませてあげなさいって」
「お嬢さん、お菓子はありがとう。でもお茶は欲しくないんです」
「サモワールが沸くあいだに、欲しくなりますわ」
そしてサモワールがあると知っている部屋へ突進する。
「それより、お嬢さん、私を通りへ散歩に連れ出してください」
「よろしいんですの?」
「本当によろしいんです。暖かく着ますから」
「じゃあ、支度してきますわ」
出かけるときに外から鍵をかけると、気が楽になる。通りでは初めは病人のふりをするが、そのうち忘れてしまう。置いてきた乾燥場のことと、もう今ごろ『イスクラ』を裏返さなければならないその端のことが思い出される。
5
12月、スモレンスクに「中央委員会の代表」がやって来た。ブリリングがそう私に知らせ、委員会の会合に招いた。委員会は、「代表」が泊まっていたブリリングの家で開かれた。代表は彼の個人的な知り合いだった。家主と私のほかに、もう名前を忘れてしまった委員が二人いた。その後、尾行を引き連れてくる危険を冒さないよう、私は一度も委員会へは行かなかった。だがその活動についても耳にしなかった。今も当時と同じように思うのだが、この「委員会」はかっこ付きのままでいる運命にあったのである。ここにはそのための労働者の地盤がまったくなかった。
「代表」はドゥブロヴィンスキー(インノケンチー)だった。彼はまだ中央委員ではなく、当時は「レオニード」と名乗っており、第2回大会についての報告のためにズヴェーリ(原注)の依頼で各組織を回っていた。
(原注)M. M. ベルツィンスカヤ=ローゼンベルグの党名。編集部
当然ながら、彼はほとんどもっぱらボリシェヴィキとメンシェヴィキのあいだの対立点を取り上げた。報告のあと、ミメオグラフで刷られたトロツキーのビラが朗読された。大会後のメンシェヴィキの立場の最も才気あふれる、鮮やかな表明である。それを持ってきたのはインノケンチーで、彼の発意でわれわれはそれに目を通したのだった。この考えの誠実さと、異なる考えの者に向き合う彼の良心的な態度は、つねに彼の特徴であった。彼は相手の強いところを黙殺せず、それだけいっそう思慮深く、徹底的に、それに対する批判に取り組んだ。
「どんな異端にも真理の粒が潜んでいるし、どんなに才気ある叙述でも本質において弱点がある」
報告と、われわれが作成した決議についての長い論争はなかった。参加者の一人を除いて、全員が多少とも賛成だった。当時はまだ「ブランキズム」というような言葉は流行っておらず、「指揮棒」が出てきたばかりだった。そしてそれがときどき、すべての格においてではないにしても、引き合いに出された。
「運動はちょうど広範な大衆的形態をとりはじめたところだ。自然発生的に展開している。場所によって違う。その最も鮮やかな現れについての知らせでさえ何か月もかかって届く。だから国外からそれを指揮することはまったく不可能だ。指揮棒は宙に浮くだろう」
「今大事なのは指揮することではなく、運動全体にとっての注意の中心が一つあることだ。大事なのは、戦闘部隊が、ときどき互いに相談しあうだけの将軍たちではなく、単一の参謀本部を持つことだ」
規約第1条についてのわれわれの当時の議論も、今ではそれに劣らず原始的に思える。当時はそれに対する反論がまだ始まったばかりで、それはまもなく陳腐でまったく説得力のないものになった。反論は、党員にして奨励したい、ヤフカを提供する「教授、医者、弁護士」より先へも深くへも進まなかった。そしてインノケンチーは、その面からさえこうした反論をかわそうとはしなかった。彼は別の面から取り組んだ。
「大衆運動は階級的になるために本能的にマルクス主義の基礎を求めている。だがそのなかには古いナロードニキ的な反逆性が多くある。それをふるい分けなければならない。そのためには粗いふるいではなく、目の細かいふるいが必要だ。そしてまさに運動が主として大衆的になりつつあるからこそ、党員になれるのは同調者ではなく、積極的に活動する者だけなのだ」
決議はボリシェヴィキ的なものが採択された。だがずっとあとで知ったところでは、この決議を採択した委員の大部分はメンシェヴィキの陣営に移った。そしてストルイピン反動の年月には、どんな党派性もすっかり忘れてしまった。
総じて言っておかなければならないが、この時期には、いわゆる「委員会の大衆」の派閥による明確な区分は、個々の純粋な労働者地区を除けば、きわめてあいまいなものだった。決議はしばしば労働者の代表との討論なしに採択された。そしてしばしば、運動のあれこれの指導者に対する個人的な信頼と「好感」の性格を帯びていた。その時点では、この問題の討論は始まったばかりで、まだかなり抽象的で書斎的な性格を持っていた。それから数か月たって、ウラジーミル・イリイチの本『一歩前進』がロシアに広まりはじめてからでさえ、たとえばサラトフのような組織では、ヨシフ・ゴリデンベルクとマイスキーのようなまったく異なる人々が肩を並べて活動していた。
