L. B. クラーシン「自伝的覚え書き」

革命がわれわれに課す異常に急なテンポのなかで、日々の仕事をこなしながら、思いをまとめ、過去の経験をいくらかでも筋道立てて紙に書き記すのは難しい。だがイストパルトは、しつこい債権者のように毎日のように催促を繰り返すので、できることをできるようにやるほかなく、あらかじめ読者にお詫びしておく。

私は1870年7月15日、西シベリアの草原の小さな町クルガンで生まれた。この町は戦争前の最後の数十年のあいだに、シベリアのバター製造、穀物その他の農産物の取引の大きな中心地に成長した。

幼年時代は大部分、トボル川、イシム川、トゥーラ川のほとりの田舎で過ごした。このことと、理想的な家庭環境とのおかげで、私は丈夫な体を授かり、それがその後の人生の有為転変を大きな損なしに乗り切る助けとなった。家族は大人数だった。父の稼ぎは家族の必要を満たすのがやっとであったが、それにはそれなりのよい面もあり、子どものころから自分の力と資源を見積もり、持っている以上の暮らしをしない習慣が身についた。

亡き父と母を思い出すとき、私たち兄弟姉妹が自分の足で立ちはじめるまで家庭で享けた、完全な自由と、同時に思いやりと心配りに満ちた指導という、当時としては例外的に健全で非凡な環境をつくりだした功績を、どちらにより多く帰すべきかわからない。ここで大きな意味を持ったのは、シベリアのインテリ、商人、町人のかなりの部分が、代々、シベリアに流されたポーランドの蜂起参加者や、最初のナロードニキのサークルから「人民の意志」に至るさまざまな傾向の政治流刑囚の果てしない列といった人々の思想的影響のもとで育ったことである。

シベリアの大河のほとり、果てしない森、草の茂るステップや草地の自然のなかで過ごした幼年時代は、早くから私のなかに自然科学への強い関心を植えつけた。それを大いに助けたのは、チュメニの実科学校(私と兄弟たちが卒業した中等学校)が、実質的には小さいながら設備のすばらしく整った工業専門学校で、広い自然史博物館、物理・化学の実験室、乾留、石鹸製造、機械工作の実習工場を備えていたことである。この学校は、シベリアの傑出した通で百科全書的な知識人であるI. Ya. スロフツォフによって創設され、長年運営された。彼は生涯にきわめて豊かな収集品を集め、それがチュメニ実科学校に一つの博物館をなしていた。トルストイの古典主義教育の時代から、私はもう高等教育へと抜け出していた。教師のなかには自己教育サークルの結成を後押しする者もいたが、実際のところ、私たちは皆、政治的にまったく中立的な若者として中等学校を出ており、関心はむしろ化学や工学その他の応用科学の方に向いていた。

1887年、私はペテルブルク工科大学に入り、最初の2年間は学問に励んだ。当時の工科大学の、大きくて荒れ果てた無愛想な馬小屋のような実験室、形式主義的な助手たち、学生と話す時間など一度も持たない教授たちに比べて、田舎のシベリアの町の、より広く明るく設備の整った実験室を懐かしく思い出しながらである。初めはシベリア同郷会に、次いでチェルヌイシェフスキーの注を付したジョン・スチュアート・ミルの経済学を学ぶ自己教育サークルに加わり、それからマルクスの『資本論』第1巻を徹底的に学んだことが、ついには、勤勉で成績優秀な学生を、ペテルブルクの労働者のあいだで活動を始めた宣伝サークルの一員にした。それは、ミハイル・イワノヴィチ・ブルスネフとV. S. ゴルーベフが創設した最初の社会民主主義組織の一つで、そこからのちにペテルブルクの最初の労働者指導者たちが出た。このペテルブルクでの活動の時期については、別のところでより詳しく書いた。言い忘れたが、このサークルに入る前の1890年に、私は兄弟とともにいわゆる学生騒擾に加わったが、ペテルブルクからの短期間の追放ののち、工科大学に戻る許可を得た。