だがわれわれ「テフニカ係」は、討論の経過や方向にかかわりなく、地方ではどこでも同じように好意をもって迎えられた。文献は皆に同じように必要であり、それはこの時期にも、ずっとのちにも、明確な派閥の色を帯びてはいなかった。運搬は国外から大幅に遅れて届き、たとえばプレハーノフの『イスクラ』(原注1)がまとまった量で届くようになったのは、1904年の末から1905年の初めになってからだった。そのころにはもうそれは「無害」だった。大衆運動と日々の実際の仕事の緊張が、当時の実践活動家たちが好んでそう呼んだ「理論」を、かなりの程度まで覆い隠していたのである。
そしてやはりはっきり言っておかなければならないが、本質的には、とくにメンシェヴィキ的な運搬や供給というものは一度も(原注2)存在しなかった。おそらく、あれこれの技術機構をつくったり、あちこちに印刷所を設けたりする試みはあっただろう。だが私の知るかぎり、それらはすべて以前と同じ手工業的な性格を持っていた。1905年(の初め)に「テフニカの統合」が試みられたとき、南部で私がメンシェヴィキから引き継がなければならなかったのは、文字どおりの空き地だった。だから、純粋にメンシェヴィキ的な組織があったとしても、それらはわれわれの機構によってまかなわれていたのである。
(原注1)すなわち『イスクラ』第52号。同志レーニンが抜けたのち、編集部にプレハーノフ一人が残っていたときのもの。編集部
(原注2)明らかに、1905年夏の分裂までのこと。編集部
ただ一か所、オデッサで、それも1905年になってから、私はある地元の活動家の応接室で、紙くずかごのなかの『イスクラ』を見た。それは丸められ、どうやら苛立ちまぎれに投げこまれたもので、秘密保持の時代がまだまったく過ぎ去ってはいなかったのに、もう主人の注意を引くことさえなかった。ここでは明らかに、派閥の区分がすでに十分に形を整えていたのである。だがそれについてはしかるべきところで語ろう。
6
統計局の勤めは、存在の合法的な形式にすぎなかった。稼ぎはその前の勤め先より半分少なく、その分、本当の勤めには最小限必要な時間だけを充てる権利があった。雇い主である機関とのこうした関係は、ビューローの責任者たちと前もって取り決めてあった。彼らは、自分たちの背後でどんな性格の仕事が行われるかを知っていて、承知のうえで働き手に勤務時間の自由裁量権を与えていたのである。同僚を時ならぬ早退や遅刻で戸惑わせないよう、仕事を家に持ち帰るほうが都合がよかった。そしてこれにも黙って同意してくれた。ビューローの責任者S. P. セレダは、ある会話のなかでさらに踏みこんだ。
「もし別の土地へ、国外へさえ移る必要が出てきたら、そちらへ仕事をお渡しすることもできますよ」
仕事は急速に軌道に乗った。かなりのつながりと「足がかり」が育っていった。新しい同志ゲインが仕事に引き入れられた。元学生で統計家である。彼はすぐに仕事に慣れた。仕事は増えた。送られてくるだけでなく、ついでの便で持ちこまれるようにもなった。イリーナが整備するはずだったポルタヴァの拠点の組織化でつまずきがあった。そこでの最初の試みは失敗した。送り状用に商店の住所が与えられていたが、どうやら店では間に合うように確認しなかったらしい。品物は店員たちに受け取られ、店で開けられてしまった……。それは救い出すことができたが、拠点の整備は遅れることになった。そしてポルタヴァの分もスモレンスクに回されるようになり、中継量が増えた。隣の組織へ行くための旅券やヤフカを求めて同志たちがやって来た。白紙の用紙を持ってくる者もいた。私がスモレンスクで働いていたあいだずっとヤフカになっていたのは、まったくの身内であるハイキン医師の住まいで、そこへはほとんど毎日通わなければならなかった。泊まるための住まい、金、印章の製作が必要だった。いったん歯車が回りだすと、すべてがひとりでに進んだ。一つの機能が別の機能を呼んだ。あるとき、ヤフカでヴィリノから来た同志に会った。私を待ちながら、膝の上で町人会の印章を彫っている。
「時間を無駄にしないよう、材料を持ってきたんです」
彼はすばらしい彫刻師であることがわかった。先へ進むためのヤフカを渡すのは断り、何日か引きとめて専門の仕事をしてもらうことにした。旅券の仕事は、私にはプスコフ時代から馴染みのものだった。そこでその「種類」や細分のすべてに直接触れることになった。偽造、写し、本物、どれも試した。党の活動家やソヴィエト共和国の現在の要人の多くが、当時プスコフで私から、当時の名前と姓を授かる洗礼を受けたのである。ノスコフ、シチェコルジン、コップ、I. N. スミルノフ、ショトマン等々。私はこの製造にすっかり熟達し、身分証を「書く」ばかりか、それに町人会長、郷長、書記の署名を必要な数だけ書きこむまでになった。しかも本文も署名も、決して同じ手で書かれたことを暴露しなかった。ペン先を少し横に向けるか、指からペンをいくらか長めに出すだけで、まったく別の筆跡になったのである。のちにキエフで逮捕されたとき、憲兵は私の「そば」で押収したメモの筆跡を確かめる必要があったので、監獄から殴打についての申し立てを出すよう私を挑発したが、それでもメモが私の筆によるものだと立証することはできなかった。