オブヴォードヌイ運河での宣伝活動をやめなければならなかったのは、われわれの組織が摘発されたからではなく、やはり学生の「事件」のためであった。1891年3月、作家N. V. シェルグノフが亡くなり、その葬儀は革命的・進歩的な学生たちのデモと化し、100人以上の学生が逮捕され、ペトログラードから追放された。この追放ののち、私は長いあいだペテルブルクに入ることができず、1900年代の初め、シベリア流刑を勤め上げたのちにようやくペテルブルクへの入境を許された。われわれの社会民主主義組織の労働者部分も葬儀に加わり、ペテルブルクの労働者の名でシェルグノフの棺に花輪を捧げた。その赤いリボンには、ペテルブルクの労働者たちが「自由と友愛への道を示した人へ」と書いた。組織そのものはほとんど打撃を受けず、V. S. ゴルーベフも逮捕されてシベリアへ流されたものの、M. I. ブルスネフやほかの同志たちは活動を続けた。このサークルをさらに受け継いだのは、早世した(やはり工科大学生の)S. I. ラドチェンコであり、そのあとにG. B. クラーシン、G. M. クルジジャノフスキー、V. V. スタルコフが続き、彼らはまもなく、わが党の歴史で名高い「労働者階級解放闘争同盟」に加わった。その魂であり組織者であったのは、わが偉大な指導者V. I. ウリヤノフ=レーニンである。

ペトログラードから追放された私は、約1年間ニージニー・ノヴゴロドで暮らし、兵役を勤め、家庭教師や製図の仕事をしながら、そのかたわら、当時生まれたばかりのロシア・マルクス主義の名において、N. F. アンネンスキー、ズヴェーレフ、シュミットら、ニージニーの統計家たちのようなナロードニキ主義の巨頭たちと激しい論争を繰り広げた。

この論争での忠実な戦友は、私の兄弟のほかに、最古参のロシア・マルクス主義者の一人で、『法学通報』のすぐれた論文と、当時のナロードニキ主義の聖書であったV. V. ヴォロンツォフの『ロシアにおける資本主義の運命』を徹底的に打ち砕いた見事な批判的モノグラフの著者、P. N. スクヴォルツォフであった。

ニージニーの牧歌的な日々は、モスクワでのM. I. ブルスネフの摘発に関連した1892年5月の逮捕によって断ち切られた。というのも、モスクワを通りかかったとき、私はP. A. カシンスキー、リプキンその他のモスクワのマルクス主義者の学生たちと連絡をつけていたからである。彼らはペテルブルクから織工フョードル・アファナーシエフ(1905年にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクでカザークに殺された)を呼び寄せて、モスクワの繊維工場に一連の社会民主主義サークルをつくり、その組織に、まもなくペテルブルクの友人M. I. ブルスネフが加わった(ペトログラードでの彼の活動は、秘密保持上もう具合が悪くなっていた)。私はモスクワの人たちの活動に直接加わってはいなかったが、エグーポフに売られた彼らのサークルが逮捕されると、私の住所が見つかり、それだけでモスクワのタガンカ監獄に1893年3月末まで入れられるには十分だった(原注)。予審が終わると、私は「保証のうえ」、トゥーラの第12歩兵ヴェリキー・ルーキ連隊へ釈放され、そこで残りの義務兵役の数か月を勤め上げることになった。

写真は、ニージニーで私たちが身にまとわなければならなかった軍服姿の私である。

(原注)捜索の際に私のところから、M. I. ブルスネフの写真が、当時としてはいささか危ない「西を振り返り、東で会おう」という書き込みとともに見つかった。そして実際、私たちは1897年の夏、イルクーツク近くのウソリエ街道で会った。ブルスネフは流刑囚の一団とともに、その街道をヴェルホヤンスクへと追い立てられていたのである。

モスクワでの1年の未決拘禁と、その後のトゥーラの兵営での数か月で、私の健康はいくらか損なわれていた。1893年11月、N. V. ヴォドヴォーゾフ(やはりペテルブルクのマルクス主義者の一人だが、工科大学生ではなく総合大学の学生)が、クリミアの南岸で数か月過ごさないかと勧めてくれたとき、私は喜んでこの申し出に飛びついた。ましてペテルブルクへの帰還は閉ざされており、ブルスネフ事件が片づくまで私は公然の監視下にあって、家庭教師やその他の臨時の仕事以外には何もできなかったのである。

クリミア滞在はよい休養になった。私はシメイズからアルシュタまでクリミアの南岸をすべて徒歩で歩き回り、『資本論』第2巻を読み上げ、(獄中で徹底的に学んだ)ドイツ語に加えて、何人かの友人の助けを得てフランス語も少し身につけた。