そんなわけで、スモレンスクでは旅券の仕事はたちまち軌道に乗った。いちばん難しかったのは白紙の用紙を見つけることだった。だがそれもかなり早く片づいた。どの町人会の役所にも、いつも、白紙の1年用紙1枚50コペイカから1ルーブリ、5年用の手帳1冊1グリヴナ(原注)という、ごく手頃な値段でこの品を手に入れる供給源があった。印章と署名は、親しい知人の旅券からトレーシングペーパーに写しとった。印章がないときは、ふつうの銅の5コペイカ貨を取り、縁の文字をパンで埋めて印章のかわりに使えばよかった。文字など誰もよく見ないし、鷲ははっきり出る。
(訳注)原文は「грешница」。手帳の値段を示す語だが判読しにくく、文脈から少額の硬貨と推定した。
残念なことに、以前もその後も、不躾に見えるのを恐れて、私は通りかかる同志たちに本当の名前を一度も尋ねなかった。合言葉が十分な推薦であり保証として受け入れられていた。今になってそれが悔やまれる。名前のない回想は、何か個性を欠いたものになってしまうからである。多くの興味深い事実や場面が記憶から消えてしまうのは、かなりの程度、それらが名前との一定の組み合わせで意識に刻まれなかったためである。それでいて今、20年たってみると、見覚えのある顔によく出会い、どこで出くわしたのかを思い出すのにしばしばひどく苦労する。この時期に仕事の上であまりに多くの人々が通り過ぎ、あまりに多くのロシアとシベリアの空間を踏破したからである。
国境の向こうから通りかかった若い女性がヤフカに立ち寄った。ノスコフの三階建ての合言葉を携えて。彼女の顔には何か普通でないところがあった。話しているあいだじゅう、それがいったい何なのかを突きとめたいという落ち着かない気持ちが消えなかった。そして、帰りぎわに彼女が帽子をかぶりはじめたとき、ようやくわかった。眉と髪は「からすの濡れ羽色」なのに、額の上と両脇には、明るい色の縁が均一な層になっていたのである。どうやら染めてからだいぶたち、髪が自然に伸びて本当の色が現れたのだった。引きとめて直してもらわなければならなかった。どうやらそれはスターソワだったようだ(原注)。
(原注)1904年か1905年初めに、アファナーシエワ(党名「グロンド」)が、髪の染料を顔に塗りつけたままペテルブルクのヤフカに現れ、こういう状態になったことがある。編集部
事業の拡大は、新しい人員と「機能ごとの」分業を必要とした。一人ではもうどこへも手が回らず、昼も夜も足りなかった。文献を各委員会へ運んで回る必要もあった。そのためにノスコフはキエフからポノマリョフ(1905年以後は党活動から離れた)と「ルカ・セミョーヌイチ」(原注)を送ってよこした。ポノマリョフは私と一緒に住み、ルカは別のところに部屋を見つけた。前者は「暗号部」と「旅券部」を引き受けた。ルカは文献を地方へ「配送」する仕事についた。回転は活発になった。地方とのつながりは固まった。
(原注)イワン・ブロニスラヴォヴィチ・オゼンブロフスキー。
ルカは自分の役目においてかけがえのない人物だった。落ち着いていて、バランスがとれ、計算された秘密保持の態度を持っていた。共同生活ではよい仲間だった。仕事では良心的で控えめな働き手で、物事に単純な生活の知恵で向き合った。そのおかげで、ときに「事態を救った」。
あるとき、手荷物を受け取りに駅へ送り出した娘が、息を切らし、興奮して駆けこんできた。
「つけられました……」
「誰が? あなたが?」
「いいえ、荷物がつけられたんです。私は逃げてきました。赤帽に預かり証を渡して荷物を受け取ろうとしたら、そのあとから憲兵がついていったんです。もちろん、待っているなんてばかげています。それに今日は駅の様子が全体にとても怪しいんです。もうここから出ていかなければならないと思います」
ルカは片目で彼女を見た。
「ただ、まず荷物を受け取らなければいけませんな」
娘はあっけにとられた。
「お嬢さん、神経がまともでいられるように、よく眠らなきゃいけません。あなたを押さえておかずに赤帽を見張りに行くなんて、そんな憲兵がいたら大ばか者ですよ」
「でも、その憲兵は赤帽のあとからついていったんですよ?」
「つまり自分の用事でね。行きましょう!」
そして彼は彼女を駅へ連れ戻した。彼女は赤帽の番号も忘れていた。人相を手がかりに探し、尋ね回らなければならなかった。赤帽はもう交代して昼飯に帰ったことがわかった。ルカはしぶる娘を彼の住まいまで引っぱっていった。
「お探ししたんですがね、探して探して。それから交代しなきゃならなくて。お荷物は仲間のところに置いておきましたよ」
当時の一般の活動家たちのあいだでは、戦線の展開にまだ十分に適応できていないことを示すこうした珍事が多かった。ときにはそれが笑い話のようで、実際に笑い話になった。
着いたばかりで偽の旅券を住民登録に出した同志の一人が、分署に呼び出された。彼はうろたえず、この呼び出しを避けずにそこへ出頭した。彼の非合法とは何の関係もない、いくつかの型どおりの質問をされ、それから、普通の住民と同じように無事に帰された。
だが、分署に入るときの彼の神経の緊張はあまりに強く、署長との会話の結果は予想していたものとあまりにちぐはぐだったので、彼は動転してしまったらしい。