1894年8月、皇帝アレクサンドル3世がクリミアへ来ることになったため、私は至急クリミアを去るよう言い渡された。皇帝はその数か月後、同じ年の10月に、リヴァディアでつつがなく「神のもとに召された」。やむをえない無為の日々が終わったことを喜んで、私はクリミアからヴォロネジ県のカラチ村へ移った。そこで私は、ハリコフ=バラショフ鉄道の建設に、初めは上級作業員として、次いで現場監督として就くことを許された。この職を世話してくれたのはA. N. トヴェリチノフで、非常に興味深いがいくらか風変わりな、もう年配の人物だった。P. L. ラヴロフの友人で、多くの「人民の意志」派を個人的に知っており、自分ではもう革命運動に大きくは加わっていなかったものの、生涯の終わりまでツァーリズムへの和解しがたい憎しみを失わなかった。もっとも、私の勤めは長くは続かなかった。トヴェリチノフと私は、ある技師、つまり区間の責任者でわれわれの上司を、カラチ駅の位置を不当に選んだということで告発しはじめたのである。彼は駅を地元の大きな穀物商のクラークの穀物倉の近くに置こうとしていたが、われわれの水準儀とセオドライトは、鉄道にとっても住民にとってもより有利な場所を指していた。トヴェリチノフはこの種の暴露をきわめて好んだが、それを、遺伝にもとづく生まれつきの強情さのせいだと、ユーモアを交えて説明した。家伝によれば、彼の先祖の一人、貴族トヴェリチノフは、強情と不服従のかどで、ピョートル大帝によってひげを一本ずつ抜かれたのだという。12月、ヴォロネジの鉄道の上層部は、私とトヴェリチノフを鉄道から解雇することに決めた。後者は技師として裁判所に訴え、のちには賠償さえ勝ち取った。だが私は、権利のない、予審中の学生として、ヴォロネジへ移って家庭教師の口を探すほかなかった。口探しは長くはかからなかった。1894年12月31日から1895年1月1日にかけての夜、地元の分署の巡査が私のもとへお出ましになり、勅命を告げたからである。「志願兵出身の下士官レオニード・クラーシンを予備役兵卒の列から除名し、3か月の禁錮ののち、行政処分によりヴォログダ県北東部のいずれかの郡へ、3年間の公然の警察監視付きで追放すべし」。ブルスネフ事件の判決は、若い皇帝が裁可した最初の政治判決であった。

貧しい学生の持ち物をまとめ、枕を小脇に抱えて、私は巡査と一緒に辻そりに乗り、その夜のうちにヴォロネジ監獄へ向かい、そこで、50人ほどが寝られる板床のある、とてつもなく広い房に落ち着いた。情け深い巡査は道すがら、ソリヴィチェゴツク郡やヤレンスク郡なら狩りが楽しめますよと私を慰め、気を落とさないよう励ました。判決による90日の拘禁など、1年間の厳しい独房での未決拘禁に比べれば、ほんのつまらないことだった。友人たちが翻訳用にシュルツェ=ゲーフェルニッツ教授の本『大経営』を手に入れてくれ、私はそれをロシア語に訳した。それは、当時まだマルクス主義者だったピョートル・ストルーヴェの序文を付して出版された。またヴォロネジの監獄で、私は初めてベリトフの本『一元論的歴史観の問題について』を読み、このプレハーノフの著作を読みながら、どんなに狂喜して板床の上を転げ回ったかを今も覚えている。そのときから私のマルクス主義的な情熱と意気込みは最終的に固まり、マルクス主義のために全世界を征服することなど、独房のなかの私にはいともたやすいことに思われた。この3か月の拘禁のあいだに、家族は奔走して、指定されたヴォログダ県ヤレンスク郡のかわりに、当時両親が住んでいた東シベリアへ自費で行く許可をとってくれた。許可が下り、1895年5月、私はヴォロネジ―モスクワ―オムスク―イルクーツクの道のりを、バラバ・ステップとシベリア大街道を通って、駅逓馬車で2400露里以上旅した。こんな旅をする者は今はもういない。シベリア鉄道が建設されたからである。

イルクーツクで私は、マルク・ナタンソン、リュボヴェツ、セルゲイ・コヴァリクといったロシア革命運動の始祖たちを含む、百人近い流刑の「人民の意志」派やナロードニキのなかで、最初の社会民主主義者だった。当時のロシアの最も切実な問題、すなわちロシアに資本主義が来るか来ないかをめぐるわれわれの理論論争は、このうえない情熱を帯びたが、それでも流刑囚たちは皆、私を末子のベニヤミンのように扱ってくれ、この時代の個人的な友情は生涯続いた。その前もその後も、これほど多くの最も高潔で純粋な革命闘士が一か所に集まっているのを私は見たことがない。流刑囚の堕落が始まったのはずっとのちのことで、ツァーリ政府が意図的に、政治犯と同時に、同じ待遇で、密偵や半ば刑事犯や刑事犯を入植させはじめてからである。

マルクス主義の問題についての政治論争や報告より先には話は進まず、大きな工業企業がほとんどなかったので、当時のイルクーツクでは地元のプロレタリアのあいだでの実際の活動など思いもよらなかった。私は中部シベリア鉄道、ザバイカル鉄道、環バイカル鉄道で技手として働いた。卒業証書はなかったが、最後の数年はもう技師の仕事をしていた。鉄道での勤めは、十分すぎるほどの稼ぎに加えて、流刑期間の短縮にもつながり、1897年12月にはもうヨーロッパ・ロシアへの入境と、高等教育を修了するための、もっともペテルブルクではなくハリコフ工科大学への入学の許可を得た。もっとも当時の文部大臣デリャーノフは、ハリコフ工科大学の学長が個人的に同意することを入学の条件とした。

クリスマスの直前に私はハリコフに現れ、当時の学長V. L. キルピーチェフの前に出た。彼は入学の条件として、学生のあいだで宣伝をしないことを求めた。キルピーチェフは構造力学の最も有名な理論家の一人で、見事な講義者であり組織者でもあったが、ちょうどそのころ、彼を干からびたデリャーノフ流の役人からキエフ工科大学の自由主義的な学長へと変える、ある種の内面的な脱皮の過程を終えようとしていた。

ハリコフ工科大学での私の学業はかなり風変わりなものだった。実際にはほとんどずっとさまざまな鉄道工事に従事していて、ペテルブルク―ヴャトカ鉄道の測量にも加わり、またシベリアへ環バイカル鉄道の測量に出かけることにさえ成功し、そこで数か月、バイカル湖畔のミソワヤ―ミシハ区間の責任者を務め、ハリコフには、次の単位試験や試験を受けるためにごく短いあいだ顔を出すだけだった。そのあいだも学生生活はそれなりに進んでおり、学生ストライキやその他の騒擾が年に何度も繰り返された。そうした時期にハリコフに居合わせると、私ももちろん全体の運動に遅れをとらず、その結果、このあいだに2度か3度、大学を退学処分になった。こうした退学の当然の帰結として、ハリコフでの居住を警察に禁じられるはずだったが、実際にはそうはならなかった。のちにわかったところでは、大学の新しい学長で、最近ペトログラードで亡くなったD. S. ゼルノフ教授が、私が大学から「退学」になるたびに、警察には何も知らせずに私の書類を自分の机の引き出しにしまいこみ、次の恩赦があると私はまた学生に戻るのだった。その変身のあいだ、私はウンジャ川やネヤ川のほとりにいたり、バイカル湖畔にいたりして、ときにはそのことを知りもしなかった。

1900年までに私はすべての試験に合格したが、何度目かのストライキの罰として、私にもほかの同期生にも卒業証書の交付が1年延期された。ちょうどそのころ、ペテルブルクの大学の同窓で一時V. I. レーニンのサークルにも加わっていたR. E. クラッソン――現在、ロシアの最も大物で最古参の電気技師の一人であり、「ギドロトルフ(水力泥炭)」の発明者で組織者でもある――が、当時設立された株式会社「エレクトロシーラ」の建設工事の責任者として、私をバクーに招いた。

1900年6月、私はバクーに着き、バイロフ岬のまさに先端にある小さな木骨造の小屋に住みついた。バクーでの4年間の集中的な仕事を、私は今でもこのうえない満足感をもって思い出す。われわれはバイロフの丘のたっぷり半分を海に捨て、海から奪い取って発電所の敷地をたしか2デシャチーナほど広げ、そこに中央発電所の壮大な建物、3棟の住宅、揚水場とありとあらゆる付属施設を建てた。仕事はアメリカ式の速さで進められ、現場には労働者やあらゆる身分の人々がひしめき合っていた。そこでは同時に、たしか12か15の言語が話されていた。ドイツ人、デンマーク人、イギリス人などのヨーロッパの労働者や技師のほかに、ペルシア人、タタール人、アルメニア人、レズギン人、オセット人、アブハズ人、グルジア人その他の土地の人々も働いていたからである。企業の主な目的は、油田へ電気エネルギーを送り、それを石油の掘削と汲み上げに用いることであった。新しい電気式の失敗を予言する古い「蒸気」技術者たちの懐疑的で敵対的な態度のなか、われわれ半ダースの若い技師は、掘削と石油採取の過程を調査する先駆的な仕事を進め、建設や組立の工事と並行して、石油産業の科学的電化の基礎を築いた。今では、電気によるエネルギー伝送方式が石油事業全体の合理的な運営の要求に最もよく合致することは、どの技術者にとっても問題にもならないが、当時は、石油事業への電気の応用の商業的、いや技術的な可能性さえ、まだ疑問符付きだったのである。