署長との会話を無事に終えると、分署を出る前に、彼は控えの間で、巡査(?)のそばで、ここへ来る前に家でしておくべきだったことを始めた。ポケットを空にすることである。そこには檄文があった。彼はすぐにそれを引き裂いた。そしてもう一枚の紙切れを、たぶん住所が書いてあったのだろう、あわてて食べはじめた。
巡査は初めは彼に注意を払わなかった。だが檄文をどうにかするところで、もう驚きを引いた。出口で立ち止まって、あわててポケットから紙を出しては破いている、なんと奇妙な男だろう。そして同じようにあわてて紙切れを噛みはじめたとき、驚きは当然ながら疑いに変わった。
「何をしておられるのです、旦那?」
この単純な問いがたちまち旦那を我に返らせ、自分のしたことのばかばかしさをすべてあらわにした。おそらく狼狽の色がよぎり、巡査の疑わしげな目がそれをとらえたのだろう。
その同志は、もう分署から出ることはできなかった。
日露戦争が始まった。通りを、先頭にツァーリの肖像を掲げ、しんがりに巡査の一隊がついた、貧弱な示威行進が這うように進んだ。安物のけばけばしい額縁に入った市場の肖像画が、先頭でぶざまに、ゆがんで揺れていた。旗手の二人には軽すぎたので、二人は「歩調を合わせて」歩く必要を感じなかった。それでツァーリは、片方の端でびっこを引いたり、もう片方でがくんと揺れたりした。それは滑稽で、みすぼらしかった。明らかにツァーリを嘲弄するものになっていた。行進している者たち自身がそれを感じて、挑むような怒りの目であたりを見回していた。住民の気分はしらけていた。「中間層」のわれわれへの共感は強まった。あらゆる手助けがより快くされるようになった。機構は何の滞りもなく動き、住所にも住まいにも少しも不足しなかった。4か月のあいだにわれわれの中継所を20〜30プードの文献が通過した。しかも一度の摘発もなかった。当時としては、これはなかなかの実績だった。活字も通った。旅券も印章もあった。
保管用に、中継される文献の見本を揃えて保存できる、もう一つの特別な住まいが必要になった。ここでは、それをもとに、のちに模範的な非合法図書館をつくることもできただろう。
この仕事を引き受けたのは、運搬にあまり縛られていなかったマルファだった。彼女は運がよかった。住まいがあまりに都合よく、家主から隔てられていたので、印刷所を組織する必要が生じたらその使い道を考え直そうということになった。
マルファは一人暮らしだった。秘密保持と住民の好奇心という点から、これは初めわれわれを戸惑わせた。彼女のところへはときたま私が立ち寄らなければならなかっただけである。だがまもなくこの問題も片づいた。住民の好奇心は私の訪問に落ち着きどころを見いだし、自分の満足する説明をつくりあげたのである。その後は、マルファの留守のときでも私はそこに立ち寄ることができ、専用の鍵さえ持つようになった。
総じて、住民の「ロマンティックな」気持ちと、いくらか普通でない現象を単純に説明しようとする傾向は、いつでも利用することができた。ただ、そういう場合には事をより単純に扱い、込み入った作り話をこしらえないことが必要だった。そうした作り話は結局、事をこじらせ、「関心」を呼ぶだけだったからである。
ノスコフが来たあるとき、彼をスモレンスク駅からではなく先へ送り出す必要があった。彼の党名と組織上の役割はすでにオフラーナに知られており、彼は移動にあたっていくらか変装をしなければならなかった。ちょうどマースレニツァ(謝肉祭)の時期だった。だから町の外の最寄りの小駅まで辻馬車を雇うのは難しくなかった。まして、ノスコフには荷物もトランクも何もなかった。
昼間に出て、たそがれ前に駅に着いた。列車まで1時間ほど待たなければならなかった。少し冷えたし、馬を休ませて飼い葉をやるためにも引き具をゆるめる必要があった。駅のすぐそばから村が始まっていた。ある農家の庭に入り、サモワールを頼んだ。ところがコップに一杯ずつ注いだとたん、列車の近づく音が聞こえた。ノスコフは手提げ箱から判事の制帽を取り出し、かわりに自分の帽子をしまい、われわれは、茶を飲んで馬に燕麦を買ってやるよう御者に言いつけて、駅へ向かった。
15分後、ノスコフを見送って、私は置いてきたサモワールのところへ戻った。もう暗くなっていて、農家にはランプがともっていた。部屋には5、6人の百姓がいた。われわれの御者は隅に座って、どうしてよいかわからない様子だった。茶の入ったコップは手つかずのままテーブルに残っていた。
おかみさんに「サモワールをまた沸かして」と頼み、御者に、馬に飼い葉をやったかと尋ねる。彼はすっかりしょげかえる。
「飼い葉どころじゃねえ、足を抜いて逃げ出せりゃいいくらいで」
わけがわからない。あたりを見回す。一同、目をそらす。御者が説明する。
「巡査部長を呼びにやろうってんでさ。どこの馬の骨を連れてきたかわからねえって。あとで俺たちが引っぱられて、あれこれ問いただされるって」
「誰か、それで困る人でもいるのか?」
「こいつらと話してみなせえ! 俺の知ったことかい? 雇われたから行った、それで食ってるんで」
周りの者たちの、会話をじっと見守っている目つきと「知らんぷり」から、もう考えは固まっていて、ただ何か最後の確信、iの上の点を待っているのが感じとれる。おかみさんもサモワールをなかなか沸かし直そうとしないのに気づく。