それに劣らず集中的だったのが、もう一つの分野、すなわちバクーそのもの、さらにはカフカース全体、チフリス、クタイス、バトゥームでの地下の社会民主主義の活動であった。私はそこの組織との連絡のために定期的に出かけていた。それは、国外で『イスクラ』の組織がつくられ、当時はまだ単一だった社会民主党のボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派のあいだの意見の相違が初めて現れた時期だった。

当時バクーで活動していた社会民主主義者としては、N. P. コゼレンコ、L. E. ガリペリン(党名「コニャーガ」)、同志クヌニャンツ(党名「ルーベン」、早世)、同志ラド・ケツホヴェリ(地下印刷所の天才的な組織者)、S. A. アリルーエフ、V. A. シェルグノフ、セミョーン・エヌキッゼ(現在は国立紙幣局の責任者)、アヴェリ・エヌキッゼ(現在は連邦中央執行委員会書記)らを挙げよう。われわれのところへは、I. I. ラドチェンコ(カシヤン)、P. A. クラシコフ(イグナト)らもやって来た。ナデージダ・コンスタンチノヴナ・ウリヤノワのジュネーヴの「カード索引」では、われわれバクーの者は「馬たち」という名で知られていた。

ほどなく、バクー社会民主主義組織の現役の中核のほとんど全員が、あれこれの職務で私の発電所に集まることになった。コゼレンコは簿記係、ガリペリンは統計係、アヴェリ・エヌキッゼは製図工、V. A. シェルグノフとS. A. アリルーエフは組立工といった具合である。発電所、それも建設中のものは、非合法の者にいたるまであらゆる種類の人間を置き、旅券上の便宜を利用し、また文書や活字などを保管するのにきわめて都合のよい拠点だった。しかも最も重要な秘密倉庫は、捜索の際には重油バーナーを1、2個点火すれば、その隠し場所がまったく近づけなくなるようにさえつくられていた。憲兵は2、3度、発電所で捜索を試みたが、どうにもならず、この技術の城塞では何もできないと、あきらめて手を引かざるをえなかった。

バクー市内と油田では、労働者のあいだでかなり集中的な宣伝と扇動が行われ、それはのちに名高いバクー・ストライキとなって現れた。

おそらくそれ以上に注目すべきだったのは、名高いバクーの地下印刷所を組織する仕事である。そこでは中央委員会の定期的な通達や檄文ばかりでなく、『イスクラ』そのものも定期的に印刷した。これについてはすでに別のところでより詳しく語った。

バクーにいたあいだ、わが党の第2回大会が終わるとただちに、私はその中央委員会の委員に補充選任された。

私は1904年までバクーにいたが、カフカースのどこかでこじらせたひどいマラリアのためにザカフカースと別れなければならなくなり、モスクワ近郊のオレホヴォ=ズエヴォにあるサッヴァ・モロゾフの工場へ、中央発電所の建設者兼責任者として移った。

バクーの活動、とりわけ印刷所の資金調達に関連して、私は古い革命家N. M. フレロフを介して、A. M. ゴーリキーと連絡をつけなければならなかった。ゴーリキーは当時すでにサッヴァ・モロゾフの友人であり、サッヴァ・モロゾフを何とかしてわが党にもっと近く、もっと固く結びつけようと心を砕いていた。こうして、私をオレホヴォの発電所に招くという計画が生まれたのである。

サッヴァ・モロゾフは実際、党と『イスクラ』に当時としてはかなりの物質的援助をしており、1905年の彼の自殺ののち、彼がM. F. アンドレーエワ名義のかなり高額の保険証書を残していたことがわかり、その大部分はわが党に充てられ、引き渡された。

オレホヴォ=ズエヴォでの私の仕事は1年に満たず、当時としてはごくありふれた、不運な偶然によって断ち切られた。

1905年2月、モスクワでわが党中央委員会の定例会議が開かれ、私も中央委員としてこれに参加していた。会合はあちこちの住まいで、朝と夕方の一日2回開かれた。ある朝の会合ののち、私は自分の発電所の様子を見にオレホヴォへ行き、夕方にモスクワへ戻って、辻馬車でヤムスカヤ通りのどこかへ向かった。そこの作家レオニード・アンドレーエフの住まいで中央委員会の会合が開かれることになっていたのである。家に近づくと、私は通りのいささか尋常でない様子、とりわけアンドレーエフの家のそばにいる紛れもない密偵たちと、カーテンの引かれていない窓越しに見える、なかに明かりのついた平屋の家のなかの、人々の何か異様な動きに気づいた。私は家の前を2、3ブロック通り過ぎ、辻馬車を帰して、徒歩で通りを反対方向に引き返し、観察の結果、住まいには入らないことに決めた。実際、翌朝になって、中央委員会の全員がアンドレーエフとともに逮捕され、タガンカ監獄へ送られたことがわかった。逮捕を恐れるあらゆる理由があり、また摘発を免れた3人の中央委員の一人として、私はただちに非合法の身となり、中央委員会の活動を立て直し、「フペリョード」グループが提起した党大会招集の問題について一定の決定を下すために、スモレンスク、オデッサその他の南部の都市へ行かねばならなかった。私はサッヴァ・モロゾフのところへ立ち寄ることができ、モスクワから姿を消す必要があることを伝え、工場では私の急な出発を、新しいタービンの発注の件で至急スイスへ出張する必要があるためだと説明してほしいと頼んだ。ロシア南部を回ったのち、1905年4月ごろ私はモスクワとペテルブルクへ戻り、それからやはり非合法にジュネーヴへ出国し、1905年5月、ロンドンでのわが党第3回大会に参加した。この大会で、独立したボリシェヴィキの党をつくることが決定された。

大会が終わると、ジュネーヴにしばらく滞在したのち、私は新たに選ばれたほかの中央委員たちと同時にロシアへ戻った。ペトログラードとモスクワに着いて、タガンカに入っている中央委員たちと連絡をとったところ、アンドレーエフ宅での摘発は私には直接及んでいないことがわかったので、用心のため初めはモスクワ近郊のいくつかの別荘で本名で住民登録をしてみてから、私はふたたび合法の身に戻った。しかしオレホヴォのサッヴァ・モロゾフのところの職は失われていた。ましてそのころにはサッヴァ自身ももうこの世にいなかった。

1905年の夏の終わり、私はペトログラードの「電気協会」に、ケーブル網の責任技師として就職した。ゴーゴリ通りの私の小さな執務室を、おそらく多くの同志たちが今も覚えているだろう。そこへ、今ソヴィエト国家の舵を握っている古いボリシェヴィキの多くが、ヤフカとして私を訪ねてきたのである。

できごとはおとぎ話のような速さで展開し、ガポンの血の日曜日はゼネストと革命の先触れとなり、1905年10月にはもう、ペテルブルクのわれわれのなかにウラジーミル・イリイチがおり、われわれの新聞『ノーヴァヤ・ジーズニ』その他は自前の印刷所で合法的に印刷されていた。この印刷所(「デーロ」商会)には、輪転機と並んで、わがバクーの地下印刷所から運ばれてきて「合法の身となった」、アウクスブルク工場製の小さいが優美な機械も据えつけられていた。

楽しい時代だった! 党の組織づくりの最も集中的な仕事、技術機構の創設、ドゥーマ選挙戦を土台にした大衆のなかでのこのうえなく広範な宣伝と扇動、武装蜂起の積極的な準備、一連の秘密の企てや技術的な仕事――これらがすべて、すっかり時間を埋め尽くしていた。そこへさらに、いつもの合法的な仕事もしなければならず、ペテルブルクの通りに何十露里ものケーブルを敷設し、高圧への移行によって電気網を近代化し、変電所を建て、大規模な工場の電気設備を手がけた。まさにこの時期に、実際の活動の過程のなかで、わが党の背骨がつくられ、十年先までのその戦術の基礎が置かれたのである。

1905年の革命は流産に終わり、ツァーリ政府は初めは徐々に、やがてますます速く「皇帝が下賜した自由」を奪い返していき、それに応じてわが党もますます地下に潜り、以前の非合法の活動方法に戻らなければならなくなった。1907年までには条件があまりに厳しくなったので、ウラジーミル・イリイチやわが文筆家たちの何人かを、また国外へ戻らせなければならなかった。摘発に次ぐ摘発が続き、1907年5月1日には私も、A. I. ルイコフ、そして今は亡きI. A. サンマー(リュビチ)とともに、モスクワで、ある弁護士の住まいへの偶然の一斉手入れで捕まった。もっとも、17日間の拘禁ののち、私は、仕事の用でモスクワに来て、たまたま「アレクセイ」(ルイコフのあだ名)やサンマーと一緒にその弁護士の住まいに居合わせたのだと、憲兵を納得させることに成功した。