「どうしたんだね、ご主人?」
「わしらのとこでは別にどうもせん。ただあんたらに何かご用があるんなら、そいつはわしらにはわからん、あんたのほうがよく知っとるだろう」
「待ちなさい、はぐらかすんじゃない。『あんたらの』どんな用のことを言ってるんだ? はっきり言いなさい」
「わしらには同じこった、はっきりでも、ひねくれてでも。あんたの連れはどこへ行ったね?!」
「行ってしまったよ」
「行ってしまった? なんで町からじゃなく、ここから行かなきゃならんかったんだね? どんな用事で十露里も手ぶらで追い立てられるもんかね? 帽子まで、ほれ、かぶり替えて!」
「やれやれ、利口な頭のそろったことだ。6人も集まって、帽子一つを前に考えこんでいる。もう少し考えてみれば、事の真相に行きつくかもしれないよ。こっちはそのあいだに茶を飲んでいよう」
すぐに説明をこしらえてはいけないと本能的に感じる。留守のあいだに不信は固まってしまっており、反論は言い逃れをしようとしているとみなされるだろう。それは疑いを強めるだけだ。雰囲気が少しやわらぐのを待たなければならない。外套を脱いでテーブルにつく。おかみさんがかまどを開けて熱い炭を探る。御者を誘う。
「どうせもう連れ戻せないさ。茶を飲もう」
「そりゃそうだ。馬に飼い葉をやれりゃなあ」
「なあご主人、巡査部長は巡査部長として、とにかく馬には飼い葉をやらなきゃ。馬に罪はない」
主人は答えなかったが、御者にどれだけ燕麦がいるかを尋ね、息子に出してやるよう言いつけた。黙って茶を飲み続ける。私は話を始めず、彼らも黙っている。とうとう主人がこらえきれなくなる。
「ここからどこへ行くね、また町へかね?」
「もちろん」
「それじゃ、ひと仕事片づけたってわけだ?」
「すっかりじゃない」
「すっかりじゃないとは? 連れは行っちまったって言ったじゃないか?」
「行っちまったさ、ただ全部じゃない」
「つまり、何か荷物でも置いていったのかね?」
「荷物よりたちの悪いものをね」
好奇心が耐えがたくなって彼らを押さえつける。一人が問いただし、ほかの者たちはじれったそうに答えを待っている。口調はもう前とは目に見えて違う。警戒はまだあるが、敵意は薄れてきたようだ。問いにわざとこめた皮肉が、ごく普通の住民の好奇心を覆い隠している。これを逆手にとらなければならない。
「女が残ったんだよ。それも他人の女房だ。あいつは用事で出かけなきゃならないのに、女が放さない。嘘つき、嫁をもらいに行くんだろう、と言うのさ。生きていられなくなってもいいから、あんたの目をひっかいてやる、とね」
「ほんとに、ひっかくぞ!」
「そういう女はほかにもいるさ、おっかないのが。自分の身も惜しまずに、我を通すんだ」
「ほら、遠くへ行かなくたって、ポチンキにも……」
「そんな女からなら、兄弟、十二露里どころか、地の果てまで逃げ出すさ」
皆がいっせいに、我先に叫びだした。説明はわかりやすく、しかも十分に興味をそそるものだった。こっそり発った理由はまったくもっともなものに思われた。
「二日続けて、あいつは町で荷物を持って駅へ行った。ところが女はもう先に来ていて、騒ぎを起こしはじめるんだ」
「そうか、そうか。それがまさに……」
「つまり、女に好かれたってわけだ……」
「それで、着のみ着のまま、身ひとつでこっちへ来るしかなかった。帽子まで、町で見つからないように隠したんだ」
「たいした女だな! 他人の女房だろうと、あんたはあたしのもの、だとさ!……」
「あんたらみたいなのにはそれが当然さ」とおかみさんが口をはさむ。「寝ることばっかり好きで……」
「それからしっぽを振って、いなくなる」
百姓たちとおかみさんのあいだで、男と女それぞれの美点をめぐる際どい応酬が始まる。おかみさんは本気でかっとなる。本気で言い返す。百姓たちは冗談を飛ばし、この機に乗じてきわどい話を一つ二つはさむ。茶を飲み終え、勘定を払い、支度を始める。巡査部長のことはもうひと言も出ない。まるでそんな話などなかったかのようだ。御者が帰り道を尋ねる。どう行けばいいか、どこで右へ寄るか、どこで目印の竿をたどるかを教えてくれる。そして皆そろって通りまで見送りに出てくれた。
「ご無事で。またおいでなせえ!」
「そちらこそ、お客においで」
8
最初から、仕事は独立採算で組み立てなければならなかった。党はまだあまりに弱く、こうした機構を一つでも維持することはできなかった。自由主義者の寄付は、ある程度シュトゥットガルトに吸い取られていた。あれこれの夜会の売り上げ、寄付名簿、(統計家のような)インテリ・プロレタリアの稼ぎからの拠出、そしてごくまれな、その人の予算外の収入からときおり引き出すものでは、まったく不十分だった。それなのに、8〜10人の生活を支えなければならず、そのうえ、旅費、運送料、配達料、白紙の旅券用紙の購入、その他の細々したあらゆる「間接経費」があった。