この逮捕ののち、ペテルブルクでの私の活動は倍も困難になり、秘密保持を十倍にしなければならなかった。私の住まいと職場の執務室で行われた2、3度の捜索は、憲兵に何の証拠ももたらさなかったが、自由の身で活動できるのもおそらくもう長くはないことを示していた。はたして、1908年3月、憲兵がクオッカラの、妻と子どもたちが住み、私が日曜ごとに通っていた家に踏み込み、たまたま私のところに来ていたYu. A. グロジャンとともに私を逮捕した。何も怪しいものは見つからなかったが、私たちはヴィーブルグの監獄へ送られた。

ロシアの憲兵は、逮捕の際に自由を奪う理由を告げる習慣を持たなかったが、このときは、逮捕と捜索を行った大佐がいくらかほのめかさずにはいられなかった。それは、事件がかなり深刻で、ある不愉快な条文に当てはめられることもありうる、悪い結末になりかねないことを示していた。当時の法律によれば、ロシアの検察は1か月以内に起訴資料を提示し、フィンランド当局に私の引き渡しを要求する権利を持っていた。この期間を脱獄に利用することに決まり、同志たちの強い勧めに従って、私は数日間、そのために必要な窓の格子の準備に勤しんだ。残念なことに、いやむしろ私にとっては幸いなことに、私の独房とヴィーブルグの公園の高台の一つとのあいだの、いささかまずい光の合図のせいで企ては失敗し、私は脱獄に都合のよい病棟から本館の最上階へ移され、それに応じて見張りも強化された。ところがわれわれが大いに驚いたことに、憲兵もペテルブルクの検察も、1か月の期限内にいくらかでも証拠となる資料を用意できず、ヴィーブルグ県知事は、期限が過ぎても理由を付した引き渡し要求を受け取らない以上、私を監獄から釈放するだけの遵法精神の持ち主であることがわかった。フィンランドの官吏たちの市民的・職務的美徳をそれ以上試す気はなかったので、私はただちに、あまりまっすぐでない道を通ってヘルシングフォルスへ去り、数日後にはもう、ベルリンとパリへ向かう途上、オーボから汽船で航海していた。夏はさまざまな党の用件や企業の調整のためのヨーロッパ旅行で過ぎ、秋には私はベルリンにいて、多少とも恒常的な居住地を選び、何らかの仕事に就くことを考えなければならなかった。そのころには私の家族はもう5人になっていて、何らかの稼ぎのことも考えなければならなかった。

ロシアからの知らせは、反動の勝利に疑いを残さなかった。党には地下活動の長い時期が始まることは明らかで、そのとき、イリイチを頭とする同志の一部は、主として著述活動と遠くからの政治指導に力を注ぎながら、ふたたび国外亡命の地に腰を据えることになり、ほかの部分は、合法的な活動の可能性がないまま、非合法の組織・扇動・宣伝の仕事にとりかかるだろう。私の立場はいくらか特殊であった。私の仕事は、党の文筆家や、地方の党活動家、委員会の扇動家や宣伝家の典型的な仕事とはかなり異なっていたからである。私を惹きつけ、またその分野で自分が十分に力を発揮できると感じていたのは、党の財政機構、技術機構、運搬・連絡のテフニカの組織といった実際的な仕事であった。クオッカラでの摘発とロシアからのやむをえない出国は、私にこの仕事を不可能にした。同志たち、とりわけウラジーミル・イリイチは、専門を変え、とくにパリへ移って新聞の仕事に加わるよう私を説得した。「壺を焼くのは神様ではない」と、私がパリを訪れたあるとき、どんな文筆活動にも自分はあまり向いてもいないし好きでもないと私が言うと、ウラジーミル・イリイチは言った。この種の仕事の意義を過小評価していたわけでも、理論の面でまったく無頓着だったわけでもない。ただ、気質からしてもそれまでの活動全体からしても、そうしたいくらか書斎的でより理論的な仕事には心が動かず、私のなかには、実際的な仕事も実務家も技術者も、革命のためにまだ必要となるだろうという予感がつねに生きていたのである。私は、あるグルジア人労働者の同志が、自分と同じグルジア人労働者に「理論的」と「実践的」の違いをこう説明したのを思い出すのが好きだったし、今も好きだ。「いいか、理論的にってのは靴を縫うようなもんだ。実践的にってのは靴を縫うことだ」。自分自身の活動の場を選ぶという話になれば、私には靴を縫うという問題のほうが興味深かったし、靴がどう縫われるかを説明したがる者のほうがいつも比較的多いという点で、私はどうやら間違っていなかったようだ。