それゆえ、働き手のうち稼ぎを得られる者は、それを得る義務があった。そのほかのすべての出費は、われわれから文献を受け取る地方組織が負担しなければならなかった。文献には重さに応じた一定の値段が定められた。たしか、国外のものは1フント40ルーブリ、ロシア国内製のものは15ルーブリだった。ばね式の引き手秤がビューローの必需品となった。だが秤はいつも分配の作業を締めくくるだけだった。分配そのものは重さではなく、あれこれの題名の部数によって行われ、その組織を相対的に満足させるだけの割当てに応じて決められた。この割当ては、一部は各組織の力量にもとづいて前もって決められ、一部はのちに、組織自身の同意を得て定められた。
そして委員会は喜んでこれに従った。というのも、自分で文献を手に入れようとしていたときよりも、やはりずっと安くついたからである。しかも今ではもっと多くを受け取れた。最初の配送のあと、支払いの手続きが整い、2回目の配送のときには代金があらかじめ用意されていた。
マルファとゲインも、私と同じように自分の稼ぎで暮らしていた。ポノマリョフ、ルカ、それにもう一人の同志は、すっかりビューローの金庫で養われることになった。ふつうの出費のほかに、通りかかる人々を援助しなければならなかった。また、わずかではあっても、中央のための一定の基金を取り分けておく必要もあった。こうしたことすべてを、実のところ楽にこなし、中央委員会の金庫への決まった定期的な拠出についてさえ考えはじめていた。のちに、別の拠点での仕事でそれは実現した。だがその際、この拠出を地区の印刷所の設置に充てるのが合理的だと考えられた。サマーラでそれがうまく実行されたのである。
9
忙しい一日のあとで、とりわけ休みたいのに、その点で自分の住まいが魅力的でないとき、私はよくゴルプコフのところへ出かけた。たしかに彼は遠く、川向こうに住んでいた。だが彼のところは暖かく居心地がよかった。おいしいお茶とモンパンシェ(キャンディ)をふるまってくれた。そして2、3時間が話のうちに知らぬまに過ぎた。
あるとき、とりわけ彼と話したくなった。そしてもちろん、いつもの習慣ですぐに「仕事上の」口実が見つかった。彼の住まいには、このときまだ分配されていない運搬物の一部と、旅券の束が保管されていたのである。庭に入ると、ロトンダ(婦人用の袖なし外套)にくるまった女性が出てくるところだった。
ゴルプコフの借りている中二階に上がると、興味深い光景に出くわした。背の高い主人がペチカの前にうずくまり、ごく落ち着き払って文献をくべようとしているのである。
「どうしたんです?」
「今日家宅捜索があるという警告を受けたんです。おかみの娘がもう一部を知り合いのところへ運び出したし、まだ持っていってくれます。でも全部は運べない。燃やすしかありません。ひどく惜しいけれど!」
彼のおかみは監獄に牛乳を納めていて、捜索のことを警告したのは彼女だった。急がなければならず、われわれに知らせるのは、それほど近くないので時間がかかりすぎた。私が偶然来たのはまったく好都合で、片づけの作業は始まったばかりだった。門ですれ違ったロトンダの女性は、最初の一往復に出ていくところだったのである。そして愛すべきアレクサンドル・パーヴロヴィチは、まだパンフレット一冊の半分も燃やしていなかったろう。
ペチカの焚き口は腹立たしいほど小さく、2ヴェルショーク四方ほどしかなく、本は一枚ずつくべなければならなかった。ところが彼のところには少なくとも1プードはあった。だからこの方法で処分するとしたら、少なくとも1週間はかかっただろう。
「ロトンダの下に入れても、たいして運べやしないでしょう……」
「ええ……」
「袋か敷布は何かありますか?」
「この毛布なら」
あったものを全部選び出して毛布に包む。かなりの包みになり、通りで洗濯物を背負って運ぶ洗濯女の包みと見分けがつかない大きさと形である。旅券の束は別にポケットに入れる。包みを背負い、その置き場を探しに出かける。
月が、服を脱いだように、憂いも偽りの恥じらいも捨てて、人けのない通りを明るい光で浸している。百歩ほど先、菜園越しに、塀の上に監獄の高い建物が見える。その壁に、屋根のすぐ下の高いところに、独房の小さな窓が黄赤色の斑点となって浮かんでいる。木戸を開けると、地下室から押し出された者のような不安な感覚にとらえられる。通りは洗い流されたようで、向かい側の歩道の狭い帯だけが影になっている。明るい側には私のほか人っ子一人いない。そして向こう側の、監獄の方から、黒い大きな護送馬車がやって来る。
兎狩りのときはこうなる。犬が跡を追って迫る。兎は空き地を横切ろうと飛び出す。だがその前に、選んだ方向が安全かどうかを確かめなければならない。そのために一瞬、進もうとする道に対して直角に座りこむ。そしてその止まった瞬間に、まるく瞬きもしない目のまさに中心に、ただ一つのものがとらえられる。銃を構える猟師である。
足が歩道から離れない。馬車はゆっくりと木戸の方へ曲がってくる。一瞬、考えがよぎる。庭へ引き返し、包みを捨てて、塀や菜園を越えて逃げ道を探そうか。その考えと同時に、明るい歩道を監獄の方へ曲がり、規則正しい、急がない足取りで歩きだす。足には並外れた軽さと、一気に通りを飛び越えて向かいの塀の影に隠れたいという衝動が感じられる。聴覚は後ろへ、あまりにゆっくりと、そりの滑り木をきしませながら曲がってくる黒い大きな馬車の方へ集中する。そしてこの耳を切るような滑り木のきしみから、それをかき消す叫び「止まれ」をただひたすら待ち受ける!