とにかく、私はやむをえない国外滞在を実際的な仕事に生かすことに決め、ベルリンのある大きな電気企業に下級技師として入って、ドイツ人に弟子入りした。ドイツの博士候補生や博士たちと競い合うようにして、粘り強い労働の年月が続いた。ドイツの企業で稼ぐマルクで、たとえ大企業であっても、5人家族とベルリンで暮らすのはそう簡単ではなく、翻訳などの臨時の副業のおかげで、もちろん家の苦労を肩に背負ってくれた妻の献身的な支えがあってこそ、どうにかこうにかやりくりできたのである。だが学ぶべきことは本当にあった。ちょうど戦前の、ドイツに世界の覇権を約束するかに見えた、ドイツの技術的・商業的な主導性と企業心の高揚期だったからである。パリの同志たちとの私のつながりは、純粋に外的な事情からしてもう弱まっていたが、1912年からはそこにいくつかの特別な事情が加わり、そのため私は、のちにかなり長いものとなった、直接の党活動からの離脱を余儀なくされた。いつかこの事情に関する覚え書きをイストパルトに渡すつもりだが、さまざまな理由から、今はこれについて詳しく述べたくない。

さしあたりこの覚え書きはここで終え、その後の年月のより詳しい記述は別の機会に譲ることにしよう。

最近数年の私の個人生活の主な出来事だけを、ごく手短に挙げておく。

私は1912年初めにロシアへ戻り、1917年末まで、モスクワとペテルブルクのさまざまな大きな工業・商業企業で働きながら、いかなる社会活動からも距離を置いていた。1917年12月、トロツキーの招きでブレスト=リトフスクへ行き、ドイツとの交渉に参加した。1918年の夏には、ヨッフェやほかの同志たちとともに、ベルリンでブレスト条約の追加条項の交渉に加わった。同年8月にモスクワへ戻ると、赤軍補給特別委員会の議長に、まもなく発足したばかりの国防会議の委員にも任命された。同年11月には商工業人民委員(のちの外国貿易人民委員)に任命された。1919年2月からは、交通人民委員部の管理も引き受けなければならなかった。この職にとどまったまま、1919年9月にはエストニアとの和平交渉のためプスコフへ派遣された。プスコフ交渉は成果を生まなかったが、同年12月、私は和平代表団を率いてユーリエフへ送られ、そこでしばらくののち、同志ヨッフェがロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の最初の平和条約に調印することができた。1920年3月末、私は全権代表団を率いて西ヨーロッパへ派遣され、同年5月、ツェントロソユーズを代表してスウェーデンとの通商協定に調印したのち、イギリスへ移ってロイド=ジョージとの交渉に入った。1921年3月、サー・ロバート・ホーンとともに、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国と英国との通商協定に調印した。本年7月まで、英国駐在のソヴィエト諸共和国全権代表であった。ジェノヴァとハーグの国際会議にも参加した。

訳注(クラーシン自伝)

  1. G. B. クラーシンは著者の弟ゲルマン。本文で「兄弟」とだけある箇所も彼を指すと思われる。
  2. 「ベリトフ」はG. V. プレハーノフの筆名。著書の正式な題は『一元論的歴史観の発展の問題について』(1895年)。「ベニヤミン」は旧約聖書のヤコブの末子に由来し、皆にかわいがられる末っ子のたとえ。
  3. 「壺を焼くのは神様ではない」は「人間にできないことはない」という意味のロシアのことわざ。
  4. クラーシンは前の論文で、S. T. モロゾフの保険金を「遺言執行人たちが中央委員会に渡した」とし、本自伝では「M. F. アンドレーエワ名義の保険証書」としている。両者は矛盾しない。
  5. 「本年7月まで」は執筆時点(1923年)を基準とする。
  6. 「ユーリエフ」はエストニアのタルトゥ。タルトゥ条約(1920年2月)を指す。「ツェントロソユーズ」は消費組合中央連合会。
  7. 本文中「1900年代の初めにようやくペテルブルクへの入境を許された」とあるが、その後の記述では1905年夏にペテルブルクで職に就いている。原文どおりとした。

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