馬車は曲がった。止まらずに追いつき、通り過ぎて、監獄の門の前に止まる。同じように規則正しく、急がずに、通りを横切って影の側へ曲がる。後ろから肩越しに誰かがのしかかってくるような気がして、またかかとに軽さがこみあげる。もう影さえ信用できない。影が待ち伏せを隠しているように思える。そしてもう後ろに何が潜んでいるかが見えないばかりか、前方の塀の柱の陰ごとに、何か生きた人影がうごめいているように思える。
もう一つ角を曲がると――辻馬車がいる。包みを膝掛けの下に入れ、町の中心へ向かう。興奮は消えないが、危険の感覚はもうない。それは後ろに去り、追手はいない。われわれは普段の人の流れに紛れこみ、その目立たない合法的な一部となる。
そして今になってようやく、これからどうするか、どこへ向かうかを考えはじめる。もう夜の10時で、田舎町のこととて、どこでも戸が開いているとはかぎらない。
ある「エクステルン(検定受験生)」のところに寄ることに決める。彼はときどき来訪者に宿を提供してくれ、もっと十分に利用してくれと頼んでいた。彼の住まいはわれわれの資金で維持されていた。だがそれを恒常的に使うことは、これまであれこれの偶然に妨げられてきた。家主との関係がうまくいっていなかったり、通りの周囲の様子に何か怪しい細部があったり、家主のところに巡査が来たりしたのである。住まいを何か恒常的な役目に使うという話が出るたびに、エクステルンはそうした細部の一つを指摘し、完全に確信を持つために「仕事のために」二日ほど待ってほしいと頼んだ。二日が一週間に延び、住まいの必要はなくなるか、別の組み合わせで満たされた。そしてエクステルンは自分の住まいを「秘密の住まい」と思い続け、われわれはそれを「万一のために」確保しておいたのである。
目指す住まいの少し先で辻馬車を止め、馬車が去ってから、包みを持って歩道を逆方向へ歩く。扉にはまだ錠がかかっておらず、あたりに他人の目は一つもなく、主人は在宅している。現れたわけを説明する。
「思いがけず同志がさっき着いたんです。泊まる場所は見つけたけれど、彼の持ってきた文献を、せめて明日まで、ここに置いておかなければならない」
「それはけっこうです。無事だと思いますよ」
そして説明する。
「実は、今日ヴィテプスクから姉が来ましてね。向こうで組織とつながっているんです。でも尾行はまだついていないようです」
「そう? それならなおいい。包みは今夜はここに置いておきます。でももし、どこか別の場所で一晩過ごさせたほうがいいとお思いなら、服を着てそこへ運んでください。明日、別の住所をお渡しします」
彼がそれを喜んでいないこと、どんな夜の旅にも出かけるつもりのないことが見てとれた。私の言い方のきっぱりさが彼を押しつぶし、彼はもう住まいの安全について私に疑いを吹きこもうとはしなかった。どうやら避けがたいことに従うことにしたらしい。彼が気の毒で、包みの運命が少し心配になったが、こんな遅い時間に新しい出口を探すのは無理に思えた。
住まいを出てから、ポケットの旅券の包みに手が触れた。忘れていたのである。それを持ってエクステルンのところへ戻るのはばかげていた。マルファのところに寄って預けなければならなかった。
翌日、「エクステルン」は私より先にヤフカに来ていた。眠れぬ一夜のあとらしく、青ざめて陰気な顔をしていて、「別の」住所を受け取りに来たのだった。彼のところへはルカが出かけ、包みを運び出す前に、いつもの落ち着いたきしむような声で、まる1時間、今回のような場合、つまり危険がもう去ったとみなしはじめたまさにその瞬間に危険がやって来た例を話して聞かせ、彼の神経を引き絞った。
「こんなこともありましたよ……ハリコフでね。住まいのなかの文献は、警察がそこにあると知っていても見つけられないほどうまく隠してあった……ええ……。それを運び出す必要が出てきた。取り出して、荷造りした……。貴重な文献でした。そしてちょうど扉から出ようとしたとき――警察が扉のところに。どうぞお待ちを! 五分早く運び出すのを急いでいれば、全部無事だったのに。ええ。もう一本吸ったら、退散するとしましょう」
約束されたゴルプコフのところの捜索はなかった。だからわれわれの品物の安否についての心配は大げさだったのである。あとでわかったところでは、彼のおかみから出た捜索の警告は、彼に対する彼女の利他的な気持ちから生まれたものだった。監獄で「政治犯」と接触していた彼女は、勘で下宿人への私の訪問の性格を見抜き、彼の身を案じて、私を遠ざける方法を考え出したのである。それはある程度うまくいった。もっとも、自分の娘がこの件に思いがけず示した共感までは、彼女の計算もおそらく及んでいなかっただろう。
だがこの出来事を、われわれはその起こり方の性格にかかわりなく、別のかたちで、外界との関係において考慮しなければならなかった。どんな機構もどんな組織も、仕事が進むにつれて、どうしても衝撃を受けはじめる。どれほどうまく組み立てられ、どれほど円滑に機能していようと、故障が始まる瞬間は避けられない。非合法の仕事ではとりわけそうである。確率論はここでも数学と同じように当てはまる。この事実は、決して個人的なものではなく一般的な性格の最初の警告として、機構、ヤフカ、住まい、周囲との関係の「摩耗」が始まった結果として評価されなければならなかった。そのある部分が「すり減り」はじめ、きしみはじめていて、それが機械全体の停止につながりかねないことは明らかだった。この機械の何かを取り替え、その目に見える細部をいくらか変える必要があるという結論に行きつくのは、まったく自然なことであった。そして同じく自然に、自己評価、より正確には、自分の行動とその状況との関係の再評価に行きついた。
警告は、それより少し前に起きた出来事によっていっそう重くなっていた。その少し前、ポノマリョフが用事でキエフへ出かけ、何の知らせもよこさなかった。それから手紙が届き、温めると暗号化された三つの単語だけが現れた。署名も鍵の手がかりもない。長いあいだ頭をひねって暗号を解こうとし、ようやく、この三つの暗号語は「ニコライ・フョードロヴィチ逮捕さる」を意味するのではないかという推測に行きついたとき、それが解けた。単語は文字数の点で合っていた。「о」の文字はどの場合も同じ数字で表されていた。「а」も同様だった。鍵が見つかった。それを全体に適用すると、仮説が裏づけられた。
当時は注意を引かなかった、もう一つの細部も思い出された。ある商店の主人が、「封入物つき」書留郵便を受け取るのに彼の住所を使うことを許してくれていた。だが、そういう手紙を受け取ったとき、宛名の性格をよく見るのを忘れ、自分のものとして店から家へ持ち帰り、開封してしまった。そこにあったのは、たかだか『オスヴォボジデーニエ』だった。だが彼は良心的で、ひどく臆病な人だった。捨てることも処分することもできず、かといって手元に置いておくのも怖い。しかも隠そうとするどんな場所も信用できないように思えた。「置いたとたんに、そいつが叫びだしそうな気がして」。恐怖のあまり腹痛が始まっても、彼は『オスヴォボジデーニエ』の入ったポケットを手で押さえたまま走り回っていた。そして朝まで食べも飲みも眠りも服を脱ぎもしなかった。明るくなってようやく落ち着いたのである。
運命をいつまでも試すわけにはいかないことは明らかだった。住所やヤフカや住まいのあいだを一日じゅう町なかで歩き回り続ければ、スモレンスクのように比較的活気のある町でさえ、田舎町では誰の目にも留まらずにはいられない。日一日と、細部が細部に重なって、知らず知らずのうちに「名が知れ」、一定の刻印が押される。そしてそこから、自分の尾行をいくら確かめようと、通り抜けられる中庭の地理にいくら通じていようと、結局は逃れられない。それどころか、時がたつにつれて、こうした最後の手段さえもう人を暴露するものになっていく。量が質に転化するのである。
よく考えてみると、全機構の中心的な結節点として私がここにこれ以上とどまることは、機構にとって命取りになりかねないことが明らかになってきた。
グループもこれに同意した。そしてノスコフが次に来たとき、私をオーストリア国境へ移すことに決まった。そこではちょうどこのとき、たしか(旅券上の)クドリンが逮捕され、ルートが滞っていたのである。
だが、出発の準備とつながりの引き継ぎをしているあいだに、スモレンスクの地平から姿を消す必要がまったくはっきりと現れた。
私自身の住まいが、いくらか注目の的となったのである。二晩続けて、たそがれどきに門のあたりに同じ人影がちらついた。そして下の階の将校のところへ、陸軍大学の入試に二度落ちて、今は憲兵隊への配属を待っている同僚が、不意に訪ねてきた。そして同じく不意に、私は下の階へお茶に招かれた。その際、人のよい将校の妻が、今日はうちに大切なお客さまが来ていて、あなたと知り合いになりたいそうよと耳打ちした。彼女は「庶民」の出で、そんな高い関心を寄せられるのは私にとって光栄で嬉しいことだと、心から信じていたのである。
戦争の話、クプリーンの『決闘』の話をした。文学一般の話に移ろうとしたが、家主夫婦がすぐにしょげてしまったので、うまくいかなかった。そこで笑い話に移った。夜会は冴えないまま終わり、どうやら誰も満足しなかった。
だがもう自分の住まいに泊まる気にはなれなかった。枕と毛布を旅行用の袋に巻きこみ、駅へ行き、そこでしばらくうろうろしてから、ホテルに泊まりに行った。昼間、その前に来ていたゲインの兄弟の元学生と話をつけ、彼が私の住まいに入って様子を見ることにした。そしてさらに一日後、私は任地へ発った。
私のかわりにA. P. ゴルプコフが残った。そして2か月ほどのちにまたここを通ったとき、事業は続いており、摘発されたのは商店の住所一つだけで、それとルカが私と同じように去らなければならなくなっただけだった。だがこのときも、通りでは用心して、できるだけ夕方に歩かなければならなかった。
訳注(北部ビューロー)
- 本章は、第1分冊目次の「ソコロフ, V. N. 中央委員会(ボリシェヴィキ)の運搬・技術ビューロー」の連作6部のうち第1部。原文の見出しは「中央委員会(ボリシェヴィキ)の運搬・技術ビューロー 北部ビューロー(スモレンスク)」。
- 節番号は原文に「1」「3」「4」「5」「6」「8」「9」が見え、「2」と「7」はテキスト層では見当たらない(スキャンでの欠落か、原本の番号の誤りかは確認できない)。訳文では見える番号のみを示した。
- 「ブローニ」「オディギトリヤ」はスモレンスクの地名(ブローニエは公園、オディギトリエフスカヤ教会周辺)。「城壁口」はスモレンスク城壁の切れ目。
- 「シュトゥットガルト」は、P. B. ストルーヴェらが自由主義派の雑誌『オスヴォボジデーニエ』を発行していた地。自由主義者の寄付がそちらに流れたことを指す。
- 「グロムイカ」はスモレンスク県憲兵局長の将軍。キシニョフの『イスクラ』印刷所(ゴリドマン)事件は1902年の摘発。
- スターソワ(E. D. スターソワ、党名「アブサリュート」など)。原注によれば、髪の染料の件は別人アファナーシエワ(「グロンド」)の出来事の可能性がある。
- 本章末尾の数段落(「グループもこれに同意した」以下)は、PDFでは次の第2部(東部地区)と同じ頁(56頁)にある。
- 「ヴェルショーク」は約4.4cm、「フント」は約410g、「プード」は約16.4kg。